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目次








1.私は地獄をこう見ている


ミカエルです。今日もまた、こうした形で私の話を続けることができてたいへんうれしく思います。一章一章ずつの歩みは、とてもとても遅いものですが、これで少しでも神埋が明らかになっていくということを思うと、私はとてもうれしく思います。

さて、今日は地獄の将来、地獄の未来ということについて話をしてみたいと思います。私たち天使たちが最も課題としているところ、そしてあなた方地上人がいちばん敬遠をし、また議論を避けたい部分、それが地獄だと思います。この地獄をいったいどのようにしてゆけばよいのか。これが今後の課題として、大きく立ちはだかってくるのです。

さて、地獄の未来を予言するということはたいへん難しいことです。しかし、これは私たち自身の力の問題でもあるのです。私たちは、この二十世紀末の人類の一大幸福化運動において、決定的な勝利を収めたい、そう思うのです。地獄というものに対し決定的な勝利を収め、そして一気に天国の世界をこの地上に確立し、そして天上界をも押し上げてみたい。このように考えているのです。

私自身は、もちろんこうした仕事は、ほぼ専任というか、専門家となっております。そしてミカエルが動き始めたということで、また魔界の者たちもそわそわと動き始めてきているようにも思えます。

ただ、人びとよ。我を信じよ。我のふたたび復活する時、もはや闇は消えていくしかない。そのように思いなさい。今回、私は私自身の総力を結集し、ミカエルの全知恵と、全力をふりしぼって、この迷妄の大海を打ち破り、打ち抜き、そしてすばらしい世界を持ち来たらさんと、心から決意するものです。

さて、ここで私は、地獄というものに対する私自身の考えを明らかにしておきたいと思います。

まず地獄にも存在意味があると考える方も数多くいます。それは訓練所であり、教育所であり、またそれは刑務所でもある、こういうふうに考える方もいます。たしかにそういう面も結果としてあるとは言えましょう。ただ、天使が天使であるならば、また天使として生きてゆかねばならないならば、この地獄というものは未来永劫(えいごう)に肯定されてよいことでは決してないということです。

その世界に生きている人たちも、かつては私たちの仲間であったという事実、私たちと同じく楽園で楽しみ、そして地上でユートピアを創っていた人たちなのです。そうした人たちが今、道を踏みはすして地獄に堕ちているのです。心を狂わせているのです。迷いの中にあるのです。

彼らを何とかして説得し、何とかして導くこと、そのことを努力せすして、はたして天使と言えるでしょうか。そんなものでほんとうに天使だと言いえるでしょうか。私はそうは思いません。それが本来の天使の姿勢だとは思わないのです。

ゆえに私は、次のようなことを言っておきたい。やはりあなた方も天使であるならば、天使の子らであるならば、地獄をなくすことを本務とせよ。

そこは苦しみの世界です。その苦しみの世界をなくし、苦しみの底から人びとを救い上げることを願うことです。

地獄の魔王と言われる人たちは、言ってみれば病人のなかでも一番たちの悪い病人です。もし家の中に半狂乱の人がいたとするならば、それはたいへんな混乱した家庭となるでしょう。まさしくそうした状況であるのです。

人びとよ、これより後、この病人をなくせ。この心の病人を一掃せよ。悪魔というものを地獄からなくしていくために全精力を結集せよ。まずみなさんがそう思うことです。そして勇気をもって行動することです。そこから。ユートピア創りが始まるのです。

第二に、地獄のこの地上界に及ぼしている影響というものを見てみるにつけ、まず現在この世紀末のなかであの世の世界を信じない人びとが増えています。そして唯物思想が増えています。また宗教をバカにし、批判する人びとが増えていますが、こうした人びとをこそ、今地獄の霊たちがそそのかしているということを忘れてはならない。

正統な神理をおとしいれんとし、また彼らを迫害せんとする者たち、この中に地獄霊たちに憑(つ)かれ、そしてそそのかされている者が数多くいるという事実を、私は見逃すことができないのです。彼らが人間としての主体的な判断でそう考えて、かつ行動するならともかく、霊たちに支配されそそのかされて、そしてそのように生きているということ―これはまことに不自然であり、また人間として恥ずかしい在り方だと思います。

これより後、私たちは、こうした者たちの扇動(せんどう)によって、また策動(さくどう)によって、そのような大混乱が地上に起こされることを避けねばなりません。そんなことであってはいけません。

これからはもっともっと、世の中を本当によくしたいという思いと、世の中をほんとうに明るく照らしたいという思いでもって、生きてゆくことがたいせつになっていきます。

地獄に対する考え方をさらに踏み込んで整理するとするならば、彼らが地獄に堕ちた責任は、むろん彼ら自身にあるわけですが、しかしながら、そこにまで至らせた原因の半分は、地獄にいない私たちにもあるということを知らなくてはなりません。私たちもやはり、間接的責任者であるということです。どうしてもどうしても、大いなる愛の心で救いきれなかった―そのことに対して、深い深い反省をいたさねばならないと思います。

これが、現在地獄というものに対しての私の考えであります。けれども、私は悲しく思うのですが、こうした者たちの力は日ごとに強く強くなってきつつあるように思います。ひじょうに強く強くなってきて、断末魔に近い悲鳴を上げながらも、何とかして自分たちの砦(とりで)を造り上げよう、守り抜こうとしているように思います。じつに哀れでありますが、そうした自分たち独自の王国を造ろうとしています。

この地上世界は彼らによって、まったく支配されかかろうとしているのです。あなた方には華やかに見える大都会は、霊的な目で見るならば、こうした地獄の傘下(さんか)に置かれつつある、地獄の植民地となりつつあるのです。そうして都会に生きる人たちの病んだ心、蝕(むしば)まれた心に、彼らは吸血鬼のように取り憑いて、そしてこの悩みという想念の波動を吸い取り、また力を増しているのです。

したがって多くの人びとが、もっともっと早く牧歌的生活に戻り、そして平和に幸福に暮らせる日を取り戻さねばならないと思います。


2.老荘思想の現代的意義


さて、ここで私は視点を変えて、一つの事実を訴えてみたいと思います。それが何であるかといえば、老荘的思想の現代的意義なのです。老荘の思想の一番特徴的なことは「ひっかかりを作らない、執着を作らない、こだわりを持たない」―ということです。

この老荘的思想というのは、ある意味で地獄の世界の対極をなしている部分もあるのです。天上界の主流においても向上心をもって精進しておりますが、この向上心の目標が違った時に、地獄の中での活躍となることもあります。みずからの勢力を増強せんとして動く時に、そのような自己実現をする時に、そこに地獄が拡張されます。しかし老荘的思想は地獄にはありません。地獄には、そうした無為自然の考え方、また心を調和し、とらわれないという考え方、そうしたものがないのです。私はそう思います。

ですから現代人はときおりふり返って、みずからの立場をもう一度考え直してみる必要があると思うのです。さて、あなた方はそれだけあくせくとしているが、何のためにあくせくしているのか。あくせくしてどうなったか。その結果どれだけ幸せが増えたか。―こうしたことを考えてみる必要があると思います。

ときどき自分の時間を止めてしまうことです。時間の流れを止めて、そしてそのなかで、陽だまりのなか、川のよどみのなかに舟を浮かべて、大自然のなかの自分というものを見つめ直してみることだと思います。

ここで私が言いたいのはいったい何であるかというと、世紀末の混乱を起こしている理由の一つは、各人の「私が私が」「俺が俺が」という野望、野心なのです。これが結局、世紀末の混乱を起こしているのです。

信じられないことに、夫と妻とがそれぞれ別々に自らの理想を追求し、夫婦の関係が崩れ、親子であっても他人のごとく、まったく別々に生きることになったり、また家族の道徳が失われ、婦人のモラルが失われ、そうなってきた理由はいったい何であるかというと、みずからの理想実現という名の餌でもって人びとの心が惑わされたという、そうした結果ではないでしょうか。

人びとは大いなる徳を見失っているのではないでしょうか。大いなる価値を見失っているのではないでしょうか。私はそう思うのです。見せかけだけの幸福や、見せかけだけの値打ちを追うのは、もう止めねばならない時が来ているのです。

地獄霊たちの生き方を見ていると、虚栄に充ち満ちています。虚栄心に充ち満ちているのです。彼らはほんとうに、自己拡張欲、自己顕示欲に燃えているのです。

なぜ自己拡張欲、自己顕示欲が悪いのかと言えば、これはどういうことかと言うと、他人に自己のよさを見せつけて、そして楽しんでいる、それを喜んでいる、そういう生き方であるからです。

すなわちここには、個々の人間がバラバラに切り離され、そして得手勝手に生きている姿があるのです。この個々の人間がバラバラに得手勝手に生きている姿のことを、地獄と言うのです。

ゆえに、たとえば考えてもみてください。自己顕示欲に燃え、自己拡張欲に燃えている人に、いったいどれだけ多くの人への愛があるかということを。いったいどれだけ多くの人びとへの優しさがあるかということを考えていただきたい。真の宗教とは、優しさの中に生きることではないのか。愛の中に生きることではないのか。こうしたことをつねづね考えておかねばならないと思います。


3.魔に打ち克つ心とは


そこで私は、地獄の魔王たちから身を護るための方策を、いくつか授けたいと思うのです。彼らが人間を扇動し、支配するには、それだけの理由が要ります。彼らにとっての好都合の理由がかならず要るのです。その一つは悩みというものです。彼らはまるでハイエナか何かのように、悩みという名の精神の腐敗臭を嗅(か)ぎつけると寄ってきます。かならず寄ってくるのです。血の臭いを嗅いだ野獣のように、悩みの臭いを嗅いでかならずやってくるのです。

したがって悩みのなかに長い時間、決していてはならない。これは鉄則であります。もし一日のうちに悩みがあるとしても、この悩みの時間を小さくしていくこと。一日のうち一定の時間悩めば、もう考えないでいいような、そうした生き方をしてゆくこと。これがだいじです。

魔に打ち克つための警戒の要所としての第二は、迷いです。悩みと迷いとはよく似ているようですが、ここにも違いがあります。迷いは何を意味するかというと、自分自身の未来が見えない、未来の方向が見えない、道が見えない。右すべきか、左すべきかがわからない、こういうことであります。選択肢がわからない。どの道を進むのが本当なのかがわからない―これを迷いというのです。

この迷いに際してとるべき方法は二つです。一つは悠悠自適(ゆうゆうじてき)。時の流れを忍耐して待つという生き方です。もう一つは、とりあえず、これぞと思う方向をまっしぐらに歩んでみることです。まっしぐらに歩んでゆくうちに道が開けることもある。そうした生き方があります。

ただ、こうした迷いの時に、得てして人は試行錯誤をくり返します。そして新たな悩みを作っていきます。迷いの結果違った行動をとり、その結果悩みという結果を作り出していく。これが人間の愚かな姿です。そうした時に、私があなた方に薦(すす)めたいことは、ときおり大きく深呼吸をし、問題の所在からとりあえず離れて自己というものをもう一度見直してみる。自己というものを澄んだ目で、澄んだ心で見直してみる。そういう必要があるのではないでしょうか、ということなのです。これもだいじな生き方であると思います。

さらに、魔から身を護る際のチェックのポイントの第三としてあることは、これは執着です。迷い・悩み・執着―どれもよく似ているようであって、少しずつ違っているところがあります。執着とは、ある物事の一点に心が止まっていくことです。つねに考えがそこに返っていくことをもって執着というのです。

悩みももちろん、執着の一つになりはするでしょうが、悩みの場合、もう少し非生産的な心の在り方でありましょう。つねに悪しきことを考えて、心からスモッグが出ている状況のことを悩みというならば、執着というのは、自分自身それが善きことか悪しきことかわからないままにある物事にこだわって、そして心がその一点に止まっていることを言うのです。

ただ、たいていの場合、この執着と称されるものは三次元的な、まったく取るに足らないことに人びとの心が向くことを意味しています。よく言われるように、地位だとか、名誉、金銭、評判、名声、また外見、そういうものにこだわることを執着と言います。これ自体は悩みとも、迷いとも言われないものでしょう。しかしこうしたものに心が執われていった時に、それはそこに無限の底無し沼が展開してくるようになっていくのです。

それはほんの軽い気持ちで向かっていったところが、ズブズブと深い沼の中に入り、腰まで入り、胸まで入り、抜けられなくなってくることを意味します。

この意味での執着はおそらく、地上に生きている以上、万人にあるであろうと思います。この執着は向上心のなかにも合まれているからなのです。よくならんとする心、向上せんとする心のなかにも、やはり一部の執着はあります。そこに「ぜひともこうせねばならん。」という気持ちが強く起きた時に、それが成就すればよいが成就しない場合、こだわりとなり、やがて執着となってゆきます。

ここで私は、地獄霊に対抗するための考え方としてだいじなこととしては、この執着に対してもあっさりとした気持ち、さっぱりとした気持ちを持ち続けるということだと思います。

地獄霊の特徴は、ほとんどの人が性格において粘着質であるということが言えると思います。何かにこだわって離れない考え方、そういうクヨクヨする性格、執着する性格、これが地獄霊の特徴であります。

一方、地獄霊のなかに決していない性格は、サバサバとした性格、サッパリとした性格です。地獄霊にはこれがありません。こういう人たちがいないのです。サタン、魔王といわれる人たちのなかでサバサバとしている者はありません。ほとんどが執念深い、ほんとうに執念深く、ヘビのごとく狙った獲物は逃さないという形で音もなく忍びより、そして咬(か)みついてくるということが多いといえましょう。

したがって、アッサリしているということもひじょうに大きな美徳である、ということを私は述べておきたいと思うのです。さまざまな物事に対してアッサリとしているということ、これに対して天使のなかにも多くある性格ですが、完全主義的な傾向で悩みにおちいっていると、またサタンが忍び寄ってくることになります。

完全主義という性格は、それはいい方向に向かえば、たしかに自己向上の原理とはなるわけなのですが、一方これが完全主義という性格にこだわってくると、どうしても自己が低く見られたくない、自己の欠点を人に見られたくない、自己を人によく見せたいという気持ちで凝り固まっていくようになってきます。これもまた一つの執着であります。理想家肌の人にはひじょうに多いのです。

しかし現実に見た場合に、どこに完全なるものがありましょうか。人間にしても動物にしても、家にしても道路にしても、建物にしても、いろんなものにしても、完全というものは追究してもあるものではありません。それぞれに欠点を見る目で見れば欠点が見え、長所を見る目で見れば長所が見える、そういうものではないでしょうか。


4.八割主義のすすめ


私は、こうした地獄的な考え方から逃れて、そしてより健康に生きていくために、八割主義という考えを出してみたいと思います。大きな方向においてまちがっていないのならば、八割できればよいではないか、そうした考え方です。十割を狙うと、それが執着となり苦しみを生んでいきます。ただ、大きな方向としてまちがっていないなら、八分目をもってよしとするという考え、これをだいじにすることです。

ときどき身を焦がし、苦しみ悩んでいる時に、自分が十割をめぎしているのではないかどうかを、ふリ返って考えてみることです。「八割でもよいのだ。八割でも大いなる前進だ。五分と五分で、これでちょうど半々であるならば、八割、九割は大成功だ。それ以上、自分の才能からいっても能力からいっても、高望みはしない。」―この八割主義を重ねていった時に、結構またすばらしい成果を創っていくことが可能となってゆくのです。

以上で私が述べたかったことは、地獄霊的性格とはいったい何であるかということでした。悩み・迷い・執着、そしてその執着は執念にも似たもの、こうなっています。

さらに地獄霊的なるものをあげるとするならば、自分の力の誇示、自分の力をどのように発揮し、見せつけるか。こういうことをいつもいつも念頭においている人、これが地獄的な考え方であろうと思います。

人から自分がどう見られようが、そんなことはまったく気にしないで、淡々と生きていけるようなみなさん方でありなさい。人の評価は人の評価、自分は自分として、いい仕事を積み重ねていく。そうした考え方をだいじにしてゆきなさい。そうでなければ人間として生きていって、ひじょうに寂しいものとなってくるでしょう。

物事には両面あるでしょう。いろいろな物事に両面があり、判断に苦しむことが多いでしょう。しかしながら、いちいち人の毀誉褒貶(きよほうへん)に心を動かしていてはどうしようもないではないですか。やはり自分として誠実に一歩一歩を歩んでゆくこと、これがだいじだと思います。そうでなければ本当にすばらしい生き方はできないのだと思います。

ある地位に就いていたとして、今その地位をなくしたとしても何の問題もない、こういう生き方、飄々(ひょうひょう)として生きていく生き方、これを現代にまたたいせつな考えとして取り入れていかざるをえないと思います。

以上、心の在り方を中心にして、地獄霊的性格からの脱出を述べてまいりました。さらに私は、これだけで止まってはいけないということを言っておきたいと思います。

こうした調和を中心とし、心の平静を中心とする考えができたならば、これから明るい方向に向かって打ち出していくこと、一歩打ち出していくということかだいじではないかと思います。光明面に向かって打ち出していく時に、闇が消えていくという事実があるように思えるのです。

では光明面に向かって打ち出していくということは、いったいどういうことでしょうか。地獄に生きている人たちは、魂において栄養のバランスが崩れ、欠乏症になっています。ビタミンの欠乏症になっています。魂のビタミンが欠けているのです。そのビタミンを補給していくことがだいじだと思います。

このビタミンの名を何と言うのでしょうか。それをある時には愛と言い、慈悲と言い、そしてまた調和と言い、美と言い、また優しさ、親切さ、こうした名称で呼ぶのではないでしょうか。私は本当に、こうした美しい言葉と、美しい思いが、この世とあの世にあふれることを希望しています。そしてまず、他の人からそうしたものをいただけないとするならば、自分が無限にそれを供給していく。これがだいじだと思います。

無限供給の世界です。無限に善念を供給する世界の展開、これがだいじだと思うのです。世の中を変えてゆくためにはそうしなければなりません。自分が自分がという、人の目を意識することをやめて、どれだけ自分の行動が、思いが、言葉が、人びとを善くすることができたか。人びとを善ならしめることができたか。これを中心に考えていきなさい。その時大いなる道が開けてゆくのだと思えるのです。


5.地獄の消滅を決めるもの


さて最後に、私はこの地獄の将来ということに関して、次の二つのことを予言しておきたいと思います。

それは、地獄の将来を決めるものの第一は、個人の心の調和の在り方をいかに向上させるかということにあるわけです。外面的にいくら、たとえば会員を増やすとか、あるいはネームバリューを上げるとか、こういうことに努力したとしても、そこにその神理を学ぶ者の心の向上がなかったならば虚しいこととなってしまいます。その心の向上を中心に考えていくことだと思います。

第二番目に必要なことはいったい何であるかと言うと、この三次元の生活ということはひとときの生活であるということをすべての人に自覚してもらうことだと思います。これがひとときの生活であり、一時の宿りであり、またひとときの旅であると思えばこそ、この旅をすばらしいものとしようという気持ちが起きてくるのです。

人間は永遠の旅人として、はるかなる昔より、はるかなる未来に向けて生きてゆくものです。この人生、今回の人生もやはりひとコマにしかすぎないものです。そうであるならば、そのひとコマにこだわりすぎることなく、すばらしい一日とするように、すばらしい旅行とするように、そうした気持ちで生きてゆくことです。それがほんとうに、結果としてはよいものを生み出してゆくのです。

ミカエルもまた、天上界にあってあなた方の心を浄化し、あなた方をはるかなる神のみもとにいざなうために、日々努力精進しております。あなた方も、本日私が語ったことをよくよく胸に止め、心に止めてみずからをふり返り、正しく生きていくようにしてください。それを願っています。その時に地獄は気がつかないうちになくなっていく、小さくなっていく、そういうようになるものだと思います。

巨大とも思えし地獄が小さなものとなって、やがて消滅してゆく姿を、私はいつもいつも理想に描いています。あなた方もそうした理想をもって生きてください。それを心からお願いして本日の話を終わるといたしましょう。