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目次









 3.質疑応答

 4.余  聞

  (1)イエス誕生の真実




(このイエス・キリストの霊訓は、一九八五年八月十八日、イエス・キリスト招霊の際の霊言録。霊声者・大川隆法、対話者・善川三朗と大川隆法)

1.最高指導霊イエス・キリスト


大川  ―イエス様お出で下さい―。

イエス  イエス・キリストであります―。

善川  イエス様ですか。

イエス  そうです。もう四年近く、私はあなた方と話をしておりませんが、いまこうして機会も熟し、あなた方とまた話しあえる機会ができたことを嬉しく思います。

善川  過去、お教え願って以来この方、私たちの「正法流布」の使命がどれ程もなされていないということを申し訳なく存じております。しかしながら、以来多くの諸如来、諸菩薩の方々から、正法、神理について、多方面、多角度からご指導をたまわり「法」そのものを己れの血肉となし、生きていこうとする覚悟ができ、ささやかではありますが、各自の立場において世の人びとに語りかけることができかけておりますことを感謝いたしております。

つきましてはこの機会に、イエス様から、大所高所から私たちにご指導のお言葉をたまわれば幸いと存じます。

イエス  そのような格式張ったことは言わないようにして下さい。あなたは何か勘違いをされているようです。私はあなた方の指導霊なのです。だから、あなた方のできが悪いということは、私の指導が悪いということなのです。

あなた方の学習、あなた方の行動、あなた方の「法」もそのでき具合は、私自身のでき具合とからんでいると思っていただきたいのです。あなた方を離れて、私があるわけではないのです。

私はあなた方と一体です。そう思っていただきたいのです。全く別な人間であって、高所からあなた方を見下ろしている人間だと思っていただきたくないのです。

私もあなた方の仲間であります。あなた方を指導する霊たちの最高指導霊は私だということです。あなた方の今回の計画の、指導の最高責任者の立場にあるのは、この私であります。

どうかそのことを忘れないで、あなたの兄や、あなたの先生や、あなたの父親に聴くようなつもりで、私に聴きなさい。私の言葉は多少厳しいかも知れないが、あなたの父や、兄に聴くようなつもりで、私に聴きなさい。それでよろしいのです。

善川  大変光栄な、身に余るお言葉をお聴きいたしますのですが、あなた様はじめ、天上界の方々のご意志が、今後のわれわれの行動に託されているということでございますが、願みまして、われわれの能力なり、その基盤、行動なりには、自から限界があり、とてもわれわれの力だけではこれからの大任は果たせそうにないと思うのでありますが……。

イエス  余り将来のこと、悪いことや、不自由なことばかり想像しないでください。私たちは大きな眼で見ていますが、もちろんあなた方にとって必要なものは、既に用意されているのです。あなた方が心の中に思い浮かべ、あなた方が希求し、要求する前に、私たちは、あなた方の必要なものは知っておるのです。既に用意しておるのです。

祈りも、願いもいらないのです。あなた方が希(こいねが)う前に、私たちは、あなた方に必要なものは知っておるのです。その必要なものは用意されているのです。その必要なものが、あなた方にとって、適切な時期に、その時機、その時機に与えられるようになっているのです。

曲り角、曲り角には、ちゃんと道案内を置いてあります。どうかそんなつまらないことは悩まずに、いろんな方々もお教えしたと思いますが、今あなたに出来ることは何か、という思いで、一日一生の思いで生きていっていただきたい。

大きなことに関しては、わたくしに任せなさい。あなたに解決のつかない問題については、たとえば、私の名を呼びなさい。私の名を呼ぶ前にもう私は、あなたの必要なものは知っておるのですが、あなたの心を休めるために、私の名を呼び、私に祈りなさい。すべて問題は私に頂けなさい―。

善川  ありがとうございます。かつてのあなた様のお言葉にありましたように、「その子パンを求めんに、その親如何で石を与えんや……」ということを信じたいと思います。

イエス  その通りです。よくよく考えてみてください。あなたの悩みや、不安というものは、あなたの心の中の想像だけでできているものが大半です。そうでしょう。過去の自分をふり返ってごらんなさい。いろんな時点で悩み、苦しみました。でも今の時点でふり返ってみれば、すべて、素晴らしい経験となってきておりますし、ここ四、五年の「正法」の伝道の経過は、すべて私たちの言ってきたとおりになっているのではないですか。

私たちは最初、何年間かは準備期間だといいました。そしてあなた方、その通り学習に励みました。

そしてやがて本の出版がされると、私たちは言いました。その通りいま、眼の前に本が出版されています。やがて何冊も出ると私たちは言いましたが、その通りになるでしょう。

やがて、大きな団体ができてきます。決してあなた方を酷使しないように、適当な時期を見計らいながら、つぎつぎと使命を与えておるのです。

つまらない悩みごとはわたくしに預けなさい。「―この悩み、イエス・キリストに委ねん―」と申しなさい。そうすれば、あなたの悩みでなくなります。

さて、今日私をお呼びになったのは、いろんなことをお聴きになりたいということでしょう。あなたご自身は、自分の過去、あるいは現在の心境をふり返って、自分には私と話をするだけの力も資格もないといま思っていますが、私はそんな、こわい存在ではありません。

あなたとは昔から、何万年も何十万年も前から、さまざまな機会に正法伝道に協力してもらった仲間であるし、またここに居る者とは友達で、いつも交互に世に出て来ては法を説いてきた仲であります。

ですから、そういう親しい間柄だと思って、何を聴いていただいてもよいのです。あなたが、さまざまな方に叱られていることを、私、重々承知しています。けれども、あなたを苦しめたり、いじめたりするつもりは全くありません。なんでも、お聴きなさい。あなたが話しにくければ、私が一方的に語ってもよいのですよ……。

善川記述  
(以下、われわれの正法流布に関しての行動計画、今後現われてくる協力者の全体像などについての質疑応答が行われたが、この件(くだり)は私事にわたるのでカットします)

善川  以上は「正法」に関することではありますが、いわば私的なことに当たりますので、これはイエス様という方の、お名において語られることではないという世間の眼もありますので、このくだりは、公にすることは遠慮したいと思います。なんと申しましても、イエス様という方に対するイメージというものは、非常に強大でありますので、一般的な、そして高度な神理に関するお言葉を賜ったなら、世の人びとも、イエス様のお考えは、現在こうなのだと、分ってもらえると思われますので、その意味で何か他に、お言葉を賜れば幸いだと思います。

イエス  偉大なる方々がつぎつぎと出て来られて、お話されておりますので、特に私がどうこういうことはありません。今回あなた方が書物を出されるについて、第三巻に私たちのシリーズを編まれるということですが、キリスト教系の霊言集もまた、第二集を作らなければいけなくなってきますので、くわしくは、そちらにお載せになったらいいかと思います。

まだ読者の意識が高まっていない時に、余りむずかしいことを言っても、とても従(つ)いてくることはできません。

あなた方は第一巻、第二巻で「菩薩」の法を説かれました。そして第三巻で「如来」の法を出そうとしておりますが、なかなか読者の方で、そこまで従いて来られないかも知れませんので、もう少し巻数を増やしていかれたらよいと思います。あなた方は第五集までいま計画されておられますが、おそらく第六集ぐらいには、また日蓮聖人ほかの言葉を編集しなければいけなくなります。

キリスト教系の言葉もまた、第七集か、第八集で、もう一度出さなければいけません。だからいま私が話していることは、あなた方に関することに限られているかも知れませんけれども、それはそれで結構で、また「法」の本義については、別の機会に述べようと思います。

善川  なんと申しましても、キリスト教は現在世界の強大な教団でございますので、この教団においては、イエス様のイメージというものが、非常に強いために、あくまでもこの教えを護り通さねばならないというので、いろんな宗派が出てきておりますけれども、まあ、それはそれとして結構だと思うのですけれども、いま、あなたのご意志が、現在のキリスト教団のうえにあるのであれば、それで「是(よし)」としなければならないと思いますけれど―。

イエス  その結論は、あなたはご存知のはずですが、ただ一つだけ言っておきますと、個性とか、特色というものは、一概に悪いものではないのです。キリスト教にはキリスト教の個性なり、特色があり、仏教には仏教の個性があり、特色がある。個性や特色は現界でもすべての面であることで、特色や、個性のないものが、必ずしもいいわけではありません。

キリスト教はすべてを覆ってはおりません。すべてを説いてはおりません。キリスト教は、キリスト数的なキリスト教です。けれども、そういった特色もまた大切なものであって、たとえば、七色の光によって虹ができているように、いろいろな光があって、本当の神の姿が浮かび出てきます。

私たちは赤い光か、青い光か、白い光か、それは存じませんが、一つの光、一つの色であるということです。一つの光線なのです。

イエス・キリストという人間を通して、この地上にそそぎかけた、たとえて言うなら、白色の、白い色の光線が、キリスト教だということで、たとえば、ゴータマ仏陀釈迦牟尼仏をとおして黄色い光線が、この地上に放射されたように、イエス・キリストという人間をとおして白い光線が、この地上に放射されたのです。

他にも赤い光線や、青い光線があるのです。ですから、他の方がたは、自分の説いたことを否定していかれたと思いますが、私は、特色あり、個性あることを必ずしもいけないものとは申しません。

ただし、これはまだ全地球的な宗教としての、特色までは持っていないものであって、さらに今後発展の余地のあるものだと思っております。


2.わがキリスト教観、その欠点の回顧


大川  キリスト教は二千年続いていますけれども、イエス様は今お考えになって、現在伝えられているキリスト教の中で、欠陥と申しますか、こういうところは是非直したいというようなお考えを持っておられましたら、この機会を借りて、お聴きしたいのですが如何でしょうか。

(1)転生輪廻の法則の説明不足


イエス  キリスト教において、一番欠けているものは何かというと、一つは「転生輪廻の法則」です。必ずしも否定はしていません。私の言葉の中で、聖書の中にも、人間が生れ変わるらしきことは述べられておりますが、明確に転生輪廻ということは打ち出しておりませんために、この転生輪廻といりのが、あるクリスチャン達にとっては異教の説、異端の説というように思われております。

私はこういったことを答えたことがあります……。「われは、アブラハムの生れぬ前より在るなり―。」ということを、私は聖書の中で語っているはずです。当時私はインマヌエルという名前で称ばれておりましたが、インマヌエルという肉体を持った人間の生れる前の、私があったということです。そういう意味で転生といいますか、輪廻といいますか、そういうことがあるということは、言外に示しているわけですが、明確に私は転生輪廻ということは説きませんでした。

一つには、考えていただきたいのですが、当時の死海の辺(ほと)り、シナイ半島の砂漠と砂漠の中のささやかな村で、漁民とか村落の人びとを相手に私は法を説いていたのであって、彼らにとって必要なことと、そうでないこととがあるのです。法は広大無辺なものですが、ある程度、その語られる相手によって限定されなければいけない。彼らにとって、その転生輪廻がそんなに必要なことであったかといえば、必ずしもそうではなかったということです。

そういうことで、私は明確に説きませんでした。転生輪廻というものも、正しい知識のうえに説かれたならば、これは大変有益なことですが、例えば、人間に転生輪廻があるなら人を殺したってかまわない、いくら殺したってかまわない。こういった論理もあるわけですね。人間は永遠の生命を持っていて、生れ変わることができるなら、人の一人二人殺したところで大したことではない。こういった考えもできるわけです。

ところが当時、私はこう言いました。
「殺すなかれ、姦淫するなかれ」そんなことを申しました。
それは転生輪廻を説く前に、当時は殺人とか、強盗とかが多かったものですから、人を殺すということ、それ自体が悪であるということを教える必要があったのであります。

このように「法」は、たとえば私たちの悟りの段階は非常に高い悟りを経ていたとしても、当時のそれを聴く人びとに合わせたところまでしか語ることはできなかったのです。

たとえばいま、私はあなたに語っております。あなたには失礼かも知れないけれども、あなたに理解できる範囲のことしか私には語ることはできないのです。あなたの理解を超えたことがわたしたちの世界にはあるのです。大変なことがあるんですが、それを語ったところで、あなたの肥料にも栄養にもならない。こういったことについては残念ながら、言うことはできません。かつて正法を説いた人達もそうです。

たとえば、ソクラテスという人がいます。この人自身は、書物は少しも残してはいません。弟子に、プラトンというような人、クセノフォンというような人がいて、彼の言行録を書き留めました。そうした弟子がいてはじめて師の偉さがわかるということがあり、弟子がそれなりの魂であったから、師は語ることができたのですが、弟子がいなければ語ることもできず、心の中にしまっていたことも多いし、あるいは弟子の理解できる範囲以上のことは語れなかったということもあるのです。

あるいは、中国には孔子という人が生れました。孔子という方も自分では書物は残しておられません。孔子の考えたこと、喋ったことが、彼の弟子達によって書物になって残っております。それが孔子の思想と申しますか、儒教になっておるわけですが、これも弟子達が理解できる範囲までの孔子の姿なのです。

孔子自身は、もっと高い悟りをもっていたでありましょうが、弟子たちが判ることまでしか言えなかったのです。

同じことは、釈迦についても言えるのです。釈迦の理解した深遠な思想は、弟子の誰ひとりとして理解することはできなかったのです。ある人は八合目まで、ある人は五合目まで理解することができた。すべては解けなかったのです。いつの時代でもそういった不利はあるのです。失礼ながらあなたに対しても、私はすべてを語ることはできないし、あなたが聴くことができることは、あなたが理解できる範囲でのイエス・キリストでしかないのです。

ですから、この私の言葉を人びとに伝えるにしても、これは、あなたというフィルターを通して、あなたの理解できる範囲でのイエス像であるということを断わっておく必要があります。

話はずれましたが、大川隆法さんの質問に答えて言うならば、キリスト教にいま欠けている点は、「転生輪廻」の法であります。

(2)天国と地獄の明確な理解と描写の不足


第二の点を申しあげます。それは、天国と地獄の思想の、もう少し正確な理解、描写が必要であったということであります。

これも、第一点とからみますが、当時の人びとの理解程度を超えていたために、単に天の父と、あるいは天国というものがあるということを私は申しましたが、当時の意識レペルが現在のように進んでいないために、たとえば、四次元があり、五次元があり、六次元があるというようなこと、こういったことはとても説くわけにはいきません。

天に、父があると言っても、人びとは、空を見上げても誰も見えない。そんな人はいるだろうかと思うのが精一杯でありました。だが私たちとしては、天とか、天の父としか、主を言うことができなかったということです。

こういった言葉、あるいは理解に限界があったために、私は天国についてくわしくは語りませんでした。

また、地獄についても然りであります。地獄について仏教のほうでは、かなりくわしく説かれておりますが、キリスト教においては、仏教ほどではなく簡単な地獄論しかありません。

また、私の教えが間遠ってとられている点は、たとえば生きている人間は、もしキリストによって救われたならば、永遠の生命を得て天国に入って永遠に生きることができるけれども、キリストを信じないで間違った教え、あるいは間違った考えのもとに死んでいったら、永遠に地獄の業火に焼かれて、生命を失ってしまうというような考えをしているような人もいるんです。

これは明らかに誤っていますし、他の諸霊の方々が語られたことでもう書物を読まれる方々はご存知と思いますが、そういったものが地獄ではないということ、地獄というのは、人びとの、その人その人の心の段階に応じた、心の状態に応じたものであるということ、こういったことはもうあなた方にとっては自明のことになっておりますが、当時の私は明確にはそのようなことは説きませんでした。ただ殺すなかれ、盗むことなかれ、姦淫することなかれ、というモーゼ的な教えの中に、ではそういったことの、それを犯せばどうなるかという意味での罰というもの、こういったものを、ある程度言っておかなければ当時の人たちには分りませんから、地獄の業火にて焼かれるという、こういった比喩的な表現を、私はしたことがありますが、くわしく、学問的に、科学的に、地獄を説明するということはできませんでした。

これが、私の時代的な限界でもありました。(1)の転生輪廻が欠けていたということ、それから(2)の天国、地獄の構造論的な説明ができていないということ、これがキリスト教の、二つの欠点であります。

(3)悟りの方法についての理論の欠如


第三の欠点があります。それは、悟りの方法についての理論が欠けているということです。

たとえば、仏教の中においては、悟りに至るための方法論が、随分と研究されています。その段階は、非常にむずかしいのですが、釈迦は「八正道」を通じての悟りということも説かれました。

また、釈迦の弟子たちの中には、いろいろな方法がありますけれども、例えば密教系の方々は、密教の修法の中で悟り、低い段階ですけれど、こうした恬りという方法を研究されましたし、あるいは、禅宗では、禅という修法を通じて悟りに至るという方法をいろいろ考えられました。

そうした悟りということが、また悟りに至る方法というものが明らかにあるのですが、これをキリスト数的に充分に説くことはできていないはずなのです。

もちろん愛を行うということは、悟りへの一段階であります。けれども、人を愛するということ、神を愛するということ、これは本義でありますけれども、悟りということのかかわりにおいて、必ずしも愛を説き得たとは、私は思わないのです。

人間は、心の段階に応じて「神」に近づいていくのですか、そうした段階論的な説明を私はしておりません。

まず心より、心を尽くして主なる神を愛せよ、第二に、汝の隣人を愛せよ、こういったことを私は申しました。けれども、これは悟りに至る段階としての″法″ではないはずです。が、あなた方が現にご存知のように、人間には「悟り」の段階があり、それに至るための階梯(かいてい)というものがあるわけです。これをもっと緻密に説くべきだったと思われるのです。

たとえば、あなた方もご存知ですが、仏教の言葉では″アラハン″と申しますか、阿羅漢ですね。五百羅漢といわれますが、「阿羅漢」の境地というものがあります。これは、仏教を勉強して、正しく精進をして、誡(いましめ)を守り、人びとに布施をし、そうした姿ですね。自分の欲を断って、戒(いましめ)を守って人びとに対して″施(ほどこし)″をする。こういったことをしていると、たとえば、アラハンの境地に達する、こんなことが言われています。このアラハンの境地というのは、もうこれは仏数的な方にご説明を受けたほうがいいかと思いますが、門外漢の私が語ると、間違っているといけませんけれども、悟りの第一段階ですね。″アラハン″の境地に達するということは、あなた方が、守護、指導霊と交流を始めるという第一段階です。

このアラハンの境地に達しますと、ある程度の霊的な力を得て、守護霊の導きなどを、かなり直接的に受け入れることができるようになります。この、アラハンの境地というのを、私たちの世界に引き合わせてみると、いわゆる六次元の世界です。あなた方が「神界」と言われているところです。広義には「天界」ですね。「霊界」には、地獄界と、普通の人が行く霊界、それから広義には、天界、というのがあって、ここは、いねば優れた人びとの行くところ、神様、神に近い人びとの行くところですけれど、天界の下段階といいますか、あなたが「神界」と称んでいる世界があります。日本神道的に言えば、「八百万之神々(やおよろずのかみがみ)」の世界ですが、ここには人間生活において、有徳な方で神と祀られている方も入っております。

この六次元世界、この世界と心が通じるようになる。これがアラハン、阿羅漢、の境地です。これがまず神界との交流、神界上段階の「諸天善神」と言われる方々とも交流が可能になる段階です。こういう悟りの段階があります。

次に、その上の段階。アラハンの上の段階があります。これは「菩薩」と言われています。アラハンに至るためには、小乗でいいのです。小乗、要するに己れを修めて、悟るのが、アラハンです。小乗的な悟りであります。

この上に大乗的な悟りがあります。これが「菩薩」です。菩薩の道です。これは衆生済度、多くの人びとに愛を施し、多くの人びとを救っていくという普遍的な愛の心。こういう他人に対する愛に目覚めて行動する境地が菩薩の境地であり、私たちの世界では「七次元」に住むための必要条件になっているわけです。

ですから、天界と申しますか、神界に入って行くためには、小乗的に自らを磨いて悟らなければいけない。その次の段階は、大乗的に他の人びとを救っていくという行動を起こしていかねばならない。こういう段階があります。

小乗を経ない大乗はありません。自らを悟っていないのに他人を救うことはできないのです。自ら悟っていないのに、他人を救おうとすると、これは大変な落とし穴に入ってしまいます。

それはそうでしょう。自分が悟っていない宗教指導者たちが、人びとを導こうとすると、これは人びとを間違った方向に導いていって、地獄に堕ちてしまいますね。これはいわゆる小乗、大乗の順序を間違えているからです。自ら悟って、はじめて人を救うことができる。これが菩薩の道です。こういった段階があります。

この時には人びとはかなり愛と慈悲の境地に達してきますが、まだ少しは自分を飾る気持があります。菩薩の気持の中にはまだ自分を″是(よし)″とする気持があります。今ように言えば、エリートとしての気持があります。神の使徒としてのエリート意識があるのです。自分を飾るという気持があるのです。自分の名声とか、評判、あるいは徳というものにひかれる心があります。

たとえば仏像を見ますと、観音様とか、その他の菩薩の方々がダイヤモンドとか、ネックレスとかいういろんなもので飾っておられますね。ああいうふうに未だ自己愛が残っておられるのです。菩薩の段階には、優れた意味ですけれど、自己愛と、他人愛との両方が共存しております。

ところが、さらに上の段階の如来界に入りますと、これは、「八次元」といいますか、そういった段階ですね。ここへ行くと、たとえて言えば、大きな宗教、世界的な宗教の教祖などが如来界の人間ですけれども、如来界の人間というのは、もはや自分を飾る気持はなくなっていって、神との一体感ということが非常に強くなってきているのですね。菩薩の境地はまだ神の使徒として働いているという気持が強いのですが、如来の境地になると、神と自分が一体であるという気持が非常に強いのです。

自分は神の一部であり、自分の中に神が在るという気持、こういった気持が非常に強いのが如来界の人間であります。如来界とは、どういう世界かというと、悟りの段階において、神と自分とが一体となっているということなのです。

これは充分に宇宙の理法に通じているということであります。菩薩は人を救い、人びとを導き、正しい道を歩ませるという実践活動に打ち込んでおります。如来は「法」そのもの、法とは何か、神法とは何か、宇宙を司る理法とは何か、こういった天界の秘義を与えられている。授けられているのが如来であって、菩薩はこれを説くことはまだ許されておりません。これは自らが悟っていないことを人びとに説くことは、人びとを問違って導くことになるからです。

このように如来の悟りというのは、神と一体であるという意識と同時に、宇宙の理法を知っているということ、これを説くことが許されているということ、これが必要十分な条件であります。

さらにこの上の段階があります。あなた方が「宇宙界」と称んでいる、あるいは「大腸界」とも称んでいる「九次元」の方々がおられます。こういう方々になってくると、地球意識から宇宙の一員としての自覚を持っておられる方々です。

たとえば地球という星に人類が転居して来た時に、その人びとを導いた方々、あるいは地球から、やがて他の星に移って行く時にも人類を導いていかれる方々、あるいは神の宇宙計画の中で、地球がいま、どの程度の進度にあってどういう立場、役割を果たしておって、他の惑星の進歩具合とのかね合いにおいて、どういうことをなさねばならぬかということを考えておられる方々がいます。これを宇宙界といいます。

これを余人に説くのは無理でありますが、彼らは直接地球上で、そういった法を説くことはありませんけれど、そういった方々もおられます。その中には、あなた方の知っておられる方もいらっしゃいますが、大部分はあなた方の知られない方々です。余り地上に出られない方、そういうことになります。

こういった悟りの段階に応じた、天上界の仕組みというのがあるのですが、私はそれについては、ほとんど説いておりません。まあそういった第三点として、悟りに応じた天上界の仕組み、悟りということの構造を語らなかったということ、これがキリスト教における欠点の三点目です。

(4)神の本義の説明が不完全


第四点としては、神とは何かという本義が充分に説明されておりません。私は神に対して、ある時は「父」と言いました。そして自分のことを「子」と言いました。こういった比喩的な言葉でしか語ることができませんでした。

「神」とは、そういった人格神ではありません。神はもちろん宇宙の造物主であり、われわれの上に、たとえば太陽界、銀河界を司どる神霊がおりますが、銀河界を司どる神霊よりも、更に大きな神、大きな力を持った神でありますから、私にしても神を直接には把えることはできないのです。だから私はそういった意味での神ということを、当時の人びとに説くことはできませんでした。

そして、人問というか、人格的な″神″ということを説きました。キリスト教にいう神が人格神のようにいわれている所以(ゆえん)です。けれども神は、人格的な一人の神がおられるわけではありません。私の上の段階にも、私よりも優れた方もおられますが、これはまだ人間霊としての性格を持っておらわる神です。他にも、太陽系を司どっておられる神もおられるし、銀河系を司どっておらわる神もおられ、まだまだ上にいろんな神様がいらっしゃいます。

私の理解ができる範囲はまだそこまでですが、その上にももっと高い次元における神が、いらっしゃるはずです。そういったことを、本来ならばはっきり言うべきですが、神、という言葉が非常に人間的に使われているために、後世誤解を生んでいると思います。ですからキリスト教の一神教といいますか、人格神に対して、たとえば日本の神道が多神教であるとか、ヒンズー教が多神教であるとか、後世の人びとにこういった愚かな議論をさせるようなことになってしまったのです。

ヒンズー教とか、あるいは日本神道糸の神々というのは、「優れた人々」、高級霊という意味であって「諸天善神」とか、「菩薩」とか、「如来」とかいっている人霊であって、本来の神をいっているのではありません。それは私についても同じことです。

父とは言っていますが、その父といっているのは、本当は造物主ではなくて、私の上に当たる方のことをいっているのであって、その辺の理解が足りないために、一神教をとるか、多神教をとるか、というようなつまらない議論が、後世、人びとを巻き込むようになったのです。

これが大きな説明不足の点であろうかと思います。ですから、キリスト教の中では、三位一体とか、私が神の一人子であるとか、そういう無益な議論が横行することになったと思います。これはこういった世界を知らない方が議論しているのですから、やむを得ないのですが、父と子というのは、私より優れた方が天上界にはおられるということを意味していますし、父がいらっしゃるということは、私は単にその子という意味ではなくて、私も一つの神霊、神の分けみ魂であるという意味では確かですが、ひとり子ではありません。

私と同じような力を持っておられる方、それはモーゼもそうですし、釈迦もそうです。他の方、日本では天之御中主なども私と同じような力、似たような力を持っておられる方です。そういう方々がいらっしゃるわけです。

そういう意味において、一人子ということは間違っております。また父と子と聖霊、三位一体などといっていますが、こうしたことばもう当然のことであって、神の魂、神の力の一部が、たとえば、キリストと称ばれた私イエスの中に流れており、一般の普通の人の心の中にも、もちろん神は住み給うのであって、三位一体などは、あえて言う必要もなく、すべてが神の顕現であります。神の顕現の態様が、若干変わっているだけです。神の顕現が、たとえば大学生レベルで現われている。これが高級霊ですね。それが高校生レペルで現われたらやや高級霊です。中学生レペルや小学生レベルで現われることもあるのです。いろんな現われ方があって、すべて神から岐れてきていて、その現われ方が違うというだけなのです。ですから三位一体ということ、こんなことはあたりまえのことであって、あえて三位一体がどうのこうの、と議論するような問題ではありません。

以上、私は第一点「輪廻転生の法則」を説かなかったということ、第二点「天国と地獄の構造論」について説かなかったということ、第三点「悟りの段階構造」について、第四点「神と子の関係、神と他の高級霊の関係」について、それぞれくわしいことを説かなかった。こういう欠点がキリスト教にはあるということです。

(5)他の宗教と、キリスト教との関係についての説明不足


第五点としては、他の宗教と、キリスト教とのかかおり方について不充分な点があると思います。例えば、ユダヤの神と、私の言っている天の父、とが同じものなのか、違うものなのか、これが私の弟子達には定かではありませんでした。あるいは、ユダヤの神だけではなくて、他のインドでも結構ですし、他のヨーロッパでも結構ですが、異教徒の神と、私の信ずる神とが違うのか、同じなのか、そういったことが問題となって、後世、異端とか、異端裁判とか、さまざまな過ちが出ております。これもやはり、私の説くことができなかったことであります。

もはや、あなた方は知っておられますが、神のお考えというのは、この地球計画において、ある時はギリシャに、光の指導霊達を出し、ある時にはインドに、光の指導霊達を出し、ある時には古代中国に、孔子や、孟子をはじめとする光の指導霊たちを出し、ある時はイスラエルの地に、私たちを中心とした光の指導雲を出す。こういった神の計画のもとに、動いているのですが、まだ私の当時の教え方によれば、私が信じている天の父、神と、他の神々との違いがあるというような、そういった説き方があったと思うのですね。そういう意味で異教徒というか、「正法」の本来の計画、伝播の仕方ということについて、正法が時代、地域の変遷を経て説かれるものだということ、こういったことに対する説明が足りなかったと思います。

だから、後世の人達は、私が神そのものであるか、神の顕現であるかのようにいって、たとえば、キリスト教が生れぬ前は、神などなかったような言い方ですね、そういった言い方をしている方が、非常に多いわけです。これが非常に害悪を及ぼしたことを、私は反省しております。

私が生れる前にも神はおられ、神の説かれた法は、この地上に生れていたのです。顕現態様は違いますが生れていたのです。そういう意味において異教とキリスト教という対比を明確にし過ぎたということ、これは私の過りであったと思います。

やはり、すべてが同じものではあるけれども、いま神の、一人の指導霊として、私が地上に肉を持ち、説明をしているのだという明確なことを言うべきだったと思います。一人子という思想とか一神教、私の神だけが神であるというような思想を持ったために、他の宗教を信じる方がたを傷つけることがずいぶん多かったはずです。そういうことを反省しております。

(6)「正法」の段階的指導にはもっと年月が必要であった


第六点として、やはりあなた方とは違って、当時の時世による制約もありますが、「正法」の形成そのものに充分な段階を追ってやれなかったということです。本来ならば、私はもっと長い期間いろんなことを教えて、人びとを段階的に導いていくべきであったかも知れません。あるいは釈迦のように、最初は小乗から説きはじめて、だんだんに大乗へと移っていく、そういった段階的な指導というものがあり得たかも知れませんが、私の時は迫っていたために、三年間という短い期間の間に燃焼してしまいました。そのために、″法″そのものを非常に残念ですが、構造的に、体系的に述べることがでぎなかったと思います。

だから第六点として、私が反省すべきこととしては、やはり正法そのものは段階を追って順番に、体系化していくというような準備が必要だということですね。一人出て、ラッパのように吹いたところで、広まるものではありませんし、非常に誤解が深いのです。ですから、私は十二使徒といって、弟子を何人か養成はしましたけれども、もっと計画的にいろんな教えを説いて、弟子たちをして更に教えを説かせるというようなことも可能であったと思うのですが、弟子達を早死にもさせましたし、ずいぶん気の毒なことをさせてしまったと思っております。

そして、私の語った言葉自体も、いま聖書という形で残っておりますが、非常に不充分な形で残しました。その辺も、もっと生きていた時に充分に注意を払って確かなものを残すべきであったのだと思いますが、弟子達は私が僅か三年で死ぬとは思っていなかったものですから、後で慌ててうろ憶えで書いているわけです。もっと私が長生きするか、あるいは三年で死ぬということを明確に言っておいて、しっかりした記録をとっておかせたら、私の思想ももっと正確に残ったかも知れません。

以上のように、第六点としては、体系的な「正法」を組むことができなかったということ、あるいは弟子達の養成、私の言行の記録という面において、不備な面が多かったということ、これがキリスト教において反省さるべき点かと思います。

大体、以上のようなことが、私がいま考えてみてキリスト教に欠ける面だと思います。