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目次



 3.原罪論





1.ユートピアとは


みなさん、高橋信次です。こんにちは、久しぶりですねえ。また私の本が出来ることになりました。今回はね、「ユートピア」ということについて考えてみたいと思うんですね。

まあ、ユートピアなんて言うと、「あまっちょろいなあー」なんて言う人もいると思います。なかにはねえ、そんなへそ曲がりっていうのはいつの時代にもいるもんですから、ユートピアなんて言うと、「あまっちょろいなあー」「生ぬるい」って、まあこういう方もいらっしゃるでしょう。特に、禅宗なんかやった人から見れば、「ユートピアなんてとんでもない。修行というのは厳しいもんだ。徹底的に自分を、修行して、苦しめ抜いて、頑張らにゃあいかんのだ」、ま、こういうことを考えとる人もいるでしょう。おそらくそうでしょう。

キリスト教の方でも、「ユートピア? とんでもありません。神のひとり子として、イエス様が降りられた。そのイエス様が十字架に架けられて、あれほどお苦しみになられたのです。身を捨ててこそのユートピアです」、つまり自分の犠牲ですね。自己犠牲になって、自己犠牲のもとに世の中がよくなるんである。自分も捨てれば、そこにユートピアが拓(ひら)ける。ま、こんなふうに考える人もなかにはいるかも知れません。

まあ、私はどっちも真実だとは思ってませんね。「真理は中程にあり」というのがやはり本当じゃあないでしょうかね。やっぱりねえ、みなさん、ユートピアっていうのはそんな悲痛なもんじゃないと思うんです。そんなね、何と言いますかねえ、片意地張ったというか、ねえ、恐い顔してね、「これぞユートピア!」って言うようなもんでもないし、それをまったく無視してユートピアが拓けるものでもない。やはりね、人間の営みのなかで、努力があるんではないのか。努力があって、ユートピアというのがあるんではないのか。ま、そういうふうに感じます。

で、そもそもね、ユートピアとは一体何なのかと、ま、こういう考え方、これも大事でしょう。読者のみなさんのうちで、ユートピアについて深く考えたことがある人、一体どれだけいるでしょうか。言葉は知ってるけれども、考えたことないと思うし、ユートピアというと理想郷(りそうきょう)、桃源郷(とうげんきょう)、そんな夢の世界のように思っているかも知れないね。実際にはない。けれども夢のなかにはある。こういうふうに考えているかも知れない。

ライオンは昼寝をし、羊は草を食(は)むと、ま、こういう理想郷が本当に出て来るんだろうか。すべての人間が慈(いつく)しみ合い、愛し合い、そしてお互いに善きことのみを言い合うような、誉め合うような、そういう美しい世界というのが本当にあるんだろうか。ま、こういうことをいろいろと考えてみても、なかなか現実性がないように思う。ただ、理想的な姿として、そういう世界もあっても良いかなあ、とは思うわけですね。

ところが、こうした、私たちが、夢、幻の如く考えているユートピアというのは、これは実際にある世界なんですね。で、どこにあるかって言うと、この地上を遥(はる)かに去った高次元世界、多次元世界のなかに、現にあるんです。昔から、仏様の世界とかね、金剛界(こんごうかい)とか胎蔵界(たいぞうかい)とか、まあ曼陀羅(まんだら)なんかでよくありますが、ああいう世界で言われているような世界、あるんです。現実にあるんです。そして、そうした実在世界においては、人びとは本当に心から調和し、お互いに尊敬し合い、お互いに慈しみ合い、愛し合っているんです。そんな世界が、現にあるんです。本当にあるんです。みなさん冗談かと思ってるかも知れないけれど、本当にあるんですよ。

地上ではあなたね、お金払わなきゃご飯も食べさしてもらえないし、お金払わなきゃ、あなた、映画も観れないし、ね、給料貰(もら)ってこなきゃ、カアちゃんだって文句言って許してくれない。ま、こういう世界ですが、そうしたあの世にあるユートピアの世界においては、お金なんか一文も要りません。お金なんか要求する人いません。みんなね、善意です。善意で他人に対してサービスをし、奉仕し、それを生き甲斐としてるような人たちばっかりです。そして、一円も要求いたしません。

そして、そこにいる人たちは、心は調和されきれいです。他人のことを悪く思うような人はいません。また、他人に悪口を言ったり、他人から批判を受けたり、こういうこともありません。みんな安らいだ世界です。心が安らいで、お互いに本当に神の子として、長所を伸ばし合っているような世界、そういう世界が現にあります。そして、争いは一切ありません。こんな世界が実在界に本当にあるのです。

なのになぜ、この地上ばかりに、こんな苦しい世界が広がっているんでしょうか。こんな苦しい、娑婆(しゃば)と言われるような、こういう苦界浄土(くかいじょうど)があるんでしょうか。ま、こうしたことに対して、大いなる疑問を持たねばならない。そしてこの三次元世界だけを見ていると、「本当に神はいるんだろうか。神なんていないんじゃないか。いるのはおカミさんだけなんじゃないか」。ま、こういうふうに思う人が数多くいるわけであります。

神がいないというのは、「あまりにもこの世に悪が満ち満ちている。この世の悪というのはとても我慢できない」、他人を見ても、「本当に神の子なんだろうか」、あるいは「仏の子なんだろうか。ちょっと信じられない」、ま、こういうふうに思う人がいるということですね。

ただ、やはり、この地上を去った世界に、現実にそうしたユートピア世界があるということは、この地上にもそうしたユートピア世界を持ち来たらすことは、可能であるということが、考えられるわけです。本来、そうした世界があって、そこに往んでいた住人たちが地上に出て来ることがあるという以上、この地上をも、そのようなユートピア世界に変えていくことはできるはずです。そうした理想郷に変えていくことはできるはずです。これをできると考えるか、考えないか。ここが、最初の出発点の分かれ目となるわけです。

私は、天上界に、現にユートピアというものがある以上、地上にもそうしたユートピアをつくることは可能である、そう思っていますし、現実にそれは私たちの努力によって、そうした世界が拓けていくものと信じています。ユートピアというのはどこにも無い世界のことではありません。現にあるのです。あるけれども、今、地上界に、それが無きかの如き景観が現れているだけなんです。それは、私たちの努力の積み重ねによって、やがて取り戻してゆかねばならぬ、地上の楽園でもあるということです。


2.かつてのエデンの園


さて、こうした地上の楽園という話をすると、かつてのエデンの園について、どうしても語らざるを得ないと思います。今、地上ではエデンの園と言いますか、楽園というと、ハワイであるとか、そうした南方の地方のことを言うことがよくあるように思いますが、そうした現在の地上の観光地のことではなくて、かつてエデンの園があったと言われています。それが本当にあったのか。それは単なる神話なのか。これについて考えてみたいと思います。

確かに、キリスト教などは二千年ぐらいの宗教であるし、その前の旧約聖書の時代と言っても、わずか三千年、四千年の歴史しか持っていない。にもかかわらず、人類にはかつてエデンの園があったということが、どうしてわかるのか、という観点があるだろうと思います。

実際に、私が霊言集のなかで、霊示集のなかで、何度も何度も話をしてきましたように、人類の歴史というものは、現在人びとが信じているような、わすか数千年とか数万年とかいうような、こんな狭い歴史観ではないんです。こんな短い時間の間に、人類が生きてきたんではないんです。人類は、実は今から三億数千万年前に、円盤によって肉体舟と共に渡って来たものです。そして、その円盤は約六千万人の人類を運んで来ました。そうした進んだ人たちが、他の星から円盤によって地球に移って来たのです。そうして、最初にエジプト、現在のエジプトのナイル渓谷のほとりに、この六千万人の人たちが、大船団、円盤による大船団によって降りていきました。こうして、地上に住み始めることとなるわけです。

かつての母星というのは、地球と環境的には非常に似ています。陸地と海との比率は随分違いますが、そうしたことを除けば環境的には非常に近いところでありますし、そうした環境的に近いということを十分に調査した上で、人びとは地上に降り立ったのです。そうして、現在のナイル渓谷、ここに降り立った人たちは、ここに最初のエデンの園をつくっていったわけであります。

この最初のエデンの園、ナイル渓谷にあったエデンの園とは、現在のような砂漠地帯ではありませんでした。このナイルの地域、これは非常に肥沃な土地であって、随分草木が茂り、穀物がたわわに実るような、いわゆるカナンの地のような、乳と蜜が流れるような、そうした美しい、そして肥沃な土壌でありました。ここで最初の人たちが、約六千万人の人たちが、都市を建設していったわけです。円盤で持ってきた機材、それと地球起源の物、地球の石であるとか、あるいは粘土であるとか、あるいは木であるとか、こうしたものを集めて、そしていろんな施設を造っていったのです。

この時には、現在のエジプト地方というものも、ああした砂漠地帯ではなくて、温暖な地域でした。温暖な地域であり、気候的には現在の日本とよく似たような、そうした気候であって、四季もありました。こうしたところに、人びとは大変な憧(あこが)れを持って住んだのです。

こうして最初に来た円盤隊のなかで、その隊長をしていた人たちが指導者となって、人びとを住まわせ、村を造っていったのです。この最初の村長(むらおさ)、村長(そんちょう)さんと言ってもいいし、町長さんと言ってもいいですが、こうした方々が、やがて地上を去って光の天使となって、あるいは光の指導霊と言われる方々となって、天上界に還(かえ)っていくわけであります。

この時に最初の勲章として、神より、人びとは、こうした光の天使たちは、「エル」という称号を受けることになりました。私の名が「エル・ランティー」という名前で呼ばれていますが、この「エル」というのは「神の光」という意味です。この神の光という意味を持ってきて、「ミカ・エル」であるとか、「ガブリ・エル」であるとか、「ウリ・エル」であるとか、「サリ・エル」であるとか、「パヌ・エル」であるとか、こうした「エル」という名が付いた人が次つぎと出て来ました。ミカエルはもともと「ミカ」という名前で呼ばれていました。この時に、最初のエデンの園を造った功績により「エル」の称号を与えられ、「ミカ・エル」と呼ばれるようになったのです。他の者たちも同じです。こうした時が、はっきりと人類の基礎にあったわけであります。

すなわち、私たちの最初のエデン、最初のユートピアは非常に調和された世界であった。そこからスタートしているということを知らねばなりません。私たちが、闘争と殺戮(さつりく)の世界のなかから現代の文明を創ってきたのではないのです。もともと高度に発達した文明社会のなかで、高度に発達した人びとが、調和ある姿を創っていた。そこは非常によく統制がとれ、人びとの心は調和されていました。そうした世界であったのです。

この頃はまだ、人びとも心の窓は開いていて、地上に初めて住んだ人が、地上を去って霊天上界に還っても、天上界に還った人びとと地上の人たちとは話をすることも可能でありました。交信することは可能であったのです。そうした世界でありました。そして天上界に還った方々は、また、地上における霊域において、地上の霊域のなかで、まだ固まっていなかった地上霊界において、また天上界でも想念の力によって、さまざまな世界を創っていきました。これが天国の始まりです。

したがって、かつての地上におけるエデンとは、ナイル渓谷のほとりにあった地上エデンで、それをモデルとして天上界に創っていった、いわゆる菩薩界(ぼさつかい)、如来界(にょらいかい)の世界、こうした世界があったわけです。今、菩薩界や如来界にも、人間的感覚に訴えるならばそれなりの、やはり町であるとか村であるとかがあります。過ごしやすい風景があります。こうした世界は、実際上は想念の世界でありますが、そうした世界が厳然としてあるように見えるということは、これはかつてのエデンの記憶を、地上にあったユートピアの記憶を、地上を去った人びとが天上界に持ち来たらし、そこで創ったということです。

したがって、現在の菩薩界や如来界にある姿は、かつて地上で、私たちが満喫していたエデンの生活そのものであるのです。そのコピー版として、そうした生活が残っているのです。これをまた、光の天使たちが数限りなく地上に転生して来て、かつてのエデンの園とは何であったのかということを、人びとに教えんとしているのです。

このエデンの園の規則、ルール、教え、これが実は「正法神理」の本家本元であったということです。このなかに正法の種が、神理の種があったのです。この最初の六千万人の人びとが調和された理想的な環境を造って、心調和した人びとが生きていた。この事実が、やがて「正法神理」と言われるものとなって、後の世に残ってゆくのです。

しかし、地上に住む人びとの数が次第に増え、そうしていろんな国が発達していくにつれて、この「正法神理」もさまざまなかたちで歪曲(わいきょく)され、変更されていくようになりました。こうして、光の天使たちの涙ぐましい努力が始まっていくわけです。


3.原罪論


さて、エデンの園の話をしたら、どうしても原罪の話というものを、やらざるを得ません。原罪というものの話、人間に、もともと罪があったかどうか、「オリジナル・シン」って英語では言うんですね。このオリジナル・シンの問題、これを語らざるを得んのです。

これは何かって言うと、アダムとエバの話ですね。アダムとエバ、人類の始祖と言われたこの二人が、実は、神から食べることを禁じられていた「禁断の木の実」、この知恵の木の実を食べたために、エデンの園を追放されたという逸話が残っています。そして、アダムとエバを誘惑したのが、ヘビであると言われています。ずる賢いヘビ、これは、サタンの象徴であると言われています。このサタンの象徴であるヘビの誘惑によって、彼らは欲望を募らせ、その知恵の木の実を食べたために、エデンの園を追われたと言われています。

これは何かと言うと、知恵の木の実をなぜ食べたかと言うと、そのサタンであるヘビから唆(そそのか)された言葉は、「全知全能になれる」というわけです。「全知全能の神のようにあなた方はなれるから、その木の実を食べなさい。そうすれば素晴らしくなれる」、こういう唆しを受けたわけです。ま、これについては、『高橋信次霊言集』のなかでも、かつて話したことが多少あると思います。

実際、ヘビによって騙(だま)されたかどうかということですが、ま、そうしたことがあったわけではありませんが、ヘビというのはひとつの象徴であります。すなわち、地上生活が次第によくなってきた人間、この地上が魂の修行の場であるにもかかわらず、魂の修行の場としてのそのあリ方を忘れて、そうして、天上界よりもこの地上を愛する人びとが数多く出て、地上に執着する人びとが出てきた。その結果、ヘビの如く地面を愛する、すなわち、地面の上を四つ足ではなくて、這(は)って歩くような人間、つまりこれは、土地にとらわれた、物質に執着した人間の姿を表しているのです。物質欲、この地上への欲というものが募ってきて、やがて人びとは、「この地上こそがすべてだ」と思うようになってきました。これが、最初の原罪であったわけであります。

決して、アダムとエバが知恵の木の実を食べたことが、間違いのもとであったというわけではありません。そうではなくて、まず、この地上が、物質世界がすべてだと思い始めたということ。先祖たちは、確かに魂の世界を知っていて、「この世は仮の世界で、あの世こそ本当の世界だ」ということを、言っていたにもかかわらず、それを忘れて、人間が不老不死であるような錯覚に陥り、そしてこの地上で何とか生き易く生きてゆきたいと思い始めた。こうした思いが出たということを、「原罪」として話をしているわけであります。

もちろん、神というものはアダムとエバを追放するような、そんな心の狭い神ではありませんが、その「追放」というのは一体何を意味しているかと言うと、心調和された世界、すなわち、あの世の実相世界にある九次元とか、八次元とか、七次元とか言われているような、光の天使の世界、こうした菩薩界や如来界の世界、こうした世界に住めなくなった人間が、出てきたということです。

したがって、神話におけるエデンの園よりの追放というのは、実は地上のエデンからの追放ではなくて、天上界におけるこうした光の天使たちの世界、調和された世界からの追放を意味しているわけです。こうしてやがて、そうした調和された世界に還れない人たちが、低位霊界における磁場をつくっていったのです。これが地獄の始まりとなっていったわけであります。それは、心の世界というものは波長の世界であって、調和しない者同士が一緒に住むということはできないのです。

たとえばみなさんは、自分の心がガラス張りだと思っていたとして、自分のことを徹底的に憎んでいる人と、一緒に生活ができるでしょうか。同じ屋根の下に生活できるでしょうか。夫婦であって憎しみ合うということはいくらでもありますが、それにしても、肉体のなかに生きているということによって、お互いの心のなかがストレートには読めない、これが福音になっているわけです。お互いの心をストレートに読めないがゆえに、何とか我慢ができるということがあるわけなんですね。

ところが、それがガラス張りになってしまったらどうなるかと言うと、自分のことを悪く思っている人とは一緒に住めなくなります。これは当然のことです。お互いに、互いを愛し合っている人たち同士のなかにおいて、まったく違った心根を持った人が住めるかと言ったら、住めなくなるわけです。これは、羊の群れのなかに狼が住めないのと同じ原理です。羊たちが共に草を食み、仲良くしようとしているのに、羊を食べようと思っているものが、そういう動物が入って来たら、羊たちは非常に混乱します。これは当然のことですね。ま、これと同じようなことがあるということです。

天上界で人びとが愛し合って住んでいるのに、そこにまったく地上的な欲望を持った人間が魂として還って来たとしたら、とても住めなくなってくるわけです。こうして、別個の霊域が必要になってきました。いわゆる、こうした地上的な物質に惹(ひ)かれた魂というものは、霊的に見たならば一種の精神病であり、この隔離(かくり)ということが自然に起きてきたわけであります。これが「原罪」です。こうした原罪論というのが、実は、あの神話のなかに隠されている秘密なわけです。


4.許しの方法論


さて、こうした原罪を犯した人間が、やがて続出してくるわけでありますが、では、こうした原罪を犯した人間、エデンの園を追放されたアダムとエバは、もう完全に駄目なのか。そういうことですね。地上の歴史というのは堕落の歴史であったのか。もう堕落以外の何ものでもないのか。いったん堕落した、徹底的に堕落した人間が、やっと這(は)い上がって来る歴史が人類の歴史であったのか。果たして、そんなものが本当の人類の歴史であったのかどうか。これを考えねばならんと思います。

こうして見ると、ここにひとつの方法論というものが、提案されるようになったわけであります。それは、この地上においては、まだ十分に開発されていなかった方法論でありますが、数多くの人たちが地獄霊域をつくっていくのを見るにつけて、何とかしてこうした人たちを救っていかねばならない、もとの素晴らしい人間に還していかねばならない、調和させていかねばならない、こういうことが、緊急の課題となっていったわけです。そうして、天上界の光の指導霊たちが頭を集めて、額(ひたい)を寄せて協議した結果、いくつかの方法論というのが編み出されてきたわけです。

この方法論のなかで、ひとつが、「許しの理論」です。反省ということ、こうしたことが満たされた時に、こうした条件が満たされた時に、「許す」という行為が起きる。すなわち、神の意に対する不調和な行為が許される。こういうことを、考えついたわけであります。

これはちょうど、酸とアルカリの中和みたいなものです。悪意の想念、あるいは邪悪な想念というのは、化学反応の中での酸と一緒です。これを調和するためには、アルカリを入れる必要があるんですね。酸性液のなかには、酸性の水溶液のなかにはアルカリ性の溶液を入れる必要があります。酸にアルカリを入れると中和します。こうして酸性でもアルカリ性でもない、中性の溶液が出て来るわけです。このような酸とアルカリの原理と同じく、行き過ぎた言動、心の念いや間違った行為に対しては、それを償うだけの反作用の部分、すなわち、アルカリの部分を出して来る必要がある。こういうことを、光の天使たちは考えついたわけです。

さすれば、そのアルカリの部分、中和させるための、悪という名の、罪という名の酸を中和させるためのアルカリとは一体何か。これを考えに考えたわけですが、結局、こういうことになったわけであります。

つまり、やはり、自分が為した行為が悪であるということを、まず知らしめる必要がある。間違っていたということを知らしめる必要がある。そうして、その知らしめるという行為において、いくつかの段階があるし、いくつかの広がりがある。こういう結論に達したわけであります。

まず、自分が犯した行為が悪であるということを、知らしめるというのはどういうことかと言うと、これが、霊的世界においては「寒さ」「暗さ」、こういうものとなって現象化する、ということになってきたわけです。すなわち、霊界においても、霊太陽の光というのは燦(さん)さんと降り注いでいるわけですが、この霊界の太陽のエネルギーは、そうしたマイナスの波長を出した者に対しては、射さないようになっていった。なぜ射さないかと言うと、マイナスの波長というのは想念の曇りをつくっていく。こういう世界となっているわけです。その結果、霊太陽の光を浴びないために、「寒さ」、これに常に見舞われるようになります。悪霊が、寒さをもたらすというのはこのことです。

夏場に悪霊が出て来ると、クーラーや扇風機がいらないというのは、悪霊がこういう寒さから逃れる便法(べんぽう)を言うわけですね。必ず寒いんです。悪霊であったかいのはいないんです。地獄霊、みんな寒いです。あるいは冷たいですね。こういう世界なんですね。寒さ、冷たさ、これがあります。

また、これ以外にも暗いですね。地獄の特徴は暗いということです。一言で言って暗いのです。暗い人が多いのです。今流に言えばネクラがいっぱいいるんです。ま、これが地獄ですね、モグラの世界ですね。まあこういう地獄です。こうした世界を体験することによって、かれらに悪を犯したということを実感させる。これを方法論のひとつとして、考えついたわけであります。

すなわち、地獄というものは、本来なかったものであるし、積極的に創造したものでもないけれども、こうした想念、悪想念の結果、自らの出した間違いの波動によって、間違いの念いによって霊太陽の光を遮(さえぎ)り、そうした、熱と光を奪われるという結果が出てくる。こうしたことが、ま、残念なことでもあるが、反面、教育的効果もあるということを、光の天使たちも認めたことがあるわけです。

しかし、そうしたことが教育的効果があるとしても、実は、闇の部分のますますの広がりを増加させるという意味を、伴っていったわけです。これが歴史的な流れであったわけです。まず、自分たちが間違ったということを、認識させる必要があるのではないか。そういうことで、初期の段階においては、地獄も擁護(ようご)論が随分あったのです。地獄によって、そうした間違いが良くわかるという擁護論がいっぱいありました。しかしやがて、そうした擁護論が擁護論で済まなくなってきた。どんな虫でも、環境が変わっても生き延びていくように、あるいは、いろんな抗生物質を発明すると、それに耐えるような病原菌がどんどん出て来るように、寒さ、暗さというものを加えても、それで生きていける魂が数多く出て来たわけであります。こうして地獄が増えていったわけです。そのため、さらに許しの理論として、もっと高度な理論がいるようになってきたのです。

こういうことによって、単なる自分の間違いを気付かせる、そして痛い目に遭(あ)わせるというような原始的な方法論から、次にもっと積極的な方法論が採用されていくようになりました。これが、「反省の原理」です。反省によって、自らの過ちを償うということ。こうした原理が、次第に主流を成していくようになりました。こうして、自らの間違いを自らの意志によって正していくという、高度な方法が採用されていくように、やがてなっていったのです。


5.反省による光明化


すなわち、こういうことです。ま、地獄霊であれば、みんな真っ暗なところにいて、暗い、寒い、ひもじい思いをして生きているわけだけれども、自分の行った間違った行為、言葉、心、こうしたものに気付いて、それを「悪いことした。すまんことをした。神様、許して下さい。神様、仏様、許して下さい。高橋信次様、許して下さい」まあこういう念いを起こした時にですね、後頭部からパッと後光が射す。そして後光が射した瞬間、暖かいものが心の中にサーッと流れ込んで来る。こういうことを、方法論として考えついたわけであります。

これはもちろん、心の法則が実際そのようになっているわけですが、こうした方法によって、心のなか、心が荒(すさ)んだ、暗い、冷たい念い、このなかに光明を注ぎ込もう、愛の光を注ぎ込もう、こうしたことを光の天使たちは主として、考え方の筋として、提案していったわけであります。こうして「反省」ということが、次第に説かれていくようになっていきます。

つまり、本来あるべき人間の姿でない姿をとった時に、そうした行為をした時に、神仏に詫びることによって自らの罪を償うという考え方、これがやがて、「正法」の核となってくるのです。

実際問題、初期の頃には、天上界にいた諸霊たちが、地上にいた人たちを直接、指導していることが数多くあったために、聞違いということはあまりなかったわけでありますが、やがて、地上と天上界の間のコンタクトが悪くなってきて、地上界にさまざまな念いを持って生きる人が増えるにつけて、地上は地上として独立していくようになっていきました。これが天地創造における「天と地を分けた」ということの意味なのです。天上界と地上界というのが、はっきりと分かれてきたわけです。

天地創造というのは、決して、空と陸や海を分けたということではありません。天上界と地上界が分かれてきたということ、これを言っているのです。しかし、こうした状況であっても、反省ということを通して光明を灯した時に、本来エデンにあった時の暖かい気持、明るい気持、幸福な気持を取り戻せる、そういう方法論が採用されていったわけであります。

そして、これを中心に、あくまでも自力ということをたてまえとして、人間は修行をしていくべきだ、こういう考えが採られるようになっていくわけであります。決して他力によって、百万燭光の光によって、人間の罪を一挙に消してしまうのではなくて、自分がつくった罪であるならば、あくまでも自分の手によってそれを修正し、そして、向上する努力によって変えていく。こういう方法論を中心として、採っていくことになったわけであります。このため、自由ということを非常に尊重している反面、その自由を間違って行使し続けている者に対しては、厳しい試練というものが長い間続くようになっていったのです。そうした、魂の真実の歴史があるわけであります。

この反省による光明化の方法は、いろんな宗教において、たいていの場合説かれていますが、未(いま)だそれが定着していないのは、この科学的理論としての「反省による光明化」が、十分に実証されていないということです。心の窓を開いた人ならば十分にわかることなのですが、いかんせん、大部分の人は心の窓を開いていないために、この反省による光明化という理論が、十分にわかっていないのです。これが本当は、自分を救うための命綱であり、自分を救うための救急梯子(はしご)であるということを、これを多くの人たちは、知らなければならないと考えるのであります。