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目次











5.復活


さて、十宇架にて私は死にました。しかし、その死は決して、私の敗北を意味しませんでした。

モーゼのときに、紅海を割ってモーゼを逃がした神が、エリアのときに火の車を与えて、エリアを昇天させた神が、私のときに、その十字架というものを見ておりながら、何も答え給わず、我がゲッセマネの祈りにおいても答え結わず、何らの奇跡も起こし給わなかった。その理由は、その十字架の後に待っていたということです。 

すなわち、私の人生の中において、さまざまな教えを説いたことも大事であるけれども、事実として一番大切なことは、私が病気を治したことでもなく、私がめくらの目をあけたことでもなく、私が復活をしたという、この事実であります。

私が復活をしたという事実は、何百人、何千人の人たちの目に見えたのであります。そうした、悲劇的な死に見舞われたからこそ、また、その復活というものが、非常に印象的であったということが言えると思うのです。

私は復活しました。そして、弟子たちの前に現われました。私の復活というものは、もちろん霊的な復活であります。肉体が蘇(よみがえ)ったわけではありません。霊的に復活し、そしてその肉体を、物質化現象として現わしたということです。生前そっくりの姿として現われ、弟子たちに説いて歩いたということです。

この復活があったからこそ、弟子たちは、その後、あれだけ結集し、死をも恐れぬ伝道の使徒となったわけであります。単に私が十字架に架かって、罪人と共に死んだだけであるならば、弟子たちは、散(ち)り散(ぢ)りばらばらになって、そのままで終わったでありましょう。

しかし、彼らが、ただ、散り散りになるだけではなくて、また結集して、聖典として聖書を残し、また全国各地に伝道して回ったということ自体が、これが、我が復活という行為が引き金であったと、このように思います。

パウロという人間もそうです。初期に、私を迫害していたと言われ、私が死して後も、我を信ぜず、我が弟子たちを迫害していた彼が、我が復活の以後、大いなる翻心(ほんしん)を遂げて、そして我が弟子として、全国伝道に、ローマ伝道に、ギリシャ伝道にと、活躍することになりました。

そうした、大いなる転回、百八十度の転回ということも、私が予定していたことなのです。この大きな意味のために、あえて私は十字架という苦難に、目をつぶったわけです。

今また、この復活が、別の形において行なわれんとしております。それは、高橋信次という人間の、肉体を去った人間の復活であります。現在、『霊言集』というものを用いて、彼は復活せんとしております。この復活を認める人が、やがて、全国に燎原(りょうげん)の火のごとく、広がっていくでありましょう。

これは大きな奇跡であるのです。そして、復活を通して、かつての弟子たちが、大いなる力を糾合(きゅうごう)していくということが、歴史的な事実となって、やがて大きなドラマとして、後の世に語り継がれていくのです。

その途中において、さまざまな苦難はあるでしょう。しかし、それに怯(ひる)んではいけない。これは、イエスの復活、私自身の復活と、なぞらえられることのできる、人類史上の、やがて、物語となっていくのです。その途中において、どのような苦しみがあっても、悲しみがあっても、苦難があっても、あなた方は怯んではいけない。負けてはいけない、それは、復活すべくして復活しておるのだ。

私が十字架に架かって、単に死したのみでもっては、現在のキリスト教はないと思いなさい。現在のキリスト教があったのは、我が復活があったからです。

高橋信次という人の、現在の復活も、運動も、やがてその意味が、わかってくるであろう。百年、五百年、千年たったときに、何のための復活であったかといでことが、やがてわかってくるであろう。そのドラマの途中においては、いろんな悲劇も悲しみもあるかもしれないけれども、それがやがて、大いなる統合へと、大いなる発展へと、大いなる奇跡へと、連なっていくのです。こは、間違いのない事実です。

時に、そのような復活という奇跡もあるということです。病人を治すという奇跡もあるかもしれない。盲(めくら)を目明(めあ)きにするという奇跡もあるかもしれない。

しかし、そうした奇跡は、あそこにも、ここにもある奇跡です。巷(ちまた)の神々、さまざまな霊能者たちがやっておることであります。それを現代において、もう一度繰り返すことは、かならずしも善ではないのです。

大切なことは、そうした復活ということを通して、地上に、かつて肉体を持った人間が、魂として、霊天上界に還って、法を説くという事実です。この事実の重みです。これが、大切なのです。

私は復活した後(のち)、人びとの前に姿を現わし、人びとの信仰を強めさせることはしたけれども、彼らに法を説くということはしませんでした。

今、この高橋信次という方は、復活を機縁(きえん)として、まだ天上界にあって、生きているがごとく、法を説き続けんとしているのです。こうした奇跡は、かつてなかったことであります。

マホメットにアラーの啓示(けいじ)が臨んだことがあった。モーゼにヤーヴェの声が臨んだことはあった。しかし、地上に肉体を持った人間が、天上界に還って法を説き続けたということは、かつてないことであります。天にあるという霊が、霊示を送ったということはある。しかし、地上にあった人間が天に還って、霊示を、霊訓を、そして法を説き続けたということは、かつてなかったとであります。

こうした、かつてなかった奇跡を、今、演ぜんとしているということを、この意味を知らねばならん。これが、新しい復活、新復活の本当の意味であります、これは私のときの復活と、まさしく同じく、軌(き)を一(いつ)にしておるわけであります。


6.キリストの本質


さて、さまざまに話をしてきましたが、最後に、キリストとは一体何なのか、これについて話をしておきたいと思う。

私は、イエス・キリストと呼ばれている。地上にあったときの名は、イマニエル。キリストというのは、救世主という意味です。後世において、そう呼ばれた。そして、我もまた、地上にあったときに、「我はそれなり、我はキリストなり、我は救世主なり」ということを、明確にうたいました。

このことにより、私は迫害の引き金を引いたかもしれません。ただ、これを私が言わなければ、私の名前は、現代にまで伝わってこなかったことも、事実であろうと思います。

「我は救世主なり」と宣言をしたのは、私が最初であったと思います。明らかに、高らかに、我は救世主なり」と宣言したわけです。「我は予言書の中に出てくるメシアなり」。こういうことを、私は言いました。「予言が成就(じょうじゅ)されんがために」、こういうことを言ったわけであります。

さて、こうした救世主というのは、決して一人ではない。いつの時代にも、そうした救世主はいる。 その大小は問わない。その影響力の大小は問わない。しかし、救世主というのは、いつの時代にもいる。

仏陀というのも、救世主であったであろう。あるいは、モーゼもそうであったろう。あるいは、アブラハムという人も、救世主であったかもしれぬ。救世主というのは、世を救うために出てきた、偉大なる人物という意味です。マホメットも救世主と言えたかもしれぬ。

まあ、このように、いろいろあるが、たんなる思想家でもっては、救世主とは言わないわけであります。救世主が救世主である理由は、キリストがキリストである理由は、人びとに世界の本質を教え、人間の本質を教え、真に人間を、この物質世界の生き方から目覚めさせ、精神的なる生き方へと、転換させてこそ、初めて救世主と言えるのです。

本来の人間のあり方と、魂の真実を、これを教えないで、救世主ということはあり得ない。単なる思想家や、単なる行動の人であってはあり得ない。あなた方にとって霊であるということ、霊的な本質と、霊的世界を説くことは、この地上においてはかなリ困難かもしれない。

しかし、易きに流れてはいけない。この地上にある物質を物質として説明し、この世界を世界として説明して、そが一体何になろうか。そんなことは、誰でもできることである。

あなた方にとって大事なことは、目に見えぬ世界を説明し、目に見えぬ神を信仰させるということです。そして、自らも、目に見えぬ神を信じ、目に見えぬ世界のために生きるということです。

これが、大いに価値のあることなのです。これ以上に価値のあることはないのです。

目の前にある物体を、物体として認めることに、一体何の意味がありますか。何の価値がありますか。目の前に人がいるのを見て、人がいると言って、何の意味がありますか。目の前に先生がいて、先生であると言うことに、何の意味がありますか。

目に見えぬ神を、あると信じて、この世界をよきものとして、神の創られた世界として信ずることができるからこそ、そこに大いる魂の飛躍があるのではないのですか。そこに大いなる魂の飛翔(ひしょう)があるのではないのですか。そこに大いなる魂の向上があるのではないですか、

私は決して、物質がいけないとか、お金がいけないとか、異性がいけないとか、地位や名誉がいけないとか、そういうことは言わない。それもこの世には、あることはあるであろう。必要かこてこがあ石であろう。

ただ、それに執(とら)われるということは、真実の世界に対する目を曇(くも)らせることになるということを言っておるのです。真実の世界の存在を知れ。霊の存在を知れ。神の存在を知れ。神の創られた世界であることを知れ。それを知ることが、大いなる勇気の源泉となり、大いなる知力の源泉となるということを知れ。

キリストの本質は、いつの時代も、こうした本当の世界観を人びとに教えるということ。 そして人びとを立ち上がらせるということ。真の意味において、人びとを救うということ。そして、その仕事が、同時代だけに評価されるのではなくて、後(のち)のちの数千年の人びとをも救うことになるということ。こうしたことがキリストの本質であるわけです。救世主の本質であるわけです。

さすれば、あなた方も、自分の心に、自らの心に問え、自分たちの仕事が一体何であるかを。この世の常識に迎合するをもってよしとするな。この世の知識人に歓迎されるをもってよしとするな。

真実の世界を、真実のままに伝えるということ。この世の人びとの常識が違っておるなら、断じてそれを認めてはいけない。真実の世界に生きなさい。真実のままに生きなさい。自分たちが正しいと思うがままの生き方をしなさい。

世の波風に、負けてはならん。人の悪口や雑言(ぞうごん)、あるいは批判や非難、こんなものに負けてはならん。彼らは知らんのです。神理を知らんのです。さすれば、神理を教えてあげるだけです。神理を広げていくだけです。

これから後、さまざまな困難もあるかもしれぬ。ただ、負けてはならん。あなた方は神の代理人であり、神のために働いておるのだということを忘れてはならん。

そうであるならば、力強く、力強く、進軍ラッパを吹いてゆけ、行進してゆけ、敵弾が当たるとも、生命は不滅である。不死であり、不増(ふぞう)、不滅(ふげん)である。

そういう氷遠の生命を生きておるならば、この地上の、自分の保身ということを考えずに、永遠の生命を、神のために燃焼し尽くすという生き方こそが、本当の生き方であります。

どうか、そういう生き方を大切にして、今後の人生を切り開いていってください。