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目次


















 18.結び




(一九八五年十二月三十一日の霊示)

1.霊界経験論批判


― カントの招霊を行なう ―

― カントです ―

善川  過日はわれわれのためにお教えを賜わってありがとうございました。今回、私どもの刊行いたしておりますシリーズの第五巻に、先生のご霊訓を掲載させて頂きたいと思っておりますのですが、先回は私達の認識も浅そうございまして、限られた範囲のことしかお伺いすることができませず残念に思っておりましたところ、本日、その機を得まして先生に再度お出ましを願い、いま少し範囲を広げての先生のご高説を承り、前説に加えて発表させて頂きたいと存じますが、お願い出来ましょうか。

カント  わかりました ―。

善川  私は哲学を専攻したものではありまぜんのでよく分かりませんが、先生が発表された文献の中に『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』或いは『永久平和論』このようなご著書がございまして、これが世の多くの人々に啓蒙、勉学の書とされてきましたが、これらをすべてお教え願うというわけにもまいりませんが、この中で、何か一つでも私どもの今後の勉学の資となるようなものをお教え願えれば幸いと存じますが、お願いできましょうか。

カント  それでは、かつて私が書いた書物そのものを、ここに繰り返しても意味はないと思うので、あなた方が、この地上を去った後に、霊界において経験することの「霊界経験論批判」を述べることにしよう。その方がおそらくはあなた方にとって、役立つことと思う。


2.人間はなぜ肉体という繭に宿る生活をせねばならぬか


まず人間は、僅か数十年の人生をこの地上で経験するわけであるが、この地上生活の真の目的は何処にあるであろうか。霊としての存在は、この地上にある時、肉体といういわば蓑(みの)というか繭というか、そうしたものの中に閉じ込められている。その霊は、非常に不自由な生活を送っている。例えて言うならば、縫い包(ぐる)みを着て歩いているようなものだ。たどたどしく歩き、食事にも不便をする。縫い包みを着ればそうであろう。そのようなことを、霊は何十年間経験するのである。ではなぜこのような不自由な肉体に、霊は宿るのであろうか。霊は霊として自由に天空で生きて居れば、それで十分であるはずなのに、なぜに母体に宿り、不自由な生活をしていくのか。何ゆえに苦しい肉体の中に入って生まれ、苦しみ、病気をし、そして死の苦しみを味わっていくのか。私達の世界から見るならば、このようなことは苦悩以外の何ものでもない。けれども、なぜそのようなことが、みなさんの経験すべきこととされているのであろうか。これは、肉体に宿るということによって、人間の霊は、人間としての経験以前の原始的な不自由さを経験するといりことなのである。つまり、ある意味においては、動物的属性の中で生きるという経験をさせられているのである。

世の認識というものは、すべて相対的に出来ているものであり、絶対的にこれのみが「真」これのみが「善」というものは、例えば、それだけしかないならば十分に認識することはできないのである。人間が人間であることを十分に理解するためには、人間ではない゛属性゛の中において経験を積む必要があるのである。従って、肉体を持った人間というものは本来、霊天上界における自由を喪失した代わりに、動物的なさまざまな感覚や、欲望を身につけることとなる。この中において、真の、本来の人間性は如何なるところにあるのかということを、再認識させられているのである。これが肉体修行の意味である。

例えば、私たちは、霊天上界の上段階において、毎日を過ごして居るのであるが、これは確かに私の精神波動にも同調し、非常に過ごし易いのであるけれども、この状態を余り長く続けるならば、私としては、新たな学習の機会が少ないのである。やはり相対的に別のものを経験することによって、現にわが在るところを更に一歩前進せしめんとする努力が必要なのである。

更にまた、肉体修行においては、先程申した゛動物的属性゛を経るという以外に、いま一つの目的があるのである。これは既に、あなた方も学んでおられると思うが、この地上界においては、神の創られた世界の、あらゆる霊的存在が、一堂に会する場であるのである。神はこのような場を三次元に設けられたのである。この三次元には、鉱物、植物、動物、そして人間。人間においても、地獄に堕ちていくような人もあれば、善人としての生涯を送る人もあれば、或いは光の指導霊達も居るのである。光の指導霊達にとってみれば、この三次元においては、生きていくにも非常に苦労をするし、また彼らにとっては、他の知能、或いは知識、或いは他の劣ったものを指導するという役割を果たしているようではあるが、逆に、彼らを導くことによって、光の指導霊達自身も、また学習を得ているということなのである。自らが不自由な身体に入りながら、更に不自由、あつかいの不自由な人びとを相手にするという経験を経ることによって、光の指導霊達は、彼らの新たな経験を積むし、また霊的発達の未熟な人間においても、本来の世界に還ったら、二度と会うことができないような、霊的指導者達との接触を得て学ぶ機会がふえるのである。

こういった意味において地上界は、非常に存在の意味があるのである。けれどもこの地上界において人類は、何万年、何十万年、何百万年、更にそれ以上の歴史を経て来たのである。その中においてこの地上に、非常に執着をする人間が多くなって来たのである。かつては、天上界からこの地上に生まれて来る周期というものは、非常に永かったのである。例えば何万年に一回生まれ変わってくる。場合によっては何百万年に一回しか生まれ変わって来なかったのである。それが近代においては或る霊は数百年ごとに、或る霊は数十年ごとに、そうした非常に生まれ変わりの局期が短くなっている。これが人口増加の一つの原因にもなっている。本来何万年、何十万年ごとに生まれ変わって来た人類が、この近代社会においては、この地上に執着が多いために、何度も、何度も生まれ変わっているのである。これが人口増加をもたらしていると同時に、いま一つは本来の霊的存在に対して、霊的ではなくて、肉を欲する人々が、地上を欲する人々が増えているということである。

これは、或る意味においては危険なことである。本来の世界よりも、この地上生活の方が良いということは、どういう意味であろうか。本来修行の場であるべきところが、永住の場として乞い願われて来ているということである。これは神の永遠の進化の法則からいくならば、逆行したことなのである。今この地上界は、そのような問題を抱えている。


3.幽界、四次元世界の様相


さて、この地上を去って人間は、あの世へと還ることとなる。このあの世というのが、最初の段階があなた方が「幽界」と称んでいる世界である。この゛幽界゛においては、人間は地上生活で送っていた想念をまだ拭い去れないでいる。従って四次元であるにもかかわらず、三次元世界と同じような生活様式をとっている。彼らの生活はほぼ、地上生活の時代と同じである。不思議なことは、ただ、彼らは何かを思うことによって、その思いを或る程度現象化できるという力を持っているということだ。これが彼らにとっては、いま一つわからないことである。例えば、四次元の゛幽界゛の中においても、例えば、大工なら大工をしたいという人が居るとしようか。この地上に居たならば鑿(のみ)や、鉋(かんな)、或いは鋸(のこぎり)というものを購入する。或いは自ら造るということをして、はじめて鑿や、鉋によって大工仕事ができるのである。しかるに、四次元幽界世界においては、彼らは、たとえば家を建てたいと思うと、なぜか鑿や、鉋が、そこに在るのである。当初゛幽界゛に来た人間にとっては、これは非常に不思議なことであるのだが、やがてこれが当然のこととなってしまう。なぜか知らないが、欲しいものがそこに在るのである。例えば、麦を脱穀してパンを造りたいと思うと、なぜかそこに麦畑があるのである。そして麦を摘むことが出来るのである。こういった世界、当初は非常に面喰らうのであるが、やがてこれが当然なこととなる。この意味において゛幽界゛世界は、この三次元世界におけるよりも便利であろう。

またこの四次元の中においては、゛地獄界゛というものがある。この中においては、例えば地上に居た時と同じく、いまだに戦争をくり返している霊達が居るのである。この霊達も、例えば弓矢の時代に亡くなった霊達は、地獄で戦争するにしても相変わらず弓矢で戦争しているのである。この弓矢というものは、彼等が造ろうとしなくとも、想念の中にあるから弓矢が出てくるのである。

ところが、同じ戦争をしていても、近代に亡くなった人々の戦争道具は、銃であり剣であり更に大砲である。そうすると弓矢の時代の人々は、銃で撃たれても分からないのである。殺し合いをしているのだが、銃が効くのは、銃の恐ろしさを知っている人間だけであって、知らない弓矢の世界の人間にとっては銃で撃たれても、何事も起きないのである。こういった想念の世界が四次元世界ではくり展(ひろ)げられている。(この世界を仏数的には阿修羅地獄という)


4.地獄界の様相(無間地獄(むけんじごく))


また地獄の中でも、もっと、もっと深いところの地獄がある。この中においても、例えば宗教家達、あなた方がお馴染(なじ)みの宗教家達が居る。仏数的には゛無間地獄(むけんじごく)゛といわれるあたりである。生きていた時に、人間達を間違った方向に教え導いたというために、いま゛無問地獄゛で苦しんでいる霊たちが居る。

この゛無間地獄゛というものは、コールタールのようなものが足もとを埋め尽くしている。歩こうとしても歩けないような臭い沼の中、或いは、ある者は、深い深い洞窟の中に堕とされている。或る者は深い深い井戸のような処に居る゛無間地獄゛の特徴は、要するに囲りが真っ暗であり、不愉快な妖気漂う世界であり、それぞれの人間が孤独にひとり孤立されているということである。

では、なぜこのようになっているのか。彼らは思想的にはいわゆる危険犯、ということである。人類から隔離されているということである。思想ということ、人間の思想ということは、この三次元においても最大事なことであり、その想いを間違った方向に指導したということは、正(まさ)しく゛神゛の光の逆のものである。従って人々を惑わした者共は、その償いを十分にせねばならなくなっている。


5.地獄界の様相(畜生道)


また、他の地獄がある。あなた方が仏教の方では、゛畜生道゛と言っている地獄である。動物界ともいわれている。この世界においては、人々はもはや人間の姿をしていない。あなた方は昔話で聴いたことがあるであろう。半人半獣、半獣半人の動物というのを、物語で聴いたことがあるであろう。正しくその通りである。顔だけが人間で、体が狼であったり、顔が人間であるのに、体が大蛇であったり、顔が人間であるのに、体が豚であったり、そうした世界があるのである。

彼らは、幸か不幸か、生きていた時に、そういった動物の特性を、一番強く持っていたのである。そうして動物の属性を身につけたために、その属性を去るために、それが自分が人間としての属性を忘れているということを十分に気がつくまで、その世界で修行しなければならないのである。これがいわゆる畜生道であり、かつて宗教家達のうちで、この畜生道を霊視したものが居るのである。彼らはこれを見て、人間が動物になったりするというようなことを思ったわけである。それが間違った意味での<転生輪廻>の説になっているのである。

霊世界においては、人間は動物の身体をとっていることもあるけれども、魂自体はあくまでも人間であって、一時期動物の身体をとるようなことがあっても、人間霊はやはり太初より人間霊としての使命を持っているのである。


6.地獄界の様相(血の池地獄)


また、地獄の中には、さらに違った地獄がある。ある意味ではあなた方のほうがくわしいかも知れないけれども、゛血の池地獄゛といわれるようなものも現にあるのである。これは、生きていた時に、情欲に心を燃やして世の中を渡って来た人達が行くところである。

情欲に心を燃やすということは、あらゆる人間において、すくなくとも青春期の一時期にはまぬがれがたいことであり、大部分の人間は死ぬまでそれを無くすることは出来ないものである。情欲の思いそのものは、決して悪いものではない。それは種族保存のために与えられたものではある。だが要は、その人の人生における価値観である、ということなのだ。さまざまな人は、さまざまな゛念(おも)い゛を持っているけれども、その中で一番強く思ってきたこと、一番強く希(ねが)ってきた念いによって、その人の傾向というものは瞭(あき)らかに打ち出されているのである。

この゛情欲地獄゛゛血の池地獄゛に陥ちている人々の特徴とは、この世に生きていた時に、性的な快楽のみが最高であると思い続けて来た人が行くところである。その様相は、あなた方が既に゛血の池地獄゛として昔話に聴いているものとほぼ同じものである。そのような生臭い、ぬめぬめとして、血の海のような中において人々は喘いでいる。これは、本当に自分らが目指して来たものが、実はこのように苦しい醜いものであったということを、十分に分かるまで経験させられるのである。


7.キリスト者と仏教徒のかつての罪悪感は誤り


この場合、血の池地獄から私はかつての宗教家達の誤りをいくつか正しておきたいと思う。

キリスト教の考えにおいては、この地獄の中においても、たとえば貞節を喪う罪といって、結婚前に貞操を失ったら直ぐ地獄に行くというような考えもあった。或いは二夫にまみえずという言葉があるが、夫以外と交わると直ぐ地獄に行くというような教えがあったと思う。こういった考えは確かに社会生活を維持する上には有益であり、正(まさ)しくその方向でいかねばならないけれども、逆に人間が霊的な存在であるならば、性的な経験を持ったかどうかということ自体で、その人自身の全人生が裁かれて地獄に陥ちるわけではないのである。これは間違えてはいけない。かえって性的なものに余りこだわるということは、唯物的に物事を考えているということである。

であるから、この地上における性道徳に関して、言いっておくならば、あくまでも良識ある行動は大切だけれども、かたくなに、余り形式的に考えるならば、この世のほとんどの人は今は地獄に堕ちねばならない。しかしながら、人間はそういった不自由なものではないのである。要はその人の価値観、人生観であるということだ。

こういったことで、仏教徒に対しても、私は言っておきたいけれども、年老いてから自分がさまざまな遍歴をして来た。性的な遍歴をして来たから、もう自分は地獄に陥ちると、罪の意識にさいなまされている人も居るかも知れないけれども、必ずしも性的な経験そのものが地獄に結びつくわけではないのである。要は、その人のトータルの人生観であり、トータルの価値観として何を一番強く人生において心に刻みつけたかということなのである。

であるから、ある罪を犯したら、直ぐ地獄に陥ちるわけではない。かつて宗教家達は、そのような偏狭な思いが多かったようである。例えば、゛万引き゛という行為がある。これ自体は悪い行為である。しかし、人間が七十年生きて来て、一つの万引きをやったからといって、それで地獄に陥ちるわけではないのである。残り数十年、六十年、七十年の彼の人生が、トータルで見て、如何なる人生であったかということが肝要なのである。

そのような形式的な罪の意識が、有名な小説である例えば『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのようなことになるのである。生活苦のために、一片のパンを盗んだということで、全人生を批判されるというようなことがあるであろう。そういったことになるわけである。人間達、特に宗教家達、道徳家達は罪の意識が余りにも尖鋭化されているために、一片の罪と、また山を築くような善行との比較さえもできないようなことがあるのである。

であるから、この際私は、地上に在る人々に言っておきたいのであるけれども、人間は、一片の罪なく死することは出来ないのである。さまざまな罪を犯していくであろう。それを反省することは大事であるが、要は全人生において、自分が如何に善なるものを創り出していくか、如何に善なるものを生み出していくかということだ。たとえ罪を犯すとしても、その罪に囚われて一生を送るようでは、やはりあなたは罪の人であるということだ。

罪を犯したとしても、その反省を契機として、さらに素晴らしい人間として起ち上がるならば、あなたは一つの罪を犯さずに善良なる人生を送った人以上の人格を築くこともできるのだ。決して決して、罪を犯すこと自体が悪いのではないのである。

罪を犯したままの心で一生終わることが悪いのである。これを「経験」としてみたならば、さまざまな経験として見たならば、また人間としての雅量を、人格を、大きな器とするための契機とすることはできるはずである。要はどのような経験を得ようとも、それを契機として、その人の人格がより一層素晴らしいものとなったか、その経験によって本当に穢(けが)された人生となったかどうか、ということだ。

であるから特に仏教徒もそうであるけれども、キリスト教徒の皆さんに対しては、罪の意識に対して、私はいま一つ言っておきたい。地獄で確かに苦しんでいる人達も居る。彼らは生きていた時に、十分反省しなかったために、いま自分の経験を通して苦しんでいる。

けれども、罪の意識というものは、罪というものは、その人とイコール、その人と同じものではない。罪を犯したからその人が罪人ではないのである。罪は罪であり、その人はその人であるのである。

喩えて言えばこういうことだ。鏡というものがある。鏡が曇れば人の姿も曇ってくる。けれども、鏡が曇るということは、鏡自体が曇ったということではないのである。鏡の表面に霧や、或いは塵芥(ごみ)が、そういったものが付着したということだけである。これはまた、磨けば美しい鏡となるのである。罪というものは、このようなものであって、拭けば無くなるものであり、人間の本性そのものを喪うことはできないのである。

であるから罪というものは、譬えて言うならば、衣服のようなものである。人間、何十年か生きていく間に、さまざまな衣服を着込むのである。この衣服、間違った汚ない衣服を着てしまっているのである。間違った汚ない衣服を着ているのであるから、この汚ない衣服を脱ぎ捨てて、新しい清潔な美しい衣服に着替えなさい、と言っているのだ。中味の人間自体は汚(よご)れもどうもしていないのである。どうかこのことは忘れないで頂きたいのである。

これが四次元の説明である。


8.霊界、五次元世界の様相


さらに、<五次元世界>の説明をしたいと思う。五次元にはまず大別して、二つの人々が居る。その一つ一つのグループというのは、死後短期間のうちに直ぐ五次元、゛霊界゛に上って来た人達である。この人達の大部分は、生きていた時に、善良な人達として生きていたということが一つ、いま一つは、何らかの意味での宗教心、信仰を持っていたということだ。この信仰心というものは、必ずしも、神を信ずるというものでなくともよい。或る意味で哲学的に物事を考えられることでもいいし、道徳的に物事を考えられるということでもよい。何らかの意味において精神性、精神というものの価値に目覚めた人達ということである。精神の価値に目覚めた、いわゆる肉体を脱した、肉体以外の精神の価値、精神というものの大切さに気付いた、心の大切さに気付いた人達が居るのが、この五次元世界である。

四次元においては、地獄においても、地獄以外の世界においても、まだ肉体というものを中心とした生活を送っている。ところが五次元においては、精神、心というものが大事だということが分かっているのである。彼らはまだ本当の意味において宗教の本質や、哲学の木質、世界の仕組みということは全然知らない。けれども心が大切だということ、善良な思いで生きるということが大切だということは知っているのである。そういう意味において道徳的には或る程度、善良な市民として生きたいという人が居るのが、この五次元であり、五次元世界には、人数としては非常に多くの人数の人が居る。地上の、例えば霊界における存在のうちの五割近い、或いは五割から六割の人がこのいわゆる五次元、゛霊界゛に住んでいるのである。

彼らは毎日、人間としても生活しているけれども、多少なりとも精神的な生活を、その日々の中に持ち込んでおり、五次元の世界においては、この地上におけるのと同じような、教会とか、神社、仏閣があるのである。その中においてまた、徳の優れた人々の教えを乞うている。或る意味において学習ということ、宗数的な教育というのが中心になって行なわれているのである。この世界でも光の指導者達が身を窶(やつ)して降りて行って指導をしているのである。

また、この五次元の世界は、人々が滞留する期間も非常に永いのである。この中において結構満足している人達は多いのだ。人間らしい生活もできるし、また、或る意味で雲的な<覚(めざめ)>もあるということである。折中した世界であるということで満足する人が多いのだ。そういう意味でこの五次元で留まって、また再び、地上に生まれて来るという人が多いのである。これが五次元の世界である。

まあ、この世界においては、地上にあるものはほとんどすべて在るといってよい。まだ一部の人達は、食事もして居れば、さまざまな人間として経験したことをやっている。けれども、意識の進んだ人達は、もう人間は、飲まず食わずとも生きている、生き通しの体だということを知っている。

けれども、大部分の人間は、地上生活のことは忘れてしまって、五次元世界自体が、地上世界であるかのような生活をしている。その中において、多少なりとも精神的な生活をしているということである。

まあ、この地上でいうならば、クリスチャンでいうならば、普段は普通の仕事をしながら日曜学校に通って、教会で牧師さんの教えを聴いている人達の集まりだと思えばよい。決して「神」の名前を出したからといって怪(おか)しな人だと言われることもない。そういった良識ある人達の集まりである。

この五次元からは、大部分が生まれ変わるのであるが、更に上へと進化する人達が居る。


9.神界、六次元世界の様相


つぎが<六次元の世界>である。五次元のうちで六次元に進化していく人というのは、残念ながら一割にも充たない。残りの九割の人は、五次元で留まって、また生まれ変わってくる。一割ぐらいの人が、五次元の中において高い悟りを得て、六次元に入っていくのである。この六次元世界というものは、あなた方が知っているように、あなた方の言葉では「神界」と言われている。神界というのは、或る意味において神の力の一部が与えられている人達ということだ。゛神界゛というのも広い意味での天界、神界、菩薩界、如来界などを合んだ「天界」の中にあって、天界下段階ということだ。

この六次元に居る人達というのはどういう人達かといえば、一ロでいうならば、この地上において世の中の進化のために役割を果たした人達ということだ。或いは人々を何らかの意味において指導できる人々ということだ。霊的に指導する場合もあるし、また科学技術、或いは芸術、さまざまな分野で指導する人達も居る。ただ彼らの多くは、一言でいうならば、優れた人達なのである。また別の言葉で言うならば、有能な人々と言ってもよい。

いま、この神界の中において増えている人々は、どういう人々かというと、たとえていうなら科学技術者である。科学者、科学技術者、今の時代においては非常に多い。また善良な学者達も非常に多い。教育が高度に進んでいるため神界への入り口もいま増えて来ている。また、この中においては、初歩的ではあるけれども、宗教家達も居るのである。レベルは低いが、小さな巷の神々、或いは地方の小宗教、新興宗教の教祖なども六次元世界には結構多い。

彼らの生活はどうかというと、彼らはもう、たとえば人間的にいうならば、食事をしたり、飲み物を飲んだりというようなことはほとんどなくなっている。彼らはもう自分らが霊的な存在であるということは、百パーセント知っている。その中において、自分らの才能を伸ばして生きているということだ。画家は絵を描いている。詩人は詩を書いている。小説家は小説を書いている。こうした世界が六次元世界である。


10.六次元にも二段階がある(諸天善神界)


彼らの中ではまた二つの人々に岐れて行くのである。゛神界゛の中においても上段階においては、更に菩薩、如来を目指して努力していく人達が居る。いわゆる光の天使の予備軍達である。こういう方々もおれば、六次元で職人肌の人々とでも言おうか、自分の一番得意な分野を伸ばしている人達も居る。

六次元もこのように岐れて行って、後者である場合、つまり自ら科学者なら科学者、文学者なら文学者として、それで゛是(よし)゛としている人達は、また六次元を限度として、この地上に生まれ更(かわ)って来るのである。

けれども、上位の方、これはおそらく、六次元世界のうちの三割ぐらいの住人であろう。この三割ぐらいの住人は、更に上の段階を目指して努力していく。更にこの三割の中の三分の一ぐらいの人達が、いわゆる<諸天>或いは<善神>といわれているような人達である。

この地上においては、或る意味では、神様の部類に入っている人達が、この六次元の上段階において居るのである。彼らの、一部の人達は、地上においても、さまざまな神社とか、社(やしろ)において祀られていることもある。

また、地上に降りて行っているさまざまな有能な人達、世の役に立って働いている人達を、守護指導しているのも、大体この六次元上段階の<諸天善神>達である。彼らはこの菩薩へ上るための修行の場として、主として守護指導というようなことを行たっている。


11.菩薩界、七次元世界の様相


更に、この上があなた方ご存知の<菩薩界>であります。これが七次元である。菩薩の世界はもう人扶(ひとだす)けの世界である。人を救う世界である。この前の六次元世界、先ほど申しあげた六次元世界においては、まだ己れというものが十分生きているのである。まだ自分というものを十分磨くことによって、役立つ人間になろうとか、世の中のためになろうという思いが六次元である。

七次元の゛菩薩界゛になると、自分を磨くというよりは、どのようにして人のために役立つか、わが体、わが命をどのようにして多くの人達のために生かすか、生かすことがどういうことかを考えている人達が中心である。ということは、彼らは一人であって、一人でないということだ。一人であって五人分、十人分、百人分、一万人分の人生を生きようとしている人達である。

菩薩というのは、数で言うならば、おそらくは一万数千人から二万人、或いは二万数千人、おそらくこれくらいの数が居る。天上界には、では、彼らのうちの一割も居ないかも知れないけれども、一割弱、千人から二千人ぐらいの人達が常時地上に降りて行っている。

地上には常時千人くらいの菩薩は降りて行っているのである。時代にもよるけれども、そして千人くらいの菩薩が、さまざまな国に分かれて住んでいるのである。アメリカという国にも百人、二百人の菩薩がいま出て、さまざまの分野に分かれて活躍している。経済の分野でもそうだし、経営の分野でもそうだし、科学技術の分野でもそうだし、或いは宗教の面でもそうである。そういったところで時代のりIダーとなっている人達というのは大抵は諸菩薩なのである。また、日本国というところにも、今さまざまな請菩薩が生まれて来ている。彼らのうちの一部は、宗教家としても生きているけれども、それ以外の世界で生きている人達も居る。

こういった人のために生きている人達が菩薩であり、彼らは地上において、何十年かの生涯を送ってくるけれども、また還って来てはこちらで反省をし、どのようにしていけばもっと効果的にさまざまの人々を導けるか、ということを専門的に研究しているのである。

ただ、菩薩の中において、この二万人前後の中において、一番多いのは宗教家である。菩薩のうちの六割ないし七割は宗教家である。ほぼ六割くらいが宗教家だと思う。その残りの四割の中で、一割くらいが政治家、一割くらいが芸術家、一割くらいが科学者、一割くらいがその他、とこういった分類になっている。最大集団は宗教家であるけれども、それ以外のプリズムとしての役割を果たしている人達も居るのである。これが菩薩界である。


12.七次元、八次元の中間に〈梵天界〉


また、この七次元゛菩薩界゛から八次元の<如来界>と到る道がある。ここがあなた方の言葉でいうならばこの中間に<梵天界>というものがあるのである。これは先ほど神界と菩薩界との間に<諸天啓神>というような位、神様、光の天使の初歩の位があるということを申しあげたが、やはり<梵天界>というものがあって、これが如来界へ到るための境界になっている。

ここでの修業は何かというと、主として、人扶けが了った人達が来ているのである。この<梵天界>においては、人々は、゛宇宙の理法゛というのを勉強している。宇宙はどのような仕組みで動いており、また神の世界計画は、どういうところにあるか。そういった宇宙の経綸のようなものを学んでいるのがこの<梵天界>である。


13.如来界、八次元世界の様相


<梵天界>で学びを終えると更に上の八次元、<如来界>に入っていく。如来界においては、勿論人間としても十分に完成した人達であるし、また人扶けも十分にやって来た人達であり、それ以上に神のお心を十分に知っている人達の集まりである。

この如来界には数百人の人間がいま生きている。私もその一人である。この如来界の中には、いろんな神の光のリーダー、分派のリーダーとなっている人達が居る。例えば哲学の世界においては、私とかソクラテス、そういう方々がこのリーダーをやって居り、さまざまな菩薩界、神界、或いは地上界の人達、哲学的な人達を指導している。また、美術なら美術の専門家も居る。或いは医療なら医療の専門家も居る。こういった専門家達のリーダーとなるような人達がこの如来界に居て、主としてその動きをコントロールしているのである。これは数百人の世界であり、彼らの形はさまざまである。けれども主として自分の傾向、もっとも強い傾向というものは、何らか一つは持っている。宗教家なら宗教家の中で、゛愛゛の傾向を非常に持っている人とか、或いは゛慈悲゛の傾向を持っている人、或いは尊敬の念という゛敬゛の念を非常に持っている人、礼節を持っている人、知の世界、知力ですね、゛知力゛とか知恵を持っている人も居る。こういった何らかの魂の強い面があるのが特徴である。


14.宇宙界、九次元世界の様相


<宇宙界>という九次元の世界がこの上に在る。この九次元に入って行くと、もうすべてを収合したような世界であって、これは私の範囲を越えてはいるけれども、ここにも、そうですね、いま現在では数人、数人から十人を越えているかも知れません。そういった宇宙界人が居ます。けれども、ここで一つ言っておきたいことは、八次元と九次元の間というものは、他の次元の間とはかなり変わっているということなので、他の次元においては、下の次元の者は、上の者とは語り合えないことになっているが、この八次元、九次元の間においては、或る意味において境界はあって無きが如しであります。九次元の者は自由に八次元に来ているが、八次元の者も自由に九次元の者と話ができるようになっている。

この違いというものは、要するに役割の違いだけなのである。九次元の人間は、宇宙界つまり、太陽系の大きな計画というようなものを司っている。たとえば、司るために二階に上っているような人達なのである。だから自由に下へ降りることも、上ることもできるのであるが、住んでいる場所がただ違うというだけである。八次元、九次元においては、ただこのように密接な世界となっている。


15.十次元以上の世界の様相


九次元以上の世界については、もはや私は語り尽くせないけれども、地球に関する人達は非常に少なくなって来ている。けれどもこの八次元、九次元、十次元というような世界においても、人数、地球系霊団における人数は次第に減っては来ているが、全宇宙における人数という意味においては決して減っては来ていない。八次元世界には、この地球系の人は数百人しか居ないけれども、全宇宙においては、さまざまな人がいっぱい居るのである。九次元も然り、十次元以上もそうである。

であるから、本当の意味において、ピラミッド形になっているわけではなく、高次元に行けば行くほど、世界もまた広くなっているということである。

であるから、四次元、五次元は、地球という磁場で完結しており、それで数億から数十億人の人が住んで居るのだけれども、八次元、九次元になってくると、その世界自体が、この地球を越えており、さまざまな惑星をも含んでいる世界となっている。であるから、そういった住人達との交流ということも盛んに行なわれている。

以上が大体、霊的な認識、霊的な認識の概観である。

善川  今のお話で、九次元世界までの人々の生活様態というものが大体明らかにされたと思います。ありがとうございました。