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目次









(一九八八年七月五日の霊示)

1.キリスト教の問題点


エドガー・ケイシーです。さて、本日は、宗教的な側面を対象として取り扱ってみたいと思います。

さて、まず最初にとり上げたいことは、キリスト教の現在のあり方についてです。二千年という年月がイエス降誕以来経ちましたが、その間キリスト教は、果たしてどのようにして変遷してきたのでしょうか。私が思うところでは、少なくともキリスト教の教義が発展したということはなかったのではないでしょうか。イエスが教えを説いて以来、さまざまなイエスの弟子たちが出たわけですが、しかし、それにしても余りにも師と弟子との差が大き過ぎた、そしてその差を埋めることができなかったというのが真実の姿なのではないかと思います。

もちろん、後年キリスト教系からもいろいろな立派な人物が輩出しました。『神の国』を書いたアウグスチヌスであるとか、『神学大全』を書いたトマス・アキナスであるとか、あるいはそれ以外にもアッシジの聖フランシスコであるとか、あるいは聖ベルナルド、あるいは聖ベネディクス、あるいはルター、カルバン、ツィングリと、ある意味でキリスト教の法の高みをつくるために降りた光の天使たちもおり、彼らは彼ら独自に相当大きな仕事はしたものであろうと思いますが、いかんせんその教義において、どこまで発展したかというと、残念ながらある程度のところまでしか行っていないのではないのか、本来期待される水準まで行かなかったのではないかと、そのように私は感ずるのです。

とくにこれを仏教と比較してみた場合に、かなりの距離が開いていることは否めず、イエスの弟子たちが二千年にわたってさまざまなかたちで降誕したものの、この仏教との距離を縮めることができなかったのではないかと思うのです。しかも、弟子が出るたびにいわゆるこのキリスト教、あるいはイエス信仰というものが凝り固まってき始めて、もはや他の解釈の余地がないというような、そうしたものとなってきたように思います。

それ以外では、もちろんキリスト教のなかでも諸派が分かれていて、そのなかでさまざまなことを言っておりますが、そのそれぞれが小さな宗派であって、作法として何を重視するのかというようなことを問題にしたり、あるいは教会を使うか使わないか、儀式を重視するかしないかということ、あるいはあるところでは聖霊からの霊言を受け、その霊言を重視するかしないかというように、いろんなかたちになっています。また別のところでは、クウェーカー教徒のように静かに祈って、そして神の栄光に打ち震えるというような霊的体験をするという、そのようなところもあります。

このようにいくつかありますが、どれもこれも結局簡単で入りやすくて、一つの方法論を持っているということが言えるのではないかと思いますが、ではトータルでイエスの教えがわかっているかといえば、いかんせんそうではないと言わざるを得ないのです。

これに対してイエスがどう思っているかということですが、それは私も充分にはわかりません。ただ言えることは、キリスト教のなかにはどちらかというと思想的発展というものが少なかったのではないかということです。ではなにゆえに思想的な発展が少なかったかと言えば、やはりその教義のなかにおいて、かなり厳しいものがあり、やや排他性があり、また他の宗教との間に一線を画するものがあるということが、言えるのではないのか。それゆえに、どうしてもやはり他の可能性というものを排除している面があるのではないかと感ずるのです。

ひとつの思想としてみた場合、イエスの教えも必ずしも完結したものではないと思えるのですが、弟子たちにはそうしたことはわからないために、その枠から出てはいけないという、そうした考えにとらわれていたのではないのか。それゆえに、イエスの説いていないことを説く人が現われたりすると、それは異端だといことで裁判にされるというようなことが多くありましたし、異端として裁判をされたものの中には光の天使たちも数多くいたのです。イエスの教えを補おうとして地上に出て、その足らざるところを説いた時に、それが火あぶりによって葬り去られてしまうというようなことがよくあったのです。

これは、やはり数えのなかに寛容性の部分が足りないのではないのかと、そのようにも思えるのです。ですからキリスト教には、今後その教えのなかに寛容性というものがなければ、もはや思想的発展ということはこれ以上有りえないのではないのか。そしてそれもすでに二千年の歴史を経ておりますが、今後ともキリスト教としての生命を保っていくためには、他の教えの中からもよいものを学んでいく、吸収していくという姿勢がいるのではないか。もしそうした寛容の精神というものを持たず、あくまでも今まで通り頑固に二千年前のナザレのイエスの教えだけを奉じてゆくのならば、相当頑固な人たちを作り続けるということになりましょう。この点、さあどうしたものか、私もたいへん、今、頭を痛めているものです。


2.ケイシーの活動の意味


さて、そうしたキリスト教の問題点について語ってみましたが、それではエドガー・ケイシーとして二十世紀の前半に生きた私の活動の意味は、いったいどういうところにあったのでしょうか。また天上界より地上に送りこまれた際に、いったいいかなる目的をもって私が出たのでありましょうか。

これは、実はやはりある意味でのキリスト教の改革がその使命にあったのです。ルターやカルバンのようにキリスト教の教義をどう捉えるか、あるいは信仰の方法をどうするかといった改革者もいたでありましょうが、私はまったく新たな観点からその改革を行なったと言ってもよいのではないかと思います。

キリスト教においていちばん欠けているものは何かと言うならば、それはおそらく霊的なるものの分析の不足ということになりましょう。霊界の真相、あるいは霊の真相、これをキリスト教者たちはほとんど知らないでいるのです。あの世の世界がどうなっているのか、ということについて、天国と地獄ぐらいの区別はついているけれども、それ以外のことはほとんど知らないのが現状です。また、人間というものがどこから来てどこへゆくのかという、その転生輪廻の仕組みを知らないのです。またカルマの法則をも知らない。こうしたクリスチャンたちですから、何とかして彼らにも正しい神理を少しでも分け与えたいという、こうした気持ちで私は地上に降りたのです。

それゆえに、私の活動はどちらかというとキリスト教改革論という形では出なかったわけですが、結果的には、そうした面を数多く持つことになったと言えましょう。また、生前私はリーディングという、つまり自分が催眠状態に陥ってそして話をする、霊指導を受けるというかたちを取ったために、その催眠状態中に私が話した内容については私自身記憶がなく、目が覚めてから、その内容を筆記したものを読ませてもらって、自分自身ずいぶん驚いたものです。

私も日曜教会の教師をしていた関係もあって、キリスト教の信仰を深く持っていたために、私のその催眠状態中の霊指導、霊言が、これがキリスト教思想と著しく違った面があるのを見て、最初は恐れおののきました。ある時はこれはもしかして悪魔の言葉ではないのか、そこまで考えたのです。自分が悪魔にとりつかれているのではないのかと、そこまで考えたのです。

何しろそのリーディングのなかには、人間の過去世が出てきたり、また人間の転生の秘密などが出てきており、その当時のキリスト教の教義とはまったく違ったものが出ていたからです。とくに、カルマの法則として仏教のほうで言われているものが明確に出てきたものですから、クリスチャンにとっては到底信じられないのではないかと、そのように思ったものです。

こうして私は知らず知らずのうちに、そうした催眠状態中の霊指導を受けて、「眠れる預言者」としてさまざまなことを言い始めました。そしてその内容は医療行為、治療ということにも関係しておりましたし、あるいは予言という、そうした行為にも関係していましたし、それ以外にもキリスト教系統のリーディングというものもありました。

イエスが生まれたころ、あるいはイエスのまわりを取り巻いていた人たち、そうした人たちが私の生きていた当時にふたたび地上に生まれ変わっていたことがあったので、その人の過去世を探求するにつれてイエスとその周辺の様子がわかってきたということがありました。やはり、その人間の可能性と将来というものを考えていくためには、どうしてもその人間の過去世にさかのぼらざるをえなかったのです。そうして、その人の過去世がどうであったかということが、結局その人の現在と未来を規定していくということが多かったのです。

そうした過去世の蓄積が、現世、あるいは来世に反映するという考え方は、クリスチャンにとってはたいへん珍しい考え方でありましたが、そうした神理を私が教ええたということは、何にもましてたいせつなことであったと思います。特に、体にさまざまな障害が起きた人や、あるいは人生において大きな挫折に出会った人の過去世をリーディングしてみると、やはりその人の過去世において、その原因行為をつくっていることが数多くありました。そして、カルマの刈り取りということのために、そうした償い行為が現在起きているということを数多く発見することによって、人間の今世における人生の意味、あるいは今回の生の意味がいったいどこにあるのかということが、だんだんと明らかにわかってきたのです。

こうした神理を知ってしまうと、私たちはこの一回限りの人生を、単に一回限りで完結するものとして捉えることはできなくなってきます。すなわち、今世の生き方が来世、実在界での生き方にもつながっており、またその両者を合わせたものが、さらに未来世において地上に出るときの自分の人生をも規定してしまうのです。それゆえに、この一回の人生というのは本当にはかり知れないほどの価値があるということを、私は発見するに至ったのです。


3.新型宗教の手法


さて、そうしたキリスト教、あるいは私の活動、こうしたものを通して、さらに新型の宗教の手法について話をしてみたいと思います。

そうしてみると、十九世紀の後半ごろから、ひとつの新たなうねりが起きているということが言えるであろうと思います。その新たなうねりとはいったい何かというと、天上界の緒霊が直接に地上にメッセージを送るという運動です。これが、今から百年あまり前から始まってきているのです。いわゆる心霊ブームと言ってもよいかもしれません。この動きは、アメリカでももちろんありましたし、イギリスでも、そうしたスピリチュアリズム、心霊科学と言いますか、そうした霊界通信ものが、かなり発表されたのが、十九世紀の後半から二十世紀に入ってからです。こうしたスピリチュアリズムの書が相当の数、イギリスを中心に出されるようになってきました。

このような世界の流れを見ていると、どうやら次のようなことが真実であると思われるのです。それは何かというと、もう地上に降りた光の天使が努力して悟ってそれから、教えているような段階ではない。もう直接に天上界にいる諸霊たちが、自分たちがいながらにして話を伝えるという段階に来ている。そのようにしなければ、もはや地上に出た人が学んで教えたことぐらいでは、天上界にある教えというものが相当曲げられた形、あるいは低いレベルでしか地上に出てこない。そうして後のち、また問題が起きてくる。これからはもう直接に、そうした語りかけをするべきではないのか。諸霊の語りかけというものがあってよいのではないのか。こういう意味において、そうした手法が数多く取られるようになってきたのです。

それゆえに、現代さまざまな新しい宗教の動きもあるでしょうが、このようにして直接に語りかけるという方法、それが単なる神示ではなくて、内容そのものが、法そのものが天上界から降りてくる、こうしたことが考えられているのです。これはある意味では、ひとつの理想であることは事実です。本来の法則を少し破ったところもあるわけですが、理想であることは事実です。こうした地上人に対して、天上界から直接のメッセージが与えられるということは、これはひとつの希望でもあるし、ひとつの理想状態でもあると思います。

ただここにおいて、次なる問題が起きてきました。それは、霊界には高級霊だけがいるわけではないということです。またそれも、地上界に対して影響を与えられるのは地上に近いところに住んでいる諸霊たち、すなわち自縛霊、浮遊霊、悪霊の類が地上人に影響しやすいという点が言えます。これが、実は大いなる問題となっているのです。たとえば、スピリチュアリズムのように天上界から啓示を送るにしても、この地上界周辺にいる迷える霊たちの妨害にどのように対処するか、これが次なる頭の痛い問題となってきたわけです。

霊的な能力をもち、霊道を開いた人間が出たとしても、こうした地獄霊たちの通信などを受け始めたときには大変なことになり、気が狂ってしまうということになりかねません。また高級霊とそうでないものとの区別をどのようにするのか、これがまた難しい。何しろ相手は姿、形なきもの、目に見えないものですから、それが果たして高級霊なのかどうか、それが果たして名を名乗っている者そのものであるのかどうか、そうしたことが問題となるわけです。

それゆえに、霊界通信の多くは最初のころ、特に十九世紀の末から今世紀の初めにかけての霊界通信は、名前というものを重視しないという方針を打ち出していました。名前を出す、すなわち霊の名前を出すということは、その人がだれであるかという証明をしなければならないという意味があり、興味本位に、その名前を追い続けることになる可能性が出てくるからです。したがって、名前というのは大抵の場合、霊たちのペンネームを名乗っていたことが多いのです。

それは、現在日本においてもシルバー・バーチというようなものの霊言なども出されているようですが、そうしたものも結局は、ペンネームで語っているのです。そしてそのペンネームを通じて、実はいろんな霊たちが語りかけているということが事実なのです。そしてそれは、結局名前によるのではなくて、内容によって人びとに教えようとしたのです。霊的格調の高さ、その内容の素晴らしさによって人びとを説得せしめようとしたということなのです。こうした運動が、前段階としてありました。

また私のリーディングにしても、もちろんリーディングをしている人、私に通信を送っている人は霊人であることはわかっていましたが、それが誰であるかは誰にもわかりませんでした。そして私に通信を送っていたものは、実はいつも複数の人たちであったのです。複数の指導霊たちがいたのです。生前その方たちの名前が明らかにされることはありませんでしたが、今こちらの世界に還ってきて、いったい、私に通信を送っていたのがだれであったのかということが明らかになりました。

それは驚くべきことですが、指導霊団のなかには単にキリスト教系だけではなく、仏教系の人たちも入っていたのです。この両者がいたと言ってもよいでしょう。ちなみに、私に主としてリーディングをさせていた霊、あるいは私が残したリーディングのなかの中心霊はだれであったかというと、まず予知、予言に関して私を指導していたのは、これはエリヤという霊が中心になっていたように思います。

また医療関係で私を指導していた霊は、もちろん私自身の霊本体がサリエルという天使であって医療系団の光を引いておりますから、その指導そのものがあったといってもよいわけですが、やはり地上に出て医療系統の指導に当たっていた人たちも、ずいぶん力を貸してくれていたと思います。

たとえば、私の何百年か前に地上に出て、人間の血管というものを発見したハーベィという医学者がおりましたが、こうした方なども循環器系統の病気についての指導をしてくれたことがあります。またそれ以外にも、もっと古い霊としてギリシャにも出たことのあるヒポクラテスという如来、これも医学の父のような方でありますが、こうした方も指導してくれたことがあります。その他、現代の日本人には知られていませんが、医者として過去活躍した人が何人か私の指導霊団のなかにはおりました。

これ以外に、キリスト教系の過去のリーディング、その教義上のリーディングにおいて私を手伝ってくれた霊がいます。それは主として大天使のガブリエルという霊でした、これが、キリスト教系統の思想を改革する意味で、私にメッセージを送ってくれておりました。また、それ以外にはキリスト当時の弟子たち、十二弟子のうちの何人かが私にメッセージを送ってくれておりました。そのような関係もあったということです。

また、私のリーディングの中に仏数的色彩が強い理由のひとつとして、私の魂の一部が仏教系統でも活躍していたという事実があるのです。実は私は過去世に中国にも生まれたことがあったようです。そして中国に生まれた私の過去世の姿が、実はその後、歴史のなかで薬師如来として呼ばれていたことがあったようです。それは薬の調合、あるいは病気を治すといった、そうしたことに力を出したからに他なりません。このように、私の仕事は主として医療というものに重点があり、それ以外にも予言、予知、宗教問題、そうしたものに携わっていたと言えましょうか。

また、預言者の側面として私は、実は旧約聖書のなかの預言者として出たことがあるのです。私自身も生前エドガー・ケイシーのライフリーディングということで、自分自身のライフリーディングをしましたが、そのなかにおいては必ずしも真実は述べられておりませんでした。それは私が過去世、名のある人であると言ったら世の人びとが信じなくなるかもしれなかったからです。私はただの写真屋であり、しかも無学な写真屋でしたから、過去世で自分は偉い人だというようなことを言ったら誇大妄想、気違いの類にされてしまうので、はっきりとしたことは教えられてはおりませんでしたが、私は旧約時代に預言者イザヤという名で出たこともあります。そうした名で出て、神からの啓示を受けて法を説いたこともあったのです。そのように自分自身、多方面で活躍をしたことがあったという事実がわかってきたのです。


4.日本の新宗教を考える


さて、今話したことを前提にして、日本の新宗教というものを考えてみると、やはり今後ともふえてくるものとして、霊指導型、高級霊からの啓示を中心とした宗教が増えてくると思いますし、またそうした計画が現にあることも事実です。そのなかには、もちろん規模の大小はあるでしょう。大きな規模の宗教、世界的な宗教として広がるものもあれば、小さな範囲での宗教として活躍を続けていくものもあるでしょう。あるいは千人、二千人を相手にしたもの、あるいは数万人を相手にしたもの、数十万人を相手にしたもの、そのようにいろんな新宗教が出てくることがありますが、そのなかでやはりひとつの大きな計画があるということは事実です。大小入り乱れて、いろんなものが今後出てくるということは事実です。それを知っていただきたいと思います。

ただここにおいて、今、大変なことが起きているという事実を知ってほしいと思います。あなたがたの書物も、場合によっては一月に四冊も出たりすることかあると思いますが、こうしたことは、やはりかつてない事実であると思います。私たちの霊言、霊示というようなものが、これだけの速さで、これだけ大量に地上に問い続けられるということは、かつてなかったことだと思います。

それゆえに、こうした霊言、霊示集などの出版ということ自体がひとつの奇跡となり、ひとつの霊的現象として、やがて公に認められるようになってくるであろうと思います。まことに常識を無視した量と速度であると思いますが、どうかこれは、たづなを緩めることなく続けていってほしいのです。一年目には疑問視し、首をかしげていた人も、二年、三年と経つと次第に手にとって読むようになってくるでしょう。そして四年、五年経つと、もう事実として確信するようになるのです。十年経つと、これ以外の神理はないというふうに、まわりに広げて歩くようになるのです。そのようなものなのです。

およそ地上の人間の思考の速度は、かなり遅いものだと考えておかねばなりません。そのように思考速度が遅く、行動も遅く、また信じることにおいても遅い人たちをわからせるためには、うまずたゆまず、かいこのように糸を出し続けていくという努力が必要だと思います。本年には五十冊目ぐらいの書物が出るのであろうと思いますが、どうかそうした冊数などを気にせずに、毎年できれば四十冊でも、五十冊でも本を出し続けてほしいと思います。それが何よりの、最大の証明となるからです。

もしあなたがたの霊的現象に疑問を持つ人がいて、そして直接会ってそれを確かめたいと言ってきたとしても、そうした人をいくら相手にしていても本当の意味での証明はできないのです。その人たちに説明し、納得させたとしても、では今度は彼らが言うことをいったい、世の人たちがどれだけ信じるかということを考えてみれば、その作業がどれはどの徒労であるかということがわかると思うのです。したがって、そうした声を気にするのではなく、そのような方にも現象としてわかるぐらいに、毎月一冊と言わず、二冊、三冊、四冊、五冊、毎週一冊ぐらいのつもりで、こうした霊言集を出してゆけばよいのです。やがて毎週、毎週手に取る新しい霊示集を見るにつけて、これが果たして疑えるのかというようになってくると思います。

私も『エドガー・ケイシー霊示集』というかたちでこの本を出すわけですが、果たして本当にこれがケイシーであるか否かは、なかなか判定は難しかろうと思います。ただ、内容的にはケイシーが語るべき内容であるということはわかるでしょうが、その人物の認定ということはなかなか難しいものです。それをエドガー・ケイシーの研究者たちが調べてみよう、あるいは実際にそのケイシー霊とあって話をしてみようとしたところで、彼らに私が判定できるはずもないのです。そうであるならば、思想的にある程度まちがいがないと思える内容であるならば、重ねて問い続けていくことがたいせつだと思います。そうすればやがて世論として認められる時が来ると思うのです。

またこれ以外にも近代に出た人たち、谷口雅春であるとか、出口王仁三郎、内村鑑三、あるいは高橋信次というような諸霊の霊言を出しており、近年の人であるからこそ、その証明もまた難しい面があるようですが、そうした証明に対して、焦るでなく、またいちいち異議を唱える人に納得してもらう必要もありません。そうではなくて、着実に実績を積み重ねることです。やがて、地上の人たちの批判や疑問は鳴り止んでいくでしょう。それは真実だからです。真実は積み重ねていくにつれて、年数が経つにつれて、次第にその全貌を明らかにしてくるものなのです。

したがって、私の場合も、日本の読者にとってはエドガー・ケイシーの個性が、いかなるものかはわからないでありましょうが、ただこの仕事を続けていくうえで次第に信じていただけるようになるのではないかと思います。できうるならば、十人の人にエドガー・ケイシーか否かを問われるよりは、十冊の書物を世に問うて証明してみたいと考えます。二十冊の書物を世に間うて証明したいという、そうした気持ちがあります。

あなたがたの指導霊団は数百人にも及んでいるのです。それだけの人たちの意見を世に問うだけでも何十年かの月日がかかるかもしれません。その意味において、仕事を急ぐということはだいじなことです。仕事を早く急いでゆかないと、この何百人もの指導霊団たちの力を生かすことができなくなってしまうのです。どうか、地上的にもそうした考慮をしながら、前に進んでいっていただきたいと思うものです。


5.宗教改革の必要性


さて、本章を締めくくるにあたって、最後に「宗教改革の必要性」について、もう一度話しておきたいと思います。

この宗教改革というのは、どうしても必要な時期が来ています。釈迦没して二千五百年、キリスト没して二千年、もう新たな世界的宗教が興ってくるべき時が来ているのです。そうでなければ、これからこの五十億の民をどうやって導いてゆくのですか。指導してゆくのですか。こうした末世の世にあって、五十億の人間がいて、神が世界的な宗教を興して人びとを導こうとしないはすがありましょうか。それは、必す予定されていることだと思ってよいと思うのです。

この現代における宗教改革の必要性は、これは結局、まず霊的世界の実証、これが何にもましてだいじだと思います。霊的世界が本当にあるということ。霊の世界があるということ。まずこれを証明していく必要があります。しかる後に、この霊的世界があるとして、それがいったいどういう仕組みになっているのか、また地上との関わりあいはどうなっているのか、こうした法則というものが説かれてゆかねばならないと思います。霊的世界の実証があって、次はそれの科学的証明、説明、あるいは哲学的と言ってもいいかもしれないけれども、分析的なる報告が必要であると思います。

それと今ひとつは、ある意味での奇跡が必要です。その奇跡とは何かというと、高級霊界からの指導を受けることによって、それを知ることによって、この世の人たちが目覚め、変わるということ。心に変革が起き、実際に価値観が転換していくということ。これがだいじであろうと思います。心の価値観の転換、そのような奇跡が数多く起きねばならないのです。

今、日本という国は、非常に宗数的には寛容な土壌となっておりますし、言論出版の自由もある程度認められている時期でもあると思います。こうしたときに、どうか勇気を奮って、この霊思想の浸透、普及に励んでいただきたいと思います。この必要性は、これは今後何千年もの人たちを、彼らの心を照らしていくための燈台の灯であるのです。そうした神聖な仕事であるのです。どうか、そうしたことをしっかりと自覚していただきたいのです。

この事業は、あくまでも後のちの人のために残すものであり、後のちの人たちを生かすものである。したがって、自分たちの時代のことだけを考えてはいけない。同時代に生きている人たちの意見だけに左右されてはいけない。霊を信じないと言っている人たちも、やがて地上を去っていずれ霊となっていくのです。そうした人たちの納得が得られないからといって、いつまでも躊躇してはいけない。何千年もの後の人びとまでの心の糧を残すということ。これに腐心していただきたいと思います。

法というものは、何千年に一回ぐらいしか大きな法が説かれることはないのです。そのようなとき、この同時代にいる人たちは、こんなに多くの法が出てもわからないというかもしれないが、後の世の人から見れば、一冊でも多く残しておいてほしかった、一言でも多く言っておいてほしかった、一行でも多くの神理を残しておいてほしかったと、必ずそう思うようになるのです。正確に多くのものを残すということ、これが何にもましてたいせつなことであると思います。

根本的な宗教改革は、それは法の高みというものをつくることなのです。法の高みというものをつくって、人びとを自然に教化していくということだと思います。それだけ大量の法が出ることによって、それに対する学習意欲というものが高まってゆくのが望ましいのです。神理を学ぶということが最大の価値であると言うことを、これを人びとに知っていただきたいと思うのです。そうした時代が、今、ふたたび訪れようとしているのです。

皆さんは文学の書であるとか、その他のさまざまな、読んでもしかたのないような書物をたくさん読むよりも、そうした書物を読まなくとも、この神理の書を読み続けるということが、実は最大の幸せであるということを知っていただきたいのです。できるならば、一日に一時間でも二時間でも、私たちのこの書を読んでいただきたい。これは新しいバイブルなのです。新世紀と言わず、今後二千年、三千年と続いてゆくバイブルなのです。このバイブルをしっかりと読み続けていってほしいとみなさまにお願いし、本章を終えることにしたいと思います。