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目次















(1986年1月1日の霊示)

1.私は゛天台智覬゛と魂の兄弟


―― 木戸孝允先生の招霊を行う。――

木戸  ――木戸です――

善川  木戸先生ですか、私ども今回明治維新の元勲方をお招きし、以来百年を経過した日本の国のこれからの政治、教育、文化の進むべき方向についてそれぞれご指教を頂いたのですが、先生からも何かご指導を頂けますならと存じますが、よろしくお願いいたします。

木戸  ――わかりました。私は他の方々とは違ってあなた方の仕事に関しては既に承知しているものです。ということはかつて「高橋信次」さんを指導したこともあるということで「正法」そのものに関しても私自身はかなり知識を持って居るつもりです。私はあなた方の所に既に出た「天台智覬」といわれる方、この方と私とが魂の兄弟なのです。

私はたまたま政治家としての役割を担って近代日本に出ましたけれども、これは既に高橋さんも述べておられたように将来このような形で日本という国に゛正法゛の伝道がなされることが予定されておりましたから、その前の土台造りということで私も政治家として日本に生まれ、そうして将来のそういった宗教的な開花の土台として政治家として、まず生まれたということです。

ですから私自身の生涯が、あなた方や、あなた方に続く者達の土台造りであったということです。ですから私に対してはまあ単に明治時代にどうこうしたということの関心もあるかと思いますが、そういったこと自体は、私の意識からは非常に遠いものと今ではなっております。私自身はあなた方同様、゛神理゛伝道のために地上においても、またこちらの世界においても日夜活動しているものであります。

善川  ああそうでありましたか、そこでまあ私どもご承知のように現在のところ各聖賢方よりいろいろのお教えを賜わってこれを自らの心の糧として学んでいると同時に、これを書物として刊行し、広く世の人びとに訴え、゛神理゛の普及に努めて居るものでありますが、そういう目的を持っている私どもに対しご指導して頂くという意味から、先生のお考えなりまたこれからの私どもに対するアドバイスということも兼ねてお願い出来れば幸いと存じますが……。


2.日本におけるスピリチュアリズムの流布は画期的事業


木戸  そう恐縮されることもないのであって、もう私もあなた方の指導霊の一人に入れて頂いていいような立場にあります。ですから「日蓮」さんとか、他の方に聴かれるような気持で、私に接しられたらいいのだし、特に近年の日本に生れたからかなり感覚自体はあなた方に近いものがあると思います。

特にまず述べておきますと、今あなた方はこのような形で、書物の出版ということをされておりますけれども、この方向は非常に今いい方向だと思います。いろんな形で宗教を説かれた方は多いと思うのですけれども、あなた方は、まあいわばスピリチュアリズムですわね、こういった形で現代において、日本において、スピリチュアリズムをまず広めるということをやっておられるわけですから、これは興味深いことであるし、また話の内容自体が、私達明治維新の人間達も特集するということですから、単に宗教家の集まりばかりでないわけですね、そういう意味において非常に画期的な考えだと思います。


3.明治の私は天の計画樹立のためのアンテナ役


善川  そこで先生が出られました明治の時代のお役割と申しますか、そのことを若干お話し願いまして、今後の日本の進み方ということについてご指導願えたらと存じますが……。

木戸  まあ明治のことといいましてもね、天上界でも勿論計画はありましたし、地上界には諸如来、諸菩薩沢山出ましてですね、さまざまな力が合わさって一つの動きにになったわけですが、また地上界にもですね、アンテナを張っておく必要があるということで私なんかが選ばれて地上界へ出ていったというわけです。ですから私自身はそれ程大きな仕事をしたとは思っておりません。私のやったことというのはまあいわばアンテナです。この三次元の世界にアンテナを張るために降りて来たというような役割ですね。で、仕事自体はそれ程大きなことはやっていないと自分では思って居ります。むしろそういうことではなくてね、私が三次元に降りて行って、まあ天上界からもこの三次元の動きというのは勿論見えるのですけれども、次元が違いますから感覚が違うわけです。例えば、天体望遠鏡でお星様を見ているような感じですね、そういう感じで見ているわけですから、実際に行って肉を持ってですね、その場に接し、雰囲気を感じとるというのとではかなり違うわけです。そういう意味では私が肉を持って明治の時代に生まれまして、そうして還えって来ましてですね、天上界において、いま日本はこういった状況にある。環境にある、雰囲気にあるということを伝えて、゛正法゛伝道の計画を練ったということです。ですから私が肉を持って出て帰って来てからまた゛高橋゛さんがこの日本に出ること、またあなたや、あなた方ですね、あなたとか、こういった者達が地上に出るということの計画、相談にあずかったその本人でございます。最近の日本の現状を話した上であなた方が、この地上に出ていくということ、そういったことを計画したわけです。

善川  そうでありましたか……。

木戸  まあ私が、どちらかというと斥候ですね、斥候というのがありますけれども、まあそういった敵状視察ではないけれども、そういった役割をもってアンテナの役割で降りたというわけです。ですからあなた、私を全然ご存知ないような顔をしておられますが、私とあなたというのは、天上界においては非常に親しい友達なのです。よく話もしたし、あなたが大正に生れる前には、私と毎日話していたのです。こういった行動計画についてはね、ずい分話をして居られたのです。あなたはね、あなたのお友達の一人ですよ、私は。

善川  そうですか、哀しいかな、肉を持つとすべて忘却し、記憶からはいっ時でしょうが抜きとられてしまいますものですからこれは何んとも致しようございません。

木戸  まああなたが還って来られるとね、まあ私とか、日蓮さん、天台智覬さん、こういった方々とまあ友達だということです。で、私らと一緒に話したりするようになると思います。

善川  私はどういう巡り合せか近々七百年かそこらの間毎に地上に出生して来ておりますけれども、これは私自身の希望でこういうことになっているのでしょうか……。

木戸  その通りですよ、あなた日蓮さんの弟子として生まれているし、その前には中国で真言密教の八祖中の第五祖として活動していますはね、その前にも五、六百年置きに二回程生まれて来ておりますね、なぜそんなに何回も生まれているかということに疑問を持って居られると思いますけど、これはね、あなた自身の性格に基因しているのです。あなた苦労性でしょう。苦労性というのは逆に私たちからみるとね、使い出があるのです。苦労性の人というのはね、自ら買って出るくせがあるわけです。ですから大体この三次元地上界において修行するというのはね、これは苦労性でなければできないんですよ。皆さん天上界においてもですよ、自由満喫しておられる方々というのは出たがらないのですよ。私らの仲間になるとね、もうやはりカルマとかね、生まれ変りなどという法則性で生まれ変るのではないのです。もう相談して自分らの意志で決めるんですね、あなたにしてもそうですし、私たちにしてもそうですけれども、もう自分達の意志で決めるんです。出ることは、だから一般の人の何年おきに生まれ変るとかね、そういったこととはずい分違っているわけです。あなた自身はまあ要するに仏教、仏法の伝道ね、やり足りないということですね、中国でやったけどまだ足りないと、日本で鎌倉時代にやったけれどまだやり足りないと、まだやりたりないということですね、あなた自身が希望しておられるし、またそういうふうな、苦労性の性格をして居られるということなのですね。

善川  そうですか。その苦労の仕方がいささか時間がかかり過ぎ、この齢になって漸く本道の苦労に入ったような気が致します。法、流布のために働く時間の少なくなったことをまことに残念に思っております。


4.批判に耐え得る実績を積め


木戸  まあそれはね、後、現象界で何年になるか知れないけれど、帰って来られたらね、私どもとまた膝詰で話しさせて頂くけれども、善川三朗、生誕期の計画と、実績、ということでね、予想実績との対比ということで、反省会やらせて頂くつもりでおりますが、さあその時、あなたが頭を抱えないか見ものですね――。

善川  まあしかし、今日そのようなシステムを知ることができました現在、もう後、どれ程の時間が与えられているか知れませんが、粉骨砕心と申しては古い言葉になりますが、全力投球で残された時間を効率の高いものとして果たしたいと考えております。

木戸  まあ眼が見えてね、手が動いて字が書けるうちはですね、こうした書物の出版を中心に頑張られたらいいと思います。それでね、まあ人間ですから肉体勿論衰えますね、眼も手も動かなくなることありますけれども、そういった時には相談役としてね、よき相談役としてのね、仕事をやられたらいいと思います。まあいつまでも書物を書くということは出来ないでしょう、身体も大変ですから、ただ相談役としてはね、やっぱり何歳になってもやれるものですから、後それで頑張って欲しいと思います。後は気力ですよ、だからまああんたはっきりいうならば、自分の計画に比較してみるならば、まあちょっと実行がもの足りないという悔みがありますわね、まあこれはご自分もそう思われるし、私達も思う。だから出来るだけですね、後、執念深くですね、言葉は悪いけど、執念深くこの世に止どまってですね、少しでもお釣りを返して行くようにして置かないと還ってきて、いろんな方に叱られますからね、今のうちに少しでも執念深く止どまってね、やっぱり一つでも多くの仕事をしてくるということが肝心ですね。

まあでも考えてみなさい。さあ桂小五郎、木戸孝允の事業と、さああなた、まあ善川三朗という名前ですわね、それでやっている事業と、まあこれが比較されるわけですよ。まあ桂小五郎、維新の三傑かなんかになっていますけれども、さあ私がやって日本の国の人びとに役に立ったことと、あなたが善川三朗という名前でやって、日本の国の人びとに役に立ったことと、まあこういったことが比較されるわけですね、まあ必ずしもその人の業績だけが比較されるわけではなくて、影響力とか、その他、あるいは後世に残ったものとかね、いろんなものがあるから一概には言えないし、私自身の生涯を見れば、明治の一時期には確かに役には立っていますけれども、じゃあ以後には何か残したかというと、以後に残した程のものはないと言えますね。ただ土台にはなっています。もちろん日本の国の土台にはなっています。けれども、以後に何か残したかというと残していない。ではあなた自身はどうかというと、まあ日本の国の土台になるようなことは今までのところやって来ていない。ただ以後に残るようなことは残されようとしている。だからこれがね、神様の眼から見て、さあどっちの方がよく頑張ったかということになるんですね――。

善川  まあその比較の問題は、われわれとやかく考える問題ではないと思いますが、何れにしても与えられた役割というものが明らかにされた以上は、その役割の目標に向って驀地(まっしぐら)に進む以外にはないと思っておりますので、今後とも、目の見える限り、手の動く限り書き通したいとこのように考えております。またアドバイス戴きましたように将来目も見えず、手も口も動かなくなった場合にはまたそれはそれなりの仕事が与えられようかと思いますので息のある限りは努めたいと考えております。

木戸  まあメドとしてはね、七十歳ぐらいまではまだまだ書けると思うのです、ある程度まではね、目も手も多小は動くでしょう。七十くらいまではまあ速度はね、書物を書く速度は多少遅れるかも知れないけれど、書物など書いたりしてね、また、あなた方はやがて大きな団体出来て来ますからね、そういう時にほかのとこがやっているようなこと、真似るわけですよ、機関紙というか、月刊誌みたいなものをどうしても作るようになりますのでね、そういったものに載せるとかね、やはり編集したりするのにどうしても努力して貰わねばいけなくなると思います。まあ七十くらいまではそういった読み書き出来るでしょう。七十過ぎたらちよっとね、身体にはえらいですからあとは相談ですね、いろんな人の相談に乗ったりしたりするようなときにね、アドバイスしたりするようなことはできます。これは政治家見たってわかります。七十過ぎて矍鑠(かくしゃく)とやっていますから、まあ講演なんかきついかも知れないけれども、人びとの相談に乗ったりすることはできるはずです。で、その頃にはね、あなた方の創られた団体も、いろいろな支部なんかも出来ていますから、あなたが七十になられる頃には、もう支部が一杯出来ています。勿論、東京支部、大阪支部ね、九州にも福岡支部、あるいは北海道にも札幌支部ができているでしょう。名古屋支部も出来ています。勿論四国にも出来ています。このように日本各地に支部が出来ていますから、あなたの仕事は、まあ一般の人と話しするというよりは、こういった支部の方々を指導するというような仕事におそらくなってくるでしょう。そういったね、指導者養成のための先生にあなたはなられると思います。そういったお仕事が残っております。

善川  わかりました。

木戸  ただね、いまのうちは肉体を使えるうちは肉体で奉仕するということです。メドとしては七十までは、ある程度執筆で頑張ること、目の見える限り手の動く限りはね、それ以後はね、そういった方の精神的な糧になるようなアドバイスをして生きて行くということですね。

またお還りになる頃は、私またお呼びしますから、それまではね、お呼びがかかるまでは心配ないですからね、あなた方は、ハハ……まああの世の幽霊さんか、亡霊さんかしらないけれども、お招きする人が直接出てきておしえているんだから、お招きする時はちゃんと声をかけますから、声のかからないうちはお呼びないですからご心配なく、今のところ七十以降まではね、お仕事あること言って置きます。で、お迎えの時にはね、ちゃんとお迎えに上がりますから、それまではね、この世でね、住みにくいけれど、あなたよく生まれ変る人だからね、も一回生まれたくなかったらね、早目に今のうちにね、どんどん仕事されておくに越したことないですよ。だからお呼びがかかるまではね、あなたはまだまだ寿命がありますから仕事やって下さい、安心してね……。

善川  わかりました。ときにお尋ねいたしますけれども、現在出ている新興諸宗でも、われわれが見て良心的だと思われるような団体がいくつかありますが、こういう団体との関わりというものはどういうことになりましょうか――。


5.過渡期の宗団にはそれ自体の意義がある


木戸  そういう宗団は宗団でいいのです。過渡期の宗団というのは何時の時代でもいるのです。ですからね、これからはあなたや、それからその後に続くものたちの時代が来るということです。決してあなた方の力だけではありません。けれどもね、これから中心をなしていくのはあなた方の力だということです。よいですか、事業は大きいですよ。かなり、高橋さんがやれなかったことをやらなきゃいかんということですよ。高橋さん自身は、そりゃもちろん偉かった人ですけども、彼の計画自体がああいった露払いの役割りですから、地上に本当の意味での正法神理というのが消えてしまっていたから、まず種蒔きにあの人は降りられたのです。種を蒔きに降りられたのです。種自体はもう蒔かれました。ただあなた方がね、これからこの苗を育てて、大木にしていくという作業ね、大木にする人はあなた方なんです。これを一本の樫の樹にしなくちゃいかんということですね、これはあなた方の仕事、これは大きいですよ――。

善川  ここでいま一つのS教団というものとの関係はどんなものでしょうか。

木戸  これもあなた方もご承知のように教祖のTさんも亡くなられて、まあ二代目の方がやっておられますけど――、教団としては大きいですからそういう意味で教団の維持自体はしばらく残っていくでしょうけどね……、しかし、彼らが居るということは、あなた方にとっては希望だということですね、やはりそういった先人が居るということ、先頭部隊が居るということはやはりいいことですよ、後からついて行く者にとっては勇気百倍です。斬り込み隊ですからね、彼らは、いわば斬り込み隊です。先陣をうけたまわった人達です。尊敬の念を持ってみなければなりません。

善川  まあ他教のことは伏字を使いなるべく生まの表現はしないことにしております。

木戸  まあそれはそれでいいでしょう。物足りない面もないことはないけれども、逆にね、それをそのまま出して置くと、後世あなた方がいろいろと疑われることになりますから、そういったね、教えのね、弟子筋というか二代目、三代目と思われてもあれですからそれはそのままでいいと思います。

善川  今までのお話はプライペートに関わるお話なのでまことに恐縮なんですが、特に一般の方々の先生のご存在に対する認識とはいささかかけ離れて居りますので、これが正(まさ)しく木戸先生のお言葉であるとうなずけるようなご霊訓を何か頂ければ幸いと存じますが――。

木戸  というか、私の心の中にはもう既に明治は遠くなりにけり、ということであって、残念ながら私は時代にも、日本にも正直言って執われていないのです。ですから一般の方からみれば゛木戸孝允゛にしては話がおかしいのではないかと、いうことになるかも知れないけれども、私自身はこういうものであるし、他の光の指尊霊達の話も同じであろうと思います。いわゆる正法伝道というものを知っているものにとっては、同じ話ですね。これはやむを得ないことですし、これは明治維新の頃に何をしたということ、私が今関心があるかといえば、実際上無いわけですねもう、だから私の話、私らしくないと思えば載せなくてもいいし、まあそれはあなたの自由にして下さい。


6.新憲法は神より授かり公布されよう


善川  でもありましょうが、折角のお出ましでもあり、また機会でもありますので少しはお教え願いたいと存じますのですが、如何でしょう一つ憲法問題について、――これはあなた政治家としての経験もおありだから、お分りになると思いますが、まあ現在昭和憲法というのが出て居りますが、過般、聖徳太子様からこの憲法問題についてのお話があったのですが、太子は日本の現行憲法は根本的に改正しなければならないというようなご意見を出されておられましたが、先生のご見解は如何でしょうか。

木戸  私も同じ意見ですね、今までの憲法では十分でないと思います。これはどちらかというと、アメリカで作られたような憲法です。現行憲法、いいところも勿論あるんでしょうけども、やはり日本の国の風土に合ったものではないと思うのです。いくつか変える点があると思う。ただ明治憲法ですね、明治憲法と現代の憲法とを較べてみると、何というか現代の憲法というのが第二次大戦後ですはね、一億総懺悔の中にできた憲法ですはね、だから昔の大和魂とか、戦前の軍国主義とか、そういったものをみんな否定する方向でやっています。ですから明治憲法というのは非常に時代遅れの反動的な憲法というふうに、今は見られて居ります。ただね、私は思うんですが、いろんな国において憲法がある以上、それぞれの国において特色があっていいのじゃないかと思うのです。ですからもう一度ですね、日本的な美風というものを、うまく、現代的にアレンジし直した形での憲法というのが大切じゃないでしょうか、そう思います。具体的には他の方々も仰しやっているような選挙制度の改正なんかも入ってくるでしょうし、それ以外にまあ制度的な問題以外にですね、憲法には基本的人権ということでいろいろ書かれていますけれども、基本的人権の方にむしろいろんな問題があります。これをですね、精神規定そのもの、木質を足元から見直していく必要があると思うのです。


7.憲法前文に精神規定の宣言が必要


木戸  まあ多少ね、時代は古いものの様に感じられるかも知れないけれども、精神規定ですね、憲法の前にですね、何条かの精神規定というものが入らなければいけません。その精神規定とは何かというと、人間の生きるべき道です。生きるべき道について何条かの指針がいると思うのです。

それは例えばモーゼの時代にモーゼの十戒があったように、そういった行動指針ですね、聖徳太子の時代に十七条の憲法があったように、行動指針、あるいは人間として生きるべき道筋ですね、神の子としての人間の生きるべき道筋というものがはっきりしなければいけないと思います。ですからね、私は今思うに、あなた方からみれば、こういった考えというのは、革命的に思えるかしれませんがね、まず憲決の中にはね、こういったことが謳(うた)われなきやいけないと思うのです。「人間はすべて神の子にして平等なり」――「そして神の子としての使命を果たすためにこの国において修行するものなり」――と。しかしてね、そういった神の子としての使命にもとづく様々な権限というものが与えられなければいけないのです。そういうことです。

恐らくは新しい憲法においては、人間は、――「人間は、神を愛し、神の子としての使命を果たすためにこの日本の国において、理想国家建設のために邁進するものである」。――というようなこういった一条が入るでしょう。現在においては天皇が象徴であるということが最初に書かれているわけですけれども、恐らく、改正される憲法の中においては、「人間は神の子であって神の子としてこの地上にユートピアを建設するために努力するものである。そのために日本人は神の子として日本国をユートピアとするために努力せんものとす」というこういった宣言がまず入るはずです。そしてこれ以下に人間として生きるべき道が与えられます。例えば初期にあなた方に日蓮聖人からアドバイスがあったはずです。そのアドバイスの中にはこういった指針があったはずです。例えば、――「人を愛しなさい。人を生かしなさい。人を赦しなさい」――こういった指針があったはずです。また――「人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」と、こういったアドバイスがあったと思います。こういった指針もですね、憲法の中に盛られるようになって来ます。

――「ここに日本国民は、その国民たる義務において他の国民を愛し、他の国民を生かし、また他の国民を赦す、斯かる精神でもって生きていくことを誓う」――といった文言が入るはずです。人を愛し、人を生かし、人を赦す。ということです。こういったことが、国民の義務として規定されるでしょう。今の憲法にはないでしょうこれは。いいですか、これはすべきことという義務なんです。人を愛するということはね、今までの宗教においては人を愛するということはいいことだ、人を愛しなさい。と言ったかも知れない。しかしこれはあくまで良心の問題として個人の個々の問題として自由ですね、自由の問題として言われていました。しかしこれからの日本というのは、ある意味において祭政一致。ある意味において「神の理念」が政治経済制度の中に純粋な意味合いで滲透(しんとう)するような時代がやって来ます。そういう国における憲法であるならば、その神に対する義務、神の子としての義務というのが明らかに示されなければいけません。でありますから、人を愛するべきであり、人を生かすべきであり、人を赦すべきである。というこれが義務としてね、宗教的な讃(ほ)められるべき行為ではなくしてね、国民の義務として規定されるでしょう。

これは恐らく世界人類にとって画期的な「憲法」となるでしょう。日本国民は、その名において人を愛し、人を生かし、人を赦さなければならない。こういった規定があります。また、日本国民は神の子として人を信じ、世を信じるとは国、社会を信じるということです。素晴しい理想社会を信じるということですね、人を信じ、世を信じ、神を信じなければならない。こういった信仰規定ですね、こういった義務条項、これは必ず入らなければならないでしょう。人を信じるということは大切なことです。これは国民の義務であります。神の子としての義務であります。世を信じるということ、この日本の国が、社会が、そして世界がユートピアになるということを信じるということです。善良な人達によって理想社会が建設されなければならないということ、理想社会建設のためにわれらがあるということを信じるということです。であるならば、そのような世の中を信じるということなのです。戦争が起きるというのはなぜでしょうか、それは他国を信じていないからです。なぜ主戦派、非教派が争うのでしょうか、それは人を信じていないからです。日本を、社会を信じていないからです。国民の良識を信じていないからです。ですから世を信じるということ、良識ある世論を信じるということなのです。世論というものは疑ってかかると、どちらにでも振じ曲っていくものなのです。むしろ信じることなのです。そうなるべき世論として信じることです。ですから世を信じるということは、世論、良識ある世論を信じるということでもあるし、日本の国を信じるということでもあるし、他の国の国体をも崇敬、敬意を払うということです。これが世を信じるということです。そして最後に神を信じよ、神を信じなければならない。こういった義務規定ですね、これが必要だと思います。

だから私は今三条申し上げました。

第一条においては、『日本国民は、人間は神の子であって、神の子として地上にユートピアを築くために修行しているということを認め、これを信じるものである』

と、こういった総則規定ですね、神の子としての使命ということを明確に第一条において誦われるべきであります。

第二条においてはその神の子としての人間の義務ですね、義務として『人を愛し、人を生かし、人を赦さねばならない』ということ。

第三条としてはまた信仰ですね。信ずるということの大切さ『人を信じ、世を信じ、神を信じよ』と、こういった信じるということの大切さ、これを謳わなければなりません。憲法というのはこういうふうにすべての法律の上にあるというよりも、本来は神の法の具現でなければいけないのです。今私は、三条だけを申しました。すべては申しません。すべては今後あなた方の行動によって様々なものが生まれていくでありましょうけれども、憲法の総則規定、において「神法」というか、「正法」というか、ユートピア建設のための道標というものが打ちたてられなければいけないということです。後のですね、議員の定数とか、解散とかね、内閣制度とか、こういった制度的なことはどうでもよろしい。このようなものは、いろいろと変ってくるでありましょう。これはよろしいのです。そのままで、そしてね、総則規定においてそのような神の子としての使命が、明記されたならば、例えば現行憲決第九条というようなもののあつかいがですね、戦争放棄、ということいま言っていますけど、これをどのようにあつかわなければいけないかということはもう明らかになるはずです。

日本人は、神の子としての本義に基づいて戦争に対して良識ある態度をとる。ということですね。さすれば道は明らかになるはずです。――こういったことが謳われねばなりません。あなたがたいま、憲法を読んだり勉強されたりすることがあるでしょう。そしてそれを素晴しいこと、当然のことと思っておられるでしょう。しかし今言ったような神の子としての義務が憲法にもし入ったなら、これは素晴しいことではありませんか。

今いったようなことは、どの宗教、特定の宗教に偏するものではありません。何教を信じるからそうなるというものではないはずです。宗教の自由、信仰の自由というものは、どのような世の中においても認められなければいけません。あなた方の教えだけが正しいわけではなくて、他の教えの中にも正しいものがあるし、それを信仰する人はいつまでたっても居るでしょう。あなた方が新しい法を説いても、キリスト教を信じる人も居るでしょう。従来の仏教を信じる人も居るでしょう。神道を信じる人も居るでしょう。それはそれでよいのです。それらの人であっても、自分達は神の子であるということ、神仏の子であるということは否定しないでありましょう。また人を愛し、生かし、赦すということが真実であるということは否定しないでしょう。また、人も信じ、世の中を信じ、神も信じなければいけないということが、真理だということは否定しないでありましょう。こういったことが、こういった共通綱ですね、宗教の共通綱、間違っていない黄金の原則、こういったものを、憲法の申に織り込んでいかねばなりません。そういったことです。

現象的なね、役割として憲法が果たすことは、これはどのように変えられてもいいと思うのです。永遠に続く人間の精神原則について謳われるべきであります。たとえばその憲法の中にあなた方の教えを信じなければいけないとか、そういったことを入れると、後世を害することになるわけです。そうではなくて、本当の神の子として、本当のものは何かということです。神の子ということを信じることによってね、社会の様々な悪とかね、戦争とかいうものは無くなっていくのです。ですから、まず日本に生まれた以上は、そういった義務を守らなきゃならないということを教える必要があるのです。

今日日本は、憲法に戦争放棄を謳っている国ということで、世界にまあ冠たる国ですね。まあ実際軍備は持っていますけれども、憲法に戦争放棄をうたった国はありません。そういうことによって非常に目立った存在ではありますが、憲法において神の子としてのユートピア建設を明確に謳ったならば、これは世界の中で日本が目立っているだけでなく、人類の歴史の中においてでも、日本人というのは非常にユニークな存在となりましょう。


8.新憲法は今後二十年以内に改正されよう


木戸  つまりあなたの仕事は、宗数的な伝道、新思想の普及拡張ということを通してユートピア建設の理念を、政治、経済制度の中にも織り込んでいくということなのです。かつてあったような悪い意味での宗教と、政治との癒着ということではなくてね、本来あるべき本質を明らかにするということなのです。

こういったことの作業がやがて行われていくでしょう。日本国憲法の改正はやがてここ二十年以内に、あるいは二十年から三十年、やはり二十年以内でしょう。二十年以内に一つの大きな顕れが出て来るでしょう。すべてされるとは言いませんよ、二十年あればね、あなた方の動きは国民的な大きな動きになっています。おそらく滲透しているし、今あなたが書いておられる書物、こういう書物がですね、各家庭に一冊ずつあるような世の中になっていると思います。大きな力が結集されます。あなたはね、私達の書物出しています。私達の言葉を編集しては、本を書いています。で、これがどれだけ売れるか心配しているかも知れません。けれどもね、私は言って置きます。後二十年経てば一般的な家庭の一戸、一戸にこういった書物が置かれるような時代になります。

その前には、日本においても、他国においても様々な゛天変地異゛が起きるでしょう。そういった混乱の中において人びとは、何か自分達は間違っているに違いない。「神」の心に反しているのではないか……、そしてそういった現象とともにですね、信仰の熱というのが非常に高まって来ます。世紀末の予言もいろいろ出てくるでしょう。世紀末の感覚というのは一杯出て来ます。そういった中において人間は本来のものは何かということを非常に強く求めるようになって来ます。世が乱れて来ます。乱れる反面、真実のものの求めるという気持も強くなって来ます――。

善川  日本の憲法改正ということについては先般聖徳太子様が出られて太子は数十年後にと言われましたが、あなたのお見通しでは二十年後というように短縮されていますが、そういうことになりましょうか。

木戸  二十年以内にまず最初の着手があるでしょう。それ一回で終るとは言いません。二十年以内にはまず最初の改編が行われるでしょう。その後にまた様々に手が加えられていかれるはずです。

9.神の国建設のデモクラシーこそ本物


善川  いま一つお伺いしたいのは゛デモクラシー゛の問題ですが、民主々義ですが、これは先般見えられた「天照大神」様のお考えあたりでは、これは優れた法ではなくて、最悪を防止するための一つの手段であると、いうふうなお話でございましたけれども、しかし、一方アメリカのリンカーン大統領のお説によりますと、そうではないのだ、と、確かにそれは最高の法ではないけれども、最悪を防ぐ方が現時点ではより重要なことではないのでないか、というお説ですが、これについての先生のご意見は如何なものでしょうか。

木戸  これに関しましては、デモクラシー、民主々義ですね、民主々義というのは人類の発明したもので非常に大切なものだと私は思います。何時の時代でも様々な政治倫理、政治の価値基準が打ち出されるわけですが、確固としたものはなかなかできません。そうであるならば最大多数の人間にとってですね、有益な社会であるならば、大きな間違いがないという意味において当たっているわけですね。最大多数の人間に支持されるような政治であるならば大きな間違いは犯さないということです。そういう意味で、デモクラシーは、リンカーンソが言われたかも知れないけれども大切なものだと私は思います。

要はね、デモクラシーの中に流れているものだと思うのです。先程憲法の中で神の子としての義務を規定すべきだと私は言いました。そういったような本来のデモクラシー、ユートピア建設の途中の゛相(すがた)゛としてのデモクラシーということを謳えばですね、問題は解決されると思います。いいですか、デモクラシーは、多くの人間が集まって、ワッショイ、ワッショイやるためのデモクラシーであるならば、これは、目的と手段を履き違えているわけです。デモクラシーはあくまでも手段なのです。何かを達成するための、で、何かとは一体何かということですね。――これはユートピアの建設です。地上にユートピアを建設するための手段としてのデモクラシーということです。神の子のデモクラシーです。そういったことです。なんでもかんでも自由に、勝手に主張している人間のデモクラシーという意味ではないのです。そういう意味での多数決でも、民主政でもないのです。神の子としてのデモクラシーです。神の子ができるだけ自らを生かすことができるような場をつくるという意味でのデモクラシーなのです。ユートピア建設のためのデモクラシーであって欲しいと思います。そういう意味においてデモクラシーは大切ですけれども、これの質というものがね、質というものが今後変ってくると思います。