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目次
















1.人間は希望という灯(あかり)を照らしながら進んでいくのが本筋である


谷口雅春です。今日は、希望の瞑想ということで、我が理想実現の方法、希望成就の方法を、地上の皆さんに伝授いたしたいものであります。

まず、人生には、希望というものがどうしても必要であります。希望のない人生というものは、灯(あかり)を失った闇夜の道にも似て、恐怖心と猜疑(さいぎ)心と不安感、これにさいなまれた生き方を意味しております。やはり人間は、希望という灯(ともしび)を、カンテラを照らしながら、進んでいくのがその本筋であります。

たとえば、今、季節が冬であるとしても、冬のままであるのならば、人間は深い挫折感と孤独感にさいなまれることとなりましょう。しかしながら、実際は、冬は冬としては留まってはおらんのです。冬はまた、冬のなかに冬以外のものを内包(ないほう)しておるのです。雪のなかにおいて、もう春に向けての息吹(いぶき)が感じられるのです。草々が春の準備をし、花々も春の準備をしております。また、冬眠に入っておった動物たちも、春に向けて、そろそろ体の準備をしております。冬という「静」のなかに、春という「動」がもうすでに入っておるのです。


2.人生の冬の時代に、春に向けての準備を進めておく必要がある


私は、人間の人生もかくあらねばならんと思うのです。冬の時代というものは、どなたにもあろう。人生における冬というのは、つまり挫折の時期であり、世の中の風当たりの強さを感じ取るときであり、世に遇(ぐう)されないときであり、人びとの好意を得られぬときであり、また、経済的にも、打開の道を得られぬときであろうと思う。

こうした時期というものは、たいていの方が、一度ならず体験をしておるのです。それは世にある普通の人のみでなく、この谷口雅春もまた、そうした経験をしております。このときに、人間はやはり、春に向けての準備というものを着々と進めておく必要があるのです。いきなり春がきたからといって、桜が花を咲かすことも、梅が花を咲かすこともできんのです。

梅が花を咲かすためには、風のなか、雪のなかに、蕾(つぼみ)をしっかりともたげておかねばならんのです。桜にしてもそうです。冬の間に、木の先に、そのエネルギーを、力を、蓄(たくわ)えを、集中させておるのです。そうであるからして、春がくれば、芽吹き、蕾となり、花が咲くのです。同じことは、フキノトウについても言えましょう。雪の下、黒い土のなかに埋もれておるけれども、フキノトウは知っておるのです。やがて、頭の上にあるこの雪が流れて去っていくことを。春の暖かい日射しを浴びて、この雪が流れ去り、さんさんと陽光が降り注いだときに困らぬような自分であるように、フキノトウは、黒い土のなかにあって、すでに準備を進めておるのです。

大自然、万物、生命、すべてがこのような春に向けての準備をしているなかに、人間だけが独(ひと)り我れ関せず、我れ冬のなかにあり、ということで満足しておってはいかんのです。やはり、春に向けての心がけと準備が必要です。そのためにも、希望の原理、希望実現の原理というものを、人間はしかとつかんでおかねばならぬと私は、思います。


3.希望の原理の第一――人間は、念(おも)いで自分の人生をつくっていける存在である


まず、その希望の原理とは何かについて、ご説明を申し上げることとしましょう。希望の原理とは何か。それは、人間というものは、念いによって自分の人生をつくっていける存在だということを、まず信ずることです。ここからはじめていくんです。

自分自身の人生を、自分の念いによって開いていくことができるということを、まず信ずること。これが出発点です。これを信じない人にとっては、人生はそもそも偶然の連続であって、それ以上のものではあり得ないのです。まず、念いによって道が開け、念いによって人生ができるということを信ずることです。


4.希望の原理の第ニ――その念いがいかなる方法で実現するかの方法論を悟る


さらに、その念いがいかなる方法でもって実現するか、ということについての方法論を悟っておらねばなりません。すなわち、念いというものは、ひとつの電波であり、ひとつの放送であるということを知らねばならんということです。放送局から放送がなされるということは、放送局から電波が発信されるということは、全国のどこかの有志に、必ずその電波が受信されるということです。放送局にあっては、一体だれがその電波を受信するかということは定かではないのでありますが、だれかが、必ず傍受(ぼうじゅ)しておることだけは確かなことです。それをまず信ずることですね。

つまり、念いというものは、全人類に向けてのメッセージだということなのです。日本において念っておっても、その念いはインドに、中国に、アメリカに、ヨーロッパに、アフリカにと伝わってゆくのです。これが念いの性質であり、念いを遮(さえぎ)る障害物は何もないのです。

念いの速度というのは、光の速度と同じか、あるいは、これをも超える速度であると言われております。すなわち、念ったが瞬間、地球の裏側にまで念いが到達しておるのです。そうして、いろんなアンテナに働きかけながら、やがて地球を一周回って、自分自身に返ってくるのが念いであるわけです。

念いが、全人類にとって受信される電波であるという証明は、たとえば、人工衛星による衛星中継と同じです。放送局によって放送された電波が、大気圏のどこかの層に当たってはね返り、地上にあるいろんなアンテナヘと、傍受されていくのです。同じように、念いというものも、日本から発されたものが、全世界を駆け巡ります。いろんなところに伝わっていきます。そして、受けられなかった電波というのはどうなるかというと、やがて地球を一周して、自分自身に帰ってくるのです。

そうすると、念いのなかに二つの問題点といいますか、重要点があるということを、人間は気がつくはずです。第一点は念いを発せねば、人はこれを受けとらんということ。第二点は、念いは必ず自分自身にはね返ってくるということです。


5.念(おも)いの性質を知り、使い切ることができたなら、念ったとおりの人生が展開


であるならば、その念いの性質によってどう変わるであろうか、ということが次に考えられるわけです。

自分が、今、冬の時代にあるとして、これからますます厳しい氷河期がくるんだとばかり、いつも自分に言い聞かせておって、もっともっと悪い人生が自分を迎えるであろうと願っておれば、願うというのは、つまり、心の奥底で思っておれば、その電波を、また地上の他の人が受け取って、そのとおりのことをやってくるわけです。

ちょうど時代劇を見ておって、「この悪役はやがて斬(き)られるだろうな」と思って見ておると、案の定、その悪役が、正義の味方によって斬られるがごとく、自分は、やがて運命によって翻弄(ほんろう)され、悪い人生を歩むであろうと思っておると、そのとおりの顛末(てんまつ)となるのです。

また、他人によって受け取られなかった電波も、地球を一周して自分自身に返ってくるのです。そうすると、今度は、自分自身もまた、みじめな未来というものを念い描くようになる。悪い念いが自分に返ってくる。その結果、悪い現象が、身の回りに起きてくる。こういうことがあるわけです。

逆に、では、いい念いを常々念っておればどうなるかと言うと、たとえば、テレビで言えば、善玉だな。あるいは、正義の味方の役を自分が念っておると、どうなるかと言うと、まあ、問題をかかえた人たちが回りに集まって来て、その人の一言(ひとこと)によって立ち直ったり、その人の判断によって素晴らしい道が開けたり、人生問題が解決したり、そうしたことが眼前に次々と繰り広げられるようになるものです。そしてまた、その良い念いの波動が地球を回って自分に帰ってくると、自分がますます良くなってくる。肉体的にも調子がいい。精神的にも調子がいい。こういうことになってくるわけです。

ですから、人間は、希望の原理を考えるときに、こうした念いの法則ということをまず知っておかねばならぬ。この念いとは、要するに「念」ということですね。この念ということを、十分にその性質を知りつくして使い切ることができたならば、まさしく百事如意(ひゃくじにょい)、念ったがごとくの人生が展開するのであります。


6.私の言う「希望実現の法則」は、自力でも他力でもない絶対力である


そうして、今言った放送局のたとえのとおり、それの実現の具体的手段を考えなくとも良いのです。良いことがくるということを常に念い、ロに出しておると、必ずだれか第三者の力を借りて、それが実現するのです。

まあ、これを単なる他力という人もいるかもしれないけれども、単なる他力とは違うのです。単なる他力は、自分はこんなにつまらぬ人間ですけれども、神様、仏様、どうかこの自分を救ってやって下さい。幸せにしてやって下さいというのが、他力であろう。自力というのは、そのみすぼらしい自分を何とか努力をして、改善していこうとする道であろうと思う。

私の言う「希望実現の法則」は、このどちらでもない。すなわち、自分自身をそんなみすぼらしいものとは思わないということです。自分自身が素晴らしいからこそ、素晴らしい環境が巡り合わせてくるのだと考えるのです。自分自身が神仏の心にかなうような存在であるからこそ、神仏は我を加護(かご)し給うのだと考えるということなのです。つまり、これは、自力でも他力でもない絶対力と言ってもよい。自分がすなわち、神仏と同じであり、神仏がすなわち、自分と同じである境地、神仏と自分が直結された境地です。

これは、神仏と切り離された弱い、弱い自力の自分でもなければ、弱い自分を捨てて、他力だけに救いを求める他力信仰でもない。これを「絶対力(ぜったいりき)」と言うのです。この絶対力の原理に目覚めたとき、人間ははじめて、生きてゆく勇気というものを得ることができるのです。自分が素晴らしい神の子であるからこそ、神の子にふさわしい環境が眼前に繰り広げられてくるのです。


7.念(おも)いの出発点は、自分自身を素晴らしいのだと念うことである


したがって、まず、念いの出発点は、自分自身を素晴らしいのだと念うことです。自分は素晴らしくないけれども、素晴らしい環境が出ますようにと祈っても、素晴らしい御殿(ごてん)が出てきたときには、乞食(こじき)のような恰好(かっこう)をした自分は、そのなかに住まうことができんのです。

たとえ今、ボロを着ておっても、自分はもともと長者の子であり、富者の子であり、貴族の子であって、今はたまたまこのような貧しい身なりをしておるだけだと、自分を見ることができる人にとっては、やがて協力者が現われて、そして、御殿を提供したとしても、それは何ら不思議ではない。「私にとってふさわしい環境が現われただけである」と、その人は思うであろう。そのときに、ボロ着を脱ぎ捨てて、その宮殿に住むことができよう。

ところが、自分の身なりだけを見て、自分をほんとうに乞食の類(たぐい)だと思っておったら、人が来て、そうした宮殿を提供しようと言われても、きっと何かの罠(わな)があるに違いない、と。自分はそのなかに住もうとすると、監禁されて、牢屋(ろうや)のなかに放り込まれるに違いない、と。こういうふうに思っておったのでは、たとえ、そうした他人の手を介して大宮殿が現われてきたとしても、やはりそこに住むことはできんのです。ここが大事であるから、よく聞いてほしいのです。


8.法華経のなかにある長者窮子(ぐうじ)のたとえ話


仏教のなかでも、法華経のなかに、長者窮子という、まあ、たとえ話があります。ある長者のひとり息子がおったんだけれども、幼いときに、その子が行方不明になってしまった。そして、どこに行ったか、わからなくなってしまった。で、あるとき、その行方不明になった息子が、もう大人になってきておるんだけれども、何とルンペンをやっとるわけです。そのことがわかった。

そのルンペンが旅をして、ある町にやって来たところ、門構えの立派なお屋敷(やしき)があった。その門の側で立っておると、金銀財宝が次々と運び込まれていく。素晴らしい御殿がある。そのルンペンは、こういう人も世の中におるのだなというふうに見ておるのだけれども、まさか、それが自分の実家だとは思わない。自分がそこの大金持ちの子供だとは思ってはおらん。ところが、門のところで、このルンペンが立って、金銀財宝を運び込まれる姿を見ておるときに、ちょうどその長者、大金持ちが縁側のところへ出て来ておって、玄関のほうを見ておった。

そうすると、あれに立っておるのは、まぎれもなく十数年前に見失った我が息子に違いない。そういうことで、家来に命じて、「あの者を連れて来い、ただちに連れて来い」と言って、三、四名の家来に命じた。そこで、家来はそのルンペンを追いかけて行く。

ところが、ルンペンは、これは一大事とばかり、自分は命を奪われるに違いないと思って、命からがら町のはてまで逃げていく。結局は、つかまえられて、カゴに入れられて、長者の屋敷まで運んで来られるのだけれども、ルンペンは、「何でこんなひどいことを自分はされるのか。自分はまだ一度も盗みはしたことがない。してないのだ。ただ金銀財宝を見ておっただけである」と、こういうことを言いよる。

それで、その大地主の大金持ちの父は、我が子との名のりをあげたいと思ったけれども、このままではとてもダメだから、まず、これを下男として雇い入れようということで、箒(ほうき)を与えて、庭掃除からやらす。そして、庭掃除ができたら、次はもうちょっと高度なことをやらしてみる。

このように、だんだん取り立ててきて、番頭にまで出世させる。そして、周りの人たちが認めはじめたときにはじめて、「お前は、実は私の子だったんだ」ということで、親子で名のりをあげて、涙を流し合う。まあこういう話があります。


9.金持ちの息子と思える人は思い、思えない人は、発展していく像を持ちなさい


このたとえ話は、二つの面を持っております。そのひとつの面は、人間、本来、そういう大金持ち、長者、富者の子供であるにもかかわらず、自分をルンペンだと思い込みやすいということです。これは、自分を罪の子だと思うような思想と一緒です。この面がひとつ。

もうひとつの面は、人間という者は、そういうふうに段階を追って、方便(ほうべん)で言ってもらわんとなかなかわからんということです。ルンペンをしておったのに、ある日突然、その長者の跡継(あとつ)ぎになれと言われても、できるもんではない。心の準備がないからです。そういうことです。そのために、その賢い大金持ちは、そうした段階を踏んで、教育ということをやりました。このなかに、永遠の真理というものが入っておるのです。

皆さんは、自分をルンペンだと思っておるかもしれない。あるいは、草履(ぞうり)取りだと思っておるかもしれないけれども、いつか、あなた方は、天下人として立つようになるかもしらんのです。まずそうしたことを、心のなかに思える人はよろしい。ですから、まず、思いなさい。自分が大金持ちの息子だということを、思える人は思いなさい。

もし思えないのであるならば、まず、自分は日本一の庭掃きになって、その後、日本一の草履取りになって、日本一の勝手役人となり、日本一の番頭となるというふうに、手順を踏んで、発展していく自分のイメージ像というものを持ちなさい。それはどちらでもよろしい、それは個人の使い方によって違うであろう。


10.自分自身が宝を持っていることを知らない人のたとえ話


あるいは、別の話をもうひとつしておこう。ある人のところへ、昔なじみの友だちがヒョッコリ訪ねて来た。ところが、かつては親友であった二人だけれども、訪ねて来た友だちは、今は非常に大成功している。しかし、その友だちのほうというのは、今もなおあばら屋に住んでおる。貧乏暮しをしておる。そして、その大金持ちになった友だちは、「まあ、これは何と哀れな」と思いながら、一晩宿を貸してやった。

大金持ちの友だちは、翌日朝早く、旅に立たねばならなかった。その前に、友人にお金をあげようと思ったけれども、横をみると、友人のほうは、まだグーグーと寝ておる。起こしては悪いと思って、友人の着物の襟(えり)のところに、自分が持っておった一番大きな真珠を縫いつけておいた。

ところが、その貧乏な友人は、自分の着物の襟にそんな大きな真珠が縫いつけられているとはつゆ知らず、未だに貧乏をし続けておった。そして、あるところで、万引きか何かをして捕まってしまう。そして、警察に引き立てられる。そのときに、そのことを新聞で読んだ友人が飛んで来て、「お前、どうしたんだ、何でそんなことをした。たかだか数百円ぐらいのものを盗んだりしたのか」と。そのときに、その友人は、「イヤー、私は金がないから、しょうがなかったんだ」と、そういうことを言う。

そのときに、大金持ちの友人は、「しまった」と思うわけです。「私は忙しかったんで、ついつい話をしなかったんだけれども、彼はきっと気づいてくれると思って、彼がお金持ちになれるように、襟に真珠を縫いつけておったのに、それに気がつかなかったらしい。ああ、かわいそうなことをしてしまった。それさえ気がついておれば、そんな泥棒(どろぼう)などしないですんだのに」と。

まあ、そういう話もあります。これもまた、自分自身が宝を持っておることを知らんということです。あるいは、財布のたとえでもいい。財布のなかに、その人が昼寝をしている間に、友人に一万円札を十枚、二十枚入れられたとする。けれども、その後、寝ておった人が起き上がって、外へ出て行き、買いものをしようと思ったけれども、自分の財布はいつも千円しか入っておらんから、まあ、せっかくいいネクタイを見かけたけれども、こういうネクタイは、自分は買えないと思って、スゴスゴと帰って来る。これと一緒です。


11.病気がちで、貧乏で、失敗ばかりしている人は、神の子の本来の姿を忘れている


自分が本来、そうしたものを、すなわち、価値あるものを持っていないと思っている者にとっては、たとえ価値あるものがあったとしても、それがムダになるのです。役に立たんのです。

神様というものは、無限供給者であり、無限の成功を持っておられる方なのです。そうした方が、神様としてやっておられるにもかかわらず、その子供たちが病気がちで、貧乏で、事業で失敗ばかりしているのはなぜですか。それは、今、私が言ってきたたとえ話のように、自分が本来、そうしたものを備わった人だと言うことを知っていないからです。あるいは、信じていないからです。

人間が、自分は神の子だということをほんとうに信じることができるのなら、神が成功のもとであり、大金持ちのもとであり、健康のもとであることを知っているはずです。すなわち、自分が病気ばかりしておる人というのは、本来健康な自分というものを忘れておるのです。神が健康であるのなら、神の子も健康です。貧乏暮しをして、その日暮しをしておる人も、結局は同じです。本来の姿を忘れておるのです。このたとえ話をよく味わっていただきたい。

結局、人間というものは、それほど愚かな者なのです。二つの目がついておりながら、自分のほんとうの値打ちがわからない。人間が思ったとおりの自分になるという言葉があるけれども、まさしくそれは、そのとおりであって、最高の発展の形が神様であるならば、神様への途中の目標というのは、すべて達成ができるはずなのです。神になることはできなくとも、神近き人間となることはできるのです。そうであるならば、この世的に、不可能なことはほとんどないのと同じなのです。どうか、このことを誤解しないでいただきたいと思う。


12.才能と成功を受け入れられるような自分を瞑想で描き、その実現を願う


すなわち、本日は希望の瞑想ということで、縷々(るる)話をしてまいりましたけれども、瞑想の状態にあって希望することは、本人自身が、実は、そうした素晴らしい才能と素晴らしい成功を受け入れられるような自分であるということを、まず心に描く。そして、そのイメージを描き続けるということ。そして、必ずだれかの手によって、そのイメージが成功させられると願うことです。

あるいは、こうなりたいと念じたことは、もうすでに受けたりと信じて、そして、手を出して受け取ることです。まず、お礼を言っても良いのです。つまり、「神よ、このたびは、私を成功させてくれてありがとうございました。今度は、経済的危機を救ってくれてありがとうございました。今度は、病気を治してくださいましてありがとうございました」と。

このぐらいのことを、すでにお礼を言うあなた方であれ。自分の病気、病気と、病気をつかむな。病気が全快して、人びとに握手して回って、笑顔をふりまいている自分を心にいだけ。そして、周りの人に感謝せよ。必ず病というものは消えていくであろう。というのは、本来、神が健康であるように、あなた方も健康であるからです。

希望の瞑想とはかくのごときものであり、この希望の原理を基にした自己実現のイメージなのです。すなわち、これをいだき続けるということです。まあ、以上でもって、本日の私の話を終わりたいと思います。