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目次













(1987年3月13日の霊示)

1.神理に接した最初の感激を忘れると坂道をころげ落ちる


高橋信次です。きょうの演題は、「不退転の心」という題を選んでみました。

この不退転の心っていうのはほんとうにだいじなんです。とくに正法行者にとって、これほどだいじなことはありません。

まず最初ね、いろんな神理の書物に触れて、心がわくわくして、そしてこれで自分はわかった。神理がわかったということはね、みんなよく思うんです。

けれどもね、最初の感激はいつかしら、後ろのほうへ押し流されていって、まただるいだるい毎日の日常生活をくり返していくうちに、人間はそのなかで、くもりをつくっていきます。

そして初めて神理に触れたときの、あの新鮮な気持ちというのを忘れ去って、そしてどうしたらいいかわがらんような、そういう生活を送るようになってくるんですね。

けっきょくね、正法行者の行路、あるいは旅といってもいい、道行きといってもいい、それはなにかというとね、坂道なんです。

通常の人間というのは平坦な道を歩いとるのですね。平坦な道を歩いとるのだから、ころんだところで、また立ち上がればそれでおわりなわけです。

ところが正法行者というのは坂道を歩いてます。あるいは山登りをしているのですね。

山の上には悟りという名の花が一輪咲いておるので、その悟りという花を一輪、取ってくるために頂上に向かって、みんな坂道を歩いておるのです。山道を歩いておるのです。そういう状況にあるわけですね。

したがって正法行者というのは、坂道を歩いておるから、いったんころぶとね、ころげ落ちるのが早いわけです。坂には角度があるからです。

ところがふつうの人というのは平坦な道を歩いておるから、ころんでも、お尻の汚れをパンパンとはたいたら、それで終わっちゃうんですね。

ところが、正法行者は一歩足を踏みはずすと千尋(せんじん)の谷に落ちてしまったり、岩山をころげ落ちたりするわけです。

そうすると悪くすればね、絶命しますし、よくてもね、全治三ヵ月ぐらいの重傷になることが多いわけですね。これほど厳しいわけです。


2.なまはんかな気持ちで「神理」という名の山に登るな


で、とくに正法行者のなかでも宗教的な指導者たちというのはね、たんなる山道を歩いているというよりも、山の尾根、尾根道を歩いているもんなのですよ。

山の尾根道はひじょうに見晴らしがよくて、目立つんだけれど、いかんせん足の歩くところの幅が狭いんですね。

そして右側にも左側にも急傾斜がある。登っておって、あっというまにころげ落ちちゃうのですね。それだけ厳しいんです。平坦な道じゃないんです。

たんなる坂道じゃなくて、もう足の歩く幅がひじょうに狭いんです。もうほんの三十センチ、五十センチです。

鼻歌歌って歩いているのはいいけれど、もうちょっと踏みはずすと、コロンです。木の根っこにつまずいたらコロンといっちゃうのですね。これだけ厳しいんですよ。

ですから私は一般の人に言いたいんですね。登山というのは、それだけ厳しいから、なまはんかな気持ちじゃやめなさい。

神理というのはどんなにすばらしいものだと思っても、なまはんかな気持ちで始めるぐらいなら、いっそ来んほうがいいですよ。

山登りしても途中で迷ったら、もうどうしようもないんです。ふもとまで下りられんし、下りるに下りられんし、登るに登られん、どうにもなんないんです。

そして呼べども呼べどもなかなか救いは来んのです。みんな山のなかで格闘しているから、それぞれが、なまはんかな気持ちで登山する人は、人の足手まといになっちゃうんです。

そういうことで、なまはんかな気持ちで山登りするぐらいなら、いっそ広場でね、草野球でもしとったほうがいいんです。


3.自分自身と立ち向かう厳しさを知れ


ですからいったん正法神理の道にはいった以上はね、人間はそれだけの覚悟をせねばいかん。それだけの覚悟をしないと、やはり道は開けんということです。明日がないということなんです。

この心のことを、不退転の心といいます。

いったん山登り始めた以上はね、もう頂上まで行って悟りという名の花をもぎ取ってくるまでは、もう帰らんということなんです。

つまずいても、ころんでも、ころげ落ちても、すりむいてもね、膝を。あるいは鼻血を出しても、たんこぶを作ってもね、それでもなにくそと思って、山道を上がっていかねばならぬのです。

途中で弱音を吐くぐらいなら、最初からくるなっていうことです。道は険しいんです。だんだんだんだん険しいんです。

昔から釈迦の時代から、まあ女、子供が成仏できん、悟れないということを、よく言われます。

べつに女性を差別しとるわけではありませんが、女、子供が成仏できんといわれている理由は、山道を歩いておるのといっしょだからです。山登りなわけです。登山なわけなんですね。

登山をするときに、女性とか子供がいるとたいへんむずかしいんですね。女性が途中で足が痛いといってへばってしまうと、もう動かなくなるんです。子供もいっしょです。もう僕はいやだと言い始めたら動かなくなる。

したがってなかなか最初からね、登山というものは認められない。

「もうくるのはおよしなさい。あなたの足ではとても上がれない。あと足手まといになるからくるな」と言われる。それでも来たという女性もおれば子供もおる。お年寄もいるんです。

彼女らも、それだけの覚悟をしてこなければいけないということですね。

そして山登りの醍醐味がある反面、厳しさがある。それは、自分自身と立ち向かう厳しさなんです。

山登りはね、だれもね厳しい傾斜を他人を背負ってまでは登ってこれんのです。どんな登山家だって人背負ってまで頂上まで行けんのです。それだけの力はありません、どんな人だってね。

だから厳しさは自分自身と、対決する厳しさなんです。この厳しさを正法行者というのは、しっかり考えねばいかん。

だから神理に触れて、これで悟ったと思ってそのあとさまざまな日常生活で、また混乱に陥っていく。

こういう人たちっていうのは、その厳しさというものをね、なまはんかに考えておるのです。そしていつしか自分にたいする甘さ、甘えにとつながっていっておるのです。


4.小さな悟りに甘んじるな


私のときにもそうです。私の反省的瞑想という教えに基づいて、百数十名の人が心の窓を開きました。

そしてみずからの過去世のことを知り、そして未来世を知り、異言を語り、そして霊視ができたり、霊聴ができたりするようになりました。

しかしそうしたかたがたは、私が去って十一年、もうどうなったことでしょうか。その能力をそのまま持ち続けている人がいるでしょうか。

山道を案内する案内人がいなくなったら、彼らはとたんに山道を登るということを忘れてしまっておるわけであります。

この道にはいるということは、それだけみなさんね、厳しい試練ということにたいする、立ち向かう気概というものを養っていかねばならぬのです。

もう山のてっぺんで、悟りという名の花を折り取ってくるまでは、どんなことがあっても、弱音を吐かないという気持ち、これがだいじです。

そして、その道行く途中において、心がけなければならぬことは、人にやさしく、自分に厳しく、「己れには厳しく、他人には寛容に」ということばです。

私は生前、なんどもこのことばを言いました。自分に厳しく他人に寛容にと。

しかし私が去って十年あまり、いつのまにか人に厳しく、自分にばかり甘い弟子たちが、竹の子のごとく、ボコボコと、あっちにも、こっちにも、出てきております。自分が偉いというようなことばかりを吹聴している弟子たちです。 こういう人たちは、自分自身にたいして甘く、人にたいしては厳しく、批判ばかりをしています。まったく師の教えにそむいておるわけです。

こういうふうに、正法というものをいったん、不退転の気持ちを起こして登り始めたのにもかかわらず、自分という者に甘んじ、小さな悟りに小成してしまって、そしてさらなる向上を目指さない人たちが出るということを、私はひじょうに悲しく思うものであります。

悟りには果てがないのです。その頂上にたどり着いたと思っても、そこがまだ頂上ではないかもしれない。

あるいは今世における、あなたがたひとりひとりの征服すべき山の頂上かもしれないけれども、山はそこで途切れておらんのです。

その山を征服したと思ったら、その山の頂上と思いしところから、さらにつぎなる山へと、つながっておるのです。そしてつぎなる山はさらに高い山なのです。

これが人生の真実なのですね。頂上と思っておったものがじつはまだ途中の経過、中継点にしかすぎんということを、やがて知っていくのです。

ところがその中継点において、峠の茶屋でお茶を飲んで満足している人がいっぱいいるわけです。

そして自分はエベレスト山をきわめたと思ってそこで弁当を広げて下界を見て、天上界はすばらしい。下界はなかなか醜い。自分は悟りすましたつもりでいる人がいっぱいいます。

こういう人たちは、みずから厳しい試練を乗り切っていこうとした当初の気持ちを忘れ去って、もうあとをふり返ろうとしないんです。

背後に高い山がそびえていることを見ようともしないで、もう自分の過去ばかりをふり返って、そして満足にひたっておるわけです。

こういう人たちは、自分自身にたいして甘くないかどうかを、もう一度ふり返ってみる必要があるわけです。


5.不退転の原理①――自分に厳しく他人に寛容に


ですから本日の演題である「不退転の心」というものを追究してみると、第一点は、いまも言いましたように、「自分に厳しく、他人に寛容に」という気持ちです。この気持ちを持ち続けて人生修行ができておるかどうか。

「自分に厳しい」ということを、いろいろ話をしてきたけれども「他人に寛容」ということの意味がね、なかなか人間はわからんのです。他人には注文ばかりが出てくるのです。欲求ばかりが出てきます。不平不満ばかりが出てくるんです。

人がああしてくれたらよかったのに、こうしてくれたらよかったのにという他人にたいする不平、不満、愚痴、恨み、足ることを知らぬ欲望、こうしたものがつぎからつぎへとボウフラのごとく、心に湧いてくるのです。

しかしながら私たちは神ではない以上、他人の非を責める前に、他人の欠点を責める前に、自分自身がいったいどれだけ努力しているかということを悟らねばならぬのです。

他人から見たら自分もまた不平不満の対象となるような、自分でないかどうかということを、もう一回ふり返ってみなければいかんのです。他人から見たら、自分もまた不満に思われるような存在かもしれんのです。

そういうことを棚上げにして、他人の欠点や他人の弱点、他人の足らざるところばかりを指摘して、そしていい気になっておってはいかんのです。

人間はみずからが高くなればなるほど、他人の欠点がよく見えるようになるけれども、他人の欠点が見えるようになったときに、またそこがひとつの大きな魔境だということです。

他人の欠点が見えたときに、そればっかりを見つめて拡大鏡で見るように見とったのでは、さらなる自己の完成はないのです。発展はないのです。

他人の欠点が大きく虫メガネで見るように見えたときに、もう一度、その虫メガネでもって、自分自身を見てみることです。自分にはもっと大きな欠点があるかもしれない。

人間というものはとくに、他人の目についたね、ちょっとしたゴミぐらいはすぐ見つかるんだけれども、自分の目のなかにある大きなゴミといいますかね、大きな汚れについては気がつかんもんなのです。

人のものはよく気がつく。自分のことは気がつかん。そういうことがあるわけですね。

ですからあくまでも「己れに厳しく、人に寛容に」というモットーはつねづね、自分をふり返るモットーとして、考えていかねばなりません。


6.不退転の原理②――神にたいして永遠に近づいていく自分であれ


不退転の心の第二は、これはね、神について、日々探究するということです。神の本質というものを、日々求める自分であるということなんです。

神というものにたいして永遠に近づいていこうとしていく自分であるならば、退くことはできんのです。退転することはできんのです。進歩するしかないんです。みずからの内なる神というものを、ほんとうにきわめて、そしてそれを取りだしてみるまでは、人間は自分の人生は、満足だと言ってはならんのです。内なる神の探究、これを忘れてはならん。

不退転という心であっても、なにに関する不退転かということを人間はすぐ忘れてしまうんです。

不退転という心の意味は、強情だということを、言っとるのではないのです。頑固者だと言っとるわけじゃないのです。不退転ということばでもって人の意見に耳を傾けないということを言っとるのではないのです。

不退転ということは、神の心に接するまでは、神の本質に触れるまでは、けっして向上をやめないという決意のことを言うのです。

みなさまの理想はみなさまの希望は神なる本質をつかむことであり、それをつかむまではけっして満足してはならんのです。これもまた不退転の心です。

不退転をもって強情っぱりとか、人の意見を聞かんとか、怒りにまかせて言いたい放題いうとか、こういうことであってはならぬ。断じてこういうことであってはならんのです。

不退転というものは、永遠の理想を追究する人間の生きかたなんです。不退転ということばでもって内なる神の探究という姿勢を断じて忘れてはならぬ。私はそう思います。


7.不退転の原理③――傷つくまで人を愛せ


不退転の心の三番目は、これはひとつには愛の完成です。

愛の完成といって、わかるでしょうか。人間はともすれば、人から愛を与えられたい存在です。与えられることばかりを望んでいます。

しかしほんとうの修行者の心というものは、他人にたいして惜しみなく愛を与え、与え、与えて、与え続けることではないでしょうかね。

ひとつ与えたら、ひとつもらいたいというような心になっておらんかどうか、これをもうすこし探究してみる必要があります。

人間というものは、すぐ与えられたい気持ちになってくる。しかしほんとうの愛は、菩薩界にある。菩薩の愛は惜しみなくひとびとに与える愛です。

またこれが、キリスト教でいう自己犠牲と同義であるということがよくわからないならば、あのインドで活躍しておるマザー・テレサという御婦人のことを、現代の聖女のことを思えばいい。

彼女は言っておるはずです。「傷つくまで愛しなさい。」と。

たんに愛するだけで止まってはならん。「傷つくまで愛しなさい。傷つくまで人を愛しなさい。みずからの心から血が流れるまでに人を愛しなさい。それがイエスの愛だったからです。」彼女はそう言っている。

イエスは茨の冠をかぶり、十字架にかかり、その両手、両足に五寸釘を打ち込まれて、わき腹に槍を突きさされて、血を流して死んでいきました。人類にたいする救済の思いだけに生きて、そして血を流して死んでいったのです。

つまりイエスは傷つくまでに人類を愛したのです。心の底から、血がにじみ出すほどに人を愛したことかあるかどうか。これをひとびとは考えねばならん。

自分の心のなかから、血がにじみそうになったら、これはたいへんとばかり、ひき下って、あわてて自分を愛してもらおうと、介抱してもらおう、看病してもらおうと思うのが通常の人間ではないでしょうか。

不退転の心をもって修行しているものは、みずからが、傷つくまでに人を愛したことがあるかどうか、これをもう一度考えてごらんなさい。

自分が余裕のあるときは人を愛して、余裕がなくなったら愛するようなことをやめるような、そういう愛ではないか。そういうなまはんかな愛ではないかどうかを、もう一度じっくりと、考えてみる必要がある。

イエスのように最期まで愛するということです。イエスもまた不退転の心を持っておったわけです。

イエスは人を愛しておったけれども、イエスの心が中途半端な心であったならば、彼は十字架にかかるところまでは、人を愛さなかったはずです。わが身の安全を考えて、ほどほどの教えを説いて天寿をまっとうできるように彼は努力したかもしれない。

彼自身、自分自身にたいして言い聞かすことばはいくらでもあったであろう。

「イエスよ、おまえはこんなことで早死するよりも、七十、八十、まで生きて多くの人を救ったほうがよっぽど利口であろう。」そういうささやきも内から、届いておったであろう。

しかしイエスは、そういうささやきにたいして、耳を貸さなかったわけであります。

彼は愛するということにおいて、妥協をせんかったわけです。傷つくのみならず、死するまでに人を愛したということですね。

この精神が、クリスチャンのなかには流れとるわけです。

殉教したさまざまな聖人たちがいます。彼らもまた傷つくまでに愛したわけです。神の子、一人子であるといわれるイエス・キリストを信じて、愛したからこそ、彼らは十字架にかかっても耐えてきました。

火あぶりにあっても耐えてきました。偉大な光の指導霊たちは、この世に降りて、火あぶりになって死んでいったのです。

天上界にいて、私たちはひじょうに悲しく思いましたけれども、それまでに傷つくまでに、みずからが傷つくまでに、人類を救いたいと願っている彼らの愛に対し、私たちは敬意を払う以外になにもすることができなかったわけであります。

ですから不退転の心のなかに、傷つくまでに愛する。愛し尽くす。最後まで愛する。この気持ちを忘れてはなりません。


8.不退転の原理④――永遠の生命の実相をつかめ


不退転の心の第四は、これは人間、あくなき転生輪廻の過程で、永遠の進歩をめざす存在だということを、はっきりと自覚することです。

安易な障害や、挫折によって人間がくじけてしまう理由は、この永遠の生命ということを、ほんとうの意味で信じておらんからです。

ほんとうの意味で永遠の神理ということを永遠の生命ということをしっかりとつかみ取ったならば、人間は退転することはできんのです。

たいてい途中でひき返してくる人たちは、人生はこの世限りだというまちがった思想に心を奪われておるのです。仏道修行をやろうとは思うけれども、心のなかのどっかに、人生はこの世限りなんだという声が聞こえてきて、そして安易な道へと入っていくのです。

この世的によりよい生きかたをしようとする。お金がもうかる方向へ、妻が喜ぶ方向へ、子供が喜ぶ方向へ、親戚から喜ばれる方向へと、人間はおもむいていくのです。

それは神理というものに目覚めておりながら、どこかで人生はこの世限りだという声が聞こえておるのです。そういう悪魔のささやきが聞こえておるのです。

ほんとうに人間は永遠の転生輪廻をくり返している旅人だということを一心につかみきらねば、不退転の気持ちというものは湧いてこんのです。

すなわち、永遠の生命、その実相をつかむことです。

人間に永遠の生命があって、死後の世界があって何度も、何十度も、何百度も地上に生まれ変わって修行しておることをはっきりつかんだならば、この世で自分はどのように生きるべきかという指針は、はっきりとわかるのです。

この世限りだと思うから、甘い方向へとみずからを導いていきます。

しかし来世も、来々世も、そのまた来世もあるということを知ったときに、この世において、今世において少しでもすばらしい自分を創らないで、あの世に還ってくるわけにはいかんのです。

この永遠の生命を知るということ、つかむということが不退転の原理のまたたいせつなひとつなのです。


9.不退転の原理⑤――信仰の力の大きさを知れ


そして不退転の原理の第五は、なにかというと信仰という力です。

生きていくうちには、さまざまな困難苦難があります。それはとても人間心、理性でもっては割り切っていけないように思うことがある。人間知恵では、計っていけない、解決していけないように思うことがある。

しかし人間には最後の力が残されておるのです。それは信ずるという力です。信仰の力です。神を信ずるという力です。

不退転の最後はこの信ずるという力によって補強されるのです。支持されるのです。信ずる力の大きさというものを、人間は知らねばならぬのです。

ほんとうに神を信じきることができなければ、不退転の気持ちというものは起きんのです。なまはんかに神を信じておるようでは、退転してしまうのです。

地上の人たちはまだまだ信ずる力が弱い。信ずる力というのはどこまでも大きくなっていくんです。大きく、大きく、この世の中を救うというところまで、大きく実現していくのです。

きょういろんなことを言いました。五つの不退転の原理、不退転の心のありかたを述べました。この最後の信仰、まちがいのないしっかりとしたよき信仰ということの力、これを忘れないで生きていっていただきたい。まあそう思います。以上です。