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目次



 3.人生の計画



 6.運命の修正




1.運命の考え方


高橋信次です。ちょっと前回の収録から日があきました。久々ですが、また話をしていきたいと思います。

今日は「運命と自由」、こういうテーマを選んでみました。これは、非常に難しい問題でもあるし、また同時に大切な問題でもあるのです。

この運命と自由というテーマですが、これがわかれば、だいたい人生八〇パーセントぐらいは見抜けた、ということになるのではないかと思います。

古来より宗教人は、この運命の問題を避けては通れなかったわけですけれども、ただ、決定的な話ができた人もまたいなかったのではないか、というふうに思います。運命というものがあるという考え方のなかには、やはりそこに宗教心の芽生えのようなもの、これを感じさせるものがあったと、こういうふうに私は思います。

結局あの世の世界と言いますか、目に見えない世界を信ずる契機として、何かそうした筋書きがあるのではないか、目に見えないシナリオがあるのではないか。こうした気持があるということなのです。そこで、そうしたものがもしすでに決まっているなら、早く知りたいという気持があるし、決まっているものであっても、それが悪いものであるならば、それを避けられるなら避けてもみたい。こうした気持があります。

これが人間の常なんですね。すでに決まっているものなら、どうしようもないと思うけれども、このどうしようもないものを見てみたい。怖いもの見たさと言いましょうか、そうした気持がたいていの人にはあるわけなのですね。

そこで、運命というのをどう捉えるかということなのですが、ではどの程度まで本当に決まっているのか、ここのところが正直みなさんの聞きたいところではないのか。私はそう思います。これが地上の人間にはどうしてもわからない。

地上を去った世界から見てどうなのか。「高橋信次よ、どうなのか。お前はどう思うか。運命の女神というのは本当に気まぐれなのか。それとも、運命の女神も調教のしかたによっては、言うことを聞くのか。まるで言うことを聞かないうちのカアちゃんが言うことを聞くように、運命の女神というものもうまく操(あやつ)ったら言うことを聞くのか。どうなんだ。その辺を教えてくれ。」まあ、こういう方もおそらくいらっしゃるでしょう。

そこでね、私なりにこちらの世界に来てわかったことを、お伝えしたいと思います。それはね、百パーセントの決定ということはもちろんない、ということは言っておいていいと思います。それはない。

ただ、運命がゼロパーセント、まったく決まっていないという人もまたいない。これだけは間違いなく言えることです。さてどの程度それが決まっているのか。これが、みなさんが知りたいところだろうと思います。

まあ卑近な例として、私自身のことをあげても、四十八歳で地上を去るということは、私は自分の著(あらわ)した『心の発見』という著書のなかで、そういうことを書いておきましたし、予言していました。そしてその通りになりました。自分が結婚する頃から、「自分の使命、天命は四十八までしかない。それから先のことは保証できない。」こうしたことを言いました。そういうことで結婚生活に入ったわけです。そして四十八で予定通り、天上界に上がったわけなのです。

そしてこの時に、還ってきて自分の人生というものの計画と実際というものを、照らし合わせてみたわけなんです。私のように九次元から出た人で、どの程度それが的中するのか。こうしてみると、まあ大本(おおもと)の部分、今回の使命としていちばん大切な部分、すなわち法を説くということ、救世運動の口火役、導火線になるというそういう役割、これがもちろん一番大きな使命でしたが、この部分は予定通り果たせたのです。

ただ、その私の人生行路、四十八年間は予定通りであったかどうかというと、かなりズレはあります。それはあります。私は実際四十を過ぎてからこの道に入ったわけですが、そのきっかけは、実は二回ほどその前にあったそうです。というのは計画書にそういうふうに書いてあるのです。

私自身の計画書を見ると、まず最初は十歳の頃に霊道を開いて、少し他の人とは違った天才少年的な芽生えがあり、そして早目に信仰の世界に入るということ。こういうシナリオが一番目に用意されていました。二番目には、二十代の後半に用意されていたようです。事業を開始して倒産というようなことを経験して、そしてその倒産を契機にして信仰の世界に入る。こうした計画がありましたが、一番目、二番目ともある意味においては、その通りにならなかったという現実があります。

それほどこの世は難しい部分があるのです。それはどうしてかというと、自分自身の考えと、あとは周りにいる人たちの考え、こうしたものに影響されることが非常に大きいということです。こういうこともあって、実は導火線、引き金になる部分は何回も用意されているけれども、最終的にどこでどうなるかというところ、ここはズレがあったということなのです。

だから私の人生を振り返ってみて、第一段階としての、この救世運動の先駆者的使命という部分は果たせましたが、私自身の計画としては多少遅れた、スタートが遅れたという点は否(いな)めない。そういうことがあります。

それと、運動を起こしてから会が成長して、急に主宰者が亡くなったということで、そのあと非常な混乱がありました。まあ、これはある程度の混乱があることぐらいは、当初から予定はされていたようです。

それは、第二段階の「幸福の科学」の運動が本格化するまでの序曲として、そうしたこともあるということは、ある程度予定はされていたようですが、ただもう少し芸術的な形で私の復活が行われるという筋書きにはなっていたのだけれども、いかんせん、その部分は多少ズレが生じた。こういう点があったと思います。

これが人間高橋信次の場合ですが、結論的にはどちらにしろ、やるべきことはやって、成就すべきことは成就したということにはなっていると思います。

ですから一般の人は、どうなるかということですが、やはり大きな人生の分岐点はいくつか用意されています。それはひとつやふたつではなくて、たとえば七十年の人生を送る人なら、そのなかで分岐点はやはり五つや十はあります。その時に、線路をどっちに走るかによって多少人生のズレがある。

しかしまた、途中でその軌道修正ができるような、そういうポイントの切り換え点はあるわけです。そこの分岐点で違った方向に行っても、またどこかでポイントの切り換え点があって、再びもとに戻れるようにはなっている。そのように考えてよいのではないかと思います。


2.易・占いの妥当性


こうしてみると、易・占いというものについても、考えてみる必要が若干あるのではないか。そのように思います。私自身も、易・占いを知らないかと言えば知らないことはなかったし、「GLA」というところで本格的に正法を説く前には、多少こうしたことも勉強していました。

そして運命論というものにずいぶん関心を持っていて、まあ数霊と言いますか、数字の持つ運命について研究をかなりやっていました。そうした本を出したこともあります。もちろん絶版にしましたが、出したことはあります。ただ、易・占いの類(たぐ)い、これがまったく外(はず)れるかと言えば、そうでもない部分があるということです。

これは結局こういうふうに思っていただきたいんです。現代の日本でも、経済学者というのがいっぱいいるでしょう。そして経済の予想をいっぱいやっていますね。八十八年度の経済予想はこうなる。GNPは何パーセント、そして消費者物価がどうなって、そして金利の動向はこういうふうになって、円高ドル安の評価ですね、円のレートが年末何円ぐらいになるだろう。こうしたことはさまざまな各種アナリスト、エコノミストたちが研究して、そして発表しています。

また海外でも、まあこの前辞任したアメリカの連銀のボルカー議長だとか、そうしたいろんな方がいらっしやるわけでしょう。あるいは日本で言えば、日銀総裁とか大蔵大臣とかね、そういう方がいて、そうした人の読みというのもあり、あるいは意見、こうしたもので変わりますね。あるいはレーガン大統領がどう言った、こう言ったというのもあります。

こういうふうに、易・占いの基本的な考え方はアナリストなんですよ。アナリストってわかるかな。分析家、経済予想家ぐらいのものだと思ったらいいです。そしたら、経済予想家の予想がどの程度当たっていると思うかということだね。それは、彼らの予想は与件と言って、与えられた条件が変わらなければ、ある程度は当たるんだね。的中するけども、条件が変わるという前提では非常に外れていくんだ。当たる人もいるけど外れる人もいる。年初に読んだことが、全然違った結論になることもあるわけですね。

このように、その予想した時点での条件で見れば、こういうふうになるだろうと、こういう予想はつくのだけれども、いかんせん条件が変わっていく、与件が変わっていくために予想が狂ってくるのです。これはどうしようもないんです。

それは、経済の一年間の動向というのを見ても、その時々で政策が変わってみたり、海外の状況が変わったり、あるいは個人の意志が変わったりするわけです。たとえば、経済の動向をちょっと変えようと思えば、大きな規模の経済力を特っている大企業、あるいはそのオーナーがある決断をして行動すれば、途端にそれが引き金になるっていうことはいくらでもあります。特に株の世界なんかはそうですね。大口の買いとか売りとかをやったら、とたんに響いてきますね、まあこんなことがあるわけです。

そういうふうに、条件が変わっていく前提では完全には読み切れない。けれども、素人(しろうと)さんが予想するよりはある程度のことはわかる。こういうことが言えるわけなんです。まあそうしたものだと思ってください。

易・占いは、そういうスペシャリストなんだな。だから彼らの意見を聞いて当たるか、当たらんか。事実、彼らの指導霊は天上界にもおります。主として仙人界系統なんですが、そうした易・占いをやっている人もいます。ある程度のところまで彼らも研究しています。ですからそれも、経済の専門家であっても人によって意見が違うように、彼らも意見が違うけれども、素人(しろうと)よりはよくわかる。まあこの程度だと思っていてください。

そしてそれが外れる理由は、条件が変わるということだね。そういうところがあり得るということです。したがって、出てくる前に計画していたことも、多少変わる余地があるということだね。これについてさらに話をしよう。


3.人生の計画


さて、易・占いでも条件が変わり、与件が変わるために、実際の結果が変わってくることがあるということを言いましたが、人生の計画というものを、ではどういうふうに考えるのか。どう立てているのか。この辺もみなさん知りたいのではないでしょうか。

それはね、一言で言うと、何らかの形で自分の人生計画を立ててない人はいないということ、これは言えます。ただ、何歳でどうして、何歳でどうなるっていうところまで、本当に的確に決めてるかどうかというと、これは個人差がかなりあります。

というのは、生きている人間を見てもそうでしょう。性格がすいぶん違うね。たとえば会社から出張を命ぜられても、まあ出たとこ勝負で、向こうに行ってから考えよう、こういう人もいるでしょうし、事前にビッシリとスケジュール、予定を組んで予約もとって行く人もいるでしょう。こういうふうに、出張ということひとつを取っても、人間の性質、性格は違った点があります。

同じように、出てくる前の計画というのも、人によって多少違っています。ただ言えることは、次元構造において高次元の人たち、高次元の諸霊たちですね、こうした方が出るときのズレはやはり少ない。どちらかと言えば少ない。こういうことがあります。そして精度が高い。

精度が高い理由のひとつは、たとえば地上に出て、自分でやっていてもし間違った方向にいっても、大きな使命がある人の場合には、高級諸霊たちが力を合わせてなんとかもとの位置に戻そうと、こういうことをすることが多いということです。この点において、やはり実現の可能性は高いと言えると思います。

あとは霊格です。いわゆる霊格がまだそれほど高くない方の場合には、三次元の意味ということについての理解も不十分なことが多いし、霊界のシステムなどについても、理解が不十分なことがよくあります。その意味において、多少計画がずさんなものになることもあるわけです。結局、先の見通しの十分立っていない人もいるということだね。こういう人も半分ぐらいはいると思っていいと思います。まあ、地上に出ればなんとかなるだろうという気持で出る人ね、いちばん地獄に行きやすいタイプではありますが、そういう方はいます。

ただ、原則として、大多数の人を地上に生まれ変わらせる場面においては、あの世にも役所のようなものがあって、その人生の計画についての修正、チェックということはやっていることが多いです。

したがって、たとえば志望票なら志望票とすると、生まれ変わり志望票に、ある程度の必要記載事項があるわけです。必要記載事項と任意記載事項がある。

そして必要記載事項のところには、たとえば両親、両親を誰にするのか、あるいはどういう人生をだいたい送りたいのか、そして過去世のカルマの修正からいって、こうしたことを学びたい、そういったことが入ってくるわけです。あと任意記載事項があって、そこにはいろんな希望を書くわけです、それを書く。これについて、役所の方からのコメントがあるわけです。この部分がちょっと問題があるとかね、あなたの希望する先はこういうふうになりますよとか、こういうことがあるわけです。

そして両親ということですが、これは生まれてくる前に決めてくるかどうかということですが、これはたいていの場合、決めてくると思って間違いがないと思います。

これにはもちろん、アクシデントということはいくらでもあります。たとえば、三十年ほど前に親になってもらう、子供になるという約束をしたのに、その両親が地上に生活しているうちに片方が死んでしまったり、事故にあったり、あるいは不幸にして結婚できなかった、こういうこともあるわけで、そうした場合には、その両親のもとに生まれてこられないことがあります。

こうしたときには約束していた両親の片方の方に出てくることが非常に多いのです。父親、もしくは母親の方ですね、このどちらかに出てくることがある。

場合によっては、この両方とも駄目になってしまうこともないわけではありません。これは戦争の時とか、そういう時には多いですね。こういう時には、比較的縁の深い人を探します。役所の方でかなり探してくれますが、そこで子供にしてもらう、こういうことがあるわけなんです。

このように、多少の修正の可能性はあるということだね。それは、会社をつくる時に、定款(ていかん)をつくり、目標をつくってやろうとするけれども、実際やってみるといろんなことが起きるというのと、非常によく似ています。スッパリとはいかないことが多いということですね。そのために、調整するための人がいるということです。ただ基本的には、ある程度のシナリオを用意してくる。まあこれは言っておいてもよいでしょう。

ただこのシナリオ、人生の計画が生きている地上の人はわからない。こういうところがあるね。これが非常に苦しい。苦しいけれども、まあ面白いところもあるね。

私も宗教家になったわけだけども、宗教家になるということを知らなかったから、かえっていろんな実社会の勉強ができました。科学の勉強もできましたし、いろんな勉強ができました。

宗教家になると最初からわかっていれば、宗教、たとえば法華経ばかり勉強していたかも知れないけれど、幸いにしてエンジニアで生きていたので、そうした経験がいろんなところで生きたこともあるし、自分の考え方を深める意味で大変役に立ちました。

この意味において、白紙であることの方が比較的よい。忘れてしまうということだね。表面意識だけになると、そういう計画を全部忘れてしまう。こうしたことにもいい面が多い。私はそういうように思います。


4.自由意志とは何か



さてここで、やっかいな問題が起きてくるんです。それは、自由意志とは一体何なのかという問題なんですね。運命と自由、あるいは自由意志というのを考える時に、ここが大きな解釈の分かれ目になるということです。

神がなぜ、天国と地獄をつくったかとか、悪をつくったかとか、そういう問いかけをされる方もわりあい多いわけなんですが、結論は、ここの自由意志のところにくるんです。ただ、これを本当の自由意志と見るかどうかという考え方が、また別にあります。

自由意志というのは、本当は主体的に立派なことをしていくのが自由意志であって、欲望とか悪とか、こうしたものに引きずられる傾向というのは、これは自由意志ではなくて煩悩である。あるいは性(さが)である。人間の偽我(ぎが)の部分である。欲望の部分である。こうした捉(とら)え方もあるんですね。これは自由意志ではない。自由意志ではなくて、それは引きずられているだけだ。本当の自由意志ではないんだと、そういうふうにとる捉え方もあると思います。

ただね、私は思うのだが、やっぱり人間には、あるいは人生にはね、選択ということがあると思う。これは本当だ。毎日毎日と言えば大げさかも知れないけれども、少なくとも毎年、各人ひとつやふたつは選択するという場面があると思います。Aにするか、Bにするか。右にするか、左にするか。こういう選択はあると思う。そしてその選択の結果は、自分自身が責任を負わねばならない。

そういう特殊な社会が、あるいは世界が、この三次元の世界であるということは事実じゃないかと、私はそう思うんですね。

だから、煩悩と言ってしまって、それによって引きずられるという考え方もあるけれども、それもやはりひとつの選択はあったと思うんだな。たとえば、子供が不良になるのに、不良の暴走族だな、暴走族から声をかけられた、そうして、引きずられるように仲間に入ってしまった。

こういうこともあるが、ただこれはね、やっぱり選択はあったと思うね。まずそこで入るかどうかの選択はあったし、その前に、そうしたところに入るような雰囲気をつくる、そういうような自分が出来てきたということに対する、自己の選択の結果が現れている。そのように私は思えるんですね。

だからやっぱりね、基本の路線をどう考えるかだけれども、完全決定論という考え方は、私は間違っていると思います。アウトラインとしての大筋、あるいはいろんなチェックポイントの部分はある。あるいは切り換えのポイントというのはあるけれども、そのなかにおける判断、選択ということは、相当大きな余地が残されていると思う。

もしこれがなければ、あれだけ多くの人が、地獄に堕(お)ちるという理由の説明かつかないと思う。どうだろうみなさん、地獄に行く人は半分越えていると言われていますが、それだけの人が地獄へ行くという計画を、果たしてつくって出てきたでしょうか。そんなことがあるでしょうか。私はそうは思わないね。みんな自分が地獄の一丁目や二丁目に行くことを予定しては出てきていないでしょう。

まあ、そういうこともあるかもわからんと思うけれど、まあ自分だけはそういうことはあるまいと思って出てくるはずですね。これは、結局そういう世界が展開しているというのは、そこにやはり判断、選択について各人で責任を負わすような、そういうシステムがあるということだね。

そういうことで、子供の運動会で言えば、スタートラインまで連れてくるのが親の役目。そして、第一コースから第六コースまで決めて、「いいかい、こうやって走るんだよ。あそこに障害物があるよ。あの梯子(はしご)をくぐり、マットで回転し、網をくぐってパンを食べて走るんだよ」。と、こういうことを教えるわけですが、子供はその通り走れるかといったら、途中で駄目なんですね。梯子がくぐれなかったり、袋を通り抜けられなかったり、マットで回転ができなかったり、パンが食べられなかったり、ミルクをこぼしたり、いろんなことがあって、なかなかその通りにはいかないことがあります。

こういうところだね、情景描写するとしたらそういう点だね。まあ四百メートル障害物競争みたいなもんで、コースは決まっているし、障害物も決まってるのだけれども、実際走ってみないとどうなるかわからない。こうした面があるということだ。これが決まっていれば、誰もやる気起きないよね。子供が六コースに分かれて走るのでも、結果はどうなるかわからんから面白いんで、これがもし結果がみんな分かっていればもう走る気しないね。ばかばかしくてね。こうしたところがあるわけです。

したがって、コース、それから到達点、途中の障害物、こんなものはある程度決まってるけれども、実際どうなるかはわからん部分がある。

まあ、こういうように考えていただきたい。その時に自分の自助努力というものが、どうしてもあるということ、これを知っていただきたいと思います。これなしには済まないということですね。


5.三次元世界の特殊性


さて、この自由意志の問題を考えていく際に、どうしても避け難いもの、避け難い考え方として、三次元世界の特殊性というところがあると思います。

もちろん、三次元世界と言っても神が創られた世界の一部であって、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元と続く世界の中の一部分であることは事実だけれども、やはりこの世とあの世と言われるだけあって、三次元世界と四次元以降の世界は、かなり違ったところがある。そういうことが言えると思います。質的に一番変わっている部分があるんですね。そういうところがあると思っていいでしょう。

それはある人にとっては、サウナ風呂みたいなのに入っているような、そんな感じでもあるんだよね。もう暑くて暑くて、汗が吹き出してくる。ああいうサウナ風呂のなかに入って、何かをやっているようなところがあるね。あるいは冷水風呂のなかに入ってやっているようなところもあるかも知れないけれども、ちょっと特殊な感じがするんだね。そういう世界であることは事実です。

それともうひとつの違いはね、この肉体だね。この肉体舟というものを乗り舟として修行しているところが、非常に違うんです。これは珍しいケースだけれども、現にそうした世界があるということだね。

これはみなさんどうだろう。考えれば考えるほど不思議だろう。魂っていうのは肉体に入っていて、そして人生修行しているなんて、本当に不思議で不思議でしょうがない。そんなことがあるんだろうか。こういうふうに思うと思うけれど、まあこれはね、全員に答えをくれますよ。

必すやがてみなさん死ぬのだから。私の本を読んでいる人、みんな死にます。一人残らず死ぬ。死ぬ時に、いやがおうでも自分が魂だってことを教えられます。肉体に宿っていたんだなあってことを、教えられます。そういうことで、肉体に宿っているということが、非常に特殊性を生んでいる、これは言えると思います。

それと、肉体は肉体としてのひとつの傾向、特色というものがやっぱりあるんだね。それは何かって言うと、たとえば肉体は疲れますね。休みたい。睡眠をとりたい。食事をとりたい。排泄をしたい。こうしたものがあります。それ以外に、肉体独特の傾向というものがあることは事実ですね。それに多少ひきずられる。もし霊であれば、まず食事がいらない、睡眠がいらない。こうした世界なんだけれど、肉体を持つことによって、ある程度の生活のリズム、パターン、あるいは規制というもの、足枷(あしかせ)というものがあります。

その意味において、四次元以降の世界と三次元の世界というものを、実相と仮相の世界というように分ける二分法は、必ずしも幸福の科学的に言えば正しい考え方ではないかもしれないけれども、極端に違った世界であるということ、これだけは本当だ。そういうように思います。

結局、鳥が、何と言うかなあ、海のなかに入ったような感じなんだね。カイツブリとかいろんな鳥がいて、海のなかで餌を取ったりもするけれども、やっぱり鳥は大空を飛んでるから自由自在なんであって、海のなかでは自由自在とは言えないね。泳ぎのうまいものもいるけれども、やはり本来の姿ではないね。そうした感じだと思ってくれ。自分の羽で空を飛べる鳥が、その鳥が水のなかに入って魚をとろうとする時のあの苦心ね、こうした違いがある。海のなかで魚を取ろうとするのと同じぐらいだと、まあ、こういう感じに思ってください。

そこでね、なんでそんな特殊な世界を創ったのか、おかしいじゃないか、不思議じゃないかと思う人もみなさんのなかにはいるでしょう。ただ、考えてみると、これは非常に面白い世界ですよ。どうだね、みなさん。現在の自分の立場を離れて、まあ、実在界があって、そこに自分がいると思ってください。そしてこの下界と言いますか、三次元を見た時にどう見えるかね。やっぱり面白いんじゃないかね。

自分は魂としてあの世に生きていて、人の考えていることはみんなわかるし、食べ物もいらないし、何の努力もいらないで、思ったことがすぐ実現する世界で生きている。こうしているとやっぱりいろいろと、もっと力を磨いてみたいなあっていう気特にならないでしょうかね。

人間だってジョギングしてみたくなったり、水泳してみたくなったり、いろいろとするでしょう。同じように、力を磨いてみたいなあと思うことがあるでしょう。その力を磨く時に、たいてい抵抗のあるものを選ぶよね。ジョギング、マラソンでもいいけど、あれ苦しいよね。汗かくけど、みんなやるんだろう。それは、それが爽快感があるから、あるいは体力が鍛えられるから、そうするんだね。水泳だって、水の抵抗があるから面白いところがあるんだろう。あれが、無抵抗だったら、面白くないと僕は思うよ。

あるいは何だろう、勉強だってそうだよね。勉強好きかって言うと、みんな「いやだ、いやだ」と言うけれど、やっぱりするだろう。なぜするかと言うと、結局役に立つんだよね。そして面白いんだよ。遊びっていうのは、一日中やってろって言ったらやれないですよ。いくらトランプが好きだっていっても、あなたね、一日中やってて三日続きますか、トランプ。三日とか一週間とか、一か月とか、そんなに絶対続きません。そんなもんです。ところが、勉強っていうのは続くんですね。不思議なもんです。

これは仕事も一緒です。仕事というものは、毎日していてもそんなに飽きないけれども、遊びだと飽きてきますね。温泉なんかで一週間もいたら、もう飽きちゃって飽きちゃって、することなくなりますよね。風呂のなかに入ってのぼせてばかりいて、もうポワーポワーとしててね、もう何しに来たかわかんないね。一日も早く働きたい。こういうようになるでしょう。

そういうふうに、特殊な世界にいるけれども、それなりの腕だめし、自分の腕を磨くということがあるということです。パチンコだってみなさんお金を払って玉買ってやるけれども、負けることが多いでしょう。確率的には負けることはわかっているんだけれども、それでもやるだろう。それは何千円も稼いだことがあるからね。パカパカチューリップ開いて、何千円も稼いだ経験があるからやめられないんでしょう。またそれがあるかもわかんないと思って行く。こうしたもんでね、両面、リスクもあるけれども、プラス面もある。こういうところがあるわけです。非常に面白い世界だと思ってください。

ただね、なぜそういう世界が出来たか、よくよくみんなで考えていただきたいんだけども、これは実にやはり巧妙な芸術だなあと思ってください。霊の世界にいて、相手が思っていること全部がわかる。自分が思っていることが全部相手に伝わり、そして住んでる世界はみんな同じ魂レベル、同じような人ばっかりが住んでいるところにいれば、やはり塊的な発展部分は少なくなる。

そうするとどうしたらいいかと言うと、やっぱりみんな一度ごちゃまぜのところへ行って勉強してみる。そして自分自身が何者かを忘れるために、仮面をかぶる。マスクをかぶるわけですね。このマスクの部分が肉体だということだ。

そして自分が何者かを忘れて、一生懸命励んでまた還ってくる。ところが還って来てみると、それがちゃんとしたその人のキャリアになっていた。経験になっていた。まあこうしたところがあるわけだね。これは非常に大きな慈悲ですよ。

だからね、三次元の世界というのを監獄だとか、刑務所だとか、そういうように考えてはいけないよ。原始釈迦仏教にはそんな考えも多少あるけどね。この世というのはいやな世界だ、だから一日も早く解脱(げだつ)せねばいかんのだ。まあこんな考えもあるようだけども、これは神様の本意じゃない。厳しいところはあるけれど、この厳しさはね、石川五右衛門が釜ゆでされている厳しさじゃないよ。やっぱり、せいぜいサウナ風呂で汗しぼられている厳しさだよ。

五右衛門が釜で煮られたら、これはたまったもんじゃないけども、サウナ風呂で五分、十分座っているのは、やっぱり汗が出るんでしょう、ね。体中の悪いものがしぼり出されて、そしてその後、爽快感があるんでしょう。疲れが取れるんでしょう。違いますか。そうしたもんなんだなあ。まあそういうふうに考えていただきたいと思います。

こうしてみると、この世があるということは非常な恵みです。非常な恵みだと思う。だからね、みなさん、この世界を不自由だと思うかもしれないけれど、大いなる感謝を持っていなければいけないよ。魂修行のチャンスを与えられているんだ。それは非常に不自由かも知れない。竹馬に乗って歩いているような不自由さがあるかも知れない。でも面白い世界だよ。

それと何と言うかね、意外性がある世界だね。天上界ではそれほど意外性というのはないけども、地上界では意外性がある。思わぬ人が大成功したりね、予定されていた大エリートっていうか、そういう人がチョンボして堕(お)ちちゃったり、いろいろするんだね。そうした意外性があって、面白い。何百年に一回ぐらいこういうところに出てくると、それなりの面白さがあるんだな。まあそういうことです。

だからあと、やっぱり地獄っていうのがあるんだけど、まああれを何とかしてやりたい、という気持が私は強いですね。あれだけはどうにかしたいと思ってます。

基本的には、三次元の意味はそういうところにあるので、決して否定的に考えてはいけない。そう思います。


6.運命の修正


さて、本章を閉じるにあたって、大事な話をしておきたいと思います。それは「運命の修正」ということです。運命というのは、ある程度あるということはわかったと思いますが、この修正もあり得るということを、知らねばいかんということですね。まあそういうことなんですよ。

高級霊の存在というのが、実にその役割を果たすんだけれども、高級霊たちというのは、神様の天国病院の医者や看護婦であるわけなんですね。そして地上の人たちは、まあ病人です。病人なので、体が悪くなったり、病気したりすることがあるわけだけど、このお医者さん、看護婦さんの努力によって快方に向かうことがある。回復することがあるんだね。

そういうふうに、治療ということを通して治ることがある。まあ失敗もあるんだよ。だから失敗もあるからそれは忘れちゃいけないけれども、治ることがある。良くなることがある。ま、こういうことだね。

それでね、高級霊たちも心がけのいい人には、いつも何らかのアドバイスをしてやりたい、導きをしてやりたい、こういうふうに思うんだけれども、この世の人の自由意志がいろいろぶつかり合って、ねじ曲がったりすることがあります。そのために実現できないことが多いのですね。

それはちょうど、パチンコの玉を入れるのと一緒だね。この程度の強さで玉を打てば、多分ここのチューリップに入るっていうのは計算できるよね。パチンコよくやった方ならわかるだろう、ね。僕もよくやったからわかるんだけれども、腕を固定してね、手を固定して、そしてある程度の強さではじいているとだいたい入るんだね。

ただこの時に、いろんなことがあるわけだ。釘(くぎ)ね、釘の曲げ方によって、はじかれてしまったりすることがあるし、最新の機械だと自動的にある程度玉が入ったら、もうそれ以上入らないように調整し始めるんだね。そういうのがあります。それからパチンコ屋に釘師(くぎし)というのがいて、釘を上手にいじるんですね。そしてだいたいどの程度玉を出すか、その確率を出せる。こういうことをしますね。

こういうふうに、そのままいけばそういうふうになるのだけど、実際そうならない。まあこういうことが、障害物として現れることがあります。その際に、やっぱり選択肢があるっていうことなんですね。その釘によってはじかれた玉がまた他のところに入ることもあれば、もう入らないで終わりになってしまうこともある。こういう選択肢が現実としてあるわけですね。だから、この運命の修正ということはあります。

たとえば結婚なんていうことに関して言えば、結婚するというともう赤い糸で結ばれていて、絶対その人以外とはしないかと言えば、そんなことはありません。することはあるんです。運命の修正ということがあります。どうしてもその人の今世の魂修行を見ていて、そういう使命が果たせない場合っていうのがあるんですね。その時には運命の修正があって、その結婚が流れるようなこともあります。そして、別な人とするということがある。あるいは離婚、再婚ということもあるわけですね。現実にそういうこともあります。

ただ、広い意味で結婚なんていうことは、全然縁のない人とするということはない、といってよいと思います。ある程度みんな縁はある。結婚の約束をしているかどうか、これはしている人の方が、だいたい九割はあると思います。だいたい約束してきた方と九割ぐらいは結婚する。しかし、残りの一割程度は変更の余地がある。それは、実際にこの地上に出て二十年、三十年、あるいは四十年人生を送ってみると、それぞれの人が変わっている、人格が変わり、環境が変わってどうしても魂的に合わない場合があるということです。

たとえば魂修行をしようとして、ある程度高貴な魂がそれぞれ田舎に生まれたとする。どこでもいいですが、北海道の田舎と九州の田舎に生まれたとする。そして刻苦勉励して、勉強して東京に出てきて、そこで仕事をしながら、知り合って結婚する予定であったところが、片方の方が北海道から出てこなかった。そこでずっと木こりをやっていた。漁師をやっていた。ついに出てこなかった。まあ、こういうこともないとは言えないね。

そういう場合に、二人を会わすということは実際上可能であってもね、たとえば相手の女性なら女性が九州から出てきて北海道旅行をしてる時に、その人と知り合って結婚するということもあるかも知れないが、たとえばその女性の方は、実は一流会社に勤めていて、そこで美人に生まれていて、引く手あまたの美人秘書になっていた。社長秘書になっていた。

ところが彼の方は、北海道の山奥できこりをやっていた。こういうことなら、北海道旅行で知りあう機会があったとしても、結婚させるというのに非常に問題がある場合がある。それだけ二人の境遇に変化が出た場合ですね。こういうことが出た場合には、残念ながらそれは流れてしまう。そしてそれぞれの境遇で、一番近しい魂とくっつく。こういうことがあるわけなのですね。これを運命の修正と言います。

これは非常に大きな仕事です。守護霊や指導霊たちの仕事のほとんどは、この運命の修正なんです。これがあるっていうことです。当初の計画どおりには進まないことが多いので、その際どうするか。力を与えるか、どうするか。これを考えるのが守護、指導霊の仕事なんですね。そうした大きな仕事の一貫としての人生がある。運命がある。まあこういうように考えていただければ幸いだと思います。