目次
(一九八七年十一月五日の霊示)
1.憎しみと愛
人間には、基本的な二種類の感情がある。その感情の一方は、憎しみが極端なところにあり、もう一つの極に、愛があると言えよう。
しかし、こうして憎しみと愛というように、二つの異なったもののように見えるものも、その本質、実は異なったものではない。それは、愛の原理を無視した行為と、愛の原理を認めた、受け入れた行為とのその違いでしかないのです。
憎しみとは、結局のところ、愛に栓(せん)をすることであり、この栓を取り除いたときに、愛はまた流れていくのである。
人間は、いかなるときに憎しみを抱くであろうか。憎しみを抱くときは、やはり自分の思いの通りに相手がならないときではないであろうか。相手が自分の思うがままにならぬとき、そこに憎しみが現われるのではないだろうか。
憎しみとは結局、人を自分の思うがままにせんとして、相手が思うがままに動かないことをもって、憤(いきどお)ることを言うのである。
さすれば我われは、この憎しみという感情の根源にあるものを洞察せねばならん。それは、姿を変えた愛の願望にしか過ぎないということだ。
すなわち、憎しみを抱いている人というのは、何らかの意味で相手に愛を与えてほしいと思っておるか、尊敬を与えてほしいと思っておるか、自己の重要感がほしいと思っておるかのいずれかなのである。したがって、彼らは愛に飢えているのである。そして、人に愛を与えるがごとき境地にないと言うことができるのである。
これに反し、愛に生きる人はそうではない。彼らは求めない。彼らは、手に入れようとするのではない。彼らは、ただ与えんとするのである。与え、与え、与え、与え続けんとするのである、なぜ与え続けんとするのか。それは結局、彼らが、神より多くのものをすでに与えられているからである。与えられているからこそ、また与えんとするのである。この与える愛の循環こそが、愛の本質に他ならない。
さすれば、愛の根本にあるものは何であるかと言うと、自らが与えられているということに関する感謝、そして、感謝に先立つ自覚ということになるのではないだろうか。与えられているということ、これに対する認識をし、そして感謝をしていくということ、感謝をするということが、すなわち他の人に対して愛を与えるという行為となっていくのである。
したがって、憎しみの炎に燃えている者たちよ。自らの心に手を当てて、考えてみなさい。あなた方には感謝という気持があったかどうかを。神に感謝する気持があったかどうかを。他の人びとに生かされているということに関して、感謝する気持があったかどうかを考えてみなさい。
感謝のないところに、愛はないのです。神より与えられているからこそ、我われは与えねばならんのです。神より多くのものを与えられておるにもかかわらず、そのことに気づかず、人から与えられんことばかりを願って、他人に強要し、他人にこのようにしろ、あのようにしろと強要することをもって、本当は、人間の本来の姿とは言えないのです。
やはり、愛に生きる行為こそが、本当に美しいのではないでしょうか。結局、憎しみという行為は、他人を害すると同時に、自分自身の神性を害するということにしか他ならないのです。憎しみがこのようなものであるならば、私たちは憎しみを捨てねばなりません。
いろんな個性ある人間が生きておるならば、すべての人間を自分の思うがままにしたいという気持は、これはやはり、無理がそこにあるのではないでしょうか.神でさえも、すべての人たちを自分の思い通りに強制しようとはされておられないではないですか。さまざまな人に、さまざまな行動と、さまざまな思いと、さまざまな言動を許しておられるではないですか。
その中には、神の御(み)心に合わない言葉や、神の御心に合わない行ないや、神の御心に合わない思想もあるでしょう。そうした人びとに対しても、神は惜しみなくあの太陽のように熱や光を与え、慈雨(じう)を降らし、穀物を実らせ、そして、彼らを養っておられるではないですか。
神は、善人だから穀物を数多く取れるようにし、悪人だから少なく取れなくしたり、善人だけに雨を降らして、悪人には雨を降らさなかったり、そうしたことは、決してされていないはずです。
さすれば、あなた方は、よくよく物事を考えねばならん。あなた方は、決して、神は 悪人だから生かしておられないんだとか、善人だけをえこひいきされるのだとか、そうした考えをもってはいけないと思う。神もまた、多くの悪しき行為をする人たち、悪し き思いを発する人たち、悪しき言葉を発する人たちを養っておられるということを知らねばならない。
そういう認識のもとに考えるときに、神が彼らの存在を許しておられるのに、なぜ、あなた方だけが彼らを裁こうとするのか。裁いてはいけない。人を裁いてはいけない。汝が裁かれぬことを願うなら、人を裁いてはいけない。他人に悪人というレッテルを貼ってはいけない。他人に間違っているというレッテルを貼ってはいけない。そうした人びとであっても、神はまた、養っておられるということ。これを信じなければいけない。
彼らもまた、完全な悪人ではないのです。完全な罪人や、完全な悪人というのは、この世にはいないのです。お互いに、他人から自分が害されるのではないかと思って、その害というものを予想して、身構えているだけなのです。そして、身構えておるだけでは足らずに、まず相手に対して、批判をしてみる。悪口を言ってみる。こういうことをしておるのです。しかし、それは決して、神のお心にかなっていることではないのです。
憎しみに対して、愛をもって応(こた)えよ。怒りに対しては、笑顔でもって応えよ。激しい言葉に対しては、沈黙でもって応えよ。そうした行為の中に、神の愛の実践がある。
2.愛と持続
さて、人間は、自ら優れていると思うときに、他人に対して優しくすることは簡単です。自らが人より勝っていると思うときに、他人を慰めるのは簡単です。自らが金持ちであるときに、貧乏人を慰めることは簡単です。自らが幸福であるときに、不幸な人を慰めるのは簡単であります。自らが健康なときに、病人を慰めることは簡単であります。自らが恵まれているときに、恵まれてない人たちに優しくするのは簡単です。
しかしながら、人生は必ずしもそうした時期ばかりは、続かないということです。自らが豊かなときに、貧しい者たちに対して、分け与え、優しくすることはできても、自らが貧しいときに、人びとは一体何をすることができるでしょうか。
この貧しさとは、決して、金銭的な貧しさだけではありません。精神的にもそうです。不成功のとき、失敗のとき、心は貧しくあります。しかし、この心貧しき時に、一体どれだけのことができるでしょうか。
富者の万灯よりも、貧者の一灯です。貧しい者が、その貧しい中から蝋燭を一本、神のために捧げるのと、大金持ちが一万の、あるいは一億本の蝋燭を捧げるのと、どちらが神が喜ばれるかと言えば、より多くの犠牲を払ったものの方を神は喜ばれるのです。
さすれば、人びとは、自分の置かれる立場というものを当然として、物事を判断してはいけない。富める者は、ますます大いなるものを返していかねばいけない。貧しい者は、貧しいものの中から、出していかねばならない。それが愛の、愛についての基本的な考え方です。
そうしてみると、結局、こういうことではないでしょうか。愛とは、相対的なるものの中にはないということです。愛は、すなわち、絶対的なものだということです。その人の置かれた立場によって、愛を与えたり、与えなかったり、その状況によって、それをより好みするようなのが、本当の愛ではないのです。愛というものは、どのような状況にあっても、自ら与えていくものだと言えましょう。
かつて、教会に納める税金に、十分の一税というものがありました。それは、富める者も、貧しき者も、自らの収入の十分の一を神に納めるということが、その主旨でありました。これは、結局のところ、すべての者が、同じだけのものを与えるという気持であります。お金があれば与える、お金がなければ与えない、こうしたものではないということです。
つまり、健康な者が、病者を見舞うだけではなく、病のときにあって、他の人にどれだけの配慮をすることができるかどうか。これが、大切だということです。病の中にあって、他の人をどれだけ気遣うことができるだろうか。病の中にあって、健康な人をどれだけ気遣うことができるであろうか。不幸の中にあって、幸福な人をどれだけ気遣うことができるだろうか。これが、問題となるのです。
結局、こういうことです。人生にはさまぎまな波があります。大波、小波があります。そして、波が高まっているとき、また、波が低くなっていくとき、両方があると言えます。 しかし、その大波、小波、いろんな状況にあるけれども、決して与えることをやめないという姿勢が、大事なわけです。
自分が健康なときだけ、他の人にいたわりの言葉を与えて、自分が不健康なときには、与えない。こうしたものであっては、よくないのです、決して、愛というものは、そうしたその場その場の気分で、与えたり、与えられたりするものではないのです。
結局のところ、愛の本質の中には、持続というものがあるということです。持続とは、与え続けるということです。これが持続です。この持続というものがないときに、一切はむなしくなります。
どんな苦しいときにも、どれだけの愛を人びとに分かち合えるかどうか。どんな苦しいときにも、どれだけの愛を神に対して与えることができるかどうか。与え返すことができるかどうか。それが、あなた方に今、問われている時です。
他の人びとから、非常な善意でもって褒められたときに、笑顔をもって応えることは簡単でありましょう。他の人びとから、悪意でもって迎えられたときに、そのときに笑顔を崩さないことは困難であります。しかし、これは努力して、そういうことをしていかねばならないのです。
自分を愛している者を愛したからとて、それが一体何になるでしょうか。自分を愛している者を愛することぐらい、これは動物でもやっておることであります。自分を愛しておる親を、犬であっても、鹿であっても、子供はまた愛します。また、子鹿や、子犬が親を愛するときに、親犬や親鹿は、子供を愛します。そうしたように、愛してくれる者を愛することは、簡単なことであります。
しかし、本当に心の修行というものを考えたときには、愛するべきでないものを愛するということが、大事なのです。その人が自分に好意を持ったときだけ愛し、自分に敵意を持ったら愛さない、そうしたものであってはいけない。どんなことがあっても、太い太い命綱のように、決して愛を離さないという気持が、大事だと私は思います。
それは、決して捨てないという気持でもあろうかと思います。真理の道に入っても、さまざまなことに間違いを起こして、道をそれていく人たちがいます。道をそれていった人たちに対して、彼らは間違ったのだから、そして裁かれて当然である、いなくなって当然である、迷子になって当然である、そうした気持であってはいけないということです。愛は決して捨てないということです。
私はかつて言ったことがあります。百頭の羊のうちの一頭が、谷間に迷子になったときに、残りの九十九頭をそのままにしておいてでも、その一頭を探し求めるのが、これが羊飼いの仕事ではないだろうか。
神の愛とは、そうしたものであります。決して捨てないということが、大事なことなのです。決して捨てないということ。
たとえば、神の愛というものは、親の愛のようなものです。親は、自分の子供がいい子だから愛し、悪い子だから愛さないでしょうか。悪い子であるからこそ、ますます心配し、ますます彼らの世話をやき、ますます彼らのために、なんとか力になりたいと思うのが親ではないでしょうか。それは、かわいい我が子だからです。
まして、地上に降りたる人間もすべてそうです。すべて神の子なのです。そうであれば、神の言うことをよく聞く子もかわいいけれども、聞かない子供たちこそ、もっとかわいいんです。もっともっと彼らのことを世話をしてやりたい、そういう気持が私たちにはあるのです。
さすれば、あなた方は、心清き人を愛することは簡単だけれども、心において間違いがある人をも愛さればいけない。そうした考え方を大切にしていきなさい。
3.愛の目的
こうしてみると、愛の目的とは一体何であるかということが、明らかになってくるでありましょう。愛の目的とは、結局のところ、すべての人、一人ひとりが手をつなぎ合うことなのです。決して離さないということです。決して離さない。
あるいは、すべての人の体に、命綱を巻きつけていく作業だということです。自分のみが助かろうとして、その命綱を切り捨ててはいけない。すべての人が力を合わせて、なんとかして持ちこたえていかねばならん。そういう気持が大事であろうと思います。
愛は、すべての人を山の頂上まで連れて行くことを目的とするのであって、自分が落ちそうになれば、他の者を切り落とすというようなこと、そうした命綱を切り落とすというようなことをもって、それを愛の目的とはしておらんのです。
苦しくとも、つらくとも、なんとかして、がんばっていこうということです。励まし合っていこうとすることです。それが愛の本質であり、愛の目的であるのです。
ただ、中には、神が人びとをすべてそのように救おうとしており、また、神の子として地上に出ている人たちが、同じくその意を体現せんとしておるにもかかわらず、それを理解しない人もいます。命綱を垂らしておるにもかかわらず、それが自分を縛りつけて、自分を思うがままにせんとしておるのだというふうに、被害の思いでもって見る人もいます。
そうした人に対しては、根強い、根強い信頼という気持でもって、見てあげる必要がある。彼には悪霊が入ったとかいうような、そうした言葉でもって、切って捨てることをよしとはしないのです。たとえどのような状況にあろうとも、必ず相手がよくなると思って、祈って待ってあげなければいけない。
なぜなら、愛とは、自分一人がよければいいという思いではないからです。愛は、すべてがよくなることを祈る気持です。自も他も一体であるという気持です。他人ではなくて、それもまた自分の分身であるのです。そうしたものが、愛の根底に横たわっているのです。
さすれば、あなた方が兄弟であるということを知らず、あなた方が差し伸べた手をもって、これを異邦人(いほうじん)の手か何かのように、振り払う人がいるかもしれないけれども、あなた方はそれで顔をしかめてはいけない。青い顔色になってもいけない。そうしたことを断じてしてはいけない。あなた方は彼らに対して、彼らはまだ知らないのだ、自分が兄弟だということを知らないのだ、友達が来ているということを知らないのだ、と、そのように思わねばいけない。
往々(おうおう)にして、敵というものは、結局、そうしたものなのです。敵というものは、結局のところ本当のことを知らないだけの人であることが多いのです。本当のことを知らない人に対して、その無知を暴(あば)こうとしてやっても、なかなか彼らの許すところとはならないでしょう。
知らないということは事実であっても、知らないということを指摘し、知らないということを暴き、知らないがゆえに劣っていると、それを証明することをもって、本当の愛とは言わないのです。知らないということに関しても、それも、根気強く、根気強く、彼らが知るのを待ってやるということ、これが大切ではないでしょうか。
そうした、圧倒的な愛の思いでもって、生きていくことが大事なのではないでしょうか。私はそう思います。愛は決して見捨てない。愛は、すべてのものが向上していくことを目的とする。すべての人が、手をつなぎ合わせることが目的である。自分たちの仲間だけが手をつなぎ合わせて、他の者たちをその輪の中から放り出すことをもって、愛とは言わんのです。
自分の気にくわない者をその輸から放り出したところで、それで調和ができたところで、それが一体何になりますか。そうではない。すべての人が手をつなぎ合わせられるような、そうしたことこそ、理想と思わねばならん。
愛には敵はない、ということです。なぜならば、すべての人の向上を願う思いが、愛だからです。それが今、敵のように現われてきているということは、まだまだ自分の愛に、足りざるところがあるのではないかどうかを検討しなければいけない。
人を怒らせるときには、あなた方が発している言葉の中に、剌(とげ)があるのかもしれぬ。毒があるかもしれない。人の不幸を願う気持ちが、どこかにあるのかもしれない。そうした思いがあるならば、それをまず、神に詫(わ)びることです。
人間は、圧倒的な善人に対して、悪くは言えないものです。自分に対して、どんなことがあっても、よくしてくれる人に対しては、悪口は言えないものです。人間は、自分の悪口を言う人のことを悪く言うのです。悪魔だけが悪魔を呼び出すことができるというのは、このことを言っているのです。
敵として、大きな悪魔が出てきたと思えば、その悪魔に匹敵するだけの大きな悪魔が、我が心の内にあるということを知りなさい。それを呼び出すだけのものが、こちらにもあったのだということを知りなさい。
反省の材料は、向こうだけにあるのではない、またこちらにもある。悪魔だけが、悪魔を誘(おび)き出すのだということを知りなさい。
事実を事実として述べることは、必ずしも真理ではないと私は思う。相手を生かすことは大きく、相手を苦しめることは小さく、そうした努力もまた、必要ではないだろうか、私はそう思います。愛とはそうしたものだからです。
あなた方は、自分の最も信頼している人から、手厳しい批判を受けたときに、それでもって、ありがとうと言うことができるでしょうか。言葉では言うことができるかもしれませんが、自分の間違いを指摘した人に対して、感謝する気持よりも、やはり、くやしい思い、傷ついた思い、それが強くはないでしょうか。信頼する人であればあるほど、そうしたことに関して、敏感になっていくのです。
さすれば、決して悪く言わない、そうした友人であってもよいのではないでしょうか。私は、それが本当の生き方であるように感じます。愛の目的の中には、そうした、友人を創り出すことが大事であろうと思います。
どの人間にも欠点があります。相手があなた方の欠点を暴きたて、あなた方が、相手の欠点を暴いたところで、それで一体何の愛でありましょう。何のユートピアでありましょうか。
相手があなた方の欠点を暴きたてんとしているときであるからこそ、相手のよいところを見い出してゆこうとする努力が大事なのではないでしょうか。その中に、何らかの光るべきものがあるのではないか。そうしたものを見い出してゆこうとするべきではないでしょうか。
あるいは、相手があなた方の欠点を暴こうとしているということは、相手の中にある善なるものを見い出そうとするあなた方の努力に、不足するものがあったのではないか、ということを心に問う必要があるのではないでしょうか。
人間は、他人の悪は大きく見えて、自分の悪は小さく見えるものです。他人の悪口に対しては、許し難いけれども、自分の悪口に関しては、簡単に許してしまうのが人間です。あのときはああいう事情であったから、やむを得なかったのだというのが、人間のよくある姿であるわけです。しかし、他人の悪に対しては、なかなか許そうとしません。こうしたものである。自分もそうした生き物であるならば、他人もまた、そうした生き物であるということを知らなくてはいけません。
4.愛と許し
さて、そこで私は、許しということに関して、話をしていきたいと思います。この私の書物を読む読者の中で、一体何人の方が、他人を許し得たことがあったでしょうか。あなた方は心静かに目をつむって、思い出してみてください。一体あなたは人生の途上で、何人の人を許したでしょうか。
許した数が、十人以上にのぼる人があれば、それは珍しい方であろうと思います。なかなか、十人もの人を許した覚えはないというのが、通常の人間ではないでしょうか。
しかるに、自分の一生というものを振り返ったときに、あなた方が害したことがある人は、一体何人あったとお思いでしょうか。あなた方が人生の途上で害した人は、おそらく十人という数では済まなかったのではないでしょうか。もっともっと多くの人たちを害したのではないでしょうか。彼らを心理的に害したり、経済的に害したり、そうしたことをしたのではないでしょうか。
さすれば、自分は、自分が害した人と、自分が許した人とのこの違いを比べてみたときに、善人であるか、悪人であるかということを自らの心に問うてみなさい。十人以上の人を害したことがない人であるならば、十人以上の人を許さなくてもよいかもしれない、しかし、現実は、一人の人も許したこことがないにもかかわらず、数名にとどまらず、数十名の人びとを害していったのが人生の道筋ではなかったでしょうか。そして、その害しているということすら気づかずに、生きているのが大多数の人間の姿ではないでしょうか。
害している、自らが他人を害しているということさえ、気づかぬ人間。そうしたことは数多くあるのです。みなさん方も、自分は他人に害されたと思っているけれども、その当人は、そうしていない、そう思っていない、こういうことに数多くめぐリ合ったと思います。あの人はこういうことにも気がついていない、そう思ったかもしれません。ただ、あなた方にも同じことはあるということを知らねばならないのです。知らないで、害したことはあるということです。
さすれば、心の中に静かに思いをいたして、自分が人生の数十年の間で、一体何人の人を害したであろうかということに思いをめぐらしてみなさい。
父に対して、母に対して、兄に対して、弟に対して、姉に対して、妹に対して、友人に対して、先生に対して、また職場の同僚に対して、自分をひいきにしてくれた人に対して、あなた方はその友情を裏切るようなことはなかったでしょうか。彼らの信頼を裏切るようなことは、なかったでしょうか。
そうすれば、罪深い自分という姿が、ふつふつと思い出されるはずであります。あなた方がいくら思い出しても、思い出しても、それですべてが十分というわけではありません。けれども、その思い出しても十分でない数以上に、人を許そうということを考えてみてください。
具体的に会うことができる人があれば、会って許しを請(こ)うことも大事です。会うことができない人であるならば、心の中で許しを請いなさい。そして、自分が許されたという気持がないならば、神に対して、許しを請いなさい。神はきっと、あなた方の罪を許してくださるでしょう。
結局のところ、こういうことです。罪なく人生を生きている人はいないんです。また、他人を一度も害することなく、人生を生きている人もいないということです。「汝らのうち、罪なき者のみ、この女を石にて打て」と、私はかつて語ったことがある。同じであります。
あなた方のうち、人を害したことがない人だけ、他人を悪人呼ばわりすればよい。あなた方のうちで、心に悪を思ったことがない人だけ、他人を悪人扱いすればよろしい。あなた方の中で、心に恥ずべきことをしたことがない人だけが、他人の恥を責めればよい。こうしてみると、なかなか、人のことを悪く言うことは難しい、ということが言えると思います。
さすれば、許しの根源にあるものは、しっかりとした自己観照(じこかんしょう)、自分を振り返るということにあると言えましょう。自分を深く、深く振り返ったときに、他人に対して厳しくはなれないのです。他人を許さんがために、許すのではないのです。その許しは、同時に、自分を許すための許しともなっておるのです。自分を許すがための許しとも、なっているということです。
自分が自分を許す、自分が神に許していただく、そのためにも他人を許しているのです。一生において、百人以上の人を許したことがある人は、どれだけいるでしょうか。数少ないことであろうと思います。
しかるに、神は一体どれだけの人を許しているとお考えでしょうか。それは、地上に六十億の人間ありとすれば、神は六十億の人間を許し給うているのです。さすれば、神の境地とあなた方の境地はいかに違うことでしょうか。この地上でいくら優れた人であっても、六十億の人を許しているような人がいるでしょうか。
「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉は、今もまた、金言(きんげん)であるのです。あなた方も、そうであるならば、「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉を心に銘じていただきたい。これは正確に言えば、「汝の敵と見えし者を愛し、汝を迫害するかのごとく、振舞う者のために祈れ」ということです。本当の意味での敵というものはない。そこにあるのは、誤解せる人が存在するということだけです。
それなら、人のために愛を与え、そして、あなた方を迫害する人のために、心から祈ってあげなさい。それが大事です。そうした誠意は、いつか必ず相手に伝わっていくものです。
時を待ちなさい。ギブ・アンド・テイクを思うなかれ。自分が与えたら、すぐ与え返されると思うな。神が無限に与えきりであるように、あなた方も与えきりでありなさい。与えて、与えて、与え続けなさい。それがあなた方の仕事であるのです。
5.愛の根源にあるもの
こうして、愛について、さまざまなことを語ってまいりました。私は、この愛の根源にあるもの、これを語ってみたいと思います。
なぜ、人間は、愛ということを考えねばならんのでしょうか。そして、私はなぜ、愛ということを人びとに説いてきたのでしょうか。このことについて、話をしてみたいと思います。
結局のところ、人間の人生というものは、自分自身の発見にあるのです。自分自身が、一体何者であるかということを発見するために、人間の人生はあるのです。結局、愛を探し求める旅というものは、自分の内なる愛を発見する旅であるということ。そして、自分が、愛という目的のために生きていることを知る、ということ。こうしたことであります。
なぜなら、神は、愛だからです。神が愛であるのに、あなた方が、愛に背(そむ)く行為をすることは、あなた方が、自分自身を裏切っているということです。自分に正直に生きることです。自分の内に愛があるのに、その愛に目覚めないで、愛の反対のことをしてはいけない。そして、他人が自分の愛に応えてくれないからといって、それですぐ、あなた方は不平不満をもったり、怒ったり、妬(ねた)んだりするようなことがあってはいけない。
それは、あなた方はまだまだ、自分の愛の発掘が足りないのです。あなた方の愛というものは、掘れども掘れども湧いてくる泉のように、井戸のように、汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることがないものなのです。
愛というものは、その泉は、何人がその喉(のど)の乾(かわ)きを潤(うるお)したからといって、それで泉が尽きてしまうということはないのです。あなた方も自分の心の中に、そうした愛の泉を描きなさい。その泉から水を汲んで汲んで、人びとは喉を潤していくけれども、いくら水を汲んでも泉の水は尽きることがない。決して、尽きることがない、そうした無限のものでありなさい。
大いなる泉は、昔から、多くの旅人の喉を潤してきた。砂漠を行く人たちの喉を潤してきたのは、あの砂漠地帯のオアシスです。オアシスは多くの人びとの喉を潤してきて、そして、一円も取ろうとしない。さりながら、いくら多くの人の喉を潤しても、オアシスがそれで涸(か)れてしまうということはない。そうしたものでありなさい。
結局、自分の心の奥に、深い深いオアシスを掘り、深い深い井戸を掘り、深い深い泉を掘ったときに、その愛が何人によって飲まれたとしても、干(ひ)からびるようなことは決してないのです。愛はすなわち、神の生命であり、神の生命は汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることのない、清冽(せいれつ)な水だからです。
さすれば、あなた方は、自らの愛の少なきことを嘆きなさい。自らの泉を充分に掘っていないことを嘆きなさい。あなた方が溢(あふ)れ、溢れ、溢れ、溢れてくるような、愛の泉の存在であるならば、多くの人たちがそれを奪い合ったところで、何ら争いはないのです。あなた方の水が少ないから、他の人びとの喉の乾きを潤すことができないでいるのです。
これは、他人に、その水を飲むなかれということではなくて、自らの内なる水をもっともっと豊かに、掘り当ててゆかねばならんということです。その愛の泉を掘り当てていきなさい、湧(わ)かしていきなさい。滾々(こんこん)こんこんと、湧き出でる泉のようなものでありなさい。そうしたことが、非常に大切ではないでしょうか。
こうして考えてみると、結局、愛の根源にあるものは、一本の深い井戸であるということが言えると思います。その井戸を掘り進んでいくときに、地の底にある大きな水脈に行き当たるということです。地の底には、多くの水脈が張リめぐらされています。そしてその中には、豊かな豊かな、地下水というものが流れているのです。
この地下水を掘り当てるということが、結局、一人ひとりの個人に委(ゆだ)ねられた業(わざ)なのです。三十メートルの深さを掘れば、地下水が出てくることもあるでしょう。それを、二十九メートルでやめてしまう人もいるのです。
あと一メートル掘れば、清冽な水が噴き出してくるのに、二十九メートルまで掘ってやめてしまう人がいかに多いことであろうか。また、三十メートルの底まで掘っていく前に、ほんの五メートルぐらい掘って、少し水が出たということでもって、満足している人がいくらいるでしょうか。
あなた方は、愛は、そうした深い深い地下の水脈であるということを知リなさい。そして、どんどん、どんどんと掘っていきなさい。やがて大きな大きな水脈に行き当たったときに、その中に、神の生命を感じ取りなさい。神の無限のエネルギーを感じ取りなさい。神の無限の力を感じ取りなさい。
6.愛の復活
さて、わたくしは今、二千年の沈黙を破って、こうして地上に霊示を送らんとしています。わたくしがこのように、直接に霊示を送るということは、非常に稀(まれ)な場合であります。
もちろん、何人かの宗教家たちを陰(かげ)になり、ひなたになって、指導したことは数多くあります。けれども、こうした形で、私が直接に地上の人たちに語リかけるということは、かつてなかったことであります。空前絶後(くうぜんぜつご)のことであります。地上の人たちは、この意味を噛(か)み分けて、噛みしめてほしいのであります。
そして、私が再び復話せんとしていることを、どうか心の底から喜んでいただきたいと思うのです。
あなた方の中には、疑い深い人が数多くいらっしゃることと思います。イエスが再び出てくるはずがない、一番にそう言うのが、クリスチャンたちでありましょう。しかし、クリスチャンたち、またクリスチャンでない人たちにも、私は知っていただきたいと思う。それは、神はみなさまを決して見捨ててはおられないのです。決してみなさまを見捨てて、みなさまを孤児(みなしご)にしようとはしておられないのです。
さすれば、この地上に生きている身であっても、どこかに神仏の力が働きかけているということを信ずることが、大切ではないでしょうか。どこかから、神仏の偉大な力が働きかけているのではないかということを知ることが、大事ではないでしょうか。
直接的、間接的に、さまざまな形でもって、神の愛というものは、いろんな時代を照らしてきたのです。いろんな人を通じて、地上に法を説かしめたり、いろんな人を通して、地上に絵画を広めさせたり、 いろんな人を通じて、地上に文学を広めさせたり、いろんな人を通じて、地上に哲学を広めさせたりしてきました。そもすべて、神の息吹であります。
さすれば、そうした息吹、神の奇跡が過去だけにあったと思うな。現代にもまた、あるはずだということを知リなさい、キリストは二千年前だけに出たのではない。今日(こんにち)に至るまで、わたくしがキリストの使命を果たさないでいたことは、一日たりとてない。今日まで私は、一日も休んだことはない、あなた方は、土曜日だと言い、日曜日だと言い、休んでおるけれども、今日まで私が働かなかった日は、一日もなかったということを、あなた方に知っていただきたい。
私は、さまざまな形でもって、みなさん方をより幸福にするために、より愛に満ちた生活に導くために、より信仰深き生活に導くために、日夜、努力をしているのです。このことを知ってほしい。このことを信じてはしい。このことをはっきりとわかってほしい。そうした思いがあります。
今、地上にある多くの人たちは、霊的世界の実在を認めず、また、霊の実在も認めない人が多いと聞いていま。そして、霊の世界を信じている宗教者であっても、偉大な人びとが、次々と地上に霊言を送るということを信ずることができないかもしれません。
ただ、しかし、あなた方は、一体どちらに賭(か)けるつもりですか。神の救いを期待するほうに賭けるのですか。それとも、神の救いを期待しない方に賭けるのですか。それを考えていただきたいのです。神の救いがなくてよいなら、それでもよいでしょう。しかし、あなた方がもし、神の救いというものを期待しておられるなら、あなた方は、心の態度を変えてしまう必要があります。
いつの時代にも神の奇跡はあり、いつの時代にも神の救済の手は伸ばされていたのです。 現代の中にも、どこかでそうしたものがあるはずだという認識を、持っていなけばいけないということです。
私は今、語ります。私が今、こうして語っているということ、こうして霊言を送っているということの意味を、多くの人に知っていただきたいのです。これを信ずる、信じないは各人の自由かもしれない。しかし、信じるのと信じないのとでは、あなた方の心の安らぎは大いに違うでありましょう。神の救いが来ていることを信じることと、それを否定し去ることと、一体どちらがよいかです。
否定し去ったところで、一体それが何になりますか。あなた方にとって、一体何のプラスになるのですか。あなた方が、唯物信仰に陥ることを防ぐことにもならないばかりでなく、あなた方を神へと導くことにもならないはずです。
さすれば、疑うべきは信ぜず、ではなくて、どのようなものであっても、その中に、本当に真理があるかどうかということをもう一度、振り返って考えていただきたいのです。
この混沌(こんとん)の世の中に、この人類の危機が迫っているというときに、なぜ、私が復活しないわけがありましょうか。あなた方がかわいいと思えばこそ、あなた方を愛しておればこそ、私は今、復活せざるを得ないのです。肉体によって復活するのではない。生命として、言葉として、私は今、復活せんとしているのです。言葉としての復活、生命としての復活であります。
これをを信ずる者には、大いなる勇気が与えられるでありましょう。そうした、栄光の時代に生きているということに対する、自信が湧いてもくるでしょう。
どうか、人びとに知っていただきたいのです。イエスは、二千年前に、ナザレの地で十字架に架かって果てたような、それだけの弱い人間ではなかったということ。その後、二千年にわたって、連綿(れんめん)として、霊天上界にあって多くの人びとを指導してきたということを。そして今また、私は、九次元世界というところにあって、地上に神理流布(るふ)のための運動を起こすべく、陣頭指揮を取っているということをわかっていただきたいのです。
私か陣頭指揮を取っているということが、どういうことであるかを知っていただきたいのです。私が地上に直接霊言を送るということは、私以外の者の霊言もすべて出るはずであるということであります。地上の人たちは、なかなか信じぬかもしれない。クリスチャンがキリストの霊言をなかなか信じないがごとく、ある団体の人たちは、その団体の教祖が、地上に霊言を送るということを信じないかもしれない。
しかしながら、神の本質というものを考えてみたならば、神は一体どうされるであろうかということを考えられたらいい。神が、単に沈黙をしているだけだろうか。神は、そういう単なる沈黙を守ってはいない。神は、常に、何らかの形で人びとを導かんとしている。そうであるならば、この導きの手もまた、多いなる愛ではないかどうか、ということを一度、踏み止まって考えてみる必要があるのではないだろうか。
私は今、霊天上界にあって、この地上浄化と、大いなる救済ということに関する、最高責任をもつ者であります。どうか、人びとに、このことをわかっていただきたいのです。自分たちのプライドであるとか、自分たちのエゴであるとか、自分たちの利益であるとか、そうしたつまらないものにとらわれることなく、大いなる神の救済ということを信じていただきたいのです。この混沌の時代に、イエスが黙っているわけがないということを知っていただきたいのです。
私は、愛として復活したのです。これは、私の愛の復活なのです。私は、生命として、言葉として、大いなる響きとして、さらにもう一度、復活せんとしているのです。肉体としてではない。弱々しい人間としてではない、大いなる生命(いのち)として、汲めども汲めども尽きぬ愛の泉として、言葉として、今、復活せんとしているのです。
どうか人びとよ、再度再度、あなた方に通告しておく。我の復活するとき、それは、大いなる救世運動の起きるときである。このときに、汝らは思い過(あやま)つことなかれ。この大いなる運動のときに、誤解をし、勘違いをしてはならない。他宗を排撃したり、他の人を謗(そし)ったりすることのみに、汲々(きゅうきゅう)としてはならない。この大いなる愛の息吹(いぶき)に接したならば、あなた方も目覚めなさい。
そして、すべての者を我がもとに連れて来なさい、私の子羊を私のもとに連れて来なさい。羊飼いは今、還って来ているのです。さ迷える子羊たちよ、私のもとに還って来なさい。私はあなた方を褒(ほ)めてあげよう。私はあなた方をかわいがってあげよう。私はあなた方の疲れを癒(いや)してあげよう。私はあなた方を心から愛してあげよう、許してあげよう。包んであげよう。
だから、羊飼いのもとに、還って来なさい、日は、間もなく暮れんとしています。日が暮れたならば、羊飼いの声と、ラッパの声、鈴の音を聞いて、集まって来なさい、私のもとへ。私の羊は、私のところへ還って来るでしょう。今という時代を創るために、数多くの私の子羊たちが、地上に降りているのです。
子羊たちよ、私の声を聞いたならば、ただ、一筋に集まって来なさい。私を求めて来なさい。あなた方が求めれば、求めるほど、私はより多くを与えることができるのです。なぜなら、私は、あなた方に愛を与えるために生きているからです。
乳飲(ちの)み子が、母親に乳を求めるように、私に愛を求めなさい。私に生命を求めなさい。私にすべてを求めなさい。他人に求めるのではなく、私に求めなさい。懐かしい私の声を聞き、私の姿を知り、私の声に従って、どうかついて来なさい。私は、あなた方を山の頂きまで、連れていくつもりです。どうか、我があとに従い来たりなさい。