主要合戦集-アイマス戦記『秀吉』其の壱



ここでは「アイマス戦記『秀吉』」における主要な合戦の解説をしています。
アイマスキャラおよび史実に存在する武将については其の壱を、オリジナルキャラおよび作中に登場する用語、年表については其の弐を、木曽川合戦以降の合戦は其の弐参照してください。


庄内川の戦い


織田信長より尾張太守の座を譲られた秀吉に対して、林秀貞・柴田勝家を初めとした反秀吉派が起こした戦い。
この一戦に勝利した事で、秀吉は名実共に尾張太守としての地位を固める。

+ 詳細
  • 開戦前の状況
家督を半ば強引に譲られた秀吉であったが、当然の事ながら、織田家の譜代重臣から反発を受ける事になる。
反対派は清洲に陣取り、秀吉の意向を無視。更には武力を以って尾張太守の座から引き下ろそうとする。
この動きに秀吉も看過するわけには行かず、庄内川にて迎え撃つ事になる。
反秀吉軍は、林秀貞を名目上の大将として、柴田勝家が実戦の総指揮を取り、それに滝川・佐々・河尻勢が与力につく事になる。
一方秀吉勢は、秀吉旗下の旗本を除けば前田勢が味方についただけで、総兵力は秀吉勢600(+前田勢)に対し、勝家側は1800(+林勢で総兵力3000)と、圧倒的に劣勢であった。

  • 序盤戦
当初篭城戦であろうと判断していた勝家であったが、秀吉勢先手が庄内川に現れた事で、林勢を総予備、河尻勢を先手に突撃をかける。
一方、秀吉勢先手を預かっていた秀吉の実弟秀長は、即座に全軍を引かせ、計画通り秀吉が陣取る平野部へと誘い出す。
この動きを受け、河尻勢は一旦立ち止まって勝家勢と合流。右翼を滝川、左翼を佐々、中軍を勝家自らが率いて、一斉攻撃に移った。

  • 中盤戦
たやすく踏み潰せると判断した勝家であったが、その目論見は外れる事になる。
まず先手の河尻勢は、罠と弓、長柄槍によって突撃を粉砕され、滝川勢は秀長勢に押しとどめられ、佐々勢は前田勢の奇襲を受け混乱する。特に前田勢の奇襲攻撃は、物理的な被害を出しただけでなく、勝家の精神にも衝撃を与えたようである。
これらの要因から、木下勢が幾分押し気味に進めてはいたが、徐々に兵力差の影響が出始め、秀吉軍先鋒の水瀬隊、並びに秀長隊は壊滅寸前となる。事実、この時勝家は、本陣で「勝った」と発言したと言う。

  • 終盤戦
しかし、このとき既に勝家の手から勝利は零れ落ちていた。
戦前、秀吉の調略を受けていた佐久間信盛が寝返りをみせ、後詰としていた林秀貞は蜂須賀小六に生け捕られ、林隊は戦力として消滅。
佐久間隊の裏切りにいち早く気付いた滝川隊も、後方から佐久間・蜂須賀隊の猛攻を受けて壊滅。
更には「中立」を取るであろうと判断した、丹羽・池田・森隊が秀吉勢に加わる事で、包囲殲滅を受ける事になり、全軍総崩れとなった。

  • まとめ
終わってみれば秀吉の鮮やかな大勝利であったが、実際には「丹羽等三将の秀吉軍加入」「佐久間信盛の裏切り」「林勢の無力化」「それらを為し得るまでの時間稼ぎ」の4つの内、どれか1つかけても敗北につながると言う、綱渡りの上での勝利であった。
事実、それらを理解していたからこそ、勝家の自信に繋がっていた訳で、単なる慢心による侮りではない事が見て取れる。
勝家乃至反秀吉派にとって誤算だったのは、戦前、佐久間が寝返った事に誰も気付かなかったことであろう。
万が一、丹羽達が秀吉に参戦しても、(多分に結果的なものであったが)後詰の役割を担う事になる林勢で対処可能であったのが、佐久間の裏切りで全て台無しになってしまったのだから、勝家達にとっては、佐久間を侮っていたのは、まさに致命傷となったと言える。

北伊勢攻略戦


伊勢湾の海上交易の独占と、木下家の実力を諸国に示す為に行われた戦い。
この戦いで圧倒的なまでの勝利を収めた木下家は、次の目標である南伊勢攻略に着手することになる。

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  • 開戦前の状況
首尾よく内乱勢力を平らげ、尾張の再統一を果たした木下秀吉であったが、それを苦々しく思う駿河の今川義元は、三河の松平元康に命じて尾張への侵攻を下命。
謀略により、その侵攻を防いだ秀吉であったが、このままではジリ貧になる事は確実であり、新たに美濃から迎えた、軍師竹中半兵衛の進言の下、

 (一) 伊勢を攻略する事で木下家の武威を示し、近隣諸国への抑止力とする。
 (二) 伊勢湾を手中に収める事で、海上交易から上がる莫大な富を独占する。
 (三) 上記2つの目的を果たす事により、秀吉の天下取りの足がかりにする。

を戦略目的として、伊勢攻略に着手する事になる。

  • 序盤戦

伊勢攻略戦は、大名となった木下家の初めての対外侵攻である為、考えられる限りの手段を採っている。
主戦力は、尾張内乱戦以降、戦力を再編した水瀬勢と前田勢、並びに秀吉率いる旗本の清洲勢計4500。それに、那古屋から池田勢と蜂須賀勢が海路より侵攻。清洲勢は、国境や主街道に存在する砦や支城に構うことなく長野家本城、安濃津城にまで攻め込み、また海路から侵攻する軍勢も同様に、鳥羽港を制圧した後、清洲勢に合流。北伊勢を治める長野家が動員する暇もなく一気に攻略する方策を整えた。
この作戦に、一部からは長野家に属する九鬼水軍により、海路から侵攻する軍勢に危険が及ばないかと言う懸念が出されたが、竹中半兵衛は、九鬼勢は本城の安濃津城に篭城戦力として組み込まれるであろう事を説明し、九鬼勢は障害にならないと説明。
また、先の内乱で追放処分となっていた柴田一派が、長野家に客将として存在している事実を利用して、様々な噂を流し、北伊勢攻略の大義名分と、長野家の意見対立を引き起こす事に成功。全てが整った後、満を持して出陣するに至った。

  • 中盤戦
これに対し長野家は後手後手の連続であった。
柴田一派を客将として迎えながらも、秀吉側の撒いた噂のために登用する事はせず、木下家の侵攻の大義名分をわざわざ作り出すだけであり、長野家の混乱を増幅すべく派遣された村井貞勝の弁説に翻弄される有様であった。
この時の決断の先送りのツケはあまりにも大きく、木下家が侵攻した際には、重臣を送って木下家の侵攻を遅らせようと勤める傍ら、慌てて軍勢を召集する有様で(この時、半兵衛の読みどおり、九鬼水軍も篭城戦力として召集される事になる)、唯一事態がこうなる事を理解していた関盛信が、必死になって国人衆から軍勢を募ってくるも、兵力差は劣勢であった。

  • 終盤戦
かねての作戦通り、速戦で勝負を決めようと考えていた木下家は、長野家からの弁明の使者も無視し、予定通り那古屋勢と合流し、安濃津城攻めを開始。長野勢は関盛信一人が奮闘するも、勝敗の行方には何の影響も与えず、半月も持たずに長野家は滅亡した。

  • まとめ
「戦場に着いたときには勝敗は決している」というのは、古来より名将の条件であるが、この時の秀吉はまさしくそれを実践している。
また、敵に対応する暇も与えず、圧倒的な軍勢によって短期間で制圧することで、味方のみならず、占領地域の被害も局限でき、それにより占領地域の速やかな領国化、並びに次の戦への迅速な対応が可能となっている。
反対に、長野家の対応は、反面教師としか言えない対応である。
仮に長野家に活路があるとするならば、関盛信の進言に従って柴田一派を登用し、仮に木下家から侵攻があった場合、木下家に対する捨て駒として活用。柴田勢が木下勢を押しとどめる間に、九鬼水軍を用いて木下家領内を荒らしまわることであったろう。
竹中半兵衛が指摘したように「短期間で圧倒的大勝利を収めなければ、木下家は他国に侮られたままであり、今川や斉藤に攻められるだけ」状況であった為に、長期戦に何としても持ち込めば、木下家に対して有利な展開になったかもしれない。
もっとも、それを許さない為に、秀吉や半兵衛は様々な手を打っていた訳で、木下家が攻め込んだ時点で、長野家の運命は決まっていたのである。

第四次川中島の戦い


信濃の覇権をかけた武田と長尾の4度目の会戦。
この合戦に勝利した武田家は、信濃平定を完璧なものとし、余勢を駆って上野に侵攻。逆に敗北した長尾家は、蘆名家の侵攻を受ける事になる。

+ 詳細
  • 開戦前の状況
武田・長尾双方共に、本会戦を以って長きに渡る両家の争いに決着をつける気でいた。
武田家当主、武田信玄は、軍師山本勘助と、信濃攻略の総責任者である馬場信房に対し、長尾勢撃滅の策を練るよう指示。
これを受けて、両将は「啄木鳥の策」を立案した。本作戦の骨子は、以下の通りであった。
 (一) 夜陰に乗じて、馬場率いる別働隊が移動し、敵本陣のある妻女山を攻める構えを見せる
 (二) 武田勢の戦力分散により、長尾勢は各個撃破の好機と見て、少数の兵を妻女山に残し、
     主力を以て、武田本陣のある八幡原に攻め入るはずである
 (三) (二)に際し、別働隊の半数で妻女山の敵を抑え、もう半数は、山を迂回して八幡原に急行する
 (四) 別働隊で長尾勢の後背を急襲し、本隊とともに敵を包囲殲滅する
この作戦に対し、武田勝頼は、長尾勢が策を読みきっている可能性を提示した。
長尾勢全軍が先手を取って妻女山から下り、武田本陣に攻めかかった場合、別働隊が間に合わず、本陣が敗れる恐れがある。
しかし、川中島特有の濃霧により、長尾軍の行軍は不可能であると判断され、作戦は実行される事になる。

  • 序盤戦
しかしながら、長尾景虎と軍師宇佐美の卓越した統率の下、長尾勢は妻女山を下り、別働隊が妻女山に到達する前に八幡原に布陣。
武田勢の布陣が薄い右翼に対して、柿崎・村上両将を先鋒に総攻撃をかける。
完全なる奇襲を受けた武田勢であったが、信玄は即座に全軍堅守の指示を出し、左翼の一部を右翼に移動。
だが、それもまた長尾勢の計画の内であり、景虎は予備兵力のなくなった敵左翼に全軍を移動させ、一気に突破を図る。
この時点で、長尾の勝利はほぼ確定するかに思われた。

  • 中盤戦
それを打ち砕いたのは、左翼後方より突如あらわれた武田勝頼の突撃であった。
勝頼自身は別働隊に組み込まれていたのだが、近習である山本千早が、妻女山の篝火の多さを見て作戦の破綻を確信。馬場信房の許しを得て、勝頼隊をいざと言う時の備えとして埋伏させ、長尾勢の攻勢が頂点に達した時に、一気に軍勢をぶつけたのである。
この突撃により、長尾勢は大混乱に陥り、宇佐美の指示の下、態勢を立て直そうとするも、柿崎・村上勢は攻撃に熱中するあまり後退せず、陣形の再編もままならず、更には、勝頼自身が名乗りを上げながら長尾勢をを次々と突き崩す様を見て、長尾勢は恐慌状態となった。
ここに、景虎や宇佐美が思い描いていた「短期決戦による武田本隊の殲滅」は完全に破綻した。

  • 終盤戦
ことここに至って、全軍の総予備の役割を担っていた景虎は、各諸将の離脱を助けるべく自ら出陣。
これを受けて信玄も、景虎を討ち取る好機と旗本を率い、ここに名高き川中島の一騎打ちが行われる。
そうこうする内に、妻女山より別働隊が到着し、武田の勝利が確定した。景虎は、功を焦った義信隊を一蹴すると、自ら殿となって武田勢を翻弄した後に撤退。尚この時、景虎は、この合戦で名を轟かせた勝頼の顔を撤退がてら見に行ったのだが、そのあまりの威風に、勝頼は一歩も動く事ができなかったと言う。

  • まとめ
後に酷評される事になる「啄木鳥の策」であるが、其の実態は、堅実と言ってもいい策であった。
夜間且つ濃霧と言う最悪の状態で大軍を動かした場合、軍の統制が完全に崩壊する危険性が高い。むしろ、このような無謀な行軍を完遂させた景虎と宇佐美の能力が異常である。
また、勝頼の活躍と対比して無能視される義信の行動だが、右翼の陣を捨てて宇佐美勢に攻めかかった点は、間違っていない。長尾全軍の要である宇佐美勢を倒す事で、左翼への圧迫を防ぐことが出来るからである。
しかしながら、他将との連携を図ることなく単独で突撃したことは、大失態としか言いようがない。それ以降の行動も含め、弁護の余地はない。
これにより、危機感を抱いた義信派は、勝頼に対して、以後警戒心を強める事になり、武田家のお家騒動の火種となるのである。

南伊勢攻略戦


北伊勢を攻略した木下家と南伊勢を領有していた北畠家との間で起きた戦い。
この一戦に勝利した事で、秀吉は戦略目的である伊勢湾を掌握することになる。

+ 詳細
  • 開戦前の状況
北伊勢を攻略した木下勢は、戦略目的である伊勢湾掌握を確実なものにすべく、南伊勢への侵攻を明確にする。
この木下家の行動に、南北朝以来南伊勢を領有していた北畠家は態度を硬化。合戦は避けられないものになる。
木下家軍師竹中半兵衛は、秀吉率いる本軍6千を北伊勢からゆっくりと行軍させ、それに反応して北畠軍が野戦に打って出た所で、尾張より海路別働隊2千を投入し、北畠家本拠地である霧山御所をつく計画を策定。
北畠軍が慌てて霧山御所に帰還すれば、秀吉本軍は全速力で北畠軍を追撃し、別働隊と合流して御所を攻め、逆にあくまで野戦を選ぶのならば、別働隊と共に挟撃すればよいこの策に、秀吉も了承。水瀬隊を先鋒に南伊勢攻略に出陣する。
この木下勢の海上を利用した戦略機動に対し、北畠勢は半兵衛の読み通り、本軍迎撃のために野戦に打って出るも直に霧山御所へと帰還する。
しかしながら、当初、野戦での迎撃に比重をかけていた為、霧山御所の防備は薄く、篭城戦を行うには多大な不安があった。
そこで、北畠家重臣である鳥屋尾満栄は、こちらから果敢に打って出て、木下家に疲弊を促し、攻城戦を諦めさせる策を提示。
この策に当主晴具も良策とみなして行動に移そうとするも、既に木下家先鋒が攻め込んでおり、先手を取られる事になる。

  • 序盤戦
一方で、先手を取ったはずの木下家でも混乱が生じていた。
この城攻めにおいて、当初先鋒の予定であった水瀬隊に代わり、前田利益隊が先鋒を受けたのであるが、武人としてはともかく、武将としての経験が全くない利益は、鳥屋尾の罠にかかって部隊が混乱。おまけに第二陣の水瀬隊も流言にかかって混乱してしまい、せっかく先手を取ったにも拘らず、北畠勢に付け入る隙を与えてしまう。
これを好機と見た北畠勢は、嫡子具教を先頭に、未だ混乱から立ち直れていない前田勢を痛撃。同時に鳥屋尾勢も打って出て、援護射撃を加え、先鋒隊を中心に予想以上の打撃を受ける事になる。

  • 中盤戦
この流れを食い止めたのが、秀吉本軍と、前田利家・蜂須賀小六両隊の奮戦であった。
北畠勢の要であるのが、北畠具教と鳥屋尾満栄であることを見抜いた3将は、北畠隊の突貫を前田・蜂須賀勢で食い止め、秀吉本軍で鳥屋尾勢を殲滅するよう機動。しかもこの時、混乱から立ち直った水瀬勢が霧山御所の門を打ち壊しにかかったことから、北畠・鳥屋尾両勢とも、城防御に戻らざるを得なくなり、結果、今度は木下勢が北畠勢に追撃をかける展開となり、具教隊は追撃を振り切って何とか帰城したが、鳥屋尾勢は秀吉旗本衆の前に全滅。ここで戦術的にも完全に勝敗は決したといえるであろう。

  • 終盤戦
北畠軍の中核である鳥屋尾勢を撃破したことを受け、秀吉は一旦軍を後方にひかせ、再編をした後、改めて城攻めを開始する。
この時、最も被害を受けた利益勢は本陣警護に回され、利益は不平を言ったが、叔父である利家に一喝を受ける事になる。
一方、既に落城必死となった北畠勢は、長野家からの客将である関盛信が降伏を主張するも、既に北畠父子は覚悟を決めており、逆に長野勢に退去するよう指示。
具教勢が最期の意地を見せて、池田隊を壊滅寸前にまで追い込んだが、ここに南北朝以来の名家である北畠家は滅亡した。

  • まとめ
北伊勢攻略戦と同様、秀吉が戦略的優位性を保ち続けていた事が、この戦の勝因ともいるであろう。
逆に北畠家は、秀吉に対して防戦を固めていたのは、長野家に比べればましだが、北伊勢攻略戦の戦訓を全く学んでいなかった所に、彼等の自信が、何の根拠に基づいていなかった事を示している。
その一方で、木下家の若手指揮官の経験のなさが、この戦で木下勢が損害を大きくしたとも言える。
特に、池田恒興の不可解としかいえない戦術行動は、後世の歴史家からも疑問符を付けられる所であり、彼の武将としての資質が疑われる要因となっている。

三河攻略戦


上洛を目論む今川義元が、三河松平家に対し尾張木下家攻めを命じたことにより生じた戦い。
この合戦で三河松平家は滅亡し、今川の戦力は大打撃を受ける事になる。

+ 詳細
  • 開戦前の状況
これまで今川家の先手(さきて)として使われていた松平家であったが、纏まった勢力であった事から、今川家内部では、松平家を危険視する勢力が強く、家中の火種となっていた。
当主今川義元も、最早家中にとってメリットよりもデメリットの方が多くなった松平家を切り捨てる事を決意。
上洛の為として、三河勢5000に、今川勢3000を援軍として派遣し、尾張と三河が疲弊しきった所を見計らって、今川家本軍によって一気に両国を併呑する戦略を固めた。
一方、伊勢攻略を成し遂げ、念願の伊勢湾掌握に成功した尾張木下家は、次の目的である美濃攻めを完遂させる為、松平家による尾張侵攻を奇貨として、松平家撃退後、一気に三河攻略を計画する事になる。
軍師竹中半兵衛は、この三河攻略の戦略目的として「三河攻略による今川家の弱体化」「伊勢湾の制海権を完全なものにする」「勇猛な三河武士団を木下家の戦力にする」を挙げ、同時にこれらの戦略目的を完遂させる為、松平家当主、松平元康は必ず殺すべきとした。

  • 序盤戦
かくして尾張に侵攻した松平勢であったが、既に開戦前から敗北が決定付けられていた。
前述の通り、既に今川義元は松平家を取り潰す事を決意しており、派遣された援軍は、今川家にとって磨り潰されても惜しくない諸国浪人衆が主体となっており、更にそれが監視役として松平勢の各部隊に分散して配置された事から、援軍の3000は、全くと言っていいほど戦力になっていなかった。
更に、西三河衆が秀吉の調略を受け、旗頭である石川数正以外はほぼ中立となっており、それも松平勢弱体化を促進させた。
しかしながら、駿河の援軍の将である鵜殿長照に岡崎城を占拠されている事から、松平勢は決死の覚悟で木下勢に攻め込む事になる。

  • 中盤戦
遮二無二攻め寄せる松平勢であったが、今川家軍監の的外れな指揮から、連携の採れた行動が取れず、逆に木下家の鉄砲隊と騎馬隊の連携の前に、渡辺隊・鳥居隊・酒井隊などが次々と崩されてしまい、撤退を余儀なくされる。
これを受けて木下勢はかねてからの計画通り、三河への逆侵攻を開始。時同じくして今川も遠江勢を主力に東三河に侵攻する事になる。
尚、敗北した松平元康は敗戦の責を取る形で、松平家菩提寺に謹慎していたが、岡崎城を占拠していた鵜殿長照が東三河に撤退した事を受けて、岡崎城に入場。自らの家を守るべく木下勢に立ち向かう事になる。

  • 終盤戦
岡崎城を攻囲した木下勢は、松平勢の絶望的なまでの防戦に手間取りながらも、本丸までを落し、元康切腹を条件に降伏を勧告。
その一方で、停戦期間を利用して、前田利家を総大将に東三河への侵攻を開始し、東三河の総大将である鵜殿長照とその一族を捕縛すると同時に、奇計を用いて、今川家遠江衆の主だった面々をも捕縛すると言う大功を立て、今川家の三河侵攻部隊は大打撃を受ける事になる。
そして、岡崎城の松平元康も、家臣たちを助命する為に降伏勧告を受諾。ここに三河松平家は滅亡した。

  • まとめ
今回の三河攻略における今川・木下両家の戦略目的を見る限り、中盤までは双方共にシナリオ通りに事が進んでいたと言える。
しかしながら、竹中半兵衛が指摘したように、トップの戦略眼については双方とも甲乙付けがたいのだが、それを実行できる手足となるものが、今川家には誰もいなかったことが、義元の戦略を狂わせる事になったといえる。義元自身も嘆いたことであるが、太原雪斎が生きてさえいれば、事態は変わっていたであろう。
三河失陥のみならず、遠江衆も打撃を受けてしまった事で、今川家の戦力は大いに減退する事になり、木下家への対応策として、東三河に対する調略と、美濃斉藤家との連携を深める事になる。

木曽川の戦い


今川と同盟を結んだ斉藤家の侵攻に対し、木下家が戦史に名高い戦略機動を駆使して撃破した戦い。
この戦いで主力を喪失した斉藤家は、滅亡が決定的な状態となった。

+ 詳細
  • 開戦前の状況
木下家の急激な伸張に危機感を抱いた今川義元は美濃の斉藤義龍と同盟。
木下家に両面作戦を仕掛ける事で、一気に木下家の打倒を測る事を決意する。
この動きに木下家も、武田家と密約を交わす傍ら、内線の利を利用して、両家に大打撃を与える事を決意。
ここに、中部地方の覇権をかけた大戦の火蓋が斬って落されることになる。

  • 序盤戦
今川家の三河侵攻を受けた斉藤家は、かねてからの手はずどおり、主力を木曽川に展開。
三河に主力を置いてことにより、本拠地尾張の戦力が減少している事から、一気に尾張併呑を企てる。
これに対し木下家は、尾張本国防衛の総責任者である水瀬伊織の指揮の下、木曽川沿いに防衛線を展開する傍ら、かねてからの手はずどおり、斉藤家主力の出現を秀吉に急報した。なお、水瀬伊織は秀吉勢主力の来訪にかかる期間を2日と告げ、諸将を驚かせている。

  • 中盤戦
木曽川への展開を終了した斉藤勢は間髪いれずに尾張領内への侵攻を開始。
この時、斉藤家の客将となっていた三浦あずさは、木曽川を渡ることの危険性を訴え、むしろ長陣を敷く事により、木下勢の状況を見たうえで行動すべきと進言するが、尾張併呑に拘る義龍はその進言を受け入れず、全軍を挙げて木曽川を渡河するよう命じる。
こうした動きに水瀬勢は、主力到着までの二日間を粘れば勝ちであるとし、先鋒に遅滞防御戦の達人である佐久間信盛を投入。
佐久間勢は期待に応え、圧倒的な兵力差があるにも拘らず、斉藤勢の侵攻を可能な限り遅らせ、決戦予定地域にまで釣り出す事に成功する。
余談だが、撤退戦終了後、信盛の疲労は相当のものだったようで「野々和大明神が現れた」などと、意味不明の言葉を発したとされる。
かくして、佐久間勢を追撃した斉藤勢であったが、彼等が見たのは、既に全軍が陣形を整えた木下勢主力の姿であった。
この時秀吉は、本陣で「これで斉藤家は詰みよ」と告げ、全軍に総攻撃命令を発した。

  • 終盤戦
木曽川を渡り、最早、撤退することが困難となった斉藤勢は、決戦に勝利することで事態の打開を図ろうとする。
しかし、既に彼等の行動は竹中半兵衛の想定内の範囲にあり、彼等が気づいた時は、その殆どが包囲殲滅されていると言う状態であった。
敗北を悟った斉藤義龍は、自ら殿となって一人でも多くの兵を美濃に帰還させようと奮戦。
その甲斐あって、何とか美濃勢全滅は免れたものの、主力の大半を失ったことには変わりなく、自身も三浦あずさの機転がなければ討ち死にしていたほどの大敗であった。
そして合戦に勝利した木下勢は、美濃攻略に取り掛かるべく、墨俣に城を築くことになる。

  • まとめ
一般的に評価の低い斉藤義龍であるが、竹中半兵衛達が認めるように、むしろ名君と言うべき存在であった。
唯一彼にとって弱点だったのが、父である斉藤道三と見比べてしまうことであり、今回の戦は最悪の形でそれが出てしまったと言えるであろう。結果論から言えば、三浦あずさの進言した長対陣の方が、斉藤勢の失うものは少なかったであろう。
斉藤勢にとって誤算だったのは、木下家の神速ぶりを計算できなかったこと(もっとも、尾張防衛を任されていた木下家宿将達ですら、正確に把握していたのは水瀬伊織だけであったが)、そして神技とも言うべき佐久間信盛の遅滞防御戦術であろう。
あまり言及されることはないが、木下家の躍進の最大の立役者は、信盛にあるのかもしれない。


  • 主要合戦集作ってみましたが、其の壱、其の弐からこっちに上手くリンク貼れなかったので、すいませんがどなたか訂正お願いいたす。orz -- 木下家編集衆其の弐(仮) (2009-09-26 19:54:37)
  • 通りすがりですが修正しときました。タイトルが作品別用語集になってないのが原因だと思います。 -- 名無しさん (2009-09-27 11:25:59)
  • 名無し殿。かたじけないです。orz<今になってタイトルを「主要合戦集」にしたことに気付いた・・・(汗) -- 木下家編集衆其の弐(仮) (2009-09-27 12:36:58)
  • おお、其の弐殿も名無し殿も乙にござります。拙者には左メニューに追加することしかorz -- 木下家編集衆其の壱(借) (2009-09-27 14:57:48)
  • 連絡掲示板で書くべきか迷ったんですけど、今後、用語集のページが増えた場合を考えて、本ページの其の参を其の壱と名前を変えてもらい、壱殿には申し訳ないですが、左メニューからも外しましょうか? 利用者が混乱する可能性ありますし。(こう題名付けた某が一番悪いのだが)。後、三河戦と伊勢戦も記載した方が良いです? 戦略・政略が主な題材になるんですけど。 -- 木下家編集衆其の弐(仮) (2009-09-28 18:58:53)
  • 三河戦と伊勢戦は是非お願いします。全体構成は其の弐殿にお任せします。拙者はもともと好き勝手に説明増やしていただけなのでw -- 其の壱(借) (2009-10-03 01:38:27)
  • 承りました。ページ名変更は私の名前で依頼しましたので、左メニューの削除をお願いいたす<壱殿 -- 木下家編集衆其の弐(仮) (2009-10-03 10:55:48)
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最終更新:2010年02月18日 21:56
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