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目次





















(一九八六年十二月二十日の霊示)

1.クリスマスヘの魂の郷愁


内村鑑三です。私の話もすでに七日目になります。そこで、今日は、「新エルサレム」という演題でお話をしたいと思います。地上の時間では、今日は一九八六年の十二月二十日土曜日です。この季節になるとクリスチャンたちは、だんだんに胸が騒ぎはじめます。クリスマス・イヴまであと四日、クリスマスの当日まであと五日、言うまでもなく、十二月二十五日とは、イエス・キリストの生まれた日です。

私も地上を去って何十年にもなりますけれども、クリスマスの頃になると、なつかしい思いに駆られます。そして、クリスマスが近づいてくると、やはり地上の人たちの生活ぶりを雲の上から見たくなってくるのです。町にクリスマス・キャロルが流れ、サンタクロースの像が並び、長靴のようなもののなかにいろいろなお菓子を入れて飾ってあったりします。また、デコレーションケーキが街角に並びはじめたり、会社の帰りの父親がそのケーキをさげて帰っているのを見たりすると、何とも言えず、なつかしいほのぼのとしたものを感じます。

とにかく、キリスト教について勉強したことがある人というのは、このクリスマスというのを、毎年一年の区切りのように思い出すものです。新年とかお盆とかいうことではなくて、クリスマスなんです。クリスマスに魂の郷愁というものを感じるのです。

なぜそのように、郷愁を感ずるかというと、結局、どこかでイエス・キリストの教えを受けたか、教えの禄に触れたことがあるからだと思います。過去世においてナザレの地で教えを受けていなかったにしても、天上界のどこかで、そのお話を受けて聞いたり、あるいは、輪廻転生の過程のなかで、イエスの弟子たちの教えを聞いたり、あるいはまた、過生世のイエスに教えを受けたこともあったのかもしれません。

ともあれ、私は、クリスマス・キャロルの曲を聞くと、非常になつかしいし、「聖しこの夜」のメロディーが流れてくると、何とも言えない神秘的な感慨深い思い出にふけるのです。


2.雪の降る聖夜に、イエスは誕生した


今から二千年ほど昔、ベツレヘムの小さな町で、イエス・キリストは生まれました。十二月ニ十四日の夜、イエスの母のマリアが、用事があって知りあいのところへ行こうとしていたときに、急に産気づいて、旅の途中で子供を生まなくてはならなくなった。といっても、産婆がいるわけではないし、近くの農家の納屋を借りて、そこでお産をしたわけです。

貧しい農家の納屋の飼葉桶(かいばおけ)のなかに寝かされていた。それが、後に救世主と呼ばれるようになったイエス・キリストだったのです。このときの情景を、私も、天上界から見ておりました。イエス・キリスト生誕の前から、私たちキリスト教系の聖霊たちは、その誕生の瞬間というのをじっと見守っていたのです。

マリアがイエスを身篭(みごも)ったときには、大天使ガブリエルが、マリアの夢枕に立って、「マリアよ、我はガブリエルなり。汝が生む子は神の子なり。汝が子は世を救うために生まれるなり」という受胎告知をしております。そして、イエスが生まれたときには、さまざまな聖霊たちがマリアのもとに、神の御子の誕生の祝いに駆けつけました。

今、霊的な目で二千年前の風景を振り返ってみると、そのベツレヘムの小さな農家の馬小屋のなかに、聖霊の光が燦爛と輝いているのが見えます。何と清らかな、何と聖なる夜でありましたでしょうか、十二月二十四日の夜は。外には、雪が降っておりました。午前中から雪が降りはじめて、かなり大きなボタン雪となりました。そして、夕方の五時半頃まで降ったでしょうか。大きな雪だったので、地面に十センチぐらいも績りました。そうした夜にイエスは生まれたのです。寒い寒い夜でした。まさに、聖夜そのものでした。そして、天上界からは、祝福のメロディーがいろいろに奏でられたのです。私は、その情景を今でも目にありありと思い浮かべることができます。


3.聖霊たちは、神の子イエスの誕生を祝福した


私たちは、その運命の主人公、すなわち、神の子の一生を、心から祝福しました。わずか三十三歳で十宇架に掛かってこの地上から去る人。しかし、その死が全人類の罪を背負う死であり、全人類を悔悟させ、懺悔(さんげ)させ、そして、悔い改めさせ、神の国への導きとなる死であるということ。そうした運命の子イエスの安らかな寝顔を見て、私たちの胸にはさまざまな思いが去来しました。私たちは、かつて、旧約の預言者として地上に出ましたけれども、やがてイエスが出て来ることは、何人もの人たちが預言していたのです。ですから、その瞬聞がきたということです。十二月二十四日の夜、その聖なる夜は、過去二千年前から予定されていた運命の夜だったのです。


4.日本にも救世の星が輝くことは預言されており、今、そのときが来ている


こうしたことは、現代にも言えるのです。つまり、現代の日本にもイエス誕生と同じことが起きるわけです。現代の日本にもこうした救世の星が輝くことは、もう二千数百年前から預言されていたのです。すなわち、インドの地において釈尊は、次回、東の国において、おおいなる救世の法が説かれるということを預言しておりましたが、今、そのときがきているのです。

その手伝いを、また私たちがすることができ、イエス誕生のときにガブリエルがその受胎告知をしたように、今、私たちが天上界から、日本の地に新たな救世の法が説かれるということを、霊言という形で、世の人びとに伝えられることを、私は嬉しく思っております。

地上の皆様は、私の言葉を聞き、私の書を読んで、これは単なるひとりの人間の考えであり、単なる物語のように感じるかもしれません。しかし、このようなことはもう二度とないことであり、このような瞬間は二度とはこないのです。一九八六年十二月二十日土曜日、五時五十分です。夕方の五時五十分です。このときに、内村鑑三が地上の皆様にこうした福音を述べ伝えることができるということ、こういう機会は、もう二度とこないでしょう。

私は、かつての預言者たちが人類救世の人が出ることを預言してきたように、今、天上界からこのような声を地上の人たちに伝えることによって、これから新たな教えが、人類への福音がはじまるということをお教えしているのです。私たちの言葉は、後の世にとっては、クリスマスソングのようなひとつの調べにしかすぎないかもしれません。しかし、たとえ調べの一部分であったとしても、それを私が、今、こうして奏でることができるということを、私は、非常に光栄なことだと思っております。


5.現代の聖地エルサレムとは、現在の東京である


さて、本日の演題は、「新エルサレム」についてです。エルサレムというのは、言うまでもなく、現代でも宗数的な聖地であり、歴代イスラエルの首都だったところです。エルサレムというのは繁栄の都であり、イエス・キリストがその法を説いた場所であり、その命を断たれたところであり、また、復活した都であります。そういう聖なる地なのです。ですから、かつて、キリスト教の教えを受けた者にとっては、エルサレムという響きは、何とも言えぬ神秘的な響きがあります。エルサレムとは、聖地という意味です。マホメットにおいてメッカという地が聖地であったように、イエスにおいてはエルサレムが聖地であり、聖なる都なのです。

さて、現在、一九〇〇年代後半の日本において、このエルサレムにあたるのが東京です。日本の人びとよ、私の言葉をよく聞いていただきたい。あなた方は、現代のエルサレムに生きているのです。そして、あなた方は、エルサレムに生まれ、生き、そしてまた、奇蹟の時代に生きているのです。このことを忘れてはなりません。

今、あなた方の目の前に、さまざまな聖霊たちの霊言が繰り広げられていることと思います。こうした霊言は、これからの教千年の間、人類の心を肥やすための福音となっていくのです。魂の糧となり、また新たな新約聖書となっていくものなのです。そして、その新約聖書が、現在、同時進行形で、あなた方の都において語られているのです。そこで、こうした大きな事実ということを、どうかあなた方は忘れないでいただきたいと思います。


6.おおいなる救世のときに、同時に生を受けられた人びとよ、誇りに思いなさい


人間は、何度も転生輪廻を繰り返していきます。しかし、そのなかにあっても、こういったおおいなる救世のとき、偉大なる聖者が生まれるときに、同時に生を受け、その顔を見、その声を聞くことができるということは、めったにあり得ることではありません。よほどの縁があるか、よほどの修行を積んできたか、あるいは、よほどの計画のもとに出なければあり得ないのです。かつてのイスラエルの民たちが、選ばれたる民と呼ばれたように、選ばれた神の民イスラエルと言われたように、現代の日本も、現代の日本人も、また、選ばれたる民であることを誇りに思わねばなりません。

あなた方は、過去何千年、何万年の間、幾転生を繰り返してきたのです。その幾転生のなかで、あなた方はさまざまな時代に生まれて来た。あるときはアフリカに、あるときはギリシャに、あるときはエジプトに、あるときはアラブに、あるときはフランスに、イギリスに、アメリカに生まれて来たのです。そして今、この東の国、日本において、世紀末に生まれて来ております。

この世紀末の時代は、大変な時代です。人類の価値観が大逆転を起こすような時代であり、危機の時代だと言えます。しかし、同時に光明の時代でもある。そうした緊張感に溢れた時代なのです。


7.今後、ヨハネの黙示録で語られたことが実現する


皆さんは、聖書のなかの黙示録というのをお読みになったことがあるでしょうか。黙示録には、ヨハネが幽体離脱をして、天上界で見せられた人類の未来史が描かれています。これを聖書で読まれた方もいるでしょうし、聖書で読まなくとも、さまざまな形で知った方もいるでしょう。ともあれ、この黙示録で語られた未来史が、今、実現すべきときがくるのです。

黙示録のなかで、ヨハネは、さまざなな災いが人類に起きる、その最後のときを霊視しました。その災いのときとは、まさしく二十世紀の後半にあたるのです。これから数十年の間に、人類は、さまざまな苦難、艱難(かんなん)を味わうでしょう。いくつかの大地は沈み、いくつかの都市は津波に襲われ、また、いくつかの熱帯は寒帯に変わり、寒帯が熱帯と変わるはずです。そうした時代が訪れます。あなた方が生きているうちに、そうした現象に出会うはずです。

嵐が起こり、地響きが起こる。雷は天から落ちる。そうした末世的な時代となっていくのです。また、北極や南極の氷が熱帯や亜熱帯と言われた地域にまで流れ出した姿を見るでしょう。あるいは、文明を誇っている最先端の都市が、一夜にして崩れ去っていく姿をまのあたりにするかもしれません。この世的に見れば、悲劇と思われるかぎりの悲劇が、ここ数十年のうちに起きてくるでしょう。

黙示録のなかで、ヨハネは、人類のほとんどが絶滅するようなことを言っておりますが、全滅はしません。ただし、かなりの数の人びとが、この地上から姿を消していくことは事実です。そうした時代に、あなた方は生まれているのです。

そのような激動の時代のなかにあって、ある人は天を呪い、運命を呪うかもしれません。なぜ、このような暗き時代が到来したのかと世をうらむ人もいるかもしれません。しかし、こうした災いのときが、近い将来、必ずやってくるのです。


8.悪魔に唆(そそのか)された予言者に気をつけよ


これからの時代には、さまざまな予言者が並び立ち、競い立ってくるはずです。そして、不幸を予言する人たちが、たくさん出て来る。そのなかには、聖なる預言者もいれば、悪魔に唆されて人びとを煽動する予言者もおります。まちがった予言者たちは、人びとを恐怖と混乱のなかに陥れ、この地上にますます地獄絵をもたらすでしょう。そうして、「世はもう少しで終わるのだから、人びとよ、一日一生を生きるのではなくして、一日何かを必ず楽しめ」と、そうした悪魔の囁(ささや)き、すなわち、享楽欲というものをそそるようなことをしはじめるようなことも出てくるはずです。

しかし、人びとよ、そうしたサタンの声に耳を傾けてはなりません。確かに世は混乱をし、世の中は乱れ、末法の世がきた、末世がきたように見えるかもしれません。実際、最期の審判のときがきたと騒ぎたてるクリスチャンもいるでしょう。しかし、この世はまだ滅びてはゆきません。

なぜ滅びゆかないか。すなわち、新たな救世の光が降りてきているからです。救世の光が地上に降りているということは、もちろん、この地上の人びとを救うために降りてきているのです。ですから、人びとよ、暗闇のなかにも、大きな光が降りてきているのだということを疑ってはなりません。

また、私たちは、天上界から、かつて、フランスにノストラダムスという予言者を送って、さまざまな予言をさせました。今世紀終わりまでの予言を、ノストラダムスにさせたのです。ノストラダムスは、西暦二〇〇〇年以降の予言は何もしておりません。なぜならば、今世紀末までの予言をすることが、彼の使命だったからです。

しかし、今後は、ノストラダムス以後の予言がなされていくはずです。そして、そのなかには、人類の希望の原理が、福音が、おそらく述べていかれるでしょう。


9.今後、東京は、全世界に福音を伝える聖都となろう


地上の皆さん、これからさまざまな不幸が起きるでしょうが、それをこの世の終わりだとは思わないで下さい。そのなかに、希望の光が、必ず見えてくるということです。かつて、ベツレヘムで光ったと同じ大きな光が、今、日本にも光っております。

日本の東京は、かつてのエルサレムなのです。そして日本の東京に生きている人たち、このなかで神理を学び生きている人たちのなかには、二千年の昔に、エルサレムの都において、イエスの姿を見たことがある人たちもたくさんいるのです。すなわち、あなた方は、時代というものをつくり出すために、この地上に降りて来た人たちなのです。いつの時代にも、そうした恵まれた時代に、恵まれた地域に出ることを神に感謝せねばなりません。

東京は現代のエルサレムとなり、今後、全世界に福音を述べ示えるための聖なる都となっていくのです。ですから、あなた方は、今、この聖なる都に住んで、生きているということを神に感謝しなくてはなりません。

そして、あなた方は時代の中心にあり、地球の中心にいるという自覚を強く持つべきです。なぜならば、世界を救うのは、新エルサレムにいるあなた方だからです。すなわち、あなた方のなかに起きる文明が、あなた方のなかに起きる文化が、また、あなた方のなかから発する福音が、これからの世の中を救っていくのです。日本の民はもちろんのこと、全世界の民を救っていくのです。これは新たな福音であり、あなた方は選ばれたる民なのです。

あなた方の多くは、かつて、ユダヤに生まれ、選ばれたる民イスラエルとして砂漠の地帯を彷徨(さまよ)ったことがあります。さまざまな預言者たちを送り出して来た民なのです。その優秀な民が、今、日本の国に数多く生まれて、この地でさまざまな魂修行をしているのです。あなた方は、かつて、このような瞬間に何度も立ち会ったことがあります。そして、偉大な都エルサレムは、これからあなた方が築いていくのです。

世界は、これから約百年間、日本を中心に輝いていくはすです。何度も繰り返しますが、日本の中心・東京は、新しきエルサレムとなります。ですから、このエルサレムに住んでいる人たちは、自信を持って、誇りを持って、勇気を持って、生きてゆかねばなりません。そして、あなた方は、選ばれたる民として、あなた方が受け取った福音を、あなた方だけのものとするのではなくて、世の人びとに伝えてゆかねばなりません。それが、あなた方の使命です。


10.日本は、やがて文明の中心となり、その文化が全世界へと流れてゆく


日本という国は、これからだんだんに時代の中心となり、文明の中心となっていきます。今後、日本からアメリカ、中国、ソヴィエト、アフリカ、中近東、東南アジア、あるいは、オーストラリアヘと、さまざまな文化が流れ出してゆくはずです。歴史を振り返ってみても、いつも文化は高いところから低いところへと流れております。それと同じように、あなた方の文化の高みが、やがて全世界へと流れていくようになっていくでしょう。

そのときに、あなた方に誇りあれ、あなた方に誉れあれ、あなた方に栄誉あれ、あなた方に名誉あれ、あなた方に神の光あれ、あなた方に神の栄光あれ。あなた方は、神の栄光を受けるべき民なのです。ですから、どうか勇気を持っていただきたい。そう思っております。

いつの時代にも、新しい文明が栄えるときには、一部の人の核というのがありました。まず核があって、そのまわりにさまざまなものが広まってゆく。ユダヤの地にはイエス・キリストという核があって、十二弟子がいた。そして、その核から広がった教えが、エルサレムに、そこからまた、ローマの地に、ギリシャの地に、さらには、中東の地へと伝わっていったのです。

仏教においても、同じことが言えます。つまり、二千数百年前にゴーダマ・ブッダがインドに生まれて、インドで法を説いた。その法が、やがて中近東に伝わり、山を越えて、ヒマラヤの山脈を越えて、中国へと移っていったのです。そして、またセイロンに移り、セイロンから東南アジアヘと伝わっていった。このように、いつの場合においても、ある中心があって、そこから教えが広がっていくのです。


11.今、東京を中心に大きな光が輝きはじめ、人類の曙が近づいている


今、私たちの住んでいる世界から地球というものを見てみると、地球にはかなり暗い想念の雲というものが掛かっています。いろいろなところに暗い雲が掛かっている。しかも、想念の雲は、主として大都市を中心に掛かっているのです。

しかし、一方では、今、日本の東京を中心に、大きな光が輝きはじめています。曙です。人類の曙が、今、近づいてきていると言えます。今後、この日本の東京を中心とした教え、文化、文明が、やがて、インドのときの釈尊の教えのように、ナザレの地におけるイエス・キリストの教えのように、あるいは、カナンに向かったモーゼの教えのように、全世界へと席捲(せっけん)していくのです。

同時代の人には、なかなかその高さがわからないこともあるでしょう。しかし、今、あなた方は、全地球的な時代に生きているのです。わずか十数時間あれば、地球の裏側まで行ける時代です。日本列島ならば、どこからどこまででも、その日のうちに動くことができる。こういう便利な時代なのです。

イエスの時代には、イエスがいくら健脚だったとしても、全世界を伝道して廻ることはできませんでした。パウロが、ローマヘ伝道するのでさえ、当時は大変な難事業だったと言われています。しかし、現代では、ユダヤの地とローマは、ほんの目と鼻の先の距離にすぎません。ですから、もし、パウロが現代に生まれたとするならば、おそらく現代のパウロは、日本からアメリカヘ、中国へ、ソ連へ、イギリスヘ、オーストラリアヘと布教の足を広げていったことでしょう。

このように、あなた方の教えも、あなた方が生きているうちに、あなた方の弟子たちによって、日本からアメリカヘ、ソヴィエトヘ、中国へ、東南アジアヘ、アフリカヘと必ず伝道されていくはずです。そして、こうした地球的な時代であるだけに、あなた方の目の前で、そうした大きな教えというものの広がりを見ることになるでしょう。こうしたことは、かつては、同時代には経験できなかったことです。


12.あなた方に敵が現われたときに、聖霊たちの力が守ってくれることを忘れるな


あなた方の教えが、全地球的に広がっていく過程には、もちろん、さまざまな争いや軋轢(あつれき)もあるでしょう。また、まちがった新興宗教家たちが、あなた方の前に立ちはだかることがあるかもしれません。

しかし、そのときに、あなた方は思い出してほしいのです。かつて、エジプトの地において、モーゼたちが、パロ、国王たちの軍勢によって攻められようとしたときに、エホバの神が、モーゼたちを救った。そのことを思い出してほしいのです。

あなた方は、過越(すぎこし)の祭としてキリスト教国にだけ広がっている祭りのことを憶えているでしょうか。今から三千百数十年前、モーゼたちがエジプトを脱出しようと計画していたときに、王の軍勢、軍隊たちは、イスラエルの民たちのなかで、その子供たちを殺そうと計画しておりました。そのとき、エホバの神がひとつの正義の神となって、強く悪を叩く、つまり正邪を分かつ力となって、地を覆ったことがあります。

現在、儀式として、伝説として残っているのは、イスラエルの民たちの門口には仔羊の血を塗っておき、エジプトの王の家来たちの家々には、そうした印(しるし)がないということです。ですから、あの当時、エホバの神は、イスラエルの民たちの戸口を過越して、彼らを襲わなかった。王の家来たちだけを襲ったのです。そして、それらの子供たちの命を奪った。こういう話が伝説として残っております。

これが事実どおりのことであるかどうかは一考の余地があるとしても、あなた方に敵が現われたときに、かつて、エホバの神がモーゼたちを救ったように、大きな聖霊たちの力が、必ずあなた方を救ってくれる、守ってくれるということです。そのことを忘れてはなりません。

この世の人間は、自力、自力ということで、要するに、自分たちだけの力で教え広めよう広めようという気持ちがあります。しかし、教えというものは、自分たちの力だけで広まるものではありません。教えを広めていくためには、教えに共感する人たちの出現が予定されていなくてはならないのです。また、もうひとつは、教えを攻撃する者たちに対する守り、砦(とりで)というものが必要だということです。


13.あなた方は、真実を述べ伝える預言者となりなさい


今後、あなたたちに対して、さまざまな批難や攻撃をする人びとが出て来るでしょう。私が、過去世のエレミヤだったときに、偽の預言者ハナニヤという者がおりました。ハナニヤは、世の中に、まちがった教えを、預言を説いていたのです。私は、エホバの預言を伝え、つまりヤーヴェの預言を伝え、「バビロンが攻めてくる、そして、まちがった教えに帰依している人たちは連れ去られる」ということを何度も警告しました。

しかし、偽預言者であり、現実妥協主義者のハナニヤは、「そんな極端なことを言うと、民たちから攻撃を受けるから、お前はそんなことを言うもんじゃない」と私に告げた。そして、エホバの神はそんなつらいことを決して人びとにもたらすわけがない、神様は私たちを守って下さるにちがいないというようなことを言って、民の歓心(かんしん)を買いました。

しかし、あなた方は、民の歓心を買うようなそういう預言者であってはいけません。ばかの歓心を買うのではなくて、やはり真実だけを述べ伝えるべきです。ですから、危機が来ているときには、危機が来ていると言わざるを得ないと思います。危機は来ない、危機は来ないと言って、民の人気を博しておきながら、ある日、ある瞬間に舞台の上から登場人物が姿を消すようなことであってはいけないのです。


14.危機は、現代の物質文明にまちがいがあるために生じるのである


危機は来ます。では、なぜ危機が来るのか。なぜ人類の危機が来るのか。つまり、それは、現代の物質文明にゆきづまりがあるからです。人類の考えのなかに、まちがいがあるからです。人類の考えのなかにまちがいがあるから、危機が来るのです。

現在、二十世紀後半の人類の心のなかに巣くっている考えとは、一体何でしょうか。それは、ものが万能、つまり、物質が万能の世の中であり、科学がすべてを制覇したような迷妄であり、霊的なものを一笑に付すような風潮だと言えるのではないでしょうか。

日本の教育にしても、まさにそうです。正規の教育のなかに、神とか霊とかいうものを教えてはならぬような風潮があるのではないでしょうか。宗教を求める人は特殊の世界のなかの人であり、そのなかで、とくにもの好きな人たちだけが霊的なものを求める、と。そういう形になっているのではないでしょうか。

私は、そういった風潮をとても悲しんでおります。知的に優れた人たちが無神論者であり、また、唯物論者であることを自慢するような世の中を、非常に悲しいことだと思います。そして、本来の世界観、ほんとうの世の中の仕組みを知らない人たちが、日本のなかにおいて、世界のなかにおいて、高位高官、そういう位(くらい)を占めて幅をきかしている。こういう世の中を大変悲しいと思っております。

こうしたものは、こうした世界は、もう一度遣(や)り直しをしなくてはならないのです。地上の人たちをひとりひとり教えて教化するだけでは、間にあわない。ですから、やはり、もう一度洗濯をする必要があるのです。地上の生きている人たちをクリーニングし直さなくてはならないのです。

あなた方は、かつて、ノアの洪水というのがあったということを記憶しているでしょう。ノアの洪水は、何度も何度も人類を襲いました。そのたびに、古い文明が消えていったのです。そして、その代わりに、新たな文明が誕生して来ました。つまり、新たな文明が起きて来るためには、古い文明はやはり消してゆかなくてはならないということです。現代の文明は非常にまちがった方向へと来ています。ですから、まちがったものに対しては、いったん、徹底的な衝撃を与えなくてはなりません。まちがったものを強く叩いて、そして、新たなものをつくりあげていく必要があるのです。


15.第三次大戦後、エホバの手が激しく地を打つ


現在は、そうした時代の端境(はざかい)期であり、変わり目となっているのだと言えます。エホバの手は、大きく伸ばされて、激しく地を打つでしょう。そのときに、逃げまどう人がたくさん出るでしょう。しかし、それを見て恐れることはないのです。それは、新しき文明の、新しき時代の先触れなのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。

かつての過越しのときのように、人びとよ、自らの戸口に仔羊の血を塗りなさい。仔羊の血とは、もちろん、生ける羊の血ではありません。この仔羊の血とは、あなた方の心のなかの血なのです。すなわち、真実の教えであり、真実を信じる信仰心であり、正しき心です。つまり、ひとりひとりが住んでいる戸口に、正しき心を掲示しなさいということなのです。

そうすれば、地を打たんとするエホバの手は、それらの家々を過越していくはずです。ですから、あなた方の戸口に、正しき心を探究しているあなた方であるという表札を掲げなさい。そういう表札があれば、エホバの手は、あなた方を打つことは決してありません。

ただし、エホバの手は、地表をかなり激しく打つことになるでしょう。ですから、ノアの洪水のときのような大きな動乱が起こることになります。しかも、その動乱が起きる前に、人類は、自らの手において、大きな戦争を起こしていくでしょう。私は、はっきりと預言しておきますが、やがて、第三次世界大戦がはじまるはずです。近々、まずその前哨戦があって、そして、世界的な戦争にエスカレートしていきます。

人類がこうしたおろかな殺戮(さつりく)を繰り返したあと、エホバの手が激しく地を打つのです。人びとは、そうした天変地異を見て、おそらく、神の怒りのように感じるかもしれません。しかし、それは新たな文明が訪れるための足音でもあるのです。それを忘れてはなりません。

エホバの手は、強く地を打つでしょう。それは人間がまちがった方向へ進んで、自らの魂の兄弟たちを、核戦争などによって滅ぼそうとするような暴挙に出るからこそ、神は地を打たんとするのです。それを単なる天罰だとまちがえてはいけません。それは新たな時代が起きる前の大掃除であり、また、時代の洗礼だということです。


16.新たな福音を信じるとき、人類の道は開ける


しかし、そうしたことがすべて起きても、この時代は過ぎゆきはしません。この時代に、新たな福音もまた説かれていくのです。この福音を信じなさい。この福音を信じるなかに、あなた方は永遠の生命を得る道があるのです。その福音を信じるとき、あなた方の道は開かれ、あなた方は神理の門を叩くことができるのだと言えます。神理の門を通っていくことができるのです。ですから、この神理に至る道をまっすぐに付いて行きなさい。


17.私は、神理に至る道を開くための水先案内人である


私たちは、そのための、すなわち、神理に至る道を開くための道しるべなのです。誘(いざな)いなのです。また、水先案内人なのです。私は、内村鑑三として明治、大正、昭和の日本に生きました。私は、水先案内人として、この地上に降りたのです。ですから、私は、水先案内人としての使命を、今後ともはたしていくつもりです。地上を去って、肉体を去った私ですが、天上界から、またこうした形で霊言を世に伝えることによって、ひとつの水先案内人であり続けることができると思っております。

私は水先案内人です。ですから、私の照らすカンテラに付いて来なさい。皆さんの乗っている船は、私の指す舳先(へさき)のほうへ向かって進んでいきなさい。私はまた、浜辺に、岬に立つ、灯台の光です。ですから、霧の夜には、私のこの光をごらんなさい。そして、どこにあなた方が進んでいけばいいのか、あなた方の港がどこにあるのかということを確かめなさい。これからますます霧が濃くなっていくでしょう。霧も深くなっていくでしょう。そうしたなかにあって、私の光を、私の灯台の光をどうか見失わないでいただきたいと思います。なぜならば、これは真実の光であり、愛の光であり、あなた方の導きの光だからです。

イエスの言った、「我は真理なり、道なり」ということは、今も不変です。私もまた、イエスの僕(しもべ)です。そして、イエスの僕として、真理であり、正しい道であるその方向を、あなた方に指し示そうとしているのです。

迷える仔羊たちよ、私の説く方向へと付いて来なさい。そして、新たなエルサレム、新エルサレムを築いていこうではないですか。神の都、聖なる都を築いていこうではないですか。この日本に、この東京に。私は、それを祈っています。