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目次




 4.新しき提案





(一九八八年七月四日の霊示)

1.ストレス・マネジメント


エドガー・ケイシーです。今日もまた、こうして私の霊示を送れることをとても幸いに思います。さて、先日は「治病の原理」について、お話をいたしました。そのなかでいくつかの病気についての対策ということを立てましたが、病気そのものの数はそれよりもはるかに多いので、あれだけではとてもすべてはカバーできません。そこで私はこの第3章において、主として病気の予防、予防医学的見地に立った現代人の健康法について考えてみたいと思います。ついてはまず最初に、「ストレス・マネージメント」ということで少しお話をしてみましょう。

何と言っても現代という時代を医学的に眺めて見た時に、いちばんたいせつな点、あるいはいちばん注意を要する点は何かと言えば、ストレスの多い社会となっているということです。このストレスの管理ができない場合は、もう人間の生命は長くないと言ってもいいかもしれません。

このストレスには、個人レベルのストレスと社会レベルのストレスとの両者があります。個人レベルのストレスは、もちろん個人としての健康を害し、病気になるひとつのきっかけとなるわけですが、社会レベルのストレスというのは何になるかと言うと、これがやはり戦争というような大きなかたちになったりしてゆくのです。

現代という時代を見ると、この個人レベルのストレスで病気が流行(はや)り、社会レベルのストレスが多いために、また戦争の予兆があちらにもこちらにも出てきているようです。それは、平和時においては人びとの闘争本能のようなものが抑圧され、それがどこかになんらかの形をとって出てこようとしているというようにも見えます。

このストレス・マネージメントの話において、私はまず個人のストレス・マネージメントの領域についてお話をしておきたいと思います。なぜ、現代はそれほどストレスが多いのか。その理由は主として三つに絞られると私は考えています。

第一は、これは情報量の増大ということです。現代のような情報化社会においては、なかなか単調な日々を送らせてもらえないものです。これがひとつの原因になっているようです。毎日毎日、新聞、ラジオ、テレビその他さまざまなマスメディアによって新しい情報が絶えず流され続けており、それを吸収しないと時代についていけなくなってしまうのです。過去、人類が享受していたような、おだやかなのんびりとした平坦な日々というものを味わえないようになっているのです。朝、日が昇れば起き、夕方、日が落ちるころには夕食を食べ、家族団欒(だんらん)をして、そしてすぐ眠りに入るというような、そうした平穏な、おだやかに流れていくような生活が忘れ去られ、複雑でせわしない生活がよしとされる時代となったのです。

考えてみれば、これは幸福感の質が変わってきたということでもあろうかと思います。原始の時代と言いますか、遙かなる昔の、父親が狩猟に出て、そして獲物を捕って帰ってくる、妻が料理の準備をして夫の帰りを待ち、子供たちも夕食を待っているという生活。獲物が多ければ喜び、そして料理にも熱が入り、狩りの話をみんなでして、そして家族みんなが楽しそうに喜んでいる姿、そのようにして得ていた幸福感が果たして現代人のものと比べてみて、どれほど見劣りがすると言えましょうか。

幸福というのは、決して複雑な世界のなかだけにあるものではないのです。単純な世界の、素朴な喜びのなかにも深い幸福感というものはありますし、しかもそれは幸福の基本型であるとも思うのです。

そのような原始時代の人にとってみれば、たとえば学校のテストで何点の成績を取ったとか、あるいはボーナスがいくら増えたとかいうような議論は、たとえ聞いたとしてもチンプンカンプンでありましょう。彼らはお金というものに対する感覚さえないでしょう。また社会的肩書き、たとえば重役になった、あるいは社長になったといってもまったくピンとこないでしょう。彼らは現に自分たちに役に立つものが手に入った時にただ素直に喜ぶ、そうした喜びを幸福としていたと思うのです。

こうしてみると、現代の複雑な、情報過多のストレスというのは結局多くの人間が、複数の価値観を持ち始めているということ、異質な価値観というものが発生しているということが、その原因の一つであるのではないのかと考えられるということです。

また、このような情報の氾濫から始まって、次は交通のラッシュの問題がありましょう。父通機関がどうしても混み合い、そして勤労意欲が減退してきているということです。これはどの国の主要都市においても頭を悩ましている問題であると思います。

それからストレスの発生原因の三番目のものとしては、これは家庭生活の良好な維持ということがなかなかできなくなっているという、そのような点に求められるでしょう。現代人は、家族生活を営むということが下手になってきたのです。昔であるならば、離婚をするというようなことは、それほど多くあることではなかったのですが、現代人では離婚というのは急増してきています。これはいったい何か問題なのでしょうか。やはりここにも大きな弊害が忍び寄っているように思うのです。

それは何かというと、結局のところ、仕事上のストレスが家庭のなかに相当持ち込まれているということが言えるかもしれません。妻に夫の仕事の内容がわからないということ、これもひとつのストレスなのです。狩猟時代には夫の仕事は妻にとって明瞭なものでした。そして、夫がどればどの仕事をしたのだろうかということは、捕ってきた獲物をみればだいたいわかったものです。ところが現代の管理社会のなかにおいては、妻は夫が何をして帰ってくるのかがわからないのです。つまり、その長時間の間、夫が何をして働いているのかがわからないのです。そして、夫の自分への愛の量を帰ってくる時刻で計ってみたり、サービスの量で計ってみたりする。このようになると、夫のほうは会社で疲れて帰ってきて、そのうえ家庭サービスをさせられるというようなことで、ますます気がめいってくることがあります。このように、お互いが噛み合わなくなっているわけです。これも結局、妻が夫の仕事の内容をほとんどわからないということに、その原因があるのかもしれません。

このような三つのストレスの原因があって、現代は多くの病気が発生しているようです。そしてその根本にあるのは、やはり人間には、その個人個人独自の自分にあったライフスタイルというものがあるのであり、このライフスタイルを一律に規定しようとするところに実はかなりの無理があるようです。また世間の風潮によって、現在偏差値志向などというものがあるようです。けれども、みんなが立派だと思う方向、あるいはそれが社会における出世であると思う方向へと全員が流れていこう流れていこうとしているようですが、これに対してはもう少し、自分は自分という独立独歩の考え方を確立していってもよいのではないかと思うのです。他人の生き方に流されない人生を考えるということです。

またこれは、国単位でも同じようなことが言えるのです。何が言えるかというと、国単位のストレスというのは、民族間の優劣、国と国との間の優劣を競い合い、このようなものでもって追いつけ追い越せと競争をし、そして先方の国に負けるのではないかと思うと、やたら軍備を増強してみたり威嚇してみたり、こうした原始的な精神性がまだまだ残っていて、そこから発生しているのです。これに対しては、私は国家というものをひとつの人間としてみたてたときに、その国家単位の考え方、行動パターンといった一人の人間としての国の文化レベルを早く高いものにしたいものだと考えます。それはまるで原始人たち、しかもそれは原始人のなかでも特に野蛮な人たちがお互いに覇を競っているような、人食い人種の世界、そうしたものを国家単位で演じているかのようにも見えるのです。その根本の原因は、結局、言葉の違う種族である他国のことを信用できないということが、その根本原因になっていると思えるのです。

こうしてみると、現在海外旅行ばやりのようですが、多くの人がもっと早い時期から海外というものをいろいろと経験してみるということもひとつであろうと思います。修学旅行というようなもので日本国内のいろんなところへ若い生徒たちが行っているようですが、できるならば子供の時代に海外体験というものを短期間でもよいから積ましてやりたいものです。夏休みとして一か月も休みを作るのならば、そういった時に宿題ばかりやらさないで、一か月ぐらい他の国にも見学のために訪問させてみるのです。たとえば、アフリカとか、インドであるとか、中国、ヨーロッパといった国において、そこの子供たちをどこかの学校どうしが交換して面倒をみるような制度をつくり、一か月ぐらいそこに滞在していろいろと他の国の風土を学んでみるということ、そのようなことを考えてみてもよいのではないでしょうか。今、国民性ということを創ることを重視していますが、それ以外に早くから他の民族の、他の国の人たちの生活を知るということ、そしてみんな友達なんだということを知るということがとてもたいせつなことであろうと思います。


2.都市型生活の問題


さて、このストレス・マネジメントの話をすると、結局いびつな部分として出てくることは、都市型生活ということになるのかもしれません。都市というものはやはりストレスを生みやすいものなのです。しかしその反面、都市はまた繁栄のみなもとであることも事実であり、文化の源泉であることも事実です。田舎においてはなかなか文化というものは栄えないものです。都市にはやはり文化が栄えるのです。そこには盛り場もあり、若者たちもたくさん集まりいろいろな文化が栄えるものです。ただそのようにしていろんな文化が栄える反面、そのストレス管理がむすかしいのもまた事実です。都市型生活には、この両面があるように思います。

さて今、霊となった私の眼で見て、この都市型生活の問題を考えてみたいと思います。そうすると、ここにおいて結局何が問題であるかというと、経済のシステムの中において個々の企業がバラバラに自社の発展だけを願ってその活動を行なってきたということです。そしてあちこちに工場を造り、本社や支店をつくり活動してきましたが、結局そうした個々の私企業の自由の追求と、国家単位、あるいは地域単位で見た生活様式、あるいは交通様式、こうしたものとの間にバランスがとれなくなってきているということが言えるのではないかと思うのです。

私は、もはや大都市においては単なる個人、あるいは私企業の自由の追求だけではやっていけないのではないかと思います。こうしたところにおいてストレス・マネージメントをなしていくためには、そのように、お金があれば自由勝手に土地を買い、ビルを建てるという、そうした自由はもうあまり許されないのではないのかと、そのように思います。もちろん地方において土地が余っているようなところであるならば、好きなように建てたいものは建てたらよいと思うのですが、大都市圏においてはもうそれほど大きな自由はないと考えねばならない。やはりもうある程度の行政指導の枠のなかで、そういった企業活動などもなされていく必要があるのではないかと思います。

そうすると、都市には不自由性が発生しますので、ますます地方へと企業も人も流れて行くことが多くなってちょうどよくなっていくのではないのか。田舎では自由があるということになっていけば、そこでいろんな企業が出来たり、個人の生活が生まれてくることもあるのではないのか。そのように私は思います。このように、都市のなかではある程度、共産主義社会ではありませんが、もうかなり地域の行政府主導型、あるいは国家主導型でやっていく以外方法がないのではないでしょうか。一つの体制のなかに二つの考えがあるのはおかしいかもしれませんが、私はそれでよいと思うのです。人口何百万人か以上の大都市においては、もう個人個人の自由はある程度制限され、今以上にもっとその街が住みよいものとなるために公的な企画が入るべきであると、そのように考えます。

三百万なら三百万、五百万なら五百万の住人がなかよく住むことができ、かつ健康的に住むことができるためには、どれだけの緑が必要であって、どれだけの交通網の充実が必要であるのか、どの辺にベッドタウンが必要であるのか。官庁や、あるいは工場群、企業群がいったいどの辺にあるのがいいのか。こうしたことをもう少し公共性を持った観点から、やはり整理するべきだと思います。

したがって、日本の国なども国有地というものがあるのでしょうが、こうした人口三百万なら三百万人以上の都市の土地はすべて公有という形を明瞭にして、国家所有型にしてしまえばよいのです。そしてそのなかは、やはり国家のある程度のプランにもとづいて動かせるようにしていくのがよいと思います。そうすると、自由を求めて地方へ田舎へと企業も人も出て行きますので、これは人口の分散をうながしますし、また、都市に残っている人にとっても、そこは非常に計画性がある都市になっているのでとても住みごこちがよくなっていくと思います。こういう思い切った工夫をしないかぎり、なかなか現在の都市型生活を切り替えることはできないと思います。

この都市型生活を切り替えるのは、都市を要するにある意味で逆に不自由にしていくことです。都市をもう少し不自由にするということ。人間として最低限の生活を享受できるようにするためには、それなりにやはり計画型に切り替えていくことが必要です。そしてそれが嫌なものは地方へ、あるいは近郊へと移っていただくことです。このようにしていったほうがよいと思います。こうした人口過密のところで、それぞれの人聞が自由な活動をしようとするからこそ、いろんな問題が起きてくるのです。そうしたことを、私は提案しておきたいと思います。


3.運動不足の解消


さて、第三に、「運動不足の解消」について話をしておきます。これも主として都市型生活と関係があるといってもよいでしょう。何といっても一日のうちの大部分の時間を会社でしばられているというのが、ほとんどのケースであろうと思います。朝の八時、九時から出勤して夜の八時、九時、あるいは夜中まで、こうした勤務が続いていると思います。そこで、このような中で、どのようにして運動量を確保するかということがたいせつになります。もちろん週末にゴルフなどやっている人もいるでしょう。それはそれでよいかもしれませんが、それだけでは根本的な解決にはなりません。

私は運動というものは、あるいはスポーツというものは週に三回はしなければ意味がないと思っています。できれば毎日少しずつでもやるほうがいいし、毎日できないとするならば、できれば週に三回、各一時間は取っていただきたいものです。そのような願いを持っています。けれども現代のように朝早くから、夜遅くまで働いているようなサラリーマンの生活であっては、運動する場はもうほとんどないといってよいというのが現実でありましょう。

ここで私は、一つの考え方をまた提案したいと思うのです。現在多くの企業ではどうやって経費を捻出し、そして税金から逃れられるかということで一生懸命工夫をしているようです。利益を上げればその分担金を取られるので、どうやって経費を作るかということで熱心になっているようですが、ひとつこれも制度的に見直す必要があると思うのです。

たとえば会社のビルを造るときには、必ず運動施設をそのなかに造るというようなことについて一定の義務づけをする、あるいは方向づけをするという必要があると思うのです。特に大きなビルになった場合、小さな二階建て三階建てではそれはむずかしいかもしれませんが、何十階建てのようなビルを造る場合には、必ずそのビルのなかにスポーツ施設を設けるということです。たとえばプールであるとか、アスレチックスであるとか、そうしたものを必ず設けるということ、これを義務づけるのです。

そして、そのために要した費用についてはもちろん必要経費として控除をする、そのように考えていけばよいと思います。したがって、税全面で何らかの優遇をする必要があると思います。そうしたスポーツ施設などに力を注いだ場合には、ある程度税全面での優遇が得られるようにすれば、各企業は競ってでもスポーツ施設などを社内に造るようになるでしょう。

そして、会社のなかには残業が多いところもあるでしょうが、一日のうち勤務時間が八時間を越え、あるいは九時間を越え、十時間以上に達する場合には、その間の三十分なり一時間、そうしたスポーツ施設で汗を流す時間を社員に対し許容する、社内規則として許容する、そのような方法をとるのがよいように思います。

これについては、今後近未来社会におけるこれからの各企業は、はっきりと割り切って必要な費用だと思わねばならないと思います。そうでなければ、生物存在としての人間がもうだんだん生きていけなくなるのです。奇形児となっていくのです。人間の筋肉というのは、本来もっともっと強いものとして出来ており、それは狩猟にも使えるようになっているのです。ところが現代のサラリーマンたちを例えば狩りに連れ出したとして、いったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。その足、その眼、その手でいったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。それだけ現代人をその体格あるいは肉体について見た場合、退化してきているのです。これはやはりなんらかの点で改善しなければならないと思います。書類仕事だけではそうした体力を要求されることがないのです。

したがって、大企業、一定数以上の企業、たとえば従業員の人数が千人以上の企業であるならば、社内に何らかのそうしたスポーツ施設を設けるべきです。そしてそのなかで一定の時間自由に遊べるようにするべきです。このようなことをできれば指導したいと思います。そうでなければ今後ブロイラーのような都市型生活者が増えて、しだいしだいに体の具合の悪い人が増えてくるでしょう。また、そのサラリーマンの家族でも社宅などに住んでいる方も多いでしょうから、そうしたところでも運動設備をできるだけ準備していくということがたいせつです。それはもう各個人、あるいは私的企業の自由な判断にまかすことではなく、もうそうした福利厚生の部分についての公的な指導が必要な時期に来ていると思うのです。


4.新しき提案


さて、そうした都市型生活を中心として話をしてきました。またその提案のひとつとして、各企業に、そうしたスポーツ設備を設けるといった話もいたしました。さて、それ以外に、私の考える新しき提案があります。

それは、都市の造形といいますか、形式、あるいは計画に関することなのですが、できればこれから都市計画をするときには、都市の中央部分を憩いの場としていくことがたいせつだと思います。ドーナツ型の都市をなるべく造るようにしたほうがよいのです。これは、人間の精神構造、心理構造からいってもそのようになっているのです。ドーナツ型の都市の中央の部分に、くつろぎの場、憩いの場を造ってやることです。

そうすると、多くの仕事で疲れた人たちが、安らぎを求めて真ん中へ真ん中へと寄ってくるようになります。そうすると、いろんな仕事をしている人たち、いろんな生活をしている人たちが、その中央部分に集まってくることになるのです。その中央部分がいったい何になるかというと、それがすなわち都市の広場となるのです。広場となって、そこでいろいろな行事があったり、催し物が開かれたり、そうしたことにより文化の交流も盛んになり、人びとの語らいも進むのです。やはりどうしてもその形が四角い都市構造だと、そういうことができにくくなっていくのです。できれば新しい都市の場合には、ドーナツ型の都市を造っていただきたいと思います。そして、その真ん中には自由な空間、そういうものを必ず造っていただきたいのです。これは、人間の心を非常に和らげる効果があるのです。

もうひとつは、現在リゾート地の開発ということが非常に流行っているようですが、このリゾートについての考え方が今後必要であると思います。日本のリゾートにおける問題は、一定の時期に大量の人口が集まり過ぎるというところにその問題があるのです。海水浴客にしても、結局夏場一か月、二か月の間に集中して大量の人が出るのです。正月もまた大量の人が動き、お盆も大量の人が移動するのです。ゴールデン・ウィークもまた同じです。このようにして大量の人が一時期に集中するということが、リゾート地への人びとの移動を妨げているように思います。

したがって、これについては、やはり考え直す必要があるということです。そのリゾート地における人の分散化をはかるためには、たとえば毎年交代で業種なら業種によって、その夏休みを取る時期を変えるようにしていくという方法があるのです。あるいは地域によって、申し合わせによってお盆ならお盆の時期をずらしていくという必要があるのではないかと、このように思います。

また、それ以外の問題としては、単身赴任というような現象が起きていて、この単身赴任による男性の独り生活がふえており、そして週末に自宅に帰ってくるというようなこうした決まったパターンが、しだいに出来つつあるようです。もちろん海外への単身赴任ということもあるでしょう。これもまた、家庭を破壊する原因として非常に大きく影響しているように思います。

では、この単身赴任の問題をどのように考えればよいのか。これは止むを得ないことなのかどうか。もちろんこの単身赴任の問題も決して一概に悪いことだとは言えず、企業のなかに生きる者にとっては、それだけのキャリアを積むという意味合いがあることも事実であり、また一か所に定住するのではなくて、いろんな場所における生活を経験できるという意味でそのメリットはあるでしょう。

さて、後は家庭の問題です。家庭の問題としていちばん大きいのが、やはり教育でありましょう。教育のところがひっかかり、単身赴任が生じていることが多いと思います。ではその教育の問題、子供の教育の問題、学校の問題をどう考えるかということです。これについては、結局価値観の問題がひとつにはあげられるのではないでしょうか。つまり、スパルタ教育によってこそ学問が身につき、そして人間の成功への道が開けるのであると、このように思うのが多くの親たちの主たる考え方であるために、それほど素質のない子供を一生懸命きびしく教育しているというのが現状であろうと思います。

ただ、私の実在界に還ってからの考え方を述べてみますと、人間はそうした知識だけでもって成功していくことは、本当は不可能であるといってもよいと思うのです。結局、人間が成功していく要因は、実はその人の霊性なのです。その人の霊性がいったいどのようなものであるかによって、その人の成功、不成功が決まっていくのです。したがって、学問的なるもの、学校で学ぶような知識だけでもって、そのようなものが左右されると思ってはいけないのです。あくまでもその人間の霊性の開発ということがたいせつなのです。

したがって、教育の改革の原点を霊性の開発の方にもってくるということが、どうしても必要であるように思います。現在においては、霊性開発ということがまったく教育において行なわれていないのです。この霊性の開発という観点から教育というものを見直したときに、これは決して大都会の受験校が霊性の開発にとってふさわしいとは言えない、ということがわかるのです。この霊性の開発ということを主眼に置くのならば、それにはむしろ田舎のほうがよいかもしれないのです。地方のほうがよいかもしれないのです。このような観点から教育というものを見直していくとするならば、この都市教育と地方教育の格差というものについて、今までとはまったく違った別の次元から解決をつけていく必要があると思います。

また、学校においても、現在のように学問的な知識だけで能力を選別する方式だけをよしとしてはならないのであり、これからはそうした霊性の高い子弟を教育するようなシステムが必要となってくるでありましょう。霊的にある程度目覚めている人たちを集めて教育するような学校、そうしたものが必要であるように私は思います。


5.未来人の健康管理


さて、最後に、「未来人の健康管理」ということについて語ってみたいと思います。これは、将来起きるべきことを、ここにおいて先取りして話をしてみたいと思うのです。

そうすると、未来人の健康管理とは、ある意味で職業選択の自由とも関連しているように思われるのです。一生のうちで働く期間を四十年なら四十年とすると、この四十年間をまったく同じ仕事をして費やすというのもひとつではありますが、それだけではあまりにももったいないのではないかという考え方があります。したがって、この四十年のうちの何年かは本人の自由によって、もといた仕事場に帰ってこれるという前提つきで他の仕事に出ることができる、このようなことも必要なのではないでしょうか。また、ある程度、健康的な職業につくということも経験ができるという、こうしたことも大事なのではないかと、私はそのように思うのです。

今の職業選択における一番の問題点は、他のものにいったん職業がえをすると、もうもとに戻れなくなるということなのです。たとえば管理社会の中に生きていて、そこにおいてもう行き詰まりを感じている人は、保養も兼ねて一年ないし二年まったく違うところで働いてみるのです。たとえば、観光産業のなかで働いてみる。あるいは、農業、漁業のような仕事もしてみる。このようになっておれば、非常に面白い人生が送れると思います。農業というものも今のような個人レベルでの仕事だけではなくて、ある程度、企業が組織的に大規模に農業をやっていくべきだと私は思っていますが、そうしたところに雇用の造出をしておけば、一生のうちである程度いろんな職業を経験できるようになります。そしてもとの所にも戻れるというような、そうした計画が可能であろうと思います。そうした需要供給のバランスを保つために、また新たな仕事もできてくるであろうと思うのです。

このように、職業の単調化を避けて他のものをも経験できるような、そうした仕組みにしていくことがてきれば、結局自分の健康を害するような生活を今自分がしていると思えば、それなりに切り替えができるようになっていくと思います。現在たとえば証券マンであるとか、商社マンであるとか、そうした忙しい仕事についている人たちは、あまりそのなかに長く居続けるととても強いストレスを蓄積していくことになっていきます。こうした時に一つの会社だけというのではなく、多数異業種間で提携し合い人材の異動ということを計画し、相互に健康管理をするとよいと思います。またその反対に、のんびりとした仕事をしている人にとっては、むしろもっと刺激的な環境も必要となってくるでありましょう。

このように、一つの仕事ばかりを長期間ずっと続けてすることに対して、ある程度、肉体的な管理、精神の健康ということを考えて、多少そうした仕事のローテーション、社内ローテーションだけではなく、社外ローテーションをも組み合わせてゆくということです。そして海が好きな人や山が好きな人など、いろいろあるでしょうから、そうしたものをも調整していくこともできるでしょう。あるいは、一生のうち一時期は郷里のほうでも仕事ができるというような、そうした仕組みを創っていくことが健康の管理にもなるのだと思います。

また、未来人ということに限って特に言ってみるとするならば、今後発達してくるものはやはり「予防医学」でありましょう、どのように医学というものを予防的見地から行なっていくか、そして病気を事前に抑えるか、ということが、今後もっと合理的に考えられるようになると思います。

おそらくは、ある人を人間ドックのような装置に入れて分析してみると、将来どういう病気にかかる可能性があるか、そうしたものが瞬時に出てくるようになるでしょう。そしてそれを避けるためには、どういう運動が必要か、どのような健康管理が必要か、こうしたものがはっきりと数値としてコンピューターによって出されるような、そうした時代がもうそこまで来ていると思います。これはかなり碓実に予想できるものであると思います、そうした健康管理、これが始まっていくでしょう。

もうひとつ未来大の健康管理において、言い落としてはならないことは、それは、食事の管理ということになります。この食事の問題も、現在かなり個人個人のレベルに任されている点がありますが、現代およびこれからの未来人にとっては、この食事の管理ということが非常に大きな課題となります。おそらくは今後、たとえばプロの調理人とか栄養士などの能力とはまた別に、食事管理能力ということ、健康維持のための食事管理能力というようなものが、ひとつの国家資格のようなものになっていくでしょう。そしてその資格が一級であるとか二級であるとか、そうしたものも今後出来てくるでしょう。その免許・資格を奥さんが取るのが望ましい、と言われるような、そうした時代になると思います。

以上で「現代人の健康法」の話を終えたいと思います。