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目次














(このイエス・キリストの霊訓は、一九八二年一月一日、招霊の際の霊言録。霊声者・大川隆法、対話者・善川三朗)

1.私の全生涯は旧約聖書に予言されたとおりでした


「イエス・キリスト、出て来て下さい、イエス・キリスト、出て来て下さい。イエス・キリスト、インマヌエル、インマヌエル、イエス出て来て下さい」
(暫くの間、大川隆法のキリスト招霊の声が続く)

イエス  はい―。

大川  あなたのお名前を。

イエス  イエス・キリスト―。

善川  イエス様、本日はわざわざお招びたてして恐縮しております。

イエス  はい―、何でしょう―。

善川  まず、私たちの勉学のために、旧、新約両聖書に記述されている事柄についてお伺いしたいと思いますが、先ほど、イザヤ様をお招きしたのですが、その際、あなたが肉体をもってイスラエルの地にお生れになったこと、これは旧約聖書にもありますように、はやくからイザヤ様たちによって予言されていたことですね。

イエス  そうです。

善川  新約聖書によりますと、イエス様のご生涯において起きた事柄は、何事もこれは旧約聖書に書かれてあるように、それぞれの時代における予言者が言った「予言が成就されんが為なり」という表現になっておりますが、そのとおりであったわけなのでしょうか。

イエス  事実としては、どちらにしても同じですね。確かに予言はありましたし、私は予言のとおりの生涯を終えました。ですから「予言が成就されんが為に」という言葉はたしかにおかしいかも知れませんが、既に私があのような生涯を送るということが、この地上に出る前に、分っていたということは言えます。ですから、成就されんがために、という言葉に余りとらわれてはいけませんね。


2.私は神の一人子でもなく、また犠牲(いけにえ)でもなかった


善川  過去の人もそうであったでしょうが、現在のキリスト教の信者の方々も、あなたのことを「神のひとり子」だと言われたというふうに解釈されておりますが、当時あなたご自身、そういうお考えであったのでしょうか。

イエス  ―それは間違っております。「ひとり子」ではありません―。

善川  そうですか。あなたは「われは神の子」であるとおっしゃられましたか。

イエス  わたしは神の子であると申しました。しかし、ひとり子、であるとは言っておりません。間違いです。

善川  そうですか。次におたずねいたしますが、これも聖書にもとづいてですが、神は、あなたを、犠牲(いけにえ)として、十字架につけることによって人類の罪を贖(あがな)ったのだと解釈しておりますが―。

イエス  私は、仔羊や、山羊とは違います。当時、仔羊を神に捧げる、祭壇に捧げて神に供養するという習慣がありましたから、私のことを、そのように解釈されたかも知れませんが、生贄(いけにえ)とか、犠牲とかでは私はないのです。

善川  そのことについて、人類の罪が赦され贖われるということ、ただし洗礼を受けてキリスト教を信ずるという契約においてですが―。

イエス  そんなに安易に罪が赦されるわけではありません。

善川  そういうふうに解釈しているのが、今日のキリスト教の主流ですが―。

イエス  それは間違っております。

善川  これは根本的な問題なのですが、そういうことについて、あなたはあなたの直弟子なり、あなたの影響下にあるその筋の人を遣わして指導したことがありますか。

イエス  あります。

善川  たとえばペテロについてはどうだったのでしょうか。

イエス  ペテロですか、。ペテロがこの日本に再生したときのことですね。

善川  そうです。

イエス  私は直接は指導しておりませんが、やはり。ペテロの親しい人達がペテロを指導していたはずです。

善川  しかし、矢内原忠雄という名でこの日本へ再生されたペテロは、やはり、いま言ったことを同じように言って来ました。

イエス  今言ったこととはどういうことでしょう。

善川  矢内原先生は、イエス様は神のひとり子であったとし、イエス様の御名を通すことによって人の罪は赦されるのだと説いておられましたが……。

イエス  肉を持てば、すべては分らないのです。たしかにキリスト教の中に生きる人にとっては、私は神のひとり子かも知れませんが、実際は、そうではありません。しかし、私は、神に最もそば近くにある人間であることは確かです―。

善川  それはもう万人が認めて、あなた様を崇拝しているところでありますが、神のたったひとりの御子であるということについて、疑問があったということと、しかし、そのようなことを、いつまでも教えているということについての指導が、なぜなされないのかということを……。

イエス  しかし、私は、あなたに言っておきたい。確かに「ひとり子」という考えは間違っているかも知れませんよ。しかしながら、ひとり子ということを信ずることによって、私の教えに帰依する人はいるはずです。私は、死して既に二千年になりなんとしていますが、しかしながら、私の教えの中にもまだ真理は残っております。ですから彼らが私を、一人子か、二人子か、三つ子か、そのようなことを考えるのではなくて、ただに私を一人子と信じても、そのことによって、それをとおして、私の教えに接することがあるのであれば、その方法、そのみちすじは、問うべきではないのではないでしょうか。

真理に到達することこそが、真に必要なことであって、私をひとり子だと信じるかどうかというようなこと、そのようなことは関係がないはずですし、私自身、自分が神だとは言っていないはずです―。

善川  当時、民衆が神を間うた時に、あなたは「われを見よ」と言われたことがありますか。

イエス  そうです、あります。「私を通して神を感じ取りなさい」と、常づね説きました。神を見せよと言われても、神を眼の前に見せることはできません。しかしながら、私は神のそば近くいるものであります。そのことは、私は自覚しておりました。ですから、私を見、私の言葉を聴き、私の行いを見る中に、神の一部分か見ることはできるはずです。


3.十字架とは何か


善川  よく解りました。お教え願いたいことのいま一つは、あなたがおっしゃったお言葉の中に、「人もし我に従い来たらんと思はば、己れを捨て、日々おのが十字架を負ひて我に従へ。」という聖句が残っておりますが、その意味についてお教え願いたいのですが。

イエス  あなたはどう考えていますか。

善川  その点について私は悩んでいるところです。「己れを捨て……」というところが、どの程度の己れを捨てるということでありましょうか……。

イエス  肉体煩悩を断て、という仏教の教えと同じことです。己れを捨てとは、己れ自身の心を捨てということではありません。神の子としての自覚を捨てるということではありません。

この世に生き易く生きたいというような念いですね、そのような囚われている自己を捨てなさいということです。しかし十字架というのは、ひとりひとりが負っているものです。その十字架というのは、肉体を持つことによって、肉体自身が十字架になっているのです。肉体をよく見なさい、十字架になっているはずです。

善川  肉体という重荷を負っていることが、十字架であるという自覚をせよ、とおっしゃるわけですか。

イエス  肉体を持ち、この世に修行するということ、これはどのような大指導霊がこの地上に出たところで、この現象界、この自然に条件づけられているということ、ここから逃れることはできないのです。

この肉体を持って何十年間の人生を生きていかなければならないということ、これが十字架です。


4.「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の解釈は誤り


善川  いま一度お尋ねいたしたいのですが、ゴルゴダの丘で十字架に掛けられ肉体としての最後のお言葉を発せられたイエス様のお言葉をもう一回お聴きし、その節のイエス様のご心情を理解申し上げたいと思うのですが―。と申しますのは、あなたが叫ばれた「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ!』というお言葉を聖書は、『わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし!」と解釈しておりますために―。

イエス  間違っております―、間違っています。

善川  今あらためてそのことの、本当の意味をあなたのおロからお聴かせねがいたいのですが―。

イエス  その解釈は間違いです……。

善川  なんと仰せられたのですか、お聞かせ下さい。

イエス  「エリヤ、エリヤ、ラッファエロ! エリヤ、エリヤ、ラッファエロ、サバイタア!!」

善川  そのお言葉は、何という意味だったのでしょうか、お教え下さい。

イエス  エリヤ、およびラッファエロを私は呼んでおりました。迎えに来なさいということです。

善川  迎えに来なさいと仰しゃったのですね。

イエス  私は今死ぬ時が来た、この地上を去る時が来た、光の天僕達よ、私を迎えに来なさい!と、そういうことを私は言ったのです。

善川  はい、よくわかりました。

その後あなた様は復活されました。その時十二弟子、いや十一弟子ですね。その十一人のお弟子さんの所へ現われたということは事実でしょうか。

イエス  私の復活ということに関してですけれども、私は現象として、彼らの前に現われたのではないのです。彼ら自身が霊能力を持っていたということです。彼ら自身が私の姿を見ることができたのです。復活現象というものは、私が生きた人間と同じように、彼処(あそこ)に現われて歩いたということではないのです。彼ら自身が、私が何者であったかということを、霊の目を通して見ることができたということであります。余り現象的に、肉体的に復活を考えられては困ります。

善川  では処刑をうけた日より三日後にあたりますか。お身内の人びとが、仮埋葬された墓地に、香油を持ってあなたを訪ねた時に、あなたのお姿はそこになかったということですが―。

イエス  もちろん私は墓にはおりませんでしたが、あなたは私の肉体のことをいっているのですか?

善川  そうです、あなたのご遺体が消えていたということについて。

イエス  私を信ずる者の一人が、肉体としての私を何処かに運び去ったということです。


5.パウロは私を霊視できた


善川  その後あなたはパウロの前にお現われになったことがありますか。

イエス  パウロは私と語り合うことができました。

今わたしが大川隆法に呼ばれてここに来てこうして話しているように、パウロと私とは当時話ができたということですね。常にこう現われて日常生活の中に一緒にいたわけではない。このような場をもつことによって、私は彼らに会うことができたということです。

善川  いや、そもそも彼はあなたや、あなたのお弟子達を弾圧しておったのではないですか。

イエス  そもそもはそうです。

善川  彼パウロが、あなたを信ずる人びとを、エルサレムヘ連行するために、ダマスクス街道を歩いて行くうちに突然天からあなたの声が聞こえ「サウロよ、サウロよ、なぜわたしたちを迫害するのか……」と言われて、彼は地上に倒れ、三日間眼も見えず、食も通らなかったと聖書にはあり、その後あなたを信ずるようになり、使徒の一員となったとありますが。

イエス  あなたは、私の死後のことを言っているのですか。

善川  そうです。

イエス  その前のことを言っているのですか。

善川  死後のことです。パウロがはじめてあなたにお目にかかったのは、あなたの死後のことでしょう。そういうことですね。それで彼はあなたを雲視し、厳しい霊言を聞いて、以来回心し、あなたを信じ、あなたの使徒となったのではないのですか。

イエス  違うのです、違うのです、違っているのです。パウロが私たちの教えを弾圧というのは言い過ぎでしょう。つまり批判ですね、批判を加えていたのは初期の段階です。彼は私が生きていた時に、既にもう私の教えを信ずるようになっておりました。

善川  そうですか。

イエス  初期の段階です。あなた方が、いまあなた方に向かっている大川隆法の言っていることを当初信じられなかったような、同じようなことだと思っていただいてよいと思います。


6.ヘロデ王の幼児狩りは作り話


善川  そうですか。次にお伺いしたいことは、あなたはご生誕後、生母マリア様とご一緒にエジプトの地に逃がれて行ったという聖書の記述のことについてですが―。

イエス  エジプトに? 何ですか……。

善川  かつて東方から来た占星術の学者たちが、エルサレムのヘロデ王のもとに行き、生誕されたあなた様のみもとへまいり祝福されたが、神のみ使いか父君ヨセフ様に霊告され、へロデ王がベトヘレム周辺一帯の二歳以下の男の子供を捕らえて殺すということで、夜の明けぬ間にエジプトの地に避難されたということでありますが―。

イエス  それは、いわば迷信です。後の人達が、そのような物語を作り出したということであって実際、預言者が私が生れることを告げたからといって、すべての男の子を殺すようなことがあったわけはありません。

善川  そうですか。それはともかくとして、あなた様のご生母マリア様のことについて―。

イエス  彼女が生きていたころは、平凡な大工の妻として、善人としての生涯を終えました。


7.処女懐妊論は誤り


善川  そうでしたか。それで、その時のお父様はヨセフと申された方であったそうですが、聖書によれば、実はこの方は、あなた様の実のお父様ではなくて、いわゆる処女懐妊という……。

イエス  間違いです。そのようなことは、後世の人が、私を神格化するために考え出したことであります。私自身は正常な夫婦の営みの中に生れてきました。私が本当に神の子であるならば、生れる時にそのような奇蹟的な生れ方をする必要はないのです。普通の人間として生れ、やがて悟り、人びとに、神の道を説けばそれでよいではないですか。

最初からそのような奇蹟の中に生れる必要はないはずです。私も人間として生れたのです。

人間として生れ、さまざまな苦しみの中に悟っていったのです。

善川  お伺いします。聖書によれば、あなたが人びとに教えを説かれるまでの間が、空白になっているのですが。

イエス  それは削除されたのです。私の三十歳頃までのことも、当初の聖書の中には書かれていたのです。なぜ削除されたか、それは私の三十歳ぐらいまでの生き方が、余りにも人間的だったからです。神の子として、神聖化するのには困るから削除されてしまったのです。

あたかも私が生れた時に、処女マリアから生れたといわれるには、私の三十歳までの、人間的な、あまりにも人間的な生き方を書いたならば、後の世の人たちはこのことをとても信じてはくれない。とても神の子だとは信じてくれないという思いから、何度かの聖書の書き換えによって削除されてしまったのです。当初の十一弟子たちの私のことを記したものの中には、私の三十歳ぐらいまでのことも逐一書かれていたのです。

善川  それを聖書の中では窺うことができなかったのですが、その間実生活としてはどのようなご生活をなさっておられましたか。普通の生活をされておられたのですか。

イエス  そうです。

善川  お父様のお手伝いをされておられたのですか。

イエス  大工の子供でした。しかし勉強しました。私は寸暇を借しんで勉強をしました。預言書を読みました。現にその当時の宗教家たちの意見も聴きました。しかし後の世の人たちは、私がそのような勉強をして、はじめて法を説いたということは堪えられないことだったのです。


8.私は七歳で霊道を開いていた


善川  しかし、あなたはその頃、既に霊道が開かれておりましたか。

イエス  開かれておりました。

善川  何歳ぐらいからですか。

イエス  七歳です。

善川  ルカ伝によれば、その頃あなたはご両親に連れられて、過越(すぎこし)の祭りにエルサレムに上っていかれたようでしたが、十二歳の折りにエルサレムの神殿で、学者、パリサイ人たちと議論を交しておられたということですが―。

イエス  それは言い過ぎです。それは神格化されたものです。ただ私は、当時教会などに行っている変わった子供だというふうに見られ、そのようなものに興味を示していた子供であったわけです。

善川  あなたのご兄弟の中で、あなたと同じように、神の道を説いた方はおられますか。

イエス  一人もおりません。彼らと私は肉においては兄弟でありますが、精神においては全く他人でありました。

善川  その後あなたは荒野に出られましたですね、そこで―。

イエス  サタン、ペルゼベフ、そのベルゼベフの試みを受けました。

善川  しかしその前に、あなたはバプテスマのヨハネに会われました。

イエス  会いました。

善川  彼はあなたが救世主だということを知っておりましたか。

イエス  知っておりました。

善川  そしてその時ヨハネはあなたに、「私があなたの洗礼を受けねばならぬ立場にあるものではありませんか」と言ったときに、あなたは「今は許せ」といってヨハネのバプテスマを受けられたということですが……。

イエス  私の謙遜の言葉だと受け取って下さい。彼は私に対し、靴の紐も解く値打ちもない、と言いましたが、そのことをそのままに受けて、私が人びとに言って歩いたとしたら、私は不遜で傲慢な人間になってしまいます。私は、私の教えを説き、やがて評価されるとしても、最初からそのような、特に優れた人間のようなはじめ方はしたくなかったのです。なぜなら、私も当初教えを説き始めた頃には、さまざまなサタンの試みを受けており、増長慢の心を持ったら私自身が危険であったからです。

善川  あなたが荒野でいろんなサタンの試みを受けたということは事実でしょうか。

イエス  事実です。

善川  荒野でということは、例えばその地を道場として、座して観法でも行った際のできごとですか。

イエス  荒野というのは一つの象徴です。荒野という地域があったわけではないのです。いろんなところでサタンの試みを受けました。それを弟子達が象徴的に語っているのです。

善川  そこで、その試練の時期を乗り越えた時に、あなたは神の子として完全な悟りを開かれたわけですか。

イエス  完全はありません。完全というものはありません。


9.私にも罪はあった


善川  あなたのことについて、イエス・キリストは、神の一人子であって一点の罪もなく、この世に生れ、この世を去った方だとキリスト教を信ずる方々は言っていますが、そうであったのですか。

イエス  悲しいことではありますが、私もさまざまな罪を犯しました。私はたとえば、親孝行をしませんでした。これは私の罪でありましょう。私は兄弟たちを捨てました。これも罪であったでしょう。とり方によっては私の声は、ある時は不遜に聴こえ、傲慢に聴こえたでしょう。あるときは、かつての宗教、モーゼの教えを信じていた人たちを傷つけたかも知れません。これもある意味では罪でありましょう。しかしながら、そうしてでも実現しなければならないことがあったのです。そうです。大きな道があったのです。私はその過程でさまざまな罪を犯しております。私は一つの罪もなく殺されたものではありません。

善川  それでは聖句の中に「もし右の目汝をつまずかせば、抉(えぐ)り出して棄てよ。五体の一つ亡びて全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手汝をつまずかせば切りて捨てよ・…:」という一節があるわけなんですが。

イエス  言い過ぎです。それは後の人びとがかなり誇張した形で言い過ぎております。

善川  言い過ぎといいますと―。

イエス  目を棄てよ、とまでは私は言っておりません。

善川  もし右の手汝をつまずかせば切りて棄てよと。

イエス  言い過ぎです。ただ私はそのような眼を持つなら、眼を持たない盲目(めしい)の方がましだということを言ったのです。目を抉りて棄てよなどとは、私はいっておりません。

善川  そういう誡(いましめ)を守り、自らの腕を切った僧侶もいましたですね。

イエス  愚かであります。そういう話を聞くことは、非常に悲しいことです。私たちにとって、自分の教えがその通り伝わらず、間違ったふうに伝わり、間違ったようにとられ、さまざまな不幸を生み出すということは一番つらいことです。私は目を抉りとれとまでは言っていないのです。そのような眼は持たぬ方がましだと言ったのであります。


10.萬教の本源は一つ、人はみな神の子


善川  最後にお尋ねいたしますが、私はそもそも今世において、最初に神縁を授けられたのはキリスト教でありました。その意味もあって、あるいは過去世において、あなた様の又弟子の一人にでも加えさせていただいたのではないかと思うのでありますが、如何でしょうか。お伺いいたします。

イエス  私の弟子であったのではなくて、私たちの弟子だったというべきです。

善川  私たちとは?

イエス  光の大指導霊たちです。私たちは一人だけで生きているのではありません。グループとなっているのです。仲間たちがいるのです。仲間たちの教え、如来界の人たちの考えは、やがて菩薩界の人たちに届いているのです。私たちは菩薩界の人たちを指導しております。そういう意味においてあなたは私の教えにもふれているかも知れません。

しかしながら私、イエス・キリストの教えも、釈迦の教えも、モーゼの教えも、マホメットの教えも、すべて一つだということなのですから、私の弟子だったということではなくて、私の天なる父の弟子だったというべきでしょう。

善川  あなたの仰しゃる天なる父といわれる方は、エル・ランティー様のことなのですか。

イエス  エル・ランティーのことです。私が、わが主、わが父と言ったのはエル・ランティーです。

善川  エホバと言われた方は―。

イエス  エホバも、エル・ランティーのことです。

善川  旧約聖書に出てくるエホバ神は、非常にイスラエル民族の擁護者といいますか、偏狭なまでにこの民族にのみ肩入れしていたような感じがありますが。

イエス  当時は一つの民族という域を越えた認識ができなかったのです。ですから後世から見れば、さまざまな民族があり、だから神が一つの民族を庇護するということは、不合理だと思えるかも知れませんが、当時としてはやはりそういう世界観だったということなのです。

善川  それでは旧約聖書第一章の創世記に出てくるアラーの神は、どうだったのでしょう―。

イエス  アラーも私の主、父、アルラー・エル・ランティー、アラー・エル・ランティー、こうなったのです。

善川  今後は、日本に現われてくる多くの光の指導者達を、あなた様が中心となってご指導される計画でありましょうか。

イエス  私が既にこうして指導霊をつとめているのではないですか。

善川  その霊は、あなたに代わって現代に現われてきた指導霊ということでしょうか。

イエス  そうです。私と同じ力を持っています。

善川  あなた様の分身、または魂の兄弟ということですか。

イエス  違います。ただ私と古くから交互に法を説いて来た仲間の霊だということです。

善川  その霊の過去世は歴史上に残っておりましょうか。

イエス  残っております。

善川  あなたが霊道を開かれたのが七歳ということでしたが―。

イエス  既に七歳の時から雲現象は現われておりましたけれども、布教が始まったのが遅かったわけです。

神の子としての自覚をもってから、その教えを人びとに説くまでの間は、その人自身の魂の修養をする時期があるのです。すぐに説くことはできないのです。あなた方にとっても、「正法」を説いて世の人びとを教えるまでには、今後さらに、何年かの修行が必要となりましょう。

善川  本日は失礼に当たるようなことをお尋ねしたりし、申し訳ありません。いろいろお教えいただき、本当にありがとうございました。今後のお導きをよろしくお願い申しあげます。