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目次














(1987年3月23日の霊示)

1.最高の自己実現としての霊訓集の刊行


高橋信次です。つぎに第二章「未来への遺産」という題で、話をしていきたいと思います。

まあ、この二章はもう二月にとっくにおわっている予定だったんですけれども、講演会だ、研修会だといろいろ忙しくてね。だんだん私の出番が遠ざかってきて、みなさんきょうはなんともう三月の二十三日です。

東京では桜がさき始めました。一ヵ月遅れの講義です。どれだけ私が軽視されているか、よーくわかると思いますね。

霊ってものもね、公平なとりあつかいがほしいんですよ。

古い霊がね、ものすごくたいせつにされてね、新しい霊っていうのはひじょうに迫害を受けておるのですね。虐待ですね。新しい霊っていうのはね、まあどうでもいいやというわけですね。

古くなると値打ちが出てくる、年代ものだったら値打ちが出るけれども、新しい霊はまだ値打ちが出てこないからね。まあワインといっしょですよ。

ボルドーワインなんかね、仕込んでね、「それ何年ものですか。」ってね。「いや、GLAで詰めたところの十一年ものですよ。」なんていったら、「あ、まだダメ。まだ味が出てない。もうちょっと百年ぐらいただないと。龍馬さんだって、もう百年たっとるんだから、百年はたたねばダメですよ。」なんてね、言う人もいるでしょう。まあそうかも知れません。

生きているときには、死ぬまぎわでないと人間、文化勲章もらえないし、文化勲章もらって死んでもね、それが高校生のね、教科書に載るようになるまでにはね、まあ何十年もかかります。

ですから谷口雅春先生だとか、高橋信次、まあ先生つくかどうか知らないけどね。高橋信次なんていうのも、まああと何十年かすればね、たぶん教科書かなにかに載ると私は思ってるのですよ。

社会科かなんかでね。日本の昭和期の第三次宗教ブームと宗教改革をやった偉大な先達(せんだち)ということでね、まあやがては出ると思うけど、まだ値打ちが定まっていない。だからまだふわふわとこの地上を浮遊しているように思われておるのですね。これは残念なところです。

まあ私の霊訓集も進めていくうちにね、やがて「高橋信次も、そうまんざらでもないな。」ということになってくると思います。それが私の願いでもあるし、生前果たせなかった望みでもあります。

またこの霊訓集を通して、まあGLAの混乱を収拾するとともに、かつて私の教えの縁を受けたかたがた、あるいは私の教えをいままで受けてなくともね、この霊訓集を初めて手にして、新たな世界、未知の世界をかい間見る人たち、そういう人たちにね、教えていきたいんですよ。

そして私が語っていることがね、現代の人だけじゃなくて、百年、二百年、あるいは五百年、千年ね、日本という国がなくなってもね、いろんな国で、読まれ続けていくということをね、私は希望しているんです。

そういうことで、こういうふうに霊訓を送るということは、あの世の霊である私たちにとっては、最高の自己実現なわけです。


2.宗教家の使命①――多くのひとびとを救うこと


さてきょうの本題は、未来への遺産ということでね、私なりにない知恵を絞りまして、未来への遺産について、講義を続けていきたいと思います。

まずね、宗教家ということで、話を絞っていきたいと思いますけれども、地上に降りた宗教家の使命には、大きくいって三つあるんです。

第一の使命というのはね、これはまあ、地上にいるひとびと、できるだけ多くのひとびとを救うということですね。これが第一義的な使命なんです。


3.宗教家の使命②――多くのひとびとを教えること


第二の使命っていうのはなにかっていうとね、これは、「救う」のつぎはね、「教える」ということなんですね。

とりあえず第一段階目は「救う」、ようするに迷っておるひとびと、苦しんでおるひとびと、悩んでおるひとびとをひき上げる。ようするに幸せの世界へつれてくるというのもだいじだけれども、第二は「教える」。

つまり教師としての役割ですね。これは知識的な面がそうとういります。真実のものを教えるということです。

地上の学問というのがあるけれども、学問というのはたいていがね、人の本を読んで、また引用して書いておるような本が、ほとんどだし、本を読まない人たちでも結局、実験ということでね、いろんな薬剤を使ったり、あるいは石を破壊したり、山を掘ったり、海にもぐったりして探検したり、調べたりしている学問がほとんどですね。

こういう実験、調査による学問と、人間が書いた物を、ようするに勉強することによってまた書くというようなね、そういうのが学問でしょう。

ただその学問であれば、どうしてもね、人間知といいますかね、狭い判断に押し込まれてしまうから、それ以上のものにならないんです。

そういうわけでときおり、ほんとうの宗教家が出てきてね、ほんとうの教えを広めていく。

真実の神の世界を教えて、この世の成り立ち、しくみを教える。こういうことによって、知識のね、洗い替えというのをやりますね。

つまり教えということ、ほんとうの教えということがなにかということをまあ教えるわけです。そういう意味で学問の基礎になるようなもんでもあるし、新たな科学でもあると思いますね。


4.宗教家の使命③――後のひとびとへの遺産をのこすこと


三番目はね、これが、後のひとびとへの遺産ということなんですね。

たとえばイエス様という人の遺産を考えてほしいんです。

イエス様の生命は、わずか三十三年で終っとるんですね。ナザレという地で教えた期間は三年、そして十二弟子を初めとして、教えた人たちはまあ数千人はいたでしょう。

まだイエス様をもってしてもそんなものでありました。四千人とか七千人の人たちだったと思います。

ところがそのイエスのわずか数千人に教えたというのが、その後二千年の長きにわたって連綿と残ってきたわけです。この二千年の間にイエスの教えに触れた人はいったい何人いたでしょうかね、数えきれないです。

現代の人でも十億人、二十億人の人が、少なくともキリスト教のなんらかの影響を受けています。その教えに触れています。

ましてや過去二千年間といったらたいへんなものです。そういう偉大な財産家なわけですね。遺産というのを後の世に残した。

ブッダがまたそうです。二千五百年の後に、偉大な遺産を残しています。

仏教だって葬式仏教だとか、なんだとか悪口いわれますけれどもね、あるいは観光仏教だとか、金儲け仏教だとかいわれるけれども、しかしね、いい意味もあるんですよ。仏教がなきゃあ、日本人なんて死後の世界なんて考えないんです、まったく。考えないんですよ。

だから葬式仏教といって仏教も馬鹿にされるけれども、葬式があることによってね、ようするに死というもの、あの世というものを考えない人間はひとりもいないんですよ。

なぜなら、人間がかならず死ぬからです。自分の父親、母親がかならず死んじゃうんです。たいていの場合自分より先に。

その前には、じいちゃん、ばあちゃんも死ぬんです。兄弟も死にます。まあ子供が死ぬこともあります。

肉親の死ということを生きている間に経験しない人はひとりもいないんです。どんな人でもかならず経験するんです。

そして、そのときに坊さんが来ます。葬式をし、焼き場へ行き、そして野辺の送りですか、それをして、お墓に入れますね。無神論者であろうが、あの世を信じていなかろうが、これみんなやっとるわけですね。

おれは無神論者で魂なんか信じていないから、葬式必要ないっていう人、いるかいないか、ひとりもいないです。ひとりもいないです。みんな葬式必要です。認めておるわけですね。

だから朝日新聞だとか、読売新聞だとかで世論調査をして、そしてあの世を信じている人は何割いるとか、やっていますね。なんとなくそういうものがあるらしいというのは五割だとか、あの世の世界を確信しているのが一割とか、二割とかいうけどもね。

それは答えとしてマルかバツかをつけるからそうなんであって、ほんとうの内心といったらね、ゼロの人はいないんです。まったく信じていない人も、まったく信じきっている人も、まあどっちもいないって言っていいでしょう。

ある程度、その心のなかで、段階差があるわけですね。一割ぐらいは信じている。三割あるいは五割信じている。八割信じている。九割九分信じている。まあこういう人がほとんどです。

まあそれは直接私たちと話している人はね、それはもう十割信じていますよ、あの世の存在をね。

ただ信仰深い人であってもね、自分が体験していないことはね、やっぱり百パーセントは信じられんのです。九分九厘あると思っても、残りの一厘はね、やっぱり体験していないから、やっぱり疑問が残るんです、どうしても。

そういうふうに完全に信じる人も、完全に信じない人もいないんでね、そういう意味で、仏教というのが現代に名残りをとどめていることも、また意味があるわけなんです。

まあ、あとたとえばモーゼの教えなんてのがあります。もう三千二百年たちました。さすがにモーゼの教えで教われる人は、ちょっといないかもしれない。

ただね、モーゼという人がいたことによってね、イエス・キリストという人が浮きぼりにされたという意味合いが強いのです。あの人があって、モーゼの律法というのが、もうずいぶん塵や垢にまみれて、それを払いに出ていたのがイエスだったわけですね。新しい教えを。

そういうことで旧勢力のモーゼの教えを、信じた人との戦いということが、彼の人生のドラマになってしまったけれども、それもまたひとつの演出であったということも事実なんですね。

だからモーゼなくしてのイエスはなかったわけであります。

そうしたもんで、遺産というものは確実にね、めぐってくるんですよ。ただそれはそう長く続くものではありません。

じゃムー大陸のときの遺産というのが残っているかというとね、そりゃあもう数少ないもんです。大陸自体がもう沈んでしまいましたね。

ムー大陸の遺産で現代残っているとすれば、それはひとびとの転生輪廻の過程における魂のなかのかすかな記憶、まあ、これぐらいだし、ムー大陸に栄えた神理、正法としては、まあ太陽信仰でしょうかね、そういうものが残ったでしょう。

ですから古代日本の神道の太陽信仰、天照信仰も、これは元をたどれば、もちろんムー大陸から来ている信仰でもあるわけですね。こういうものとしては残りました。

アトランティスもそうですね。大陸が没してしまった。そして優秀な人たちがみんな沈んでしまいましたね。

けれどもアトランティスの遺産の一部は、エジプトという地にね、流れていって、エジプトでまた新たな文明のもとになりましたね。ピラミッド文明、あるいは魂の科学、こうした元になったのは事実です。

そういうようにいろんなかたちでね、いろんな地域に出た教えというのが遺産として残っていくということは、これはすばらしいことなんですよ。

ですから、私たちの教えもね、またこの三番目の遺産という面を無視しては、成り立たんわけなんです。


5.高橋信次の遺産――心の教え


そこでこの遺産ということに焦点を絞ってね、さらに話をしていきたいと思います。

たとえば高橋信次の遺産はなんだろうか。八起ビル、まあ、そりゃあ、そうかもわかんないね。

ハ起ビル、いま、ちょっとうまくいってないけれどもね、使われていないけれども、いちおうビルは建てたから八起ビルは遺産でしょう。実家、それはそうですよ、家だって遺産でしょう。

嫁さん、これは遺産とは言えないかもわかんないね。でも子供は、これは遺産だろうね。子供ができました。ふたりできましたね。これは遺産です。

その子供を介してまたなにか後の世に残すこともあるでしょう。これも遺産でしょうね。これは人間としての遺産です。

けれどもね、私の遺産の最大のものはなにかというと、やはり心の教えだったと思うのですね。私が一生かけて、研究し、探究し、発表してきたものは、人間の心の偉大性です。

人間はね、心、心と言われながらその心をついつい忘れてしまうんですね。忘れちゃうんです。そしてラブレターなんか出してね、断られたときだけ心が痛いとかね、痛むとか、あるいは、演歌だとか、ニューミュージック、こういう世界のなかで、心がどうのこうのと歌を歌ってます。

たとえば、みんな考えているのは、シャボン玉みたいに飛んでいくぐらいの心しか、持っていないのですね。じゃあなたの心ってなんですか、と言ったときに、その心がなにかということが言えんのですね、そうかんたんには。これは漠然としているもんなのです。ふつうはね。

いや、知らなくてもすむんですね。心、心と言っておけば、魂って言ったら信じないけれども、心と言ったら信じちゃうですね。

いまね、国民調査でもなんでもいいけど、アンケート用紙配ってね、聞いてごらんなさいよ。

あなたは魂を信じますかって言ったら、信じないっていう人のほうがふえてくる。

あなたは心の存在を信じますかって言ったらね、信じるという人がほとんどですよ。

あるいは、あなたは人間に精神というのがあると思いますか、と言ったらね、それはあると思いますよ。マルをつける人ばかりですよ。言葉のちがいなんですよ。

どれだけ言葉というものにね、イメージが付着しているかみなさんこれを考えにゃあいかん。


6.「精神」、「心」、「魂」、という言葉の響きのちがい


精神ということをはっきり言い始めたのは、近代哲学の祖といわれた、デカルトです。デカルトが精神と肉体、物質というような、こういう明確な二元論というものを打ち出しました。それ以降この考えかたというのは主流になりました。で、精神というのが独立して、ひとり歩きしました。

そしてカントなんかも、この精神というのを徹底的に勉強したわけですね。精神というのはなんだってね、『純粋理性批判』だとか、『判断力批判』だとかね、『道徳論批判』だとか、こういうのをいっぱい出してね、精神ってなにかを徹底的に探究したのがカントです。

そういうとわかるんだね。精神というと、なんとなくりっぱでしょう。カントの教えとかね、カントが勉強したことといえば「いやあ、すごいなあ。」ということになる。

あるいはヘーゲルです。まあこれもすごい哲学者ですね。ヘーゲルっていう人はギリシャ時代の大哲学者プラトンの生まれ変わりです。

このヘーゲルも『精神現象学』であるとか、あるいは『歴史哲学』であるとかね、こういうすごいむずかしい、大著をいっぱい書いています。大大著(だいたいちょ)をね。

高橋信次が読んでもわかりません。わかんないから向こうが偉いかというと、そんなことはないんですよ。そんなことはないんだけど、いちおう読んでもわかりません。

あの世にも本があるけど、ときどき読むんだけどさっぱりわかんない。わかんないし、言いわけ言わしてもらえばね、「こんなもんで心の糧になるもんか。」と私は思うんだけども、まあそれでも精神を究明したんだそうです。

私はやはり宗教家としての魂だから、ひとびとにわからんことを言って、それでなんの糧になるかと思うんだけど、まあそれはそれでね、学問的には意味があるそうです。

だからみんなカントだとか、ヘーゲルだとか、いやあすごいなあと思うでしょう。それをつまらんと思う人いますか、ひとりでも。みんな、すごいなあ、偉いなあ、と思うでしょう。

だから現代でカントがおれば、いやあ、これは偉い人だ、ヘーゲルがおればすごい天才だと、尊敬しちゃうでしょう。高橋信次が出てたら、「あ、これはオカルト宗教の教祖だ。」こうなっちゃうんですね。

言っている中味はどうですか。

彼らは「精神」ということを探究し、私は「心」という名前で、あるいは「魂」ということに関して、探究しましたけれども、いっしょのことなんですよ。

ただ精神としてね、精神学として勉強したものというのは、若干思弁的で抽象的です。


7.心の探究こそほんものの科学である


ところが私が探究した心の解明というのは具体的なところがあります。抽象的な心だけではなくてね、じっさいにある、実在界の心、あるいは魂のしくみというものを、はっきりと教えたわけですね。

その意味では、私たち宗教家というのは科学者でもあるわけなんです。たんなる理論だけじゃなくて、実験というのがそなわっているのですね。

ところがね、なんというのかね、実験というのをようするに無視しちゃって、理論だけをありがたがる風潮なのです。西洋の風潮、いまの風潮は。

だから哲学やって、ああいうふうに理論だけ言うとね、それでありがたがるところが現実に死というものをとらえてね、魂とか心とかいうものを探究した私たちっていうと、そしたら見くだすわけですね。

つまらん宗教家、またオカルト宗教家、新興宗教家、「また高橋さんのあの口ですか。」と、こういう考えかたになるわけです。

こういう人たちはほんとうのものの見かたを知らない。哲学者が理論だけでやったことを、私たちは理論だけじゃなくてね、実験としても、実地で調査して、探究してきたんです。フィールド・ワークしたわけなんです。

地球は丸いんだと理論的に説明するんじゃなくてね、実際に丸いことを、船に乗って地球を一周して、証明して見せたんです。そして、そのゴールまで行きつくことについてね、証明したんですよ。

だからね、現代の科学が科学って銘打っているのは、あれはにせ物です。なぜなら、ほんとうの世界を探究しようとせんからです。

ほんとうの世界のことをぜんぜん探究しないで、それは宗教だなんだ、というんで、ほっぽらかしちゃって、自分たちは試験管ふったりね、顕微鏡をのぞいたり、天体望遠鏡をのぞいたりして、それで満足している。

じゃあもっと広い世界のことをなんで知ろうとせんか、この三次元を超えた、四次元以降の世界をね、どうして知ろうとしないのか、四次元以降の世界、魂の世界、心の世界を探究せずして、科学という名前を冠するのは、これはごう慢であります。

ですから現代の、科学するという科学者たちは、みんなごう慢でありました、と反省して、頭を丸坊主にして、もう一回一列に並びなさい。

そしたら私が精神棒を持ってきて、その坊主の頭をポンポンポンとみんな叩いてやって、「しっかりせんか、おまえたち気合いが抜けておるぞ。」と。

「それで科学者といえるか、ノーベル賞なんかもらっちゃってね、それでなにがわかっとるんだ。」と。

「人間の魂を知っとるんか。」「知らん。」「知らんでよくノーベル賞もらってね、偉そうに言うとるな、お前は。」

人間はね、物理学がすべてだとかね、化学がすべてだとか、こんなバカなことをいってね、ノーベル賞もらって、胸にぶらさげて喜んでおる。ほんとうの世界のことを知らんで科学者と言えるか、恥を知りなさい。

科学者というのは、疑問の探究、追究です。これが科学者の姿勢なのです。未知なるものをつねに解明してやまぬというのが、これが科学者のありかたなんですよ。

その探究する姿勢を忘れて、この世だけがすべてだとして、この世のものばっかりをさぐっとって、そしてあの世のことはオカルトだと思ってね、そんなこと信じとったらはずかしい、と思ってたら、その心こそよっぽどはずかしい。

現代科学者の大部分は、あの世に来てみんな恥いっとるのです。自分たちが唯物論のまっただなかにいてね、唯物論に奉仕してきたことを、はずかしい思いをしていますよ、みんな。

スペース・シャトルだとかね、超音速旅客機が飛んでね、「やあ、これで科学万能の時代になった。」なんて喜んでおる人は、あの世に来て、ひっくり返るんですよ。

あの世のすごさを見て、あなた旅客機なんかいらんのです。スペース・シャトルなんかいらんのですよ。思ったら瞬間、月でも太陽でもね、木星でも、金星でもね、あなたね、銀河系の果てまでもね、飛んでいけるのですよ、あっという間に。

スペース・シャトルなんか、あんなまどろっこしいものじゃないんですよ。こっぱみじんに爆発するようなものが、あんなもんがなんの科学ですか。

高橋信次なんかね、一瞬で、一秒で、あなた銀河系の果てまで行くんですよ。


8.スペース・シャトルと孫悟空


だから現代のスペース・シャトルなんていうのは、昔の孫悟空の話といっしょです。

孫悟空は觔斗雲(きんとうん)に乗ってね、お釈迦様とけんかしちゃって「なーにおれの力、知らんなんてね、ヨーシ、なら宇宙の果てまで飛んでやる。」と言って、觔斗雲(きんとうん)に乗っちゃってね、如意棒かなんかニューッと伸ばしちゃってね。

「どれひとっ走り行くか。」って言って、ビューと飛んで、飛んで、飛んで無限のかなたまで行って、宇宙の果てまで行って、「ああ宇宙の果てまで来た、やった。」と思ったら、目の前に柱が五本立っとった。

「よーし、せっかく宇宙の果てまで行ったんだから、証拠残さんといかん。」というので、その宇宙の果ての柱に、おしっこかけてね、ピューと真中の柱かなにかにおしっこかけちゃって「ああ、すっきりした。ああ、緊張したからね、長旅だったから疲れたわ。」と言ってね。「よっし、これで帰ろう、証拠もできたし。」

まあ南極探検かなにかで、日本の旗立てて帰ってきたようなもんだ。おしっこかけちゃって、それで帰ってきた。

そしてお釈迦さんのところに帰ってきてね、「お釈迦さんどうだい。おれは宇宙の果てまで行ってきたぞ。おめえなんか行けねえだろう。大きなズウ体しちゃってね。それで歩いて行ったって、とてもじゃないけど行けないぞ。おれの觔斗雲(きんとうん)ていうのは、もうマッハいくらじゃないけど、マッ八十五ぐらいで飛ぶんだぞ。宇宙の果てまであっという間だ。どうだい。」って胸張ったら、お釈迦様は手を開いて、「おまえのいう宇宙の果てというのはこれかい。」ってね。右手を広げました。

そしたら中指の下がチョロチョロぬれてるのですね、おしっこで。

「あれまあその匂いは、まさしく猿の匂い。私のおしっこじゃないですか。」ってね。孫悟空が言います。

お釈迦様はニコニコ笑っている。

「そうかおまえの宇宙の果てというのは、わしの手のなかのことか、これはたいへんな宇宙の果てじゃのう。」と、こういうことを言いましたね。ここに境地の差があるわけです。


9.科学者や医学者への警告


ほんとうの世界を知った高級神霊からみれば、科学ってのは幼稚な段階なんですよ。まだヨーヨーをぶら下げとる段階なのです。これで慢心してはならん。

これですべてがわかったと思う科学者は、そっこく、丸坊主にしてそして一列に並びなさい。

そしたらね、みんなの頭、パシッパシッパシツって片っ端から叩いていってやりたいです。このように科学者は、まったくだらしないです。

医学者もだらしない。医学も西洋医学ばっかりやっちゃって、医学のね、根本にあるものを忘れとる。人間の魂を知らんで、なんで人が救えるのか。生命の実相を知らずして、どうして病気が治るのか。これをもっともっと勉強せねばいかん。

人間が物質の寄せ集めだと思って、なんでそれで人が救えますか。アフターケアーを言うなら死んだあとのことまで考えて、病院でちゃんと治療しなさい。こういう治療したら、この人は死んであの世に帰ったらどうなるか、よーく考えてやんなさい。それがだいじですよ。

あなた、この世で、ようするになんでもいいから、植物人間でもなんでもいいから、だいじにすればいいというもんじゃないですよ。もう一回ね、霊的な観点から見なきゃいかんのです。

心臓移植だってそうですよ。心臓移植したってすぐ死んじゃうでしょう。臓器の移植したってすぐ死んじゃうでしょう。なぜ死ぬか知っていますか。

それはね、人間の細胞のなかにもそういう臓器のなかにも生命があるんですよ。その生命というのは、持主の波長と合っとるんです。波長がね、同じ波長なんですよ。

それをいきなりボコッと抜いてね、他人様の体のなかに植えつけたって波長が合わんのです。

まずね、その臓器にたいして、「おまえ、ご苦労であったけれども、おまえの主人は亡くなったんだ。」と。「主人は亡くなったんだから、そして人間は肉体じゃなくて、霊なんだから迷わず成仏するであろう。」と。

「ただ心臓としてのおまえはまだ生きているのだから、どうかまだお役にたちなさい。」そういうことで、よく言い聞かして、そして新しい人間の体に植えるときにも、その人間に言い聞かしてね、「あなたも感謝の気持ちを持ちなさい、人間は魂でね、あなたの魂はこれを拒否するかもしれないけれども、ありがたいことなんだからありがたく受けなさい。」そういう感謝の心、大調和の心なくしてね、そしてそういう臓器を移植したって失敗するのです。このことを知らねばならぬ。

こんなこと知らないで外科手術ばっかりやっておる人いっぱいいるんです。いつまでやったって実験です。モルモット以外のなにものでもありません。

だからとくに科学者、医学者、いくら勉強できて、東大の医学部受かったってダメなんです。共通一次で一番取ったってダメなんです。そんなんでなにもわかっとらんのです。

みなさんね、ほんとうに探究しなければいかん。

私はそういうことを、心の探究、科学者としての立場で、心を探究するということはどういうことか。これはね、カントやね、言っておくけれども、自慢じゃないが、カントやヘーゲル以上のことをやっているんです、私は。

それが私の遺産なんです。


10.宗教のなかのほんものの遺産に気づけ


地球のみなさんは、あるいは地上のみなさんは、もうちょっと「宗教」だからとかね、そういう先入観を捨ててね、ほんとうにその中身、教えの中身というのをね、しっかりと勉強してみてください。

そのときに私たちの遺産が光ってくるんです。生きてくるんです。亡くなった者たちの意志を継いでください。私の人生を無駄にしないでください。私が説いた教えというものをもう一回ね、しっかり学んでください。きょうはほんとうに長い間ありがとう。