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目次









1.ミカエルの出で立ち


ミカエルです。今日は私の住んでいる世界の秘密について語ってみたいと思います。 

私はあなた方の使っている今の言葉では、八次元の上段階と言われている世界に住んでいることになります。これを狭義(きょうぎ)の太陽界と言うこともあります。また広くは九次元世界をも含めて太陽界と言うこともなきにしもあらずです。

さて、この私の住んでいる太陽界とはいったいいかなる世界か。それはおそらく読者のみなさんも興味のおありになる領域だと思います。私はこの世界が、おそらく多くのみなさまの理想ともすべき世界であることを、まず申し上げておきたいと思います。まさしく理想の世界、黄金郷というのは、この太陽界のことを言うのだ、そう申し上げておきたいのです。

この世界はあなた方にわかるように説明するとするならば、もちろん人間的感覚に訴えて描写をすることも可能です。本来は私たちは霊的エネルギー存在でありますから、地上の人間的生活をする必要はなく、この太陽界においても、やはリエネルギー存在として主として存在していますが、人間的感覚でそれを描写するとするならば以下のようになると言えましょう。

まずここに住んでいる人たちの姿です。いかなる姿に見えるか。たとえば本日霊示を送っている私の姿は、いかなる姿であるとみなさんは想像するでしょうか。もちろん人間的世界に翻訳をし直すとするならばです。

まず私が今人間だとするならば、次のような姿となるでしょう。身長は百九十センチほどです。そうして顔立ちはヨーロッパ的な顔立ちをしていると言ってよいでしょう。鼻筋が通り、髪の毛はやや茶褐色に近く、そして髪の毛の先の方は多少ウェーブがかかってカールもしている、そうした姿です。目はギリシャ彫刻のようです。口元は薄く引き締まり、そして肩はがっしりと張って、肩の付根から大きな二つの翼が出ています。その翼を広げたら、おそらく右端から左端までの長さが三メートルにもなろうかという大きな翼です。その大きさは、どれほど私が全世界を、あるいは空中を飛翔し、動くことができるかということを象徴しております。

そして私が着ている服はどういう服であるかということですが、これはもちろん日によって変わります。私自身がアポロン的意識として出てくる時にはギリシャ的白い衣装で出てまいりますが、たとえば現在の私はどうであるかと言うと、軍隊の軍服に近いカーキ色、こうした衣装を今は身につけています。

そして脚の裾(すそ)の方はズボンのような形態ではなく、やはりひとつのギリシャ風の、男性ではあるがドレスにも似た姿をつくっていると言えましょう。脚の裾の方はひだが三重になっています。そしてくるぶしから膝にかけて、昔に言うゲートルに近いものを巻いております。足にはサンダルを履いています。このサンダルもカーキ色をしています。そしてサンダルと脚のゲートルの部分には、ダイヤモンドがきらめいています。数多くのダイヤモンドが入っています。

私はそうした服を着ていますが、また、胸のあたりに大きなダイヤモンドをつけています。およそ直径五センチぐらいの大きなダイヤモンドを胸の所につけ、このダイヤモンドのまわりには、下に着ている服の上にまた、何といいましょうか、セーターにも似たものを被っている形にもなりましょうか、そういうようになっています。

腕は半袖です。そして手を出し、手首の所にもまた、厚いカーキ色の布のようなものが巻かれ、その上を腕輪が巻いています。その腕輪にも宝石が散りばめられています。

私の手に持たれるものは日によって違います。私がこの太陽界において法律的な仕事をする時には、私は右手に大きな杖を持っています。その杖はやはり、ダイヤモンドに輝いた杖です。こうした杖を持っていますが、私が地獄に行って地獄霊たちを諭(さと)したり、あるいは地獄のサタンたちを説得したりする時にはまったくの軍人スタイルとなりますから、本日のような力ーキ色の軍服のスタイルに近く、これにだいたい左手に大きな盾を持ち、右手に槍や剣を持ったりしていることが多いのです。

本日の出で立ちは、左に盾を持ち右手に剣を持ってきました。これは地上界にサタンの動きが大きくなる時に私が着用する服装です。

そしてその盾はどういうものであるか、みなさんごぞんじでしょうか。それはちょうど楕円形で外にせりだした、でっぱった形の球面の一部を形どるような盾です。そしてその盾の上の部分はV字型に切れ目が入っております。これは敵の攻撃を避けながら、その切れ目の所から相手の姿が見えるように造られているのです。

また右手に持っているのは大きな剣です。この剣は長さがおよそ一メートル二十センチぐらいあります。幅広の剣ですが、両刃であり、そして剣の鍔(つば)の所からさらに二本の小さな剣が出ています。そして柄(つか)の所はサーベルのようになっており、そこにもまた宝石がキラキラと輝いています。

そしてこの剣そのものはいったい何でできているかということですが、この剣をよくよく見ればおわかりですが、すべてダイヤモンドでできているのです。金剛石と言いましょうか、金剛石でできた剣で、どんな硬いものでも打ち砕く、この剣で切れないものはないというぐらい硬い剣です。どのような鉄の鎧も貰く、そうした剣で、まばゆいばかりに光っています。また盾の表面にもさまざまなダイヤモンドが散りばめられています。


2.天使のシンボル


このように宝石で言うと私に相当するのはダイヤモンドにあたるわけです。これ以外に他の七人天使や、あるいは他の天使たちの姿を見てみると、ダイヤモンド以外の他の宝石をみずからのシンボルとしている者も数多くおります。

たとえばラファエルという天使がおりますが、このラファエルが主として愛している宝石は何であるかと言うとルビーです。ルビーという宝石を好んで身につけています。

またサリエルという天使がおりますが、サリエルが好んで身につけているのが、これが紫水晶です。アメジストとも言われているものを好んでつけているようです。

さらに、これ以外にもいろいろおりますが、ガブリエルという天使もおります。このガブリエルが好んでつけている宝石が何であるかと言うと、これがサファイヤと言われているものです。

このように天使たちによって好みの宝石があって、それで身を飾っているように見えます。もちろんこれは地上の人間にわかるように言っているのですが、物質的にそういうものがあるわけではないが意識としてそういうものがあるわけで、宝石の根源というものもこうした理念がもともとあって、それがあの宝石になってきたものだということを象徴しているように思います。

私に象徴されるダイヤモンドはいったい何を示すかというと、ダイヤモンドの示すものは完成です。完成の美です。あるいは究極の輝きと言ってもよい。これをダイヤモンドと言うのです。したがって七大天使の長である私は、一種の完成の宝石を中心として持っているというように考えてもよいでしょう。

アメジストという宝石を主として好む人は、これはどちらかというと調和や平安、そういうものを求める傾向が多いと言えましょう。

サファイヤはまた、精神的な一つの高貴さ、高みというものを意味しています。

ルビーの意味しているものは何かというと情熱です。

これ以外にクリスタルを愛している天使もいます。この天使はあちらもこちらも水晶で重ねられたような、そうした服装をしていますが、こうした人は何を求めているかと言うと、心の透明感、清潔感、こうしたものを限りなく求めているのです。これがクリスタルで象徴されているものであろうと思います。

これ以外にも金とか銀、こういうものを愛する人もおります。金を愛する人はやはり王家のような、そうした優雅さと高貴さを伴っていることが多いように思います。銀を愛する人は、その有用性というようなものを重視することが多いように思います。

宝石は天上界にはもっともっと数多くの種類があります。おそらく何十種類、何百種類の宝石があって、とても地上のみなさまには表現できないような輝きを持っています。  さて私自身はダイヤモンドに身を固め、そして戦の時には頭の上に、一つの軍事用の王冠というものをかぶることもありますし、またそれ以外の出で立ちの時には戴冠式(たいかんしき)のような冠をかぶることもあります。

本日はどのようなのをかぶっているかということですが、これは言ってみれば兜(かぶと)に近いものをかぶっていると言ってもよいでしょう。ただその兜でも戦国時代の武将のように前の所で飾りがついています。そして飾りのなかにまた大きなダイヤモンドを埋め込んであります。

このダイヤモンドには仕掛けがあります。魔と戦う時に、このダイヤモンドから光線が照射されて、まぶしくて彼らの目が見えなくなる、そういうことが起きるという仕掛けです。


3.悪魔のからめ手


私は今日みなさんの前でこうやって収録をしていますが、この用が終われば、これからまた地獄界の方に赴いて行くという、そういうスケジュールを持っています。この収録が終わればまた地獄界へ行き、最近動きが活発になってきているあのルシフェルたち、この者だちとまた談判をしに行くつもりでおります。なかなか言うことは聞きませんが、それでもミカエルが本領を発揮し、また本気で実力を行使し始める時、彼らは次第しだいに活動がしにくくなってきます。

悪魔たちが跳梁(ちょうりょう)する所では天使が出にくくなるとも言われていますが、逆に天使たちがほんとうに力を発揮する時に、悪魔たちも動きが取れなくなっていきます。それは彼らが出没する所に天使たちが群れをなして現われたときに、とうてい居ることができないのです。

これはやはり同類相集まるの法則と言ってもよいでしょう。天使が群れている所に悪魔は来れないし、悪魔が群れている所には天使は居にくい。したがって必要な所にどれだけ多くのそうした勢力を置くかということかだいじになってきます。

今悪魔たちも最後の抵抗をしようとしていますが、私が動くときは天使軍団が総力を挙げて動くときです。その時は彼らとしては、自分たちの出城が一つひとつ落とされていく時なのです。私はそのように言ってよいのだと思います。

悪魔の特徴というのは、どうしても弱い所、小さな所、弱み、裏手搦手(からめて)から攻めてくるということにあります。人間でも自分の弱い所は攻められる、また団体になっても組織のなかの弱い所は攻められる、こういうふうになってくるわけです。

たとえば執着を持つなとよく言われますが、執着になっている所はその人の悩みである所も多いわけです。そうした所があればそこを攻めてくる。結婚問題で悩んでいる人がいればそこの所をついてくる。健康問題で悩んでいればそこをついてくる。金銭問題で悩んでいればそこをついてくる。こういうふうにして、その悩み悩みにつけこんでくるということがあるのです。


4.降魔の剣をかざして


さて、みなさんが不思議に思うことに「ではミカエルよ。お前の出で立ちはわかったが、天上界というのは肉体のない世界のはすだ。物質のない世界のはすだ。なのになぜ羽が要り、そして、剣を持ち盾を持つのか。そうしたものがほんとうに役に立つのか。」というような疑問が、私の耳まで聞こえてきそうです。

これについて答えるとするならば、たしかに私たちの世界は霊的世界であるが、霊的世界ということは姿形なきものを意味してはいない、ということです。

霊的世界というのはかならずしも何もないという状態を言っているのではないのです。それはあるのです。たしかにあるけれども、三次元的表現の姿をとっていないだけであるのです。何もないということではないということです。それは霊的実体というものはあるのです。その霊的実体を創るものは何かというと、それが心の在り方であり、意図であり、理念です。そういうものが霊的実体を創るのです。

したがってこの剣の姿をしているもの、その剣は何かと言うと、東洋的には「降魔(ごうま)の剣」と言います。魔を降(くだ)すための剣です。降魔の剣と言いますが、この降魔の剣とは何かと言うと、私自身の意図が、あるいは意志がそういうことをしたいと願っているということです。それが象徴としてそういうものとして現われてくるということです。しかもダイヤモンドの輝きで輝いているということは、どのような硬いものでも切り崩し、また、それも燦然(さんぜん)たる光でもってその事業を行なうということを意味しているのです。

さて、実際に私がこのような出で立ちで地獄に現われたとします。どのようになるかみなさんはおわかりでしょうか。もちろんミカエルが単独で動くことはありません。私が動く時には天の軍勢が総勢数百名、数千名ついてくることがほとんどです。私はその司令長官です。そういうことになりますから、どこかに集まっていた魔たちが一斉に退散するという光景が見られるわけです。

みなさんはたとえば、食物が道に落ちている時に蟻(あり)の群れがたかっている姿を見たことがあるでしょうか。魔の姿というのはまさしくあのようなもので、甘いものがあるとそこに群れたがります。そして群がるのです。けれども彼らであっても危険が追ってくると、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げていくでしょう。まさしくそうした現象が起きてくるのです。

また私たちがそのような出で立ちをするというが、天使も傷つくことがあるの。か。天使もまた、そうした敗れるということがあるのか。こういうように思われる方もいるでしょうが、実際天使とサタンというものはあなた方の霊的目で見るとするならば、たしかに現象的には闘いということもありうるのです。

地獄の谷を渡っていく時に、いきなりふいに襲われるということもあります。私たちがこの翼で地獄の谷を飛んで行く時に、ふいに思わぬ所から現われ出て私たちを傷つけようとする者、こういう者が現われてくることはよくあることです。その時に外見上は血を流すような、そういう光景が現われることはあります。それは私たちの魂の痛みです。

天使であっても傷つき苦しむということ、これはあります。それはちょうど相手の念であっても攻撃的な念が、それが人を傷つけるようなものであった時に物理的作用を起こして、ちょうど刀で斬られたり矢で射抜かれたりするのと同じような、そういう感覚を味わうのです。こういうことで実際上は闘いに近いものがあることも事実であります。

そこで私たちはつねづね、その地獄のサタンたちの動きを見ていて、彼らがいったいどこに群がろうとしているのか、彼らが群がろうとする所を見つけては天使団でそろって飛んで行って、そしてそういうことをさせないようにしているのです。

この群がる所というのは地下の所だけではありません。地上の人間に対してでもそうです。地上の人間である者を虜(とりこ)にしようとすると、そこに群がってきます。この時に私たちは力の限り、できる限りいくたびでも、いろいろな所に飛んで行って、そして彼らを魔から護ろう、そのようにしているわけです。その時にこのミカエルの出で立ちが、ひじょうに彼らにとって威圧感となり、威厳となって足がすくむということもあるわけです。


5.太陽界の住人たち


さて私自身はそうした仕事もしていますが、他の天使たちは必ずしも同じようなことをしているとは言えません。

ラファエルという天使などは、ひじょうに芸術的な方面にも力を持っていて、私がこのように汗を流して活動しているのを尻目に、悠々(ゆうゆう)と絵を描き音楽を奏して天上界で楽な生活をしているように見えます。それはまことに優稚な生活をしています。芸術の中に生きているということもありましょう。

ガブリエルという天使もさまざまな役割をしています。このガブリエルという天使も通信役をする時は結構忙しくて、いろいろな所へ行って通信をしなければならないという仕事がありますが、そうした通信の仕事がないときはそう忙しくもなく、いろいろなことをしているわけです。政治の方に興味を持つこともあれば、あるいは他の方面に興味を持つこともあり、いろいろなことをしているように思いますが、私ほど激しくは動いていないと言ってもよいでしょう。

ウリエルという天使は政治に関わっているわけですが、この人も政治改革、宗教改革の大きな仕事をしています。現在ウリエルが手がけている仕事はいったい何であるかというと、やはり共産圏の中での政治改革、これを何とかやりとげようとしているようです。ひとつの大きな政治改革、革命というものが今後起きてくるというふうに言われていますが、この共産圈での政治改革を企画している者が、この七大天使のなかのウリエルという者です。

彼はどのような形で、その政治改革をするのか。それを天上界で、言ってみれば一つの作戦室で作戦を立てながら、地上の実際の指揮、指導、こういうことを行なっているように思います。

これ以外に、私と同格に近い立場で、たとえば老子という中国の老荘思想の先駆者かおりますが、この人などは毎日どういう生活をしているか、みなさんは想像がつくでしょうか。もちろん老荘思想であっても、現代でもまだ地上でその流れをくんでいる者もいるので、そうした者への指導があることは事実です。しかしそうした者への指導が特にない場合はどうしているかということですが、それは私にはまことに不思議なさまに見えます。

老子という人の姿を私の目から見て表現するとするならば、背の低い老人のような姿をしています。頭は禿げ上がり、頬(ほお)から顎(あご)にかけて白い髯(ひげ)が生え、手には、瘤(こぶ)のある、そうした木の根っこで作ったような杖を持っており、服装はまるで仙人か何かを思わせるような、白から灰色がかった服を着、そして袖(そで)の下はいわゆるボロボロという形になっています。このような形で、使い古した鯉のぼりのような、そうした服を着ております。そして腰に荒縄のようなものを巻いて、一見するとまるで乞食か何かのように見えないこともありません。

そうした小柄でデップリとした、頭の禿げた、頬髯(ほうひげ)のある老人が杖をついて大きな石の上に腰掛けて、松を眺め、そして空を眺め、また丘の下を眺め、溜め息をつき、ときおリ立ち上がって動いてみ、また座り、いろいろなことを瞑想している。-こういう姿がみなさんにはわかるでしょうか。まあ、そのようなものです。

私から見ていると、いったいどういう仕事をしているのかまことに不思議でありますが、心の調和ということを中心に静寂心を楽しんでいるのだそうです。そういうことで地上の者たちにもそうした指導を送っているのだと、こう語っております。

あるいはこの世界にソクラテスという有名な方もおられます。このソクラテスという人はたいへん学問好きの方であります。そのソクラテスの生命体の部分自体は、現在でもこちらに住んでいます。そして日々努力し、勉強しています。

彼の住んでいる世界を人間的感覚で説明するとするならば、言ってみれば大理石でできた大きな研究所のなかに住んでいます。そしてその研究所は、入り口も大理石の柱が立っていますが、それからなかに入るまで長い長い廊下があります。大理石で敷き詰められ、また大理石の柱をもった長い長い柱廊(ちゅうろう)と言うべきものがあって、長さがおよそ五十メートルから百メートルもありましょうか、その長い柱廊を入っていかないとなかに入れないのです。

そして気がついてみると、ソクラテスという人はこの柱廊を歩きながら行ったり来たりして思索をしているのです。そしてときおり外の庭に出ては書き物をしたり、また部屋のなかにこもっては勉強をしたり、こういうことをしていますが、地上の学問、ありとあらゆる学問の在り方をこの人は研究しているようです。彼の蔵書のなかに地上に出されたありとあらゆる本、もちろん魂的に意味のない本は研究していませんが、魂に意味のある本はほとんど取り寄せて研究しています。

彼を長として、彼の流れを引く数多くの哲学者や思想家たちが下の次元にいて、彼の指導を待っています。ときおり行って教えては、また彼らにもいろいろな学問研究の分担を与え、そして勉強させています。地上の学問も源泉において天上界にその雛型(ひながた)があり、天上界では新たな学問をどう創リ、どのように地上界を指導するかということ、こういうこともしているのです。こうした学者の姿と言えましょうか。

またプラトンという、このソクラテスの弟子であった人、この人は後にヘーゲルという名で生まれ変わったということをごぞんじの方もいらっしやるでしょうが、この方自身はどうしているかというと、プラトンもまたソクラテスとはまったく別の場所にいますが、かなり幅広い活動をしています。しかしプラトンの活動自体は、ソクラテスが求心的とするならば、すこしそれとは違った面があるように私は思います。

その特徴は何かと言うと、自分の思想を具体的に波及させようという気持ちがひじょうに強いように思います。いかにして天上界において自分の思想を波及させるか、また地上界において自分の思想を波及させるか、こうしたことに努力しているように思います。

ソクラテスとプラトンは過去世において師と弟子という関係にありましたが、どちらかというとやはりソクラテスの方がやや幅は狭く、孤高の人という感じを受けるわけですが、プラトン自体は大人物という雰囲気を受けます。そうした度量と雅量があるように見えます。

このプラトンの姿ですが、人間的に表現するとどうなるかということですが、常夏(とこなつ)のギリシャに住んでいた時のような姿にやはり近いと言えましょう。頭の毛自体はやはり薄くなっており、そして全体に巻き毛です。巻き毛で髪の毛ができております。顎(あご)には髭(ひげ)が生えています。顎髯が生え、そして右肩の上の所を布をまとめて、そこでリングのようなもので止め、そして左方は裸です。右肩から脇下までまるで原始人のようではありますが、昔のギリシャの夏の衣装でもあったのでしょうか、そうした片方の肩を出して、そういう衣装を着て生活をしています。腰にはベルトをしていますが、足はまるで草履(ぞうり)を履(は)いているような、そういうものを履いています。ひじょうにシンプルな生活をしている方とお見受けします。

そしてこの方が生活している所はソクラテスの研究所とは違って、多少アゴラと言いましようか、広場にも似た所を、段差のある所を上がったり降りたりして散策できるような、そういう庭園を造って、そこを歩きながら考えるということを中心にしているようです。

ただこの方は、ひじょうに具体的な仕事をも受け持っているようで、七次元や六次元の世界での貢献も相当大きいようです。特に六次元の人たち、この思想家たちを相当指導するという、そのような仕事をしているように思います。

これ以外にも、日本神道系でも私たちの世界に近い方がたもおります。あなた方をよく指導しておられる人の一人が天之御中主之神といわれる方です。この方自身はあまり他の神様と交渉をせずに長い間生活をしておられました。もっとわかるように言うとするならば、全然別の世界で国を創っていたという感じになりましょうか。少し次元を下げて話をすれば、南の島の酋長(しゅうちょう)のような、そういう姿と言ってもよいでしょう。こういうふうに、私たちの西洋の世界とはあまり付き合うことなく、ここ数千年を過ごされたと言ってもよいでしょう。

その姿を私が視覚的に言うとするならば、どうもこういう人が多いわけですが、頭はやはり禿げ上がっております。頭は禿げ上がって、やはり耳の辺りから豊かな顎鬚(あごひげ)、頬髯が生えています。それは白いですが、頭から顔にかけてはどういう色をしているかというと、テカテカとした赤銅色に近い色をしています。眼は半眼に近い眼ですが、それでもときおリ鋭さをもっています。そしてこれも日本神道系の神様らしい、そうした独特の出で立ちをしています。

私にはその姿を明確に説明することができないのですが、日本の神社の神主のようにも見えるし、そうでないようにも見える、よくわからない服装をしておられます。ただ杖を持っているということもよくあるように思いますので、推定年齢は六十歳から七十歳ぐらいの出で立ちと言えましょう。こうした方ですが、相当その全身には自信にみなぎるものがあって、威厳と力に満ちているようです。


6.太陽界のニ元論・一元論


私たちの世界から見れば、ひじょうに変わった人であるというふうにも感じるわけですが、この方は信念の力というのがひじょうに強くて、そしていろいろなことを実現させる、そういうことを中心にしているようです。

この天之御中主之神というのは昔から私とは意見を異にすることが多く、私は二元論的立場に立って魔と戦うということを職業としてやってまいりましたが、天之御中主之神の方は「本来魔なし、悪魔なし、地獄なし」、ということをくり返しくリ返し言っております。

ここに方法論的な違いがあります。私は現に地獄という世界があるので、これをなくすために戦っているわけですが、彼はそれを「眼の錯覚である」と言っているわけで、「本来すべての人霊は神の子であり、光り輝いているのであって、地獄と見えるのは眼の錯覚であり、本来そこには地獄はない。それらの人たちが光にめざめた時に、本来地獄というものは消えてゆくのである。」こういうことをつねづね語っておられるようです。

ただ結論から申し上げるならば、こういうふうに言うこともできるでしょう。彼ご自身は山の頂から降りることなくそういうことを言っており、私は山から降りて実際に谷まで行って仕事をしているという事実です。こうした違いがあります。山の頂にいただけではそうしたものが見えるはずがない、と私は思うのですが、たしかに山の頂にいて空の上を眺めていれば谷は見えないものだと思われるのです。

何がよいかはわかりませんが、そうした姿勢もひとつの変わった姿勢ではあるけれども、それなりに言魂をもって、勇気をもって語ることができ、行動することができるならば、それなりに信奉者を集め、また指導しているように思います。

特に最近は日本神道系の力もひじょうに強くなってきており、私たちもほんとうに私たちの教えが中心なのか、彼らの教えが中心なのか、ときおりわからなくなることがあるほどです。じつはアメリカなどでも、この日本神道系の教えがかなり進出していっているのです。そしてアメリカの光明思想のなかに、こうした神道系の考えがかなり混入していっていると言ってよいでしょう。それはその世界を指導しているものが出ているからです。

このようにして、日本が今産業の世界において世界各国を席巻(せっけん)してきつつあります。自動車産業においても、あるいはそれ以外の産業においても全世界を席巻しつつありますが、霊的世界においては実はこれに先立つこと百年、日本神道系の光明思想がアメリカという国へもう進出開始していたのです。アメリカという国へ光明思想により進出し、さらにヨーロッパにもだいぶ進出をはたしていったのです。

本家本元の思想が外国に輸出されて、そして逆輸入される形で日本で学ばれるという、そういう形をとっていますが、これは日本が「外国から学べ。外国に追いつき追い越せ。」ということをスローガンにすることを見越して、諸外国にまず自分たちの教えの種を蒔いていたと言うことができましょうか。

ちなみにアメリカに出たニューソートのエマーソンという思想家かおりますが、この人自身はソクラテスといわれる方の分身の一部ですが、このエマーソンが出た時に日本神道系からも相当指導霊がつき、指導をしていたのです。この時にエマーソンを指導していた人がいったいだれであるかというと、指導書の一人についていたのが、この天之御中主之神であったのです。

したがって日本は今経済進出によってアメリカ市場を押さえようとしていますが、その百年も前から、そうした思想界におけるアメリカの制圧ということが進んでいたのだと言ってよいでしょう。

戦争においては日本はアメリカに破れましたが、その結果急速な発展をしてアメリカ市場をも包むという、こういうことをしてきたわけです。彼らの計画によれば、あと十年もすればアメリカは完全に日本の精神的支配下に置かれることになることになっています。

はたしてその通リになるかどうか。これが今後の見どころであると、このように言うことができるかと思います。

以上、太陽界に住む人たちの話をしてまいりましたが、このように私たちの世界においても個性の違いはあり、考え方の違いはあり、生活様式の違いはあります。この世界において二元論的に魔と戦うということをやっている最右翼が私です。そしてその最左翼とでも言うか、まったく悪魔を認めない思想としての天之御中主たちの考えがあります。ですからこうした両面があってはじめて、天上界もつりあったものの考え方ができているのかもしれません。

ただどちらがほんとうか私は知りませんが、しかしほんとうの愛とは事実を隠蔽(いんぺい)することではなく、具体的実践行為のなかにあるのではないか、そういうふうに思います。悪人なしと言うことはたやすいが、悪を犯したものを真に反省させ、なぐさめ、そして導くということ。そうした具体的な仕事がだいじではないか、私はそのように思えるのです。したがって、たとえ今後どのように言われたとしても、私は私としてやはり地獄霊をなくし、地獄のサタンを解消させるという、自己の仕事をまっとうしてゆきたいと思います。

これ以外に私が今やっている仕事としては、宗教改革的な教えの、その編纂(へんさん)、統一、完成ということです。こうした仕事をも私はやっています。遠からず私のこの仕事が成就した時に、地上がほんとうにすばらしい法によって統治される世界になることを、真に望んでいます。

これが太陽界の世界の説明ですが、太陽界の住人は、では九次元の宇宙界の住人との交渉はないのかという考えもあるでしょうが、これは毎日のように会っているというのが真実であります。私たちの世界においては、もうそれほど次元の壁というものは大きなものではありません。私自身九次元世界にも行くことが許されていますし、九次元の霊たちもこちらに来ることもあります。

そのような形でつねに行動をともにしていると言ってもよいかと思います。