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目次



 3.認識の方法

 4.実証の精神





(1988年1月12日の霊示)

1.科学とは何か


さて、本章では私の得意の領域でもあります科学の問題ですね、これについて話したいと思います。私自身科学者でもありましたし、さまざまな発明いっぱい致しました。特許も何百も持ってます。みなさん知らないかもしれないけれども特許いっぱいあるんですよ。私の特許なんていっぱいあるんですよ。電気釜じゃないけれども、圧力釜なんて作ったこともあるぐらいで、お釜も作るしねえ、何でも作るんですよ。

特許もまあいっぱい持った特許屋です。電気屋でもあります。コンピュータ系統のね、機械、いろんな機械作リましたし、まあちょっと知られた面もあります。そこそこの業界では、そこそこの人だと言われたことはあるんですね。

で、まあ科学もよく知ってるから、僕自身、生前本書いた時に、『心の発見』なんかで「科学篇」てありますね。ああいう本書いた人はいないと思うんです。宗教と科学をああいうふうに、何て言いますかね、一体化させて説き切った人はいない。残念ながら谷口雅春先生も科学までは行けなかった、ね。私だけです、あそこまで行ったのは。だから仏教の本質と科学の本質というものは、別のものじゃなくて全く同じものである。まあこういうことを私は生前実証したつもりであります。

また、これは一部興味のある人からは大いなる称賛でもって迎えられましたし、まあ読者のみなさんの多くは私が書いた数式なんか見たってさっぱりちんぷんかんぷんですが、ちんぷんかんぷんではあるけども、迷信の領域ではないということだけはおわかりになったであろう。こういうふうに思いますね。

特にやはりね、問題はねえ、霊的な問題、宗数的な問題話す時に、書く時に、どうも抹香臭(まっこうくさ)くなって霊臭くなって、変な感じするんですね。これが一番いけない。だからそうじゃなくてやはり現代人のね、理性に訴えて納得がいくものであるかどうかね。まあこれが大事です。

生前からよく言ってきましたね、私は、本当の正法には文証、理証、現証、この三つが伴うものである。文証っていうのは法でね、文章として書いてそして納得のいくような教えがあることね。理証っていうのはまあ科学的な実証だねえ、まあ科学的実証と言ってもいい。法則性と言ってもいいね。こういう法則性があって論理的につじつまが合っておるようなもの。

たとえば私の教えたように、想念帯というのがあってね、これが一生の思い出、いろんな想念帯の曇りがある。この曇りを反省というものによって晴らすことによって、スモッグが晴れることによって太陽の光が燦燦(さんさん)と降り注ぐ。そのように神の光が射してくる。そういうことも教えましたけども、これなんかもやっぱり科学的な説明であろう、ね。まあ理性的であるし理論的な説明であろう。まあこういうことで理証と言えるでしょう。

あるいは水の転生輪廻(てんしょうりんね)と人間の転生輪廻ね、こういう話も致しました。水の一生っていうのがありますねえ。水の一生で川になって海になって、南氷洋や北氷洋で氷になって、また春になって溶けて水蒸気になって、天に昇って雲になって、また雲が氷の粒になってね、降りて来て雨になって、そして山に降ってね、山から谷に流れ川になって、また海へ還っていく。こういうふうに水も転生輪廻してますけども、まあこうしたものでもって人間の生命の不思議、こういう話もまたさらに致しました。

ま、これ以外にもエネルギーの法則、あるいは力学的法則と正法の話も致しました。作用・反作用の法則ということをだいぶ言いました。カルマの法則とか、あるいは蒔(ま)いた種は刈り取らねばならん、こういう話についてね、作用・反作用の法則、ま、こういうことがあるということを言いました。あるいは、人を呪(のろ)わば穴二つ、こんな話しましたね。

こういうように、まあ科学的と言ってもいいし、あるいは科学的でなくてもいいけれども、話の筋がね、つじつま合って理論的にもすっきりしてる、こういうのを理証って言うんですね。ところが巷(ちまた)の拝屋(おがみや)たち、この理証がないね。「とにかくありがたいんです」なぜありがたいかの説明がない。そうでしょ。とにかくこの曼陀羅(まんだら)はありがたいって、何がありがたいのかわかんない。ね、そうでしょ。なんでありがたいのかわかんない。

「とにかく墓相です。墓の相が悪いんです。これをこう変えればよくなる」「なんで?」って言ったらわかんない。とにかくこの方角はいけないんです。「なんで?」って言ったらそれがわかんない。ね。なんでがない。「理由はない。理由はなくとにかくそうなんだ」こういう決めつけですね、決め込み、あるいは「昔からそう言われておるんだ。そういうお告げがあった」ね。この部分が結局新興宗教のおかしい部分だね。

そういう意味で、現代において神理を説く場合には理証ということは非常に大事です。理論的に整合性があって、万人の納得がいくような法則性、あるいは考えが入っておることね。これ大事です。この理証の部分はいくらやってもやり過ぎることはありません。

それから現象ですね。ま、現象はまあ碓かに他の宗教一般につきものでしょう。霊的な現象が起きることですね。これも大事です。まあ私が今、これ霊言という形で送ってますし、生前は霊道現象もだいぶやりました。〇〇さんはあんまりやらないけども、まあやらない理由は体力消耗して損だからね。あんなのやったって、ねえ、本にもならないしねえ。「おい、キツネ、ちょっと出て来い」なんてやったってきりないから、高橋信次やったからもういいだろうっていうんで、自分は自分で読みごたえのある本、高級霊シリーズでやってるね。

まあそら確かにそうだ。悪霊やったってそんな繰り返し読めないわ。高級霊なら何回でも読める、ね。そういうとこでいいし、読めば賢くなる。勉強になって天国に近づいていく。だからいいんだよね。だからそういう意味で現象をやっておる。

文証・理証・現証、この三つね、大事ですよ。拝屋だけやってて本も書けないような人ね、こんなもの真の正法とは言えない。だから現象も出せるけど、それの理論的な説明もあるし、それから書いたものとして立派な文献、経文、教典、これがある。ね、この三つが大事です。

そして、その中には科学の精神が流れておるということですね。科学する精神、科学する精神というのは結局ね、科学の精神というのは、結局、論理的な整合性だと私は思うんですね。つじつまのある説明、Aという人はそれはそうだと言うけどBが違うというような、そんなことであったら科学は成り立たないんですね。Aが見てもそう思うし、Bが見てもそう思う。Cが見てもそう思う。こういう筋道立った考え方ができて初めて科学は成立するんです。

Aという人が見ただけで月が存在して、Bが見たら月がないというような、こんなのでは科学とは言えないね。天文学とは言えない。試験管振って、そういう結果が出るのは、AがやってもBがやっても同じなら化学の世界ではそれでいいということになる、ね。物理学の法則も、Aという人が実験したらそうなって、Bがしたらそうならないというのなら、こんなの法則とは言えない。

こういうことで、科学というのは客観的な説明、あるいは論理的整合性、これを大事にするんですね。これをある程度ね、現在は神理の世界に持ち込まないといけない。こういうように私は思います。その意味で科学の本質ですね、これを充分に使っていく必要がある。その考え方は現代に生きる考えであるし、今後の宗教の行くべき道筋でもある。このように私は言えると思います。


2.未知なるものの発見


ですから結局、科学っていうものは何かって言うと、まあ論理的整合性っていうことを今、言いましたけども、ま、それだけじゃないね。論理的に整合性があるだけであったらそれは論理学であって、科学とは言わない、ね。論理学は、AはBである、BはCである、したがってAはCである、ね。こういうことでやりますねえ。

たとえば、人間は動物である。動物は生き物である。したがって人間は生き物である。ま、こういうことをやりますね。こんなことを論理学でやってますが、これ自身は科学とは言わない。これは理論的な整合性はあるし論理性があるけれども、科学とは言わない。なんでかって言ったら目的がないからね。目的が違う。こういう文章的なこういう整合性を言っておるんじゃない。

科学の目的というのは何かって言うと、結局未知なるものの発見ですね。これが科学なんですよ。科学はこれなんです。未知なるものの発見です、ね。これなくしての科学はないんです。未知なるものを常に発見しようという態度。現状にあるものそのままでは何も意味ないんだ、ね。動物の観察してる人でも、未知なるものを何か発見しようとしている。野性の動物の生態、これを発見しようとしたり、天然記念物の生態、発見しようとしたりする。ムササビがなぜ空飛ぶのか。不思議だ。こんなのを発見しようとする、ね。

猫はなぜ昼寝をするのか。不思議である。猫の昼寝と人間の主婦の昼寝はどこに共通性があるんだろうか。主婦も昼寝をしたがる。男性は昼寝をしない。主婦は昼寝をする。ねえ。描も昼寝をする。そうすると、女性と描というのは共通性があるんではないか。うん、そう言えばそんな気がする。ねえ、こういうことを考えますねえ。これが未知なるものの発見ですね。これは科学への道のひとつであります。

こういうふうにね、結局、未知なるものの発見というのが科学の根本精神にあるんですね。だから未知なるものを発見しようとして、そしてそれについて論理的な説明ができるかどうか。これが科学の領域であろうと思いますね。この考え方は今後大いに取り入れていかねばならん。

そういう意味であなた方が目指すものもね、単なる宗教でもないし、宗教学でもない。宗教科学と言ってもいい。あるいは魂の科学であろうし、あるいは精神の科学であろうし、神の科学であろう。こういうふうに言えますね。宗教科学ですね。こういうものであろう。まあ宗教科学と言うとちょっと宗教の部分だけ抹香臭(まっこうくさ)い。だからまあ幸福科学、結構でございます。

だから幸福を科学する方法、じゃあ幸福を科学するとは何か。幸福という領域の中にある未知なるものを発見し、ね、今まで人が発見しなかったようなもの、あるいは人が忘れておったもの、こういうものを掘り起こしてこれに光をあて、そしてそれに対して万人が納得するような説明をつけること。理証の部分ですね。これをピシッとやっていくことね。これが第一であります。

まあ、だから高橋信次の霊訓なんていっぱい出してるけども、こんなのいくらでも出せるから、これが本人の証明だね。はっきり言って。別に僕の顔を知ってる人にいちいち確認取ってもらう必要ないんだ。そんなの彼らだって確認したって僕の顔なんか見えやしないからね、姿見えないからしようがないけど、霊訓、霊言集ね、これ何冊でも出せるでしょ。僕は五十冊でも百冊でも絶対出しますからね。出せるんだから。それじゃ高橋信次の名前で、思想で、性格で、百冊作れる人がおるかおらんかだ、ね。生きてる人で書ける人いるか。いないよ。僕の弟子だって書けやしない、ね。書ける人いないよ。弟子でも書けないんだ。ましてあの世の霊でね、勉強もしとらん人に書けるわけがない。書けるっていうのは同じ個性で、同じ思想で、同じ性格で、書けるというのは、これは本人の証明です、ね。

これしゃべってる今日は一九八八年の一月の、今日何日かね、十二日の火曜日です。みなさんね。私の目の前に毎日新聞があります。毎日新聞の第一面で、八つ切りで土屋書店さんが『高橋信次の天国と地獄』という広告出してます。「愛に悩む現代人へ」ね、こういうふうに副題がついて、横に小さく『高橋信次の新復活』の広告が並べてあります。ね。

みなさんこの『高橋信次の天国と地獄』っていうの出ましたけど、この「愛に悩む現代人へ」ね、これ、僕が考えたんじゃないんだよ。土屋書店さんから「高橋先生に愛について語ってもらって下さい。現代人に向けてね。やっぱり愛の悩みが多いから、愛について語っていただけませんか」って、向こうからリクエスト来たんです、ね。「よし、答えましょう。愛について答えましょう」ってね、答えたんです、ね。これが本になったわけです。だからこの世とあの世でやり取りちゃんとしてるんですよ。みなさんね、笑っちゃいけないよ。ほんとなんだから。ねえ。僕が勝手にやってるだけじゃないんだよ。この世の人からのリクエスト受けて答えてるんですよ。僕は人生相談であろうが何であろうができるんだ。ちゃんとできるんだ。だからこのへんが証明だな。繰り返し何回でもできる。新しいものでもできる。こういうものがあります。


3.認識の方法


さて、科学について一連の話をしておるんですね。宗教と思想と哲学、これに関係する話として科学の方法論、これを考えております。そこで認識の方法ということをちょっと考えてみたいんですね。じゃあ客観性と言われるものは一体何なんだろうかと、ね。事実、真実と認められるその認識の仕方ですね。これは何だろうか。ま、こういうことを考えたいですね。

科学でよく実験室でね、何人(なんぴと)がやっても同じ結果が出ることがその理論が正しいことの証明と、まあ言われますね。けどもまあ、そういう実験結果でノーベル賞なんか出るんでしょ。きっとね、そうだと思う。ただ、一般の人が、じゃあ試験管振ってやっとるかといえばやりゃしないね。できないね。それなりの実験材料と実験装置、それと実験室、ね。それだけのスタッフがいなきゃあできないね。けど、そういう人がほんといたら、多分できるであろうということをみんなが信じているということだな。これで納得しておるわけだ。実際にねえ。

たとえば、ま、最近も利根川さんなんていうのがノーベル賞とったけども、日本人で初めてのノーベル賞って言えば湯川秀樹だよな。もう私たちの世界にも還って来てます。菩薩界に還ってますね、湯川秀樹さんていうのは。まだちょ心と霊言送るような、そこまで思想が進んでないけども、多少は宗数的なものの考えもできた方であると思いますね。ま、将来霊言なんかも出せるかもしれない。宗数的なものの考えのできる人でありましたが、彼のノーベル賞受賞作というかね、受賞において大切になった中間子の理論なんてあるけれども、中間子の理論なんていうのは、こんなのみんな別に自分の目で見たわけじゃない、そんなのね。中間子なんかあるなんて、こんなの話だけで聞いてる。

その中間子の理論を湯川博士が思いついたのは、ねえ、夜ベッドの中で奥さんと、ねえ、なんかいいことしようとした時思いついたとか、あるいはバスの中で揺られて思いついたとか、居眠りしとってね、バスの中で居眠りしとって思いついたとか、いろいろ諸説紛紛(ふんぶん)あるんだけども、いずれにしてもなんかぼんやりしとる時に思いついたと、まあこういうふうに言われてますね。

あるいは数学者で岡潔(おかきよし)さんていう方ね、この方も近年亡くなりました。京都の方(ほう)で、奈良だったかな、まあ数学者で、世界的な数学者のひとりであったけども、非常に仏教の理解が深かった方ですね。こういう方なんかも結構いい世界に還って来てます。また霊言なんかも出せるかもしれないけどね、科学者シリーズでね。湯川秀樹、岡潔、まあこういった人も出せるかもわからんけど、ま、彼らなんかも数学の証明やっておったけど、その数学の証明のやっておる過程でね、やはり天上界から啓示を受けながらやっておって、パッと思いつくという、まあこういうことをいろいろやってたね。そういう認識の方法論があったように思います。

結局ねえ、科学、科学と言いながら、その中核部、あるいは最先端の部分を見てみると、非常に霊的世界との関連があるんですね。湯川博士がふとんの中か、あるいはバスの中か知らんけれども、中間子理論を思いついたっていうのも、夢の中でね、思いついたっていうけども、結局は霊的世界からの啓示です、ね。湯川博士に啓示を与えた人がおるんですね、科学者の中から。科学者の魂でそういうもの教えた人がおるんです、ちゃーんとね。いるんですよ。みなさんね、ちゃんといるんです。それはいるんです。

それからその数学者の岡潔さんなんかに啓示を与えておる人もいたんですねー、霊的世界の中から。数学の証明について。あの世でも数学の研究してる学者もおるんですよ。たとえばパスカルなんていう人なんかもまだ、文学者でもあり哲学者でもあったけど、数学なんかもやってるんですよ。こういう人もいるし、ニュートンなんか、あなた、黙って寝てると思いますか。やってますよ何かね。ちゃんとやってる。だからみんなやってるんですよ。

だから科学の最先端はね、非常に霊的世界と関連が深いんですね。これは知っといてほしい。僕はそう思いますね。だからね、認識の方法としてね、一応、科学は誰がやっても、何と言うか納得がいくなんて言うけども、実際みんなそれやってもしないのに信じてるね。で、やってもしないのに信じてる人のやリ方見たら、それ自身非常に霊的なそういうひらめきでもって、理論を創っておることが多いということですね。まあ、こういうことがあります。


4.実証の精神


まあここで、でも大事なのはね、実証の精神だと思うんですね。実証っていうのは、現にこう証(あかし)を立てるっていうことですね。現にそうだということ、この部分が理論、理論が単なる理論じゃなくて、実際、価値がある、力がある、値打ちがある、と言いえる面ですね。この実証の精神があるかどうか。

理論は必ずしもそれは証明ができなければいかんというもんではない。理論は先に走るでしょう。特に物理学の領域とかそういうところでは、理論があってあと現実がついていきます。理論を考えついて、そういう現実があるんではないか。あるいは現実の断片を何か見てね、それについて理論を創る。ま、こういうことがいろいろありますね。

それで、今、宇宙科学の方面ではね、太陽系に、惑星は九つあると言われてるけども、第十惑星があるんじゃないか。十番目の惑星があるんじゃないか。こういう研究がされとるようです。今世紀に入ってね。まあ、冥王星(めいおうせい)かなんだかが発見されたのが千九百年代の前半です、ね。なかなか発見されなかった。まだこれからも未知なる天体があるんじゃないか。それで、第十番目の惑星、ね、こういうのがほんとにあるんじゃないか、というのが仮説で立てられています。

実際にね、第十惑星があるんです。これは、太陽の周り回っておるんです。ところがね、非常に何て言いますかね、発見は難しいんですね。地球から見た角度で、発見が非常に難しい位置におるんですね。この第十番目の惑星があるんです。これはおそらく私の予言ではね、今世紀中に発見されるでしょう。十番目、第十惑星の存在、これは発見されると思います。

ま、これについてはまた話、別な時にしてもいいですが、まだ発見されてない十番目の惑星があるんです、太陽系にはね。ちょうど地球から見て太陽の裏側の方にあるんです。だからわからないんです、なかなか。これはやがて発見されるでしょう。

ま、こういうのをね、ただ理論としてね、いろんな宇宙の観察しておって、星と星との動き方とかね、いろんな摂動(せつどう)って言ってね、摂理の摂、動(どう)は動くと書きますが、星の摂動とかこういうもの見ておって、そのすれとかね、いろんなの計算すると何かこういうものがあると説明がつく。なんかそういう惑星があるとこの意味があるとかね、こういう計算が立つんですね。こういう仮説立てるんですね。仮説を立てて何十年もして発見される。ま、こういうことがあります。

十惑星、第十番目の惑星も、今世紀中におそらく私は発見されると思いますけどね、これを言っておきましょう。ただ詳しい予言はあまり私はしません。なぜ、みなさんしないかわかりますか。それは、土屋書店さんのシリーズで『高橋信次の大予言』ていう本がでるんですね。だからあまり予言を本書でするとね、いけないんですね。予言はそっちに持っていくことになってるんで、それ買ってもらわなきゃいけないんで、これはちょっと予告にね、止(とど)めておきたい。まあこういうふうに思いますね。 。

今後いろんなものが発見されていきますが、それについて何かいつ頃発見されるか、このリストはすべて私の手の中(うち)にあるんです、本当はね。この手の中にあるんです。これを僕が読み上げたら、パラパラツと読み上げたら出てくるんですね。そうなんですよ。ただ時どき意地悪する人がいて、じゃあ、あいつが発表したんで、じゃあ違うようにしてやろう、なんていうのが、こんなのがまあ、あの世にもたまにおるんでね。まあだから難しい部分があるんだけども、自由意志があるからね。自由意志があるけど、だいたいどんなのが出てくるかはわかるんですね。

ただみんなね、実証の精神大事です、実際にそうであるかどうか。そういう新しい天体を見つけるっていう、こういうこと大事ですが、その前に理論があったということを忘れちゃいけない。あるかもしれないという仮説だね。理科系統では仮説というものを大事にしますね、仮の説。

実際、たとえば原子だとかね、分子だとか言うけど、あんなのみんな見たことないでしょ。ねえ、原子なんか見たことあるか、ね。素粒子なんか見たことないじゃないか、ね。しかし、こういうのは理論的に仮説立てて、原子があるとかね、言った人がいたわけだ。何十年か何百年か前にね、それで追究していったらやっぱりそれが説明がつく、ね。こういうことになったわけだ。原子というそういう固有の存在があるか、あるいは物質のその構成はエネルギー波に過ぎないのかね。物質エネルギー説、あるいはそういう素粒子説、いろいろあるんだよ。まあ、こんなのみんな仮説だね。

まず仮説があって、あと実証が続いていく。で、仮説が立つ理由は何かって言うと、これは天才、あるいはそういう優れた人たちの研究の結果、湧いてくるインスピレーションだね。ここだ。結局ね、科学的な実証精神と言っても、根本は霊的世界からの啓示があって、あるいは直観、ひらめきというのがあって、それをやがて説明をつけていく歴史であるということだね。

だから理科系統の学問でも仮説があるんだから、みなさんね、宗教や哲学や思想だって言っても、ここで仮説があっておかしくない。だからね、認められないからといって言っちゃいけないっていうのはこんなの問題ですよ。仮説を立てるわけだ、どんどん仮説立てればいい、ね。そしてそれをやがて時間かけて説明していく。こういうことでいいんだと私は思います、ね。

だから、これから霊言集なんか読む世の人たちがね、「そんなの認められない。インチキだ。ウソだー」なんて言う人もいるかもしれないけど、理科系統だってそうなんだから、仮説立てて、それ説明するのに何十年もかけてやるんだから、決して気にしないでいいよ。そんなの気にしなくていい、ね。だからまず、そういう理論が先行するんだからね。まあそういうように思って下さい。ただそれをやがて説明つけようという考え方、精神だけが大事ですね。この実証の精神だけは忘れてはならん。私はそう思います。


5.科学万能主義の次に来るもの


さて、本章の最後を話をまとめるにあたってね、十九世紀、二十世紀というのは、科学万能の時代と言われました。科学万能そのもの、科学そのものはね、来世紀も続いていくでしょう。おそらくね。ただ、科学はね、今後大きく変わっていきます。今、時代の最先端に科学はあるように言われてるけれども、来世紀以降は、科学というものは、奉仕するものという考え方が強くなってきます。何に奉仕するか。人類の幸福に奉仕するものである。こういう考えですね。これが非常にはっきりしてきます。

科学があって、そしてそれがその結果によって人類が幸福になったり不幸になったりするというような、こうぃう結果論としての幸福論が今世紀はあったと思いますね。科学が発達して、その結果論として幸福になったり不幸になったりする。ダイナマイトが発明されて、結果論としてそれが幸福になったり不幸になったりする、ね。飛行機が発明されて、結果論としてそれが便利になるけど戦争が起きたりする、ね。こういうようになりますね。水爆が発明されて、結果論として人類が死ぬ。こういうことになりますね。

ま、そういうように、まず科学が先行して、そのあと現象の世界で善悪が出てくる。こういうパターンが多かったと思います。

それは科学する人、科学者の中に、そうした理想論、あるいは正法の精神がないからです。やっとる人たちが、現実そのもの、あるいは実験そのものに取り組んでおって、その方向性についてのコントロールができておらんかったからです。これへの反省が今世紀の末を境に出てくるでしょう、非常に。

過日、チェルノブイリですか、ソ連の原発事故がありましたけども、こうしたことが今後数多く起こっていくでしょう。そして、科学、無軌道の科学ね、これに対する反省が非常に生まれてきます。そして、幸福に奉仕するための科学という観点がね、非常に強くなってきます。科学そのものには値打ちがない。科学はあくまでも補助者であり、奉仕するものである。だから何に奉仕する科学であるかということが、一番大事である、ね。人類の幸福増進、あるいはこれから神に対する科学、ね、こういう何々に対する科学という考え方、ナンバー2としての科学、そういう意味合いが非常に強くなってくると思いますね。

だから、今後は、今、宗教と言われているものの中に科学的精神がいっぱい入って来ます。神の科学であり、人類幸福のための科学ですね。そういうのが非常に強くなります。アメリカとかヨーロッパでは、精神医学という形で、本来宗教が持つべき使命の部分を精神医学というものが大部になうようになりましたけども、まあ精神医学でなくても今度、別な科学で、方法で、科学的宗教、あるいは神の解明、霊の解明、こういうのが出て来ると思いますね。

だから科学万能主義の次に来るものとしてね、奉仕のための科学、まあそうぃう幸福のための科学、方法論としての科学、目的としてではなく、方法論としての科学が来ると、ま、これを予言することができますね。そういう話をして、本章は終えると致しましょう。