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目次



















(一九八六年十二月九日の霊示)

1.カトリックとプロテスタントのちがい


内村鑑三です。今日は第二日目ということで、無教会派について、お話をしておきたいと思います。古代の聖霊が出ても、やはり身元証明という意味で、まずは、自分のことを語らねばならんでしょう。そこで、内村もまた、明治、大正、そして、昭和のはじめと、三つの時代を駆け技けた宗教家として、やはり自分の成してきたこと、自分の考えてきたことなどについて、皆様にお伝えする必要があろうと思っております。

まず、キリスト教の概観ということについて、お話を進めていきましょう。キリスト教とひとくちに言っても、カトリックの教え(カソリックとも言いますけれども)と、ルター、カルビン以降の新教、すなわちプロテスタントと、二つの教えがあります。

この二つは、どこがちがうか。カトリックのなかには、古い伝統的なキリスト教精神というのが流れております。現代のカトリックの信者たちを見ても、まあ、どちらかというと、穏健(おんけん)な方がたが多いですし、古い仕来(しきた)りというものを大変重んじる。そういうのが、カトリックであろうかと思います。一方、プロテスタントは、ルター、カルビンなどの若干戦闘的な姿勢ということも影響しておるのでしょうが、どちらかというと、改革、斬新なものの考え、新しい精神の息吹といったものを感じるのであります。

まあ、現代の目で、このカトリック、プロテスタントの二つを比較して見て、どうかというと、どちらも、どちらでありましょう。カトリックのほうが、古くからのキリスト教的な儀式や儀礼、そうしたものを重視するのに対して、プロテスタントでは、自分の良心と聖書、つまり、聖書中心主義ということをはっきりと打ち出したのであります。実際、ルター自身も、聖書のドイツ語訳というものを刊行いたしました。そして、その力に与(あず)かって、キリスト教が欧米圏に広がったことも、また事実であります。しかし、カトリック、プロテスタントともに、いずれにしても、決して本質において相矛盾するものではありません。


2.ローマ教皇の権力に対して反旗をひるがえしたルター


マルチン・ルターは、どちらかというと、学問的色彩もかなり持っており、彼自身も、大学教授であったという事実があります。ドイツにおける神学関係の大学教授であったわけですが、日本で言えば、高野山大学、あるいは、他にもいろいろ仏教大学がありますが、そういうところの教授が、仏教の改革をやりはじめたことと同じだと言えます。私はくわしくは知りませんが、常識で考えてもそうしたところの教授が、原始仏教に戻れとか、仏典のほんとうの意味についてということで改革をはじめて、今の仏教のあり方はまちがっていると、こういうふうに公開状を出して、公開質問を出して、総本山に対して意見を述べれば、総攻撃を受けるのは、当然のことながら、必定(ひつじょう)であります。ルターも、ちょうどそういう羽目にあったわけです。

ルターは、千五、六百年代の方でありますけれども、もともとは、そういうことを意図はしておりませんでした。ただ、彼自身は学者としての自分の研究の結果、やはりキリスト教というものの本来の精神を失わないためにも、聖書中心主義でいくべきだ、とした。人間は、信仰と聖書のみに基づいて生きるべきであって、その信仰によって義とされるのである。教皇、ローマ教皇によって義とされるべきではない、と。こういうことを、ルターは言ったわけです。つまり、現世の権力に対して、ある意味では、反旗をひるがえしたわけであります。

そして、ウィッテンベルグ大学の扉に、かの有名な九十五ヵ条の公開質問状というのを掲げたのです。しかし、ルター自身は、これがそれほど大きな意味があるとは、当時、思っていなかった。自分の個人的な立場というものをはっきりさせるがために、そうした公開質問状を出したにすぎなかったわけです。ところが、この公開質問状は、本人が思っていた以上の大変な威力があった。だから、非常な騒動になりました。

ルターが、とくに攻撃の槍玉としてあげたのは、ローマ教皇、ローマ教皇庁に対してでした。ローマ教皇庁が、贖罪符(しょくざいふ)というか、免罪符(めんざいふ)というのを売り出して、お金集めをした。それで、お金儲けをして、サンピエトロ寺院というのを大改築しようとした。教会は、お金を持っておりませんから、改築しようとすれば、もちろん、お金集めをしなくてはならない。ですから、それはそれでいい。しかしそのために、献金すれば罪が許されるというような思想、ここに問題があるわけです。

仏教にも布施の思想というものはあります。ただし、布施をすれば罪が許されるというような考えは、問題があると思います。これと同じなのですが、当時の教皇庁も、免罪符を売りに出しました。そして、こういう免罪符というのがドイツにまで、売られて、これを買えば天国が近づく、と。あるいは、賽銭箱(さいせんばこ)にお金を投げ込み、チャリン、チャリンという音がすればするほど天国が近づくんだ、と。こういうまちがったことが、実にまことしやかに言われていたのであります。

ここに、いつの時代にもある宗教の問題点というのがあるんですね。宗教というのは、どうしてもだんだんに組織化してくるものです。そして、組織というのができてくると、そのなかで、さまぎまな人が生業(なりわい)を立てるようになるため、その生活費を出さなくてはならなくなる。あるいは、建物代、維持費、こうしたものを捻出(ねんしゅつ)しなくてはならなくなってくる。そういうことにおいて、本来の主旨とはちがったところで、エネルギーを注がねばならぬようになってしまうのです。


3.ルターの破門


当時、ルターは、この点を厳しく論難(ろんなん)しました。その結果、どうなったか。当然のことながら、破門されたわけです。当時は、教皇の力というのが非常に強くて、破門するという権力を持っておった。これをされると、宗教者のみならず、貴族でもふるえあがったほどです。また、教会に破門されるということは、もう地獄行きが必定となったのと同しでありました。そういうことで、ときの貴族たちでも、そうしたことは困るという時代であったわけで、ルターに破門するという書信が来たわけです。

しかし、ルターは、これを、諸人(もろびと)が見ている前で、火のなかに放り込んだ。焼き捨てたのです。そうして、やがて彼らは、結集していきます。このとき、もちろん、目に見えぬ力が働いておったのです。ちょうど今、あなた方は、新しい動きをはじめようとしておるけれども、天上界の指導を受けて、新たなはじまりが訪れるときには、本人たちの予期しないような大きな渦のなかに巻き込まれていくものです。そして、異常なエネルギー、エネルギーの渦というもののなかに巻き込まれていくこととなるのです。これが、ひとつの時代精神なのかもしれません。

ですから、ルターもまた、そうして、まず最初の闘いをはじめたのです。現代で言えば教祖となるのでしょうが、このルターを支持する勢力が、だんだん強くなりました。それと同時に、逆にルターの生命(いのち)を狙う勢力も強くなってきました。ルターは、ローマ教皇に呼び出しを受けたのですが、このときには、さすがのルターも、足がふるえたようです。バチカンのなかで捕まって、死刑にでもされたら、もう終わりです。しかし、ルターは、そこに呼び出されたのです。そして、尋問(じんもん)をされた。しかし、そのとき、ルターは、「信仰のみが人間を義とするのである」と言い放ったのであります。大教皇、教皇が、そういう人間を義とする力を持っていたと言われた時代に、ルターは、信仰のみが義であり、その根拠は聖書のみにあると明言した。聖書に基づく良心の自由ということを唱えたわけであります。周りの人間が、その言葉におどろいて、恐れ戦(おのの)いているなかを、ルターは、宮殿から出てきた。宮中のバチカンのなかの人たちは、あまりの発言にあっけにとられて、ルターを捕らえることができなかった。しばらくたって、追いかけて来たので、ルターは、それこそ、命からがら逃げて行きます。


4.聖書をドイツ語訳し、一般民衆のなかに解き放つ


ルターが、バチカンから逃げてきた途中で、ドイツのある貴族が、ルターを襲います。もっとも、これは襲った振りをしただけですけれどもね。とにかく、襲った振りをして、ル夕ーに覆面をし、猿轡(さるぐつわ)をはめ、連れ去ります。つまり、実際のところは、ルターの命が危ないと察して、彼を保護しようとした人が、無理やり、彼を拉致(らち)したのです。そして、ワルトブルグ城でしたかね、そこヘルターは、連れて行かれます。外へ出ると命が危ないということで、その貴族の庇護(ひご)のもとで、一年近くでしょうかね、ルターは、そのなかで暮しをしていたわけです。その間に彼は、いろいろと心のなかを整理するとともに、矢継ぎ早に翻訳に取りかかったのです。

当時は、聖書というのはラテン語訳、こういうものしかなくて、これを読める一般人はおりませんでした。ですから、特殊な大学教育を受けた知識人以外は、聖書を読むことができなかったので、牧師とか、そういう人の説だけを聞いて、それを信じていたわけです。しかし、ルターは、「これではいかん、神の教えは万人のものである」と考えた。また、万人のものである以上は、万人が読めるようなものでなければならないということで、まさに嵐のような激しさで、ワルトブルグ城内で、翻訳をはじめたわけです。あっという間でした。わずか教ヵ月だったと記憶しています。彼は、とにかく、ほんの教ヵ月で聖書を翻訳してしまったんです。そして、それを発行。

今まで特殊な権力者、あるいは、聖職者以外には読めなかった聖書が、一般人でも読めるようになったわけです、ドイツ語で。ですから、ルターの、その新しい教えというのが、燎原(りょうげん)の火のごとく燃えていったのです。この威力は相当なものでした。

このことからもわかるように、ルターの教えの新しさは何かというと、今まで権力者、聖職者の独占であったもの、手のなかにあったもの、そうした教えというものを一般民衆のために解き放ったという点にあります。これが最初です。聖書のドイツ語訳という貢献をした。はじめにこういう功徳があったわけです。


5.ルターは、ミカエルの生命体の一部であった


それから後も、ルターは、つぎからつぎへとパンフレット、小冊子などを発行しました。当時は、印刷技術もさほど発達していなかったので、小冊子やブックレットと言いますか、簡単な書物ですけれども、そういうものを発行するといっても、一年間で数百部ほどしかなかった。わずか数百部です。全ドイツで、四百、五百部、この程度しか部数が発行されなかったのです。しかも、それらの半分近くまでは、ルターが書いたものでした。つまり、それほどまでに、彼は書きまくったわけです。そして、こうした小冊子が、人から人へと回覧されて、だんだんと読まれていった。このようにして、熱狂的なひとつの信仰の嵐というものが起きて来たのだと言えます。

キリスト教系の魂のなかに、ミカエル大天使長というのがおりますが、ルターというのは、このミカエルの生命体の一部なのです。ミカエルそのものではありませんけれども、その生命体の一部であったわけです。こういう人が地上に出た。そして、その周りにそうした嵐のごときものが起きてきた。これがルターの場合であったのです。


6.カルビンと資本主義の精神


ルターとほとんど時代を同じくして、カルビンという宗教改革者が出ました。彼はフランスに生まれたのですが、迫害され、スイスに逃げた。しかし、ジュネーブを拠点として、一大宗教国家までつくった人です。カルビンは、その時代において、厳密には、祭政一致とは言えませんが、宗教と政治とが一致したような教えをした人です。

ルターは、ある意味では、知識人としてのプライドを持って、行動しておりました。しかし、カルビンの場合には、ちょっとちがう。カリスマとしての威厳があったし、人びとから救世主的に奉(たてまつ)り上げられるようなものがあったと言えます。カルビンも宗教改革ということで、いろいろやったわけですが、内容的には、ルターと似たところがあります。カルビンもまた、「信仰」というものを中心に行なったわけです。

現在でも有名なカルビンの教えとしては、いわゆる「予定説」というのがあります。予定説とは、何か。端的に言うと、「人間は、運命づけられている」ということです。たとえば、ある人は、たとえ本人がどれだけ努力しようとも、地獄へ堕ちることが予定されている。しかし、ある人は、本人がのほほんと暮しておっても、天国が予定されている。このように、人間とうものには、すでに、天国、地獄が予定されているということです。それゆえに、人間は、それをどうすることもできないというわけです。

ただし、どうすることもできないし、それを知ることもできない以上は、自分は天国に招かれているのだということを信じつつ、一生懸命に努力して、神の栄光を、この地上で、この世俗のなかに現わしていくべきである、と。そうであろうと信じつつ生きるべきである、と。また、そうすることによって、天国行きが、ますます固まってくるんだ、と。こういうことを、カルビンは、人びとに説いた。すなわち、人びとにとって、生きがいというものが出てきたわけです。

ですから、ルターの教えというのが、先はども言ったように、キリスト教の民間、一般人への流布(るふ)というところに非常に力があったとすれば、カルビンの教えは、キリスト教の教えというものを、要するに世俗のなかに解き教ったと言えます。つまり、いわゆる経済生活ですね。経済や政治のなかに解き教ったというところに、その特徴があったのです。

後に、マックス・ウェーバーという社会学者が出て、カルビンたちの教えのことを、「資本主義精神のなかに流れる倫理的精神、つまり、プロテスタンティズムという流れが、資本主義を非常に押し進めた」というようなことを言っておるようでず。このカルビンの教えのなかにある、要するに、自分が行くのが「天国」か「地獄」かは、人間にはわからない。どちらに行くかは予定されているけれども、それがわからないのであるならば、自分は天国に招かれていると信じて、一生懸命努力して、神の栄光をこの地上に、この世俗のなかに顕(あら)わしていくべきだという教え。この教えのなかに、勤労している人びとに生きがいを与える思想が出てきたわけです。


7.イエスは、この世とあの世の二分法を唱道した


ただ単に、イエス様の教えだけであれば、「生きがい」にあまり触れなかったところに問題があったでしょう。初期の原始仏教において、釈迦は、要するに、この世というのは不浄で、人間は汚れているから、あの世に行かねばならんと説いた。あるいはまた、この世には、いいことは何もないというような教えを説きました。原始のキリスト教の思想にも、これと似たようなところがあります。つまり、この世というものに、あまりいいイメージがない。神の国とは、あの世にあって、この世の国ではないということでした。

イエスも、これについては、何回か言っております。イエスを迫害し、謀反(むほん)の罪で死刑にしようとしている人たちが、罠(わな)に入れようとして、「お前はユダヤの王か」とイエスに問うています。イエスは、「しかり」と答えました。そこで、人びとは、また、問うた。「では、カイザルよりも、お前は偉いのか」と。カイザルとは、シーザーのことです。つまり、王位の象徴です。

「ときの皇帝よりも、お前は偉いというのか」と詰め寄った人たちに、イエスは、何と答えたか。「カイザルの国は、この世の国。私の国は神の国。この世の国ではない」と、イエスは、こう言ったのでした。

あるいは、また、カイザルに税金を納めるということに関して、イエスに罠をかけてきた人がいます。「皇帝に金を納めなければいかんということについて、どう思うか」という罠をかけられたのですが、そのときイエスは、言いました。「その硬貨には、一体だれの絵が描いてあるのか」と。質問者は、「カイザル、皇帝の肖像が刻んである」と答えました。

それに対して、「カイザルのものは、カイザルに。神のものは、神に」とイエスは言ったのでした。すなわち、イエスは、この世とあの世の二分法を唱道したわけです。

この二分法というのは、当時、イエスの生命(いのち)を守る、三十三年間という短い生命でしたけれども、その生命を守るという意味においては、多少の力はあったと言えます。しかし、それでは、この世における人間にとっては、一体何の生きがいがあるのか、これがわからなくなります。死後、あの世で永遠の生命を得るためだけに、人間は、この世で努力しているのか。こうした疑問が出てくるわけです。この世というものをどう見ればいいのか。このなかで、人間は、どう処していったらいいのか。その部分の教えが明確ではなかったのです。


8.ルターとカルビンの二人の人間を基点として宗教改革が起きた


そこで、このカルビンが、キリスト教におけるこの世的な意義を強調しました。これによって、近代産業資本のなかに、ひとつのエートスが出てきたわけです。エートスとは、ドイツ語でいう持続する精神のことですが、こういう資本主義の精神というのが出てきたということです。すなわち、神の栄光を地上に持ち来たらすということですね。神の栄光をあの世の国に求めるのでなくて、地上に神の栄光を持ち来たらす。カルビンは、そのためにこそ、人間は生まれてくるのだと言いました。

これは、言葉こそちがえ、現在、あなた方が説く、この世を仏国土、ユートピアにしようとする「地上天国運動」と同じであります。この地上に神の栄光を現わさんとした。こういうことをカルビンは、言ったのです。カルビンも、七大天使のひとりです。

ルターとカルビンが成してきたことを、今一度、見てみましょう。ルターは、聖書というものを一般に普及させ、また、誤った世俗権力、世俗の教皇、ローマ教皇という権力に対して戦った。そして、カルビンは、一般庶民の間に、彼らの働きがいのなかにこそ神の栄光というものがあるのだということを教えた。こういう二つの教えが基礎となって、西洋の近代社会というのが出てきたのです。

そして、そうした宗教改革の流れは、受け継がれていきます。新教、プロテスタンティズムの息吹を受けて、イギリスが影響を受け、そこから、アメリカヘの移住、こういうことで、アメリカのほうにも、どんどん広がっていった。ルターとカルビン。この二人の人間を基点として、宗教改革が起きたわけです。

この二人以外にも、もちろん、いろいろな方が出ました。たとえば、ツウィングリ。彼も、宗教改革者ですが、まあ、そこそこの方でした。フス、こういう方も出ました。しかし、フスは、火刑に処せられて、逆さまにされ、火のなかで燃やされてしまいました。あるいはまた、イタリヤにはサボナローラという方が出た。この人も、最期は、焼き殺されましたけれども、光の天使です。イエス様と同じような苦しみを味わった方です。

このように、自分の生命を惜しいとしない方たちが、イタリヤ、スイス、フランス、ドイツにもいたのです。ルターやカルビンとばぼ同時期に、ヨーロッパ各地に出たのです。ですから、こういう動きを見逃してはならんと思います。


9.ドイツ農民戦争、日本の一向一揆を導いたキリストの息吹


ルターの頃にも、ドイツ農民戦争というのがありました。これも、ひとつの注目すべきことであるうと思います。農民戦争とは、つまり、農民一揆ですね。従来の領主勢力に対する、そういう農民の一揆というものが起きました。ルターは、この一揆に対しては、大変慎重な立場を取りました。しかし、その一揆の原動力となったものは何かと言えば、やはり新しいキリスト教の息吹であったわけです。すなわち、世俗的な権力を否定する教えというものが、一陣のエネルギーとなって、ドイツ農民戦争、こうしたものを起こしていったのです。

日本においても、同じことが言えます。千四百年代の後半でしたでしょうか、蓮如(れんにょ)という浄土真宗の中興の祖が出て、加賀百万石を舞台として、一向一揆が起きましたね。この精神的支柱となったのは、蓮如です。ですから、大体同じような時期に、同じような動きが出ていますね。そこで、この農民を一揆させた動きというのは何かを考えるに、それは、伝統的な専制権力に対する反乱というものでありました。さらに、その反乱の精神的基礎となったのは何かというと、キリスト教主義だったということです。

日本においても、他力門、いわゆる浄土門ですね、この真宗系統というのは、実は、キリスト教の流れを受けている教えであります。ですから、蓮如も、過去世においては、イエスの弟子のひとりだった人です。こういう蓮如のような人が出て来て、中世において、一般庶民の解放ということで努力している。また、ヨーロッパにおいても、さまざまな人が出て、庶民の解放、農奴制からの解放といった問題に関して努力しておる。

こうして見てくると、すでにおわかりのように、大体十四、五、六世紀、中世の時代において、教会の威力、既成勢力、あるいは、領主の権力と闘うためのクリスチャニズムというのが、洋の東西を問わす出てきておるわけです。これは、ひとつの新しい時代に対する息吹であったと、私は思います。つまり、新しい民主主義時代が出てくる前の、これは先触れなのです。前触れなのです。

このように、根底からのひとつの運動というものがあってはじめて、つぎに、もっと理論的なものが出てきて、民主主義的なものが出てくるということであったわけです。ですから、中世における運動があったからこそ、近代になってまた、いろいろな人が出て来たということです。


10.不敬事件と無教会派の創始


先ほども申しましたが、私は、無教会派というのを日本ではしめた人間です。無教会派とは、教会をなくすという意味ではありません。教会を否定するという意味ではありません。つまり、これは、教会のない人びとの集まりであったのです。では、なぜ教会がないか。私は、教会からも破門された人間だったからです。

私は、不敬事件を起こしたのです。天皇に対する不敬があった、と。要するに、敬礼をしなかったという、まあ、現在から見ると、馬鹿馬鹿しい話です。昭和の現代においては、そんなことで怒る人はひとりもいないでしょう。もちろん、天皇陛下に対してあいさつしなければ、失礼です。しかし、そうではなかった。天皇陛下の詔勅(しょうちょく)、詔勅(みことのり)に対して頭を下げなかったということで、私は一高の教授を追放されたわけです。

当時、天皇といえば、まさに、かつてのローマ教皇のような、そういう立場にあるわけです。しかし、私は、クリスチャンとしての立場からしても、日本の天皇というものに頭を下げることはできない。これは、良心の自由である、と。私は、こういうことを守ったわけです。ところが、私の態度に対する世間の風あたりやマスコミの批判は、大変に強かった。たとえば、「あの内村鑑三とかいうのは、国賊である」と、ずいぶん攻撃を受けました。私の自宅は、石を投げられましたね。窓ガラスが割れた。……いろんなことがありました。

その頃、私は重い病気にかかっていたのですが、病気が癒(い)えたときに、私は、新聞によって、自分が懲戒免職になっていることを知りました。その後、まず、私の妻が亡くなった。私にとっては、つらい事件でありました。そして、あいついで、私の子供たちも亡くなっていきました。私は、傷心の思いでおりました。そういうときにまた、教会からも追放されたわけです。

明治初期の教会というものは、天皇制国家のなかに育(はぐく)まれておったわけですから、天皇制を批判するような教会というのは、その存在を許されなかったのです。ですから、「内村鑑三は、国賊である」という論調にのって、教会までもが、私をクリスチャンとして認めてくれない。こういうことでありました。


11.非戦論を掲げた現代のエレミヤ・内村鑑三


そこで、私は、フィレンツェを追放されたダンテのごとく、諸国を放浪したわけであります。東京を追われ、九州に、中国地方に、そして、大阪にと諸国を転々としました。そうした後、万朝報(よろずちょうほう)というところに、何とか論説委員として、拾い上げられて、英文欄などの主筆などをやりながら、生業(なりわい)を立てておったわけです。

ところがまた、その万執報の職をも辞さねばならぬ状況になりました。なぜか。日清、日露の両戦争のためであります。つまり、私はクリスチャンの立場から言っても、こうした戦争に対して、断固として反対した。それが原因です。

戦争は、どう考えても、神の国において、「義」とされる行為ではない。あり得ない。そこで、私は、「戦争は、まちかっている」とはっきりと言ったのです。非戦論です。しかし、そういうことを固持することは、ただ単に私だけでなく、万朝報自体の立場を危うくするものでした。ですから、私は、やむなく、そこを辞したわけであります。とはいえ、残念ながら、時局は私の思ったとおりには歩まずに、やはり戦争へ、戦争へと赴きました。

日清戦争の勝利、そして、日露戦争の勝利。人びとは、その勝利に酔いました。しかし、私は神の使徒として、こうした勝利はにせものの勝利であり、一体何になるのか。こういった勝利に酔っている民は、やがて亡国の民と変わっていくであろう。こうした勝利に酔いしれている日本は、やがて亡国の憂目(うれきめ)を見るであろう、と思った。現代のエレミヤとして、私は、それを預言したわけであります。戦争で勝ったとか、領土をもらったとか、そんなことは、一体何になるか、この地上でそんなことをして、一体何になるのか、と。私は、それを訴えかけたのであります。


12.亡国の予言の適中


しかし、人びとは、私の意見に耳をかそうとはしませんでした。日清、日露の景気、市事的成功ということに、ただ酔いしれておった。そして、そうした自惚(うぬぼ)れのままに、明治から大正に入り、昭和へとつながってきた。その自惚れの気持ちが、昭和初期のファシズムの動き、こうした軍事独裁への動きとなっていったのです。

日本は、だんだんに帝国主義となり、満蒙を抑(おさ)える。韓国を抑え、中国を抑え、やがては、東南アジアも抑えようとしている。まさに、帝国主義的な拡張主義路線をたどっていったのですが、その後の結果はというと、あなたたちの知るとおりです。日本は徹底的な打撃を受け、かつて私が不敬事件を犯したといって免職までされた、あの天皇陛下が、今度は、敗戦国民の前で、「人間宣言」をしなくてはならぬ羽目にまでなってしまった。こういうあわれな立場に陥(おちい)ったのです。このことは、あなたたちの記憶せるとおりです。

なぜそうなったのか。つまり、戦争の勝利に酔いしれておって、負けた国に対する同情もなく、負けた国民に対する愛情もなく、神の子平等という思想もなく、宗教の思想もなかった。ただ、優劣、優れているとか、強いとか、偉いとか、こういう思想だけでもって、自らが擬似一流国のような気になって、日本という国全体が、いばってしまった。ところが、これが見事につまずいた。まさに、私の予言どおりです。

この浮かれている民たちは、やがて国を滅ばすであろうという私の予言どおり、彼らは国を滅ばしたわけです。すなわち、怖れを知らなかったからです。馬鹿な神国日本の思想を振りかざして、やがて神風が吹くとか、何とかかんとか言って、神風特攻隊などをやったのは、歴史が記しているとおりでありましょう。

私は、こうした姿を天上界から見ておって、涙を禁じ得ませんでした。馬鹿な国民たちよ、と。しかし、そうは言っても、我が非力さをも、私は嘆きました。「なぜ私は、こうした民を目覚めさせることができなかったのか」と。私は、こういうことをずいぶん悔いました。

私と同じことを、私の弟子である矢内原忠雄もまた、やったようです。第二次大戦期において、彼もまた、戦争反対という論陣を張りました。しかし、その結果、東京帝国大学教授の職を辞さねばならないような羽目となった。しかし、敗戦、そして、戦後ということで、状況が一転すると、彼は英雄となって、また東京大学に迎えられて、今度は総長となった。

世の人びとの心というのは、このように、振り子のように揺れ動くものです。しかし、私たちは、世の人びとに迎合するような動きはできません。世の人びとの心というものは、まるで風見鶏のように、風向きが変われば、どちらへでも変わっていく。しかし、私たちは、彼らの意見に迎合するというよりは、やはり神の心、イエス・キリストの心と一体となって従っていくのが筋であろうと思っております。


13.神理の伝道に妥協、迎合は許されぬ


私においてもそうであるし、矢内原に対しても、そうであるけれども、ほんとうの正しさとは何か、ほんとうの真理にそった人間の行動とは何かというと、これは、妥協するのではなくて、切に訴えねばならぬ、ということだと思います。

これは、あなた方にとっても、同じことが言えます。これから、政治においても、経済においても、あるいは、神理の伝道においても、さまざまなまちがった教え、まちがった考え方というものが、あなた方の行く手をふさぐようになっていくでしょう。しかし、どんなときにおいても、そういうものに迎合したり、妥協したりしてはならない。たとえその時代においては、そうするのがよいように見えても、一時代過ぎ去ったならば、そうした妥協は、何にもならなかったということがわかるはずです。そういうことに、人間は気づくでしょう。

とはいえ、時代というのは、その人を見殺しにする場合もあるのです。実際、私のように、非戦論の論陣を張ったために国賊扱いをされたり、天皇に不敬罪を犯したことで国賊扱いをされた人間もおります。しかし、百年経ったらどうなるか。たとえば、天皇の詔勅に今、頭を下げてごらんなさい。笑いものです。

かつて、古代のユダヤにおいて、神理が説かれました。そのとき、ヤーヴュ、エホバの一神教に対して、昔のまちがったバアル信仰、偶像信仰のことですが、そういうまちがったものが出た。しかし、それに対して、エリアが、立って闘った。それと同じように、私たちもまた、そういう偶像に対して、闘わねばならなかったのです。だからこそ、私は、天皇という偶像、詔勅というような偶像、こういうものと闘ったわけです。

あれから、百年ほど経ちました。内村鑑三を笑う人はどこにいますか。だれも私を笑わないでしょう。もちろん、当時は、ずいぶんといろいろに言われました。内村鑑三は、馬鹿な男だ。詔勅に対して、皆んながするように頭を下げる、それだけのことをすればいいのに。それさえしないで、名誉ある一高の教師という肩書を剥奪され、クビになった。こんな馬鹿な人間がいる。国中が戦争へ、戦争へと言っているときに非戦論を唱えて、せっかく名声を博していた万朝報の英文主筆も辞職しなければいけなくなった。馬鹿な男だ。と、ずいぶんたくさんの批難を受けたわけです。処世術が下手だということでね。しかし、ただ上手に世を渡っていくことが、私たちの使命ではなかったのです。


14.信仰の名のもとに鉄の柱となれ


あなた方が、神理を説くにあたっても、おそらくあなた方を嘲笑(あざわら)う人がたくさんいるはずです。そんなことは、まだ言わないほうがいいとか、ね。しかし、そうした声に従ってしまったならば、後の世において、あなた方は、きっと後悔をすることになるはずです。現在の生きている人間の意見に従って、言説に振り回されて、気持ちのいい人生を送るよりは、あるいは、何百年、何千年の間に、自分の良心の悔いをひきずるよりは、そうした声を否定し去り、たとえこの世的に苦しみを受けたとしても、敢然(かんぜん)と立ち上がることが必要なのではないでしょうか。人間は、やはり強くなければいけない。神理のもとに、強くなければいけないと思うのです。

神は、我らを信仰の名のもとにおいて、鉄の柱とし給うたのです。あなた方自身、ひとりひとりが鉄の柱となり、青銅の扉となり、壁となるような、こういう人生、勇ましい人生を、生きねばならんと私は思います。それが、後世の人びとにとっての最大の贈りものであるからです。


15.世の誤解、嘲笑を跳ね返してゆけ


内村鑑三が、ピョッコリと頭をさげて、何となく一高教師をやりながら、かたや聖書の翻訳をして、細々と生きておったとして、一体それが何になりますか。「戦争反対を言おうとしても、世の中からつまみものにされるから、まあ、今はひそかにして、とにかく自分の言論の自由を守るためには、ある程度同調しておいたほうがいい」と。もし、こういう考えで、内村鑑三が生きながらえたとしたら、一体、何の意味がありますか。

人間というものは、悲しみと苦痛、そして、人びとの批難のなかにおいて、その人のほんとうの真価というものが問われるのです。ですから、ほんとうのもの、時代を超えたほんとうの神理というものが説かれるとき、いつも世の誤解を受け、批難を受け、嘲笑を受ける。こうしたことは、やむを得ないことなのです。これを跳ね返していけるだけの強い人間でなければいけないのです。私は、そう思います。

たとえ笑われたとしても、実は、今、笑っている人間こそが、やがては、猿のように笑われるのだということに気づかねばならない。そうした人間の意向に左右されてはならんのです。たとえ何を言われようとも、どんな誤解を受けようとも、どんな嘲笑を受けようとも、神は、最後には、あなた方というものと一緒にいてくださるのです。ですから、その心を強く伝えていくこと、訴えていくことだと思います。