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目次

















(1987年1月27日の霊示)

1.GLAで生前釈迦仏教の復活を目指した高橋信次


今日は、甦る仏教という題でお話しすることになっておるんで、これは時間もかかりそうですから、さっそく本題に入っていきたいと思います。

私は、生前ということになるんでしょうけれども、昭和四十年代ですね、主として四十年代前半から昭和五十一年まで、GLAという団体の中でいろんな教えを説いてきましたけれども、その教えの中心になったのはいったいなんであるかっていうと、やはり釈迦仏教であったわけですね。とくに釈迦仏教の八正道の復活ということを中心に主として七年あるいは八年でしょうかね、話をしてきました。

そういうことで、GLAでかつて私の教えを受けた者、また現時点でまた私の著書を読み続けておる者も、高橋信次というと、仏教の現代的意義を説いた人というイメージが大きいだろうと思います。

まあじっさいね、思想的にも私の考えは、ブッダの考え方に近かったということもあるんですけれども、たしかに生前は、仏教の復活を中心に説いてきました。

そしてようやく仏教を説き終えて、キリスト教の塵(ちり)、垢(あか)を落とそうとし始めたときに、まあ天寿が来ましてね、わずか四十八歳で天寿をまっとうしました。

これはよっぽど前世のさだめが悪かったんでしょうね。まあふつうの人からみれば働き盛りのころに、もうお前はよく働いたから、もう二倍、三倍働いたから、もういいよとね、もう許してやるといわれて、ああそうですか、うれしいってなもんでね、還ったわけです。

そういうことで、ほんとうはブッダの仏教の本来の意義というのを明らかにした上で、こんどはイエス様の愛の教えのほうですね、これの本義を明らかにしようと思ったところだったのです。ちょうどそのころ私は地上を去ることになり、こんどはまあバトン・タッチということになったわけです。


2.著書『人間・釈迦』で語りたかったこと


じっさい私にも『人間・釈迦』という本がありまして、これもいま、第一巻から第四巻まで出ています。未完ということになってましてね。著者他界により未完とか書いてありますね。本にね。著者他界のため未完とか、絶筆になったとか、いろいろいわれているけど淋しいですね。

いま書いてもいいのだけれど、私がいま『人間・釈迦』の続きを書いても、三宝出版でたぶん出してくれないんじゃないかと思うんでね。三宝出版がこの霊言集を読んで『人間・釈迦』の続きを出したいと言ってきたら、五巻、六巻書いてもいいのだけれども、まあそういう依頼が来ても忙しいから嫌だとか言ってね、逃げちゃうかもしれませんけど。それはわかりませんけどね。まあこれは冗談です。

さて『人間・釈迦』のなかでは釈迦が出家するまでのこと、また出家して成道(じょうどう)、まあ道にはいるまで。

そして最初の悟りを開いて、五人の阿羅漢(あらはん)たちと出会って、やがて初転法輪(しょてんほうりん)ということで、法輪がだんだん回転し始めて、法が広がっていく姿。それから釈迦弟子たちがだんだん集まって、サンガーの生活、つまり僧院ですね、それが始まったころの話。

それからまあ釈迦がね、三宝に帰依(きえ)するかということで弟子を絞ったということ。三宝とはつまり、ブッダに帰依するか、ブッダのタルマ(法)に帰依するか、あるいはサンガーすなわちブッダ教団だね、教団に帰依するかと、この三つのことを問うたこと。

まあそしてだんだん教えが広まっていくさま。まあこういうのを書きました。

そしてまあ、釈迦の弟子たちのいろんな出会いとか、事件とか、そういうことを中心に物語を進めてきたところでね。まだ釈迦の涅槃(ねはん)までいく前に、私のほうが涅槃になっちゃって、書けなくなったんですよね。

そういうことで四巻でおわっており、高橋信次の涅槃により絶筆となりました。しかし、それ以後の釈迦の入寂(にゅうじゃく)までの話は、おそらくまたなにかの機会に書かれると思います。

けれどもま、とりあえずね、あの四巻を遺したことによって、仏教の当時のあり方というのがひじょうによくわかったというかたが多いんですね。ひじょうにあれでよくわかりましたと。

まあ仏典というのもむずかしくなって、漢語ですね、中国語の教典があって、それを読む。それの日本語訳を読んでもよくわからない。あるいは原典ですね。原典でむずかしいインドの言葉で翻訳している学者もいるけれども、どうもわかんないと。

そしておおまかな傾向としては、釈迦の教えというのがどうも思想的にとらえられているのですね。

あの世の話なんてじっさいのことじゃなくて思想としてそういうものがあるんだと、そういう感じになっていますね。

とらえ方がひじょうに抽象的です。まあ釈迦の八正道なんていうのはもう現代では抽象論になってしまって、ひとつの思想すなわち、道徳的な思想というふうな感じで、とらえられているむきがあります。

これにたいして敢然(かんぜん)として立ち上がったのが高橋信次だったわけです。まあ自分でいうのもあれですけれどもね。

釈迦のほんとうの教えっていうのはそんなもんじゃない。ほんとうにひとびとを生かすための言葉であり、またじっさいに力があった教えであるのであって、そんな抽象的な思想の産物ではない。

また人間の知と意によって歪(ゆが)められた、そうした難解なお経のようなものじゃないんだと。

そういうもんじゃなくて、ほんとうは生命の息吹がこもった教えであって、そしてその教えによって多くの人たちの姿勢が百八十度の転換をみて、そして多くの人たちが悟り、解脱(げだつ)し、幸せになっていったのが、ほんとうの釈迦教団であったんだ。釈迦の教えだったんだと。

まあそういうことを私はあの本のなかで説いたわけですね。


3.三世を見通す力で釈迦の人間としての苦しみを知る


じっさい私はみなさんご存じのように霊能者でもあったし、三世を見通す力も持っていました。

まあときどきはずれましたが、三世を見通す力を持っておって過去、現在、未来を見通すということにまあ、なっとったわけですね。

じっさい見通しとったわけで、まあたまに誤解もあったけれども、まあだいたいわかったわけです。

それで『人間・釈迦』を書くにあたっても、なんの参考文献も私は用いておりません。むずかしい仏典なんかなにも読んだことがないのです。

そうじゃなくて、いま流にいえばじっと精神統一して、薄く目を閉じてね、精神を統一すると、当時のつまり、二千数百年前の釈迦の考え、あるいは教え、あるいは弟子たちの様子っていうのが手に取るようにわかったわけですね。

眼前に広がってくる。パノラマのように広がってきて、そうして当時の釈迦の言葉っていうのがひとつひとつ響いてくるのですね。

しかも弟子たちの心の中まで手に取るようにわかりました。まあこういうのを三世を見通す力というんです。

こういうふうに過去、何千年前の過去でもあたかも現在をみるように手にとるようにわかってしまう。こういう能力があります。

これにもとづいて第四巻まで書いてきたんですね。それでまあ多くの仏教学者たちからも反響がありました。

「いや釈迦の本当の教えってぜんぜんわかんなかったけれども、あんたの本を読んでよくわかった。」

「まあ高橋さんというのはひじょうに頭がいいのか悪いのか知らないけれど、幼稚な文章を一生懸命書いてくれるので、私のような大学者から見ればすぐわかるような文章で、ああわかりやすかった。」なんてね。ずいぶん感謝していただきました。

それと逆に「釈迦の教えってこんなていどだったんですか。もっとむずかしくなかったの、ほんとうは。」まあそういう人もいました。まあいろいろです。

ただ私があのなかでやはり教えたかったのは、人間釈迦ということでね、釈迦というのは肉体を持ったひとりの優れた人間であってね、人間としての属性を持ち、人間としてのさまざまな悩みを持ちながら、そのなかで葛藤しながら、悟っていき、教えを広げていった人間であったということを説きたかったんですね。

もちろんあの世の世界では、偉大な光の指導霊というのは一般の人たちとははるかにへだたった遠い世界に住んでいますけれども、そういう光の大指導霊であっても、地上に肉を持ったときにはやはり風邪をひいたりね、やっぱりお腹がすいたり、人間関係で葛藤したり、そういう悩みや苦しみがやはりあるのです。

その悩みや苦しみのなかで、普通の人間と同じように葛藤しながらも、なにか、そこでちがう面があるのです。そのなにがちがうかということをみなさんに教えたかったんですね。

まあお釈迦様と高橋信次とをいっしょにするわけにはいきませんけれども、高橋信次という人間も、やはり苦しみやさまざまな葛藤がありました。そのなかで自分自身悟っていき、またその教えをひとびとに説いてきたのです。

ですから私の生き方というのは、まさしくね、釈迦じゃありませんが、現代において、悟りとはなにか、教えとはなにかという求道者のあり方を復活するための一生だったと思います。


4.釈迦の出家と六年間の修行


さて「甦る仏教」という題ですから、「甦る高橋信次」の話ばかりしてたんじゃ読者が怒っちゃうでしょうから、仏教の話をもう少ししていこうと思います。

じゃあお釈迦様がね、いまから二千五、六百年前にいったいほんとうに説きたかった教えとはなんだったかと。まあこれを言わにゃいかんと思います。

釈迦は出家してカピラ城から出てきて、そしてひとりで山のなかにこもります。そしてまあ当時の修行の主流ですけれども、山のなかで禅定して、なんとかして悟りたいと六年間の苦行をしたわけです。洞窟のなかで修行したこともあります。

そして釈迦が出家してまもなく、お父さんである王様から、五人の護衛が送られて、そういう人たちが陰になり日向(ひなた)になって釈尊を護っとったけれども、彼らもいつしか、護衛という役割を忘れて、釈尊の弟子になっちゃいましたね。

彼があまり真剣に道を求めているので、自分たちもついついその道にはいってしまって、もう抜けだせなくなってくる。そういうことで最後には釈尊が、村娘からミルクをもらって飲んだりしたら、「あ、堕落した。」なんて怒るところまで彼らがんばって修行しました。そういうふうになりましたね。

この初期の釈迦の六年間の苦行ですね。この姿が残っておるのは、現代でいえばやはり坐禅であるし、あるいはある意味では密教の一派に流れているのもそうであったろうと思うんですね。それらは釈迦が悟るまでの修行の姿だったわけです。

さて、それでまあ六年、二十九歳のとき出家して六年、まあ三十五、六歳になりましたでしょうかね。

これからあとは有名な話でね。釈迦は大きなピパラの木の下で、一週間反省的瞑想をしておったときに宇宙即我(うちゅうそくわれ)を体験して、それで悟りを開いたということになっていますね。


5.人間の生命体の偉大さについての悟り


そこで釈迦の悟りの内容はいったいなんだったのかを話しましょう。まあ宇宙即我は別にしてその考えを述べたいと思うのです。

彼が悟った内容は、けっきょくこういうことなんですね。人間というのは本来肉体のなかに住んでおる者じゃなくて、もちろん永遠の転生輪廻をくり返しておる偉大な、魂であるんだと。

すなわち、あの世の実在界にある生命体というのが人間のほんとうの姿であって、その偉大な生命体は、実は、神の一部であり、神の生命そのものであるのだ。

その神の生命そのものである偉大な人間の生命体というのは、母の胎内に宿って、そして赤ん坊として生まれてきたときに自分の潜在意識、すなわち過去世の記憶、あるいは守護・指導霊たちのこと、こういうのをすべて忘れ去ってしまうのだ。

それはちょうど、氷というのがありますけれどもね、氷というのを、たとえば海面でもいいし、プールのなかでもいいけれど、プールのなかにドーンと高いところから投げ込むといったんぜんぶ沈んじゃいますね。氷がいったんぜんぶ沈んじゃって、スポッと水のなかに埋まっちゃいます。

これがちょうど人間でいえば赤ん坊の誕生の瞬間なのですね。氷ならぜんぶ埋まっちゃいます。ところが誕生してしばらくすると、いったん水中に沈んだ氷のように水面にポカッと浮いてきますね。

こういうふうに氷の上のほうの10パーセントぐらいは出てますけれども、残りの90パーセントというのは水面下に沈んでいます。これがちょうど人間の姿なわけですね。

人間というのは、そういう氷山あるいは氷といっしょで、10パーセントぐらいが表面に出ているけれども、残りの90パーセントというのが、水面下、海面下に隠れておるのです。

この部分が潜在意識層であり、まあ過去世の記憶でもあるわけですね。

こういうものを持っておるけれども、人間として生きている以上その氷といっしょでね、水面以上の世界だけを生きとるわけですね。水面下の世界というのを忘れて生きています。

まあオホーツク海かどこかに行くと、大きな氷山というのがありますし、まあ流氷かなにかも流れてきます。春になるとね。

この氷山といっしょです。氷山の下には、ベーリング海峡かあるいはオホーツク海かあるいは太平洋か知りませんけれども、無限の海が広がっておるんだけれども、氷はそんなこと知らんように海面に頭をポコーッと出してね、生きております。

まあ海面に出ている部分から見たらなにがわかるかというとね、カモメが出てきてね。

カモメがなんと鳴くか私はちょっと知らないんだけれども。カモメが「カアーカアー」じゃないでしょうけれども、カモメがね、「カモメ、カモメ」って鳴きながら、氷山の上に飛んできて魚を捕ってね、魚をその上で食べたりしているぐらいの世界しかないわけですね。

ところが氷山の下を見ると、無限の世界、神秘的な海っていうのが広がっていますね。これを人間は忘れてしまって、表面だけ、つまり、空とカモメと、それとピチャピチャはねてる魚ぐらいしか見えない世界で生きておるのですね。

これが肉体人間の世界です。釈迦がこのことをはっきりと説かれましたね。


6.「本来肉体なし」の悟り


これをはっきりとつかんで有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)のなかに、「色即是空(しきそくぜくう)」「空即是色(くうそくぜしき)」という言葉がありますけれども、これについてはっきりとつかんだわけです。

つまり色即是空、色(しき)ってなにか。色って言うのは、この世の世界のなかに現われている現象です。

この三次元世界のことを現象界といいますけれど、色すなわち肉体として現われている人間、これは色である。つまり色だから目で見、手で感じられるような、存在感があるけれども、この色の部分、つまり現象界の部分である物質というのは、ほんとうは実相としては、これはないんであると。

色即是空、つまりこれは、空である。実相としてないということはなにかというと、つまりこの地上に魂が宿っている肉体というのは、仮の姿だということですね。仮の姿であって、ほんとうの姿じゃないんだと。

じゃ、釈迦の悟りは当時人間の肉体というのをどう見てたのか。

私は肉体というのは舟で、魂が船頭さんですよとわかりやすくいいましたけれども、そういう認識もひとつですし、まあそれよりさらに進んだ認識も持っとったんですね。

肉体は舟というよりも、じっさいは舟じゃないんだ。これはほんとうは舟よりも一歩進んで、これは蜃気楼(しんきろう)に過ぎないんだ。肉体というのは本来ないんだ。

なんかちょっと生長の家みたいな教えになってきましたね。谷口雅春さんにかわってもらわにゃいかんけれども、「本来肉体なし」の世界、これですね、釈迦の悟りっていうのは。本来肉体なしなんだ。こういうふうになったわけです。

だから「本来風邪なし」で、風邪をひいているように見えても、ほんとうは風邪なんかひいていないのです。そういうのは、迷いの姿なんですね。

仮にある肉体が、そういう蜃気楼みたいな肉体が風邪をひいているように見えるだけで、本来風邪なんかないんです。本来、病もないんです。

私は宗旨替えをして生長の家に帰依(きえ)したわけではありませんけれども、じっさいその通りなんですね。


7.霊子による物質の形成


それでまあ霊言、霊訓のなかでも、エジソンなんていう人がいて、どうやって物質が出てくるかっていうことを話してますけれどもね。光の玉が集まってきて、その粒が霊子(れいし)となって、やがてさまざまな素粒子ができてくるという話をしています。

つまりこの世の肉体、あるいは物質ですね。物質と見えるもの、ほんとうはこれは、しっかりあるように目に見えるけれども実在じゃないんだと。

その証拠に顕微鏡で見れば、たとえば、陽子あるいは電子。こうしたもの、原子核でいいけれど、陽子と電子というのが、けっきょくどういう構造かっていうとね、甲子園球場、巨人ファンのためには後楽園球場ですね。

後楽園球場というのをまあひとつみると、後楽園球場のなかの投手が立つマウンドの上に野球のボールを一個ポーンと置いて、そして場外に野球のボールをポンポンポンと何個か置いてある。こんなもんなんですよ、ほんとうはね。

原子っていうのが、ようするにマウンドの上のボール一個で、電子っていうのがね、軌道を回っている電子というのが、外野席にころげているボールぐらいなのです。

だからほんとうの物質の分子というのを見ると、そのなかはガラガラなんですね。スキスキなんです。ガラガラでスキスキです。

ですからほんとうはそんな後楽園球場のなかに球が二、三個ころげているぐらいの物質であるならば、物質と物質が当たったって、通りぬけるはずなんですね。衝突するわけはないのですほんとうはね。ところが衝突するように見えると。こういうように分子というか原子を見るわけですね。

そうすると後楽園球場のなかに球が一個落ちているぐらいが、ようするに原子であって、後はスキスキの構造になっておると。

すると、そのボール一個作ったのはどうしたのかというと、そのボール一個は、これは粘土を丸めて作ったんじゃないんです。

これが光のエネルギーなのですね。光のエネルギーが濃縮して一点に念が定まって、そういう点を作るんです。これが霊子(れいし)です。霊子という霊の子ですね。霊子ができます。

そしてやがて原子ができ、原子が集まって分子ができてくるんですね。分子のあとが粒子です。

こういうふうにして肉体の元となっているものを顕微鏡で見れば、小さな粒子です。粒子でできてます。

粒子自体はもっとバラバラのちっちゃなものでできてます。元は何かというと霊子ですね。霊の子、これからできておるのです。

その霊子は何からできているかというとエネルギー体なのですね。

先般も話したことがありますけれども、アインシュタインはエネルギーと質量とが、ようするにいっしょのものであるということを証明しました。質量というのは、一定の物質ですね。

物質として形をとっておるものは、その形を変えたときにエネルギーになる。ところがエネルギーがその運動を止めたときに質量になる。つまり物質になるということをいっています。

アインシュタインは知っているわけです。色即是空の意味を。

つまり人間の肉体とおぼしき物体、これは微細な粒子からできており、この粒子の元はエネルギー体である。

エネルギーが運動を止めたときに粒子になる。そしてこの粒子がまた運動を開始したときにエネルギー体となる。そして無限のエネルギーとなって大宇宙のなかを走り回るのですね。


8.普遍の実体としての人間の発見


まあ釈尊はもちろん、現代科学は知りませんでしたから、高橋信次みたいな科学者のようなかしこい説明がもちろんできなかったわけですけれども、そういうことを霊的直観で知っとったわけです。

つまりこの地上の肉体、肉体を作っておる細胞というのは、本来もともとあるんじゃない。それは彼の認識によれば、やがて火で焼かれれば灰になってしまうようなもんだ。

そして人間になる前にもとがあったかというと、もとはなにもありゃしない。

父と母がなんかちょっと夜いいことなんかしてね、ちょうどその時間がタイミングがよけりゃね、うまくいっちゃってね、ピタッと合っちゃって、精子と卵子が宇宙空間でランデブーして、そして子供ができます。

しかし精子と卵子といったってほんのちっちゃなものですね。ミクロの単位のものです。こんなものが大きくなってあなた、人間になるのです。信じられないことです。

これをたとえば比喩(ひゆ)であらわせば、どんなものかと言うと、まあリンゴー個ね。ニュートンのように言うと、リンゴの木の実が一個あったら、これがあなた地球ぐらいの大きさになるんですね。こんな大成長しているんです。信じられますか。

リンゴー個をね、ポトンと落としたら、そのリンゴが大きくなって地球になっちゃうんです。このぐらいの空間の差なんですね。こういうふうに精子と卵子が結合して人間になっちゃいます。

そしてまた焼かれたら、けむりになっちゃってどこか飛んじゃいます。

これを見て釈尊があの肉体というのは無常なもんだと。移り変わるもんだと。

しかし、こういうふうに移り変わるものが、ゼロから摂氏ゼロにもどるものが、これが人間の実体ではないはずだ。

また死ねばなにもかもおわると思っている人がいるけれども、死んでなにもかもおわって人間がけむりになってしまうんだったら、人間はいったいなんのために生まれて、なんのために修行するのか。

意味がないじゃないか。そんな無意味なことのために造物主というのが人間を創ったんだろうか、はたして。

とうてい信じられないね。ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)として悟りを開いた自分が、けむりになっちゃうんだったら、なんのために悟りを開いて、なんのために修行しているのかわからん。

そんな無意味な世界があるわけがない。絶対ない、そういうことは。

この世の中見たって、無意味なものなんかなにもないはずだ。

植物にしたって動物にしたってみんな、意味があって生きておる。人間だって意味があって生きておるはずだ。

その意味とはなにか。それはそんなにかんたんに消えてしまう、朝日が昇れば消えてしまう霧のようなものじゃないはずだ。

もっと普遍の実体がある。人間が神からわかれてきたもんならば、人間には普遍の実体があり、その実体をつかみ出して、そして信じることが、ほんとうの考えじゃないか。ほんとうの教えじゃないか。そういうことなんですね。

つまり、仏教の本質というのは科学といっしょです。エネルギー・イコール・質量であり、質量・イコール・エネルギーという、アインシュタインが二十世紀に発見したような理論というのを、釈迦はもう二千五、六百年前に知っとったわけです。はっきり知っとったわけですね。

だから肉体が消滅しても、魂は不滅で、エネルギー体として残っておるのだと。


9.永遠の生命としての人間の修行は、物質への執着を去ること


そりゃそうですよ。その証明のために高橋信次が、いまここに出てきてマイクを持ってしゃべっているのです。

ね、高橋信次だって死んだら火のなかで焼かれました。しかし、GLAの教祖がやっぱり、お坊さんに葬式をやってもらうんじゃ問題があるから、坊さんの葬式はいらんだろうとね。

釈迦みたいに「私が死んだら私の死体は、灰にして、ガンガーの河に流してくれ。」と、ほんとうは言いたかったんだけれども、高橋信次の遺体をガンガーまで持っていけないから、しょうがないから「灰にしたら、隅田川にでも流してくれ。」なんて言いたかったんだけれどもね。まあそういうことは言えないんですけれどね。

そういうことでまあ死んでも実体があるから、いま、こうやってしゃべっておるのです。

この考えっていうのは、読者のみなさんはいろんな霊言集をいっぱい読んだでしょうけれど、たとえば私の言葉は、他の人の霊言とぜんぜんちがうはずです。個性がぜんぜんちがうはずですね。

私の前に出た内村鑑三さんとどうですか、いっしょじゃないでしょう。谷口雅春さんとどうですか。「本来肉体なし」のところは一致しとるかも知らんけれども、あとぜんぜんちがうでしょ。

こういうふうに個性というのは残るんです。身長一メートル六十三センチ、全盛期の体重七十五キロ、病気をしてやせたときは五十五キロの、高橋信次の肉体じゃあないんです。

そんなんじゃなくて肉体を取り去っても、ちゃんと個性がある。思考するエネルギー体というのはあるんです。ちゃんとあるんですよ。

これを釈尊がつかんだわけです。そうしてこういう永遠の世界を生きている人間であるならば、修行ということを真正面からとらえねばならんと。これを彼が考えました。

それではそういう永遠の生命体として生きている人間の修行はなにかというと、これは本来の神に立ち返る作業ではないか。

地上の物質にとらわれずに、本来の神の生命体としての尊厳をとりもどすことではないか。

この幻のような三次元のなかにおいて本来の世界の意味を知り、その世界の法則にそって生きることが、ほんとうの人間としての生き方ではないか。釈尊はそう思ったわけです。

そのためにはどうしたらいいか。つまり物質世界のなかで、惑(まど)わされている自分という者をはっきりと反省して、本来の自分をとりもどさねばならぬ。

そのためにはまず反省がだいじである。釈尊はそう言いました。なぜ反省をするのか。それはこの物質世界にたいする執着を取り除くためです。

執着とはなにか。物質・イコール・人間、人間・イコール・物質、物質はすべてとする考えです。

人間は生まれ落ちてより、この世的になってしまって、金や地位や名誉、あるいは異性だとか、あるいは食べ物だとか、こういうものにとらわれて一生を送っております。

人よりちょっと給料が多かったらうれしいとか、人よりちょっと肩書きがいいとうれしいとか、いろんなことを言っています。

名刺にいくら肩書きを刷り込んだって、死んであの世に持って還れんのです。

この世でいくら美食したってビヤ樽みたいな腹になったって、焼かれちゃったらおわりなんです。持って還れんのです、そのお腹はね。

そういうことなんですよ。それで釈尊はそれに気がつきました。


10.執着を去るための八正道という反省の基準


だから本来の魂の輝きをとりもどすためには、まず物質的なる欲望に翻弄(ほんろう)されている自分自身というものをしっかりとせねばいかん。そういうことを思い出しました。

それでまず執着というものを、物質に対する執着を取り除くための反省的瞑想というのをやりましたね。反省です。

その反省にはやはり、基準がいるだろう。
その基準とはなにか。これが八正道だったわけですね。

正しく見たか。あなたは今日一日正しく見たか。

正しく語ったか。だいじなことです。

正しくものを見たか。正しくものを語ったか。だいじなことですよ。

正しく思ったか。これもむずかしいけれども、だいじなことですね。

あるいは正しく生活をしたか。どうでしょうかね。

読者のみなさんどうですかここまで、できますか。

正しく見れましたか。正しく語れましたでしょうか。正しく思いましたでしょうか。正しく生活できたでしょうか。

お昼過ぎて起きているような人もいるんじゃないでしょうかね。どうでしょうかね。

朝昼兼用にすまして、「ああこれで安く上がった」なんていっている人がいるんじゃないでしょうかね。正しく生活できたかどうか。

さらに正しく精進(しょうじん)できたかどうか。ね、精進ってなんですか。

つまり神仏への道をきわめることね。きょう一日神仏への道をね、一歩でも二歩でも進めたかどうかね、自分が。

退歩しとらんか。進歩したかどうか。正しく道に精進したかどうか。

あるいはね、正しく仕事をしたかどうでしょうかね。正しく仕事をしたか。

「イヤー、風邪ひいちゃって。」なんてね。「まあ今日はいいや。」なんてね。
「二、三日してまた風邪が治って仕事すりゃいいから、風邪ひいたらできないもんはできないんだから。」とか「もう風邪ひいたらね、あなたねむずかしいことなんてできやしないんだから。」とかね。「学生さんなんかだけでしょう、試験問題なんかできるわけがないでしょう。」なんてね。

これを録音しているときにまた、研修に向けてね、受講生を絞るというんで研修の参加資格認定試験なんて作っております。

これでふるい落とそうなんてやっておるけど、こんな試験問題を送ってこられたら、「風邪ひいているからきょうはできないや。ひと風呂浴びてね、もうカッカ、カッカ暖かくなってね、グッスリ眠ってまた頭の調子がよくなったら解いてみよう。」なんてね。

「そうしたらきっといい答案ができるにちがいない。」なんてね、思う会員さんがいるでしょうけれども。

そうじゃいけないんであって、人間一日一生でいつ死ぬかわからないんです。そういうことで正しく仕事をしたかどうか、学生なら正しく勉強したかどうかです。これもだいじです。


11.正しく念ずる、正しく定に入る、ということ


それから、正しく念じたかどうか。

自分の念(おも)いですね、念じるというのは、天台智覬(てんだいちぎ)さんという偉い人がいて、「一念三千」ということを説きましたけれども、心の念いというのは、すべての世界に通じています。

それならばやはり、よい世界に通じるように念いを正していかねばいけません。

また念いには方向性があります。そして未来に向いている念いは、やはり光明思想ですね。

いい方向のほうに向いていかなければ、人間まちがった方向のほうへ行ってしまいます。こういう念いの調整が、正しく念ずるということであります。

そして最後に「正しく定に入る」というのがあります。禅定(ぜんじょう)するっていうことですね。禅定するっていうのは、精神棒をいれられるために座っているんじゃないんです。

「今日はハム・ソーセージを食べたいけど精進料理しか出てこんのか。悔しいけど、我慢するから海苔(のり)もう一枚くれんか。」などとね。
「タクアンもう一切れあればいいのに。」と思いながら座っとっても、正しい禅定にならんのです。

そうじゃなくて、正しい禅定というのは、いま言ったように自分をふり返る作業をしながら心の執着をはらして、そして真実の神の子としての自分に立ち返ることなんですね。

これが正しい禅定です。これを毎日やりなさいと釈尊は言いました。りっぱですね。

これさえできればあなた、ほとんどの人間は完成に近づいていきます。


12.釈迦教団にはいるときの厳しさが現代の新興宗教にあるか


これができた人って釈迦弟子でいくらいたかって、やっぱりいないんですね。ただ、この作業を続けていると後光がでてきます。オーラがね。釈迦教団にはいることはひじょうにむずかしかったんです。一週間、山のなかで反省的瞑想、禅定をやってオーラが出た者しか、入会を許さんという、こんなに厳しいです。

どうですかね、いまの新興宗教やっているみなさんがた、こんなことできますか。

オーラが出なきや入門を許さないなんていったら、どこも経営危機になって、つぶれてしまうでしょう。そして教組様がおまんま食いあげて、七転ハ倒するでしょう。

一人でも多く増やさねばいかんちゅうので、いい教えならいいけど、悪い教えを広めるために一生懸命勧誘しています。こんなのやるのは愛の共同募金ぐらいにしとけばいいのです。

現在どうですか。いろんな宗教団体で、そんなオーラが出なければはいれないようだったら会員何人になりましょうかね。

教組様自体がオーラが出ていないから、入会できないんじゃないでしょうかね。私はそう思います。

そういう意味で釈迦仏教を現代に復活させようとするならば、現代ではオーラが出るまでといえんだろうけど、やはり正しくほんとうにやる気があって神理の書を読み、神理について理解ができている人、こういう人が入会を許されると、こういうふうな団体になるでしょうね。

やはりね、出発点というのはそうしたもんで、ブッダというのも会員を増やそうとかね、サンガー(教団)の人口を増やそうとかね、ぜんぜん思っていませんでした。

そうじゃなくてひとりでも多くの人がね、ほんとうに悟るためにやはり修行が必要で、その厳しい修行についてこれるのは、ごく少数であろうと思ったのです。それでも、それでもと道を求めて人は来たのです。

これは現在の禅でもいっしょですけれどもね。そういうところがあります。だからこれがほんものなんですよ。人を勧誘して入れなきゃいかんという宗教は、ほんものじゃないんです。ほんとうに優れた人、ブッダとなるための多くの人がどうしても門をたたきたいと、はいってくるのがほんとうの教えなんです。そうじゃなかったらいけません。

だからこれからもそうした真実の教えというものが、説かれていく時代になるでしょうけれども、そういうふうに、どうしても入れてほしいというような人を、そしてやはり勉強をしている人を絞って入会させるような、そういう昔の釈迦教団のような、そういう宗教があってもいいじゃないでしょうかね。

宗教の悪いイメージがあるのはどうも、そこにはいっている人がおかしいのが多いからです。宗教でもいいイメージを作らにゃいかん。

いいイメージってなにかというと、はいっている人が、やっぱり優れた人で、そう簡単にははいれない。ほんとうにそのなかにはいっている人は心が調和されてね。理想的な人生を生きている人たち、こういうのがほんとうなんです。


13.有名人で人集めする宗教はまちがっている


いろんな宗教がありますけど、有名人いっぱい呼んでね、有名大の名前で人を集めているようなのいっぱいあります。こんなのまやかしなのです。

みなさん注意しなさい。まやかしですよ。ほんとうの心の教えを求めている人たちを集めていくことです。こんな有名人なんかの顔写真をいっぱいのせてね、人を集めている宗教なんてみんなまちがっていますから、たいていの場合。用心しなさい。

いくつかの宗教があるでしょう。有名人をやたら呼んで、機関誌とか雑誌に顔をのせてね、それで人を寄せているところいっぱいあると思います。

まあこういうのは用心しなさい。ほんとうの教えというのは、そんなもんじゃないんです。ひとりひとりのものなのです。

きょうは長くなりましたけれども、甦る仏教ということで仏教の現代的意義をかんたんにサラッと話をしました。まあこれもひとつの考えの材料になればいいと思います。

まあこのつぎは「永遠の生命」ということで、さらに話を進めていきましょう。