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目次



















10.発展の中での静止観、その論理が命題


――  ただあなたがご在世当時の時代と現代の時代の思潮というものが大分変わっておることも事実でありますので、こういう大きな思想の潮の流れの中で、あなたのおっしゃる思想を果たしてどのように伝え述べるかということは、なかなか困難な問題が横だわっておるように思いますけれども、いずれにしても、現代の科学文明もこれからまだまだ、発達していこうとしている。人々は発展の世界を目指していくというのが大方の考え方でありますので、その中で発展の行く先の目的、その幸福だけを願うのではなしに発展過程の現時点の環境の中に、輝かしい煌きがあるんだという教えを説くということは、非常にこれは重要なことで、発展の思想もそういう意味での深い裏打ちのある思想となることが望ましいように思えるのですけれども、この辺の論理の展開というものが、なかなか骨のある課題であろうかと思います。

荘子  ですからね、昔のキリスト教ならば罪の子ですか。人間を罪の子として指摘してそのままじゃいけない、キリストによって救われねばならないと、こういう指摘があったと思うんですね、それはマイナスのあなた、マイナスじゃいけないから何とか立ち直りなさいと、いう指摘であったでしょう。それからあなた方が今説こうとしている発展の思想は零のままではいけない、プラスを生み出して行かねばいけないということですね。それはそれで大切なことです。ただ現状から、逃れよう逃れようとする心の中には、また新たな苦しみを作っていくということなんです。
 地球は住みにくいから宇宙に逃れたら人々は幸せになるかといえば、そんなことはないんです。そこには新たな苦しみが出てくるでありましょう。ですからこの地球上では幸せになれない人は宇宙空間に出ても幸せにはなれないということなんです。いいですか。この地上は住みにくいから、あるいはこの日本という国は住みにくいから、月に新たな楽園をつくれば、そこが住みやすくなるかと言えば、そうはならないということなのです。現在自分がある会社に勤めていると、その中でうまく行かないと、じゃあ辞めて独立すれば、全てうまく行くかと思うと、そうではないということなんです。会社勤めをしていながら、その中で、他の人とうまくやっていけない人であるならば、独立して自分で事業を興しても、またうまくいかないんです。結局そうなんです。彼岸の地カナソの地があるわけではないんです。そこ、ここにカナソの地はあるのです。彼岸の地はここにあるのです。現在ただ今の中にあるということです。ですから現在ただ今の中でね、たとえば今私は転職ということを申し上げました。会社の中で素晴しく生きている人であるからこそ、他の人々とうまくいっている方々であるからこそ、また転職するなり、独立するとうまくいくのです。

よろしいか、私は今別のたとえ話をしているんですよ。発展ということに関して言っているんです。会社の中で歯車の一つとして生きているのに虚しさを感じて一国一城の主になりたいと思っておられる方は現代には多いのです。その中で、会社に勤めているということ自体が不満で不満でしょうがない人は、それから飛び出して一国一城の主になったとしても仕事はうまくはやっていけないということなんです。それはまた新たな苦悩となっていくでしょう。しかし現在ただ今いる会社の中で成功しながら、更に自分を磨くために一段上の新世界を求めて独立していく方々、このような方々はまた新たな地でも素晴しい生活環境を築いていかれるでありましょう。ですから発展ということも、こういうことなんです、逃避に基づく発展ではいけないということなんです。いいですか。現状が悪いから良いものを求めての発展ではないのです。現状も素晴しいんです。現状も素晴しいけれどもまた見方の違った素晴しさを求めようとする気持ちがあるならば、発展の思想は正しいのです。間違っておりません。よろしいですか、そういうことなんですよ。

現在ただ今の中にね、人間が「心の王国」を築くことができて、更にこれ以上のものを求めることはいいのです。現在ただ今の中に「心の地獄」を築いておりながら、別のことをすれば全く素晴しい新世界が開けるかといえば開けないんです。そういうことなんです。たとえば宗教においても、キリスト教とか、仏教とか、神道とか、いろんなものがあります。キリスト教を勉強しながら、その中で満足できない人がいます。そして仏教に行きます。仏教でも満足できません。新興宗教を次から次へと遍歴しています。放浪しています。どこでも悟ることはできないし、どこでも満足できない。けれども、じゃあその人は本当にどこかで素晴しいものに出会って一躍悟りの世界に入れるかといえばそうではないんです。キリスト教の中においてもある程度の悟りを得ることはできるんです。当然です。キリストを信じながらその中で素晴らしい人間になることはできるんです。わかりますか。キリスト教徒として素晴しい人間になれる人です。そして更に一段の高いものを求めて他のものを求めるということは正しいことなんです。ただキリスト教をやってもこんなものでは何にもならない。人間は良くならない、と捨ててしまって、何の役にもならないとして仏教をやり、また、こんなもので自分の生活は改善できない。仏教を分っても自分は救われない。自分の病気はなおらない。家族の悩みがなおらない、キリスト教をやっても治らない。新興宗教に走る。ご利益宗教がある、これで治るだろうか、家内安全を祈願する、一家が幸福になることを祈願する。どんどん、どんどん教祖にすがりついていく。けれどもほとんど幸福にならないで周りがどんどん悪くなっていく。こうしたことを繰り返している人が多いのです。それはどこかにすがりついたら一躍悟れると思っているんですね。けれどもその人は不幸だと思っているかもしれないけれど、キリスト教の中においても、その人は幸福になる道はあるのです。仏教の中においても幸福になる道はあるのです。程度の問題はあるでしょう。そうしたものなんです。ですから、現在ただ今の中において、最高度に自分を発揮できた人であるからこそ他のものを求めていっても、もっと素晴しいものを創っていけるんです。ここにも幸せはない、あそこにも幸せはないと、次つぎ捨てていったところで本当のものは得られないのです。

それは中国の昔にこんな譬(たとえ)話があります。猿が木の世話をする喩(たとえ)話です。ある王様が、山に木を植えたんですね、苗木を。それで王様が旅行することになったんです。一週間ほどね。そこに賢い猿がいたんです。王様はその家来の猿に命じて、お前、この苗木に水をやってくれよと、しかし水は多すぎてもいけないし少なすぎてもいけない、毎日ほどよく水をやってくれよと。王様はこの猿にこう命じたのです。猿は「分りました王様。私は賢いですから、水は適量の水をいつも与えます。多すぎもしない、少なすぎもしない水を与えてちゃんと木を守ってみせます」とこう語ったのです、王様は旅に出かけました。猿はバケツに水をくんできて山に植えた木に水をやったわけですね。ところが本当にそれが根まで届いているか心配でしょうがありません。ですから水をやってはその苗木をひっこ抜いて見ています「あ、根まで水が達している。よかった、よかった。」とこれでまた木を戻します。そしてまた他のところに水をやっては、根まで適当な水がいっているかどうかを苗木を抜いてまた見ます。こうして水をどんどんやっていくのですが、とうとう苗木は全部枯れてしまいました。こうしたものなんですね。結局、適量の水を与えることは難しくて、何が適量かということが、猿には分りません。けれども何が適量かということが分らないためにね、木をひっこ抜いて根を一々調べていると木は全部枯れてしまいます。結局こういうことなんです。適量の水というのが本当の意味での悟りであり、本当の意味での救いだと思うんですね。それがはっきり分らないためにいちいち根をひっこ抜いて見たがる、これが猿ならぬ人間なのです。

キリスト教の中においても、その適量の水というものが分らない。だから自分は少し救われたような気がするけど本当かなと思って根をひっこ抜いてみる。そうしているうちに枯れてしまうんですね。次に仏教の苗、これに水をやるんだけれど適当の水かどうか分らない猿知恵です。猿知恵で引っこ抜いて見てみます。で元に戻します。ああ丁度よかった、しめりが足りなかったらもうちょっと水をやってみる。そして元へ戻す。こんなことをやっているんです。苗木は全部枯れていくんです。こんなことが多いんです、人間にはね。猿知恵です。これは古い中国の譬話であります。けれども、こんなことをしている人がいるんです。キリスト教の根をおろしても、それを抜いてみる人がいる。仏教の根をおろしても抜いてみる。新興宗教に入っても根まで水が入っているか抜いてみる人がいる。そして全部枯れていくんです。こんなバカなことをやる人がいるということです。身につまされるような話であろうと思います。

――  それは、例えばそれぞれの置かれた環境、その立場に深く浸透してその理を解するということでしょうか。

荘子  少なくとも現状の中において、最高度の自分を発揮できない人は、別な環境においても一躍素晴しい世界に入れるわけではないということなんです。現状の中において最高度の自分を発揮しようとしている人であるからこそ、発展を求めて素晴しいんです。いいですか。地球で素晴しく住んでいける人類であるからこそ、宇宙空間に出て行ってもまた素晴しい経験を積むことができるのです。

――  そうですね。

荘子  地球の人間といがみあっている人間がね。地球から脱出しようとして宇宙間に逃れたところで、そこにはユートピアはできないということです。ですから逃亡という意味、逃避という意味での発展ではならないということです。


11.理想郷(ユートピア)は現在ただ今の各人の心の中に築け


荘子  ですからユートピア理想郷というものははるか彼方にあるんじゃないんです。理想的な環境ができたら人類が幸せになるんではないんです。理想郷は現在ただ今の中にあるんです。現在ただ今の中に理想郷を築ける人であるからこそ、さらに一層発展した理想郷を造っていけるということなんです。よいですか。現在ただ今、物質的には必ずしも恵まれていないかもしれない。健康も恵まれていないかもしれない。けれどもこの中において、理想郷を営める、理想郷を創り出せるからこそ、さらに素晴しい宇宙時代の理想郷を創っていくことができるんです。そういうことです。環境が整えばそういうふうになるんじゃないんです。

――  なるほど。そういうふうに解釈する人もおりますけれどね。環境が整わなければ、実際の理想郷は実現しないんだというふうなことを言う人もおります。環境が整わなかったら。理想郷は実現しないということで……

荘子  そういう人は、例えば地獄にいる人は皆んなそうなんです。そういうことなんです。自分が悪いなんて思っている人は一人もいないんです。環境が悪いと思っているんです。周りが悪いと思っているんです。神様が悪いと思っているんです。これは皆んな地獄にいる人たちです。自分が悪くて地獄におちているなんて思っている人は地獄にはいないんです。自分はいい人だったのに、自分は一生懸命真剣だったのに、神様が悪い。あの人が悪い、環境が悪かった。病気をしたからだ。あるいは、あれで、手形が不渡りになったからだ。あの時殺されたからだ。こんな人のせい、環境のせいにして恨み心でいる人が地獄にいるんです。どのような環境にあろうともその中で理想郷をつくろうと志した人たちは、絶対に地獄になんかいないんです。環境も大事です。環境のせいも大事ですが、ともすれば人間は周囲のせいにしていくんです。自分ということを忘れて。地獄にいる人の中にも、たとえば成仏したい、天国に行きたいと思う人がいるでしょう。ただ自分はそう思っているけれどもああいう悪魔の手先たちがいて、邪魔をするから自分は天国へ行けない。そう思っている人が一杯いるんです。実際、現象としてはその通りです。悪魔の手先たちが来て彼らを苦しめています。で、天国へ行けないようにしています。けれども、人のせいであると思っているうちは、決して彼らは成仏することはできないんです。自らのうちに非があったからこそ、自らのうちに間違いがあったからこそ、今、地獄に置かれているんです。


12.原始時代に心の王国が築けなかった者は文明社会においても理想郷(ユートピア)は創れない


――  いま一つお伺いしたいんですが、ユートピアの問題ですけれど、果たして穴居時代、原始時代、その中でユートピアがあるだろうか。この物質文明の発達した世界の中においてこそ、真のユートピアというものが実現するのではないか。人間のその生活経験の深くなった複雑な現象世界、濃密な人生を味わうことができる近代社会においてこそ真のすばらしいユートピアが実現し、それを味わうことができるのではなかろうかということですが、これは比較の問題なんですか、あなたのお考えとしましてはユートピア理想郷というものはこれは等質、等量のものとお考えなんでしょうか。

荘子  少なくとも穴居時代にユートピアを築けないような人であるならば、文明が発達した時代においてもユートピアは築けないということです。お分かりですか、そうした狩猟生活、洞穴生活の中に調和の生活、大調和の世界を創りあげて、それなりのユートピアを創った人が今の時代に出てきて、ユートピア建設をしてこそ意味があるんです。彼らはそうした前の役割を卒業したからこそ、新たな環境の中ですばらしいユートピアを創ろうとしているんです。ですから洞窟時代、狩猟生活時代にユートピアを築けなくて殺戮(さつりく)の世界に行っていた人たちは、現代に生きたらもっとひどい殺戮の世界を繰り広げていくんです。それはあなた方が目のあたりにしているはずです。どのような環境にあっても、素朴な環境においても、ユートピアを造ることはできるんです。そうしたことに成功した人がはじめて更に素晴しい環境の中において、もっと大いなるユートピアを築くことができるということです。その基本の原型はいつも一つだと言うことです。

――  要するに、ユートピアというのは現在ただ今の各人の心の世界にあるということに尽きるということですね。

荘子  心の世界にあり、心と心のつながりの世界の中にあるということです。

――  それが環境を変えても環境が変わった世界で同じような形で現われるということですね。

荘子  しかし、その心の中において先程も申し上げましたけれども、人生は経験であるということを申し上げましたけれども、あらたな経験を得るということが、また一層ユートピアに彩(いろ)どりを与えるということなんです。ユートビアはユートピアなんです。ただ彩(いろ)どりが変わってくるということなんですね。鮮(あざや)かなものになっていくということです。より壮大なものになっていくだろうということです。ユートピアというのは決して理想的な国家の建設ではないんです。心の王国の建設なんです。一人一人の、人の心の中に王国が築かれてはじめて神の国ができあがっていくんです。神の国は心の中にあるんです。人の心の中に神の王国はあるんです。地上的にあるんじゃないんです。人の心の中、心の中に王国ができてはじめてこの世界、この世の中、この三次元世界が神の王国となっていくのです。これを間違えてはいけないんです。


13.弁証法的発展とは新陳代謝、衣更えです


――  いま一つお伺いしたいことは、いずれの考え方に致しましても時代は進んでいきますが、いずれの考え方にしましてもその考えが永遠には続くものではない、弁証法的な発展を遂げていくのだという考え方が一つあるわけですが、正反合、正反合というこの弁証法の方式通り全て時代というものは変わっていくものだという考え方があるんですが。この弁証法的発展の法則というものに対する考えはいかがでしょうか。

荘子  それは新陳代謝という意味ですね。弁証法という言葉で言うから難しく感じるのであって新陳代謝ということなんです。同じ法であっても、同じ神の法であっても、同じ環境がいつまでも続くならば、それに倦(う)んでしまうんです。飽きてしまうんです。分らなくなるんです。そういう意味で新たな環境が出てきて新たな教えが出てくる。ですから弁証法と言ってもいいですけれど、それはある意味では、新陳代謝ということですね。

それはそうでしょう。木々にだって春があり、夏があり、秋があり、冬がある。若芽が芽吹(めぶ)いて、若葉が出てくる。そして繁り、そして秋になって紅葉(こうよう)し、冬になって落葉する。また春が巡ってきて若い芽が吹いてき、そして葉になり繁ってくるんでしよう。神様は一本の木でさえそのように仕組んでおられるのです。一本の木でさえそのような化粧をさせていらっしゃるのです。ましてや人間が生きていく上でそうした様々な教えの中で、いろんな彩(いろど)りを与えて下さるのは当然です。

――  まあそういうことがありうるということは肯定されるべきですね。

荘子  そうです。

――  たとえば孔子様のお考えに対する孟子様のお考えというのも、これ彩(いろど)りとして考えてよろしいのですか――。

荘子  そうです。

――  間違いがあったというわけではなくて……

荘子  間違いではありません。

――  そしてあなた様のお考えも老手様のお考えを更に発展させたというふうな考え方でよろしいのですか。

荘子  ま、いろんな教えはあっていいと思うんです。それはそうでしょう。あなた方の世界にはスーパーもあり、デパートもあります。デパートには、例えばいろんな衣料品も売っています。ネクタイというものも、何百種類何千種類売っています。ネクタイはネクタイという意味において一つです。これは神の法、神の法をネクタイという言葉で表すとするならば、ネクタイは機能としては一つですね。一つなんです。それはワイシャツにしめつけて、飾りにしているわけですね、それだけのことです。ただ何百種類ものネクタイがあります。いろんなネクタイがあるから、また日々が楽しいんじゃないでしょうか。毎日毎日同じ紺色のネクタイをぶら下げているなら人生は味けないものなんです。ですからネクタイをしめるということにおいては同じなんです。ただいろんなネクタイが用意されているということなんです。それは孔子様の教えもあれば老子様の教えもあるということなんです。で、ネクタイの好みというものは人によって違いますでしょう。ある人は赤いネクタイをいいと言っています。けれども、またある人は紺のネクタイがいいと言っています。ある人はまだらのネクタイ、ある人は格子縞(じま)のネクタイがいいといっています。この趣味は決められないですね。決してこの赤のネクタイが一番いいとは言えないんです。そうでしょう。決して紺色のネクタイがいいとはいえないと思うんです。それに、人のそれなりの好みがあるということですね。どれが一番素晴しいとはいえないんです。いいようがないんです。

孔子様的な教えに共感される方は、その方はその方でよろしいと思います。ただ私どもの教えもまた一つの教えとして考えてみてほしいということです。いろんな人にはいろんな悟り方があります。ですから悟りにもいろんな入口があっていいと思うんです。ですからね、神の光にもいろんな役割があって病気の人はまず治してしまうというやり方もあると思うんです。癒(なお)してしまえば健康体になります。――神様ありがとうございました。これから私は世の中の役に立ちます――。こういうふうな導き方もあると思うんです。これも一つの方法です。ただ病の中においても悟ることはできるという教えもあります。教え方はちがいます。ただ、そういったいろんな教えが必要だということです。その人にとって、すべて心霊治療によって病気をなおすわけにはいかないんです。


14.唯物論は三次元世界の外科手術に使われた


――  いま一つお伺いしたいんですけれども、その彩(いろど)りということは分るんですが、ここに一つの、現代の大きなイデオロギー、が思潮として表れた唯物論ですね。勿論これは誰の考えでもなくて神様の考えから発したお考えであろうと思いますが。こういう唯物論哲学というものが現れて、そしてそれが政治的な思想となって、そういう体制が生まれて、そしてそういう経済機構が敷かれるようになったということにつきまして、これはどういう神のお考えがあったんでしょうか。

荘子  その質問には、私は必ずしも適任ではないだろうとは思います。それはそうした唯物論を説いた方々と話をされた方がむしろいいのかもしれませんが、ただ唯物論自体が間違っているということは確かです。ただ、この三次元世界の中において、この三次元世界をうまく工夫することによって、すばらしい世界をつくろうとした。その試み自体は私は評価されるべきだと思っています。唯物論は間違っています。これは、はっきりと間違っています。唯物ではありません。霊的なるものです。この世界もまた。ただ三次元の中にね、あなた方宗教家たちというのは、四次元以上の力によって三次元を変えていこうとしておられますね。

そういう試みが大部分であったということです。宗教においては、他次元、高次元の人々の力を借りてこの三次元を浄化し、良くしていこうというのがその試みであったでしょう。ただそうしたことは非常に頼りにならないことが多い。いまこうして、OOOOの口を借りて私は明確に語っていますけれども、たとえば荘子なら荘子という人間の言葉なら、誰の口を借りて喋っても、――もっとも私は他には出ませんが――だが私の名を騙(かた)って出る霊だっているわけです。だから非常に不明確なものです。そうした不明確な高次元のものたちの声によって、この世を左右されるよりは、三次元の中でうまく工夫することによって、素晴しい世界を築いていこうじゃないかと、こういう考えが出るのは、至極当然なことです。ただ神が無いとかね、霊的なものがないというのは間違っています、しかし三次元の中で工夫をされることは間違っていません。それはそれで結構なことです。まあ、いわば外科ですね、外科手術のようなものだと思います。

――  そうですね。

荘子  唯物論というのは外科手術です。外科によって治していこうとすることですね。メスを入れてなおしていくということです。

――  これはまあ、現代において一つの試みとして終わったのでしょうか。大局としては。

荘子  どういうことでしょうか。

――  この主義なり、政治体制、経済制度、というものは現段階においては一応試みとしては終わったということでしょうか。

荘子  とはいい切れません。ただね、共産主義が全て悪いわけではないんですよ。共産主義が本当に悪いものであるならば、その中に住んでいる人はとっくに反乱を起こして心しているんです。しかしその中にいる人はこれで「是(よ)し」と思っている人も多いんです。何故でしようか……何らかの真理はやはりあるのです。その中において。やはり彼らから見るならば、自由主義諸国の中の一部の人間が、繁栄していくような姿、他の多くの弱い人間が虐(しいた)げられているような姿を彼らは見ているんです。それよりは、やはり平等な世界の方がいいと、思っておられるんです。これは自由と平等の問題です。どちらをとろか。どちらも大切です。平等も大切、自由も大切です。そういう意味においては自由主義社会の中においても、いわゆる共産主義的な考えも出てきています。共産主義の中にも、自由主義的なものが入っています。そして、そういった世界観がいま一つの方向へと動いていることは確かです。たとえばあなた方、今、自由主義社会を満喫しているように言っているけれど、あなた方の世界の中に、組合というものがあるでしょう。労働組合というものが、あるじゃないですか。なぜこんな唯物的な考えがあるのでしょう。なぜこんな共産主義的な考えがあるんでしょう。それが認められていますね。法規によって認められて現にあるんです。そういう意味においては共産主義はね。現在あなた方の体制の中でも生きているということです。また共産主義社会の中においても、彼らが反省する材料はどこにあるかというと、結局自由主義社会の中にあるということですね。ともに相補完するものがあるということです。ただどちらが神の意に沿っているかという結論はあるんです。それはあるんですが、ただ完全に間違っているものではありません。

――  まあ、互いに切磋琢磨(せっさたくま)する材料として提示されておるともいえますね。


15.自由主義、共産主義に代る「合」の霊知主義の到来


荘子  そういうことです。ですから自由主義においても決して神的なるもの、霊的なるものを認めているとはいえません。共産主義においても、神的なるもの霊的なるものを認めていません。こうした二つの体制があって競いあって、やがてこの後にですね、神的な国、政治体制、霊的な政治体制が生まれてくるんです。そういう意味においてあなたの言う、弁証法的発展ということも正しいんです。こういうものが出てきて、また新たな違うもの、その共産主義と自由主義を融合する立揚が出てくるんです。これは「神の国」という概念ですね。自由主義国家体制と共産主義国家体制、これを止揚(しよう)して、新たに統一するものは何か、それは「神の国」ということです。ユートピアということです。ユートピアという概念こそがこの両体制を統合していくものです。ともに共産主義国家も自由主義国家も、ユートピアを目指しているんです。その試み、方法論の違いなのです、ですからユートピアという概念において、新たな政治体制がまたできてくるでしょう。ただそれもいつまでも続くもんじゃありません。新陳代謝が必要だと私は申しました。新たなものが出てくるでしょう。少くともあなた方は現段階において、この時代に生きている以上はそうしたユートピア、共産主義、自由主義を、包摂(ほうせつ)するようなユートピアをつくっていかねばいかんということです。

――  我々の時間帯における任務というものは、その点にあるわけですね。

荘子  そうです。共産主義というイデオロギーがあります。また自由主義というイデオロギーがあります。これと違った新たなイデオロギーが出てきます。これは何かというとこれがいわば「霊知主義」です。霊を知るということですね。霊的な知識に基づくという、「霊知主流」というようなイデオロギーがこれから出てくるでありましょう。霊知主義に基づいて政治もなさねばならない。教育もなさればならない。こういった世界になってくるでありましょう。これからはそういう意味で「雲知の時代」であります。これから地上に神の国を創るというような大きな事業ですから、これはもう大変なことです。頑張ってほしいと思います。

――  これはしかし、大変な作業であって、とてもではないけれども、これは一人やニ人の仕事ではできる問題ではないと思いますけれども。

荘子  ただいつの時代においても核というのは少数の人間であったということです。これはまちがいのないことです。

――  今後このような事業に向かって私たちは一歩一歩前進していかなければならないのですが、これ、私たちの後に更に私たちを補佐し、あるいは補完していくような人々が現われてきましょうか。

荘子  というよりもあなた方が「核」となって、これからまた七色の光が出てくると思います。


16.今、最終の「救世法」を説く時


荘子  つまりあなた方の教えを「核」として、さらにそれを゛政治゛の方向に生かしていく人たち、゛経済゛の方向に生かしていく人たち、゛芸術゛の方向に生かしていく人たち、゛医療゛の方向に生かしていく人たち゛道徳゛の方向に生かしていく人たち、こうした専門家たちがいろいろと出てくるということです。

――  そうですか。

荘子  あなたも今、そういう意味では総合的な時代、全てのものを一つに統合する時代に生まれているということです。あなたが学んだ儒教も、あるいはキリスト教も、仏教も、すべて渾然(こんぜん)一体となった、そういった世の中に生まれて、渾然一体とした法を説こうとしておられるのです。

――  いろいろなご指導頂きましてありがとうございました。

荘子  まだまだあなた方は自覚が足りません。あなた方が説いている法というものは、これは、いわゆる、宗教の一分派ではないということです。これは「大いなる救世の法」だということです。いいですか。救世の法だということです、その規模において、その質において、かつてなかった最大のものを今、創(つく)ろうとしているんです。マホメットにおいても、その地域的な制約がありました。キリスト教においてもそうです。仏教においてもそうです。それらを全てを摂取(とりい)れた上で地球的な宗教をいま創ろうとしているんです。これは最終的な「救世の法」であります。

――  まあ、しかし最終ではなかろうと思いますけれども。また、これも弁証法にかけられることであろうと思いますけれども。とりあえず現代においては「合」の立場に入っておるわけですね。

荘子  現在においてあらゆる宗教の形態としては最終のものだということです。また環境は変わるかもしれません。宇宙時代が起きてくるでしょう。ただ現代、地球の発展してきた、地球の時代における現代においてはこれが最終の姿だということです。

――  その意味では、われわれは最終のチャンスに立っているということですね。

荘子  そうです。

――  これはまだ、この姿はもっと、もっと発展させなければならないという機会に立っているということですね。

荘子  宗教というのは今はもう片隅(かたすみ)に迫いやられているんです。書店に行けば様々な本が並んでいます。宗教のコーナーというのは片隅に追いやられているんです。これが本来の源なんですよ。それが今は片隅です。

――  そうですね。

荘子  特に好きな人だけがそういったものを読むというような片隅に迫いやられているんです。この片隅に追いやられているものを中心にもってくるということです。これがあなた方の仕事です。本来、科学するということは宗教するということであり、哲学するということも宗教することにある。政治するということも経済をするということも、皆な宗教をするということなんです。それが人々には分かっていないのです。

――  現象学ばかりに捉われているということですね……。

荘子  そうです。

――  いや全く長時間にわたって、深遠な真理を比喩をまじえながらやさしく、しかも友愛の情をこめてお説き下さってまことにありがとうございました。また機(おり)あらばなお種々の問題についてご示教願いたいと思っております。荘子先生、本日は大変どうもありがとうございました。