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目次



















1.宇宙即我の瞑想は、仏陀の瞑想である


それではこれから、宇宙即我の瞑想について、説明をはじめます。宇宙即我の瞑想というのは、とりもなおさず、これはブッダの瞑想です。したがって、宇宙即我の瞑想ができるためには、ブッダの悟りを得ることがその前提条件となります。

今までにもさまざまな瞑想というものを見てきましたけれども、これらの瞑想を卒業して、最終段階として、ブッダの悟りを得たときの瞑想が、この宇宙非我の瞑想なのです。簡単に宇宙即我について説明を加えながら、その後、ブッダの悟りに入り、そうして、宇宙即我の瞑想とは一体何なのかということをつきつめて、さらに語ってみたいと思います。

まず、宇宙即我という言葉の持っている意味について説明いたします。言葉そのものどおり、宇宙が、すなわち、自分自身となった境地のことを、宇宙即我と言います。


2.仏陀の宇宙即我の悟りの内容①――本来の自分は、肉体を越えた大きな存在だ


具体的な例としては、今から二千五百数十年、あるいは、二千六百年近く前のこと、インドのピパラの大木のもとで、ゴーダマ・ブッダが禅定に入り、一週間目の禅定のときに、この宇宙即我の体験をしたのです。そのとき、ピパラの巨木、大木のもとで禅定していたブッダの体が、小刻みに揺れ、前後左右に小刻みに小さな振動を繰り返し、やがてブッダの意識は、自分の意識が、小さな肉体というとらわれから離れていくのを感じ取りました。

するといつしか、肉体は、眼下のものとなり、殼(から)を脱いだ蝉(せみ)のごとく、肉体からスルスルと抜け出していくもうひとりの自分というものを感じ取ったのであります。そしてやがて、そのもうひとりの自分であるところの霊の自分が、やがてピパラの木の大木の高さにまでなってきます。そのとき、木の根元で、小さく坐している自分の肉体、やせた、頬(ほお)のこけた肋(あばら)の浮いた肉体というものを見たのです。

そして、ブッダはそのとき、自分というものは、あのちっぽけな肉体に宿る自分ではなくて、本来この肉体を越えた大きな存在であるということに気がつきました。


3.仏陀の宇宙即我の悟りの内容②――霊体が大きくなり、地球を眼下に見下ろす


こうして、自由自在な自分というものを感じ取っていったとき、そのもうひとりの自分の体というもの、霊的な体というものがさらに大きくなっていくのを感じました。

やがて、ピパラの木さえも、眼下に見えてきます。時刻は今で言うと、明け方のおそらくは四時から五時でありましょうか。明けの明星が遙かに見えますが、その遙かに見えた明けの明星が次第に眼下へと遠ざかっていきます。遠くにガヤダナの町が見えてきます。広がっていきます。その町の家々の姿が、次第に次第に遠ざかり、下のほうへと見えていきます。そうして、山々が見えてきます。山々が見えはじめ、そして、山々が下へと下がっていき、やがて山々が遠ざかっていく姿が見えていきます。

さらにさらに、ブッダの意識というのは、大きくなっていきます。まるで何キロメートル、何十キロメートルの巨体のごとく、大きな巨人となっていく感じを自分は持っています。そうしたときに、やがてネパールの山々が見えてきます。エベレストの山さえ見えてきます。そして、インドの大陸が見えてきます。インドの大陸さえ、眼下に、遙かに見えてきます。インド洋が見えてきます。アジア大陸が見えてきます。日本が眼下に見えてきます。西南アジアが見えます。アフリカが見えます。ヨーロッパが見えます。シベリアが見えます。

やがて、地球の全体の姿というものがくっきりと目に見えてきます。青い地球、その七割は大海原です。大海原のなかにさまざまな陸地が散りばめられ、さまざまな陸地のなかに山脈があり、谷があり、川があり、平地があり、田があり、畑があり、住宅があり、そこにさまざまな人びとの生業(なりわい)というのがあります。ブッダの体は、地球を眼下に見下ろすような大きな体となって、今、目の前に水晶の玉を見るかのごとく、地球が小さくクルクルと回っておるのです。


4.仏陀の宇宙即我の悟りの内容③――仏陀の霊体は、星々、太陽をも眼下に見下ろす


青い地球、そして、さらに体は大きくなっていきます。その水晶の玉にも見えた地球さえも、眼下に遙か遠ざかっていき、やがて、宇宙のなかの一点になっていきます。そして、それは小さな細胞にしかすぎないということがわかってきます。この大きく見えた地球さえも、大宇宙の小さな細胞の一点にしかすぎないのです。

そうして、大きくなったブッダの目のなかには、さらに、他の星々が見えてきます。地球よりさらに小さな点としての月が見えてきます。赤く見えてくるのは、あれは火星でしょう。金色に光っているのは、金星でしょう。土色に見えながらも、冷たい光を放っているのは土星でしょう。そうして、また、遙かかなたに太陽が見えます。太陽がまた、小さな小さな球(きゅう)に見え、赤くメラメラと燃えていきますが、そのメラメラと赤く燃えた球が、また遠ざかっていきます。そして、その太陽さえもが遙かかなたに小さな点になっていきます。


5.仏陀の宇宙即我の悟りの内容④――仏陀の意識は、全宇宙と一体となる


ブッダの体は、さらに大きくなっていきます。そして、銀河系宇宙のなかに広がっていきます。自分の体のなかに、銀河系の星雲がすっぽりと収まってくるのを感じます。銀河が、自分の腋(わき)の下に流れていきます。そうして、さらに大きな自分となっていきます。ブッダの意識はついに、自分が銀河系の意識をも越えて、全宇宙と一体となったというところまで感じてきます。

全宇宙は、自分の体であり、自分の体が、すなわち、全宇宙。地球と思っておったのは、我が肉体の一細胞であった。太陽と思っておったのはまた、我が肉体の一細胞であった。銀河系と思っておったのは、これは、我が肉体細胞のなかの心臓器官にしかすぎなかった。心臓そのものが、銀河の大きな宇宙であった。さらに、自分の肉体諸器官に当たるさまざまな惑星系団が、自分の体のなかにすっぽりと入っている。


6.仏陀の宇宙即我の悟りの内容⑤――「宇宙即我を悟るため」との神の声を聞く


こうして、宇宙を自分のなかに引き入れながら、ブッダの意識は、ドンドン遠く、遙かに、高度になっていき、やがて、神とは何かということを直観的につかむところまできました。これ以上自己が拡大すると、もはや自分は神と一体となるというギリギリのところまできました。

その宇宙大にまで広がった体のなかで、ブッダは考え続けておりました。これ以上自分か大きくなると、おそらく自分は神と一体となろう、と。そう思ったとき、大宇宙のはてから、荘厳(そうごん)なる声が聞こえてきました。

「ゴーダマ・ブッダよ、お前はまだ、神になることは許されてはおらぬ。お前の今回の悟りは、宇宙即我を悟るまでのこと。宇宙、大宇宙が、自分の体であり、銀河系は神と同一であるような、大きな自分の体の中心であり、心臓であり、また、太陽は、心臓の一部のなかの細胞であり、地球もまた、一細胞にしかすぎぬ。その一細胞のなかにまた、さまざまな生物たちが住んでいるという、そうした世界観を獲得したところで、お前の今回の宇宙即我の体験は十分ではないのか」

そういう声が聞こえてきました。

「ブッダよ、やがてはお前も、私と同じように、大宇宙とひとつとなる前に、お前には、まだやり残しておる仕事があろう。そのやり残している仕事というものをまっとうせずしては、ほんとうの意味での神にはなれないのである。

やり残しておる仕事とは何か。地上では、インドにおいて、お前は、ピパラの大木のもとに、やせさらばえた肉体を置いてきたではないか。その肉体を死体としてそのままにして、お前は、この宇宙に遍満(へんまん)する意識となり得るか。お前は、そのやせさらばえた肉体を支配して、残り四十数年の間、人びとに法を説いてこそのお前ではないのか。その仕事をまっとうせずして、神と一体になることはできぬ」

そういう荘厳な声が宇宙のはてから、限りないはてから響いてきたのです。


7.宇宙即我を悟った仏陀には、自らの力で人びとを救いたい執着が残っていた


神の荘厳な声を聞いたとき、ブッダは、どのように思ったのでしょうか。

自分は宇宙即我に満足してはならぬ。自分はまた、あの小さな小さな体にと入り、世の人びとを救っていかねばならぬ。その修行なくして、私の最後の悟りはあり得ないのだ。すなわち、悟りを得たと思った私にしても、まだ唯一の執着が残っておるのだ。その唯一の執着とは、一体何であるのか。その唯一の執着とは、自らの力でもって人びとを救いたいという願いである。

神そのものの意識というものは、大宇宙を生かしめながら、ジイーッと見ておられる意識である。大きな目で、すべてを育(はぐく)む目でもって、大宇宙の生きとし生けるもの、万生万物をすべて育んでいる意識が、神の意識である。

しかしながら、私の意識はまだ、生きている者たちを現実により良く導いていきたいという願いである。そうした聖なる願いがある。聖なる野望がある。たとえ聖なる野望であるとしても、やはりそれは、人間として生きている以上の、最後の執着のひとつであるには違いない。この執着が終わるまで、私は人間として、やはり修行していこう。


8.宇宙大にまで広がった仏陀の体が、次第に小さくなって、もとの肉体に戻る


そう思ったとき、宇宙大にまで広がったこの体が、やがて、引いていく霧のように次第に小さくなっていくのが見えてきました。小さく固まっていた銀河系が、やがて目のまわりに広がってきて、大きな銀河となっていきます。やがて星々が、大きな玉のように見えてきます。やがて地球も大きく見えてきはじめました。地球は水晶玉のように見えてきます。その水晶玉がクルクルと回りながら、ドンドン、ドンドンと眼前に広がってきます。

やがて大海原が見えてきます。大海原の上にかかっている雲が見えまず。ある地域には、雨が降っている。ある地域には、太陽の光が当たって、大地が暖かい、明るい。そして、海のなかにも、深い緑の海もあれば、黒い海もあれば、澄み切った青い海もある。

山が見えてくる。自分の意識が雲を突き破ったときに、懐かしいヒマラヤの山々がまた見えてきた。幼いときに遊んだネパールの山のふもとが見えてきた。多分あのあたりが、カピラ城のあるあたりであろう。自分の生活していたそうした国々が見えてくる。インドというのが、だんだん、眼前に迫ってくる。そうして、やがてピパラの木が、巨木が、三十メートルはあろうかというこの巨木が、眼下に見えてきた。だんだん、そのなかに自分が近づいてくる。

そして、ピパラの大木の下にもたれかかっているやせた肉体のなかに、霊体として出ていった私の両足が入っていく。やがてすっぽりと、肉体のなかに入っていく。その体のなかに収まったときに、私は大きくひと息をついた。そして、朝の空気を扱(す)い込んだ。

夜はもう明けかかっていた。山々に掛かった霧が、朝日を浴びて、かすかに明るく見えてきた。また、木から木の間へ、小鳥たちが、親しげに声を出し、歌をさえすりながら、飛んで行く。朝がきたということを告げながら、小鳥たちは、木から木へと飛んでいく。そうして、私の体は、いつのまにか夜露に濡れている。


9.肉体に戻った仏陀は、まず五人のクシャトリヤたちを悟らしめようと考える


やがて、私はまた、立ち上がらねばならんだろう。立って、ひとりの修行者として、食物を得、人びとの助けを得ながら、神理を説いてゆかねばならんだろう。私は今、ただ今体験したこの宇宙即我の瞑想を、おそらくだれにも教えることはできないであろう。私を護衛(ごえい)するために送られた五人の武士たちに対しても、修行者ではあるが、おそらく彼らに、私の今の体験、宇宙即我の体験を伝えることはできないであろう。肉体に宿った私は、そうしたことを考えた。

そうして、おそらく私の悟りの究極には、そうした宇宙即我の体験があるのだということを、それを最後の一番の奥のところに置いておかなければならないのだけれども、それは最後の砦(とりで)として、それ以前の教えを説いてゆかねばならぬ。まず五人のクシャトリヤたち、彼らを悟らしめるところから説いてゆかねばならぬ。彼らを悟らしめるためには、何が必要であるか。


10.仏陀となるには、人間として生きていく上での執着を取り除くことだ

まず、私は、どうして宇宙即我の悟りを得たのか。それを考えてみると、やはり、ひとつひとつの執着を去っていったことが、その悟りの根源となったに違いない。悟りたる者、ブッダとなるためには、やはり人間として生きていく上での、そのさまざまな執着を取り除いていく以外に方法はないのだ。この私とても、最後の執着、つまり、救世主として世の人びとを救いたいという執着が、未だに去れずにおるけれども、この執着を去ったときに、私は神となろう。まだ神とはなれぬ自分であるならば、この執着は、まだ課題として残しておこう。

しかしながら、この執着をそのままにしておいたにしても、私が過去六年間の修行の間で、取り去ってきた執着の数々は、何十、何百を数えるかもしれない。私は、もはやこの世の中のものに執われていない。肉体を抜け出し、宇宙即我を経験した自分としては、もはや肉体にさえ執着はない。肉体は仮(かり)のものであり、単なる乗りものであり、魂の乗り舟にしかすぎないということをはっきりと実感した。しかし、他の者たちはまだ、肉体が魂の乗りものであるというところまでは体験をしてはおらんであろう。

したがって、私はまず、肉体は魂の乗り舟であり、その乗り舟に対する執着を持つことによって、人生の多くの苦しみや悲しみ、迷いや、悩みができるのだということを、人びとに説いていこう。苦しみの原因が執着であり、執着を去ることから、ほんとうの意味での解脱(げだつ)がはじまるのだ。ほんとうの意味での自由自在な自分の、まず第一歩がはしまるのだ。

悟りということは、仏になるということであり、仏になるということは、縛っていた自分自身の執着の絆(きずな)が解(ほど)けるということなのだ。すなわち、仏とは、「解(ほど)ける」ことであり、自分自身をがんじがらめにしていた執着の糸を、一刀両断し、快刀乱麻を断つがごとく、バッサリと切ってしまうことだということを悟った。

では、執着を断つための方法として、一体何かあるのだろうか。私は考えに考え、夜を日についで考え、そうして、一番間違いのない方法は、やはり正しさの探究であろうということに気がついた。執着を去り、悟りの世界に入るための根本は、正しい心の探究であり、正しい心を探究していくためには、いくつかの方法論があろう。

その方法論のひとつが、八正道ではなかろうか。人間は、自らの五官に振り回され、五官煩悩のままに振り回されて、本来の自分を見失っていく。本来の自己を見失っている。魂としての自分自身を見失っている。


11.正しき心の探究のための方法①――正しく見る・正しく語る


しからば、その五官煩悩を、もうひとつの第三者の目でもって見て、正しく修正していくことが肝要(かんよう)なのではないだろうか。そしてまず、正しく見ることからはじめていこうではないか。煩悩をつのらせ、さまざまな迷いをつくり、さまざまな苦しみをつくっている。さればまず、正しく見るということからはじめるべきである。

正しく見るということができたら、次は、何であろうか。正しく語るということもまた、大事ではないであろうか。自分の過去を振り返っても、人間関係のなかにつくった波紋(はもん)は、そのほとんどが、正しく語るということができないがために起こった不調和ではなかったのか。

ことばを整えていくことが、一番肝腎(かんじん)なことだ。それは、人間の間で、大調和をつくっていくためのひとつの方法でもあるのだ。人を生かしめる力、ほんとうに人を奮(ふる)い立たしめ、勇気を起こさす言葉、こうした言葉こそが、大事なのではないか。さすれば、人は、正しく語るということを探究してゆかねばならん。


12.正しき心の探究のための方法②――正しく思う・正しく生活する


正しく見る、正しく語るということができたならば、正しく思うということが、次に探究されてもいいではないか。一日のうち、正しく見たか、正しく語ったかを考えたならば、では、思いの内容はどうであったか。ロに出さなかった、目では確(しか)とは見なかったけれども、そうしたことを心に思ったことはないか。悪しきことを描いたことはないか。この心のなかの探究もまた、大事であろう。正しき思いというものも、大事なのです。

しかしてまた、正しい生活ということも検討されねばならぬ。すなわち、正命(しょうみょう)です。人間の生命(いのち)は、その日の朝になってみなければ、今日一日の命があるということがわからない。死は、いつ自分を襲うかもしれない。夜寝る前には、人びとは、そのことを考えていないけれども、明日に命があるという保証はない。けれども、人びとは、永遠の生命を生きているかのごとき気持ちでいる。

しかし、生命というものは、いつ失われるかわからんものである。一期一会(いちごいちえ)の生命である。朝に命を得たならば、その日一日をすべてと思って、正しく生活をしていく必要があるのではないだろうか。自分の生活には誤りはなかったか。


13.正しき心の探究のための方法③――正しく仕事をする・正しく道に精進する


また、正業です。人は、この世に生きていく上において、お互いに活(い)かし合って生きていかねばならんのです。お互いに活かし合っていくために、それぞれの人間が職業というものを持っておるのです。すべての人間が、すべてのことはできない、それゆえにこそ、お互いに助け合って生きておるのではないか。そのために、生業(なりわい)としての仕事があるのではないか。さすれば、仕事、正しい仕事をなす、正しい職業をなすということもまた、これも大調和のための一歩ではなかろうか。

また、正しく道に精進するというのがある。正しい仕事をし、正しく仕事をしておっても、そのなかで、仏法者として、仏への道を忘れることがあってはならないであろう。つまり、悟ろうとする努力を忘れてはならんであろう。学問が然(しか)り、人生経験が然り、人生経験のなかで思ってきたことが然り。それらはすべて、悟りへの階梯(かいてい)ではないだろうか。正しき精進ということを、決して忘れてはならない。


14.正しき心の探究のための方法④――正しく念(おも)う・正しく定に入る


さらに、正念、正しく念(おも)うということがある。人生の目的というものの軌道修正をせねば、人間というものは、いつ転落するかわからないものである。丸木橋の向こうに新たな道があるからこそ、危険な丸木橋を渡っていくのではないか。急流が下に流れているにもかかわらず、丸太の橋を渡っていくのは、その先に、自分が歩むべき道があるからではないのか。

しからば、危険なこの人生を渡っていくためには、その向こうに道が開けていることを実感せねばならんのではないか。心に描かねばならんのではないか。危険のみの丸木橋であってはならん。その先に「念い」があり、「希望」があるからこその危険な橋でなければならない。危険な人生の賭(か)けでなければならん。

また、正定(しょうじょう)です。こうしたことを日々重ねていくうちに、正しく定に入るということができるはずです。そうして、正しく定に入るなかに、次第に深い瞑想となり、日頃の自分というものを探究しながら、やがて、先程自分自身が悟ったように、大調和の世界、宇宙即我の瞑想へと入っていけるのではないか。

この宇宙即我の瞑想も、一回限りのことであってはならぬと思う。執着を去るための日々の努力、訓練が大事であり、日々の人間修行が大事であろう。

こうした八正道をもとにして、人間は、自分の左右の両極端を去り、心の執着を断って、偉大なる中道の道、黄金の道に入るべきではないだろうか。そうしてはじめて、完成という徳が出てくるのではないだろうか。まあ、これがブッダの悟りの、ピパラの大木の下で悟ったことの内容です。その概要ではありますけれども、こうしたことで、八正道とは正しい人間の進路、また、執着を去るための方法であったわけです。


15.自分の心の正しいあり方を探究してはじめて、瞑想が生きてくる


正しさということを追求していくときに、人間ははじめて、この世的なさまざまの束縛、さまざまな執着というものから去ることができるのです。

ですから、瞑想に入るときにまず、正しさの探究をする。すなわち、さまざまな角度から、正しい心、正しい見方、正しい考え方、正しい聞き方、正しい語り方、正しい思い方、正しい努力の仕方、正しい生活の仕方、正しい仕事の仕方、こういう正しいということを中心とした自分の心のあり方の探究ということが、まず大事です。これをすることによってはじめて、ほんとうの意味での瞑想というものが生きてくるのです。

そして、その瞑想の奥には、先程言った、宇宙即我の瞑想があります。この宇宙即我の瞑想ができる人は、まだ歴史はじまって以来、数名しかおりません。なぜならば、宇宙即我の瞑想は、救世主の悟りであるからです。けれども、先程言ったようなこの宇宙即我の瞑想ができないまでも、眼下に地球を見るぐらいまでの瞑想は、八次元如来界の悟りまで達した人にとっては、可能です。地球を小さなボール玉のように、水晶玉のように、クルクルと眼下に回っていく存在として見ることは、如来の存在であればできるはずです。ですから、そこまで努力してみて下さい。それが、今日の私の宇宙即我の瞑想です。以上です。