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目次












1.みずからの教えを霊言で修正できるという幸福


さて、きょうは、「幸福への道標」という題を選んでみました。

まあ幸福への道標というと、まるで高校三年生の卒業論文集みたいで、えーちょっとね、少女っぼいなあーなんてね、言うかたもいらっしやるかもしれません。

けれどもね、幸福への道標というものは何歳になってもやっぱりだいじなことだし、あの世に還ってもだいじなことなんですよ。

みなさん、幸福っていうのは地上だけにあると思っていますか。そんなことないんですね。私にだって幸福はあるんですよ。

あの世に還って、十年と何か月になりましたけれど、私にだってあの世の幸福はあるんです。まあ還暦が来ましたから、還暦の祝いをやってもらえるとか、まあそういう幸福っていうのではないんですけれどもね。やっぱり幸福はあるんです。

まあ現在の私のいちばんの幸福はなにかというと、地上のみなさんにこういうように霊言を送れること。これが最大の幸福なんです。

ちょうどいまから十年余り前、一九七六年の六月二十五日でしょうかね、十時五十分ぐらいだったな、ぐらいに地上を去ったかなと思うんですね。まあそのころ、十一時ごろだったかな、まあはっきりしないけれどもね。だったと思いますけれども、それからもう十年余り十一年近い月日が流れました。

この間、私の自己実現というのはいったいなんだったかというと、私の自己実現というのはようするに、私がこちらの世界に来て、こういうことを思っておるということをね、地上の人たちに言いたいと。

その日が早くこないか、このことで悶々(もんもん)と夜も眠れない。夜がないんだけれども、まあ夜もないし布団もないんだけれども、悶々と夜も眠れないような毎日だったわけです。

ところが、霊言を世に問い始めることができて、まことに私は幸せであります。

いま、私はほんとうに、ふかふかの、なんといいますかね、綿がいっぱい詰まった、いいお布団でね、ラクダの毛布を被(かぶ)って寝ている気持ちです。

電気毛布なんかも最近は温度が七段階にもなっていて、暖かくなって七段階の電気では、やっぱり「1」か「2」の電気にしておかないと、もう暖ったかくてね。「3」にしたら、もう夜中に喉(のど)が渇いちやってダメなんですけれども、そういう季節になりました。

まあそういうようにぐっすりと寝れるということですね。やっぱりこんなにうれしいことはありません。

それでね、地上のみなさんは、大川さんを初め、幸福の科学のみなさんとか、出版社のみなさんとかには、ご無理をお願いしとるんですけれども、やはり私もね、人間としての意識を持っている霊なんでしょうかね。霊人である以上、やはりみずからの幸福も追求しておるわけですね。

ですから世のひとびとに霊言を問うことが、これが私の幸福の追求です。

ですから幸福への道標っていうのはなにかというと、道標っていうのはかんたんなことです。

私の生前説いた教えのまちがいを正して、そしていままちがった教えを受けて、あっ、まちがった教えじやないですね、教えは正しがったんだけれども、その正しかった教えをまちかっかように伝えておる弟子たち、その他の者たちの心を正して、またひとつに神理の下に結集させたいということですね。

これが私の目標なわけです。そのためにいくつかの段階を私は考えています。

まずこういうふうになったらうれしいなあっていうのはね、まず最初は私の霊言集を世に問えたらうれしいなあっていう段階がありました。これはやり遂(と)げました。

このつぎは、この霊言集をいろんな人が読んでくれるとうれしいなあと思いました。だいぶ気づいてくれた人がいます。

けれどもまだつぎの段階がありますね。まだ頑迷に気づいてくれない人がいます。こういう人たちもなんとかして気づかしてやりたいなあという気持ちですね。それと、もっともっと広げたいなあという気持ち、これがつぎの段階であります。


2.化石化したモーゼの教えがイエスを十字架にかけた


私は昔、生前ずいぶん説きました。イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかかった理由はなにか、ほんとうの理由はいったいなにか、ということをずいぶん言ったことがあります。

そのほんとうの理由というのは、化石化したモーゼの教えですね、イエス・キリスト生誕の千年余り前の、モーゼの十戒。そして律法。これが千年後のイエスを十字架にかけるきっかけとなったわけですね。

かつてモーゼを神格化して、その教えを金科玉条のごとく守って、一言なりともまちがって解釈してはならぬと、このとおり行なわなければならないと狂信、盲信した人たちが、やがて救世主イエス・キリストを十字架にかけることになりました。

私はこのことをずいぶんくちを酸っぱくしていったはずです。

で、たとえばどうやってイエスが十字架にかかったかというと、モーゼの教えのなかで一週間は七日にして日曜日は休みなさいという教えがありますね。ところがそれを律法学者たちは「日曜日は休まねばならぬ。」というようにこれを強制しました。

なぜならモーゼは神の代理人であり、神の代理人であるモーゼが書き残した十戒のなかに書いてあるから、それを守らんというのは悪人である。それを守らん人は地獄に堕(お)ちるんだ。だからそういう人を地獄に堕とさないようにするためには、これを強制的に守らせればいかんと。

ところがどうだ、最近の新興宗教のイエス軍団とかいうのは。いつも十人ぐらい弟子をつれて、テコテコ歩いているけれども、日曜日に病人治したり、日曜日に麦の穂をつんだり、勝手なことをやっておるじやないか。そしてあまつさえ、私たちがそのことを注意すると、言い返す。イエスなんてほんとうに言い返す男だ。

「じゃあおまえたちにきくが、日曜日に、ようするに安息日に、羊が穴のなかに落ち込んだら、おまえたちそれを救わんか。引き上げるではないか。なのになぜ人の子が、日曜日に病人を治したら、それをいけないことだというのか。神は天地創造のときから、人間にたいして、それを導こうという手をいまだかつて一度だって休めたことはない。天にある神は、いつも休むことなく与えておる。それにもかかわらず、地上におるおまえたちが勝手なことを考えて、この日は働いてはならぬとか、この日は聖なる御業(みわざ)をしてはいかぬとか、とんでもないまちがいである。」こういうことを言いましたね、イエス様は。

それはそうなんですよ、みなさんね。私見たってわかるでしょう。この忙しさ。つぎからつぎへと霊言を送ってね。もうその霊言を起こす片っ端からね、清書にまわる前に、もうつぎの霊言をやりたいと。もう私は五章、十章やりたくてしょうがないんですから。

こんなのにね、日曜日もないんです。土曜も日曜も私はないんです。もう天地創造のときから一九八七年の二月十四日のバレンタインデーまで、私は働きどおしなんです。休んだときがありません。

ですから、もちろん地上に出ているみなさんがね、土曜であろうが日曜日であろうが、それは一生懸命仕事するのは当然のことです。

ましてや神理伝道のためにね、一生懸命お仕事されたり、あるいは神理の唱導の道を歩まれたりするのは、あったり前のことです。私たちも夜も昼もなく働いとるんです。そういうことなんですよね。ところが、そういうふうなモーゼの教えが化石化して、イエスを殺すことになってきました。


3.ゾロアスタター教を排撃するキリスト教徒たち


あるいは東洋でも同じことがありました。まあブッタの前でいうと、ゾロアスターという人がかつてペルシャに出たことがありますね。紀元前ですけれども。

そして善悪の二元論ということを説きました。ゾロアスターという人はもちろん偉い人だったんです。

けれども、生きている人間にね、やはり、あまりむずかしいことをいってもわからんから、とりあえず、あなたがたは善悪ということをまず知りなさい。この世の人間の思いと行ないのなかには、やはり善なるものと悪なるものがある。どちらが善でどちらが悪かということをまず見きわめなさい。

これを知るということが、知識ということですよ。善悪を分けることが知恵ですよ。

そういうことをゾロアスターは教えました。

そのゾロアスターをペルシャの地において指導したのはだれかというと、これがアフラ・マツダ、オーラ・マツダといいます。光の指導霊です。

オーラ・マツダとはいったいだれであるか。これはね、ガブリエルなんですね。大天使ガブリエルです。

これが、オーラ・マツダですけれども、そのオーラ・マツダを指導していたのはだれであったか。いや私であったとは言いません。私だって、そりゃ、多少は言っていますけれども、まああんまり偉そうに言うといけませんから控えます。

そのオーラ・マツダを指導しておったのはじつはイエス・キリストだったのですね。

イエス様がオーラ・マツダに、あるいはガブリエル大天使に指導して、ガブリエルが地上に降りたペルシャのゾロアスターに霊言をしました。

ゾロアスターはちょうどいまの大川さんのように、私たちの霊言を受けたわけです。そして善悪の二元論を説きました。

人間はまず知恵をつけるところから始めなさい。その知恵とは善悪のちがいを知ることですよ。

そこういうことをゾロアスターは教えましたね。

ところがその教えがやがて流れていきまして、まあイスラムの地にいくと、これは異教徒ということになりますね。異教徒ということで、ユダヤ教から排撃を受ける。

あるいはイエス様のあとの教えをくんだお弟子さんたち、キリスト教の一神教を信じる人たちは、これをまた排撃していきます。そうしたものはまちがいだと、異教だということになります。


4.化石化した拝火教が初期の釈迦を排撃する


ところが、このゾロアスターの教えがまた、ペルシャからパキスタンを通ってインドにはいってきます。

そしてインドにはいってきてこれが、拝火教の元祖になってきますね。拝火教の元祖になるんです。そしてゴーダマが生まれるちょっと前、インドでは拝火教というのがひじょうに盛んになりました。

ゾロアスターというのは善悪の二元論を説くとともに、同時に火を焚(た)いてね、まあ身を清めようということをやったんですね。

火というのはなにかというと、神聖なものであると。神のようするに光というのは、人間の目に見えるようには見えんけれども、たとえていえば、大きく燃え上がった松明(たいまつ)の火のように、ファイアーストームの火のように、ああいうふうに、力強く、暖かく、そしてひとびとを照らすものだ。力強く暖かく、ひとびとを照らすもの、それが神であり神の火である。

そういうことで火というものを、象徴としてひじょうに使ったのですね。

これはひとびとを導くためです。光ということを教えるために火を使ったわけです。

ところがその流れがインドにくると、インドではこんどは、これがたんなる拝火教になっちやって、火を見て拝んでおればいい。火を見たら頭下げとればいい。

あるいは火のなか潜(くぐ)ったりし始めますね、だんだん、馬鹿な人は。
あるいは薪に火をつけて、それを体に当ててみたり、あるいはコテみたいなものを真赤に焼いて、それを一生懸命身体に当ててみて、これでも俺は痛くない、痛くないって、やっていきます。こうして、ヨガの行者が出てくるのですね。

したがってヨガの源流っていうのは、ヨガでも、もちろん肉体行のヨガですけれども、源流っていうのは、じつはこのゾロアスター教にあって、ゾロアスター教がだんだんインドにはいってきて、インドで単なる拝火教になったときに、これが教えがちょっと変わってきたわけですね。

このときにインドにゴーダマ・ブッダが生まれました。紀元前六百年ごろです。そのころにゴーダマ・ブッダが生まれて、みなさん有名ですね、この話はね。

王宮のなかで二十九歳まで、思うがままの生活をし、歓楽のままに身をまかせ、栄華のままに生きておった。何不自由なく生きとった彼が、人生への疑問を抱いて、二十九歳のある夜、チュンダカの引きだした馬に乗って、カピラ・バーストを飛びだします。

そして森林のなかで、山野のなかで禅定し、悟りを求めます。

そしてゴーダマは自分ひとりで悟れないことに気づくと、いろんなところに教えを請いに行きます。

そして彼がいろんなところで教えを請うけれども、たとえばアララ・カラマという仙人がおります。あるいはアララ・カラマ以外にもね、まあいろんな仙人がいました。

当時有名な仙人がいて、そういうところの教えを請いに行ったんだけれども、彼らもまだ、その拝火教の流れを汲んでおって、やっぱり火はまだ神聖なもんだとかね、こういうことをやってました。

あるいはカシャパーの兄弟たち。カシャパーの三兄弟というのがおるんだけれどもね、ウルベラ・カシャパーを中心として三兄弟というのがおったけれども、こういうのがやっぱりちょっと拝火教をやっておりました。

火を焚いて、それにたいする信仰というのをやっておった。なんか知らんけれども、そういうのがだいじだということでやっていたわけですね。

ゴーダマはこんなところへ行ってみたけれども、その拝火教徒たち、火を囲んで修行している苦行僧たちを見てみると、霊視してみると、そのなかには、ドラゴンであるとか、なにか竜ですね。竜であるとか、あるいは蛇であるとか、いろんなものの霊体が見えました。

こんなものが飛んだり、跳ねたりしているようでは、こんなところでいったい苦行によってなんの修行の意味があるのか、こういうことを彼は悟りました。苦行のなかに神理なし、ということを悟った。

肉体行のなかにも、炎のなかを潜ったって神理はないんだということを彼は悟っていきましたね。

そういうことがありましたけれども、その初期のゴーダマ・ブック釈迦牟尼仏をようするに、排撃した者もまた拝火教徒であったということですね。拝火教の教徒たちは、昔のその神理でもって、ゴーダマを迫害しました。

「まちがっておる、苦行僧よ、汝は怯(ひる)んだか。ゴーダマよ、おまえは、この修行に恐れ、戦(おのの)いたか。臆病者だ、おまえは。」ずいぶんこういう言葉を投げかけられました。

「おまえはそんな女々(めめ)しい心でどうして悟れるか。やはりたとえ火のなか、水のなか、難行、苦行をやらずして悟れた人がいまだかつていたか。おまえは火が怖いんだろう。」そしてあざわらわれました。そこを去ったときにね。

こういうふうにかつての教えが化石化して、つぎつぎとのちの人たちを苦しめます。


5.化石化・哲学化した仏教と日本神道との抗争


またゴーダマが説いた仏教も、やがて中国に移って、哲学化し、そしてむずかしい漢文になったときにこれが化石化していきます。そして日本に輸入されてくると、わからないチンプンカンプンの漢文になってきました。

これを再興するためにいろんな光の天使たちが出たんだけれども、光の天使たちも地上に出てくると、その化石にやられてしまいます。

日蓮というような偉大な人が出ても、やはりやっぱりお経がいちばんだというんで、法華経なんかを一生懸命唱えてしまって、釈尊のほんとうの心というのは、お経のなかではなくてね、心と行ないのなかにあるということを教えるのがほんとうだったんだけれども、それがわからなくなってお経というもの、そのものがだいじなんだということで、どのお経が正しいかということで、他の宗派の人と争うようになってくる。

あるいは末流の仏教の人たちは、こんどはお経のなかでね、真宗だ、真言宗だ、あるいは日蓮宗だという争いはもとよりのこと、それ以外にキリスト教徒との争い、神道との争い、こういうこといっぱいありましたね。とくに日本では仏教と神道との争いがありました。

神道も大昔に、三千年近い昔に天之御中主之神、あるいは天照大神、伊邪那岐大神、こんなかたがいっぱい出られて、たいへんよい教えを、昔説かれたんだけれども、何千年もたって、それが衰えてきます。

そこで日本書紀、古事記なんかを編んで、日本神道の再興をはかりました。そして正しい教典を残そうとしたわけです。教えを編もうとしたわけですね、日本書紀、古事記というのは。

けれども、それでもほんとうの教えは伝わらなくて、物語だけが伝わって、ほんとうの神様の心というのが、わからなくなってくる。そして化石化していって、仏教とキリスト教とどっちが正しいかわかんないように、仏教と神道とどっちが正しいかわかんない。

それで江戸時代にまた神道の復興、復古神道をやり始めます。平田篤胤(ひらたあつたね)、本居宣長(もとおりのりなが)、こういう人をいっぱい出しますね。その後、近代にはいってくると黒住宗忠(くろずみむねただ)とか、あるいは金光教の教祖出したり、あるいは天理教の教祖を出します。

またそれ以外でも大本教の教祖、出ロ王仁三郎を出してくる。谷口雅春を出してくるということで、明治の前の、江戸時代末期ぐらいから、ずいぶん復興の動きが急なわけでありました。

また、こうした神道の復興のかげには、仏教徒にたいしては、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)とかいうのがあって、明治時代に、これもたいへんでした。

そういうふうに本来の高級霊たちの教えが、やがて時代が下るにつれて、化石化し、そして、のちの新しい教えを排撃してくるというのが流れでありました。


6.死後十年、早くも化石化してきたわが教え


たとえば私の教えのいちばん大きなまちがい、これははっきり言っておきたいんだけれども、私はずいぶんあの世の段階諭を説きました。

悟りに差があるということを言いました。これはだいじなことです。じっさいそのとおりなのですね。あの世では霊界の差があります。霊層があります。

けれども、これをたんなる、上下観でもってとらえてはならんのです。これはまちがっておるんです。

神界の人よりは菩薩界の人が上だから、神界の人はいつも菩薩界の人にはいつくばってですね「ああおおせのとおりです。」と言っているかどうか。あるいは菩薩界の人が如来界の人の意見を丸ごと信じとるかどうか。あの世では、そういうことはありません。ないんです。

やはり、それぞれの人間が尊重されとるんです。個性としてね。ただ霊格の高い人というんで一目はおかれています。けれどもその人の意見ぜんぶ聞くかというと、そんなことはないんです。

こういうふうに、やはりひとりひとり、神の子であるというのは徹底しているのですね。光の量はもちろん違うんですけれども、神の子としての尊厳ということでみんないっしょなんです。どんな指導霊であってもみんないっしょです。

そりゃあお釈迦様は偉いだろうけれど、お釈迦様だって、あるいは、ひとりの菩薩に対して、じゃあ奴隷みたいに使うかというと、そんなことないんです。ちゃんと相手をやはり尊重して、やるようになっとるわけです。

イエス様もそうです。かつてのお弟子に、雑巾がけしろというかというと、そんなことないわけですね。もちろん相手の人格を尊重しとるわけです。
こういうふうに、上下観というのはないことはないんだけれども、それをもって、まるでヒットラーの独裁のように、そう考えちゃあいかんのです。だから私の流れを汲んでおるものも、それをまず誤解しちゃあいかん。

だから高橋信次だけが偉いとか、あるいはミカエルというものがおって、その意見は全知全能でね、天上界の頭脳なんだから、その意見をぜんぶ聞かにゃあいかんだとか、こんなことを言うのはみなまちがっとるのです。

あの世の世界というのは、みんな民主主義なんです。それぞれの人がみんないいこと言っておるのですね。そして、それぞれの意見がみんな尊重されとるんですね。そして、みんなの意見がまとまったらね、いちばんいいのが取られるのが、あの世の世界なんです。


7.魂系団についてのわが教えの不足


またあの世でもいろんな指導霊たちがいます。

九次元の世界にも、私以外にも、たとえばモーゼもいますし、キリストもいますし、孔子様もいます。あるいはゼウスという人もいます。

こういう人たちは、それぞれ独立して偉いんです。で自分の魂の系団をみんな持っておるんですね。下に魂系団を持っておるから、こういう魂系団の最高責任者なんです、それぞれが。

で、その魂系団について他の人が、文句は言えんのです。ゼウスの魂系団については孔子様も文句は言えんのです。孔子様の魂系団についてはイエス様も文句は言えんのです。

こういうようになっておっておたがいに独立した自治が認められとるのです。そしてトップどうしが合議しながら決めておるのですね。

九次元世界にも十人おりますけれども、この間でもやはり合議をやって、役割分担を決めておるのです。ときどきに変わるんです。そうしたもんなんです。

けれども、こうしたことを私はしっかり説かなかった。

そのためたとえば、いま、大川さんからがこういうように霊言集をどんどん出していって、あの世の階層のことをいろいろ教えたり、あるいは、いろんな霊系団があるということを教えても、私の教えを汲んだ者たちがね、「たしか高橋信次は、そんなことを言わなかった。高橋信次は九次元にはモーゼ、イエス、ブッタしかおらんと、言っておる。その上に、特大の大福餅みたいな高橋信次がおるということになった。それなのにおかしい。孔子様が出てきたり、あるいはゼウスが出てきたり、なんかゾロアスターが出てきたりして、そりゃあおかしいんではないか。」 ってね、そう思っておる人がいます。

そりゃあね、そういうふうに金科玉条のように思ったらいけないんです。説き尽くせないんですね。だれも説き尽くせる人がいないんです。やはり自分がわかる範囲までしか言えないんです。それ以上のことが出てくることがあるんですね。

それをわずか十年そこそこでね、私が説いた教えが原因で、あとから出てきた新しいほんとうの教えがちがってるなんていわれたら、たいへん困っちゃいます。だからそういう危険もあって、私はこういう霊言もしとるのですけれどもね。

これが私の幸福への道標なのです。


8.人生のほんとうの目的を知ることが、幸福への手がかり


しかし、この私の幸福への道標は、ひるがえって考えれば、地上の人たちにとっても同じことなんですね。地上の人たちの幸福への道標っていったいなんでしょう。

それは自分たちの人生のほんとうの目的というのを知るということですね。自分たちの人生のほんとうの目的、修行の目的を知るということです。

そして修行の目的を知るということは、とりもなおさず、あの世の世界のしくみを知り、あの世の世界の計画を知り、なんのために魂が転生輪廻するのかということを知るということです。これがだいじなことですね。

すなわち私たちが、こちらの世界において努力目標としておることは、地上の人たちもまた努力目標にしていただいていいことなのです。私たちも日夜、努力しておるんですから、同じことなんですね。

じゃあ私のこちらでの目標はなにかというと、けっきょくひとりでも多くの人に神理を知らせたい。知ってほしい。そしてひとりでも多くの迷える人を救いたい、というのが私の気持ちです。

ところがこれが高橋信次だけの幸福への道標かといったら、そんなことないはずです。絶対ないです。やはり地上にいるみなさんがたも同じです。同じ目的を持っとるはずです。

そうすると地上のみなさんがたの幸福への道標、つまり標識、これはどこにあるかというとね、その一里塚というのはけっきょく、人生のどの段階にどういうふうに多くの人に影響を与えて、そして救ってきたかということです。

人生というのは一里塚が続いているような旅なんです。一里ごとに塚があります。そして、その一里塚が六十個、七十個続くと、そうするとあの世に行っちゃうわけですね、ポックリ行っちゃうわけですけれども。

その一里塚でね、人間というのは立ち止まってね。振り返らねばならぬ。その時に、自分の人生がまちがってないかと、もちろん点検するとともに、自分はいったいどれだけの人のために尽くしたか。いったいどれだけの人のために愛したか。いったいどれだけの人のために自分の身を投げだしたか。いったいどれだけの人に親切を与えたか。いったいどれだけの人たちを、ほんとうに心から導いていこうとしたか。こういうことを一里塚ごとに人間というのは点検せねばいかんのです。

これが道標です。

すなわち地上でね、立身出世するとか、大金儲けをするとか、いろんな目標がみなさんあるだろうけれども、そんな一里塚はほんものじゃないんです。

ほんものの一里塚というのはなにかというとね、けっきょく、その人生の過程、過程、段階、段階で、いったいあなたはどれだけの人を救いましたかということです。いったいどれだけの人を目覚めさせましたか。いったいどれだけの人を神理に導きましたか。こういうことなんですよ。これ以外にないんです。

これが神が創られた永遠の世界だったんです。


9.神理を「知り」、「教え」、「救う」という目的・手段・結果の三つがそろって幸福への道標となる


ですから地上にいる人たちはね、やはりね、いろんな目標があるでしょう。

課長になりたい、部長になりたい。役員になりたい。あるいは大会社にしたい。あるいは結婚したい。お金を一億円貯めたい。大邸宅に往みたい。いろいろあるけれども、それが最終の目標では絶対ありません。幸福への道標ではありえないのです。

幸福への道標というのは、やはり神理を知って、その神理を伝えて、ひとりでも多くの人を、どれだけ救ったかということです。その段階なんです。

自分がどれだけ神理を知ったか、どれだけそれを教えたか、教えてどれだけ人を救ったか、この三つの基準です。知ったか、教えたか、救ったか。知ったかというのは目的です。そして教えたかは手段。救ったかというのは結果です。

この目的、手段、結果、この三つがそろって、幸福への道標っていうのができあがるのです。これ以外に、ほんとうの人間の生きかたっていうのはないんです。

ですからみなさん、この世的に成功したとか、大成したとか、もう俺は満足だといっている人はいっぱいおるだろう。しかし、棺桶(かんおけ)にはいるにはまだ旱い。どうですかね、その三つの基準でどうですか、神理をどれだけ知ったか、学んだか、どれだけそれを教えたか、どれだけそれで人を救ったか、結果として。

この基準でいったときにだれが満足できますかね、いったいね。私でさえ満足できない。イエス様だってできない。モーゼだってできない。ブッダだってできなかったのです。だから永遠に満足っていうことはありえないんです。

まあそういうような幸福への道標というのがあるから、みなさんは、地上のみなさんは、これをしっかりと、握ってね、そして、ほんものを目指していただきたい。そして、その幸福というのはけっきょく神様の代理人としての幸福ということに、やがてひとびとは気づかれることでしょう。

神様とともに幸福をわかち合う、そういうのが人間としての最高の幸福なんです。神とともに道を歩み、神とともにわかち合う、喜びをわかち合う、神とともに喜びをわかち合う、それがほんとうの人間の幸福です。

まあ、その幸福の意味をしっかりと味わってほしいと思います。きょうは以上です。