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目次














(一九八五年十一月三日の霊示)

1.二十世紀の人類に告ぐ


― 古代ギリシャ語で始まる ―

善川  お話下さっておりますが、あなた様はどなた様でしょうか……。

ソクラテス  ――ソクラテスです―。

善川  ソクラテス先生ですか、過日はいろいろお教え賜わりありがとうございました。実はご承知かと思いますが、私達は、ここ日本の国から新しい時代に向かって、新しい教えというものを、述べ伝えようとしているものであります。それに先立って過去の歴史上の諸聖賢より、このような゛霊界通信゛という形によって、いろいろな角度から神理を承っているものであります。そしてこれを私達の勉学の資とすると共に、広く世の人々に伝えたいということを使命とし、願いを込めて努めておりますが、今日、先生を始め聖賢、哲学者、知者、高徳者のお説を承り、万教は一なる神より発せられたものであり、真理は一つであるということを述べ伝えたいと存じますので、その意図をご高察願って、これからの時代の人類に向かってのお教えを頂きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

ソクラテス  わたくしも、あなた方が、私達の言葉を一冊の書物にしようとしているということを知っており、その書物について大変な関心を持っているものです。

あなた方が、このような形で、あらゆる世界の人びとから、゛霊界通信゛を受けるのであるならば、当然わがギリシャの哲学も合まれるべきであると思うのです。

善川  先生のお教えというものは、特に書物ではお著わしにならなかったようですが、お弟子様筋からのみ伝えられておるのでありますが、ここに、特に先生直々のお教えを頂けますなら幸甚と存じますが。

ソクラテス  人びとに伝えたいのです。― 人びとよ、― あなた方は、決して進歩していると思うな、― あなた方は文明が進化し、文化が進んで来たかの如く思っているけれども、文化も、芸術も、はたまた哲学も、人生観も、一向にあなた方の世界においては進展はないのである。あなた方の世界において進展しているのは、たかだか交通が便利になり、技術が発達し、洋の東西の交流が盛んになっているというくらいのことであって、その中におけるあなた方の中味自体は、少しも進化していないどころか、退化の一途を辿るばかりである。自らが真理も知らないままに、徒(いたずら)に百巻、二百巻、千巻、一万巻の書物を読んだとしたところで、それが一体何になろうか。

今の世に、あなた方の世で、知識人と称ばれる人の実体を見なさい。神も知らず、仏も知らず、霊界も知らず、あの世のことも何も知らず、人生の意義も知らず、自らが何処から来て、何処へ去って行くのかも知らず、一体何の知識人であろうか。一体何を知っているというのであろうか、彼らの知識は川原の石ころの数を数えているような知識なのである。

意味のない知識は、いくら集めたところで知恵にはならないのである。よろしいか、そこを間違ってはいけないのだ。それを単に詰め込んだ知識の量が多ければ、優れたるものであるかの如く、単に短い時間の間において、数多くの問題が解ける力があれば知恵あるものである如く錯覚している現代人に対し、私は烈しい警告をしたいと思うのである。警鐘を鳴らしたいと思うのである。

真に「神理」を知らない知識は、いくら集めたところで何の意味もないということである。

ガラクタの山を造ったところで、何の意味もないということである。オモチャをいくら集めたところで、何の役にもたたないということである。愚にもつかない゛進化論゛を勉強したところで、人間は分からないということです。世の中は分からないということです。神の世界は分からないということです。

あなた方の時代を表徴しているものは、人間が猿から進化したとするような進化論とか、唯物論とか、このような全く愚にもつかない説ぱかりであります。

このようなものを学んだものが、進化論を学び、唯物論を学んだものが、恰も知識人であるかの如く振舞い、あたかも真理を体得したかの如く人々をつかまえ、彼らを洗脳している世の中、この世の中、赦すべからざる現状であります。本当の知とは何であるか、本当の知恵とは何であるかということを、今ほど真剣に語られねばならない時期はないのであります。本当の知とは、本当の知恵とは、本当の魂とは何であるかということは、今ほど説かれるべき時代は、それが急務である時代は、今までなかった。そのような時代なのです。

あなた方は、このような機会を通して、真の英知とは何であるかということを問いかけて欲しいのであります。今の時代、二十世紀の後半の時代は、知識万能の時代であります。知識が氾濫し、本の山ができ、日本という国に、例えばこの日本という国に、毎年三万冊も、四万冊もの本が出版されるような時代であります。知識の洪水であります。何万冊も出された本の中には、一体どれだけ真理を語った本がありましょうか、紙の浪費にしか過ぎないのです。つまらない書物をいくら出したところで、山の木を倒している以上の何物でもないのです。

真実の英知と、真実の知恵とは何かということを、この機会にあなた方も説いて欲しいのです。知って欲しいのです。悟って欲しいのです。

 あなたのお言葉、前回も無知の知とか、知についてかなりお話があったのですけれども、私考えますに、他の諸霊とは少しお考えが違うようなのですが、今日見えられました日本神道糸の方は、例えば何と申しますか、そういったものを表わすものを、或いは゛紫色゛の光線を体現しておるのだと言っておられるのですが、あなた方はまたそういう特色ある霊糸団であられるのではないでしょうか。


2.われら知的集団は、マリソ・ブルー(青色)に輝く霊団


ソクラテス  いま、あなたがご質問になったように、やはり神の七つのプリズムの一つの中に、叡智、知恵という、知力という、こういった力もあるのです。われらは主としてその力を体現するために表われているのです。叡智は、たとえていうならば、あなた方の中で、色にたとえていうならば、叡智とは、ブルー、青い色です、海の色です、マリソ・ブルーです。この゛青色゛の光線が「叡智」の光線です。「法」を表わす教えの光線が、たとえば゛黄色゛い光線であります。礼儀秩序を教える「敬」の光線が゛紫色゛の光線であります。そして私達、知力、知恵、叡智というものを教えるものの神の分光、プリズムを通した神の分光、これが青です、ブルーの光線なのです。そうしたものとしての力を私達は果たしているのであり、キリスト数的にも私達のことを、或いは智天使とか、こういった言葉で称んでいるのです。天使の職能の中において智恵を司る天使というのがあるのです。それは私達のグループを言っているのです。

善川  あなたが人間の世界における哲学の始祖というような形になるかとも思いますが、あなたが説かれ、またあなたのお弟子様方が継がれた哲学の本質といいますか、本来の学問的な主張はどんなものであったのでしょうか。

ソクラテス  それは既に学問の世界において、十分検証されていることでありますから、ここで言葉を重ねる必要もありませんし、また二千数百年前にわれらが語ったことが、そのまま適用しているとは思っていません。けれども、私の役割は、知性という光を通して、知性というフィルターを通して、神の世界、霊界、あの世の世界を明らかにするということであったのです。

また現代においても、私の時代から二千数百年経った現代においても、あなた方がまたそのような巡り合わせに立っているということだと思うのです。現代人は、先ほど私が申しあげましたように、知性を信ずる時代なのです。現代は知性の時代であるのです。知性の時代であるならば、神の道もまた、知性的に説かなければいけないということなのです。感性に訴えて説くだけでは駄目なのです。悟性に訴えて説くだけでも駄目なのです。理性に訴えて説くだけでも駄目なのです。やはり知性に訴えて説くのが一番なのです。

人々がどのようにして知的に神を理解し、神の創られた世界を理解し、この世の仕組みを理解し、この世をどのように知的に生きることができるかということを考えていかねばならないのです。


3.世はすべて弁証法的に発展する


善川  その意味におきましても今日の哲学は、かなり、あなた方が世においでる時の哲学からは変形してきたように思うのですが、まあ、とりたてて大きく変形を見せているものとしては「史的唯物弁証法」というものが台頭してきたということですが、これも一つの何かの役割を果たしているのでしょうか。

ソクラテス  もちろん世界観を理解するうえにおいて、役割は大きいし、一つの社会の仕組み、発展の仕方というものを、弁証法という形で説いているものであります。それは、まだ弁証法を説いている彼らにしてもそうですけれども、ヘーゲルとかですね、彼らは弁証法を説きながら、まだまだ本当の意味においての弁証法を知らないのですけれども、一つの思考の方法としてそのようなことも意義はあるのです。現に、われらが伝道においても、やはり弁証法的な発展をして来ているのです。それはあなた方もご存知なはずです。

ギリシャで「知」を説いて、そして知だけでは駄目だとなれば、今度はイスラエルの地で「愛」を説いている。また、中国の地において、日本において「敬」を説いたら、その゛敬゛だけでは駄目だということになると、今度はインドの地で「慈悲」を説いている。このように何かがあって、その反対のもの、その対照的なものもでてくる。そして対立するものがあるのではないのだという形で、さらにそれを統合し、発展していくものが出てくるのである。あなた方が現在あるのも、釈迦の仏教があり、イエスのキリスト教があり、孔子の儒教があり、そしてまた私達の哲学があるからこそ、あなた方の現在があるのです。

このようにすべてのものが発展的に進んできているのです。考え方は発展的に進んできているのです。そこで今の時代において新たなものを打ち出していくでしょう。これもまた、これと違ったものがやがて出てきます。そしてそれを統合するものが出てくるのです。こういった運動形式が何時の時代においてもとられていくのです。いわばあなた方は、正、反、合の合をなすために生まれてきているということです。


4.新しい経済学理念が生まれてこよう


善川  しかしやがて、これもまた弁証法にかけられて、否定される時期が来るわけですね。現代の思想理念は、個人主義、ないし自由主義か、社会連帯主義か。経済理念としては、自由主義的資本主義か、社会主義的計画経済か。政治体制としては、議会民主主義か、階級的独裁政治か、という両者の鬩(せめ)ぎ合い、競争となっていると思うのですが。

ソクラテス  その通りであります。資本主義も社会主義も共に欠陥のあるものが明らかになりました。それはなぜ両方とも欠陥があるかというと、窮極的に目指すものの理解が欠けていたからであります。

資本主義が目指すものも窮極にあるものは、神の繁栄という概念の具現化であります。共産主義の背景にあるもの、究極の目的にあるものも、ユートピア世界の建設でありました。そうして両方とも十分に機能しないままに現在に至って居ります。

今後出てくる時代の理念は、言葉は定かでありませんが、例えて言うならば「神霊経済主義」というようなものなのであります。経済的発展は、神の御意(みこころ)に適う方向において許されるというような主義が出てくるでありましょう。これを私はいま゛神霊経済主義゛という言葉で表わすことにしましょう。そういったことです。

経済的発展というものがどのような方向に収束していかねばならぬかということが、大切になってくるのです。目的を失った繁栄ではならないのです。その目的こそが、神の御意の実現であり、それを知的に分析するのが哲学でもありましょう。

「神霊経済主義」が間違って正しく理解されないのであるならば、「哲学的経済主義」といってもよろしい。経済学の中に゛理念゛が見出される時代がくるのです。

現在においては経済学は、かくすればかくしたことが起こるといった事象を追い求める経済学が多いのです。そういった理論が多いのです。こういった要因があればこのような結果がでる。然してこのような対策をとれば、このようになる。こういった現象を理解するという意味での経済学の発展が今日みられているのでありますが、この経済学の中に命を、息吹きを、吹き込んでいかねばならぬのであります。それは経済学の向かうべきものが何であるか、ということを明らかにする必要があるということです。これが「神霊経済学」であり「哲学経済主義」であるということであります。

経済学の中に「ゾレン」(SOLLEN)という概念、「ザイソ」(SEIN)ではなくて「ゾレン」の経済学が今後説かれていかねばならんということであります。従って今後の経済理念は、この経済理論に沿って人々が経済活動をすることによって、どのように神の国実現のために貢献するかということが二次的に検討されなければいけないのであり、第一義的にはその経済理論が有効かどうかということの検討があります。そして二次的にはその経済理論が、真実の体現に、神の世界の理想に、また哲学の理想に向かっているかということが、検討されるのであります。こういった学問となっていくでありましょう。

今後世界の重大潮流をなしていくのはこの経済学であります。この経済学という大きな流れの中に、哲学も、宗教も、また流れ込んで行かねばならないのです。経済学という学問を通して新たな「価値」が噴出していくのです。

5.「理念経済学」といってもよい


善川  まあ今までの経済学と申しましても、これは社会事象に従い物資が自動的に流動するという、自由経済という概念に止まっていたものが、新たな理念を持った経済学に発展していくということですね。

ソクラテス  そうです。「理念経済学」といってもよろしい。そういったものになるべきであります。なるでしょう。やがて宗教家的な素質をもった経済学者が出てきます。今の経済学者は、数学者的な素質を持っている経済学者が多いのですが、けれどもやがて宗数的な素質を持った経済学者が、次つぎに生まれてきます。それはもはや予定されていることなのです。

神は、あなた方をして「法」そのもの、法の本義を説かそうとしておられますが、神はまた一方の御手において、経済学の中にも宗数的素質をもった方々を地上に送り込もうとして居られます。そうして「理念経済」と申しますか「神霊経済学」といったものが作られていくでありましょう。

実をいうと、その゛走り゛であったものが、マルクスであり、またエソゲルスであったのであります。彼らが理想としていたものも、現在では唯物主義といわれているけれども、ユートピア建設という目的を持っていました。これは将来そういった哲学的、理想的経済学が発展していくための布石として彼らが出て来ているということなのです。彼ら自身は、完成されたものではないのです。やがて彼らの欠点を克服したものが出てくるのです。それは西欧世界においては、たとえていうならば、゛キリスト教経済主義゛というようなものかも知れません。キリスト教においても、旧来のキリスト教ではありません。変革された、改革されたキリスト教です。神の子としての経済主流といったものでありましょう。


6.マルクス以降の政治家の思想的誤謬が招いた経済失策


善川  おたずねいたしますが、まあマルクスの経済学の理念が、当初地上のユートピア実現を目指して生まれて来たものでありましょうが、今日においてはその理念はともあれ、経済理論なり実践においては、限定された富の均衡配分ということに重きが置かれて、それ以前の機械の発達による単位当たりの生産性の拡大という局面と、生産意欲の高揚という人間性の意欲的側面の重要さということを計算に入れることが欠けていたのではないかと思うのですが、ともあれそうした中にもかかわらず、この社会主義経済理論が未だにある、その今日的な意義というものは、何処にあるのでしょうか。

ソクラテス  彼らの行なったことの大部分は、現在においては誤解され、曲解されているけれども、少なくとも社会経済的な動きが、何らかのユートピアを人類にもたらさねばならないという点において、彼らの方向性は正しく合致しているのであり、現在知識人であり、良識家である方々が、あの唯物論の方に引かれていくのも、唯物主義が正しいのではなくて、マルクス達が目指していた遥かな目標が正しいと信ずるから、そのようなものに宗教的に、まるで宗数的なものに引かれて行くように引かれていくのです。ただ理論は正しくはありません。目標が正しいのです。

善川  そこで、その後のマルクス理論の信奉者の中にも、レーニンなり、スターリンなり、その他の思想家、政治家が、唯物論というものは、彼らも強調しているように、その認識において、これは単なる原始的な唯物論ではなくて、物質や事象それ自体が個々に、偶然に、単一に、存在するものではなくて、個体それ自体に独自性はなく、物質、事象相互間における因果関係の連関上においてこそ存在し得るものであると認識すべきであって、物は因果関係の中で運動体として生じ、そして弁証法的な法則に従って発展するのである。その意味において史的であるとし、ここに史的唯物弁証法理論を起こし、これを産業革命に、階級闘争に、政治革命にと援用したものだと思いますが、しかしながらこの理論そのものの中に、既にそれ自体がやがて真の弁証法の法則にかけられねばならない矛盾の萌芽というものを内包しており、しかもそれが加速度的に膨脹増大して来たことに私達は眼を見張らせられるのですが、しかし当時においてはこのような早い時期に結果が出るとは予測つかなかったのでしょうか。

ソクラテス  マルクスというのは、例えばあなた方の宗教の中の禅宗でいう゛一転語゛に当たる人間なのです。マルクスというのは、゛一転語゛、活、なのです。全く逆のことを言って悟らしめることもあるはずです。そうでしょう。禅の中にはそうした公案があるでしょう。それなのです。たとえて言えば、あなたがよく読んでおられた禅宗の『無門関』という本があるでしょう。あの中に、草履を頭の上に頂いて歩く禅僧が出てきたはずです。草履は足に履くものです。頭に履くとどうなるのですか―、これは形で一つ表わしたものでありますが、必ずしもこれと同じようなものではありませんが、マルクスのように、唯物的な理想論を吐くということは、かつて無かったことなのです。

かつての、今までさまざまな哲学なり、宗教なり、思想なりが出てきましたけれども、その思想の背景にはいつも必ず神が居り、そして仏が居り、人類の向かうべき理想があったのです。それを唯物主義ということを冠することにより、これは全く、百八十度の転回を見たのであります。しかしながら、彼が理想としている。ユートピア世界とは、結局のところ、古代キリスト教における千年王国にほかならないということなのです。彼の思想の骨格は、旧約聖書の中に既にあるのです。旧約にいうメシヤ的なものを、唯物主義を信奉するプロレタリアートとし、その後に築かれる共産主義社会を、千年王国として彼は描いたのです。彼自身は旧約聖書の骨組みをもって彼の思想を築いているのですが、それをその時代の局面において、一転語としての役割を果たすために、全く異(ちが)ったものを持って来ているのです。

本来ならば神に向かうべき理想なのです。それを全く異(ちが)うものを持って来て組み立てたということです。これは、人々の眼を開かすために持って来たのです。現代のこの一八○○年代、一九〇〇年代においてはユートピアを建設するにしても、神のためにユートピアを建設するということを言っても、現実世界の中において、そうしたことによるユートピア社会の実現は不可能であります。むしろ唯物的に考察していくことによって、本来のユートピア世界を作り出していく、素晴らしい社会をつくるということによって、はじめてその後にですよ、唯物主義の後に神を語る時代がくるということを、彼自身は考えていたのです。ですから彼自身は、彼の思想の最後の部分まで説き得なかったということなのです。


7.共産主義は資本主義経済を修正し、むしろ強化発展させた


善川  まあしかし、あのような唯物哲学が出てきたということによって、今までの資本主義経済(独占化)と帝国主義政治体制に大きな歯止めの要因となり、資本主義それ自体も、彼らの予言通りの末路、即ち崩壊を避ける知恵としての修正資本主義を編み出し、自己の防衛と発展を図った点では、彼らの貢献、役割というものも大きかったのではないでしょうか。

ソクラテス  そういうことです。例えばアメリカにおいて、共和党と民主党という二大政党があって、共に政治を交替してやっております。或いは政治の世界でなくても、あなた方の商売の世界でもよいのです。一軒だけの店であるならば、競争がなく、自分のやりたいようにだけやればよいのですが、他のライバルが出るということによって、さらに商売熱心になり、繁栄するということもあるのです。同じように、神は考えられたのです。この経済が発達してくる時代においても、唯一つの主義だけでは好ましくない。異なる二つの主義があった方が、異なる二つの考えがあった方が、共に競わせた方が面白い。そのように神が考えられたのです。ですからその過渡期の数十年、百年をとって、誤っている、いや正しい、という議論もあるでしょうが、永い眼でみたならば、いやこれもまた意味のある流れなのです。

人類は今、資本主義とか、共産主義とかいう言葉にとらわれていますけれども、その奥において、互いに相手の欠点を見ながら真のユートピア世界とは一体何であるかということを、いま模索しているのです。一つだけでは分からないのです。幾つかの極がいるのです。そしてはじめてお互いの欠点を見ながら、正しく進むべき方向が見えてくるのです。

それはそうです。あなた方宗教家にしてもそうです。悪魔があって、はじめて天使というものが見えてくるのです。善があって悪があり、悪があって善があり、闇があって光があり、そして光と闇を超える神というものを感じとって行くのではないですか。善悪を超えた神仏の力というのを感じとって行くのではないですか。その前の段階において、やはり善悪というものが出てくるのです。それを選びとるという作業が出てくるのです。

あなた方の中にも、サタソといわれる者からの話しかけもあるでしょう。彼らの言っていることが百パーセント間違っているわけでもありません。彼らの言っている言葉の中にも酌(く)むべき言葉はあるはずです。彼らは、立っている場所が、理論の立脚点が違っているかも知れませんが、しかし彼らの言う意見の中にも一片の真理はあるのです。それはそれであなた方は反省材料として、受け止めなければならないはずです。こうしたものなのです。世の中は二元的に切磋琢磨していく方が、より望ましい方向へと行くのです。

これが、神の考えられた方法論なのです。あなた方はこの世の中を見ると、なぜか二元的になっている。男あれば女あり、陽あれば陰あり、光あれば影あり、昼あれば夜あり、そのような二元的な世界であることに気付かれるでしょう。これは神が方法論として二元論を使われたということなのです。この世界、神の世界を進化発展させていくためには、さまざまな方法論があったのですが、一元論だけでもむしろ十分であったかも知れません。或いは三元論であったかも知れません。光、闇、そしてこれ以外のもの、三つのものがあって、そのものの中から選びとっていくという世界は作ろうと思えば作られたはずです。けれども神は、二元論で行く方が効率がいいと考えられてこのような世界を創られたのです。

これを比喩で申すならば、アメリカにおいては、例えば先ほど言いましたように、共和党と、民主党という二大政党があって、これが政権を争うことによって、新陳代謝が行なわれ正しい政治が行なわれるということになるのであります。これ以外でもそうですけれども、多元的な政治形態というのもあるのです。政党が五つも六つもあるところがあるのです。日本においてもそうです。また、もっともっと小さな政党が出来ている国もあります。こういった政治もまた、デモクラシーとしてあり得べきことでありますが、こういったことではなくて、神は、譬えていうならば、世界の発展のためには、二大政党制政治でいえば、二大政党制のような形、世界の仕組みでいえば、陰と陽との組み合わせ、このようなもので作った方が、うまくいくとお考えになったのです。


8.宗教的客観事態は「合」の立場に入りつつある


善川  ただ私達の問題に絞って考えますならば、私達の現在の立場といいますものは、弁証法的論理で認識しますと、今は宗教的゛反゛の立場に立つのでしょうか、゛合゛の立場にあるのでしょうか。

ソクラテス  ゛合゛です。ただその意味は多義で、必ずしもいまあなたが考えているものが正しい捉え方とは私は申しません。

善川  まあ私達の主体的な事情、立場とは別に、宗教の今日的観点について言えば゛合゛の時代に入ったといってよろしいですね。

ソクラテス  そういうことです。平和があり、キリスト教があり、仏教があり、他の宗教があり、そうしたものがまた一つに結び合わされようとしている時代が来ているということです。

善川  宗数的な方面ではそういう形で゛合゛の立場に入って来つつありますが、政治的な方面では、やや遅れて入ってくるというわけでしょうか。

ソクラテス  それについては細かいことは申しません。あなたに、いまその方面の当面する問題について語っても理解は無理です。

善川  あなた様のお教えの他に、誰か他のお弟子様態の方で私どもにお教え頂けるような方がおありでしょうか。

ソクラテス  それは沢山の人達が居ますが、すくなくとも、あなたの側に準備がなければ、何らかの準備がなければ、われわれも語ることはできないのです。

善川  それでは今日のところは、特にお出で下さったということは、最近のその近代における思想のあり方というもののご説明をして頂くためということでしょうか。

ソクラテス  そうでもよいが、あなたが求めようとしている以上のことは、私は語らない。― あなた自身、もっと、もっと努カがいるのではないか。あなたは一つの自分なりの世界観を持っておられるが、それだけで゛是(よし)゛とするのでは余りにも狭い。あなた方の使命に対して、あなたの努力が、余りにも足りない。世界観はもっと広いものである。もっとさまざまな世界観があり、さまざまな見方があり、さまざまな真理の流れがあるのである。宗数的真理だけが真理ではないのである。真理の中には哲学的真理もあるということをどうか忘れないで頂きたいのです。

善川  まず私どもは、浅学にして他の分野における知識も欠如する者であり、あなた様にこれ以上のことをお尋ねするだけの知識も力もありませんのですが、これから時代も進むにつれて次つぎと若い者の進出してくる時代を迎えますので、彼らの勉強も積んでまいりましょうし、その時代におきまして、またあなた様のような大学者からの、知の問題についていろいろお教えを承ることとなろうかと存じますが、その節はまたよろしくご指導願いたいと存じます。


9.あなたが、今この日本に生まれたらどのような生涯を生きられるか


 ソクラテス先生、私からの質問なのですけれども、例えばあなたが、今この日本の国にお生まれになったとしたら、あなたは、どのような人間として一生を生きていかれますか。例えばですよ、例えば、今この日本に、私たちではなくてあなたがお生まれになったとしたら、あなたはどのようにお生きになられるでしょうか―。

ソクラテス  これは非常に厳しい質問でありますが、今、私がこの日本の国に生まれたならば、やはり私は学問に励むでしょう。そうしてあなた方が゛徳゛と考えているもの、゛仁徳゛というようなもの、これを主に考えておられるようですけれども、徳の中には、゛学徳゛というものもあるのです。深く学問を修め、見識を磨くということも一つの道であります。このような知性の時代、もし私が生まれたとしたならば、私はやはり学問を積み、さまざまな学問を越えた学徳的な道を歩む学者になっていくでありましょう。そうして青年達に対して、若者たちに対して、知的に生きる、知的生活の重要さを説くことになりましょう。いま若者達を見てみなさい。休みの日には車に乗ってドライブをする。或いはレジャーに励む、或いは人と人とが逢ってお喋りをする。映画を見る。さまざまなギャンブルをする。そういった刹那的な趣味の中に若者達は流れていっております。

今、私がこの日本の国に生まれるとしたら、やはり私は学徳というものの大切さ、知性的に生きる。知的に生きるということは、何を目指すのでなくても、それ自体が、そのライフ・スタイル自体が意義があり、価値があるのだということを、お見せすることになると思います。

たとえその一生において、何ら達成することがないとしても、目的としての学問の大切さを、私は説くと思うのです。学問は、あなた方は、えてして何かのための学問ということを考えているのです。例えば就職のための学問です。試験に通るための学問です。技術者になるための科学です。そうですね。大学教授になるための哲学であります。文学の教授になるための小説であります。そうした手段としての学問がはびこっている世の中であります。しかしながら本来、学問とはそうしたものではなかったのです。学問は、学に参ずるということ自体が、一つの目的だったのです。それが人間修行の目的の一つであったのです。ここのところを考えて頂きたいのです。人間は何回も、何回も転生輪廻を重ねて来ております。そのときには、その或る時は、原始時代のように生きたときもあります。ある時には、戦乱の世の中に生きたこともあります。しかしながら、原始時代に生きた人々に、私達の世界がすべて理解できるかといえば、理解することはできないのです。戦乱の世に生まれた人々は、生命の大切さということを学ぶでしょう。けれども、われわれの世界の仕組みを理解するだけのものはないのです。やはりわれらが世界も、この多元的な、多次元の世界を理解し、神の御意(みこころ)を知り、そしてこの現象界の意味を知るためには、さまざまなことを知り、学ばなければいけないのです。学ぶということは、手段ではなくて、霊的進化という目的でもあるのです。さまざまな知識を身につけ、磨いていく中において魂としても発達していくのです。それはそうです。ユダヤの地において、イスラエルの地において、浜辺で漁師達に、人を愛しなさいと言うよりも、複雑な世の中のことを知り、世界の仕組みを知った上で、人々を愛するということが一体どのような意味をもつのかということを学んだ方が、その人の魂にとっては進化になるのです。魂は進化していかねばなりません。そうですから学問を修めるということ、知的に生きるということは、決して手段ではなくてそれ自体が一つの目的だということです。知的なライフ・スタイルを作るということ自体が一つの目的でもあるのです。そうした生涯をこの肉体人間の時代に送れたならば、その人間は非常に大きな魂の糧を得ることができたでしょう。

あなた方がこうして私の話を聴けるのも、あなた方がさまざまの学問をし学んで来たからであります。あなたが例えば生まれつき原始人のような生活をし、石斧で動物を殺したり、田植えだけをして一生暮らした人であるならば、私の言葉を聴くこともできず、聴いても理解することもできないのです。すくなくとも、私の言葉を理解できるだけの素地が、ある程度の素地があるということは、魂が学習するためには大切だということが判るでしょう。その素地がなければ、魂は学習をすることができないのです。

ですから長くなりましたけれども、私が今、この日本の地に生まれるとしたならば、学問を修めます。本当の知識ある人とは、本当の学徳ある人とは、本当の英知ある人とは、如何なる人間であるかということを見て頂きたいのです。若い人達に特にみて頂きたいと思うのです。その私の後ろ姿を見て育って頂きたいと思うのです。私は恐らくはあなた方のように、宗教そのものは説くことはないでありましょう。けれども、やはりこの知性の時代において、知力の時代において、知力の権化のような姿をとりながら、その奥にあるものが何であるかを語ることになりましょう。人々から知的な意味において尊敬をうけながら、はじめてその奥にあるものは何であるか、神とは何であるかということを説くでありましょう。恐らくは私のある時期までは、日本一の知者になるための努力の歴史となりましょう。そしてそれから後は、日本一の知者となった後に人々に対して、神のことを、神の御意(みこころ)を説くような人間になっていくでしょう。今、私がこの世に生まれたならばそのような人生を送ると思います。


10.有用哲学の弁証法的止揚と真の神知識理解への努力


善川  私が考えますのに、宗教の世界におきましても、経済の世界におきましても、あるいは政治の世界におきましても、いま仰せられた知の世界におきましても、すべての世界におきまして、どうも神から与えられた一つの進化発展の法則が、弁証法的に行なわれているということが何となく感じられるのですが、これは、とり立てて申せば知の世界におきましても、現在においては、アメリカより発達したプラグマチズム(実用主義)理論を重視する立場から、実益性、有効性に即用されているものと思います。この思想も社会がある一定の物質文化の発展段階に達するまでは、有用なイズムでありますけれども、それが目的を達したならば、量から質への弁証法的な転化が行なわれ、知はさらに純度の高いものとなり、人々は真の知識の理解に努め、知は、神の御意志を知ることに仕え、そしてその勉学することの悦び、その恩恵に浴するというものに昇華していかねばならぬものであろうと思います。いま仰せられた先生のご教訓も、やがて来たるべき新たな時代の新たな゛知゛の理念でなかろうかと思うのでありますが、その意味におきまして、これからの若者に与えられる珠玉の教訓となろうかと思います。ありがとうございました。

ソクラテス  他に、今日特にあなた方が聴いておきたいことがありますか。

善川  本日はまことにありがとうございました。感謝申し上げます。

ソクラテス  また今は、私がこのような話をして居りますが、時来たりなば、私の弟子達、或いは私を中心として現われたギリシャの哲学者の人達の考えをまた一堂に集めて、ご本を作られるのも良いことかと思います。

善川  その時までにわれらも、いささかなりと勉強させて頂いて、聖賢の方々のご講義を仰ぐ内容の骨子も用意できるような、そういう態勢を準備、勉強しておきたいと考えております。

ソクラテス  そうです、゛仏法゛だけが神の法ではないのです。神の法は、ある時には哲学としてこの地上に生まれたものですから、あなた方が神の法を学んでいる者である以上、哲学もまたその真理の一つの形態としてあったということ、なぜ神がそのような流れをお作りになったのか、ということも考えていかなければいけないのです。それは優れた人々の中には、高度に知的な人も居るのです。高度な知的な人々に、単に信仰ということを言っても、それだけではなかなか納得しがたいものがあるのです。彼らは、学びたいという意識があるのです。学ぶということを通して、信仰に至りたいという気持ちがあるのです。そうした方々のために、また用意された道だということです。

善川  ありがとうございました。それでは、本日のお教えと、前回頂きましたお訓えとを合わせて取り纒めさせて頂いて、聖賢ソクラテス先生のご霊訓として、現代および未来の人々に訴えたいと存じます。

ソクラテス  非常に光栄なことと思います。このような機会を私にお与え下さったことを感謝いたします。

善川  いや、お言葉恐れ入ります。まことに有難うございました。