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目次











(一九八九年一月十三日の霊示)

1.エネルギーの変遷


アイザック・ニュートンです。昨日は光について、私の考えるところを述べました。今日は、エネルギーについて考えをまとめてみたいと思います。

エネルギーとは、昨日も述べましたように、仕事をする力のことです。そして仕事をする力とは、他の言葉で置き換えるとするならば、一定の質量のあるものを移動させる力、あるいは移動させうる力のことをいいます。したがって、エネルギーとはこの世に存在するものを変化させる力というふうに言ってもよいでしょう。

今日のテーマはこのエネルギーの源泉ですが、エネルギーと霊的力についての相関関係に触れていくつもりでおります。

まず、地上的エネルギーというものに限定して考えていくとするならば、地上的エネルギーは、熱エネルギーとも関連するものが多いと言えましょう。電気のエネルギー、ガソリンのエネルギー、石炭のエネルギー、またこうした熱エネルギーと関係がない領域においては、バネの力であるとか、物の伸び縮みする力、あるいは水圧、空気圧、そうした圧力、また生物体の持つ力、あるいは潮の満(み)ち干(ひ)、風の力、こうしたものがあげられるでしょうか。

大きく分けて考えるとするならば、人工的なエネルギー源と自然そのものに備わっているエネルギーというように、二つに分けて考えてもよいかもしれません。

さて、そこでます人工的なエネルギーについて考えてみたいと思いますが、たとえば石油は、なにゆえに火をつけることによって燃えるのか。なにゆえに燃えて、熱を放出するのか。これについて的確な説明ができているでしょうか。化学式はもちろんできているでありましょうし、現象は現象として認めざるをえないのだと思いますが、なにゆえに石油が、あの水のごときものが、あれだけのエネルギー量を放出するのか。あの液体状のなかにいったい、どうしてそれだけの力が蓄えられているのか。これを突き詰めて考えた方はいらっしゃるでしょうか。

エネルギーとしての変化の姿が、石油という液体から炎を発して気体に変わる。この形態を変えるときに、莫大なエネルギーが放出される。これがさまざまな仕事の基となる。このようになっています。このプロセスを逆に考えたとするならば、では、どうしてそうした熱エネルギーを固形化して、あるいは液体化して封じ込めることができるのだろうか。石油が燃えれば、水と二酸化炭素、それとエネルギーだけにほとんど変わってしまいます。熱エネルギー、カロリーとも言われるものに変わってしまいます。

では逆に、カロリーと水と二酸化炭素があれば石油がつくれるのだろうか。この逆の過程がありえるのだろうか。そうして考えてみると、実はこれは石油創成の原点に帰ることになりましょう。

石油の原点はいったいどこにあるかというと、プランクトン状のもの、これの油が海底において積もったものというふうに言われることが多いでしょう。そういう微生物の死骸、それから油が残り、それが石油になった。そしてそれが何百万年、何千万年、何億年という歴史の間で、あれだけの埋蔵量のものになった。そのように言われることが多いと思います。

また、これと同じように石炭は何億年か前の樹木が、地層のなかに埋められて炭化したもの、こういうふうに言われています。こうしてみると、微生物にしても、植物にしても、その原材料となったものは何であるかというと、水分があったことは事実だし、あるいは蛋白質の部分、繊維質のもの、いろいろあったでしょうが、それがエネルギー源として蓄えられるプロセスがあった。そのプロセスにあったものは、圧力であったと言えましょう。圧力と、それと長い年数、時間というものが加わって変化がされている。こういうことが言えるのではないかと思います。

そこで微生物の原点はいったい何であるかというと、まず、微生物が動きまわるためには、何らかの栄養源があったということ。それを吸収して活動していたということ。この時点において、活動エネルギーを持っていた。この活動エネルギーは何から得ていたかということですが、微生物を発生させるためには、ある程度の養分が必要であったことは事実。水分が必要であったことも事実。また、太陽エネルギーがあったことも事実と思われます。そうしたものがあることによって、それらは生命のエネルギーを得ていたはずです。

また、植物にしても同じで、地中からの養分および酸素や二酸化炭素といった気体、また熱エネルギー、こうしたものがあったに違いないわけです。

こうしてみると、原点を探っていくと、太陽エネルギーというものが一つにはあり、もう一つには地球という環境下における栄養分があったということ、これが一つです。

そして、この両者をして、さらに生命エネルギーに転化させていったものは何であるかというと、ここに霊的作用があったと思えるわけなのです。木を木としてスクスクと伸ばしていくためには、霊的エネルギーが必要であった。

この霊的エネルギーは何であるかというと、木としての理念、この木としての理念が活動する姿であるとも言えると思います。あるいは、微生物なら微生物をつくり動かそうとする理念、こうぃう理念というものがあって、これが一つのコンピューターのソフトウェアのように内蔵されて、それでもって動いているのだというふうに言えましょう。

こう考えてみると、もともとあったものは何であるかというと、霊的エネルギー体が、この世的なエネルギーのかかわりを受けて生命エネルギーとして発現し、その生命エネルギーが圧力と時間のなかで変化され、そして次は熱エネルギーのもとへと転化した。熱エネルギーの元なるものは、生命エネルギーであり、生命エネルギーの原材料は、実は霊的エネルギーでもあるのだ。霊的エネルギーが環境という媒介、あるいは材料という名の媒介を経て、生命エネルギーを発現していた。

すなわち、生命エネルギーは、霊的エネルギーが排出するところの排気ガス、あるいは二酸化炭素、酸素、こうした霊的エネルギーの燃焼後の排出物が、実は生命エネルギーなのだというふうに言い換えることも可能だと思います。

そこで、私は次なる理念形を提示したいと考えるのです。それが何であるかと言えば、まず霊的エネルギー源があって、これから生命活動のエネルギー源が出て、生命活動のエネルギー源が熱エネルギー源となる。こういうプロセスです。


2.熱エネルギーを吸収する霊的エネルギー


さて、ではその熱エネルギー源はどうなるのだろうか。地球では大量にあちこちで石油が燃やされ、ガスが燃やされ、電気で発熱されているが、こうしたことがあっても地球の温度そのものは上がらないのか、と考えてみると、ここには、実は「エネルギー保存の法則」というものがはたらいていて、地球上でのエネルギーは一定量に保たれているというふうに言えるわけでず。

しかし、このエネルギー保存の法則を突き詰めて考えてみると、おかしいことに気がつきます。それは、地球というものが一種の箱庭あるいは魔法瓶のようなものであるならば、確かにその通りであろうが、地球は実は太陽から毎日エネルギーを受け続けているという前提からみれば、地球自体のエネルギー量は増え続けるのではないかと考えられるわけです。

何億年も昔から、太陽エネルギーの供給を受け続けているならば、そのエネルギー源は増えるのではないか。この増えたエネルギーはいったいどうなっているのだろうか。こう考えられるわけです。一つの考え方は、大気圏外への熱エネルギーとして逃げているという考えもあるでしょう。では、大気圏外への熱エネルギーとして増えた分は、いったいどうなるのだろうか。それからすれば、宇宙全体は、温度が上がりつつあるのだろうか。そうかもしれないし、逆に太陽が熱エネルギーを放出するということは、それだけ太陽のエネルギー量が減るわけだから、宇宙全体ではエネルギー保存の法則がはたらいているというふうに考えることも可能かもしれません。

ただここで、私が注目したいことは、宇宙全体のエネルギー保存の法則は別として、この地球系ということで考えてみるならば、太陽からはあれだけの熱エネルギーを受けており、それは、ほんの一時間地表に射しただけでも、地上をひじょうに暖めます。空気を暖め、部屋を暖め、あらゆる暖房器具よりもはるかに強いエネルギー源となっています。

そうしたものが年がら年中射しておりながら、なぜ地球の温度が上がらないのか、あるいはゆっくりとそれは上がっているのか。上がっているとするならば、ではその証拠はどこにあるのか。こう考えてみると、私は次なる結論に至るようになるのです。

この熱エネルギーが、また違ったものに転化しているのではないかということです。このエネルギー保存の法則が地球系で完結していくためには、熱エネルギーが違うものに転化していると考えたほうがよいのではないか。そのように思えるのです。

この違うものとは、いったい何でしょうか。そう考えてみると、さきほどのエネルギーのプロセスが思い浮かぶわけです。霊的エネルギー源から生命活動のエネルギー源へと変わり、それが熱エネルギー源へと転化していった。このプロセスの行き着くところはどこであるかというと、考えられるエネルギー保存の法則は、熱エネルギーが実は霊的エネルギーヘと転化する、というサイクルが考えられるわけです。こういうことがあるのではないかと思えるわけなのです。

してみると、それはいったいどういうかたちで現われているのか。地上で発生するエネルギーをどこかで吸収し、受け止めている霊的部分があるのではないかということなのです。この霊的部分とはいったい何だろうか。そう考えてみると、実は地上で繁栄するさまざまな動物やあるいは植物、こうした動物や植物の魂の源泉ともいうべき力は、いったいどこから出てくるのだろうか。これに思い至るわけです。


3.地上を縁として自己増殖する霊体


人間霊というふうに個性化した霊であるならば、そのオリジンというか原型というべきものがどこかで造られていたというふうに考えられるわけですが、この動物、植物の異常な繁殖は、これはこうしたものたちが地球以外のものから、同数持ってきたとも思えないし、また霊的エネルギーとして、地上を離れた世界にあったものが、同数だけ地上に現われているとも考えにくい。むしろ地上を縁として霊的なエネルギー創造がなされているのではないかと考えられるわけです。

たとえば、魚であれば魚は卵を産むわけですが、一匹の魚が何百万という数の産卵をすることがよくあります。鮭であるとか、そうした魚は特にそうですが、一匹が何百万という卵を産卵します。そして、これらがすべて、成魚になるとするならば、この霊的エネルギーの増大はいったいどのように考えられるでしょうか。

もし、成魚、大人の魚と同じだけの霊的エネルギーが、この産卵に関して、実在界より働いているとするならば、これはたいへんなエネルギー供給となります。一匹の魚に対して、数百万の魚の霊体がもし、実在界から供給されているとするならば、これはそうとうなものです。実際そうしたものなのだろうか。こう考えたときに、とてもつり合いがとれないのではないかと思われるのです。

そうしてみると産卵を契機として生まれる何百万匹という稚魚そのものは、実はこれは新たな霊的生命の発生の場ともなっているのではないかと思えるのです。もちろん、その卵の一つひとつに霊的エネルギーの核としてのエネルギーはあるとしても、これに次なる、さらなるエネルギーが加わることによって、霊体として独立するに至るのではないかという推定ができるのです。そうして何百万匹の稚魚のうち、もちろん最後まで成魚となって生き残るのはごく一部でありましょうが、その間、無数に近い生命が生まれたという実績はあります。

そして、それが彼らが地上の生命を失って、地上を去ったときに、多数の霊的生命体が発生するのではないかと思えるのです。そして、こうして生まれた動物性の霊的生命のエネルギーは、長い時間をかけて他のものに徐々に変化していくのではないかと推定されるのです。他の動物たちの魂の源に変化していくのではないか、そのように推定されていくわけです。

こうして魂として、次第にエネルギー量が増大していくのではないか、そしてもっと複雑で高度なものへと変化していくのではないか。このように推定されるわけであります。

植物においても同じようなことが言えましょう。一本の木、一本の花、一本の草から生まれ出る生命の源というものは、そうとうな数になります。たとえば、一本のリンゴの木であるとしても、そこになるリンゴの数はとうてい人間の子供の数の比ではありません。柿にしてもそう、バナナにしてもそうです。果物たちもみな、とうてい一対一とは比べるべくもない、無数に近い、一対多数のかたちでの子孫をつくるスタイルがそこにあります。花でもそうです。花の種というものがひじょうに数多く、同じ花を無数に広げていくだけの力があります。

しかし、実際は土地の空間の限界や、あるいは他のものとの競争によってそうしたものは生存をしていくことはできなくなりますが、しかし、それだけのものがつくられる、数多くの子孫がつくられるということ自体は事実です。これは、やはり地上の熱エネルギーを吸収して、数多くの霊エネルギーが創造されていると考えてよいのではないかと思われるのです。


4.地上に種撒(ま)かれる魂の理念型


四次元以降の実在界においては、そうとう数の霊存在があります。また人体としても、動物体・植物体としてもそうとう数のものがおりますが、これらは当初より神によって創造されたものとは考えにくいのです。もともとその原型にあたるものはあったと思えますが、それだけの数のものは、何十億、何百億、何千億という数の植物や動物の魂を神が一つひとつ丹精込めてつくり出したとは、とうてい考えられないのです。そういう非効率的な仕事をされたとは思えないのです。

そうではなくて、ある一定の理念を宿した霊体としての基礎をつくり、それが自己増殖するようなかたちをつくられたに違いないと思われるのです。この自己増殖のかたちは、もちろん実在界において増殖するかたちも想定はされているでしょうが、地上を縁として、増殖していると考えてよいのではないかと思うのです。

すなわち、魂の理念型が地上に種を撒かれることによって、無数に広がっているのではないか。そして、その原型としては、たとえば一個の魂の原型としての植物、たとえば一本の木の魂としてのエネルギー量を百とするならば、これから生まれる子供が、たとえば子供の霊エネルギー量の総量を五十とした場合に、五十のこの霊エネルギーがそれぞれ数字1という単位のもとに分かれていきます。そうすると、もともと百の霊エネルギーを持っていたものが五十の子供を産み、それぞれが単位1という数で五十個に分かれていきます。この五十個に分かれた1がそれぞれ地上の熱エネルギーを吸収して、そしてまた百になっていく、こういう過程があるのではないかと思えるのです。

そして、その地上で育った木の魂的性質は実在界においても存在するようになっていくのではないか。そうして実在界から、さらに植物が広がっているところへと転生していって、それらの魂となっているのではないか。このように思えるのです。

こうしてみると、なるほどと思えることがひじょうに多いのです。ただ、この考え方でいくと、霊体は限りなく数多く出てくるのではないかと推定されるのです。霊体が限りなく数多く出てくるのではないかと推定されるとどうなるかというと、霊人口が異常に増えていくのではないかと思われるわけです。実在界における霊人口が異常に増えていくのではないかと思えます。

この場合の解決法としていったい何があるだろうか。一つは実在界の霊人口を他の惑星なり、他の場所に移行させるという方法が一つはあるだろう。もう一つは地球圏内のなかで自己調整するという営みがあるだろう。この霊人口を自己調整する場合にいったいどういう方法があるだろうか。そうしてみると、霊体のエネルギー自体を減少させるという方向があるのではないか、こう思えるわけなのです。


5.新地獄論におけるエネルギーのアース理論


霊体のエネルギーを減少させるには、ではどうしたらよいか。今まで霊的エネルギー、それから生命活動のエネルギー、熱エネルギーというふうに循環して、この熱エネルギーが霊体エネルギーヘと転化するというこのサイクルにおいて、どこかで非効率的部分をつくればよいということになります。非効率的部分というのは、エネルギーの無駄をつくるということです。電気でいえば漏電の部分をつくる。アースする部分をつくる。単にサイクルのなかに関係するのではなくて、他の部分に無駄なところをつくるという方式があるわけです。

これがいったい何であるか、それを考えてみると、科学者としての私は地獄という存在に注目せざるをえないのです。この地獄とはいったい何であるのか、何のためにあるのかを考えたときに、これはエネルギーカ学的に言ったら、こうした負の作用を果たしているのではないかと推定されるのです。増大していくエントロピー、熱エネルギーの量を調整するための、マイナス部分がここにあるのではないかと思えるのです。この部分があるから、霊的増殖が止まっているのではないか。そう推定されるのです。

この地獄の存在によって、吸収されるエネルギーとは何であるかというと、一つは生きている人間、あるいは動物や植物たちの地上での活動エネルギーの一部分が彼らによって吸収されています。これは事実です。地獄霊によって憑依されることによって地上の人間の活動エネルギーは、減少いたします。元気がでなくなり、そしてやる気がでなくなり、自己破壊的、否定的になってきます。明らかに地上エネルギーの吸収がなされています。

もう一つは霊エネルギーとしての吸収もあるでしょう。すなわち、生命体としてのエネルギーのみならず、霊体としてのエネルギーが彼らによって、吸血鬼のごとく吸い取られている部分があると思えるのです。すなわち、霊格の降下という現象が現われてきます。本来、ある程度の高さの霊格を持っていたものが、こうした地獄の影響を受けることによって霊格が下がることがある。それは、霊的エネルギーを吸収されたというふうに考えてよいでしょう。そうして、霊的エネルギーのグレードが下がったと理解されるのです。

そうしてみると、地獄はこの霊的エネルギーと、生命活動のエネルギーの両者を吸い取っている地球霊団におけるブラックホール的存在であると考えられるのです。負の存在であって、こうしたエネルギーを吸い取っているのではないかということなのです。


6.私の地獄解消論


では、こういうふうに吸い取ったエネルギーは地獄においてどのように使われているのだろうか。これが次なる疑問として出てくるわけです。

そうすると、実はこれが地獄における活動エネルギー源になっているのではないか。そう推定されるのです。地獄には神の光が射さないとよく言われます。霊界の活動エネルギーは、神の光といわれる、この霊的エネルギー源です。霊的エネルギーの供給によって生きていますが、地獄は想念のくもりによって、この神の霊的エネルギーは降り注がないのです。この部分において彼らが地獄において活動できるのは、地上の人間から吸う生命エネルギーと、霊的エネルギー、これらを総合して生存していると思われる。

すなわち、彼らが地獄図の展開をしている過程において、その活動エネルギーとして消耗している。破壊のエネルギーとして消耗している。これが実態ではないかと思えるわけです。すなわち、これは否定的思いであり、行動であるわけですから、神の霊的エネルギーの流れ、霊流をプラスだとすると、これはマイナス。そこでプラスとマイナスが打ち消しあって、存在を消しあっているのではないか。そう推定されるのです。

まあ、これが私が見たエネルギー的観点から言う世界観です。これで、科学者としての私は、地獄というものについて一つの位置づけを与えたことになります。この観点からいくと地獄は現在のように地球でのエネルギー量が増え続けるかぎり、そう簡単にはなくならないことになります。

この地獄のエネルギー量を減少させるための方法は、一つしかないことに気がつくと思います。それは何であるかというと、地球上で繁栄できる許容限度以上の生命がここで生きている場合は、この余分な部分をどこかに出すしかないということです。すなわち、地獄領域に流れているエネルギーを止めて、そして全体のバランスをとるためには、霊的人間あるいは他の生命を地球以外の他の生命系団に移すか、あるいは地上に住んでいる人たちが宇宙船などに乗って、他の惑星等へ移動していく、こういうプロセスが必要だと思われるのです。

こういうプロセスを踏むことによって、エネルギーの流れをそちらに変えることによって、地獄領域をなくすことはできるが、地球として完結していればこのままではなくすことがかなり難しくなってくる。そういうふうに言えるのではないかと思います。

こうしてみると、宇宙におけるエネルギーの循環の姿がよくわかってくると思えるのです。どの星においても、高度に文明が発達したあと、脱出して、他の星へと移住していくというプロセスがとられていますが、こういう姿であると考えてよいかと思います。

以上で、このエネルギーの輪廻ともいうか、循環のプロセスから見た霊的世界観を語ってみました。


7.霊とは繁栄の意思をもって個性化するエネルギー


さて、そこで私が述べておきたいことは、次のようなことなのです。すなわち、本来神から分かれてきた霊エネルギーが自己増殖をし、そしてさまざまな姿になり、また次なるはけ口を求めて移動していくということは、これはいったいどういうことを意味するのかということです。すなわち、これが実は大いなる繁栄の姿であるということなのです。神はこうした考え方で霊的世界をも含めた、エネルギーの法則を考えた上で、そして繁栄ということを図っておられるのだ。そして神のエネルギー法則というものは、単になくなったら供給するという、そのような単線的な単純なものではなくて、もっと合目的的で、もっと理想的なものなのです。

すなわち、自己増殖的に増えていく、そして、自己増殖的に増えた結果、次なる目的を求めてエネルギーが移動していく。そういう姿を考えておられる。つまり、エネルギーそのもののなかに、一定の意思というものが埋め込まれていると考えられるのです。エネルギーに意思をともなうという考えは、ひじょうに希有(けう)な考え方であり、珍しい考え方であると思います。しかし、私の研究の結果によれば、エネルギーは必ず意思をともなっていると思えるのです。これは、エネルギー自体が一種の霊体であるということを意味しているかもしれません。霊体の霊体であるところの所以(ゆえん)は、そこに一つの意図、意思とも言うべきものが潜んでいる。そして、一定の目的に向かって行動しようとしている。こういうことが言えるのではないかと思うのです。すなわち、この世の中を満たしているエネルギーこそ、実は霊のほんとうの正体であると私は言っているのです。

みなさんは、地上にいて霊とは何か、あの世とは何か、こうしたことが理解できないでいるでしょうが、霊とはエネルギーそのものである、このエネルギーが変化していく姿を魂と言ったり、いろいろな呼称で呼んでいるのです。人霊と言ったり、動物霊、植物霊、こういうふうに言ったり高級霊、低級霊などいろいろに言います。

また、地上のさまざまな物質がありますが、これらもすべてエネルギーの変化していく姿で、この世界は実はエネルギー一元論で説くことも可能であるのです。エネルギーで世界は成り立っており、エネルギーの変化する姿、個性化する姿こそが、宇宙の発展の姿であると言えるのです。

では、エネルギーとは何か。こう問われると最初の説明に戻ることになります。エネルギーとは一定の仕事をする力です。それはある質量をA点からB点へと移動させることを可能とする力を言います。そうすると、この原型にあるのはどうか、何であるかというと、エネルギーとは神が、ある物を変化させようとした念いであるのではないか、これがエネルギーの原点ではないかと思えるのです。

神がある物を変化させようとした、そのある物とはいったい何であるか。そうするとそれは、自分の一部ではないのか。神ご自身の一部を変化させようとされたのではないのか。神ご自身の一部という質量があって、これを変化させようという念いがあった、ここに世界が展開してきたのではないのか。このように言いうるのだと思います。そして、その過程においてさまざまなものが創成されてきた。そして、変化してきたのだと言えると思います。

霊ということを、認めない科学者たちに、私が言っておきたいことは、「霊とはエネルギーそのものだ」ということです。エネルギーが人体に宿って個性化したのを霊と言うのだと、こういうふうに考えていけばよいと思います。

では、神そのものはこのエネルギーの観点から言えば、いったい何であるのだろうか。こういう疑問もあると思います。先ほどから、太陽という例を引いておりますが、実はこの太陽の姿のなかに神の一つの典型的なあり方が見えると思えるのです。

私たちには、究極の神の姿は見えませんが、究極の神は、やはり太陽存在の延長線上にあるのではないかと思えるのです。あのような太陽存在を多数生み出すだけの、そうしたエネルギーのもとではないのか。源ではないのか。より巨大なる太陽ではないのか。こう思えるわけです。

そして、太陽が太陽であるところの理由は、常に積極的な作用をまわりに対して投げ掛けている、放射、放出し続けていることにある、と言えるのではないかと思います。

その放射、放出が止んだとき、すなわちこれが宇宙が消滅するときではないのか。そのように思えます。いかんせん、この時間の流れを解釈することがひじょうに難しいので何とも言えませんが、一定の数百倍年という時間を見たときに、このように言い、断定することができるのではないかと考えます。