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目次











(一九八九年三月十二日の霊示)

1.新たなる人間像


アイザック・ニュートンです。今日は、人間というものの存在を科学的に分析し、考えてみたいと思います。

まず、人間という側面を私は、デカルト流に二つの側面から考えてみたいと思います。それは精神と肉体ということになるでしょう。

最初は、肉体面から話をしていきたいと思います。みなさんは人間の肉体が現在のような姿、形であることを当然と思っておられるかもしれません。けれども、人間が現在あるように頭があり、手が二本、足が二本、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、こうした姿がほんとうに最適のものであるのか、またこういう姿以外にありえないのだろうか、人間は神の御姿に似せて創られたというが、ほんとうに神の姿そのものなのか、こうしたことを考えると、さまざまな疑問が浮かんでくるでしょう。実際人間の肉体というものを考えたときに、必ずしもこのままで、あるいはこのとおりで、このようでなければならないという理由はないように思えるのです。

私はむしろ、今の人間のスタイルというものは、まだまだ改良の余地があると思うし、いや、そうしたことが人間自身の発案によってなされるとするならば、おそらくもっともっと違ったものに変えていかれるだろうと考えるのです。

たとえば野菜とか花とか、あるいは穀物であるとか、こういうものが品種改良されているように、また動物の一部のものが品種改良されているように、人間というものを変えていくことができるなら、それを考えるものも出てくるだろうと思うのです。

まず、みなさんが造物主だとして、そして新たに最高の着物をつくるとして、どういうふうに考えますか。どういうふうな物をつくり出すでしょうか。そして、新たにつくり出す発想のなかに男女という二種類の性というものを、どうお考えになりますか。

ここには無限の可能性があると思うのです。まず、私が、もし神に命じられて新たな人類の創造を任されるとするならば、私が考える人間像、その肉体像は次のようなものです。

まず、第一番目にどうしても必要なもの、それは羽根であると思います。あの天使の背中には羽根があると言われるように、もし、人間の肩から羽根がはえていて、そして、それは自由自在に大空を飛べるようになっていたら、これはひじょうに便利であると思います。羽根が大きすぎて、裏目になるようであればもちろん問題外ですが、これは大きすぎないよう十分格納できる形になっていて、必要なときに羽根を出すことができる。こういう姿になっていれば実に便利です。まず、私は羽根というものを発案したいと思います。

そうすれば、現在のような車であるとか電車であるとか、こうしたものを使うことももちろんあるでしょうが、しかし必要最小限のところは空中を飛んで移動できるわけですから、これは便利です。

鳥にあって人間にないというのはこれは不幸ではないでしょうか。鳥たちはひじょうに便利です。彼らには新幹線もジェット機も、よく堕ちるヘリコプターも必要ありません。彼らが堕ちるということは聞いたこともありません。彼らが堕ちるのは、猟師の鉄砲によって撃たれたときだけであって、それ以外のときに事故で墜ちるということはまずありません。ところが、人間がつくった乗り物は実によく墜ちます。ジェット機もよく堕ちて問題を起こしているようです。鳥たちは、稲妻に撃たれるか、あるいは他の動物に襲われることがある以外には、自分から堕ちるということはありません。完全に設計されているのです。ほぼ完璧なのです。

同じように人間にも翼があって悪くない、そういうふうに思います。そして、私はできたらこの翼は、簡単な手術で取り外し可能なようになっていればよいと思います。そして、善意で生きる人にはこの翼がついていて、罪を犯したものはこの翼を取られる、こういうことであってもよいと思います。

そして、永遠に地上を歩かなければならないということは、これは罪人であることの証拠。彼らはあてどもなく、二本の足で道路を歩かねばなりません。これはたいへんな罰でありましょう。天を飛べるとしたならば、飛べなくされるということはたいへんな罪の償いでありましょう。監獄などは必要ありません。翼がなくなるということだけで、たいへんです。そして、改心し、悔い改めて、そして自力更生したときにまた翼を戻してもらえる。こういうふうにすればよいと思います。

自由自在に大空を飛べる存在は、これはやはり神近きものの象徴です。心善きもの、すばらしきものの象徴なのです。

まず、私の発案は第一案としては、翼です。

あと、人類に欲しいもの、そうですね、私はこれはもっと水中のなかでも自由に泳げるような、そういう器官が欲しいと思います。通常は、地上においては酸素呼吸でやるわけですが、水中であれば自動的に違う器官によって、エラ呼吸に近いものでもできるような、そういうふうになっていれば便利だろうと思います。たとえば、水中に潜るときには、指の間に水掻(か)きが出てきて、そしてこの水掻きを通してエラ呼吸ができる。こういうものであっても悪くありません。あるいは胸の一部からエラの部分が出てきて、そしてそういう呼吸ができるという方法もあります。平常時はあまり必要ではないのですが、水に入ったときだけはたらく、そうすると水のなかでも自由自在です。こういうふうに考えてみたいと、私は思います。

空中は飛べ、水のなかは自由に泳げる。そうすると、もう一つ考えられるものがあると思います。それは、土の中でも潜れるような姿というのが、もう一つあると思いますが、これは実際上、人間はモグラではありませんから、土の中そのものに住む必要はないと思いますが、だいじなのは目です。私は、人間の目というものが、一定の明るさだけしかとらえられないようになっているのは、きわめて不自然であり、不都合であると考えます。昼間用の目と夜用の目がある、すなわち昼間は昼間の明るさ、光線というものを十分受け入れて、世界を見えるようにし、夜になると赤外線のレンズのように微(かす)かな熱や光によって、その映像が見られるような、そういう目になっていれば実に便利です。そうすると、夜であっても、自由自在に行動できるわけです。

だから、明るさに応じて調整の効くことができるような、そういう目、これは可能です。動物たちの一部には、そういう目があります。たとえば、フクロウの目はそうです。夜よく効きます。猫の目もそうです。夜になるとよく見えます。こういうふうに、本人の選択によって、昼間用、夜用の目が機能を発揮する、こういうスタイルは実にすばらしい、そのように思います。

目ということで、もう一つ言うならば、目が前だけしか見えないというのは、ひじょうにこれは不便だと私は思います。やはりできるならば、新しく人間を創造するというなら、後ろにも一つ目をつけておきたいと思います。これは予備用の目で、通常は閉じていてよいと思いますが、危機を察知したときに見えるように、そういうふうになっておればよいと思います。一種の聴覚のようなものがあって、そして背後から何か危機が迫ったとき、背後に何かの接近を感じたときに、自動的にその目によって、後ろの状況が見える、こうなってくればひじょうに安全です。これは、ぜひとも改造を加えたい、と思います。


2.肉体の改造による女性解放


さらに、改造を加えていくとするならば、やはり、まず私は男女というものを前提とするならば、女性の肉体の改造です。これはぜひともだれかがやらねばならないことだと思います。女性はあまりにも現代社会には適さないように、でき上がっています。これはひじょうに不便である、そう思います。

まず、第一番目に、あの月に一度ある生理というものに対して、もう少し調整がつくようにせねばならない、そう思います。あれは、女性をひじょうに縛りつけており、女性の自由を奪う原因になっているように思われるわけです。あの生理の現象によって、もちろん女性特有の心のひだができ、感性の微妙さが出ているのは事実でありましょうが、しかしながら、単に人間という肉体を設計、あるいは製造のモデルとして考えるときには、ひじょうに未熟な部分があると考えざるをえません。あのような形で生理を起こすのではなくて、やはり、通常の排便あるいは排尿のなかで処理できるようなかたちに切り替えるべきである。そのように思うのです。

これは、機能としては、そのようにする余地は十分にあります。可能であると思います。まず、女性の肉体のなかに、この生理用の血液濾過装置をつくります。そして、尿と同じようなものとして出す。あるいは、排便のほうにまわす、こういう装置をつくることは可能だと思います。現在、腎臓というものは二つあって、それが尿の作用を支配していますが、これ以外に第三の腎臓をつくって、そして生理の調整をします。これによって、女性はひじょうに解放されます。まず、これが第一点です。

もう一つは、やはり妊娠・出産のプロセスであると思います。まず、妊娠において、かなり自由意思によって、妊娠できるような体の機能に切り替えるほうがよいのではないかと思います。現代のように、いつ妊娠するか、どういうかたちでするか、これはまったく自然現象のようなかたちで起きておりますが、今後はやはり、ある程度はコントロールできたほうがよいと思います。

すなわち、動物などは一年のうちの一定の時期に妊娠するようになっておりますが、女性なら女性の生まれた生年月日に合わせた周期によって、その女性が妊娠する時期がいつであるというのを決めておけばよいのだと思います。一年に二人以上産む人はまずいませんから、一年のうちに一定の時期があればよいのです。たとえば、十一月生まれの人であるならば、生理が始まるころは、十一月から、たとえば一か月間だけ妊娠可能期間というのがあって、そのときに男女の交わりがあったら妊娠する、というスタイルにしておけば、それ以外のときにはまったく安全なのですし、考慮する必要もいっさいありません。その代わり、その期間において、男女の交わりをした場合には、子供は必ずできてしまう。そういうふうにしておけば、一年のうち一定の期間だけ子供をつくるかつくらないかということをコントロールすれば、あとはまったく気にする必要はありません。この妊娠の恐れ、意図しない妊娠に対する女性の不安感、恐怖心がどれほどあるか、これを考えるときに、女性がより向上し、生産的仕事をしていくためには、ぜひともこの部分の改造が必要であると私は感じます。

これによって、女性の多くは、多くの縛りから解放されるであろう、そのように思います。この女性の妊娠のプロセスの結果、出産時の問題が残っておりますが、この出産のプロセスにしても、どう見ても、あの陣痛の苦しみ、出産の苦しみというものは、神が女性に与えた罰のようにしか見えません。あれほど、苦しまなければならないというのは、どう考えても納得がいきません。この部分についても、もっと楽に出産できる方法を考えるべきである、そう思います。これは、女性の体の構造上、どうしてもそういう苦しみをともなうようになっていると思いますので、これがもっと出産しやすいかたちにしたいと思います。

もっと出産しやすいかたちにするためには、いったいどうすればよいかというと、やはりお腹、おへそのあたりから大きく口が開いて赤ん坊が取り出せるかたちになるのが、いちばん女性にとっては楽であろうと思います。そうすると、新たな肉体設計においては、出産時において、おへそならおへそというものが、大きく開いていって、そして自然に赤ん坊が取り出せる、楽に取り出せる、そういうかたちに切り替えていくのが望ましい、このように私には思われます。

それと、赤ん坊の設計に関しても、やはり一年間まったく親に不自由をかけるというのは、考えもので、一か月もすれば、歩けるように設計する必要がどうしてもある。そうしないと、やはり現代のような核家族のなかでは不自由をするし、無理である、という感じがします。一か月すれば歩けるようになる、こういうふうに切り替えたい、そう思っています。

そして、できれば半年すれば話ができるようになる、簡単なことは話ができるようになる、こういうふうに設計したいと思います。これは十分に可能なことです。これは赤ちゃんが成長するときの、このプログラムをそのように変えれば大丈夫なのです。成長ホルモンの分泌のしかたを変えていけば可能です。必ずそれはできます。こういうふうにできれば切り替えたい。


3.男性の肉体改造論


それから男性の生理についても、やはり疑問が残ります。現在、色情の乱れというようなこと、あるいは快楽産業が流行っているというようなことを、いろいろ言われますが、これも単なる罪の意識としてだけ捉(と)らえるのは、問題である、神学上、宗教上の問題だけではないと私は思う。これは、肉体的な構造上において欠陥があると、どうしてもそう思わざるをえないのです。というのも、男性が生理上、あるいは体の形態上、一定の周期で異性を欲するようにできているのです。

それは、そのように自律、あるいは自動調整できるようになっていないのです。そうではなくて、まったく物理的に一定の期間がたてば、異性を欲するかたちになっていて、そして、生理的現象が起きてきます。これは必ずそういうふうにできあがっており、これはどのような男性であっても例外なくそういうふうになっています。それゆえに、この異性を思わないという修行のために、各宗教において、いろいろな修行があったり、禁欲があったり、あるいは食事制限があったりするようです。

これなどは、やはり体の構造上のミスであって、構造上のミスのため、精神的苦役を強いられているというのは、たいへんな問題である、そういうふうに思います。だから、この部分について、もう少し簡単にコントロールできるようにしていきたい、そのように思います。

まあ、これは肉体そのものをいじらなくとも、ある意味で、ある種の医薬品の開発によって、そのようになるかもしれません。これも可能でしょう。錠剤を飲むことによって、その周期を遅らせる、一定の時だけそうした発情をすることになって、それ以外はしない、こういうふうにも切り替えることはできるでありましょう。しかしながら、やはり子孫を遺したいという衝動は、結婚して、そして子孫をつくるときにだけ出てきていいのであって、常時子孫をつくりたいという衝動のままにつき動かされるということは、男性の生産的行動において、きわめてマイナスが大きいと思われます。

これは自動調整機能をつくるべきであって、実はこうした男性の部分はかなり、自律的でない、そういう組織になっています。もし、頭脳から直接司令によってコントロールできるようになっているならば、手を動かしたり、足を動かしたりするように、そうしたふうになっているならば、これはコントロールできるが、そうではないようになっているので、これも構造上のミスである、と思われます。ですから、これもできるだけ切り替えて、ある程度、理性の支配下におけるように改造したい、そう思います。

やはり、この構造上において、神は最高のものとして、人間を見ていないように思われるのです。動物の延長上で見ているところがあるように、私には思えます。この部分が精神的葛藤として長らく続いてきたのならば、これはむしろ欠陥品であるとして、その欠陥の部分を修正すべきである。もし、大脳によってコントロールできる方向にしておけば、そうすれば余計な苦しみはいらないわけで、大脳のほうで方針を決めれば、そしてその種類に基づいてやるならば、難行・苦行というものはなくなっていきます。私はそう思います。

あと、もう一つ言っておきたいことは、現代文化に人間の肉体がだいぶ適応しなくなってきている。そういう現象があげられるでしょう。肉体のブロイラー化という問題です。本来、野性のままに、動物たちを追いかけてもいいような、そうした力強くつくられている肉体であるにもかかわらず、文明病というものが流行って、書類仕事しかやっていないために、どうしても筋肉が衰えて、そして体が軟弱化し、病気を生むかたちになっています。

このため、この筋力をつけるということが、もう少し容易になるような、そういう体の仕組みも考えねばならない。そういうふうに思います。これも意志の力によって、自分の体を器用につくりかえうるように、そういうふうにしたいと思います。

現在、たとえば筋肉をつけようと思って、筋肉がつくわけでもなく、贅肉(ぜいにく)を落とそうとして、贅肉が落とせるわけではありません。すべては、たとえば運動をするなり、そのような食事を摂るなりして、自然にできあがることはあっても、自分の意志のコントロールによって、そのようにはなりません。これをもう少し念いの力によって、体をつくりかえられるようにするべきではないか、と思います。太ったほうがいいと思う人は太れるように、痩せていたほうがいいという人は痩せられるように、筋肉質になりたいと念えばなれるように、背を伸ばしたいと念えば伸ばせるように、このようにある程度意志によって変えられるようにする。すなわち筋肉を、不髄意筋ではなく、真の意味の随意筋としてつくっていく、あるいは字義通りの随意筋として使っていく、あるいは随意筋として成長させる、随意すなわち思いのままに動かせる、こういうかたちにしていけば、自分の体の改造ができます。

そして、必要なかたちに切り替えていけるようにしておけるならば、これもつまらない悩みをなくしていくために、きわめてだいじであろうと思います。もちろん、このときに、一定のアローワンスといいましょうか、幅は必要でしょう。念えば身長五メートルにでも十メートルにでもできるというのであれば、これはたいへんな巨人が出てきて、たいへんなことになりますから、ある程度のアローワンスは要るだろう、このように思います。


4.心の美しさと女性美


まあ、これが人間の肉体改造についての話でありますが、さらに、見るならば女性においても、もう少し女性の肉体にもアクセントをつけたいというのが私の感想であります。古米より、ヴィーナスの姿ということで、女性の肉体は最高に美しいものというふうにされていますが、私の目には必ずしもそのようには見えないのです。女性の肉体よりももっと優雅である動物たちはかなりいるように思います。あの鹿の美しさ、あるいはクジャクの美しさ、その他いろいろなものの美しさを見るときに、女性の肉体は必ずしも美しくないように私には思えます。どの人もどの人も、同じような感じの体をして、いったい何が美しいのでしょうか。

すなわち、女性の肉体をつくるときに、色彩という感覚を忘れているのです。色が白いか黒いかということぐらいしか、頭になくて、それ以外の色彩感覚はなくなっている。しかし、ほんとうの美的なものであるとするならば、その色彩はやはり、もっと豊かな感覚のカラーでなければなりません。すなわち、女性はその内面の美を外面のカラー、色として表わせるような、そういう姿であってよい、と思うのです。

美しい心、ほんとうの美人であるとするならば虹色の姿をつくり出すことができる。しかし、心が貧しく、内面の美人でなければ、白黒のモノトーンのカラーで出てくるかもしれません。そういうふうになるべきだし、時代はまさしくそうなっています。その美しい肉体というならば、肉体が七色に変化して、いったい何が悪いでしょうか。その肉体の色鮮やかな姿を見て、男性が恋をするということがあって、いったい何が悪いでしょうか。私はそうあるべきだし、いやそうすることが可能であると思います。

クジャクも一羽でさえ、あれだけ着飾っていますし、花でさえあれほど色とりどりです。なのに人間の女性だけは、なぜ似たような皮膚をしていなければならないのでしょうか。これはまことに不合理であります。あるいは、唇の色にしても、これは美しく変化するのであってもよいし、目の色が変化するのであってもよい。髪の毛だっていろいろに変化していってもいいかもしれません。なぜ変化しないのでしょうか。なぜ、黒と白しかないのでしょうか。なぜ、金髪と白しかないのでしょうか。

この髪の毛も自由自在に変わっていく、紫色になったり、ブルーになったり、黄色になったり赤になったり、その心に応じて、心の装いに応じた髪の色に変わっていく、こういうものであってもよいと思います。そして、ほんとうの美人であれば、えもいわれぬ天国色のそうした髪の毛が生えてくる、これでよいのではないでしょうか。

したがって、女性を美という、美の女神として考えるとするならば、明らかに欠けているものは色彩感覚です。色の濃淡しかありません。色彩感覚が欠けています。これはぜひとも改善すべきです。そうすると、男性は女性を選ぶ場合にも、背が低いとか、グラマーであるとか、こんなことだけではなくて、色がいいかどうかという基準がもう一つ入っていくわけで、この楽しみがさらに高度になっていくでしょう。


5.その他の改造について


まあ、それともう一つ私が人間の改造をしたいとするならば、それは人間の頭脳です。能力の幅がやはり少なすぎるかもしれません。ある程度、平均以下といいましょうか、最低レベルと、最高レベルの頭のその能力に、あまり差がないというのは残念に思います。地球以外の他の天体においては、もっともっと知能の差がある人類はいくらでもおります。最高の頭脳を持った人と、最低レベルを比べれば一万倍、百万倍ぐらいの頭脳の差がある。そのぐらいの人類はいるのです。ところが地球人類においては、それだけの差がありません。まことに残念です。

たとえば、それだけの頭脳の差があればどうかというと、コンピューターによって、一時間かかって計算したり、結論を出さねばならないようなことが、一瞬にして答えが出せるようになる。今は頭のいい人というのは一生懸命考えて、事業の計画をし、そして経営をしていくわけですが、これが一万倍ぐらい頭がいいとどうなるかというと、条件を見ただけで結果がすべて見通せるようになる。そういうすばらしい頭脳の持主が出てくるはずです。

自然科学のなかでも、こうぃう頭脳の人がいれば、それはたいへんな発見・発明ができるでしょう。百年かかるものを、一年で知りうることができるでしょう。こうした余地はまだあるので、人間の頭脳に対して、もっともっと改良の余地がある。私はそう思います。もっと頭のいい者は、いくらでも世の中には必要なのです。まず、これも改善したい。

あと、私が改善したいとするならば、もう少し創造の自由、これは創り出すという自由です。これを人間に持たせてやりたいと思うのです。創造の自由とは何かというと、天上界でそのようであるように、念いによって、物質を創造する力、物体を創造する力です。地上にあっても念を集中すれば、いろいろな物を出すことができる。そういう能力を全員に、できれば授けてやりたいと思います。そういう能力が備わることによって、まず無駄な仕事が滅ります。無駄な仕事が滅って、もっと本質的なことをせねばならなくなっていくでしょう。人間がもっと霊的、精神的になることを、もし正法神理として求めるのであるならば、この部分を変えるべきです。カーテン一つにしても、手縫いで編んで、そして色をつけてつくらねばならないとすると、大仕事でありますから、これは念を集中することによって、窓にカーテンをかけることができるとするならば、この分、どんなにか仕事の手間が省けることでしょうか。この間、人間は精神的なものにエネルギーを使っていくことができるようになります。そのとおりなのです。まず、これはもっともっと改良の余地がある。そうすべきだと思います。

現在のような不自由な姿で人間を地上に放っておきながら、そして霊的ではない、悟っていないということで、地獄に堕ちるようにするというのは、これはもってのほかであると私は考えます。これは不自由です。もっと霊的にしてあげるべきです。経済によって地獄に堕ちるというのであるならば、経済行為をしないでも自由に物がつくれる、得られるような、そうぃう能力を与えるべきです。さすれば必要がなくなります。

たとえば宗教団体にしても、ビルを建てねばならないということで一生懸命、金集めをしなければならない、それが堕落になるというならば、念いによってビルが建つような、そういう能力をなぜ与えないか、そうすればよい。土地が挟くて高いというならば、念いによって、島が浮き出るようにしてなぜいけないか。土地を拡張してなぜいけないか、そういうことが可能なはずであります。そのようにしたい、そう私は思います。

さらに言うならば、臭いの面についても、人間はきわめて遅れています。動物たちでも人間の三千倍ぐらいの嗅(きゅう)覚を持っている動物もいます。人間は臭いに対してきわめて鈍感です。臭いの感覚がもっともっと発達しておれば、嗅覚が発達しておれば、喜びというのはもっと違ったものになります。この臭いによる喜びというのがあります。歓喜、快楽というものがあります。そうすると、これでもけっこう人生の楽しみとなり、生き甲斐になります。視覚、嗅覚、もちろん味覚もあります、聴覚もありますが、この嗅覚の部分が遅れている。この嗅覚の部分が、嫌悪を催すか、いい感じがするか、たいていこの二種類ぐらいしかなくて、どれほどその臭いがすばらしいものかを嗅ぎわける力が足りません。これは人間の喜びを奪っていると思います。この鼻の改造をしたい。このように思います。

また聴覚も同時に治しておきたい。ある程度以上の精神レベルになれば、聴覚が発達して、天上界の声、霊たちの声も聞こえるような、そういう耳にしておきたい。霊能者であるとか、霊媒であるとか、こんなものを通さずしても、自分の耳によって、その天上界の念波をキャッチできるようなそういう耳ができるならばつくりたい。さすれば、あの世があるということは、だれにも明らかなことになってきます。そういうふうに、ぜひともしたいものだと思います。


6.精神の強さを測るバロメーター


さて、肉体の話がずいぶん長くなりました。精神についても少しは言っておかねばならないでしょう。人間の精神の可能性、これは立場をどこに置くかによってずいぶん違います。三次元世界というものに立場を置けば、きわめて難しい問題があります。それは私たちは、奪われた、すなわち自由を奪われた存在であるからです。したがって、この精神というものを考えるときに、どうしても人びとは実在界の本来のあり方というものを考えざるをえません。

私たちの世界から見れば、地上の人間の精神力というのは、もう赤ん坊の腕力ぐらいのものです。その程度の力しかないのです。地上の人間は自己実現をする力が足りないのです。その念いにおいて、それを実現するという力が足りません。私たちの世界は念い即実現です。そういう世界なのです。ところが地上においては、それがなかなか無理です。そして、いろいろな人間の感情というものがあります。この精神については、もう少し教育において、精神を鍛える、コントロールするという方法が編み出されねばならない。そういうふうに思います。

現に、肉体は鍛えれば鍛えるほど、強くなるように、人間の精神も鍛えれば鍛えるほど強くなります。鍛えられた肉体は、それを測定することができます。どの程度強くなったかが測定できます。重量上げにおいて、あるいは体操において、あるいはマラソンにおいて、短距離走において、その他の競技において鍛えられた肉体をそれを測定することは可能です。しかし、鍛えられた精神を測定することはたいへん難しくなっています。それは特殊な世界において、推測されるのみであって、それ以外に一般的な精神の強さというものが測定されていないと思います。たとえば、頭の善し悪しということであれば、ペーパーテストによってある程度判定されているかもしれませんが、精神の強さというものについてはどのようにいったい判定されているのでしょうか。しかし、これは思いのほか、だいじなものであるのです。

この精神を強めるための訓練というのは、どうしてもだいじである。私はそのように思います。どうか、私たちのこうした霊言集・霊示集を用いて、心の鍛練というものをしっかりやっていただきたい。そして、強くなっていく、精神的に強くなっていくということはいかなることか、これを知っていただきたい。

ですから、私は、やはり柔道には初段、二段、三段、こういう段位があるように聞いていますが、精神の強さにおいても段位があると思うのです。こうした段位というものをはっきりと認定できるような、そういうシステムを地上にもつくっていっていただきたい。こう思います。


7.天才 ―― 実在界の理念を実現する旗手として


そして、もっともっと人びとがこの精神の領域において知るべきことは、天才と秀才の違いがいったいどこにあるのか、これを明確にすべきであると思います。

現在、地上には秀才を測る尺度はありますが、天才を測る尺度はありません。天才を測るのは、せいぜいさまぎまな賞でしょうか。ノーベル賞であるとか、他の有名な賞、こうしたものを与えられれば天才であるとし、それ以外はそうでないというふうにしていますが、やはりそこからは漏れている天才が数多くおります。もっともっと天才づくりということに興味を持ってよいのではないでしょうか。

天才と秀才の違いはどこにあるかといえば、天才は明らかにこの実相世界の理念を掴(つか)むということにおいて秀でている、と言わざるをえません。すなわち、その発想が地上にないのです。この三次元世界にないのです。そこにはなくて、異次元世界にある、すなわち自分が地上に生まれてくる前の、魂の郷愁というものをしっかりと覚えている。その懐かしさ、魂の世界を知っていて、それを何とか地上世界において実現しようとしている。これが天才なのです。ところが秀才というのは、地上的につくられた尺度のなかで、自分の立場を上げようと努力しているものがほとんどです。したがって、秀才の自己実現は必ずしも神の自己実現とはなりませんが、天才の自己実現は神の自己実現というふうになります。

この天才度の測り方というのが、私はだいじであると思います。そして、この天才を発見するためには、実在界の世界について、もっともっと知られていく必要があると思います。実在の世界での計画、そのあり方をもっともっと勉強する必要があるし、天才を測る尺度のもう一つとしては、その影響力というものがあるでしょう。影響力というものをいったいどのように見るか、これについてもだいじな視点があります。そこでまず、日本を初めとする先進諸国家に私から提言しておきたいことは、もっともっと天才発見と、天才の教育に力を入れよということです。人類をひっぱっていくのは天才たちなのです。こうした天才たちを仰々しき教育のなかで葬り去ってはならない。そう思います。

国家は総力をあげて、天才の発見をすべきです。あらゆる分野において天才の卵とおぼしき者を発掘し、彼らがスクスクと育ち、そして、自由に能力を発揮できるように、全精力を投入すべきであると思います。国家に必要な努力とは、国民からまんべんなく税金を取って、そして役人を養って、まんべんなく政治をすることではなくて、むしろそうした税金を使って、ごく少数の天才たちを発見し、これを育て上げることだと思います。彼らが日本という国をりードしていくようになります。そして世界のりーダーとしての日本を造っていくようになります。そうした天才たちの意見というものを反映しながら、世の中をつくり変えていくべきであると私は思います。十人の天才が、百人の天才が、どれだけ世界を変えていけるか、それがわかるでしょうか。その可能性をもっともっと知るべきです。感情的な問題だけではなく、天才の発見、これはだいじです。

そして、これは天才だと思われる人に対しては、最大限の努力の余地と、可能性の余地を認めてあげるべきだと思います。ですから、できるだけ自由な立場から、そして圧迫しない、阻害しない立場から天才発見をやっていただきたい。国の規模で天才発見の評議会、こういう会をつくって、そして、日本全国から毎年天才を探し出そう。天才の卵を探そう。毎年五十人でも百人でもいいです。その卵を採り出していく。各界においてです。そして、それに対しては全力でもって、その天才を育てあげていこうとする姿勢がだいじです。それが最大の投資になるのです。

国家の投資として、いろいろなことがあるでしょう。海外投資、海外にも土地を買ったり、会社を買ったり、いろいろな証券を買ったりすることもあるでしょうが、最大の投資は、天才への投資であるのです。この観点を絶対に忘れてはいけません。この天才を見殺しにしていた国は、結局伸びることがないということなのです。古代の文明のなかで、文化のなかで、その国を伸ばしてきたのは、やはり天才たちの力なのです。天才たちの力が百花繚乱となったか、抑圧されたか、これによって国の伸びは大いに違います。

あのルネッサンスのときを想っていただきたい。あの古代ギリシャを想っていただきたい。天才たちは出てきます。その時代の、その時に、その能力を最大限にすることです。これを図ることが、地上をユートピア化していくための一つの秘法でもある、そう私は思います。現代の日本には数多くの天才が生まれてきています。彼らを画一主義のそうした危険な罠から逃して、いちはやくすばらしい道を開いていけるように努力していくべきです。そして、こうした人たちが精神の高みをつくり、精神の強さをつくることによって、多くの人たちを導けるようになること。彼らに続く者たちの精神力を鍛えることができるようになっていくべきだ、そう思えるのです。

これからの天才の特徴は、やはり第一は、インスピレーションだと思います。インスピレーションを受けられるタイプの人というのをだいじにしてください。実証的なものだけがすべてではない、学問ではない。ほんとうに値打ちのあるものは必ずインスピレーションを含んでいるものです。インスピレーションを受けやすい体質の人、こういう発想の人というものを、まず大切にしていくことから始めていくべきでありましょう。そのときに、大いなる収穫がやがて得られるでしょう。

そして、もっともっと日本人を初め世界の先進国の人たちは、人びとの発想、アイデアというものに対して敬意を表わすべきだと思います。これはだいじなことなのです。アイデアを尊重すべきです。結果的に見て実を結べばそれがよいのではない。そのアイデアを持つということ自体がどれほど、すばらしいことであるのか。アイデアを数多く出せる人というのは、それだけすばらしい能力を持っているのだという観点をどうか評価から外さないようにしていただきたい。アイデアが豊富であるというようなことを、今の世の中で、いったいどのように評価しているでしょうか。評価されていないのではないでしょうか。これはまことに嘆かわしいかぎりであります。

どうか、私の本日の話を学んだならば、そうした方向が未来の方向である、ということであるので、どうか真剣に考えていただきたい。そう願います。