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目次










1.地獄の最深部


エマニュエル・スウェーデンボルグです。私は本章で霊界の様子をできるだけ克明にお話ししたいものだと考えています。そこで、本日は「私の見た地獄界」ということで、地獄の様子と、こちらに来てから見聞したことを中心に話しておきたいと思います。

さて、地獄といっても俗に知られているとおり、ひじょうに広大無辺です。その広がりとその深さが、いったいどの程度あるのかはわかりません。というのも、この地獄界も、実は相当永い年月かかってできてきたものだからです。おそらく数百万年、数千万年、それ以上の年月をかけて地獄に住んできた多くの霊からの想念によって、できあがってきたものだからです。

それはまったく夢・幻のごときものかと言われれば、かならずしもそうでもないということになりましょう。実際にその世界に住んでいる者からいえば、地獄というものはまさしく実在のごとく感じられるものです。この世界以外の世界に行くことができないでいるのです。

さあ、話の切り口をいったいどこから開始したらよいものやら、私もまったく戸惑ってしまいます。しかし、なんらかの順を追って、この地獄の様子をお話ししないわけにはいかないでしょう。たいていの場合は、地獄の上層部からいくのでしょうが、私は最深部がどのようになっているか、という点から話を始めてゆきたいと思います。

まず、いちばん底のほうにはいったい何があるか、どのような世界があって、どのような人たちが住んでいるのか、これが多くの人たちの疑問でしょう。いちばん底にあるのは明らかに、これはもうサタンの巣窟といわれるようなところです。それはそれは大勢のサタンがおります。もちろん暴力団だとか、マフィアだとか、そうしたものも組織を特っているくらいですから、永い年月地獄をつくってきた彼らであるならば、それだけの配下をもっております。

この中心人物はルシフェルという名で呼ばれておりますが、この配下にはそれぞれの大きな魔王がいて、世界各国で支部長でもありませんが、ボスを置いて各国を治めさせています。その意味でひじょうに国際的なネットワークを誇っております。そういう支配体制を組んでおります。

そしてそれぞれのボスがまた、手下を持っているという形になりましょうか。その数は私も定かにはわかりかねますが、おそらく数万という数ではきかないぐらいの数がいるのではないかと思います。数十万、そのぐらいの数のサタンたちがいるのではないでしょうか。あるいは、もっと小さな手下たちまでいれると、数はさらに増えてゆくでしょう。

これらは、もはや地獄に住んでいることを、ひじょうに誇りといっては問題になりましょうが、開き直りに近い感じで意図的に棲息している霊たちであるといってもよいでしょう。その地上時代の生活がいったい何であったかは各人各様で、そう簡単にはわかりませんが、ただ、地上時代、多くの者たちはなんらかの力を持っている立場にあった、そういうことがいえると思います。

サタンの発生の原因となった職業を見てみると、おそらく宗教関係から出ている人が七割くらいはいるものと思われます。これはまちがった宗教指導をやって地獄に堕ちている人たちです。これ以外には政治家をやった人、軍人をやった人、こういう人が相次いで来ているように思います。なんらかの影響力を持っていた、そうした人が過去の姿として見うけられます。

ただ、通常の地獄霊であれば過去世の姿をそのままでとっておりますが、こうしたサタンたちになると、もう過去世の姿というものは見えません。そうではなくて、まったく変化した姿になっております。

こうした者が増えるのは、いつも新たな宗教戦争や宗教改革が起きたときとか、あるいは革命などが起きたときであり、こうしたときに大量のサタンが供給されるようになります。それは、生きている人のところへ行って、彼らを惑わし、地獄にひき連れて来るということが多いのです。そうした形で自己増殖をしているように思います。

さて、私はこうしたサタンたちの状態、形状についても話をしておかねばならないだろうと思います。もちろん各国に応じてその姿はちがっているようです。

たとえば、ヨーロッパ系統のサタンであれば、それは昔からの有名なスタイルをしています。いわゆる洋風の化け物の姿ですね。背中にはコウモリのように羽がついていることが多いです。身体は一種の爬虫類のようでもあります。暗黒色をし、あるいは青味がかった姿で、手の爪・足の爪などは、ちょうど何かの鳥か、あるいは爬虫類のようなものです。

身体にウロコが生えている者もおります。口からは大きな矛が出、目は赤色に燃えていたり、 いろんな色に染まっています。耳はたいていの場合とんがっており、なかには角が生えている者もおります。そうした姿を考えていただければけっこうです。

ただ、それは、攻撃的スタイルにおいてですが、通常時はいちおう人間の雰囲気を漂わせた衣服に身を包む場合もあります。そのへんは変幻自在であります。

どういうところに住んでいるかというと、ヨーロッパ系統のサタンたちは、やはりお城のようなものを根城にしていることが多いです。地獄の底にお城を築き、そのなかに住んでいて、そして窓からコウモリよろしく羽ばたいて出てゆく。そういうかたちをとっていることが多いように思います。

中国などへ来ると、その姿はまたちがったものとなっています。妖怪風ではありますが、多少東洋風の感じになってきて、懐かしい鬼の姿もあちこちで見うけられます。鬼の源流は東洋のほうにあるようで、いわゆる鬼という姿、これに近いものがあちこちで見うけられます。もうひとつは怪奇な様相をした仙人の姿のものです。

さて、では、日本ではどうかということですが、日本では、もちろん外国から来ている悪魔もおりますから、それについてはさまざまな姿をしていますが、生粋の日本の意識、サタンといわれるものは、だいたい二、三種類です。

ひとつは、やはり宗教家の態度であって、これは僧侶の姿をしていることが多いです。ただ、形相はたいへんな形相(ぎょうそう)をしていることはいうまでもありません。

もう一種類は、やはり武士が多いのは事実です。過去戦乱期を生きてきて、そして悪魔になった武士がだいぶおります。こうした者たちが、戦乱期になると人の心を駆り立てて、戦に戦にと追い立てるわけです。

三種類目は、やはり貴族であるとか、あるいは武家階級もいますが、政治家をやっている者たち、この三種類が中心であります。ですから日本ではそれなりの日本的姿をとっていると一般的にいえますし、死んだときの様相に近い格好をしていることも多いといえましょう。


2.宗教地獄の様相


さて、最深部ではそうした者がいるわけですが、この最深部にいる者たちは出撃をくり返しております。地獄の各層に飛び回って、あちこちでいろんな事業を展開しております。各世界に手下を持っていて、その手下によって教育をしている。自分たちの考えるようなことをやらせているということです。

そして、その手下を使ってやる地獄霊教育の最たるものは、とにかく人間の欲心というものを増大させる方向で動いている。これが事実であります。その欲心のなかの最たるものは、名誉欲、闘争欲、あるいは金銭欲、性欲、こうしたいわゆる執着といわれるもの、この類の欲ですが、これを自分のもの、自分だけのものにせんとする、そうした方向に彼らを指導しています。

けれどもサタンにはサタンの理論武装があって、この理論武装をどのようにいうかというと、「自由意志」という言葉でよく語っています。あるいは「お前たちは自由なのだ。」という言葉で彼らはよく語っています。

ですから、地獄霊たちを手なずける際に、宗教家のサタンであれば、宗教家のサタンとして説法をするわけですが、その際に、「よく聴きなさい。お前たちは、自由なのだ。まったく自由なのだ。神が創られた国であるから、そしてあなたがたは神の子であるから、何をしようとも自由なのだ。きみたちが求めているものは何でも与えられるであろう。さあ、なにが欲しい。欲しいものを叶えさせてやろう。」こういうことをいつもいっております。

そういう教えにふれた他の地獄霊たちは、その人の姿を見て、「これこそ光の天使だ」と思うようです。「光の天使だ。なぜならば彼は私たちを愛しているからだ。私たちが自由にやろうとしていること、それはすべて叶えてくださるとおっしゃる。そして、心のままに、自由気ままに生きてゆけばよい、自分の個性をのびのびと伸ばして、やりたいようにやったらよい、こういうふうに教えてくれるのだから、まさしくこれは救世の教えである。このように感じるようであります。

こうして数多くの地獄霊たちが、精神的に洗脳されてゆくようになります。支配されるのです。その理論に支配されてゆくようになってゆきます。

あるいは、そのサタンたちのなかでは、巧妙な者たちもいて、自分の姿を変えることになります。過去の有名な人の姿に身体を変えたり、なかにはイエス・キリストのまねをする者までおります。西洋のばうの牧師であって地獄に堕ちた者たちは、イエス・キリストのようになりたい、という気持ちが強かったものですから、みずからの姿を変身させることができることをいいことに、地獄のイエス・キリストをやっております。そういう者もおります。

「私はイエス・キリストで、天上界からいま、諸君らを救いに来たのだ」。ということから説法を始めて、いろんなことを諄々(じゅんじゅん)と語り、その間に聖書から得られた知識をさかんに織り込んでいるので、単純な地獄霊たちは手もなくそれにのせられて、彼をイエス・キリストだと信じ始めるようになります。

そして彼の扇動にのっていろんなことを始めるようになります。まず、この扇動にのりはじめると、「迷える人たちを救え」というような教えが始まります。そして、迷える人たちとは何かというと、地上に生きている人たちです。「彼らはひじょうに可哀想な人たちである。ほんとうの世界のことを知らないのである。だから彼らを守護してやらねばならない。」こういう言葉を聞いて、そして、守護霊になったつもりでこうした者が地獄から這い上がって、生きている者に取り憑いてくることになります。

この、にせイエス・キリストはさらにいいます。「人間の真実の愛とは、相手の欲するものを与えることである。だから、自分たちが守っている者が欲するものを、なんなりと与える方向で指導してやれ。」このようにいうのです。

そうすると、その憑依(ひょうい)された者が、異性の虜(とりこ)になっていればますます異性の虜となってゆく方向に指導し、お金の虜となれば、ますますその虜となってゆく方向に指導し、名誉心の虜となれば、その方向に指導し、勢力欲・拡張欲の虜になっている者にはますますその虜とする、そのようなかたちでいろいろと狂わしてゆきます。

また、宗教家などにとりいれば、その宗教家がひじょうに名誉心や自己顕示欲が強いと、この部分に攻め込んでゆきます。そして甘い言葉で彼らの心をくすぐり、満足させる方向でやってゆくようになってゆきます。こうしたものなのです。これは一見ひじょうに巧妙で、地獄霊たちも自分たちは本当によいことをしている、と錯覚していることが多いのです。生きている人たちを導いているつもりでやっていることがあります。こういう地獄宗教というものも、現にあるのです。

そしてこうしたものが大量に入り込むと、地上にある新興宗教などは混乱を起こしてゆくようになります。集団的にそうした悪霊の巣窟になってゆくことが、多いといえましよう。こういう意味において私たちは、ひじょうに思想というものは怖いものだ、恐ろしいものだということを感じます。ほんの紙一重のところでちがってゆくのです。

ただ、言えることはこの悪魔たちがそそのかすものには、いつもひとつの傾向性があるということです。それは本人の欲得に訴えかけるということなのです。かならずそうです。本人の欲得に訴えかけてゆきます。

ですから、彼らがいちばん苦手としている人は、欲得のない人、利己主義者でない人、謙虚な人、いつも反省をしている人、いつも神に祈っている人、こうした者がいちばん苦手で、取り憑きにくいのです。とくに祈りなどにおいても、自分の利益のための祈りをやっている者は割合とり入りやすいのですが、神に感謝の祈りをいつも捧げているような人はなかなか近寄ることができません。

また、謙虚に生きている人、反省で生きている人、こんな方にも近寄れません。ちょうどその人のまわりには、淡いオーラのようなものが出ていてそれ以上近寄れなくなってくるのです。近づいてもどうもいづらくなる、こういうふうになってゆきます。ですから彼らがいちばん嫌がるものはまさしくそこにある。宗教家が過去何度も地上に出ては、心むなしくすること、欲を捨てること、反省をすることなどを教えてまいりましたが、これはまさしくサタンたちのやっていることを防ぐ意味でも大きな意義があったわけなのです。

およそ思想のまちがいというのはこういうもので、ほんの紙一重といいますか、ほんの少しのところでちがいが出てきます。しかし、それでも弁舌さわやかで人をだますのがじょうずな人であれば、やがてその方向に人びとをまきこんでゆくことができます。

また、軍人出身、日本であれば武将といってもいいでしょう、そうしたサタンもおりますが、こうした者たちは、いつも兵士や、あるいは武士たちを集めて戦争をやっております。そして、それなりのひとつの理想を持っているらしくて、その実現のために戦を起こしているのです。

私たちが人殺しをするのは、決して自分たちのためではない、世の中を変革してゆくためだ、あるいは世をたてなおすためだ、天下統一のためだ、こういう言い分で、兵をおこして、いつも戦をやったりしております。

これもまた地上で戦乱のにおいがし始めると、集団でそうした世界に取り憑いてゆきます。そして、狂わせてゆきます。ですから、いろんな戦争がありましたが、最近でもありましたでしょうが、そうしたときに、軍人や軍部の首脳のなかに、かつて戦国時代などに戦った武将からの悪霊が、次第しだいに入り込んでゆきます。そして、闘争心・征服欲をかりたてて、自分たちの昔の恨みや怨念をはらそうという傾向が強いのです。

このように地獄の世界といわれても、ほんとうに悪いことをしていると思っている者は少なく、じっさいは自分たちはほんとうにすばらしく生きている、と思っている人たちが多いのです。そうした人たちの思想を変えるということは、きわめてむずかしいです。そして彼らは、つねになんらかの意味での自己合理化といいましょうか、意味づけをやっております。

愛というものを自分なりに解釈してやってみたり、あるいは天下統一というような美名のもとに戦争をやってみたりするのです。


3.色情地獄の様相


また色情系統の地獄というものもあります。これもよく知られております。ここに来ている人たちも自由の賛美者であることがひじょうに多いのです。そこで指導しているといいましょうか、中心人物をやっている人なども自由の賛美者です。

そして、色情地獄などで、みな裸で生きているわけですが、「私たちはルネッサンスの時代に生きているのだ」といってみたり、「古代ギリシャの時代、ギリシャの美を今復活させるのだ」、こういうことを懸命にいっている者もおります。

「肉体の美を発見せよ。肉体の官能のなかに芸術のすばらしさがある」、こういうことを吹聴しております。この世界のなかにも一部の文学者や、芸術家たちもかなり来ておりますので、彼らが理論的に指導しているのです。

文学者のなかでも、こうした欲望もの、セックスものを中心とした文学を書き続けていた者もいるでしょうが、ほとんどまちがいなくこの色情地獄というところに来ております。そして、そのなかでのリーダーとなって扇動しています。どのように男女の愛を実践するのがもっとも芸術的なのか、美しいか、こんなことをやっておりますし、最近私が見てきたもののなかには、映画監督のような者もかなりおりました。

地上でポルノ・ビデオであるとか、ポルノ映画であるとか、こういうものを一生懸命撮ってきた写真家、あるいは映画監督、こういう者もみごとに色情地獄に堕ちているわけですが、おかしなことに、そこでもまだビデオを撮っているのです。これはいろんな男女を集めてさまざまな絡み合いをさせ、それをビデオに撮っているのです。

本人はビデオで撮ったり、あるいはカメラで撮っているつもりでいるのですが、私たちの目で見れば、手に握っているものはまったくちがったものを持っているのです。石ころをかかえたり、あるいは木の根っこを持って、それで自分たちはカメラで撮っているつもりでいるのです。ただ、それが本人にはカメラに見えたり、ビデオに見えたりしているのです。そういうことをやって喜んでいます。

そして、美しい官能の世界を描いた気特ちでいます。あるいはある者は自分は芸術家だと称し、画家だと称し、そして裸婦の姿こそ世界でいちばん美しいのだといっております。そして、通りすがりの女性をつかまえては暴行し、そして裸にしては絵を描く、こういうことをくり返している者もいます。芸術という美名のもとに、すべては許される、このように考えているようであります。

およそこういうものであって、地獄の世界というものもまったくの狂気というよりはこの世のなかにもそれなりに、なんらかの理由によって存在を許されている者が、そのなんらかの理由というものを自分に都合よく強調しすぎて、あの世に持って来るということがいえましょう。

この世においては、その意志の部分、意図の部分がまだ小さかっととしても、あの世の世界、霊の世界に行くと、それが拡大されてくるのです。拡大されて、もっと大きなもの、もっとはっきりしたものにすべてなってくるのです。

こうした色情地獄も、有名な血の池地獄というようなところもありますが、それ以外、もっと近代的なところがいくらでもあるのです。劇場であったり、あるいはホテルのようであったり、あるいは温泉宿のようであったり、こういういろんな場面のなかで色情地獄が展間されているわけですが、それは本人たちにとってはひじょうに憩っているような、そして自由であるような、喜びであるような気持ちでいるのです。

ただ、惜しむらくは、そうした性的行為に夢中になっているときに、本来の人間性を忘れ、人間の魂の尊厳をどこかに置き去りにしているということなのです。そして、本人たちは、ひじょうに美しい肉体というものを追いかけているつもりでいるわけですが、これは私たちの目から見れば、男女共にたいへん醜悪な姿に見えるのです。

男性は身の毛も上だつような、いわゆる、なんといいましょうか、色情漢といえるようなものになっておりますし、女性もそのようになっております。この色情地獄の近くに動物地獄、畜生道というものもありますが、そこなどへ行くと、姿がもうほかの動物に変わってしまっている者もいます。もとは人間であったにもかかわらず、ほかの動物に変わってしまっているのです。

たとえば蛇、大蛇というものもあります。雄の大蛇、雌の大蛇、これらの絡み合いというものを、みなさん想像したことがあるでしょうか。彼らは意識においては人間ですから、男と女が、絡み合っているつもりでいるのですが、はた目に見れば、それは雄と雌の大蛇が絡み合っているとしか見えないのです。そのような鬼気せまる姿が展開されています。


4.動物界の様相


あるいは色情地獄に浮かんでいる者たちも、その姿が今度は畜生道のほうに近づいてくれば、豚のようになっている者もいます。雄の豚と雌の豚が、たがいに相手を求めて追いかけあっている、こんな姿が見られます。あるいは、雄の犬、雌の犬、こういう姿になったりしています。まことにあわれですが、その心の傾向性にいちばん近い獣に変わってくるのです。そういう姿があります。

この畜生道は、もうひとつ別なところからも影響があります。それは先ほどいったサタンとも関係がありますが、宗教界でのまちがいともかかわっています。

たとえば日本というところでは、稲荷信仰というのがひじょうに強いようですが、日本の僧侶で、そして多くの人をだましてきたような方、こういう者はあの世でも、本人は僧侶を続けているつもりでいるわけですが、いつのまにか姿は狐の姿に変わっている。そして、自分が稲荷大明神をやっているような気分になる、こういう者もいるようであります。

西洋のほうでは、もっとはっきりした動物界もあります。日本では稲荷、狐でありましょうが、西洋のほうではもっとちがった動物もよく出てきています。たとえば狼男というものが伝説でいわれておりますが、ああいうようになっている者もおります。

それから西洋に多いのは、吸血鬼伝説というのがありますが、あのような形で、やはり人の心を襲っている者もおります。ああいう吸血鬼の姿をしている者もたしかにいるようです。

もちろん霊ですから、牙をたてて血を吸うというわけにはまいりませんが、気分としてはそういう気分で人びとの心にくいいってゆく者、これはおります。こんな姿をとっている者もおります。

また、それ以外の世界においても、ずいぶん恐ろしい世界が展開しております。特に多いのが暴力に訴える世界です。叩く、殴る、蹴る、こういうやくざの世界というのはこちらの世界にもあって、そういうところではいつもだれかが追いかけられています。追いかけられ、追いかけています。

そして、みんなで殴る、蹴るということをくり返しています。これは地上の人たちも、夢のなかで体験されたことがおそらく多いと思います。これは、比較的地獄でも上層部といいますか、浅いところの地獄であるので、生きている人でも睡眠中に肉体を抜け出して来ていることが多いのです。

この世界に来ると、よく記憶される内容としては、やたら追いかけられる、命を狙われる、そして襲いかかられる、こういう体験をするようになります。こういう夢、悪夢を見た方は、数多くいらっしやることと思います。これはこういう暴力の世界です。これを見て来たということなのです。


5.地獄界の二つの法則


この地獄界というものは、いろんな世界がひろがっておりますが、そこに共通しているものは、二つの法則であるように私には思えます。

ひとつは、それなりの論理をかならず持っているということ。自己欺瞞をするためのなんらかの説明がかならずあるということ。もうひとつは、その人の思ったとおりの姿、心の傾向性どおりの姿をとるようになっているということ。この二点です。これはどこに行っても共通しているようです。

そして、まことに不思議ですが、心の傾向性が変われば、その外見、形状が変わります。それだけではなく、住む世界もやがて変わってゆくことがあります。地獄では比較的浅いところに住んでいても、そこで大ボスをやって、次第しだいにその悪の部分を伸ばしてゆくと、ある日を境にもっと下の世界にストーンと落ちてゆくことになります。そうすると、地獄の世界では一種の神隠しであって、その人がいなくなるということになるわけです。

あるいは逆もあります。比較的深いところに住んでいたけれども、だんだん嫌気がさしたり、あるいは本人が悔いることがあったりして、そしてもうすこし別な世界を求め始めたときに、心境が変わって、一段上のところにあがってくる、こういうことがよくあります。

たいていの地獄霊たちは、住む世界が変わると、たがいに接触ができなくなってしまいます。ただ、サタンという連中はひじょうに地獄の地理に明るく、いろいろなところに出没しております。

あえてこの世界を視覚的に表わすとするならば、やはり洞窟のような暗いところを下って行く、そういう石段を下って行くといろんな地獄界が次つぎと出てくる、こういうふうになりましょうか。全体にうす暗く、そして最深部に行けば行くほど、漆黒の闇のよになっています。

さて、地獄の世界には、これ以外の変わった世界ももちろんあります。それは、まったく孤独な世界です。こういう世界があります。砂漠に独りでいるような、そういう孤独地獄というものもありますし、それ以外の世界においては、たとえば同じような孤独地獄であるのですが、もう自分が身動きができないような地獄もあります。

ちょうど沼地に生えている葦か、あるいはヨシのような植物になったような気分になって、動かずに埋もれている、こういう者たちもいます。私の目から見ればそれは、葦やヨシのように見えるのだけれども、よくよく見てみると、それぞれに顔がついていて、実は人間だということがわかります。

こうした者たちは、深い罪の意識にとらわれ、もう人間との接触を断ちたいという思いが強く、そして孤独な世界のなかにひきこもっている者たちです。


6.正しい信仰心の必要性


さて、では地獄という世界はもうどうしようもない世界なのかどうか、これについて考える必要があるでしょう。

たしかに、この広大無辺な世界、そしてそれぞれに独自の論理や、思想を持っている人たちが住んでいる世界で、彼らを説得するということは、きわめてむずかしいことであるのは事実です。

私たちがそこへ行って、光の天使だといったとしても、にせキリストが出回っているような世界ですから、まったく逆にされてしまうことが多いのです。私たちこそが地獄のサタンだといわれてしまう、こういうことがあります。

彼らは地獄のサタンだから気をつけなさい、口のうまいことをいって、そして私たちをどこかに連れていって、監禁するつもりらしい、あるいは食べてしまうらしい、こういうことが言われるのです。なにが真であり、なにが偽であるか、これがまったくわからない世界、それが地獄界といってもよいでしょう。

こうしてみると、地獄界の迷妄をはらすためには、いちばんたいせつなものは何であるかというと、真実を知るということだといえましょう。しかし、こうした世界のなかにいれば、何が真実であるかさえわからなくなってくる、そういうことがあるのです。

何が真実であるかさえわからない、いったい何を信じてよいのだかわからない。それゆえ地獄をつくっているものは、実はなんであるかというと、神理への無知、これがひとつ、それと神への信仰の欠如です。この二つの柱が明らかにあるように私には思えます。

神理をまず知らない、ほんとうの神理とは何かを知らない。そして、その神理の一片をかじっていても、それを自分流の勝手な解釈をして、まちがったふうに実践している。これがひとつですし、もうひとつは根本的に神を信じていないということです。

地獄のなかにも、偽物の信仰をやっている者たちはいます。そのなかに生き神さまや教祖がいて、その教祖の説く神を信仰している者たちも結構いることにいるのですが、いかんせん、彼らの説く神は欲望の神であって、どうしてもほんとうの神とはちがっています。

そして、このなかに、地上に生きてきて、まちがって地獄に堕ちた人たちが数多くいるという現状を考えると、この広大無辺な世界にただ独り投げ入れられて、ここから脱出するということはかなり困難であるといえると思います。まわりの人たちの思念、想念の世界から逃れて自分独自の道を開き、そして悟っていくということは、これはきわめて困難なことです。

師もおらず、また参考にするものもなく、どうするわけでもない。このような世界でどうやって真実の光の道に入ってゆくか、きわめてむずかしいことです。これを考えるに、やはり生前になんらかのほんとうの宗教というものにめざめて、そして、信仰を持っているということがだいじです。この信仰を持っていれば、その正しい信仰を続けることによって、やがてその宗教団体における守護霊団、指導霊団たちが救いの手をさしのべてくれることがあります。

これを、そうした信仰心なく独力だけで地獄を出ようとすると、かなりのむずかしさ、困難さがあるといえましょう。それゆえに、生前に正しい教えが多くの人によって信じられることが、だいじであると思うのです。