※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次














1.無為とは、「何々せねばならぬ」という計(はか)らい心を捨てること


老子です。今日は、私は無為自然(むいしぜん)の瞑想ということに関して、お話をすることになっております。この無為自然ということが、現代の日本人には、なかなかわからないであろうと思うのです。

まず、無為とは、何でしょうか。無為とは、字義どおり見れば、「為(な)さず」と書いてあります。では、なさずとは何か。

まず、「為す」、これについて、語る必要があろうかと思います。「為す」ということは、思いがあって、動きがあるということです。ある一定の方向を向いた思いがあり、それにつれた動き、行為があるということですね。

これが「無い」ということは、いかなることかと言うと、結局のところ、計(はか)らい心をまず捨てるということです。何々せねばならぬという言葉、「ねばならぬ」を捨てることです。

人間は、いつもいつも、何かに急(せ)き立てられているかのごとき様相(ようそう)を呈しながら生きております。いつも馬車馬のごとくムチ打たれながら、前へ前へと進むことだけが生きがいであり、一生の仕事なんだと、思っておるようです。

しかし、馬に乗りて道を急ぐことのみが、人間を幸せにすることではないのです。ともすれば、地上の人間は、幸福というものは、山のあなたの空遠くにあって、幾山河乗り越えゆかば、そうした幸福を手に入れることができると思っておるようです。そうして、山を越え、谷を越え、野を越え、川を越えて、幸福を探して歩く旅だからこそ、かくあらねばならぬという気持ち、かくあるべしという気持ち、かくせねばならぬという気持ちに、いつも追い立てられて、本来の自分の心のやすらぎというものを失ってしまっておるのです。


2.幸福とは既定されたものでなく、さまざまな人間が、さまざまな形で体現する


けれども、私は思うのです。つまり、幸福は山を越え、谷を越え、野を越え、川を越え、海を越えたところにだけ、はたしてあるのだろうかということです。そうではないのではないでしょうか。

幸福というものは、何かをせねば得られないものでしょうか。私は、そうではないと思います。ほんとうの心のやすらぎというものは、電車に乗って、目的地を目指しているときにあるんでしょうか。そうではないでしょう。

地上の人たちは、今一度立ち止まって、あなたが理想とする幸せって一体何かということを考えていただきたいのです。そのときに、決して他人の目とか、他人の言葉というものをあてにしないことです。自分がひとりでいて考えてみて、こういう人がほんとうに幸福だなあという人を、心のなかで問い続けていただきたいと思うのです。

そうすると、幸福というものは、実は既定されたものではなくて、さまざまな場に、さまざまな形で、さまざまな人間が、それを体現しているということに気がついてくるはずなのです。


3.幸福の原形は、何千年前も変わらぬような、素朴な生活のなかにある


たとえば、都会に住んでいる人たちは、良い会社に勤めて、いい収入をあげれば幸福なのかもしれないけれども、ある人は、どこかの田舎町で、大根をつくっていることのほうが幸福なのかもしれない。どちらの幸福が幸福として質が高いかと言われると、これは、にわかには判定しがたいのです。この世的にどちらが人気があるかと言われれば、もちろん、結論は出るでしょう。

しかし、きれいなビルのなかで一日を過ごすことが、はたしてほんとうに幸福かどうか。汗水たらして素晴らしい大根を一本をつくることのほうが、やはりほんとうは幸福なのかもしれません。まあ、私の幸福感は、どちらかと言うと、そうした自然のなかにあるんです。

今、地上では文明が発達し、科学が栄え、さまざまな人が、さまざまな楽しみを追いかけ、そして世の中はますます複雑になってきています。しかし、幸福の原形というものは、決してそうした高度に発達した社会のなかにはないのであって、千年前も、一万年前も変わらぬような、素朴な生活のなかに、やはりあるのではないか。

なぜならば、その理由を述べるならば、私たちのいるこちらの世界、実在界においては、まさしくそのとおりだからです。実在界の高級霊界においては、この世的な高度に発達した物事(ものごと)は何もないのです。なぜないのか。つまり、そうしたものは、彼らの悟りを妨げるからです。

如来界で飛行機が飛ぶこともなければ、電車が走ることもないのです。すなわち、そうした物事は、人間の本来の自由さを損(そこな)うためには機能し得ても、その逆とはならんからです。


4.本来のあなた方は、無一物のなかに、無垢(むく)で素朴な心だけが輝いている


本来、人間というものは無一物です。無一物で母の胎内から生まれ、無一物でこの世を去っていくのです。ところが、その入口と出口の間でさまざまなものを所有したがる。さまざまなものがあってほしいと思う。こうしたことで、この世的なる匂い、これをまとっていくのです。

私は現代の人びとに訴えかけたいのですけれども、どうかあなた方は、本来無一物だということを知ってほしいのです。お金を持って生まれたこともなければ、運転免許を持って生まれたこともなければ、時計もなければ、服もない。何も持たずに生まれて来ておって、何も持たずにあの世の世界に還ってゆくのだということを知ってほしい。そして、あの世の世界では、所有物は何もないのだということを、これを忘れてはならない。それが、ほんとうの人間の姿なのです。

ところが、地上の人たちは、その自分の幸福を、何を持っているかということを基準に判断をしてゆこうとするのです。自分が車を手に入れたとか。自分が家を手に入れたとか。土地を買ったとか。賞状をもらったとか。人より偉い肩書がついたとか。こうしたことで、自らの幸福を計っております。

しかし、いくら名刺に肩書を刷(す)り込んだところで、その名刺を持っては、あの世に来れんのです。生まれて来るときにも、名刺を持って生まれて来ないように、死んだ後に通用する名刺もないのです。結局、無一物なのです。無一物のなかに、幼な子のごとく、無垢(むく)な、素朴な心だけが輝いておるのです。これが人間の、ほんとうはすべてなのです。


5.人間の原点、人生の原点の探究こそが、無為自然の道である


この本来の幼な子のごとき、光り輝いている自分というものを生かしながら、日々を生きている人が、どれだけいるでしょうかね。現代人たちの多くは、偽(いつわ)りの自分のままで生きております。世間体(せけんてい)とか、他人の目というものを基準にして、かくあるべきという自分ばかりを追い求めているように私には思えます。

服を何枚も着ようとせずに、脱ぎ捨てていきなさい。そして、赤裸(せきら)なあなた方に立ち返っていきなさい。あなた方の原点がどこにあるかということを、常々探究する気持ちを怠らないことです。原点の探究こそが、この無為自然の道なのです。

つまり私たちは、ともすれば、階段を上がるかのごとき人生ばかりを想像しておるのですけれども、そうではなくて、私の原点、あなたの原点はどこにあるのか、人生の原点がどこにあるのかということを、まずはっきりさせなさい。

そして、その原点に立つ自分というものを思い浮かべたときに、そこには何ら飾りのない、あるがままの、善意のままの、真実のままの、美しいがままの、あなた自身があるはずです。その自分を一日も早く取り戻してゆくことです。


6.人間が真に目指すべき姿は、神のつくられた大自然の調和のなかにある


人間が手本とすべき姿は、実は大自然のなかにあるのです。大自然のなかで、植物たち、動物たちは、さまざまな生の連鎖をつくりながら生きております。この大自然の心を失った人間、これが地獄界をつくってきたのです。ですから、大自然のなかの心の原点を、もう一度確かめてみることです。

大自然は、神のつくられた大調和の世界なのです。その大調和こそは、ほんとうは人間の目指すべき姿なのです。そして、その大調和の姿というのは、努力して階段を上がって得られるものではなくて、本来の自分を見つめたときに手に入れることができるものなのです。


7.行雲流水(こううんりゅうすい)のごとく、あるがままの豊かな自分を心に描いて生きていきなさい


行雲流水(こううんりゅうすい)という言葉があります。行く雲、流れる水ということです。都会にいる人たちの多くは、もう何年、何十年と、雲が流れていく姿を見つめたことがないことに気がつくことでしょう。雲が流れていく姿を見つめることができる自分というものは、幸せな自分だとは思いませんか。その幸せを失っておって、どうして平気でおれるのですか。

あるいは、流水、流れる水というのがあります。小川のせせらぎの音は、小学生の低学年のときに、音楽の時間に歌を習っただけで、それ以降、小川の゛お"の字も見たことがなく、生きてはいませんか。流れる水のごとく執(とら)われのない自由自在な無邪気さ、奔放(ほんぽう)さを持って流れてゆきなさい。

行く雲のごとく、執われのない豊かな心でもって、流れていきなさい。何を労するのでなく、何を策するのでなく、あるがままに豊かな自分となって、流れる雲のように、流れていく水のように、そうした自分というものを心に描いて生きていきなさい。

川の水というものは、小川の水というものは、流れを速めようと思って速めたりはしていません。狭いところへ来れば、流れが速くなり、瀬になれば流れが速くなりますが、またゆったりとした大河となって流れていくこともあります。

空の雲は、目的を持っていません。日の光を浴びて、流れる風のごとく、行く先を知らずに動いていきます。こうした心、これは、本来の人間の無邪気な心なのです。天国に入るのは、これだけでも十分なことなのです。


8.思いのなかで、雲になり、水になり、風になって流れていきなさい


ですから、瞑想ということを中心にものごとを考えていくのであるならば、心のなかに、まず、その行く雲の姿を描いてごらんなさい。あなた自身は雲なんです。秋の空にポッカリと浮かんだ雲です。そうして、雲のごとく豊かで、包容力があって、やさしく、すべてのものを包み込みながら、ゆっくりとゆっくりと流れていきます。そこには、何のわだかまりもなく、何の憎しみもなく、何の怒りもなく、何の愚痴もなく、何の執着もありません。

あるいは、心のなかに、行く水、流れる水を描いてごらんなさい。自分が水になったと思って、せせらぎを流れていくつもりになってごらんなさい。そのせせらぎの音のなかに溶け込んでいく自分自身というものを考えてごらんなさい。

あなたは小川の水であり、水のなかにさまざまな生物を飼っており、また、生命のリズムというものを含んでいます。小川となって流れていく。澄んだ心、間違いのない心、執われのない、執着のない心。こうした心でもって、ただ流れていくのです。止まるところなく、どこまでも豊かに流れていく。何の計らいごともなく、何のこだわることもなく、何のひっかかりもなく、そういうひっかかりのない自分、執われのない自分というものを、ときどき心のなかに描いて、瞑想してごらんなさい。思ってみるということです。思いのなかで雲になり、風になり、水になって流れてゆきなさい。

あるいは、あなたは風です。さわやかな五月の風となって、この世の中を吹き渡ってゆきます。五月の風、それが吹いてくるとき、つつじの花たちは、パツと笑顔を向けて喜びます。そして、つつじの匂いを含んだ、五月の薫(かお)るような風が流れてくるとき、人びとは幸せを感じます。そのように、あなたは幸せをもたらす五月の風なのです。薫りのある、匂いのある、豊かな誇り高き五月の風。その五月の風となって、流れてゆきなさい。


9.雲・水・風になってみたとき、執(とら)われのない本来の自己を取り戻せる


このように、大自然のなかで住んでいくことこそが、ほんとうは人間にとって、大切なことではあるけれども、せめて、大自然に帰るための心の訓練だけをしてみるのも大切なことであろうと思います。

雲の瞑想、行く雲の瞑想、流れる水の瞑想。そして、薫る五月の風の瞑想。「行雲の瞑想」「流水の瞑想」「五月の風の瞑想」、雲となったり、水となったり、風になってみたりして、いろんな景色を楽しんでごらんなさい。

そのなかに、あなたは、自分が今まで一度も気がつかなかったような、素晴らしい世界の存在を、自分の魂の自由自在さを、おそらく感じ取っていくでありましょう。そのときに、何にも執われない本来の自己というものを取り戻して、永遠の幸せというものを得ることができるのです。ま、これが、私の無為自然の瞑想です。


10.胃腸の病、頭痛、ノイローゼを治すのは、無為自然の瞑想である


都会人たちは、とにかく心が波立っています。いらだっています。その原因が何かわからないままに、あせっています。そして、さまざまなストレスをつくっては、病気になっております。

胃腸系統の病気、頭脳の障害、精神の不安定、こうしたものは、ほんとうは薬で治るものではないのです。これらはすべて、感情の歪みから起きているからです。胃腸の病気を治し、頭痛を治し、ノイローゼを治すのは、この無為自然の瞑想です。この無為自然の瞑想によって、大自然に帰ってゆくとき、そうしたもろもろの障害はなくなってくるのです。

どうか地上の皆さんも、ときおり、この無為自然の瞑想をやっていただきたい。とくにこうした形が必要だということではありません。心を落ち着けて、豊かな気持ちになり、全身の力を抜いて、自分が空の雲となり、流れていく水となり、五月の風となるような、そうした瞑想をすればよいのです。これが、今日の私の「無為自然」の瞑想です。