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目次

 1.一念三千

 2.地獄論


 4.悟りの意味

 5.天国論





(1987年10月24日の霊示)

1.一念三千


まあ、一念三千ということで、私もずいぶん生前から、著書の中に書いたり、講演の中でもずいぶんやりました。天台大師の教えですね。その中のいちばん大事な考え方で、一念というのは、もちろん念(おも)いの念(ねん)ですね。人間の心の念いというのは三千、これは三千世界と言いましてね、割り切れないほど多いっていう意味なんですね。そういう人間の念の向かっていく方向というのは、もう三千世界につながっておると、まあ、こういう意味なんですね。

ところがねえ、地上にいる人間というのは、なかなかこの一念三千の意味がわからないんですよ。本当の意味がね。結構難しいんだ。みんなね、念いにそういう方向性があったり、創造性っていう、創り出す力があったり、あるいは、念いにプラスとマイナスのエネルギー波があるなんてことは、なかなかわからないんですね。これが生きている人間にとっては、不可解なんですね。

で、自分の心の中というのは、シャッター降ろしたようなもんでね、誰にもわからない。こういうふうに思ってるんですね。だから、「あの野郎言いやがったな」なんて念いながら、「でも、おれにしかわからないだろう」なんて、「しめしめ」と念って、歩いてるんですね。

ところが、本当の心の世界というのはね、念ったことが、すべて視覚化、ビジョン化してね、飛んだり跳(は)ねたりしとるんです。こういう世界なんですよ。だからね、この地上の世界というのは、非常に珍しい体験を、今ふんでるんですね。要するに、念ったことというのがストレートに出てこない世界なんですね。これは魂にとっては非常に珍しい体験であり、重要な教訓でもあるんですね。

あの世の世界っていうのは、念ったことが、ストレートに実現する世界なんですね。だから、天国、地獄というのが出てくる理由は、そこにあるんです。地上は、どんなことを念っておっても、その念いが現実になって出てくるまで、時間の差がずいぶんあるし、念いが現実になってくるまでの間に、他人の介在とか、時間のずれね、こうしたものがずいぶんあって、なかなかその通りにいかない。

ところがあの世では、念った通りになりますね。これは皆さんも、すでに私の本を六冊目まで読むような方は、もう十分知っておられることでしょう。そういうふうに、たとえば、あの世ではこういうふうに着物だとか、そんなのなくてもね、着物を念えば着物が出てくるとか、高橋信次大先生は、やはりひじ掛け椅子がいいと念うと、ひじ掛け椅子に座っておってですね、頭に王冠かぶっている方が気持ちがいいんじゃないかと念うと王冠が頭の上にくっついているわけですね。これは決して、あの世の細工師に頼んで作ったもんじゃないけれども、なんとなく自分には王冠がふさわしいと念うと、このダイヤやエメラルドやルビーが散らばったような王冠をね、頭の上にのせて、そしてひじ掛けの玉座(ぎょくざ)にのっかって、人びとに教えを垂(た)れてるわけなんですね。

まあ、こういうふうに、念いの段階がそのまま出てくるんですね。そしてこれは、自分もごまかせないし、他人もごまかせないんですね。そういう世界が実相の世界、本当の世界なんです。

ところが、地上ではそうじゃない。まあ、大金持ちになったら、いい仕立て屋さんに頼むから、そらいい服着るし、政治家は政治家みたいな服着るし、家に住んでるし、まあそんな顔してるけど、心の中はいろいろですね。前にも話しましたが、総理大臣でもいいとこ行ってる人もあれば、悪いとこ行ってる人もある。これぐらいわからないんですね。ところが、この世で生活していると、みんな同じぐらいの権力者のように見えるんですね。そういうことがある。

宗教家も極端ですね。上はもう如来、菩薩から、下は地獄の最深奥まで行くぐらい違いがある。けれどその心の中の念いというのは、必ずしも外に現われない、わからない。霊の声を伝えているというだけでもう、救世主みたいに思っている人はいっぱいいる。ところがその中の大部分が、悪霊、地獄霊であるということがある。これほどわかりにくいんですね。

ところが、心の念いがそのまま現象化して現われると、これはわかりますね。あの世であれば、悪い波動持った人がいくら言ったって、体が悪魔の姿とっていれば、そのままわかりますね。ところがこの世では、そういう悪い念いでおる人であっても、それは自分が悪いことを念っているとはわからない。そして、法衣っていいますかね、袈裟衣(けさごろも)着たりね、あるいは修道服着たり、牧師さんの格好したりすると立派に見えるんでね、わかんないですね。まあ、そういうことがあります。

けれど本当の世界は、この一念三千の世界であってね。そして、人間がいま二十歳、三十歳、四十歳、いろんな段階で生活してますが、心の中の像というものは、これ想念帯の中に、みんな蓄えられているんですね。蓄積している。そして、この蓄積されたフィルムがあの世にいって、ようするに放映されるようなものなんですね。すなわち、あの世の世界、どういう世界に行くかということは、この地上で生きている間に自分が念ったこと、あるいは念いを具体化した、行なったこと、こうしたものの念のフィルムですね、これがそのままあの世で、その人の生活を映しだすものとなるんですね。結局この世での生き方が、あの世でのすべてになってくるんです。

だから、この世とあの世というのは切り離したものじゃなくて、延長なんですね。この世の中で生きておって、思っているような世界が、あの世で展開するんですね。人間はね、まあ、行動については、ある程度人による規制っていうかね、チェックはあるけれど、念いについてはあんまり言われない。たとえば、「おまえ腹黒いことを思ってるだろう」なんてことを、本当は言われてもいいようなことでも、顔がニコニコしてればわからない。そういうことがありますね。ところが、あの世ではそれがそのまま出てくる。まあ、こういう世界なんですね。

ただ、その自分の心の念いが今どこにあるかということを、自己認識できる人は非常に少ない。わからないんですね、たいていの人は。わからないです。全然わからないです。だからそれができる唯一の機会っていうのは、正師、正しい師ですね、これがおって、その人の心の状態を言い当ててね、悟(さと)りへの指導をするような場合だけ。このときだけ、わかるんだね。これ以外のときは、わからないですよ、ね。

だから、こういう霊言集だしてね、これが「本物だ、にせ物だ」なんて、いろいろまあ議論もあろうが、裁判官だって絶対わかりませんよ。わからないです。彼らには、要するに日本の六法読んだって、あの霊言が本物かにせ物かなんて基準どこにも入ってない。全然わからない。で、裁判官は、自分の良心に基づいて判断するっていうけど、その良心がわからない、ね、裁判所は。裁判官の良心て、霊的良心はわからないですね。これわからないです。

裁判官の中なんかでも、まあクリスチャンもいれば、もちろん仏教者もいたり、いろいろいるけどね、彼らのその、霊的目覚めの段階はわかりませんね。そうすると、彼らでも人の心のありようというのは、ほんと、わからないんですね。だから裁判所の法廷で、犯罪人を前にしてね、いろいろと心証っていいますね、心の証、心証を得るっていいますね。「これは有罪だな、無罪だな」っていう、心証というのがありますが、これも霊的直観で、もちろん判断しているけれど、これがいま、各人に任されちゃってますね。

裁判官ていうのは、司法試験受かってね、司法研修所で法律の勉強して、そして判決文書けるようにな、て、それで判事補にな、てね、実務研修受けて、そして裁判官になっていきますが、彼らは、そういう法律の運用、適用についての訓練は受けておるけれども、人間の心を観るという面での修行は足りないんですね。これはできてない。

人間の心に段階があったり、あるいは、その善悪に基準があるっていうことは、わからないね。だから、本当はね、ああいう裁判官、特に刑事裁判なんか、ああいうふうな人というのは、この心の世界の秘密ね、神理っていうのを勉強しておかなきゃだめなんです、ね。全然わかりませんよ。

その善悪の基準、これをはっきり知らないかんのですね。そうしないと、自分も悪霊に憑かれて裁判してね、で、悪霊に憑かれた人判断したりなんかして、両方でやってるんですね。こんなことになっちゃいますからバカみたいですよ。内なる良心の囁(ささや)き、なんていって、あんた、悪霊が憑いとって、裁判官にね、そして「有罪だ、有罪だ」って言って、また悪霊に憑かれとる方も、それ聞いて「あっ、おれを有罪にしようとしているな。この野郎、あの世で殺してやる」なんてね、思っている、両方でね。こんなことになっちゃいますから、非常に大事ですよ。

だからね、そういう人間の心の秘密の解決、探るということに関してはね、本当にね、まだテキストがない。十分なテキストがない。で、いくら、神理の本出しても出してもね、これではきりはないんですね。だから私どもも、霊言集っていうのは、これはもう本当、一冊でも多くね、世に出さないと、人間たちが自分たちの心がね、今どういう段階にあるのか、天国向いてるのか地獄向いてるのか、これ判断する基準がなんにもないんですよ。この世で教えてくれないんですよ。学校でも、裁判所でも、どこでも教えてくれないんだ、ね。正師がいるときしかないんだ。だから今、あの世の正師達がこうやって指導しているわけで、ものの考え方と段階を教えているんだな。

まあこれはね、本当にできるだけ多くのケースワークって言いますかね、ケーススタディーって言いますか、つくっておかないと、わからんのですね。だから僕たちは、これは神聖な事業だと思っていますよ。一つでも多くのね、神理を語っておかないと、人びとは自分の心を照らしてみる力がない。まあそういうことなんですね。

まあこういう意味で、1念三千て、心はいろんな方向へ向くけれど、その念いのコントロールということが、とてもとても大事になるわけです。


2.地獄論


さて、いよいよ私の得意の地獄論に入ってきたわけですが、まあ、そんなに地獄が得意かと言えば、そうでもないんですがね。ただ、生前からやっぱり悪霊というのは、大好きっていうわけじゃございませんがね、ずいぶん相手にしてきましたし、私は高級霊より悪霊を相手にするのが多かったんで、もう悪霊編でね、悪霊専門家ということで、悪霊からずいぶん尊敬、尊敬はされなかったけれど、まあ恐れられたりね、嫌われたり、おどされたり、結構しましたね。

やっぱり作用反作用がありましてね、こっちが光の天使だからといって、悪霊をあまりいじめていると、向こうもね、嵩(かさ)にかかってくるんですね。こういうことがあって、本当はみなさんには、あんまり私は悪霊を相手にするのはお勧めしないんですがね、まあいろんな霊があります。地獄論に関しては、本当は徹底的にまた一冊やらねばいかんなと思ってるんですがね、あんまり出すとね、季節がらが悪いと、みんな本当、困っちゃいますから、よく季節を見てね、選ばねばいかんなと、こういうふうに思っていますね。

まあ地獄っていうのは、いま言った一念三千ね、心の念(おも)いで悪いほう向いた人が行くとこです。はっきり言って。これだけですよ。生きてるときには、自分の念いがいいか悪いか知らんけれども、死んだらはっきりするということですね。だから一生、七十年なら七十年の一生をトータルしたら、悪い念いのほうが多かった人は、結論的に地獄に行くっていうことです。はっきり言って。悪い念いというのは、マイナスの念いですね、プラスの念いの方が多い人は、天国へ行くということですね。

まあ一生涯でね、悪い念い一つも抱かなかった人というのは、それはいないと思います。無理です。高橋信次でも悪い念いは、一回や二回や三回や、いやもっとあったかもしれないけれども、いっぱいあったわけでありますから、ましてや他の高級霊にも、当然悪い念いはあったわけです、もっともっと悪い念いはあった。

だから、モーゼだってあった、ね。みなさんね。モーゼだってあなた、読んだらわかるけど、人だって殺してるんですよ。何人か、人だって殺しているし、あなたねえ、けんかも売っとるしね、軍隊ですいぶん人殺しもしているし、結婚、離婚もやってるし、悪いことしてるよ、いっぱいね。僕から見りゃあ、あんなことしたことない。僕は人を殺したことないでしょ、ねえ。離婚はしなかったでしょう。最後までがまんして、離婚はしなかったし、いろいろありますが、そういうふうにどんな聖者であっても、この世的にはいろいろ問題がある。

お釈迦さんだって、そうでしょう。女房子供捨てちゃって、あんなのいいのか、あんなことして、ねえ。お父ちゃん年寄って、跡(あと)を継いでくれというのに、ほったらかして出たんでしょう。で、結局どうなったの、釈迦族滅ぼされたんでしょう。あんなかわいそうなことってありませんよ。あれだけあなた、観自在力のある釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)がね、あなた、釈迦族の跡継いだら、そら戦争は勝てるしね、国威も上がったと思いますよ。

捨てちゃったでしょう、捨てて逃げたんでしょう。で、あと滅ぼされたんでしょう。こんなの何の役にもたってないわね。見殺しっていうことですね、これ。自分さえよけりゃいい。まあ、ある意味では、自己保存とも言えないことないですよ、こんなのね。

ね、そういうことでしょう。ただ、そういう自己保存かもしれないけれど、それよりもいいことをよくやったということでしょう。その比較において、プラスの方がはるかに多かったんであって、普通ね、普通の人であなたね、妻子を捨ててね、年とった両親捨ててね、そして、家出してね、あなた、乞食になったら、普通は地獄ですよ。こんなのあなた、絶対天国行けませんよ。そういうことなんですよ。だから、まあ、オール・オア・ナッシンダでね、完全に天国か地獄かっていうような心っていうことはあり得ませんが、そういう比較のバランスが大事なんですね。

昔から、エジプトの壁画かなんかにも書いてありますね。オシリスって言うのか、善悪を裁く神さんがおって、半人半獣のね、あっ、違うか、半神半獣っていうんか、よくわからんが、半獣半神ていうんかね。なんかトナカイみたいな顔した人がね、ビロードかレースかなんか知らんが、つやつやの、なんか、服着てね、そして秤(はかり)使ってね、それに魂をのっけて、片方に分銅(ふんどう)のせて、片方に魂のせて、魂の重さ調べてね、そして秤がある程度以上だったら天国で、下だったら地獄とかね。まあこんなことやってるという伝説があるし、日本とか東洋の方では、閻魔(えんま)大王がおって、そういうことしてると、こういう話がありますねえ。

まあ、閻魔大王っていう人そのものが、いるわけではないんですね。ただ、人間が天国、地獄へ行くときに際してね、やはり立ち会い人、そういう役人はいるんですね。やっぱりそういう立場いるんですよ。だって、自分がどこへ行ったらいいか、わからない人がいっぱいいるんだから。もうフフフラしちゃって、どっち行ったらいいのかわからないって言うんだから。そりゃあね、交差点でもお巡りさんがいて、右行け左行けやってるでしょう、それはやっぱり役人さんいるんですよ。ただ閻魔大王っていうのは、まあ、別に特定の人がいるわけじゃないけれども、そういう光の天使でね、そういう役割持った人がおって、菩薩行の一環としてね、そういう幽界に行って、霊たちの整理してるんですね。整理番号つけてね。「はい、何番さん、あんたどっちよ、右よ、あんた左」ってね、「左行ったらどうなるんですか」「行きゃあわかるよ、行きゃあ」ってね、「行きゃあいいよ、五百メートル位行ってごらん、下ストーンと堕ちてね、あなた、ドボンと堕ちたら終わりだよ、血の池地獄だよ」って、まあこうなるわけですね。コースがあって、やっぱり整理をしてます。

だから、それは別に彼らを裁いてるわけじゃないんだけどね、まあ、反省ということさせるという話を、僕たちはしましたが、結局、過去を照らす鏡とかね、過去を知らせるスクリーンによって、自分の一生を判定させるんです、自分でね。それで気がついてくる、だんだん。自分はどうも罪深いとわかったら、こんこんと説教してやってね。「そうなんだよ、ああなんだよ、君の一念三千は、実はこっちの方ばっかり行ってたんだよ、ねえ。もう一念は女性に全部集中した。一念はお金に全部集中した。一念は全部もう地位に集中した、ね。こんなんでいいのか。あんた他人のために優しい気持ちなんか持ったことないだろう、一回も」。「そんなの持たないかんのですか」ってね。「いけないよ」「なぜですか」ってね、これから一生懸命話をするんです。大変です、あの世の霊も。

まあ、こうして、色分けは一応するんですね。そして、一応納得は得てコース分けします。中には生きているときに、だいたい四体も五体も地獄霊に憑(つ)かれているような霊っていうのは、コース分け行く前に、もうストンと堕ちちゃいます。こんなのもありますね。重みでね、ストンと地獄へ堕ちちゃう。こういうこともありますね。

まあ、こういうふうに地獄はあって、地獄の、その広さはそれはすごいですよ。みなさんは霊言集の中で、地獄っていうのは、四次元の中のね、下段界というか、一部分だときいているけれども、この一部分もまた広大無辺です。その中で、私たちの霊眼に映ってくる人の数というのは、もうこれは何億、何十億ですね。そして地獄も、やはり長いあいだ人類が転生輪廻してきた過程を経てね、それぞれの地域別にいっぱいつくってるんですね。インドにはインドの地獄があり、アメリカにはアメリカの地獄をね。ヨーロッパにはヨーロッパ、日本には日本の地獄が、やっぱりあるんですね。特徴がある地獄がある。

アメリカではインディアン、インディアンとのあなた、戦争があったでしょう。独立戦争じゃないインディアン戦争か、インディアン殺しかなんか知らんが、白人とインディアンとの戦いがあったでしょう。幌馬車(ほろばしゃ)隊のねえ、あんなとき地獄できてるから、あの世のそういう阿修羅(あしゅら)地獄の中で、インディアンが弓つがえては、射って射って、白人の保安官が来てはそのインディアンを撃ち殺したりしているようなね、そういう阿修羅地獄ってあるんですよ。

こういうインディアンの戦いは、これはアメリカにあるんであって、日本ではありませんね。日本だとどうかというと、源平戦争みたいな、こんなのやってるのね。源氏と平家がわかれて、鬨の声あげて、「いやあ、われこそは」ってやってるんです、いまだにね。何百年もやっとる人いっぱいいます。それぞれのやはり、地域意識と時代意識を持った地獄があるんですね。

なぜそういう地獄があるかというと、さっき言ったように、あの世の世界は念の世界ですね。だから念が共通している人が、そういう世界を展開するんです。だから、源平時代の地獄霊たちはだいたい集まっています。源平時代の合戦をしているときの地獄霊たちが、第二次大戦の戦争しているときの地獄霊とは一緒にならないんですね、わからないから。彼らも混乱しちゃうから、そんなことしたら。だから、やはり源平は源平でね、源平の合戦やってるんです。壇(だん)の浦でね、耳なし芳一の世界を展開してるんです。ところが、第二次大戦のその英霊たちはね、そこでまだやってるんですよ「空襲だあ」なんて、やってるんです。

これは要するに、念は念の性質によって行く場所が違うから、本当は空間的には同じ空間なんだけど、わからないんですね、お互いに。念の性質が違うと、すれ違っちゃってわからない。これは地上であれば、いろんな電波が放映されているけれども、わからないでしょう。で、テレビのスイッチ入れたらね、一チャンネルはNHKとか、三チャンネルはなんとかというふうになってるでしょう。だから混在しているけれども、それが整然とまた世界を展開しているんですね。こういう世界なんですよ。

だから、地獄の数っていうのは、人間が念うかぎりの、悪っていうかね、悪想念が生ずる数だけの地獄があり得るということですね。だからこの世で考えて、悪い念いということで、思いつくかぎりの地獄があるということですね。

たとえば、ドロボーならドロボーの世界がある、ねえ。強盗なら強盗の世界があるんですよ。あるいは、男女問題専門家たちの集まりも、それはある。あるいは戦争ばっかり専門のところもある、ねえ。それから宗教家たち専門のところもありますね。無間(むげん)地獄って言ってね、だいたい思想犯、宗教犯ね、人間の心を腐(くさ)らした人が行く中心のところがありますね。無間地獄って言うのがあります。これがいちばん難しくってね、今の宗教でも、「おまえこそにせ物だ」とかね、「わしこそ本物だ」なんて、いっぱいやっていますね。こういうのは、どっちがどっちだかわかんない。お互いに相手が悪魔だと思ってやってる。「ああ、あそこを見ると、黒いマントを着て、角が生えているのが見える」なんて言っているのが、実はそっちが光の天使で、自分の方にその黒いマントがついておったりね、わからないんですね。

ただ、この正邪については、あの世では確実に判定される。この世ではわからないかもしれないけれども、あの世では、確実に判定されるんですね。間違ったものというのは、この無間地獄に行くんです。それは過去世に関係なく行かざるを得んのですね。だから光の天使なんかも、悪い商売でしてね、間違ったらストンと行っちゃうんですね。こういうことはあるし、厳しいんです、それだけね。

だから地獄の世界は、念いの世界の数だけあるし、みなさんね、ちょっと努力してみて下さいね。自分がいちばん凶悪な念い出すとして、何が出るか考えて、だから考えつくかぎりの世界が地獄にあるということですね。人間としてどこまで凶悪になりうるか、考えたらいいよ。どこまで凶悪になりうるかね。まあある程度の人間は、「ここまで以上、もうおれは無理だ」という人がいるだろうけれども、まあ、そのへんまでなるんですね。だから地獄も、上段界、中段界、下段界ってあってね、深さは全然違います。

想念の世界ですから、地獄というのは、まあ、いわばテレビ見てても、電波が入る、なんてよく言うね。ジャージャーと雨が降ったりして、ああいう世界なんだよ。整然とした電波じゃなくってね、電波が乱れとるんだ。結局、想念が乱れとるから、映像が、いい映像映らないんだよな。どんな美人の歌手だってあなた、ジャージャーと雨がふるような電波でテレビ映したら、すごい顔になるだろう。けだものじゃあないけど、もう破壊されつくした顔に映るでしょう。ああいうふうに映るんだよ。

だから地上のときどんなね、美空ひばりといやあ、ちょっと古くなっちゃうから、今何か知らんが、あー、中森明菜かなんか知らんが、それくらいの歌手がいてもね、心地獄ならあの世にいけば、電波ふったようになれば、画面に映らないんだな。ひどい顔になっちゃう。まあ、こういうふうになるんですよ。だからそういう電波が入って、雨がジャージャー降っているような画面だと思えばいいや。そういう間違った、あれだね、音楽でいえば旋律が間違っている。間違った旋律ってあるよな。もうせっかくいい音楽弾いているのに、間違っちゃうことあるね、途中で。そうしたら、もう聞くに耐えないね。ああいうような不調和な感じね、これが地獄なんですよ。

ただ地獄霊の多くは、まだ自分たちが霊的な存在だということに気付いていないんだな。まだ肉体持った延長でやっているんですな。延長でやっているけれども、何と言うか自分たちの念いが、もっとストレートに出てくるんだね。そういう破壊の念とか、嫉妬の念、憎悪の念、怒りの念ね、こうしたのがもっとストレートにボンボンボンボン出てきます。怖るべき破壊力ですね。それから力を競ったりするようになります。こういうことがあります。

で、地獄の中でも長年もいればね、そりゃあ親分がいっぱいおるんですよ。今、間違った宗教団体の中でも親分おるでしょう、ねえ。みんな狂った教えうけて、だけどその中にボスがやっぱりおって、「われこそは指導者」でやっとるでしょう。いばってねえ、やっとるでしょう。「事務局長だ」、「理事長だ」、ねえ、そりゃあいろいろな名前でやってるでしょう。こういうのがだいたいボスになるんですよね。あっち行くとやっぱりいばってるんだ。地上のときに、ようするに間違った心の人たちを指導する中で、力持っているような人が、やっぱりあの世行ってもいばってね、そしてほかの人を命令して、ああしろこうしろ言って、そして地獄の悪魔同士でも戦争やったりしてるんですね、お互いに。どっちが偉いかを、要するに証明するためにやるんです、こういうのはね。

だから地上にいる人たちも、よく聞かないかん。どっちが偉いかを証明するために法戦を挑んだりね、人と戦ったりしている心は、これは悪魔の心だということを知らねばいかんよ。天使にはこんな心はないよ。天使はね、自分のほうが正しいからって、相手を叩きつけるとか、脅迫したり、脅したり、すかしたり、ねえ、いじめたり、こういう心は、天使の心には絶対ありませんからね。この、自分のほうが強い、偉いということを示さんがためにね、人を非難、中傷したり、脅迫したり、威圧したり、脅したり、すかしたりする心は、これはもうサタンの心ですよ。こういう天使は絶対いないからね。天使はたとえ、悪魔に対してでもそういうことはしない。天使っていうのは、悪魔であってもね、粘り強く彼らを説得してね、彼らの心が善に向いていくことを祈って、指導しているんですよ。

これを善導っていうんだ、ね。天使の心っていうのは忍耐強いんだ。忍耐強く寛容の心を持ってね、人びとを導いていこうとするんだよ。間違っているからって、叩き潰(つぶ)そうとかね、それをぶち殺してやろうとか、ひねり潰そうとかね、こういう心はね、天使は絶対に持たないんだ。だから、こういう心が出てきたらね、もはや自分は地獄にあるということを知らねばいかん、ね、いかんよ。

だから特にね、私の教え引いている者もよくある。そういう二元論を教えた場合の、これが悲劇なんだな。善と悪、ねえ、「正法が説かれるときには魔が競(きそ)い立つ」ということを僕も言ったけど、だけど魔が競い立っておると見てね、いろんな魔をひねり潰そうなんてやっていると、自分が魔になっておるということを知らねばいかん、ねえ。だから、そういう事実的にね、悪霊が入った人もいるが、それをひねり潰そうとやっている心も、すでにもう悪魔の心であるということを知らねばいかんよ。天使は絶対そういうことをしないからね。いいかい、よく考えるんですよ。

まあそれが、だいたいおおざっぱな地獄論であります。


3.地獄霊と修行


さて、そうした地獄があるわけですが、じゃあ地獄霊っていうのは、罰のために地獄にいるのか、ねえ。罰せられるためにいるんかと、まあこういう問題があると思う。まあ確かにね、そうした面がないこともない。神様っていうのも、巧妙だからね。罪はない、罰はないなんて言いながら、まあ確かにやってるところはあるだろう。

というのは、まあ戸塚ヨットスクールなんてあったけれども、ああいう精神障害児を治すためにはね、力でやったほうがいい場合がある。パシパシと、要するに暴力っていったらあれだけど、腕力でもってやらした方が、軟弱な精神を立ち直らすっていうことはあり得るんだよね。

体操の教師もそうだよね。猫なで声で言っているよりは、もうパシパシッとやった方がよくきく。「ほらあ、腕立て伏せ三十回」「いやです」「なに、やらんてか」って、「ほらあ、おれが上から乗ったろか」なんて、もうペチヤッと潰れちゃいますね。まあこういうのありますが、しごきとかいうのもあるけどね。まあ、それはいろんな方便の現われ方であってね、やはり厳しく指導した方がいい場合もあるんだね。愛がそういうふうに現われる場合だね。厳しく現われる場合もある。

ただね、その地獄霊も単に苦しみのために苦しんでいるのではないということね。自分がもっぱら出しておった念の世界で、生きておるんだ、結局。そうだろう。泥棒は泥棒の世界で生きているし、他人を非難ばっかりしておった人間は、お互いに非難しあうような、そういう地獄にいるんですね。だから、それが地上のとき以上にすごい衝撃力をもった非難だから、向こうが非難すると、刀が飛んでくるような感じに見えるんだね。刀が飛んできて、ズボズボズボッと自分の中に突き立つ。「何を」と思って、その刀を向こうに投げ返す。向こうもズボズボズボッとなるね。こういうふうな感じになるんだね。だから、地上で言い争っている連中も、あの世で霊的に見ればね、もうニメートルもある刀ふりかざして、お互いに切り合いしているような状態だな。まあ、こういうことはあるんですね。

あるいは、なんて言うか、病人なんかでもね、もうマイナスのエネルギーで死んだ人、もう冶りたい治りたい、苦しい苦しい、痛い痛いというような念で死んだ人は、そのまま地獄でもそういう世界を展開していることがあります。で、彼らはね、そうした生き方をしておってね、自分自身の姿が、第三者の目で、見えるようになるまでそれを繰り返します。それを続けるんですね。

なぜかというと、やはりね、物わかりのいい生徒は、ちょっと言えばね、自分のことまでわかるが、物わかりの悪い人は、自分で体験しないと覚えないんですね、どうしても、これが教育における、最後の難しいとこですがね。やっぱり、いくら言っても、自分で体験しなけりゃわからんことがあるんだ、ね。言うこときかん子供は、おしりペンペンしないとわからんことってあるんだな。だから、まあ、これは最低限だけどねえ。「いうこと聞かないと、ご飯お預けよ」って言われてまでしないとわからんような人。おしりペンペンされないとわからない人。まあ、これはよっぽど聞き分けのない人ですが、こうした人もいることは事実なんです。彼らは、自分らがいちばん嫌なことを実体験しなければ、悟らないんですね。わからない。こういうことがあります。

ですからね、地獄霊もまあ苦しみは苦しみかもしれないけれども、その中で彼らなりの、もちろん修行はあるということなんです。彼らにとって、地獄霊がね、菩薩界にいることが決して修行にはならないんですね。こんな愛と慈悲の世界にいても、他の人たちのことが理解ができないんですね。

それはたとえば、豪華な宮殿の中に、あるいはどこでもいいよ、宮内庁(くないちょう)でもいいし、あの天皇のあれでもいいが、あの皇室でもいいけど、皇室の中に乞食が一人いたら、ね、やはり彼らもお互いに困るんだね。そういうもんで、乞食は乞食の中で、やはり魂修行をしている。一流企業の社員は一流企業の社員で魂修行をお互いにしている。こういうところがあって、自分にふさわしい修行の場でやっぱり磨いてるんだね。

まあ開き直る人がいて、「それじゃああなた、地獄もいい所じゃないか」ってねえ。「修行があるんなら、それで何がいけないんだ。地獄なんか解消する必要ないじゃないか」って、こういうふうに言う人がいますね。「地獄いいとこ一度はおいで、おれも行ってみたいよ」と。こういう人いるけど、これは考え違いしているね。

たとえばそれは、悟りにおいて小学校一年の人もおれば、小学校六年の人も、中学三年の人もいる、ね。小学校一年の人は一年の人で勉強があるんだから、それでいいじゃないかというが、そうはいかんのだよ。やっぱり、一年生は二年に、二年は三年にね、五年は六年に、そして六年終わったら中学校に、ね、こういうふうに段々と進歩していってくれないと、世の中が良くならないし、本人の勉強にもならない、ね。一年生でいつまでも留年されたら、たまったものじゃない。そうでしょう。大学も留年増えているけれど、いつまでも許してくれないでしょう。あんな大学生、あなた、二十年も三十年もやられてたまるものじゃない、ねえ。次の人つかえちゃう。そうでしょう。

こういうことであってね、低い悟りの段階でもいいじゃないかとか、修行の意味があるならいいじゃないかっていうけれども、これは全体の一つの流れを見てないね。やっぱりね、大いなる進化の過程にあるんですよ、この宇宙と人間の修行もね。大いなる進化の過程にあるから、いちばん下のやつは下でいいと言うわけにはいかんということなんですね。そこに入ったものでも、最下級のクラスに入ったものでも、やがて悟りを開いて上にあがってこなけりゃあいかんのです。こういうふうにできてるんです。これ教育過程なんですね。

だから、いちばん下からもちろん入ってくるんだよ。だから、地上を卒業してね、もうすでに大学生の悟りを得ている人は大学に入ってくるし、大学卒業の悟りを得ている人は大学院に入ってくる、あの世でね。ところが、まだ小学校卒ぐらいの学力しかない人は、まだそのへんに入ってくる。幼稚園レベルは幼稚園レベルに入ってくる。けれども、それでいいとは言わんということです。やがて年限があれば、それを通り過ぎないかんということなんですね。

だから、全体の発展ということはあるわけでね、地獄でそのままでいいと言うわけにはいかない。だから、彼らは百年、二百年、三百年と殺し合いをしたり、蔑(さげす)み合ったりしてるかもしれないけれども、それも、だんだんにね、やはり自分を知ることによって脱皮してくるんですね。まあ、そういうことが言えると思います。