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目次









1.ルターの宗教改革


ミカエルです。さて今日はキリスト教の大改革について話をしておきたいと思います。

キリスト教と言ってもすでに述べたように、私自身はマルチン・ルーテルとして近代のドイツに生まれた魂の一人です。そのルーテルの思想とキリスト教の現在の在り方、またキリスト教を取り巻くさまざまな新興宗教の現在の在り方、こうしたものについての私自身の考え方を述べておきたいと思います。

まずマルチン・ルーテル ― 日本語ではルターと呼ばれていることが多いので、以下ルターと称しますが、ルターが今から四、五百年前にプロテスタントという新たな教えを説いたわけですが、なにゆえにそういう教えを説いたか。これを考えてほしいのです。それは二千年前に説かれたイエスの教えがもう教条化し、人びとはそれを訓語学(くんこがく)か何かのように考え、教会万能主義におちいり、そして人びとの心の問題が薄れていた時であったのです。

もちろん教会というものはだいじな所でもあります。教会というものがあったからこそ、このイエスの教えが現代まで連綿と伝わってきたことは事実です。けれども一方では、教会制度自体がひじょうにこの世的なものとなり、そしてその結果さまざまな堕落、腐敗を生んできたことも真実でした。

教会制度であっても、そこの長たる者が真実の聖職者としての姿勢を保ち、そうした純粋な心を貫いた時に、そこにはすばらしいものが開けてゆきますが、長たる者が凡庸(ぼんよう)であり、この世的すぎた場合に、そこに恐ろしい結果が起きてくるということです。

この制度的運営、組織的運営ということについての、私自身の考え方を述べておきたいと思います。これはおそらくあなた方にとっても、今後たいへん参考になる考え方であると思います。

今から二千年前のイエスの考え方は、人の心と心をつなぐことによって、そこに大きなカが生まれる ― そういう考えであったと思うのです。ところがやがてそれが現実に多くの人びとを指導するという立場に立った時に、ヒエラルキー、組織としての階層化と分極化、また分散化ということがどうしても必要になりました。

さてこの時に通用する基準はいったい何でしょうか。それは現代の会社とまったく同じものでしょうか。それともまったく別の観点でしょうか。あるいは現代の役所や官僚の考え方と同じでしょうか。それともまた別のものでしょうか。この点については、とても難しいところがあります。

さて、この制度的問題の一番の病巣(びょうそう)になりやすいものが経済的問題です。その巨大組織を運営するにあたって、どのような財政源を確保するかということです。本来であれば、このような信仰の世界、神の世界に生きている者が、お金の心配をしなくともやっていけるように努力することが必要です。本来そういうものです。本来そうした努力が必要なのです。

ですから教会では長い間「十分の一税」といって、税金を教会に人びとが寄進することがつねとされてきたのです。その寄進によって教会の人びとが養われ、また建物の改築あるいは講堂の設置ができる。こうぃうことがあったわけです。

しかしこの十分の一税は、やがて各国に政治制度が確立していくにつれて、国の側の税金へと変わっていくことになり、教会そのものは財政的に窮状(きゅうじょう)を呈するようになってきたわけです。それゆえに寄付を募(つの)ったり、献金を募ったり、独自にいろいろな商売をやらねばならなくなってきた。そういう歩みであったと思います。

さて私がいわゆる「九十五か条の公開質問状」でローマ法王と、ある意味で対決することになっていったことは、みなさんごぞんじでしょう。この私自身の考え方が何に発したかというと、サンピエトロ寺院というものの改築をするにあたって教会が贖罪符(しょくざいふ)というものを売り出し、それによって罪が拭(ぬぐ)われるからお金を提供せよ、そして建築資金にあてる、こういうことでありました。

たしかに経済力のない教会が、そうした形で資金を募りたくなる気侍ちもわからないわけではありません。そして本来そうした贖罪符、免罪符によって罪が赦(ゆる)されるものではないとしても、熱心なあまりそういう方向に動いていくということも、ある程度予想はつくものではあると思います。

けれども私は、ここに一つの越えてはならない線があるように思うのです。その越えてはならない線、それは教会というものも、そのような経済制度の下にあることは事実ですが、どうしても譲ってはならないことは、神の出城としての自分たちの在り方、神の下僕(しもべ)としての在り方ということです。天使の代わりに、教会に務める人たちが人びとを教え導いているのだという、そういう在り方です。

それを考える時、はたして人は免罪符というものを、こういうものを金を出して買うことによって罪が赦されるのかどうかです。これは極めて根本的なことであるのです。ほんとうにそれで罪が赦されることであるならば正しい行為と言えましょうが、もしそれが欺瞞(ぎまん)に満ちたものであるならば、やすやすと許される行為ではありません。

今実在界に還って真実の目で見た時に、はたしてどうでしょうか。真実の目で見た時には、やはり人が赦されるのは悔い改めた時だけであるのです。悔い改めこそが人が赦される条件であって、それ以外のもので赦されることではないのです。

聖なるものへの寄進、協力という気持ち、寄付したいという気持ちは、それはそれで一つの愛の行為として評価されますが、それによって罪が赦されると考えたならば、これは対価関係を結ぶことであり、神と商売をすることになります。そうしたものではないということです。

すなわち私は、ここで次のように言いたいのです。制度を守る、組織を守るということと、真実の神埋が矛盾を起こした時にどちらを選ぶかによって、それが正しいかどうかが決まるということです。正しいものはどちらであるかは、そのように判断されるべきであるのです。

私にはそれ以外にも我慢がならないことがすいぶんありました。それは教皇といわれる存在が、そのように人の罪を赦す資格を有しているように言うと同時に、政治的にもさまざまな介入をしているという事実でした。むろん政治的権力の一部として聖なる権力があって、それが各国を支配するという図式も、指導者が正しい在り方をしているならばそれはそれで赦されることでしょう。ただ指導者の心が曇った時に、それは大きな専制的な権力ともなるわけです。

こうして私自身がルターとして解き放った矢は燎原(りょうげん)の火のごとく、全ドイツに、そしてヨーロッパヘと広がってゆき、さらには私が意図しない方面にも広がってまいりました。それは結局ある意味での、無政府主義的なものに近い動きも出てきたことも事実です。

農民の暴動、一揆というようなものも起きてまいりました。このような農民の暴動、一揆は、やはり大いなる問題であったとしても、私自身はそれほど歓迎してはおりませんでした。政治的力をあまり持ちすぎることによって宗教者が世俗的になりすぎることをも、私は恐れていたからです。

ただ時代の子となった事実はあったと言えましょう。私は時代の子となり、運命の人となり、そのひとつの宗教改革の流れを創っていったと言ってよいでしょう。

さて、そのプロテスタントと言われる教えは、いったい何を主張したかったのかということですが、結局制度中心ではなく、組織中心ではなく、人が中心である。あるいは心が中心であるということを言ったのです。人はその良心に基づいて裁かれるのです。そういうことを私は言ったわけです。そして「信仰のよりどころは教会や教皇ではなく、聖書である。聖書こそが人びとの心のよりどころである。」-こう述べたわけです。

これはキリスト教でない世界の人においても同じく通用することでしょう。人の罪が赦されることは、その心がいかに磨かれたかによる。いかに澄みきったかによる。反省されたかによる。そして人によらず法に基づけ。「人につかず、組織につかず、法につけ。」という言葉があったと思いますが、その通り、法につくということは聖書中心主義の原因の一つでありました。


2.イエスの心のなかの原型


さて、こうした宗教改革を私はやったわけですが、現代のキリスト教の流れを見れば、旧教と新教はそれぞれまったく別なものとしてしかも両立してきたように思います。それぞれ別の所で住み分けていたこととなりましょう。二種類のイエスが存在することとなりました。二派を指導するイエスが存在することとなりました。もちろんイエスの心そのものは偉大でありますから、どのような派に属しているからといって分け隔てをすることはありませんが、しかし二人のイエス、あるいはイエスを信ずる二派の人びとが出てきたことは事実です。そしてこのキリスト教の流れは、さらに第三の改革の波のなかに置かれたと言ってよいでしょう。

私の改革によって一手に庶民の手に置かれた、庶民の手に戻された信仰は、さらに現代に入っては新たな様相を呈するようになってきました。一つには科学的な方法があったと言えましょう。クリスチャン・サイエンスといわれるような科学的考え方を重視する、そういうキリスト教主義もありました。また繁栄法、成功法を重視する光明思想的キリスト教の現われもあったと言えましょう。またクエーカー教のように静寂主義をとるキリスト教も出てきました。新たなキリスト教の分解が、そして台頭がさまざまに出てきたと言えましょう。

こうした流れは、部分部分を取り出して、イエスの真意がいったい何であったかということを教えているのであり、それぞれにおいて正しい流れであった、そう言うことが可能であると思います。

さて、では現在ただ今、イエスのお心がいったいどういうところにあるとみなさんはお考えでしょうか。イエスがいったい何を考えていると思われるでしょうか。そうした時に、私は次なることを言っておきたいと思います。

それは、イエスはまず次のように考えておられるということなのです。「根本にまず信仰をおきなさい。神への信仰があってこそ、その余のものがあるのだ。」ということです。「神への信仰がしっかりとしたものであってこそ、その余のものはすべて加えられてよいのだ。」― このようにイエスは思っておられるということです。

「組織も方法論も教義も、そんなものは二の次であって、まず信仰を中心にせよ。そしてこの信仰はやはり個人の心から、心のなかの良心から、真心から出発するのである。」

こういうことをイエスは考えておられるわけなのです。まず信仰あり。そして良心からすべてが出発していくのだという考えです。

そして次に愛という問題があります。「神が人びとを愛しておられるように、あなた方もともに愛し合いなさい。なかよくし合いなさい。」という教えです。まずここまでできたならば合格であると、そうイエスは思っておられるのです。

イエスの心のなかにある原型はいつも一つです。それは羊たちが平和になかよく草を食(は)み、そして陽のあたる丘で戯(たわむ)れている姿、そうした姿を前提としているのです。それを一つの理想としているのです。したがってこうした羊たちの統制、羊たちをどのように導くか、またどのように区分けするか、どのような宿舎に分けるか。 ― こうしたことは二の次、三の次であると、そう考えておられるということです。

以上のことを考えた時に、やはり私は制度的なもの、組織的なものは、一つの下支え、補強手段として考えていくべきものだと思います。一つの下支えであり、その下支えによって、全体にそうした羊が戯れるがごとき大調和が出されることかだいじなのだと思います。

「愛をとるか、組織をとるか。」と言われたら、躊躇(ちゅうちょ)なく愛をとってほしい。それがイエスの心です。また同じ屋根の下に寝ずとも、異境に異邦人として生きている人であっても、信仰を通じて人びとは一つの心につながっていく。このようにイエスは考えておられるのです。

つまりまず、地上に創られるべき神の王国とは、心の王国に他ならないということを知るべきだということです。一人ひとりの心と心をつなぐもの、これが神の王国を創っていくためのロープであり、柱であり、レンガであるのです。こうしてりっぱな建物ができあがってゆくのです。


3.本来の宗教とは


さて、さらに次に私の考えを推し進めてゆきましょう。私の考え方はキリスト教の大改革という考えでもありますが、いやそれはもはやキリスト教の大改革ではなく、キリスト教を超えた世界の改革かも知れません。宗教すべての改革というふうに言ってもよいのではないかと思います。

さてではどうするか。どのように生きて行けばよいのか、ということですが、やはり私は中心に法というものを据えた方がよいと思うのです。教えというものを中心に据えたらいいと思います。学びというものを中心に据えたらよいと思います。それから神への愛というものを中心に据えたらよいと思います。

地上の人間に今いちばん必要とされているものは何であるかと言うと、これは大いなるものによって自分たちが今見守られているのだ、見取られているのだ、という考え方です。自分たちが多くの者に見守られている。温かく見守られている。それは目に見えぬ世界の神であり高級霊たちであるということを、イエスを初め七人天使、あるいはその他の天使たちの目であるということ、これをまず知ってほしいと思います。

これを知ることが出発点になります。これを知ることによって初めて、地上での宗教ということが意味をもってくるのです。

私は宗教という言葉を使う時に、大変たいへん悲しく思えてなりません。それは現代の日本において宗教とはいかがわしいものの代名詞となり、多くの人びとが敬遠する、そういうものとなっているからです。しかし本来宗教とはそんなものではありません。それは事実を教えること、真実の世界を教えることなのです。

猟奇(りょうき)趣味とか、オカルト的なもの、あるいは心霊といわれる恐ろしいものを体験したり、超常現象を体験することをもって宗教と言っているのではないのです。ほんとうの宗教には健全なものがあるのです。きわめて健全なものであります。きわめて健全だというのはいったい何であるかと言うと、人間をすばらしくするものがあるということです。愛が流れているからこそ人間をすばらしく成長させ、発展させてゆくのです。この人間をすばらしくさせていくものこそ宗教の本質なのです。

なぜすばらしくなるか。それは天というものを知るからです。あの大空にある神の王国を知るからです。そうした王国の存在を知るからこそ、スルスルスルスル、すくすくすくすくと人びとは成長していくことができるのです。


4.恐竜の時代をふり返る


大昔には天と地というものがほとんどくっついていて、そうしてもうすこしで人びとが押しつぶされそうに見えた時があったと言われています。みなさんは今、大空が自分たちの上に広がっていると考えておられるかもしれませんが、かつての時代のなかにはいろいろな時があったのです。

今から三億年あまり、あるいは二億五千万年あまり前のころ、このころには地上には恐竜というものが徘徊(はいかい)しておりました。全長十五メートルとか二十メートル、大きいものになれば三十メートル四十メートルという巨大な恐竜がおりました。

このころ地上で、人びとはどういう世界を見ていたか、あなた方はごぞんじでしょうか。この恐竜が死に絶える前の時代、そして死に絶えつつある時代に、どういう世界を人びとが見ていたのか、あなた方はごぞんじでしょうか。

恐竜たちが死に絶えたのは、おそらく今から一億年あまり前です。そのころまでは恐竜全盛期であったのです。そのころの世界がいったいどうであったか。それをもう少し語ってみて、原点に返ってみたいと思います。

この恐竜が全盛を極め、そして滅びていく時代、この地球という星はたいへん地殻変動が激しかったのです。地震は日常茶飯事のごとく起き、あちこちで火山の爆発がありました。今はおとなしくなっている山々が、その時代には至る所で火を吹いていたのです。そして火山の爆発と連動して海底でも火山がひんぱんに活動して海の温度自体もひじょうに高かったのです。現代よりもはるかに高く、火山の近くの海であれば、もう沸騰しているに近い、そうした海もありました。海底から溶岩が噴き出していたからです。

少し遠ざかった所では温度もいくらか下がりましたが、全体としてひじょうに温かい水温であって、そこには現在とはまったく違った種類の生き物が棲んでおりました。

そしてこのころの空はどうであったかと言うと、火山の爆発ということが至る所でありましたから、この火山から舞い上がる煤煙(ばいえん)、噴火にともなうさまざまな噴出物、こうしたものが空を埋め尽くしていました。したがって空のあちこちが火事のごとく焼けており、大空全体が黒雲で覆われているような状態が多かったのです。

ある地域では、ほんとうに天が低く見えた所もあります。火山から流れ出す、このさまざまなガス、これが空を覆って、大空というものはわずか百メートルもないように見えた地域も実際にあるのです。こうした世界の中で人びとが生きていたこともあるのです。

あなた方は今想像してみてください。百メートルの高さであれば、あちこちにある高層ビルの高さです。あるいはそれより低いでしょう。その高さに、もし空があったとしたならば、雲があったとしたならば、どういうふうな世界が展開されているでしょうか。

太陽はつねに薄日を射している。そして太陽は黄色い太陽です。あるいは赤茶けた太陽であり、あのような澄みきった太陽ではありません。また大地は黒くなり、海面から熱湯が吹き出し、泡が沸き、そして不気味な湯煙が海面全体にたちこめている。― こういう世界に生きているとしたらどう思うでしょうか。

しかし恐竜たちにとっては、こういう世界はわりあいに棲みやすかったのです。なぜかと言うと海が温かかったことが幸いして、さまざまな生き物が繁殖していたのです。海において生き物が繁殖していたこと、その地熱によって植物もまた、現在とは違う形で生い茂っていたこと、こうしたことによって彼らはひじょうに生きやすかったのです。

特に海に食物が多かったことは幸いしました。身体の大きな彼らは大量の食物がなければ生きていくことができなかったからです。

しかしそれにひき比べ人間の心はいつもいつも冴えませんでした。低く雲がたれこめた空と、何十メートルもある巨大怪獣がいつ住処(すみか)を襲ってくるかもしれない、という不安と恐怖心です。そうしたなかで生きていたこともあったのです。

その時代から比べたとするならば、この近・現代という時代はいかほど住みやすい時代であるか。人間を襲うものは、もはや人間以外にはない時代です。他の動物が人間を襲うということもありません。空は自由自在、海も自由自在です。

かつて繁栄した恐竜たちも、海が冷えていくことによって食物が失われていき、そして続々と食料危機で死に絶えていきましたが、まだ現在の地上では、一部の地域では飢え死にしている人も数多いのですが、他の地域ではそれほど心配ではありません。

こうしてあなた方が生きている時代は、そうした先祖たちが苦労した恐竜の時代に比べれば、どれほど繁栄発展しているかおわかりでしょうか。こうした時代に生きておりながら、そして自分たちがどのようにすさんだ心で生きているか、これがおわかりでしょうか。また全地球的な観点に立ってわかりえる、そういう世界であるにもかかわらず、小さな世界のなかに閉じこもって利害対立している、そういう自分たちの哀れな姿がわかるでしょうか。


5.危機を超えてこそ


私が言いたいことはこういうことです。時代と環境は変化していくかもしれせんが、いちばんたいせつなことは、その時代時代のなかにおいて。ユートピアを創っていくことだということです。今あなた方は恐竜と戦う必要はありません。恐竜と戦う代わりに仮想敵国の軍隊と戦ったり、また自分の商売相手と経済的な戦いをしています。こういう時代です。

時代背景は変わり人の心は変われども、しかしそのなかに、変わらざるものがあるはずです。それは危機というものに対して人間が知恵をめぐらして一つになり、そして生きていこうとする。こういう人間の努力があるのです。これがユートピアの原点であったと思います。

さまざまな人類史上の危機はありましたが、その危機その危機のなかですべてが悪くなったわけではなく、人びとは一致団結し愛の力を強めてきたのです。

愛の力というものは実在界だけにあるものではなく、地上の人間が体験をくり返すことによって初めて確固とした存在として現われてきたのです。

私はこのキリスト教の大改革という章において、もう一度人間の原点を探ってほしいと思うのです。その原点は結局、多くの人びとがこの地球という星に住みついて、そしていかに幸せに生きていくかを工夫してきた、そうした人類の歴史があったということです。

なれば今もまた、そうした生き方ができるのではないか。現代の恐竜は私たちの生み出した文明そのものであるかもしれません。文明そのものが人間を支配し、迫害し、追い詰めているかもしれません。文明そのものがストレスを起こし、人間を殺そうとしているのかもしれません。

こうした時にもう一度恐竜に立ち向かった時に協力し合ったように、あなた方も手を取り合って、そしてなかよく生きていきなさい。愛の時代を切り開いてゆきなさい。私は強く強くそのように思います。