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目次









(一九八九年八月二十日の霊示)

1.四千年の静寂(しじま)を破りて


我は全智全能の主(しゅ)ゼウスなり。

地上の者どもよ、今この機会に我が声を聞きしことを、大いに喜べ。我、いまだかつて、このようなかたちで地上の者どもに霊示を送ったことはない。ゼウス四千年近き眠りより、今めざめ、おまえたちに、かくのごとき霊示を送りうることをうれしく思う。

そもそも、おまえたち地上の人間は、我、全能の主ゼウスの何人(あんぴと)たるかを知らぬのではないか。おまえたち地上の人間は、ギリシャ神話のゼウスがゼウスのすべてであるかのように思っていることであろう。

ギリシャの神話は、たしかに四千年近い歳月の間、我が姿の一部を表わしてはいるものであるが、しかしながら、この間(かん)において我が真実の姿と、我が真実の教えとが人びとに知られずにいて久しいと思うのである。

そもそも神である我(われ)が、ギリシャ神話にあるがごとく、感情に猛(たけ)り狂うはずはないのである。我は怒りの神ならず。我は崇(たた)りの神ならず。我は肉欲や快楽のなかに埋没(まいぼつ)する我ならず。我は叡智(えいち)の神。我は全能の主。すべて我より始まり、我に終わる。我なくして地球の初めなく、我なくして地球の終わりなく、我なくして人類の初めなく、我なくして人類の終わりなし。人類の叡智は、我(わ)が創れるなり。人類すべて我が子なり。

思うに、現代の文化・文明というものも、すべて起源はギリシャにあったであろう。哲学も思想も神学も芸術も、すべてギリシャにあったであろう。このギリシャの力を現在にいたるまで創ってきたは、このゼウスだ。

ギリシャは、おまえたちの知っているとおり、山多く、また石灰質の荒れ地の多い国だ。海は、夏は栄えてはおるが、冬は荒れ、暗く、けっして人間のすごしよいところでもないであろう。そのギリシャに、光の柱を打ち立てしは我。我存在するところ、すべて世界の中心となり、我存在するところ、すべて文化の中心となり、我存在するところ、すべて宗教の中心となる。

おまえたち地上の人間よ、よくよく我が言葉を聞くがよい。おまえたちは、大部分は日本人であろうが、また我が言葉を他の国にて読む者もあるであろう。

おまえたちに言っておく。おまえたちは、たいへんなまちがいを犯していると。

神を信じなくなったとき、人類はそもそも存在を許されないのだ。

おまえたちは、神を信じなくなって久しい。にもかかわらず、おまえたちの存在が許され、繁栄が許されるということは、いかなるわけか知っているか。それは、おまえたちが、かならずやゼウスの雷(いかずち)に打たれて、改心をするということが前提となっているからなのだ。

もし、おまえたちがこの九次元大霊の光を浴びて、なおかつ心を改めないというならば、おまえたちは地上に存在するなんらの絆(きずな)もなく、なんらの基盤もないということを知れ。

そもそも、人間を創ったは我らである。いや、「我(われ)が創りたり。」と言っても過言ではない。そもそも、おまえたちは我(わ)が創りし者どもではないか。我(われ)、粘土のごとく、霊なる材質を使いて、男を創り、女を創った。

おまえたちは、他の星から地球に移ってきたと聞いてもおろうが、それなどはごく一部にすぎん。地球は地球で人間を創ったのだ。それはいったいだれが創ったのであるか、おまえたちは知っているか。おまえたちの大部分は、我(わ)が創りし者であるということを知れ。

しからば、我は神にして、おまえたち人間の親である。親である我が、おまえたちの存在を許さぬと言っている以上、おまえたちは存在することはできなくなるのだ。

許しの条件はただ一つ。それは、神にすべてを委(ゆだ)ね、信じ、いや信ずるということでは、まだなまぬるい。信ずるなどということでは、我は承服はせぬ。我は親なり。親が子を創ったと言っておるのに、子は親が自分を創ったことを信ずると言っていて、親はそれでよいと思うであろうか。

おまえたちに子供があって、その子供が、おまえたちが親であることを信ずると言って、それでおまえたちは満足がいくか。そうではあるまい。そう言われたならば、私たちが、おまえを地上に産んだは何年の何月何日、子供のおりにはこのような苦労をした。そして手塩(てしお)にかけて育てあげて大人になったのだと、言うであろう。

その親の苦労を忘れて、「今から二十年前に、たぶんおまえたちが創ったのかもしれぬ。そう信じようが、その証拠はどこにもない。」などと、もし、そのような思いあがった言葉を、子供たちが吐いたとするならば、親なるおまえたちは、どのように思うか。それを見て、当然だと思うか。親である証拠はないがゆえに、せめて顔形(かおかたち)がすこしなりと似ているから、それが親子であることの推定になるとか、このようなことで満足できるだろうか。

信ずるということではなまぬるい。

現に、おまえたち地上の人間を創った私が、四千年の静寂(しじま)を破りて、このように声を聞かせておるときに、おまえたちはもっとめざめねばならん。おまえたちの脳天が真っぷたつに裂けるがごとき衝撃を受けてよいのだ。

もし、この私の書物を見、あざ笑い、これを否定し、そしる者あるならば、全能の主ゼウスは、おまえたちの存在をけっしてよしとはしないであろう。全能の主ゼウスは、かならずやおまえたちに、そのまちがいを正さずにはおかないであろう。おまえたちは、そのまちがいをかならずや正さねばならぬ時が来るのである。

我は何度も何度も言う。我がゼウスという神の名を、おまえたちは神話において知り、きわめて人間的なる神であると思っているであろうが、我がほんとうの姿は永遠の昔より神として存在し、永遠の昔よりおまえたちを創り、育(はぐく)んできた光そのものであるということだ。

そのような根源的なる光が、今、このようなかたちにて人間的なおまえたちの心に訴えかけるということは、いかなる慈悲(じひ)であるか。それを深く深く胸にきざめ。これは大いなる慈悲であるということなのだ。


2.人間、表現する存在


さて、我はもっともっと我が存在について語らねばならぬであろう。おまえたちは、我がいったい何をなしているのか、それを不思議に思うこともあるであろう。

我は、無限に永い歳月のなかを、おまえたちを指導し続けてきたのだ。おまえたちは、どのような心の教えが我が教えにあたるかを知っているであろうか。

我が心の、心の内なる教えは、我(わ)がおまえたちに連綿(れんめん)と説き続けたる教えは、人間の本質をいかに見るかということであった。

人間には自由というものが許されてはいる。そして、それがゆえに表現ということがなされる。表現のなかに、行動というものがある。我が、主として教えきたりしは、この行動というものの重視である。人間が、人間として是(ぜ)とさるるは、その行動において見え出(いで)しものが、世の人びとの光となることによる。

人間として両親より生まれ、そうして、もし他の人びとに迷惑をかけ続け、他の人びとより援助を受け続けて、そしてこの世を去るというならば、そのような人生は断じて是とされぬ。

おまえたちが、真実人間であるというならば、その証拠を示せ。人間であるということは、神の子であるということ。我が創りし者であるということ。おまえたちが、真実我が創りし者であるならば、その行動において、行ないにおいて、表現において、神の子であることを示せ。

我が教えは、単に思いのみにあらず。かならず表現せよという教えだ。

おまえたちの心が、もし清きものであるならば、その清らかさはかならずや形に出、現われてしかるべきであろう。

もし、おまえたちの心が善であるというならば、その善なる心は、かならずや表現をともなうであろう。

もし、おまえたちの心、光満てるならば、おまえたちの行為は、おまえたちの表現は、光に満てるものとなるはずであろう。

さて、よくよく自問自答せよ。おまえたちの心は、おまえたちの行ないは、どのように表現されているのか。

汝、今日(こんにち)までの数十年の人生をいかに生きてきたか。汝のなせし業(わざ)を列挙せよ。汝、今地上を去りしとき、「我かくほどのことをなせり。」と人びとに語ることができるであろうか。もし、それなくば人間の条件よりはずれる。そう思ってよい。

おまえたちは、我が子であるということを忘れてはならん。そして、我は全智全能である。全智全能の主の子供であるならば、おまえたちもまたその内に全智全能なる魂の芽を持っているはずだ。その芽をどこまでも、すくすくと伸ばしてゆくことかだいじである。


3.神を知り、みずからを知る


さて、おまえたちは全智全能とはいかなることであるかがわかるか。全智とは、すべてのことを知りたまうということなのだ。すべてのこととは何か。それは、被造物であるおまえたち、人間や動物、植物、そしてこの地球のあり方、これらのすべてを知る。その存在を知り、しくみを知り、そのあり方を知る。すべてを知れるを全智という。

そして、全能とは、「可能ならざることなし。」ということをいう。これは、まさにそのとおりであるのだ。地上に降りて、思いあがった人間たちは、神が罰しないことをよいことに、さまざまな悪業(あくぎょう)を重ねておる。しかし、それは我が過大なる忍耐心をもっておまえたちを見ているがゆえに、許されていることであることを忘れてはならない。

もし、我、あるとき雷(いかずち)を落とさば、おまえたちはその悪業を思うことも、行なうこともできないのだ。

おまえたちは、我らが手加減しておるがゆえに、甘く見ているようであるが、やがてその神を甘く見ただけの報いは、おのが身に臨(のぞ)むようになるであろう。我は別の面を持っている。我は厳しき裁きの神の面をも持っていることを忘れてはならん。悪に対して、それを許容するということはない。

おまえたちは、そもそも悪とは何であるかを知っているか。善悪について、いろいろと議論を重ねた者もいるであろう。その議論を読んだこともあるであろう。しかし、あえて言い切るとするならば、悪とは神の意に反すること。このひとつなり。神の意に反することが悪であるのだ。そして、神の意が何であるかがわからぬならば、わからぬということ自体が悪であるのだ。

もし、おまえたちが真実の人間であるならば、真実の神の子であるならば、善悪は教えられなくてもわかる。みずから自身の心に問え。みずから自身の真実なる心に問え。みずから自身の良心に問え。さすれば、悪なるものはわかるはずだ。

悪なる行ないをしたときに、かならずや良心に恥じることがあるであろう。それが神の子の証明であるのだ。

ゆえに、知らざることをもって、罪を犯したことの言いわけにはならぬ。知らないということ自体が、わからないということ自体が、最大の罪であるのだ。

そして知らなかったということにおけるほんとうの最高・最大の罪は、神を知らなかったということなのだ。神を知らなかったということは、自分を知らなかったということと同じである。もし、人間として数十年を生きてきて、自分自身を知らなかったということであって、いったいいかなる人生であるのか。クラゲのごとく水辺に漂う人生であったと言われてもしかたがないであろう。

自分を知らないで生きてきた、自分とはだれかがわからなかった。このような者は、けっして許されることはない。

ゆえに、おまえたちはよくよく知れ。我は全能である。全能であるということは、おまえたちを罪に定めることも、おまえたちを許しのなかに置くことも可能であるということなのだ。我、「罪なり」と言えば、それは罪となる。我、「罪なし」と言わば、それは罪ではなくなる。我「許す」と言わば、許しはすべてに広がり、我、「許さぬ」と言わば、それを怒り、すべての者を消滅させるにいたる。


4.全能の神への信仰


さて、ここでもうひとつのことを言っておこう。おまえたちは、全能という言葉のほんとうの意味をまだ知らぬであろう。全能であるということは、おまえたち自身の創造も、また消滅も、ほんとうは自由自在であるということなのだ。これが九次元霊といわれる我らが力の根源である。

我らは、ほんとうにその気になれば、魂そのものをも消滅させることができる。それはまさにそうであり、大宇宙の法則は、創造しうるものは破壊も可能であるということにある。創ることのみできて、もし消滅させることができなければ、この創造の法則は十分には、はたらかないことになる。

おまえたちは、そうした不安定な生き方をしておるということを忘れてはならぬ。おまえたちを創造することができた私であるならば、おまえたちを消滅させることも、また可能である。

もし、神の子の生き方に反した、そのような生き方をしておりながら、魂消滅することなく生きておるとするならば、それは我が愛だと思え。それは我が許しだと思え。それは、我がまだおまえたちに一縷(いちる)の希望を持っているからだと思え。そうした、大いなる慈悲ありてこそ、存在を許されているのだと思え。

そもそも私は、おまえたちに言っておきたいことがある。それは、おまえたちは、あまりにもうぬぼれすぎているということだ。

知恵なき者は、小さな知恵に酔いしれてしまう。

力なきものは、小さな力に酔いしれてしまう。

刃物を持つ者は、その刃物に酔いしれ、溺(おぼ)れてしまう。

そして、自分がすべてであるかのように思いあがってしまう。

おまえたちは、その刃物を持って魚の体を切り裂くことはできるであろう。しかし、おまえたちの持ちし刃物によって、この海を裂くことができるか。この大地を裂くことができるか。この大気を裂くことができるか。

我らには、海を裂くことも、大地を裂くことも、大気を裂くことも自由自在である。そのことを忘れてはならない。

人間たちは、思いあがってはならない。

おまえたちが思いあがっている理由は、大いなるものを見失っているからだ。大いなるものを尊敬することを忘れているからだ。畏(おそ)れを知らなくなっているからだ。

畏れを知らなくなっている者に対しては、かならずや畏れがその身にふたたび及ぶことになるであろう。

見よ、旧約聖書にも述べられていたであろう。リヴァイアサンという怪獣が、海の底より躍り出て暴れるということを。そのようなことが、今後起こるであろう。

このリヴァイアサンの正体を、おまえたちはつかむことはできないかもしれぬが、これは結局において、地上にあふれたおまえたち人間の悪想念の集積であるのだ。悪想念が固まりて、そのような巨大なリヴァイアサンという化け物をつくり出すのだ。

この化け物は、おまえたちの目には見えぬかもしれぬ。目には見えぬかもしれぬが、あちこちで破壊の行為を行なうであろう。

それは、おまえたち自身が天に唾(つば)したことが機縁となって、おまえたち自身の顔が、存在が、汚されるということになるであろう。

これより、人類は、人類の手によって数多くの殺し合いをしていくようになると思う。ある都市は火のなかに燃えさかり、ある都市は大地の底に沈む。

ある農業の地帯は、かんばつに襲われ、また、イナゴの大群に襲われ、あるところでは流行病が次から次へと起きていくであろう。

おまえたちがまだ経験もしなかったような伝染病が起こり、次つぎと人間が死んでゆくのを見るであろう。

そして、人びとはその苦しみのきわみに、悪のきわみを知るにいたるであろう。

そのときに、おまえたちがせねばならぬことはひとつ。全能の神への信仰を取り戻すこと。いや、全能の神への絶対服従の心を取り戻すこと。それ以外にはない。

神を愚弄(ぐろう)した思いがそのような巨大な化け物をつくったのだ。

リヴァイアサンといい、ビヒモスといい、巨大な怪獣だ。それは、霊的な巨大な怪獣で、地上の人間が悪想念に満ちたときに、海の怪獣と陸の怪獣が現われる。

海の怪獣は、津波を起こし、そしてさまざまな天変地異を起こす。陸の怪獣はさまざまな病気、戦争、飢饉(ききん)、このようなものを起こしていく。

それは、ほかならぬおまえたち自身の手によってつくられたものであるということを、知らねばならん。何億、何十億の人の心が、神を否定し、そして悪想念に染まったとき、自分たち自身をも破壊する、そうした巨大な悪想念の怪物をつくり出してしまうということなのだ。


5.光に向かいて


おまえたちは、地獄というところの存在を聞いたことがあるであろう。この地獄という存在は、実に神がつくったものではなく、おまえたち自身がつくったものなのだ。

おまえたち自身が、みずからの想念によってつくり出したるものがこの地獄であり、そして地獄をつくりて、地獄のなかで苦しんでいるのもおまえたち自身であれば、この地獄で苦しんでいる者によって苦しめられているのも、おまえたち地上の人間であるということだ。

地獄霊によって、天上界の諸霊が苦しむということはない。地獄霊によって苦しむのは、同じく地獄霊であり、同じく地上に生きていて地獄に行くことになっている者たちであるということなのだ。

そうして、おまえたちのなかに、この私の霊示を読む者のなかに、地獄に行く者は多いであろう。そして、そこで見る光景は、身の毛もよだつ光景であろう。しかし、それらはすべておまえをはじめ、おまえの先輩たちがつくってきた想念の結果であるということを知らねばならない。

リヴァイアサン、ビヒモスという巨大怪獣が出来るという話もしたが、地獄のなかの悪魔をつくっているものも、その信じられない恐ろしい光景をつくっているものも、おまえたちの想念の結果であるのだ。

おまえたちは、夢のなかにおいて、さまざまな光景を想像することはできるだろう。熱にうなされているときには、身の毛もよだつような光景が出ることがあるであろう。まさしくそのような状態が、地獄のなかにあるのだ。恐怖心のなかでつくられたる映像が。

人間不信、そして他人を攻撃する心、他人を蹴(け)落とそうとする心、そうした心の持ち主たちのつくった映像は共通的なものとなる。そして、恐るべき地獄というものが出来あがっている。

しかし、その地獄は、おまえたち自身がつくったものであるからして、おまえたち自身がそれをなくそうと思わぬかぎり、けっしてなくなることはない。

ちょうど、水を冷やせば氷が出来るように、人の心を冷やせば地獄ができる。この氷を溶かすものは暖かさだ。そもそも水を冷やそうと思わぬこともだいじ。もし、氷となってしまったならば、暖かい陽の光にさらせ。陽の光にさらせば、それはまた溶けて水に戻るであろう。凍りついた人の心も同じだ。暖かい陽の光にさらす必要がある。

暖かい陽の光とは何であるか。たがいに慈(いつく)しみ合い、善を思う心、人びとを愛する心。人びとを許す心である。この心なくして、この氷が溶けることはない。

おまえたちは、おろかなことに、私たちがおまえたちを罰する以前に、おまえたち自身の手でおまえたちを罰している。おまえたち自身の手で地獄をつくり、地獄で苦しむのみならず、地獄に行く前に、生きている間からその苦しみを開始する。おまえたちは、日々に自殺衝動にかられているといってもよいのだ。

方法は一つ。

光に向け、神に向け、神に向かうことだ。

それ以外に方法はない。

畏れを知り、身を低うし、日々を謙虚に生き、そしてよきことを表現していくという、神の光を表現していくということに邁進(まいしん)することだ。神の光の芸術を創り出してゆくのが、自分の仕事であるということを知ることだ。そうでなくして、本来のあり方はない。

考えてみれば、これは実にたやすいことだ。実に容易なことだ。

神を信ずることなど、未開地の原住民でもやっていることだ。未開の土人でもやっていることが、なぜ文明国のおまえたちにはできぬ。なにゆえに、できなくなった。

それは、おまえたちのつくった、小賢(こざか)しい知によってではないのか。小賢しい知識によってではないのか。それゆえに、未開の土人でさえできる神への信仰を失ったではないか。

自分の手によって、自分の金銀財宝をごみために捨てる者あれば、人はそれを狂人と呼ぶであろう。なのに、おまえたちは、自分たちの心の宝を、いちばん大切なものを捨て去って、そして後悔することもない。ばかなことだ。

そんなばかな行為をする人を、人はどう遇するか。もし、自分の家の金銀財宝すべてを川に捨てる人がいて、それを目撃する人がいたら、その人をどう思うか。ばかな人だと思うことだろう。ばかな人ではあるが、自分でつくったものを自分で捨てるような人は、それをどうすることもできないではないか。

その人がばかなことをし、そんなことをしているということの報いが、自分自身に返って来る以外にないではないか。そのようなことだ。

むだな知は捨てよ。

そんな神の心を覆(おお)いかくし、真実をくもらすような、そんな知識は持たなくてよい。むしろ未開の土人となれ。パパイヤやマンゴを持って地を駆けめぐるほうが、どれほど正しい生き方であるかを知れ。

おまえたちは、都会でわけもわからぬ経済行為のなかに生きておるが、どれほど自己を欺瞞(ぎまん)しておるか。どれほど真実の心というものを、神の心というものを、神の存在というものを忘れておるか。

神を信仰せよということは、我らにとっては許しうる最大限の譲歩であるのだ。それは、さきばども言ったように、子が親を、親が自分を産んだということを信ずると言う行為に等しい。それでも、まだ信じないというよりはましである。

このように、最大限の譲歩であるということ、ほんとうは、これが事実そのもの、真実そのものであることまで、つかみとり、認めなければならない。そこまで、いかねば神の子とは言えぬ。

これが私の第一声である。