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目次



















1.瞑想とは、外(そと)なる目を閉じて、内(うち)なる目を開(あ)けることである


天之御中主(あめのみなかぬし)です。本日は、幸福瞑想法のなかの一章として、私の「幸せの瞑想」というのが取り入れられることとなったがために、こうしてまた、通常の霊言とは別に、私自身の考えというものを瞑想という形を通して、世の人びとにお教えせんとするものであります。

瞑想ということに関しては、すでにさまざまな方が、話をしてこられたでありましょうが、何のために瞑想があるのかということを、まず第一に、明らかにしておきたいと思います。瞑想とは、「目を瞑(つぶ)って思う」と書きます。なぜ目を瞑るのか、ここが出発点です。瞑っておる目というのは、いわゆる肉眼であり、この地上世界を見んとする目であります。この地上世界を見んとする目を閉じたときに、人間はまた、この地上世界以外の世界を見ることができるのです。

外なる目を閉じて、内なる目を開けよ。これが瞑想であります。外なる目が開いておっては、なかなか内なる目は開かんのです。外なる目を閉じて、内なる目を開けということです。したがって、瞑想なるものを、単に目を閉じて思えというのは間違っておるのです。外なる目を閉じて、内なる目を開きなさい。内なる目を開いて、心のなかの世界を見なさい。これが、瞑想ということです。

瞑想は、単に目を瞑るということではない。それを間違えてはならぬ。第三の目を開くということです。この目を開かずして、ほんとうの意味で見ることも、思うこともできはしないのです。


2.反省的瞑想――誤てるところを取り除きながら、実相の世界へ参入する


さて、そうした内なる目を開いて、世界を見んとする瞑想にも、さまざまなるやり方があります。

そのなかのひとつは、反省的な瞑想のやり方でありましょう。代表的なものです。ひとつひとつ反省の形をとりながら、自分の誤てるところを取り除いていくという、そうした導入段階を経て、実相の世界へ参入するという反省的瞑想というのがありましょう。あるいはこれは、天台智覬(てんだいちぎ)などが言っておる「止観(しかん)瞑想」ということであるかもしれません。


3.幸せの瞑想――人間がより良く、より幸せに発展する方法を内なる目で見る


さてしかし、私はここで、話の立脚点を変えておきたいと思うのです。少なくとも瞑想というものは、この世的なるものから、あの世的なるものへと考え方を切り換えることであり、想念の転換をすることであろうと思います。

そうであるならば、単にこの世のことのみを考えることが、瞑想ではあるまい。この世のことを手掛かりとして、あの世の心の段階の諸階梯(しょかいてい)を駆け登っていく、そういう瞑想もあろうと思う。それについて、今日は話をしていきたいと思うのであります。

この「幸せの瞑想」とは、別名「発展の瞑想」でもあるのです。どうしたら、人間がより素晴らしくなっていくか、より良くなっていくか、より幸せになっていくかということは、結局のところ、発展の瞑想であるということです。すなわち、瞑想という形をとって、自らの内なる目でもって、自分自身を見つめるときに、そのなかにおいて、さらに向上していくための萌芽(ほうが)としての自分自身をとらえるということです。


4.幸せを感じ取る能力が増大すればするほど、人間は、光そのものに近づける


人間の人生というものを振り返って見たときに、そこにはさまざまな感激というものがあったはずです。人びとは、ある人びととの出会い、ある事件との出会い、ある風景との出会い、ある環境との出会い、そうしたものを通して、感激というものを感じ取ったことがあるはずです。

あるいは、ささやかな話をしていくならば、同じ家庭のなかにいても、ほんとうに自分の兄弟の素晴らしさを知った瞬間、あるいは、ほんとうに父というもの、自分の父親というものを感じ取った瞬間、ほんとうに母親というもの、母というものの大切さを感じ取った瞬間、人間は幸せを感じていくのです。

こういうふうに、幸せを感じ取る能力というのは、やはりこれも、大切な能力であり、五官を越えた六官以降の世界の感覚であるわけです。そして、この幸せを感じ取る能力が、増大してゆけばゆくほど、その人間というのは、光そのものに近づいてゆくのです。


5.地獄で幸せを感じ取ることのできる霊は、ひとりもいない


地獄の世界にいる霊のなかで、幸せを感じ取ることのできる霊などはひとりもおらんのです。嘘だと思うのなら、地獄へ行って、そこで、直接聞いてみるがいい。「あなたは幸せか」と聞いて、「幸せだ」と言う人はいない。仮に言ったとしても、それは自分自身をごまかしている幸せだろうと思う。腕力を奮(ふる)えるとか、人を自分の思うままにやっつけられるとか、ということに幸せを感じておるのかもしれないが、そうしたことが、いつまでも続く心のなかの幸せでないことは、だれが見ても明白であろうと思う。

ほんとうの幸せというものは、感激というものを通さずしては、わからんものです。地獄に感激があるかどうかです。地獄の釜のなかでゆでられて、感激などないのです。地獄で刀で八つ裂きにされて、感激などないのです。地獄の穴倉のなかで、はい回っておっても、感激などないのです。血の池地獄はいかに深くとも、そんなところにいたからといって、感激を得るわけではないのであります。


6.どのような人生観の色調で、自分が人生を流れて来たのかを考えなさい


そうしたふうに、幸せというものを、安っぽく定義することは可能だけれども、安っぽくなく、ほんとうの意味での幸せというものを考えていくとき、一番大切なものは、何かに感激したことがあるか、胸が高なったことがあるかということだと思う。そうした瞬間を、幸せの瞬間と言います。

この方法でもって、人間は、自分の人生というものをもう一回振り返って見る必要があるわけです。そして、どういうふうな人生観の色調でもって、自分が人生を流れて来たのかどうかを見ることです。人生の色調のなかで、暗褐色のような色が流れておらんかどうか、灰色のような色が流れておらんかどうか、緑色のような色が流れておらんかどうか、どす黒い墨のような色が流れておらんかどうか、澄み切った人生として流れておるかどうか。そうしたことを確かめねばならんと思う。


7.人生を川にたとえるならば、幸せの瞬間は、湧(わ)き水のごときものである


人生というものを一本の川にたとえるならば、この幸せの瞬間、感激との出会いの瞬間というものは、川のなかに出てくる湧き水のごときものである。

川というものは、水源地、すなわち、山の奥において、小さな泉にはじまる。小さな泉から湧き出す水というものは、非常に清冽(せいれつ)な滾々(こんこん)と湧き出す水であり、何の穢(けが)れもない。それは、実に幸せそのものの泉である。

その小さな泉が、やがて谷をつくって流れていく。そのなかで、木の葉が交(まじ)ったり、土砂が交ったりしていく。やがて、小さな小川となっていく。そして、木の下をくぐり、草の間をくぐり、だんだんに平地へと出ていくのであり、そうしたなかで、川というものは、雨が降る雨期の時期には、土砂降りのなかで、にごってもみる。旱(ひでり)のときは、砂地をはいつくようにして、流れておる。あるいは、現代では、工場の廃水(はいすい)であるとか、さまざまなもので汚染されたりしている。こうして、河口までたどりつくまでの間に、いろんな形で変貌(へんぼう)をとげるのが川であろうと思う。

ところが、その川のいたる地点において、やはり浪々と湧き出る清水というものが、その川底から出てきておるのです。川がどんなににごろうとも、汚れようとも、滾々と湧き出る泉というものは、必ずあるのです。そうした水が湧いているところが、川のなかには、必ずあるのです。

自分の水が下流に行くに従って、やがて汚染され、汚れてきて、にごってきたとしても、もとなる泉の清らかさ、新鮮さ、透明さ、こうしたものを忘れてはならんのです。そのためには、下ってくる途中途中にある小さな泉というものを、しかと目を向けて見てゆかねばならんのです。この比喩の意味がわかるでしょうか。


8.人間は誕生においては、美しく、純粋無垢(むく)で、穢(けが)れのない魂である


人間もまた、この一本の川なんです。その誕生においては、湧き出(い)ずる泉のごとく美く、純粋無垢で、穢れのない魂なのです。すべての人が、悟った存在として、母の母胎に宿っておるのです。それが、肉体というものを持つことによって、さまざまな汚れ、さまざまな穢れというものをまといつけていくのです。こうしたときに、この汚れや穢れを取っていくものは何かというと、本来、人間の出発点にあった、その清冽(せいれつ)な水、滾々と湧き出(い)ずる泉の水なんです。

こうした泉というのが、川の途中途中で、必ず用意されておるのです。その上を流れてゆきながら、そこに水が湧いておったことを忘れるようであっては、人間というのは、真の喜びを得ることはできんのです。


9.幸せの方法――自らの人生のなかで、幸せな瞬間を発見する


自らの、その湧き出でている泉というものを発見してゆきなさい。これが、幸せの方法なのです。どんな人間にも、幸せな瞬間というのは必ずあったのです。あったけれども、それを忘れておる。忘れておるだけなのです。

天上界にあって、今度、人間として地上に生まれて来るというときには、あの世の世界においては、友人たち、あるいは、昔の恩師とか、かつての両親とか、そういういろんな方がたが皆んな、送りに来ておるのです。そして、皆んなで手を振って、頑張って行って来いと、送り出されとるんです。そのときには、新たな、新鮮な経験、それを前に、胸を踊らせるような、運動会に行く前の子供のような、そうしたワクワクした気持ちでもって、人間というものは生まれて来るのです。


10.不幸だと思う人は、自分の人生の幸せな瞬間をもう一度探してみなさい


にもかかわらず、いったん生まれた以後、その新鮮な考えを、感動というものを忘れて、愚痴り、妬(ねた)み、謗(そし)り、怒り、足ることを知らぬ欲望のままに流されていくのが人間なのです。そして、運命を怨(うら)みます。

自分がこんなに不幸なのは、両親が貧乏であるからだとか、両親が不健康だったから自分も体の具合が悪いのだとか、あるいは、家が狭いがために、自分は幸せでなかったとか。あるいはまた、兄弟の数が多すぎたために貧しかったとか。兄弟がいなかったために、ひとりっ子となって、おかしくなったとか。あるいは、自分の希望したとおりの学校へ行けなかったから、自分は、不幸になったとか。自分の好きだった人と結婚できなかったから、不幸になったとか。

このように、環境のせいばかりにしておるのです。本来の清らかな決意というものをいつのまにか忘れ去って、そういう自分自身の害、意欲心のもとに、間違った人生を歩んでおるのです。

ですから、そのなかで、やはり本来の自分を取り戻すための努力というのが必要です。その努力というのが、川のなかに湧いておる泉の発見です。自分の人生を不幸だとして決めつけるのは簡単ですが、そのなかにおいて、滾々(こんこん)と湧き出でる泉のごとき瞬間がほんとうになかったかどうか。そうした感激の瞬間がなかったかどうか。幸せを感じる瞬間がなかったかどうか。絶対にないわけはないのであります。もしないと言い切る人は、その泉の上を通り過ぎておりながら、水が湧いておることを見逃しておるのです。これを振り返って、もう一度考えてごらんなさい。


11.あなたの人生途上にあった、いろいろな感激の瞬間を思い出しなさい


自分の幼少時に、ほんとうに楽しかったことはなかったか。母がランドセルを買ってくれたときのあの感激を憶(おぼ)えておるか。小学校一年に上がるときの、ランドセルを前にして、明日から学校へ上がるというときの喜びを憶えておるか。あのランドセルの皮の匂いを憶えておるか。

あるいは、はじめての運動会に出る前の日のあの興奮を憶えておるか。運動会のときに、両親とお弁当を一緒に食べたときのあの美味(おい)しさを憶えておるか。父と一緒に川に魚を釣りに行って、大きな鯉を釣ったときのあの感激を憶えておるか。あるいは、はじめて自転車を買ってもらって、補助輪をつけなくとも、自分で自転車に乗れるようになったときのあの感激を憶えておるか。あるいは、女性であるならば、はじめて異性から手紙をもらったときのあの胸のときめきを憶えておるか。

夜遅くまで、電気スタンドをつけて一生懸命受験勉強をしていたときに、父や母が夜食を運んでくれたときのあの感激を憶えておるか。雪のしんしんと降る夜に、その雪を見つめながら、古今東西の偉人たちの文章に接していたときのあの感激を憶えておるか。

青春期の不安のまっただなかにおいて、ひとつの小説を読み、文学書を読んで感激した思い出を憶えておるか。あるいは、地方から上京して来て、そうして、はじめて新たな世界でもって、自分ひとりで一軒の家、または、一間のアパートを借りて生活をはしめたときの感じがわかるか。あるいは、社会に出て、はじめて給料をもらったときのあの感激をまだ憶えておるか。自分がはじめて働いて得たお金でもって、ネクタイの一本を買ったあのときの嬉しさがわかるか。はじめてのボーナスでもって、両親に万年筆なり、ハンドバッグなりを買ってあげたときのあの感激をあなたは思い出せるか。

あるいは、父や母が、あなた方が困ったときに励ましてくれた言葉のひとつひとつを憶えておるであろうか。あなたのことを悪く言った人も、数多くいたかもしれないけれども、そのときどきにあなたを庇(かば)ってくれた人がいたということを憶えておるだろうか。

全世界人類が敵だと言うような人はいないはずです。どんな人であっても、その人に味方し、その人の人格を信頼し、その人を良き人だと思ってくれた人がいるはずです。そうした人との出会いというものを、もう一度考えてみようではないか。

あるいは、「いい人ね」と言われたときの嬉しさを憶えておるか。はじめて映画を見て、海外の素晴らしい風景を見て、感動したことを憶えておるか。

あるいは、お金を貯めて、はじめて車を買ったときの感激を憶えておるか。はじめて新婚旅行へ行ったときのことを憶えておるか。はじめて子供が生まれたときのことを憶えておるか。その子の将来について、夫婦で語り合ったことの感激を憶えておるか。

また、自分が老(お)いていったときに、子供たちが独立していくのを見て、自分の父母が、自分のことを、かつてどれだけ愛してくれたかということを感じ取る感激というものを思い出すことができるだろうか。


12.感激の瞬間と瞬間とをつなぎ合わせて、幸せの空間を広げていきなさい


人生のいたるところに感激の瞬間があるのです。人生という大河のいたるところに滾々(こんこん)と湧き出でて止まない清冽(せいれつ)な清水があったのです。泉があったのです。ただ、その泉の存在を人間は忘れ去っておるのです。泉の存在を忘れ去って、水を汚しているものばかりに、目を奪われておるのです。

その感激の瞬間、瞬間というのをつなぎ合わせていきなさい。点と点を結んでいきなさい。そうすれば、線ができます。線と線を結んでいきなさい。やがて面ができます。そうして、自分の幸せの空間というものを広げてゆきなさい。

このように、人間は、環境によって、幸、不幸が決まってしまうものではないのです。そのなかにおいて、何をどう感じ取っていくかという、その能力によって、幸、不幸が別れてゆくのです。不幸感覚の強い人間というのは、どうしても不幸になってゆくのです。不幸なことは大きく、幸せなことは小さく感じる人間というものは、自然に不幸な人生になります。しかし、不幸なことは小さく、幸せなことは大きく感じる人間というものは、自然に明るい方面へと向いていかざるをえんのです。


13.神の子として目指す方向は、幸せは大きく、不幸は小さく見ていくこと


このように、人生というものの組み立てを、幸せなものは大きく、不幸なものは小さく見ていこうという方向なのです。素晴らしい方向なのです。

人生のなかで、自分の父や母が亡くなることがあるでしょう。しかし、父が亡くなったことを何十年も悔やんだところで、それは何にもなりません。ひとりの人が亡くなった後には、ひとりの赤ん坊が生まれているかもしれない。その赤ん坊が生まれた喜びをわずか一日しか考えず、人が死んだことの悲しみを一年間も悲しんでおったなら、その人は、どうしても幸福にはなっていくことができないのです。

このように、幸福というのは、それを感じとる感覚を磨いていくことによって、ほんとうに得ることができるのであるならば、なぜその感覚を磨いていこうとはせぬかです。

天上界の高級霊たちは皆、素晴らしい幸福感覚というものを持っております。下へ行くほど、不幸感覚が強くなってゆきます。地獄へ行けば、不幸感覚の持ち主ばかりです。被害妄想の人たちばかりです。この地上においても、自分を不幸だと思っている人たちは、決して幸福の世界には来れないのです。


14.人間の永遠の発展は、「我は幸福のみを見つめる」という姿勢のなかにある


地上の皆さんも、努力をして、不幸な自分ではなくて、幸福な自分をつかみ出していく、幸福な瞬間を見つめていく、どうかそういう努力をしていただきたい。かつて自分が歩んで来た人生のなかで、幸福な自分というものを見出してきたならば、これから毎日の人生においても、おそらく幸福を見出していくことができるはずです。

どんなことのなかにも、幸福を見出していける力こそ、あなたの人生における最大の武器であり、最大の力なのです。どんな場面においても、「我は笑顔を忘れす、我は幸福のみを見つめる」、これがほんとうの姿勢なのです。そして、このなかにこそ、人間は、永遠の発展という、本来の課題というものをまっとうしていけるのです。幸福を見出していく能力のない人間にとって、発展はないということです。幸福を見出していける能力のある人間であるからこそ、石段を一段一段と積んでいけるのです。それを、不幸ばかり発見する能力があれば、石段の向こうが、いつ崖(がけ)になるかがわからんのです。


15.高級霊界へ行くほど幸福感覚は強く、地獄の奥ほど不幸感覚が強くなる


今日は、これだけでも知っておいてほしい。つまり、天上界では、上へ上がれば上がるほど、幸福の感覚を持つ人が多くなる。下へ下がれば下がるほど、地獄の奥へ行けば奥へ行くほど、不幸感覚が強くなるということです。それが、人間の心の作用であるならば、それを鍛えていくこと、それこそが、魂の最大の修行ではないでしょうか。

どうか皆さん、外なる目を閉(と)じ、内(うち)なる目を開(あ)けて、内なる目でもって、自分というものをもう一度見つめ直していただきたいのです。そして、そのなかで、ほんとうに幸せだった自分というものを、ひとつひとつ探し出して、心のなかのアルバムにスナップ写真として並べてゆきなさい。そこにあなたの感動の歴史があるはずです。そして、そのスナップ写真こそ、あなたがあの世へと持って還れる唯一の貴重品であり、唯一の財産なのです。どうかそのことを忘れないでいただきたい。以上が、私の今日の話です。