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目次



















1.大宇宙の大調和の姿が満月に現われている


高橋信次です。このたびの瞑想法についての書物で、私もどうやら割り当てが回ってきまして、「満月瞑想」というのを伝授せよというふうに仰(おお)せつかりました。あの世に行ったら、満月もないんですけれども、生前、私は満月瞑想について、ずいぶん話をしたので、今、その延長ということで、地上の皆様に満月瞑想のやり方についてご伝授申し上げたいと思います。

まず、そもそも満月瞑想とは何なのかという話をして、それからどういうふうにやるのかと、満月瞑想とはどうやるのか、そして最後に、その結果どういうことになるのかということ、こういう順でお話をしたいと思うんです。

では、満月瞑想とは、一体どのようなものであるかということからお話をしていきたいと思います。皆さん方、都会に住んでいる人は、なかなか満月にお目にかかることは少ないかもしれませんけれども、田舎に住んでいる人たち、あるいは、夏休みとか、冬休みに田舎に里帰りする人たちは、夕方、または、夜、里の道を歩いていると、空に大っきな満月が掛かっているのを見ることがあります。

まあ、都会では、現在、そういう光景がなかなか見れなくなってきました。空を見上げてもビルばっかりが見えて、なかなか満月が見えません。満月かなと思えば、大きなネオンのサインがまたたいていた、ということが非常に多くあります。けれども、田舎のほうへ行くと、まだ満月というのが掛かっています。

そういうことで、山があって、川があって、そして、山の上のほうに大きな満月が出ている姿というのは、非常に素晴らしい景観なわけですね。そこで、その満月の姿を見てみると、どうなるかというと、そこにあるのはひとつの大調和の姿なのです。大宇宙の大調和の姿というのが、満月というものに現われておるわけです。ですから、皆さんも、心のなかにぽっかり浮かんだ満月というのを、考えていただきたいのです。満月はどこも欠けたところがありません。まん丸で、そして、明るい光を放っています。


2.太陽・地球・月の三者の関連は、人間の心のあり方と非常に似ている


もともと満月というのは、もちろん、欠けていないお月様のことですが、月っていうのは、自分から光っていません。自分自身は単なる大きな、まあ、言えば、隕石(いんせき)の塊(かたまり)のようなものです。これが月ですね。

ところが、この月が、太陽の光を反射して、ああいうふうに光っておるわけです。月自身に太陽がいろんな角度から当たりますね。そして、地球の陰になっている部分が欠けてくるわけです。三日月のときには、大部分が地球の陰に入って、太陽の光が月に当たらなくなる。半月のときには、半分ぐらい、太陽と月の間に地球が入って、月に当たる光を半分遮(さえぎ)っておる。これが半月ですね。三日月っていうのは、薄いようになって、あるいは、全部消えちゃうことがあります。これは、ちょうど月が地球の陰に入って、太陽の光を受けなくなった状態のことを言いますね。(注。これは月蝕の際の説明である。)

こうした月の動き、つまり、太陽・地球・月というこの三者の関連というのをずーっと見ていくと、そこにあるのは何かって言うと、人間のほんとうの心のあり方というのと非常に似ているところがあるんですね。あなた方人間というのは、心とは何かと言うことで、心、心、心といつも考えていますけれども、心というのは、結局、夜のあの月のようなものなのですね。

皆さん、月を月だけとして単純に見ておるから、その意味がわからないんであって、あの月の姿というのが見えるためには、太陽、地球、月という三者の関係が前提となっておるわけです。まず、太陽から光線が出ているということ、それから、月の陰になるべきものとして、地球というものがあるということですね。そして、最後に月自身があると、こういうことなんです。


3.太陽は神仏・地球は肉体我・月は心


この三者の関係というのを、実際の人間の生き方に当てはめるとどうなるか。まず、太陽に当たるのは何かって言うと、大宇宙、あるいは、超次元的存在のなかにある霊太陽と言ってもいいし、あるいはまた、高級神霊と言ってもいいし、神仏そのものだと言ってもいいです。これが太陽に当たる部分ですね。

十次元以降にあるといわれるこの神仏の存在、高級神霊の存在からは、いつも、熱、エネルギー、あるいは、愛と慈悲の光の束が、下の霊界へと、下の次元へと放射されておるのです。十次元から九次元へ、九次元から八次元へ、八次元から七次元、六次元、五次元、四次元、そして、この三次元へと。三次元というのは、地上の皆さんの住んでいる世界です。ここへと放射がなされておるのです。こうぃうふうな、太陽に相当するものが何かと言うと、まあ、神仏と言っていいと思います。

では、次に地球に当たる部分って何だろうか、と。まあ、月の形を見ているんですけれども、月の形を見ている人っていうのは、地球人ですね。地球の上に立って見ている。したがって、月を見ている立場の自分自身でもあるということですね、地球っていうのは。そうすると、これは何だろうかって言うと、結局のところ、その地球の部分に当たるのは、肉体を持っているという「我」なんです。すなわち、肉体我(にくたいが)ですね。肉体を持っている「我」、これが地球なんです。

人間というのは、肉体を持って地上に生まれて来る前っていうのは、もともとそれなりに悟った存在でありました。それなりに悟った存在であった人間が地上に生まれて、肉体を持ったがために、その肉体を持つこと自体でもって、非常に迷いやすく、また、人生航路を誤りやすく、生きておるわけですね。

ですから、月の光り方を遮るものは何かと言うと、地球、そして、その地球に当たるものは何かと言うと肉体我です。つまり、肉体が自分だと思っている気持ちも含めて、肉体我、これが地球なんですね。

そうすると、これを通して、次に心というものが、ぽっかり浮かんでくるんですね。これが月の部分です。


4.肉体我を通して把握する人間の心は、月のように満ち欠けする


このように、人間は、肉体を通して自分というものを把握しているがために、その本来の心(真我)というのが、満ち欠けをするのです。

肉体我を通しても、まったく光がゆがめられることがなく、実相の世界の光をそのままに受けて、お月様のように、キラキラと、ピカピカと輝く人たちは、ちょうど満月のような状態にあるわけです。ところが、肉体を持っていることによって、半分悩み、半分ぐらい悟っているような、半分ぐらいやすらぎを持っているような、生活をしている人っていうのは、どうかっていうと、まあ、ちょうど半月のような形なんですね。

もう肉体こそがすべてなのだということで、ほんとうの神仏のこととか、高級霊界のこと、あの世のことというのをまったく忘れ去って、この世のままに生きている人たちがおる。ところが、まあ、盆だとか、お正月だとか、そういうときには、一応宗数的な行事に参加し、あるいは、人が死ねば葬式をする、あるいは、何回忌かというようなこともする。

こういうことをする人たちっていうのは、ちょうどまあ、三日月でしょうかね。三日月みたいなものなのです。霊的な実相の部分が、ちょうど三日月のように、細く光っておるのですね。そして、残りの部分が、真っ黒けになって、光を遮られているわけです。こういうふうな情況になっておるわけなんです。


5.肉体我に執(とら)われなければ、本来の心は、満月のように光っている


ですから、満月瞑想というのは何かと言うと、結局、本来ね、地球というもの、つまり、間(あいだ)を遮る肉体我というのがなければ、人間の心のあり方、実相のあり方というのは、あの空に浮かぶ満月のように光っておるものなのだということなのです。ところが、それが地球によって遮られるがために、陰ができるのですね。

太陽の光自身は、少しも惜しみも何もしていないんです。太陽の熱やエネルギーっていうのは、すべてのものに平等に与えられています。ところが、それを遮るものがあるがために、その光を受けることができないのです。これは、人間の人生を例にとって考えてもそうなんですね。

たとえば、ある宗教団体では、「本来病(やまい)なし」ということを話しております。これも誤解されると大変なことになりますけれども、確かに真実を得ておるわけです。つまり、満月瞑想と基本的には同じなわけです。あの世の実相の光っていうのは、もうほんとうに完全で、円満で、調和そのものなのです。

ところが、それが、人間の心のレンズを通すことによって、ゆがめられるというんですね。本来完全なものがゆがめられて伝えられるがために、この世的に変わったものとなって現われてくる、と。こういうふうに言われているわけです。


6.心のレンズを修正したとき、肉体の不調和、悩みはなくなる


つまり、「本来病なし」っていうのは、本来実相世界においては、病人などひとりもいないんです、と。病人などひとりもいないにもかかわらず、この地上には病人があふれておるように見える。なぜそうなのか。

これを考えてみると、実相の光は完全であり、実相の魂も完全であるけれども、そこから人間がほんとうの姿を受け入れるためには、レンズを通さねばならん。そのレンズがゆがんでおるがために、さまざまなゆがみの像というのが映る。そのゆがんだ像というのが、病人なんだ、と。病気なんだ、と。こういうふうに言われておるわけです。

このレンズというのを、単なる心と取ってよいかどうか。実際には、肉体我に執われた心と言ってもよいかもしれませんね。肉体我に執われた心というのが、このレンズですね。これが迷いの元凶です。このレンズさえきっちりしておれば、本来の実相の世界っていうのが、すぐにきれいに映るのだけれども、このレンズがゆがんでいるがために、この三次元世界にはさまざまなゆがんだ像が映ります。

ですから、この考えでいってもね、そのレンズを修正することによって、ゆがまない像、きれいな像をこの三次元に投影しましょう、と。そうすれば、肉体の不調和もなくなるし、悩みなどもなくなるでしょう、と。まあ、そういうことなんですね。


7.満月瞑想とは、根源の神の光を全身に受けている自分を発見する方法


まあ、このように満月瞑想というのは、結局のところ、自分自身のなかに、遮るものがないかどうかをよくよく見つめることなんです。そして、本来の神仏の光を全身に受けている自分というものを、つかみ出すという、こういう方法なんですね。

したがって、単に心のなかに金ピカピカの満月が掛かっているのをイメージするだけでは不十分でありまして、そういうふうに考えるといいわけです。

太陽・地球・月という三者の関係というのを十分に頭に入れる。つまり、根源の神と、そこから来る神の光を受け入れる自分の肉体我。要するに、肉体我というものを通さずしては、感じ取ることができない自分の心。それから、その投影ですね。投影としての心の、精神のやすらぎ。あるいは、その環境への影響。あるいは、自分の周りにかもし出される調和の姿。

こういうのが、月に当たる部分でしょう。ですから、満月瞑想の本来の発想というのは、そこにあるのです。それが、満月瞑想とは何かということのひとつですけれどもね。


8.満月瞑想の坐り方について


では次に、二番目として、満月瞑想の仕方です。方法としては、どういうふうにすればいいかです。まあ、その仕組みとしては、もちろん、禅定(ぜんじょう)とあまり変わらないやり方であります。やはり寝ていては満月瞑想はなかなかできないんであって、まあ、まれには、そういうこともできる人がいるでしょうけれども、寝たままで満月瞑想をできる人も、逆立ちのままで満月瞑想をできる人も、おそらく数は少ないであろうと思います。一部にはいるかもしれませんよ。あるいは、水のなかに潜(もぐ)って、満月瞑想する人とかね。

そういうことで、一番普通のやり方としては、やはり坐ることですね。まあ畳(たたみ)でもいいし、絨毯(じゅうたん)の上でもいいし、お尻が痛くなればざぶとんを敷いて坐ってもけっこうですけれども、その上に坐ることから入ります。

そして、坐り方ですけれども、昔から結跏趺坐(けっかふざ)だとか、いろんなやり方がありますけれども、必ずしもこれに執われる必要はないのです。ある程度の時間坐れるだけの足の恰好をして坐られたらいいのであってね。とくに女性などは、足のくずし方が非常にむずかしいでしょうけれどもね。女性は男性のようにあぐらをかくのは非常にむずかしいので、もちろん多少足を投げ出して、くずしていただいてもけっこうです。

で、要点は何かと言うと、結局のところ、背筋をぴんと伸ばすということですね。これが要点なのです。だから、足の組み方自体は好きなようにしてけっこうです。結跏趺坐(けっかふざ)でやってもいいし、多少くずしていただいてもけっこう。ある程度の時間持つような姿勢にすることです。

ただ、あんまりひどい趺坐(ふざ)のかき方をして、それでいかにも横着そうな感じが出ているようでは、ちょっとできないです。そうではなくてね、正坐じゃちょっと長持ちしないと思えば、それなりのくずし方でけっこうですということです。


9.満月瞑想の方法①――背骨は光のパイプ そこを通して神の光を受ける


そしてまあ、背筋をピンと伸ばして、頭の頂点、頂上、つまり、頭のつむじの部分を糸で天上からぶら下げている感じです。自分を天上からぶら下げている感じ。こういう感じをつくるんです。自分の背骨というのを、一本のパイプだと考えるのです。背骨というのは一本のパイプであって、この地上から天上界を貫く光のパイプだと、光のパイプが下から上までドーンと通っているんだというふうなイメージをするんですね。細いパイプがズーッと上へ伸びていると考えていきます。

そして、この光のパイプを通じて、七次元の菩薩や、八次元の如来から、あるいは、九次元の大如来、さらには、十次元以降の高級神霊から無限の力が自分に注ぎ込んできている、と。こういうイメージをします。力を受けているという感じですね。

ちょうどガソリンスタンドに入って、車がガソリンを注入している姿、これといわば同じことです。こういう形なんですね。ですから、上から大宇宙神霊のエネルギーが天降(あまくだ)ってきて、自分の内部を満たしていくと、自分のはらわたにしみ渡っていくと、こういう感じを、まず持ちます。頭のてっぺんの、ツムジのところでもいいけれども、頭のてっぺんから油が入ってくるのと一緒ですね。細い管を通してトロトロトロトロと入ってくるんです。そして、頭のなかをそういう光が満たしてきました。


10.満月瞑想の方法②――大宇宙神霊の光を頭から足の先まで流し入れる


自分の頭、頭いっぱいに光が満たしています。脳味噌のしわ、その一本一本のなかに、光が流れています。そして、光が、頭いっぱいになってきました。

そうすると、この光がだんだん下がってくるんですね。光がオデコのところまできました。眉毛を通過し、目を通過し、鼻を通過し、口を通過し、光が喉のところまできました。光が喉を通過し、喉をどんどん、どんどん降(くだ)ってきます。そして、胸のところまでやってきます。やがてね、光が肺のところを通過していきます。肺が非常にさわやかです。気持ちがいいです。

そして、その次に、光が心臓のなかに入ってきます。心臓のなかが非常にさわやかです。光で満たされています。どうしてこんなに自分は健康なのだろうと思います。こういうふうに、光が入ってきます。心臓を通過して、また下に降りてきますね。胃のあたりにも光が入ってきます。胃が非常にすこやかです。そして、腸のなかにも光が輝き渡っています。やがて、光は胴体を通過し、また、肩から右手の先まで光が流れていきます。そして、今度は、肩から左手の先まで光が充満していきます。

その次には、光が右の足のほうへ降りていきます。大腿(だいたい)から膝(ひざ)まで降りてきます。そして、膝から今度は、足のかかとのほうへと光が満ちていきます。はい、今度は左ですね。左の大腿のところから膝まで光が降りてきます。光は膝から足の裏のほうへと流れていきます。

こうして、頭のてっぺんに開(あ)いたパイプの穴を通して、大宇宙神霊の光というのが、どんどん、どんどん体のなかへ流れ込んできて、頭脳から内臓へと、それから足の先まで、ずーっと光が、エネルギーが入ってきました。そして、今、あなた方は、満タンの車同様に、光のなかで、全身をたっぷりとつけ込んでいます。光のなかに全身がつかっています。こういった満足感が自分にあります。


11.満月瞑想の方法③――全身に流れ入った光を丹田(たんでん)に集め、心に満月を描く


さて、そろそろ光がいき渡ったようですから、今度は、その光を集めてみましょう。光を集めるところの部分はどこかというと、これが心臓より下でね。ちょうど丹田(たんでん)というところがありますけれども、まあおへその下ぐらいと思ってもいいかもしれませんね。このあたりにポッコリと、このあたりから胸にかけてのあたりに、そうですね、直径三十センチぐらいの満月っていうのを描いてみましょう。

もう、光がここに集中してきています。ちょうどお盆のように、満月のように三十センチぐらいの光が、心のなかにポッカリと浮かんでいます。この姿を見つめてみて下さい。今、全身の光が、その満月のなかに集中してきています。心のなかに満月が描けています。

その満月の姿は、何でしょうか、一体。それは、大調和の姿であり、神仏の慈悲の姿であり、愛の完成した姿でもあるわけです。それが満月です。そうした満月を今、あなた方は、自分の心のなかに描いておるわけです。

こうして、この満月を描き切ったときには、その満月のなかに、何のかげりもありません。ひとつの陰もありません。それは澄み切った心そのものであり、明鏡止水(めいきょうしすい)の心であり、また、光り輝くあなた方自身の姿でもあります。今、自分の姿は、そうした満月の姿であるということを、人間は見抜かねばなりません。認めねばなりません。そして、その満月の状態をしばらく見つめていただきたいと思います。


12.満月を心に描けない人は、澄み切った湖のなかに映る満月を描きなさい


満月をそのまますぐに思い浮かべることができない人は、自分の心というものを、そうですね、長野県かどこかにある、たとえば、信州の大きな湖だと思ってみて下さい。信州にある深い湖を思い浮かべてみて下さい。

あなたは、それを今、上空から見ています。山に囲まれたところに、まあるい湖があります。穏(おだ)やかに澄み切った湖です。そして、時間は夜です。真夜中で、人っ子ひとりいません。何にも遮るものがありません。音もありません。人もいません。車もありません。何もありません。そうした澄み切った、人っ子ひとりいない湖です。その湖の中央の部分を、上空からのぞいてみると、まんまるいお月様が、湖のなかに映っておるんです。

この湖のなかに映ったまんまるいお月様というのを見つめてみて下さい。この湖のなかのまんまるいお月様が波で揺れているようではダメです。波を静めてみて下さい。波が立っているようなら、波を静めてみて下さい。そして、ほんとうに澄み切った湖のなかに、澄み切ったお月様が映っている姿というのを描いてみて下さい。

その澄み切った湖というのが、あなた方の魂のすべてであります。魂のなかのその光り輝くお月様の部分、満月の部分というのが、実は、あなた自身の心なんですね。霊のなかに、中心の部分として心があるんです。その心が満月になっているんです。

その満月にかげりがないかどうか。そして、波に揺れていないかどうか。それを心静めてじっーと見つめていきます。まあ、この満月の姿が、しばらく変わらずに心のなかで描けたらだいたい完成です。


13.満月の心で生活したとき、心は円満になり、人間関係は良くなっていく


まあ以上で、満月瞑想とは何か、あるいは、その仕方ということを説明しましたけれども、これも瞑想の基本のひとつなのです。基本的瞑想のひとつであって、やはり瞑想っていうのは、心の調和をしなければいけない。調和の姿というのは何かと言うと、まんまるい円です。それゆえ、満月というのは調和の姿でもあるわけですね。

この調和の姿、円満で完全な姿、これが人間の完成の姿でもあるわけです。まあ、これを目指して精神の統一をすれば、次第に心は穏やかになり、人間関係はどんどん良くなっていきます。


14.怒り、憎(にく)しみ、愚痴、嫉妬、情欲の心があるとき、満月は描けない


人間関係であつれきがあり、波風が立っている人というのは、満月を描くことができないのです。満月に必ずさざ波が立つでしょう。ですから、満月瞑想をやって、心にさざ波が立っているようでは、まだまだ自分の波動が整っていないと思わねばなりません。

そういうふうに、さざ波ができて、満月がギザギザになっている人というのは、どうすれば澄み切った満月が心に描けるか。それはまず、憎んでいる人がいたら、その人を許してあげること。自分が間違ったら、素直に申し訳ないとあやまること。そういうふうに、まず、調和の努力を自分がしなければいけません。

人の悪口を言ったら、「すみませんでした」と言いなさい。また、人から悪ロを言われたら、それをすぐさま言い返すのではなく、かといって、心のなかに毒を食(く)らってため込むのでもなく、忍辱(にんにく)という言葉がありますけれども、馬耳東風の形で聞き流していくこと。そして、心のなかに止めないことです。そういうふうに、サラッとしたさわやかな心を持って、日々生きていくように努力していくことなのです。

とくに怒りの心を持っていると、満月は絶対に描けないです。憎しみもダメです。愚痴もダメです。嫉妬もダメです。妬みもダメです。情欲も無理です。こういう心を持っておっては、満月は描けません。

ですから、こういう良くない、否定的な感情というものを、ひとつひとつ取り去って、そして、もう一度湖面に映った自分のお月様を見つめてみましょう。そのときに、あなた方は、そのお月様が澄み切った姿になっていくのを見るでしょう。このときに、あなた方は、ひとつの心の調和の方法を知リ、その結果が現われていることを見るのです。

ですから、夜寝るときでもいいから、一度、満月瞑想を皆さんやってみられるといい。そして、そのときに、満月がきれいに描けたら、今日は合格点、今日の一日は合格だった。満月がどうしても描けなければ、不合格なのです。そういう初心者にもできるひとつの簡単な観法として、満月瞑想法があります。


15.満月瞑想は、ブッダの時代から行なわれてきた瞑想の基礎である


満月瞑想法は、ブッダの時代から行なわれてきた瞑想の基礎でもあります。これをすることによって、人間は、偉大なる調和というものをつくることができます。

また、満月ということを忘れなければ、人間関係のなかにおいて、あらぬ波風を立てる必要がなくなってくるんです。そういう意味において、これはひとつの努力の目標でもあるということですね。まあ以上で、本日の満月瞑想の話を終わらせていただきます。