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目次








1.真の知とは何か


ミカエルです。第2章で、私は「知恵と勇気」について語りたいと思います。この私の考えは、かならずしも天上界の総意ではないかもしれませんが、私自身が知恵に対し、勇気に対し、また知恵と勇気のもたらすものに対して、どのように感じているかということを語ってみたいのです。

私が今、こちらの世界から見ていて、とてもとても不満に思うことがあります。それがいったい何であるかというと、知恵というものに関しての人間の考え方です。この知恵に対する人間の考え方は、ここ三百年ほどの間に大きく変わってしまいました。その考えが変わった原因は二つあります。その二つとは、第一に科学技術的な発想です。こうしたものの考え方。そしてもう一つは、デカルトから始まる合理主義の考え方であると思います。

まず科学技術的発想についての、私の考えを語っておきたいと思います。人間には、理解をする範囲に限られた幅というものがあります。その限られた幅というのが、いったい何であるかというと、ある物事を受け入れる際に、その判断を自由に任される、いわる自由裁量(さいりょう)に任されるとたいへん困るという性格があるのです。すなわち、みずから考えるという習慣を放棄して、答えを欲する傾向があるのです。「これはこうであるのだ。」という答えを欲(ほっ)しがちであるのです。

それゆえに私が申し上げたいこととして、科学技術の発想の進展による無神論の蔓延(まんえん)、あるいは霊を否定する物の考え方の蔓延というものは、じつはこれは、宗教の世界においてもありうる考え方と一致しているのです。宗教の世界においても、諸宗派が争っているかに見られ、そうして同じく神を信じている者同士が相争っているように感じられることが多いのです。

その理由はいったいどこにあるかというと、考えるという努力を放棄した人間の営み、それが現われてきているのだと思えるのです。考えるということを放棄し、みずからが結論を出すということを放棄して、教えられた答えだけを金科玉条(きんかぎょくじょう)として生きてゆく人間。見せかけの信仰という名の薄っぺらな、押しつけられた表面的な信念を掲げて生きてゆく人間。人間はレッテルを貼りがちだといわれますが、またレッテルを貼られがちでもある。そう思えるのです。

私はそうした人間の習性というものを見るにつけても、ほんとうに知恵にはほど遠いものだと、つねづね感じています。知恵というものは、すでに与えられている思考材料を基にして、そして新たな物事に対して、自分なりの発想を出してゆくことなのです。知恵というものは現にあるものをあるものとして、永遠に変わらないものとして、その考え方を持ち続けるのではなくて、現にある一定の考え方を参考にして、これから起きてくる事態に新たな方法を考え出し、新たな着想を得ることをいうのです。

一つの宗教を信じる人が他の宗教を排斥(はいせき)するように、科学主義を標榜(ひょうぼう)する人が神を排斥し、また唯物論をとる人が神を排斥し、一つをとるということは他のものを捨てることだと、このように人間は考えがちであります。そしてその一つのものを突き抜けた奥に、共通のものがあるというたいせつなことを忘れがちであるのです。

ゆえに私はたいへん悲しく思うのですが、こうした人間たちにほんとうの知恵とは何なのか、叡知(えいち)とは何なのかを教えてゆくためには、そのつどそのつど考えさせる訓練を身につける以外にないと思うのです。

これがじつは、いろいろな時代時代に、さまざまな間題が神から与えられる理由の一つでもあるのです。人間の認識力はともすれば狭いがために、考え方が凝り固まってゆきがちであるのです。それゆえに、つねづね新たな間題を提起し、そして甲論乙駁(こうろんおつばく)となって相争うなかに、しだいに次なる見解が現われてくる―こういうことを予定しているといってもよいのです。

たとえばマルチン・ルターや、カルバンが出たころのプロテスタントの運動を考えてみればよいと思いますが、結果として人は新教をとるか、旧教をとるかというような選択を迫られたかもしれませんが、その旧教に対する新教が出てきたということ自体が、いったいキリスト教とは何なのか、神とは何なのかを、長い間人びとに議論をさせることになったのだと思います。

この議論をさせるということは、一つの知恵の形成でもあるのです。こうしたどちらを選ぶかということ、人間が嫌う、こうした思考作業を与えることによって、そこに一つの知恵ができてくるのです。このような意味合いにおいて改革というものが、第一波、第二波、第三波と、いろいろな形で地上に降りてくることになるのです。


2.知の集積と霊的進化


私はさらに、次なることを述べておきたいと思います。それはとくに、ここ百年ぐらいに徐々に形成されてきつつある、学問的知識というものに対する見解です。この学問的知識というものは、じつは二十世紀において創られたものは、過去の世紀において創られたものの総量にも匹敵(ひってき)するほどの分量であると思います。しかし、この学問的知識の総量は、たしかにそれだけの大きなものでありましょうが、この学問的知識にいったいどれだけの智恵が伴っているかと考えると、はなはだ心許(こころもと)ないといわざるをえないのです。まことに心許ない状況です。

なぜ、そうなのか。あなた方は考えてみたことがあるでしょうか。それはどういうことかというと、二十世紀における学問の一大特徴は、専門分化ということにあったのです。まさしくここが功罪を分ける点となったのです。専門知識―それは有用性という次元からとらえたときに、この二十世紀において、どうしても必要とされることとなるのです。

けれども、はたしてその専門知識というものに、どれだけの霊的力があるか、霊的光が宿っているか。こうしたことをあなた方は考えてみたことが、はたしてあったでしょうか。この霊的値打ちということを考えてみたことがあったでしょうか。この点について、人びとは大いなる誤解におちいっているのではないかと思います。

専門家であるということが値打ちを生むことである―多くの人びとはそう考えているのです。これは結局のところ、人間の知力は狭い方に向いていくということを表わしているにしかすぎません。対象を区切り、範囲を区切り、そして小さく分解していくにつれて、わかりが遠くなる、こう考える人が多いということでしょう。

しかし霊的に見たとするならば、この学問知識の集積について話すとするならば、専門分化がかならずしも知恵に値いしているとはいえないのです。むしろ、統合化の方向にこそ、霊的進化は伴うといってよいのです。

たとえば、ある人間が学問をしたとしましょう。そのなかの、ごく限られた範囲のなかで、ある発見をしたとしましょう。英文学なら英文学でよいでしょう。英文学のなかのある時代の、ある作家の、ある文章記述について、それがどういう考え方に基づいているのか―そういう新見解を発見したとしましょうか。あるいはある人が、そういう言葉を使う、その使い方はどういう使い方であるか、こういうことを発見したとしましょう。そしてそれが、ひじょうに珍しい発見であったとしましょう。おそらくその人の選考する英文学の領域において、それがそれなりの評価を受けるようになるでしょう。新発見だといわれるようになるでしょう。

けれども魂的に見たとするならば、そうしたごく一点を研究し、発見することよりは、英文学を広く渉猟(しょうりょう)し、そのなかにある人間の心の営為(えいい)を深く学んだ人のほうが、魂的にはプラスになります。そしてじつは、英文学のみならす、国文学、あるいは芸術、哲学、思想いろんな領域における考え方をさまざまに吸収してきた人のほうが、魂的には明らかに発展しているのです。


3.知識と霊的認識力


この魂の発展とは何であるかというと、実は魂の発展は、知的な側面において二つの観点から眺められることになるのです。

第一は、いかに広い範囲において関心を持ちえたかということです。広い範囲に関心を持ちえたということは、それだけで霊的には一つの成長を意味しています。

なぜならば、高級霊であればあるほど多方面への理解が進み、そして多くの物事を認識することができるからです。魂の進化の一つの指標として、より多くの物事への、また多くの人びとへの関心ということがあるのです。

もう一つ、知的な側面での魂の進化をはかるとするならば、その知識的なものが、その人が他の人を理解するのにどれだけ役に立つようになったか、という基準があるのです。結局、知的側面での魂の進化は、より多くのものへの興味関心と、より多くの人への理解という方向に意味が見出されるのです。

さまざまな知識を学ぶ理由は、人間の心を知るというところに、その意味合いがあるのです。したがって学問を積んだ結果、冷たい人間ができあがり、そして他の人に冷淡になり、無関心になるような、そんな人になってしまうとするならば、この学問的知識はその人の進化にとってマイナスとなるのです。

これが現代の学者諸氏、あるいはその流れをくんでいる研究者諸氏に対する、私からの警告です。

専門知識を学ぶことによって、もし全世界への関心が薄れ、また人間の心を理解することにおいて疎(うと)くなるならば、それは学んだことが魂の進化を進に低下させることになっているということです。この点に関しては、深く深く理解をしていただきたいと思います。

この世界のさまざまな物事への関心と、他の人びとの心を理解するということは、ともに認識力の向上ということにつながっていくでしょう。その認識力はどちらかといえば、霊的認識力ともいえるものだと思います。この霊的認識力の向上を伴わない学習は、人間の進化を妨げるということになるわけです。

たとえば、いくつかの例をとって話をしてみましょう。

医学というものがあります。この医学も現代においてかなり進歩してきました。医学が進歩することによって、人間とは何かがわかってきたと思う人も増えてきたと思います。たしかに人間のからだの仕組みはわかってきた。そしてその医学の進歩によって、人間の機能がわかってきた。それまでは真実でしょう。しかしその次の結論として「よって医学によって人間は解明されたのであり、医学以外のものでは人間はわからない。」と考える人がいるならば、そこに大きな落ち度がある。大きなまちがいがあるということなのです。

たとえば現代の医者の多くは、魂とは何かを知りません。霊とは何かを知りません。そうして肉体の病気だけを追っております。けれども真実の目から見たならば、肉体のこの病気というものは、心の影です。心の問題、霊的な原因というものを探ることなくして、ほんとうに人を救うということはできないのです。また、人間がわかったとはいえないのです。

もしそれを知らないとしても、知らないことは知らないこととして、そうした領域があるということに関して一目も二目もおく医者であるならば、それは大いに発展の可能性があるでしょう。しかし、自分が大学の医学の教科書で学んだこと以外に、人間というものは定義されることはないのだと考えている人が多くなったとするならば、これはたいへんなまちがいです。

あなた方にとっては、人間が本質において霊であるかどうかということは、それは選択の問題であり、個人の主義主張の問題であるとお考えになる方が多いでしょう。しかし実際に地上を去った場合に、肉体を脱ぎ捨ててあの世に還ってきた場合に、人間が霊であるということを知らないということは、これは恥ずかしいことなのです。ほんとうに恥すかしいことであるのです。

そして、「自分は無神論者である」と、声高々に言っているような人は、これは自分は知能指数がサル以下だといっているに等しいのです。そうした真実に、やがて多くの人びとが気がつくようになってくるでしょう。

ここで私がいったい何を言いたいのかというと、知恵ということに関して、もっと人間向上という概念、霊的進化という概念を植え込んでいく必要があるといっているのです。そうでなければ、現在の細分化し、これからもますます細分化されていく学問は、人間からもっともっと遊離し、そして人間を解体してゆくことのみに使われることになります。それは世界解体学であり、人間解体学にしかすぎなくなってくるということなのです。

これゆえに私は、また統合の世界に入っていただきたいと思うのです。もう一度、人間を完全なるものとして、一つにまとめて欲しいのです。そもそも学問の起こりとは何でしょうか。それを考えていただきたい。

それは神の創られた世界を探検するということではなかったのですか。神の説かれた教えを学ぶということではなかったのですか。この原点を忘れてはいけない。

今私は、あるいは私たちは、こうした形で天上界から地上に霊示を追っておりますが、こうした霊示集を学ぶということ、学習するということ、これがじつは、学問の出発点にあったということをゆめゆめ忘れないでいただきたいのです。

学問の出発点には、大いなるもの、未知なるもの、そして、いと尊きものを学ぶという精神があったのです。それをいつかしら人間がつくった記号、人間がつくった方法、人間がつくった実績、こうしたもののみを暗記し、理解し、再現することを学問と考えるようになってきたのです。

神の御心を知り、神の創られた世界を知るという、そうした目的に奉仕しない学問は、真の学問とはいえないのです。そんなものをいくらやったところで、この世を去るときに、その人の魂が一ミリでも進化することはないのです。この事実を知ってください。

これからの学問は、人類の知恵を推し進め、高めるものでなければなりません。そうしたものでなければ、魂的にはなんの意味もないということを知ってください。もちろん専門分化した知識のなかにも、有用なものはあるでしょう。しかしそれは、あくまでも有用なものにしかすぎないということを知っていただきたい、ということなのです。そして、それ以上のものではないということを知っていただきたいのです。

以上が今私が知恵について、とくに学問の領域に関していっておきたいことがらです。


4.勇気の真実の意味


さて、次に勇気について語っておきたい。

勇気という徳目が人の口に上らなくなって久しくなりました。そして勇気という言葉が人の口に上らなくなった理由の一つが、こうした学問的進化ということが、その原因になっているように私は思います。

近代の歴史は、より客観的に、より合目的に、より分析的にという方向に進んできたように思います。分析的な目で、客観的な目で、そうした虫眼鏡で見るように人間を見てきた目でもっては、勇気ということの真実の意味はわからないのです。

人びとは今気づかねばならない。私たちはつまらない瓦礫(がれき)のような知識を積み上げることによって、私たちが本来持っていた、たいせつなものを失っているのではないかということを。現在学問をしていろいろなことを知っているつもりでいる人よりも、二千年前に、三千年前に、平和な生活のなかに勇気を持って生きた人のほうが、はるかに高い魂の境涯を生きたという事実があるのです。人聞知によって集積されたものでもって、文明の進化と思ってはならない。人間性の進化と思ってはならないのです。

私は、この勇気という徳目が、現代にほんとうに無くなったということを、心から嘆くものです。戦争―そういう場にだけ勇気が評価され、それ以外には無いかのごとくいわれています。しかし勇気の出現する場は、発現する場は、そうした戦場ばかりではないのです。その勇気登場の場は、じつは人生の随所(ずいしょ)にあるのです。

私はこの現代人にとって必要な、あるいは必要とされる勇気について語っておきたいと思います。

① 自己変革の勇気

その勇気は、まず第一に、自己変革の勇気です。自己変革―自分を変えていかんとする勇気、これです。この勇気なくして、ほんとうに世の中を変えることも、ユートピアにすることも、どうすることもできません。

私はこの、自己変革の勇気を、とてもとてもたいせつなものだと思います。この自己変革というのは、多分に自分が「自分はこういう人間だ。」と思ってきたということを変えるだけではありません。自分はこういう人間だと、人から教えられてきた、そうした自己像を変革することをも意味します。

「世界とはこういうものだ。人間とはこういうものだ。したがってお前はこういう人間なのだ。」こうした押し付けがあったでしょう。そうではないでしょうか。そして自分とはそういうものだと思い込んではいませんか。みなさんのなかに、眠れる力があること、眠れる能力があるということを忘れているのではないですか。自己の本来のすばらしさというものを、忘れ去っているのではないですか。あなたのなかに、眠れるあなたがいるのではないですか。

それは神近きあなたです。崇高なあなたです。気高(けだか)きあなたです。そして、もっともっと叡智に満ちたあなたです。そうしたあなたが、かならす眠っていると思えるのです。

② 他の人を救い善導する勇気

私はここに至って、次なる話をしておきたいと思います。その自己変革の勇気は、次に多くの人を支えんとする勇気につながってゆかねばならないと思います。今の時代はあまりにも他人に無関心である人間が多すぎるのです。他人の幸・不幸に無関心である人間があまりにも多すぎるのです。

私はこうした現状を見るにつけ、やはりこんなことであってはいけないと言わざるをえないのです。血の通(かよ)った人間であるならば、他人の不幸になぜ黙っているか。他人がみすみす人生を迷って行こう、人生をまちがって行こうとしているときに、なぜ止めぬか。なぜ声をかけないか。なぜその道ではないといわないか。どうしてそんな無関心な冷たい心で生きていけるのか。

勇気とは、真に人びとを救い、善導していくためには、どうしても必要なものなのです。勇気とは何かがわからないならば、無関心の反対だと言ってもよい。「義を見てせざるは勇無きなり。」と言うではないか。やらねばならないことに接して、見て見ぬふりをしている。それが勇無きことと言うのではないのか。勇気がないということではないのか。私はそう思う。

本来神の子であるならば人びとの悲しみに無関心であるな。人びとの苦しみに無関心であるな。そして人びとの喜びにも無関心であるな。多くの人びとを喜ばせ、悲しみのなかから多くの人びとを救い上げてゆくために、やはり力強い第一歩が必要なのではないだろうか。それこそが勇気ではないだろうか。

私は、この細分化された学問的知性が勇気を阻害(そがい)していると言ったが、それは客観性や分析性、こうした言葉にごまかされてはならないということだ。真に値打ちのあるものは、真に神に祝福されるものは、そんなものばかりではない。そうではなくて、心の底からこみ上げてくるもの、この力こそが魂の力であり、真に値打ちのあるものなのだ。

自己を変革せよ。自己の内に新しきものを見出せ。真にすばらしきものを見出せ。そしてその自己内部の勇気を起点として、次つぎと大いなる勇気ある行動を起こしていけ。その勇気とは、他人の苦しみや悲しみに無関心でいないことだと知れ。

無関心でいてはいけない。声をかけよ。話しかけよ。行動せよ。そして多くの友人をつくり、多くの友人を導け。そこに真なる人間の生き方があるのだ。

この知恵と勇気という私の話を、どうか心の糧とし、今後の生きてゆくための方針としていただきたいと思います。