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目次

 1.快楽の諸相


 3.肉体の意味

 4.魂の快楽

 5.新・進化論




(1988年2月9日の霊示)

1.快楽の諸相


えー、高橋信次です。昨日にひき続いて、いよいよ第2章、快楽の方に入ってきますよ。みなさんね、面白そうでしょう、何の快楽が出ると思いますか。どんなことを考えているでしょうかね。まあ、僕があんまり快楽が好きそうに見えたら困るから、本当は僕は快楽なんて大嫌いなんですよ。大嫌いで、本当は堅物(かたぶつ)です。堅物の石部金吉(いしべきんきち)さんみたいな人ですから、一切の快楽と一切の執着から離れて私は生きているのですね。ところが、まあ役目上やむを得ず、こういう話してるんですよ。

まあ快楽ということに関してね、全面否定する人もいれば、「いいじゃねえか、何が悪いんだ」と言っている人もいるし、全能の神、高橋信次の意見も聞きたいという人もいるだろうからね、僕の読者は、やっぱりそういうのを期待しているでしょう。とにかく、本当多いですよ最近ね、「高橋先生に聞いてくれんか」ちゅうのがね。他の高級諸霊の霊言聞いて、疑問もっても、「高橋先生に聞いてくれんか」多いですね。それから女性のファン層、ものすごく多いです。美人ばっかりです。私に手紙くれる人、もう美人ばっかりですね。だから僕の霊言集を読む人は、どんどん結婚がまとまっていますね。それから年取っても腰が曲がらないね。しわが出ない。本当にいろんな奇跡でね、効果が出てきていますね。それで旦那さんの給料が、ガンガン上がるね。まあ、そういうふうに奇跡を呼ぶ高橋信次の霊言でございます。

さて、快楽の諸相ということで話をしたいと思うんだけども。まあね、快楽って言うと快(こころよ)く楽しいこと、ということだね。さあ、これが本当に昔から宗教者なんかがよく言うように、いけないことなのか。そして難行苦行が本当の真理に至るものか。あるいは肉体、物質は否定すべきものなのか。肉体行みたいに体を引き裂いたり、いじめたり、徹底的にいじめぬくことが本当に真理への道なのか。肉体をいじめたら霊的になれるのか。まあ、こういうことだな。これの検討がありますねー。

快楽で、どんな快楽があるかっちゅう考え方は、ひとつにあるね。どんな快楽があるかな。

そうすると、いろいろあるわねー。食べ物も快楽だね。美食とか、あるいは美酒と言いますね。昔から酒池肉林(しゅちにくりん)なんていうのを、ご存じでしょうか。酒池というのは、酒だな、酒の池、肉林は肉の林と書くんですね。これは酒があって美女がとり囲んでることを言っておるんですね。美女がはべり、酒を飲む、これは王宮だ、よくあるような、どっかの王様みたいな、そういう生活のことを酒池肉林と言うね。これなんかはもう地獄への最短コース、超エリートコースと昔から言われているね。まあこの辺の考え方だな。ここが非常に難しいところだな。

じゃあ酒飲んだら地獄に行くかというと、必ずしもそうは言えないね。そんなこと言ったら、もう全国の酒屋さんから抗議きますね。アメリカでも禁酒法なんて何回も話があったし、古いキリスト教徒たちだと、酒は悪いことなんてね、やっていることもある。そして禁酒法で酒を禁止すると、アル・カポネみたいな、こんなギャングが出てきて、マフィアが出て来てね、そして密売して大金儲(もう)けする。こういうことになってイタチごっこだね。

日本なんかでも、たとえば肉林の方へいけば、たとえば女性のねー、よくあるじゃない、映倫かなんかでね、こう、見えた、見えない。黒いものが見えた、見えない。「あれは本物だ」と、「いや、影が映っているだけですから」なんかかんか言ってね、週刊誌だ、映画だ言って、一生懸命規制して、ぼかしが入ったりなんかしているー。「悔(くや)しいねー、あんなぼかし入れちゃって、この野郎」ってね、「表現の自由を保証しろ」とか、なんだかんだ言ってる。

そういうふうに、ぼかしが入ったって怒っているのかと思ったら、片や、なんとストリップショーなんてやっていますね、パンパンパンパンやってて、ちゃんと見せてますね、見せるところは。あるいはストリップショーより、もっといっているところありますね。いよいよ本番なんてね、本番いくらなんてやってるところもありますね。こんなこと、ちゃんとやるところあるんですね。そして週刊誌だとか、ビデオだとか、映画になると、ぼかし入れたりいろいろしていますね、非常に不思議ですね、軽度のものは許さない。しかし抜け道は、ちゃんとつくっておるんですね。

警察なんかも、それは知っとるんですよ。そりゃあ知ってますよ。おまわりさんも非番の時、行ってるからね。そりゃ十分知っていますよね。そりゃあ知っている。だけど知っているけど、知らないふりしている。なんでかっていうと完全制圧すると、また暴力団の力が増えることを知っているんだなあ。完全に、それもう全部目こぼししないでね、取り締まっちゃうと、そしたらまたイタチごっこが始まってね、どんどんすごくなる。

そして女性とね、古い言葉で言えば不純異性行為でしょうか、新しい言葉で何て言うんでしょうか。言葉を選ばなければならないから私は言えない。恥ずかしくて言えないけれども、なんかするために、そういうふうに禁止がきつくなるとね、今度はそれでガポガポ金が儲かる。急騰(きゅうとう)するわけですよ。

需要・供給の原理は酒池肉林の方にも入ってましてね。お酒を禁ずれば闇酒が高くなる。女性の、ああいう異性のね、こういうふうにとにかく見せない、知らしめないということであると闇での葛藤が増える。そういうイタチごっこがあって、なかば公然、なかば否認というような感じで、やっておるのが実態と思うね、この辺に難しさがあるね、非常に難しさがある。

だから結局、神理の中にも、そうしたところがあるんですよ、非常に微妙だけれども、両面があるところは確かにあるわ。

たとえば、男性と女性があるという以上、これは男性と女性との何というかな、性的な悦びは、神様は、やはり認めていることを予定してますね。もしこれが悪だったら人類は栄えませんしね、そんなに罪悪感のままに子孫を養わなきゃいかんものかという考えがあるね。でも人間の心の中には、そういう嫌悪感、羞恥心(しゅうちしん)みたいのがあって異性に対する欲望というのを、これを劣情(れつじょう)とか言いますね。劣った情と書きますけれども、劣情というように、自己卑下(ひげ)的なところあるね。

これをなんとかして美しいものに変えたいと思って、ああいう結婚式なんかやって理想化し、夢のように変えてしまって、ごまかすんですね、そうしないといけないから。こそこそと吉原なんか通ったら恥ずかしいけど、結婚式なんてみなに祝福されて、花束でやっとったらね、なんとなく神聖な感じがしていい、こうふうにやるわけですな。まあその後の行為は、もちろん一緒なんですが、そういうふうにしますね。だからそういう恥ずかしさとか嫌悪感、羞恥心ね、これを隠(かく)すために、そういうセレモニーをやりますね。それでなんとなく罪の意識が消えたような、そうした気持になりますね。私はそう思います。

だから根本的に悪いことじゃない。悪いことじゃないけど、何と言うのかなあ、非公開性と言いますかね、やっぱり公然としたもんでない部分があるんだよな、何かね。何か恥すかしいちゅう感じがあるんだね。僕もあった。みなさんもあるでしょう。読者のみなさんどうですか。なかなか公然と男女交際なんかもできない部分あるね。だからそれが、またいいところでもあるんだよね。だから情熱の燃えるところもある。あんまりおおっぴらじゃないからね。

この辺にね、非常に微妙な芸術性があるな。神理における芸術性、非常に微妙なところがある。これがやはり、神様がよく考えたところだと思うんだな。女性だって、やっぱりスカートはいてね、あるいは衣装着ているから美しく見えるんであって、あんなもの、あれなきゃたいしたことありませんがな、あんなものきれいじゃないよ決してね。私はそう思うよ。けどまあドレス着たりさ、着物着たりしてきれいに見えるんだろう、違うかな。

インドの時代に釈迦は言いました。目には目くそ、鼻には鼻くそ、耳には耳くそ、これが何がきれいだって、人間ちゅうのは、あの蓮(はす)の池のような、ドブの中の蓮みたいなもんだって、汚いもんだよって。あんな汚いドブ池だけれど、でも蓮の花はさ、ドブ池から咲いて、それで白い花を咲かせているじゃないかってね。ああいうふうに煩悩、欲望というのは汚いよ、醜い。けど、そこからね、真っ白な水蓮のような、あんな蓮の花が咲くじゃないか。あれを見てね、諸君よ悟れってね、この世のその恥ずかしさ、汚さね、そういうものは隠すことはできない。けれども、その中から美しいものが出てくることもあるよ。そういうことだな。

それは諸君ねーって、釈迦は言うね、やっぱりね。黒い象と白い象があったとしようか。黒い象はきれいな土地で生まれた。そして王宮で生まれたとしようか。王宮で象が子象を生んで、その象が真っ黒い象だとしようか。王宮で生まれたから、その黒い象は王宮の象だ。ところが、もう一つ真っ白い象が、今度はゴミ溜(ため)から生まれたとしようか。輝くばかりの真っ白な象がゴミ溜から生まれた。さあ、じゃあ人間は、あるいはあなたが王様だったら、どっちに乗りたいか、と言ったら真っ白い象に乗りたいよね、その方がきれいだもの、ピカピカの真っ白い象が出たらね。ゴミ溜の中から出てきたもんでも、そういうもんだ。

そうしたもんであってね。蓮の花が、たとえドブ池の中から咲いたとしてもね、美しく白いああいう姿を見せている。あれは私たち人間にね、生き方を教えているんだよということだな。男女の間だって、あるいは金銭関係だってね、いろんな物質欲、お酒、いろんなものあります。この世にはね、それらは一歩間違うと大変なドロ沼だし、人間の心は、ものすごく醜く見えます。けれどもその中から、あの蓮の花のような清い美しいものも出すこともできるんじゃないか。

男女の性的結合だってね、それは人に見られたもんじゃない。白昼いろんな人に見られたくないわね、恥ずかしいやね、あんなもんね。けども結婚式ということをやることによってね、なんか美化され、美しくなるような感じするね。そういう感じがする。こういうふうに世の中にはね、そういう何というか、大人の知恵が各所にあるわけですね。祝福ということによって、たとえば汚いと思われたものをね、隠すとか、まあこういうことがあるということですね。

このようにね、快楽と言われるもの、人間に快楽をもたらすものの中には、もう目をおおうようなもの、耳をおおうようなものいっぱいあります。実際あります。ただそれらも完全に否定すればいいんじゃない。蓮の花がきれいな花壇に咲いたからといってきれいじゃない。あんなドブ池の中から生えてくるからこそ立派に見えるんだ。それが人間の生き方じゃないか。

だから人間というのは最初からね、全然煩悩(ぼんのう)もない、欲望もない、そんなロボットみたいなものにすりゃあ本当に素晴らしいかって言えば、そうじゃないんだな。そういう煩悩や欲望、快楽に身を任せがちな私たちであるけども、その中で神理の芽を伸ばして、そして神理に帰依(きえ)し、神を信ずることができるからこそ、あの蓮の花のように美しくいられるんだな。そうじゃないかな、みんな。僕はそう思うよ。そんなもんなんだよ。

だから、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは、このことを言うんだ。蓮の花はドブ池に咲いてこそ美しい。だからこそ、あれほど天国的なんだね、そうなんだよ。

稲だって、そうじゃないか。田んぼの中で、泥沼(どろぬま)の中で出てくるんだろ。その稲がみんなの食料になるんだろう。だからあの稲、稲というのかな、お米みんな食べているじゃないか、おいしい、おいしいって。じゃあお米食べるけど、じゃ田んぼの泥食べれるか食べてみろよ、誰か、お金やるから食べてみろよ。高橋信次のこの霊言出たら多少出版社から収入があったらさ、それでお礼するようにたのむから、誰か田んぼの泥食ってくれよ。バケツ一杯でいいから、あんまり遠慮しなくていいよ。三度のご飯のかわりに食べてくれや。食べるか、食べないだろう。

しかしあのお米の成分は何かって言ったら、泥の中から養分ぬいておるのと、あと水ですよ。だからみなさん泥食べて、水飲んどりゃ一緒ですよ。だけどしないな、あんな泥の中から、あんな美しいものができるんだろ。あんなおいしいものができるんだろう。だからこの欲望とか煩悩、快楽というものはね、あの田んぼの泥、そんなようなもんなんだよ。その中から、あんな美しいおいしいものができるんだ。そうじゃないか、美しい花なんか咲いていると思ったら下に堆肥(たいひ)なんかいっぱい、まいてあったりしますね。

野菜だってそうじゃない。今はもう人工肥料でやってるけど、昔なんてあなた、肥溜(こえだめ)ですよ。あなた、僕の出身地の信州なんか肥溜ですよ、肥溜回しちゃってね、それで水適当に入れて薄めたりしてね、いろいろしながら味見するんだよ。あれね、肥溜の味をみてね、あなた、ちょっと取ってみて薄め具合みてね、うん、ちょうどいいぐらいの薄め具合だっていうんで、舌でなめてみて、「うん、これならいける」っていうと、それをバケツ一杯入れてね、そして天秤(てんびん)に担(かつ)いで、肩に担いでね、ホイホイホイホイ歩いて、畑まで行ってまくんだよ、肥をねえ。やっぱりあれ濃過ぎてもいけないんだよ。人によっては便秘症でね、硬い人もいるから。硬いのばかりかけたらだめなんですよ。適当な薄さじゃないといけない。それをうまい具合に薄めて味見してね、ペロッと舌でなめてね、「お、この味ならいける」っていうんで畑にまくんだよ、ピラーッとね。

そうするとどうなるかっていうとね、これで野菜が育つんですね。キャベツ、白菜、トマト、なんでもいいですよ。それがなんと、あんなに汚いもんだよ、糞尿(ふんにょう)ですよ、糞尿ね。『糞尿譚(ふんにょうたん)』なんていう小説書いた人いたけれども、糞尿ですよ、あの糞尿食べる気するか。みんなしないだろう。僕が一千万円やるから、トイレの中に落ち込んで食べてみろって、いやだろ、いくら金くれたっていやだよな。

ところがそれがあるからこそ、農薬がない時代は、人工肥料がない時代だよ、それを畑にまいたらさ、それでキャベツや白菜や、みんなものすごくおいしくできるんだよ。で、みんな食べている。食べている成分一緒だよ。同じもの食べているんだよ。そんなもんだ。だから素材じゃないんだな、そこから何ができるかだ。そういうことになるんだよ、結局は。食べているんだよ、みんな。キャベツになったら食べている。白菜なんか食べているんだよ。水炊(た)きなんかしたらおいしい、おいしいって食べている。だから材料じゃないんだ。そこから何をつくるか、何ができるか、ここが問題だね。

だからそんな肥溜からね、出したような肥料でもって、おいしい野菜つくるんだからね。だから泥沼の中から、お米ができるんだよ。ササニシキもできるんだよ、ちゃんと、ね。そうだろう、違うか、そんなもんなんだよ。男女のいやらしいと思うような性的行為から、玉のような赤ちゃんが生まれることもある。こいうもんでね。

だから、現在、事実としてこうあるということによってね、それでものを判断しちゃあいけないね、その中から、どういうものをつかみ出していくか、どういうものを育てていくか、どういう結果を出していくか、そこが大事なんだよ。だから欲望とかいうものを完全に否定するな。それはたとえば泥沼は汚いから、泥沼からできたものは食べないと言っているのと一緒だな。できてみたら、おいしいものができるんだよ。神様は木の枝にパンがなるようにしてくれないんだから、しようがないじゃないか。そういうふうに努力してやれっていうんだから、そういうふうに大自然は、私たちに生きる姿を教えてくれているんだ。

この欲望、あるいはこの快楽と思えるもののなかには本当にいやらしいものもあるよ、お酒なんかなきゃあさ、お父ちゃん、あんなにおかしくならなかったとかね、お酒のおかげで事故を起こしたとかさ、いっぱいあるよ。だけどお酒の中に有用な面もあるよ、この世には。そんな快楽はあるけど、その中からね、本当にやはり素晴らしいものを選び取っていくことだよ。天上界だってお酒を飲まないわけじゃないんだよ、パーティーなんかすると気分だけだけどね、お酒の気分で乾杯したりするよ。そんなことあるんだ。セレモニーね。祝福として、いいことがあるんだな。そんなもんなんですよ、みんな。

だから、いいか、現在どうだから、材料がどうだから、素材がどうだから、こんなんじゃいけない。両親がブスで、美男、美女でないから自分は美人じゃない。したがって自分は嫁に行けない。両親のせいである。こんなことないですよ。つくりが悪かったって心は錦、心さえ輝けばお嫁なんか行けますよ。そんなもんなんですよ。違うかな。そういうもんです。

だから快楽もいろんな諸相あるけど、一概にそれを醜(みにく)いと思うな。一概にそれを美しいと思うな。ただその中には、人間の精神を輝かすものがある。それはあることは事実だ。それが見えるか、見えないか、それが出せるか、出せないか、そこが勝負です。


2.快楽はなぜあるのか


まあ確かに高橋先生の言うことはわかったと、快楽もまあ役に立つだろう。泥沼から稲が生えることもあるだろう。でもなんでまたそうしたんかなーってね、考える人もいるわな。

たとえばお米の話ですれば、それこそ、そんな土からわざわざつくらなくったってね、土掘って食べられるようになったらいいよな、みんなそう思わんか。お腹空いたら一鍬(ひとくわ)入れて、地面の土、食べてごらん。パクッて食べようとしたらパンになっていてね、地面が。それで食べたら、ああおいしいってね。

昔あったじゃない、お伽噺(とぎばはし)か童話で、もう家中が食べ物でできている家でね。どこでもこう、むしって食べれば食べ物になっている。カーテンから机からね、椅子から壁から屋根から、みんなご馳走でできている、こんなのお伽噺で読んだことあるだろう。みんなどうだ、ないか。そういうことがあってね、実際もう何でも食べられる。土でも食べられる。もう川の水飲んだら、これがワインになってるとかね。

まあこうなったら嬉しいけど、実際はそうじゃないね。やはり神様は巧妙な方だから、まあそのまま食べられる食べ物もあるけれども、いろんな料理をしてつくれとかね、いろんなことを教えて、やはり努力があるようにしてくれているね。本当はパンの成る木つくろと思ったら、神様、絶対つくれると僕は思うし、ビフテキがなる木だってね、ないわけないと思うよ、成分的にはできますからね、僕はあると思いますよ、つくろうと思えばできんことない。

あるいは豚だって、子豚産まなくたってね、背中あたりにね、コブみたいのが出てきてね、背中のあたりがプクプクとむくれてさ、そして重さ五キロぐらいの豚肉になったらさ、ポロッと落ちるとかね。そしてそれが食用にまわってね、豚肉なんか食べなくても、そういう豚が子肉を産むわけだ。自分の肉があって分離していって、毎日毎日、二ワトリが卵を産むようにね、豚が肉の塊(かたまり)産むんだよ。

背中のあたりにコブができ上がってムクムクと出て、重さ五キロぐらいの玉になったらポトッと落ちるんだよ、刈り入れてくださいっていうようにね。そしたら、ホイッ。トラックにさ、肉の玉ポンポンポンポン放り上げてさ、トラックいっぱい積んで、トラックが走ってさ、そして肉屋で調理すればね、ああいう屠殺(とさつ)業みたいに豚殺すなんて必要ないしさ。そしてみんなも、そういう罪悪感なしに食べられる。そういうふうに思うかもしれないね。でも、そうさせてくれないね。

そこに何があるかというと、やはりそこに豚の魂修行があるし、人間もその苦しみね、生きているものを君たちは食べているんだよという、そういう魂修行をさせる面があるんだな。それと、そういう殺生(せっしょう)しているから、無駄な殺生はしてはいけないんだ。食べ物っていうのは本当に有り難いものなんだ。君たちは感謝の念をもって豚さんに接しなきゃいけない。鳥さんに接しなきゃいけない、牛さんに接しなきゃいかんのだぞと、こういうことを教えているんだよ。

貴重な生命(いのち)を奪っているんだからね、それだけ感謝して食べなきゃいかんよ、君たちは、無尽蔵(むじんぞう)じゃないぞってね。そこになんの苦労もなく手に入るんじゃないぞ、彼らだって嫌がっておるんだぞ、それを食べるんだぞ、そこに生かされていることの有り難さを感じなさい。こういうことを教えているんですよ、結局はね。

だから本当は悲しいこと、苦しいこといろいろあるけど、そういう学びがいろんなところにあるんだなー、結局ね。

じゃ快楽はなぜあるか。第一の目的はね、やはりこれは幸福感のひとつの指標としてあることは事実です。指標です、これがね。快楽っていうもんがあるから、なんとかこの世はね、うまくいっているようにも感じるんですよ。快楽感があるから、うまくいっているようにもね。そうだろうみんな。

じゃあ快楽感がなかったらという逆発想してみようか、一発、じゃあ楽しいことの反対をいろいろ考えてみようか。お金持ちなんて、今、嬉しいことあるみたいだけど、たとえばお金が、収入が月二十万あるとしようか。

二十万の収入が入るということはどういうことかというと、足に、この重石(おもし)をつけるちゅうようなね、二十万の収入があるということは、二十キロぐらいの鉄の下駄(げた)はかねばならんね、新人社員みたいに初任給が十二万ぐらいだったら、+ニキロの鉄の下駄(げた)はく。二十万の人は二十キロ、やっぱり部長クラスになると収入も増えるから、五十万の収入あったら、五十キロの鉄の下駄はいていただこう。五十キロの下駄はけなかったら、一部は背中に負ってもらおう。あるいはバーベルかなんかを手に持ってもらおうか。こういうふうな、たとえば法律ができたとしようか。そしたらお金もうけってみんなどうだろうか。苦しいぞ。

お金があると、いろんなことが自由にできる。しかし、その鉄の塊(かたまり)だけは自由にすることができない。鉄の下駄、収入に合わせた、月給に合わせた重さの鉄の下駄。これ大変だよ。子供もできたし、結婚もしたし、収入増やしたい。収入増えると鉄下駄が重くなる。さあどうする。苦しいだろうな、こんなのないよね。これ慈悲だと思わんか。ないよね、こんな法律。

もしアラーの神が出てきてさ、だいたい月収二十万の人は二十キロ、五十万は五十キロ、百万は百キロの鉄の玉を持って歩け、もし言ってみろ。神様か、もし高橋信次がそう言ってみろ、大変だぞ、みんな苦しみだぜ。みんな貧乏人になるね。

ところがね、お金があるとね、家は買える、土地は買える、車は買える。そうだろう。結婚はできる、おいしいもの食べられる。それでまあお金儲(もう)けに励む、ね、その結果は地獄に行って本当に鉄の玉負わされる場合もあるんだよ。あるけども、それがこの世の発展の原理になっておることは事実だね。実際ね、これなってるよな。これ、快楽なんだ、収入が増えることは、そうだろう。

女性だったら、たとえば化粧をして男をコロッとだませることが、これは快楽だよな、ひとつの。ね、化けられる。昔から狐の嫁入なんていっぱいあるけど、そういうふうにお化粧して化けてね、コロッと、「あなたが好きです。地球よりも、星よりも、太陽よりも美しい」って言わせたら、こんなに嬉しいことはないね、快楽だよな。お化粧をパタパタとやると快楽が生じるね。やめられませんね。

あるいは、男女の営みっていうのもありますね。一生で何回するんでしょうか。私は計算したことはございませんが、五千回でしょうか、一万回でしょうか、詳しいことは知リません。日本記録は一体何回ぐらいでしょうか、よく知りませんが、まあこれだってね、ものすごい苦痛であってごらん。男女の交わりっていうんで、ものすごいね、ヒリヒリしてね、痛かってごらん。

ヨードチンキなんて昔あったよなー、ヨーチンなんてみんな知ってるかなー、もう古いかな僕。それで擦(す)りむいたところにヨーチンなんか塗ると、ヒエーッってね、赤チンかありや、赤チンかな。赤チンかヨーチンか僕よく知らないけど、チンはチンだよな。どっちにしてもチンだよな。そういうふうに、まあ赤チンでもヨーチンでもいいけど、それをだな、塗るような痛さが、たとえば男女の営みにあったとしたら、これは地獄ですよね、そうです。

あるいは、悪い為政者(いせいしゃ)がいてね、もう男女のそういう結びつきは非常な悪である。間違いである。したがって、まあすること自体は許すけど、その時には大変な目に合ってね、赤チン、ヨーチンを傷口に塗るような、そういう痛みを伴うべきである。こういうとどうだ、きついぞ、これは。あるいは男女がキスをする時は、口の中には、からし、あるいはマスタード、これをいっぱい詰め込んで相手の口に移さなければいけない。たまったもんじゃありませんよ、あなた大変でございますよ。

で、お風呂なんて、みんな「ああ、いい湯だあ」なんてやっているけどね、石川五右衛門の苦しみをみんな味わいなさい。風呂に入る時は、最低六十度です。六十度ぐらいのお湯ですというのだから、お風呂に入る時、必死だよ。もう必死の決死行で顔ひきつってね、もう一秒で飛び出さにゃーいかんちゅうので、釜の底に足がつく前に飛び出さなきゃいかんちゅうので、もう顔色変わるよ、もう大変なもんですよ。で、お風呂入る時には今度はスキューバダイビングみたいに潜水服着ちゃったりしてね、潜水服着て風呂入ったりしてね。あらゆる快楽を奪うとそうだね。

あるいは、お風呂は氷が浮いているようなところでね、もう氷が浮かんでいる、そういう冷たいところ、0度以下のところしか絶対許してくれないね。お風呂って、温かいところなんてとんでもない。氷浮かべて入りなさい。快楽を滅却しなければいかん。どうしますか。

一生懸命勉強して、たとえば東大なんか入ったら、もう一番最下層の仕事つかされるね。もう便所掃除、ドブ掃除、溝掃除。そりゃそうだよ、君たちはね、勉強できたちゅうことで鼻が高いだろ、世間から認められたんだろ、だからこれからそのカルマを刈り取るために、一番ひどい仕事させてあげるよって、町中の清掃美化、これが東大卒業者の仕事ですよ。そのかわり中学しか卒業できなかった方は、そりゃ気の毒だから、やっぱり魂の平等とるためにね、そりゃみんな社長にしましょう。ね、そういうふうにしてもいいんだよ。どうだ。

ところがいい大学を出るとさ、いいポストにつけて、収入増えて、カアちゃんきれいと、こうなるから、みんな行くんだろう、違うか。こういうふうに逆発想してごらん。大変なことですよ。

食べ物だって口にね、味覚っていうのがあるからいいんだよ。味覚あってね、みんな味覚のことなんか感謝したことがあるかい。食べて、おいしいって感じるの、ねー甘いとかさ、いろいろあるだろう。味覚、これのお陰なんだよ。これがもし味覚が狂っててごらん。たまったもんじゃないぞー、これはたまりませんよ。

もしたとえば、塩辛味なんか、今の百倍ぐらい感じてごらん、舌が。たまったもんじゃございませんよ。もう食べれませんよね。肉なんか食べた日にはあなた、塩の塊みたいに感じちゃいますよ、もう舌が辛くて辛くて、ヒエーッて言いますよ。そうじゃないでしょうか。こういうふうにね、あのー、みんなね、体の中にもそういう快楽をもたらすものがあるね、ちゃんとある。

目だってそうだよな、美しく見ようと思ったら見えるね。女性が美しく見える。男性が立派に見える。そういう目だからいいんでね、この目にさ、無茶苦茶のなんかセルロイドでも貼りつけたような目でね、レンズがもう無茶苦茶で、教会のステンドグラスみたいに、そんな目のレンズになっててごらん、どうする。そうしたら世の中、もう無茶苦茶だよ。ものすごい姿に見えると思うよ。だから、みんな当然だと思っているけど、当然じゃないんだなー。

こういうふうに快楽っていう要素は、やっぱりいろんなところに実際あるよ。その結果ね、人生の幸福化かある程度、保たれているところがある。そのかわり、その快楽がいき過ぎると、これが失敗になっているね、そうでしょう。だから男女の睦(むつ)み合いがいいからってあなた、朝から晩まで一日中じゅうやってたら堪(たま)ったもんじゃないね、世の中もう終わりですよ、そうじゃありませんか。食事がいいからってあなた、一日二十食も食べてごらんなさいよ。もうそれだけで仕事ですよ。ね、違うか、そうだろ、そんなもんだよ。

お金があなた嬉しいからといって、もう大銀行が全部金庫空にするほどお金持ってきて家の中に入れてごらんよ、埋まっちゃうぜ。そうして泥棒には狙われるね。昔あったよね、銀座で一億円拾った何とかさんという人がいてさ、そうして警備員雇って自宅見張らしてなんていったら、会社勤めていた方がよかったなんてね、タクシーの運転手さん、ああ損した。一億円貰(もら)ったばっかりに新聞で有名になって、命狙われる、電話は入る、脅迫状(きょうはくじょう)は来るちゅうんで、もう警備員雇ってね、夜も寝られない。何か幸やら不幸やらわからんな、こういうこといっぱいある。

そういうふうに快楽は、やはりある程度の幸福感の基になっています。前提になっています。ただその調整が難しいね、そういうことですね。快楽がなぜあるのかというとやはり基本的なね、幸福感の原動力として、やっぱりあります。事実です。

もし、異性を見るだけで、もうおぞましくておぞましくて生きていられなければ、それは地獄です、この世は。この世はね。もう女性見るなり体が硬直してごらん。犬と猿みたいにさ、もう「危ない! ウーウー」とか「キャー」とか言ってね、やったらたまったもんじゃない。「いいなあー」と思うからいいんだろう、違うか。そういうふうに、ある程度幸福感の基本前提としてあります。ただそれの調整原理が難しい、そういうことです。