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目次


 2.幸福の基礎


 4.幸福と悟り





(1988年2月8日の霊示)

1.欲望と欲望を超えるもの


みなさん、高橋信次です。こんにちは。久しぶりですね。えー、前々回は『天国と地獄』やりましたね。そういうことで天国と地獄について言ったけど、人間の心は地獄のほうに惹(ひ)かれていくからね。すぐスルスルスルッと地獄の方へ行って、真っ黒けになって悩みつくりますね。それで悲しんでる人いるから、ちょっと今度は『幸福論』いこうかなあと思ってね。どうやったらみんな幸福になるか、考えてみよう。一緒に考えてみようね。

特に、高橋信次の『天国と地獄』を読んで、愛のところでつまずいた人が結構いるから、僕もフォローしとかねばならんと思ってね、今回はちょっとね。あれですよ。懺悔(ざんげ)をするんですよ。あるいは補習(ほしゅう)ですね。補習授業をしとかねばいかん。こう思いますね。

えー愛で、男女の愛でね、男性は「結婚してシマッタ!と思う」なんて言うもんだから、独身女性から「がっかりした。まあ私たちってそんなに存在悪なのかしら。結婚するということはそんなに悲しいことなのかしら。男性を苦しめるかしら。男性にそんな一生借金負わすような私たちなのかしら。ああ、私たちは生きていることが間違いなんではないか」こんな人もおるようですから、なんかね、そういう人たちが多少はいい気分になるような話を好んでしとこうと思ってるんです。

でもねえ、中年の男性なんて『天国と地獄』読んじゃって、「いやー、この通りですね。高橋信次先生、さすがお見通しですね。いや、そうなんですよ。結婚がすべての間違いの出発だったんですよ。あれさえなければ、カアちゃんさえいなきゃ、子供さえいなきゃ。僕だけかと思ったら、先生も一緒で安心しました。これで僕も九次元に還(かえ)れますね」なんてね。こんなこと言っておる人もいるかもしれませんね。

だから、人間はね、結局自分に何ていうかね、引き寄せて物事を考えちゃうから、自分と同じような境遇(きょうぐう)の人がいたらね、嬉しい。自分と反対の人がいたら何となく羨(うらや)ましい。こうなりますね。

まあ、だから物事はいろいろあるんですが、前回は「地獄論」とか、「悪霊論」とかね、愛による苦しみとか、ちょっと話したから、これじゃかわいそうだから、高橋信次が光明思想を知らないように思われたらしゃくにさわるからね、多少本刊では、まあ、楽しいこと、いいことも言っとこかなと思うけど、やっぱり僕も天(あま)の邪鬼(じゃく)の性格が出てきて、どっかでおどしちゃうかもしれない。みんなをね、おどすかもしれない。だから覚悟して最後まで読むんですよ、ね。

さて第一節でね、「欲望と欲望を超えるもの」と、こういう題つけたね。

「ああ高橋さん、また始まったな。いよいよ執着と欲望の話だな。どれもそれで聞き飽(あ)きたよ。もう生前から聞いているから、もういいわ。お前の『欲望論』聞かんぞー」なんて、思う人もいるでしょう。だけどねー、欲望ちゅう言葉は悪いけど、物事は考えようでね。やっぱりね、「こうなりたい、こうして欲しい、ああして欲しい」、ね、こう思う気持ちね。これもやはり、ひとつの根源的なものであることは事実ですね。またこれがね、いろんな人間の向上心になったり、あるいは何というかなー、世界の進化に繋(つな)がったりね、なっていることは事実だ。

女性は、やっぱり美しくなりたいと思うわね。これを欲と片づけてもいいよ。

「欲望であって執着だ。お化粧したい、どうらん塗(ぬ)りたい、マニキュア塗りたいなんてとんでもない。そんな化け物の道を歩んではいけない。女性は素肌(すはだ)で勝負しなさい」まあ、こういう言い方もあるけども、「いや幻覚でもいいじゃないか、美しく見えたら男性は誤解して、楽しい気分を味わっとるんなら、それでいいじゃねえか」。まあ、こういう考えもあるね。

だから、男性にとって聞いてみりゃね、「どうだ、女性が美しくなるのと、ならないのとどっちがいいか」、「あったり前ですよ高橋先生、美しいのに決まってるじゃないですか」ね。「もうお金出してもいいから、税金もっと払ってもいいから、美しくなってほしいや。特に、うちのカアちゃんなんかゴロゴロしちゃって、化粧もしないで、デブデブ太っちゃってもう、ガキの相手ばかりしてます」ってね。「結婚した時はねー、若くて、美しくて、スマートだと思ったけれども、もう今なんかあなた、腹まわり一メートルニ十センチもありますよ」ね。「胸なんかもうホッテントットですよ」ったらね、まあ、こんなこと言ったらホッテントットが怒ってくるけどね。

「もう国際化時代になんちゅうことを言うか。侮辱(ぶじょく)した!」ちゅうてね、言うけども、まあほら、美しくあって欲しいという願い。これが男性にはあるねー。

そうすると女性が美しくなりたいという欲望は、必ずしも悪とは言えないね、いいこともある。ただそれに執(とら)われると、もちろん間違いもある、ね。執着になっちゃう。これがある。

たとえば、後でもちょっと話をしようと思ってるけど、男性の性欲ちゅうものもあるねー。じゃこれは悪か。お釈迦様は悪のように言った、ね。イエス様もちょっとそんなことを言った。高橋信次は口をつぐんだ。あっはははー、これは冗談だけれども、僕はまあ、情欲のことも、ちょっと、サラッと書いてますけども、生前。サラッとでもないかな。多少、深入りしたようにも読めるように、サラッと書いてありますが、これだって必ずしも悪とは言えない。

これなきゃあね、あなたみんなね、沢庵(たくあん)食べている坊さんみたいな人ばっかりだったら世の中どうなると思ってる。地獄ですよ。人類は滅亡ですよ。一九九九年の恐怖の月がくる前に、人類、滅亡しますよ、性欲なくなったら。簡単ですよ。ねえ、年寄りになっちゃって、みんな死んじゃいますよ。完全に死にますよ。

だから人類一掃しようと思ったら、もう性欲なくしゃあいいよ。性欲なくして、もう何十年か、五十年も経ちゃあ人類いなくなっちゃうよ、簡単に。

もう爺さん、婆さんになってね、それで社会福祉できないからね。若い者が働かんから、福祉年金はおりてこんからね。爺さん、婆さんみんな働けなくなって、腰曲がって死んじゃうんですね。飢え死にしますね。それで終わりです。若者が働いておるから、みんな年金貰(もら)ってやれるんでしょう、社会福祉で。若い者が働いて、年寄りが貰ってだな。それが若い者がゼロになっちゃって、年寄りばかりの世界になってくる。

「爺さんや、畑仕事はできるかね」「婆さんや、魚も釣れんわのー」とかね、いろいろやって、あなたね、全然ダメですね。結局、苦しいですね。

だから簡単ですよ。「いやらしい性欲」ちゅうけど、これなかったら、ハルマゲドンの大悲劇かなんか知らんがね、最終日、人類の終末、もっと早く来ちゃうんですよ。簡単です。平和に殺せますね。これがあるからいいんですよ。

だからみなさんね、「欲望だ、欲望だ」って一律に考えちゃいけないよ。物事には、やはりすべてのものの中に向上心があるんですよ、ね。そういうふうに思わなければいけないですよ。何でもかんでも決めつけて、「これは絶対的な悪」なんて思っちゃいけない。この世には、「絶対的な悪」というものはないんですね。やはりいいものもある。だから、その捉(とら)え方と、その使い方によって、世の中いろいろ変わるんですね。

金銭欲だって、そりゃあ執着になりますよ。そんな「お金儲けだ」「金だ、金だ」って言ったらね、執着になるし、人間おかしくなることもある。

ただ、お金を儲けるということだってね、ひとつの価値の換算(かんさん)基準、ね、価値、自分の労働ね、労働というものを、お金で計っている。そう思えばね、生き甲斐(がい)にもなるわね。一生懸命働いて、ボーナスも増えるわね。ボーナス増えて、それが悪いかっちゅうと、そんなことない。一生懸命働いてボーナス減って、怠けたらボーナス増えてくる。大変な世界になりますね。それも一つの方便は方便。便法は便法ですけど、働いたらお金になって還ってくる。なんか嬉しいような、悦(よろこ)びになる。だから、この欲望も必ずしも悪かと言えば、悪じゃない。

ただ、そういう執(とら)われになっちゃうといけないね。「お金がすべてだ」「人生はお金だ」「お金以外に友はない」「私の友達はお金だけだ」「私の友達は福沢諭吉だけ」なんてね。福沢諭吉の思想を友とするのはいいけども、お金一万円札ばっかり友にしてたんじゃ、おかしいこともあるね。お金のためなら、エンヤコラでなんでもする。友情のためなら働かない。こんなんじゃ間違いですね。ただ、そのお金が欲しいという欲望の中にもね、やはり、全体を幸せにするための要素はある。

みなさん喜んでくださいよ。本刊では、そういういい話ばかりですからね。幸福になる話をしているんだから、喜んで読んでくださいよ。そして次刊でまた、ストーンと落としますからね。みんなを欲望の底に、奈落(ならく)の底に落とすつもりですけど、まあ、本刊はそういう楽しい話ですから、喜んで読んでください。

と言いつつ、まだ欲望を超えるものまで言っていないね。欲望ばかり話してて、「欲望と欲望を超えるもの」というのが、この本節の題名ですから、超えるもの言わなきゃいけないね。超えるもんて何だろうか。

結局ね、欲望を超えるものは何かというと、欲望も、その使い方によっては、人類の向上、個人の向上、それから神に近づいていくための原動力となるということだな。だから、神に近づいていきたいという欲望だって、欲望は欲望だよな。でも、聖なる欲望であることは事実。こういうふうに欲望の中でも、やはりいいものもある。いい方向性はあると。これを完全に否定してはいいものじゃないっていうことだな。そういうことですよ。

まあ、長生きしたいって欲望もある。これがあまり執着になっちゃうと、「死にたくない、死にたくない」ちゅうことで苦しみをつくるけど、長生きしたいと思うから、だから体、大切にするしね。運動はするし、バランスよい食事をとるし。それから、お医者さんが一生懸命、医学の研究するだろう。まあ、そういうこともある。

だから、欲望というものをね、あまりその名前だけで判断してはいけない。やっぱり、その中身もみなきゃいけないんですよ。それが、この話です。


2.幸福の基礎


さて、「欲望と欲望を超えるもの」って話したけれども、ここではね、「幸福の基礎」について話をしたいんですよ。

みなさん、いろんな幸福感があるでしょうね。幸福感あると思うけれども、幸福の基礎って何かというとね、結局、その人にとって幸福であるということは、その人が現時点で、自分がこうしたい、あれが欲しい、これが欲しい、あるいは、こうなりたいという気持がね、ある程度充足された時に、人間はやはり幸福を感じるんですね。

幸福の基礎は、やはり充足感です。一種の充足感であることは事実です。

だから、赤ん坊にとっては、お腹が空(す)いたときに、ミルクを飲みたい、これが幸福の基礎ですね。この充足感ですね。この時に哺乳瓶(びん)を取り上げてね、いくら天下国家を論じたって、赤ん坊は泣き止まないですよ。絶対泣き止まないですよ。そういうことですね。

あるいは、まあ、そうですね、世の中の役に立つ仕事をしたいと思う人にとっては、役に立っているという実感ね、この充足感。充足感がやはり幸福の基礎でしょうね。

あるいは、三食、ちゃんと食べられるということが、幸福の基礎かもしれない。今、戦後四十数年経って、平和な時代が続いていますが、ほんの半世紀前には、第二次世界大戦があって、日本でも食べるために、みんな苦しんだ。

で、闇物資の買い出しね。こういうことでなんとかして、家族の飢えを凌(しの)ごうとね、みんな努力した。裁判官で、家族には闇米食べさせたけれど、自分は闇米食べるのを拒否して、死んじゃった人もいます。そんな裁判官もいました、戦前にね。まあ、そうした時代です。

そうした時代にとっては、一椀(いちわん)のお粥(かゆ)が食べられる、おじやが食べられる。あるいは、水団(すいとん)が食べられる。これが幸福感の基礎であることもある。幸福の基礎ですね。

そういう時代もね、確かに一般にとっては不幸かもしれないけれども、そうした幸福の水準を教える時期もあっていいんだなあ、魂にとっては。

あの水団。ねー、あれがどれほどおいしかったか。あるいはもっといくと、芋(いも)の蔓(つる)だな。まあ、芋の蔓食べた人もおるでしょうが、芋の蔓食べるだけでも、あなたねー、大変なことでございますよ。芋の蔓食べて生き延びたとかね、あります。あるいは、薩摩(さつま)芋のシッポ食べて生き延びたとかね。いくらでもあるんですよ。こうした人にとってはね、お腹いっぱいになるだけでも幸福ですね。

まあ、このように幸福の基礎はいろいろですが、その時点に立った、その人の充足感ですね、結局は。これかもしれない。

だから五十年前の日本人にね、「戦後、日本は五十年後、ものすごく繁栄するから、お前たちは、水団(すいとん)、薄い水団だけれども、これで我慢しろ」と言ったって、なかなか納得しないね。「それよりとにかく、お腹をいっぱいにしてくれ」ということであったでしょう。

まあ、こういうふうに幸福の基礎には、ある程度の充足感があるということは、みんな認めなきゃいけないね。この充足感がないと、やはりなんというかね、うーん、まあ、満足できない。満足できないとどうなるかっていうと、不満になる。不満になるとどうなるかっていうと、愚痴(ぐち)が出る、妬(ねた)みが出る、嫉妬(しっと)が出る。こうして心が地獄になっていくわけですね。

だから、やはりね、精神的なことももちろん大事だけれども、まあ、議論の前提としてね、幸福の基礎には一定の、やはり充足感があるということね。これは認めた方がいいよ。だから、自分が今、何を欲しているかということはね、人間、考えた方がいい。ね、何を欲しているのか。何を欲していて、それが自分の可能になる内容か、そうでないのか。

可能になる内容とすれば、それを得るために努力することが正当かどうか、ね。正当だと思ったら、やっぱり努力することですね。それはいいことですよ。

『汝、何を食い、何を飲まんと思い煩(わずら)うことなかれ』なんて言われて、その気になっちゃって、月末、おカアちゃんに渡す金が無くてね、酒場で飲んできて、グイグイグイグイ酒飲んで、ウイスキー飲んじゃって、おカアちゃんに、全然月給入れない。で、月末になって、「あなた、もう二十日よ、給料は?」「あっ、全部飲んじゃったよ」「何よ、あなた! 私と子供二人どうするの!」「イエス様も言っとる。『何を食り何を食らい、何を飲まんと思い煩うことなかれ。明日は明日の風が吹く』とイエス様が言っとるじゃないか。お前、馬鹿な奴だな」「あっらぁー、あなた、何言ってるのよ。そう言って私が飲み食うは放って、自分は一生懸命ウイスキー飲んでるじゃないの」「言われてみりゃそうだな。確かに俺の方が飲んじゃった」なんてね、家内が飲むのだけ許さなかったとかね。食べるのだけ許さなかったとかね。「俺はウイスキー飲んでりゃ、御飯なんかいらねえから、ウイスキーだけでよかったけど、そういやー、カアちゃんと子供は、御飯食べなきゃ生きていけねえわー」なんて思い出したりしてね。そういうこともあります。

だからまあ、人間、物質だけじゃありませんが、ある程度、この世の中での一定の充足感を得るということは、知らねばいけません。「衣食足って礼節を知る」ということね。まあ、これも大事な考えですよ。これ忘れちゃいけませんね。ま、これが幸福の基礎。

すなわち、幸福の基礎とは、その人が、現時点において求めるものを満たすこと。充足感である。まあ、こういうことですね。


3.幸福の段階論


さて、愛の発展段階説だとか、知の発展段階説だとか、なんか発展段階が大好きみたいだから、まあ私も、高橋信次も、なんか段階論、説かないかん。

「幸福に発展段階があるか」「幸福の段階論」、なんて考えていますが、まあ、いっぱい古米から、心理学者たちもいろいろ言っているようだな。あるいは、ギリシアの哲学者以来、幸福論はもういっぱいあるからね。

たとえば、人間の根源的な幸福としてね、やっぱり生理的欲求とかね、あるいは何て言いますかね、安全の欲求とかね、こんなのがある人もいるね。身の危険、生命の危険を感じとったら、もうとにかく食事も喉(のど)通らない。こういう安全の欲求というのがあるというような人もいますねえ。とにかく、毎日が安全で生きていられる。命が狙(ねら)われていると思ったら、もう喉も通らないね、飲み物も。まあ、そういうふうな人もいます。これが一番下にあるっていう人もいます。

あるいは、生理的欲求ね。飲んで、。食べて、そして寝て、そしてまあ、いいことしたい時にはして、こういう生理的欲求が一番下の方にある。こういうふうに言う人もいるでしょう。

あとそれ以外に、たとえば、もうちょっと高次なものとして成功欲があるとかね。名誉欲があるとか、こういう人もいます。

まあ、いろんなそういう欲求の段階があって、それに応じた幸福の段階があると、こういうふうに言う人もいますね。

まあ、これだから一概に、どうのこうのということは言えないんですけどね。一概にどうのこうのというふうな言い方はできないんですが、そうだね、僕の考えではね、やっぱり、幸福の基礎として充足感があるとするならば、幸福の段階で、やはり一番下の部分、基底の部分にはね、人間として生きる最小限度の、やはり欲求があるだろうと思うね。それはあるだろう。

それはね、やっぱり、地上に生きている以上、生命を全(まっと)うしたいという欲求ね、生命を全うできるということによる幸福感ね。これはあるんじゃないかな。うーん、この辺がやっぱり一番下位レベルとしてあるんじゃないかな。

なにせ、頭の上にね、あなた、天井からね、槍でもいいし、青龍刀(せいりゅうとう)でもいいけど、髪の毛かなんかで、青龍刀かなんか天井から吊して、その下で一日中仕事してごらんなさいよ。できたもんじゃないよ。もう、刀が落ちてくる前に、気が狂って死にますよ。人間ね。

そういうことあるから、安全欲求と生理的欲求を合わせた、その根本的な生命、生命を全うしたいという考えね。そして、生命を全うすることによって得られる幸福感。まあ、そうしたものが僕はあるように思います。これは割に根源的なもんでしょう。これを否定できないね。

だから、人間の幸福感も、やはり幸福に向かって努力していくものというふうに捉(とら)えたら、この根源の欲求は、やはり全うされるべく努力した方がいいと思うね。

すなわち、土管(どかん)の中で寝ているよりは、家の中に住んどる方がいい。ねー、そうでしょう。そういうこったな。家の中に住んどる方がいい。寝るところがあること。塒(ねぐら)があることね。イエス様はなかったかもしらんけど、塒があること。「鳥には塒があるけれど、イエス・キリストにはマンションがない」、ね。かわいそうだっちゅうような考えもあるけど、まあ、塒(ねぐら)ぐらいあった方がいいなあ。それから食べる物があるということだね。大事だね。食べる物があること。それから夜、寝られることね。

まあ、こういうことがやっぱり最低限で、この部分で自分の欲求度がどの程度か考えてね、それに近づいていけるように努力することは、人間として幸福を求める以上ね、僕は当然だと思います。

ま、この次にもうちょっと高い段階があるねえ。たとえば、もうちょっと精神的になってきて、仕事なんか、そうだな。どういう仕事するかっちゅうようなことね。自分に向いた仕事をしてみたいとかね。こういう欲求があるね。あるいは学生さんなんかだったら、勉強だろうなあ。勉強したいっていうような欲求があるねえ、勉強とか、仕事とかいう。まあ、ちょっと高次だね。寝たいとか、食べたいとかいうよりは、ちょっと上だろうね。

そして、これに応じた幸福感があるね。すなわち、何らかの価値観を享受(きょうじゅ)している段階だね。価値観。要するに仕事をしている。これがどれだけ社会に有用であるか。自分が役立っているか。こういうことを知ることによって幸福を感じる。あるいは、勉強をするということによって、いろんな知識を得る。そして、いろんな人の考えを知る。また、それの応用を知る。世界がわかってくる。こうしたことによる、何といいますかね、幸福感、あるでしょうね。こういうふうに単純に片付けるとするならば、多少、次元の高い段階でね、そういう何といいますか、価値ですね。多少なりとも精神的な価値に関する幸福というのがあると思います。

それからもうちょっと上にいくとどうなるかっていうと、これは霊的幸福感という分があるでしょうね。この勉強や仕事による幸福ですね。これをもうちょっと、何というかな、押し上げた、突き詰めたやり方ですね。これがあります。

まあ、だから霊的幸福感というのはね、この世が物質じゃない、肉体じゃないということを知った時にね、自分が精神的に、あるいは魂的にね、幸福かどうか。あるいは、これを言葉を換えて言うとするならば、昔的に言うならば、御浄土に行けるかどうかね。

御浄土に行けるかどうか。あるいは、地獄に堕ちんかどうかね。成仏できるかどうか。こういう幸福感もあるね。まあ、少し程度が高いかもしれないね。この世で仕事して嬉しいとか、勉強できて嬉しいっていうよりも、そういう永遠の生命という立場に立ってね、霊的幸福感を得られるかどうかね。多少、高等だと言えるでしょう、こういう幸福感を持っている人はね。

こういうふうに何て言いますかね、生命を全うしたいという幸福感。それから次に、勉強や仕事などのような価値ですね。精神的な価値による幸福。それから三番目に、霊的幸福。まあ、こういうものがある。

後はね、この上があるか、ないかということだけれども、ないとは言えんね。すなわち、これが神我一如(しんがいちにょ)の幸福感だろうなあ。神と自分とが一体という幸福感だね。これは光の天使の幸福感ですよ。これは高級ですね。

だから霊的幸福感あたりは、まだ、いわゆる霊性に目覚めた人間の幸福感で、一番目、二番目の幸福感は、まだ霊性に目覚めていなくてもいいけれども、三番目からは霊性に目覚めた人の幸福感。四番目の、この神我一如、神と我とがひとつであるという幸福感は、これは光の天使の幸福感です。この幸福感は非常に高い幸福感であって、そうそうみんな味わえないですね。

神様のために生きておる。また、自分が神様と同一だという、本質がひとつだという感じがする。そして、自分のために生きるんじゃなくて、神のために生きておる。神の何ていうかね、一部として生きている、ね。こういう感じだな。

これが本当に頭だけじゃなくてね、知識だけじゃなくて、本心からね、心の底から、魂の底から神我一如、神と自分とが一緒。こういう幸福感を味わえる人がいたら、これはもう、たいしたもんですね。まあ、私に近いと言ったら語弊(ごへい)があるから、高級霊に近いと言っておこう。ねえ、そう言えるでしょう。この世で生きていて、自分の幸福感が神様の幸福感と一緒っていう人がいたら、たいしたもんですよ。だからまあ、一緒っていうことはないけれども、どれだけそれに近いかっていうことだな。

だから、最初の生命を全うしたいというような幸福、そういう幸福感は、そこまでまだいっていないし、二番目の仕事や勉強等、社会的有用なことね、価値に換えられる幸福感でも、まだそこまではいっていない。

「地獄に堕ちたくない。できれば天国にいきたい」っていう、自分の成仏をまだ願っておる霊的幸福感の段階。

それからその上には、神と自分とが一体。神の悦びを自分の悦びとし、神の悲しみを自分の悲しみとするという気持ね。偽善者(ぎぜんしゃ)じゃなく、偽(いつわ)りなく、本心からそう思う気持ね。これが次の段階ですね。神が自分を祝福してくれる。自分も神を祝福している。自分は神と結婚したようなもんである。ま、こういうふうな気持ですね。こういう気持は大事ですよ。

こういうふうに、幸福の段階がやはりある。おおまかに言って段階がある。こういうふうに思っていいでしょう。