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目次









(1988年3月31日の霊示)

1.理想像の設定


みなさん、こんにちは。高橋です。えー、自己実現の話です。

これ面白いんですよね。私はね、『高橋信次の新幸福論』、第4章までで終わるつもりでいたんだよね。いつもおしゃべりだって言うんで、1章一時間で4章しかもらえなくて、それで終わりのつもりだったんだけど、自分はもうちょっとしゃべりたいという気持はあったんだよね。ところがね、原稿にしてみたら、すこし字数が足りないってね、私はちょっと遠慮しているもんだから、話がゆっくりだったって言うんで足りない。そこで取りあえず、あと三十分いただきましたんで、追加です。

私は自己実現を、これで果たしたわけですし、みなさんも、一行でも多く私の法を聞きたいという、自己実現が果たせる。このように自己実現というのは、非常に大切なものなんですね。

特にこれは『新幸福論』ですから、やはり幸福への自己実現、これを言わないで本にならない。ね、これを入れるか入れないかで売れ行きも遠う。ね、土屋書店さんも喜ぶ、ね、そういうことですよ。だからまあ、みなさんよかったですね。えー、一冊の本、同じ値段で買わされるのにね、4章で終わるか、5章で終わるか、全然違いますね。これで中身がコロッと変わっちゃいますから、よかったですね。得をしました。おまけです。

えー、それでですね、まず私は一番目に、理想像の設定と、こういう題を掲げてみました。まあね、幸福になりたいって言うのはね、やはり人によって、その幸福度が違うね、理想像が違う。どういうふうに幸福になりたいか。あなたの幸福とは何ぞやって言って、まあその理想像を一生懸命書かしたら、まあ千人が千人、万人が万人が違うだろうねー。

僕の幸福の理想像は、みなさんのとは違う。僕の理想像は、他の神様は全部抹殺(まっさつ)して、僕だけがしゃべりたいなんて、そんな理想像ではありませんよ。そんなことは決してないんですが、他の神様も、まあ自由にしゃべっていただいて、しかし、高橋信次がしゃべりたい時には自由にしゃべられるようなね、そういうシステムにしたい。

私の本が毎週できたら出て、そして毎週みなさんの心を潤(うるお)したい。で、一万人や二万人じゃなくて、五十万、百万、一千万、一億人の方に読まれたい。ご家庭に毎週配本したい。ま、このぐらいの気持があります。これは私の理想像ですね。ただ、地上の人の理想像とは多少違いますね。地上の人は、やはり喉が痛いとかね、原稿に書くのが面倒くさいとかね、活字に組むのが時間がかかるとか、紙代が高いとかね、いろいろあります。そういう意味で難しいんですが、あの世の霊としての理想像はあります。

みなさんもおそらく、なんらかの理想像、あるでしょう。『高橋信次の新幸福論』という題で手を伸ばした方は、やはり、なんと言うかね、読みたいという気持があるでしょう。幸福になりそうな気がするでしょう。『新幸福論』ちゅうのは、旧幸福論もどこかにあるんかなーと思っておる人もいるかもしれないけど、まあそれはないんだけれども、何かよくなりたい。宗教なんかに魅(ひ)かれる人は、心の中になにかさみしい思いね、もうちょっとよくならないか。あるいはもっと違う人生があるんじゃないか。俺はこのまま死んでしまっていいのか。こんなことをいつも考えているのですね。

そういうことですからその理想像っていうのをね、持つっていうことは大事ですね。やはりこれは第一歩ですね。

そりゃ水泳でもそうでしょう。プール二十五メートル泳ぐんでも、向こうに二十五メートル先にね、ちゃーんとゴールがあるから泳げるね。マラソンだって、そうでしょう。四十二・一九五キロ、ゴールがあるから走れるね。これなかったらどうだ。あなた、ただ道端、走れたって走れないよ。永遠に。日本列島、上から下、走ったら、そりゃ海まで走れるっていう考えもあるだろうけど、やっぱり目標がないと走れないね。こんなもんですよ、人間。あれだってマラソンだと思って、世界記録なんてあるから走れるんであって、なんでもないでただ走っとるだけだったらね、馬鹿馬鹿しくてね、お腹空くからね、あなた誰も走りませんよ。当然ですよ。ね、そういう意味で理想像の設定は非常に大事ですね。

その理想像のところに、まあ問題はいろいろあるわけですね。その理想像に、間違いがある人も中にはいる。たとえば、マーフィーなんて偉い先生もいたけども、書いている内容はいろいろだよね。まあ、いいこともあるけど、へんなのもあるね。あのハンドバッグ欲しいと思ったら、ハンドバッグが手に入るとかね、こういうことばかり。あまり念じていると何か変な世界に入ってくるね。どうですか、あのステーキが食べたい。食べたい、食べたいと念じていると、やはり、五百グラムのステーキが食卓に出てきたとかね、そんなことになってくるとちょっとなんか変だね。なんか裏側っぽいね、臭うね。プンプンプンプンするね。これは仙人、天狗さんの世界じゃないのかなーっていう臭いがちょっとある。

こういうところで問題があるけれども、やはりね、この世のルールで実現できることはしたらいいんですよ。大学入試なんかあなた、念力で通ろうなんてしないで、やっぱり勉強してやるのが筋ですよ。それしないでさ、いきなりね、共通一次マークシート、鉛筆ころがして受かるようになんてやったら邪道です。やはりある程度、その基礎訓練ね、コツコツと努力している中において、理想像を実現していくことが大事なんですね。

だからそれを間違って、一躍神風が吹いて、そういう成功がくるとかね、急にどんでん返しがあるとか、あんまりこれは思わない方がいい。そういうことも確かにある。この世界においてはそういうことはいくらでもあるけれども、あんまりそればかりを望んでも、それは魂にとって、あなた方の魂にとって必ずしもプラスにならない。そういうことなんですよね。プラスにならないんですよ。いきなりコロッと成功が転げ込んでくるというのはね。やはり努力、精進している過程において、思ったよりね、はるかに早くとかね、思った以上の成果が得られる。こういうことはいいんだ。何もなしで、棚ボタというのは、やはり魂にとって堕落になることもある。こういうことでね、必ずしも好ましくない。

やはり私はね、理想像を描く時に、ある程度、自分の努力の方向性が見えるような理想像、これ描いてほしいね。理想像が自分の努力で、ある程度達成できるかどうかね、ただ幸運も、もちろんいるけれども、そういうふうになれるかどうか。こう考えていただきたいんだよね。

だから、今さら皇族に入りたいと思っても、そうはいかないしね。みんなが救世主になりたいと思っても、そうはいかないね、これはあるよ。ただ救世主のお手伝いするとかね、小さな救世主じゃないけど、自分の力の範囲内で人びとを救いたいちゅうことは可能だね。こういうふうに自分の努力と、ある程度、その理想像との間のね、距離を計りながら、まあ多少上向きっていうかね、もうちょっとできたらというあたりに置くのが、ちょうどいいように思いますね。


2.幸福人生の実現


さて、では幸福な人生、幸福人生の実現の鍵になるものは一体何だろうか。僕は、これを考えてみたいと思う。

結局ね、僕はあの世に還ったけども、あの世に還って感じることは、多くの人のために尽くしてね、損することはひとつもなかったよ。これだけは言えるなー。ああ、これだけは言えるよ。あの世に還ってね、あれだけ優しくし過ぎて損したとかね、あの人の面倒、あんなに見て損したとかって思うことはないよ。ない。これだけは僕は言っていいと思うね。

そりゃ地上にいた時に僕も、ずいぶん慈悲魔だったし、いろんな人の面倒見てあげたよ。会員も何十万もいたしね。一人一人のこと気になったし、僕の弟子と、直弟子と思っている人はいっぱいいたからね。そしたらみんな先生になんか優しくしてほしいし、期待してほしい、と思っていたね。できるだけ多くの人に接して、多くの人に、なんらかの言葉、あるいは心に糧を残そう。彼らをほめてあげたい。ね、よくしてあげたい気持、持っていたよ。

でも思った通りならんかったことはいっぱいあった。たとえば僕が弟子をいっぱいほめてやって、ほめてやって、いつもおだててやったら、その弟子が僕が死んだ後、暴れて、暴れて、そんな自己実現しちゃって、おかしくなっていることあるけれども、じゃあ、でも彼らをよくしようとして私が指導したこと自体悪かったかちゅうと、そりゃあ僕は悔いないね。そりゃあ、それでいいんだよ。それから先の問題だよな。

その点、彼らを腐(くさ)して腐してね、目茶目茶に言って、それでどうだ、なにもできなかった。ざまあ見ろって、あの世に還って嬉しいかって。そんなことないね。やっぱりね、人を生かそうとかね、よくしようという思いでもってやったことはね。もし、成果を結ばなかったとしても、あの世に還って悔いること全然ないです。

だからみなさんね、幸福人生ってね、本当の幸福人生何かって言うと、やはり自分の死後ということを見つめなきゃあいかんよ。死んであの世に還ってきた時にね、振り返ってみて後悔しないかどうかね。この観点抜かした自己実現なんてナンセンスですよ、まったく。自分が生きている時にね、新聞に顔が載ったとかね、あなたテレビに出たとかさ、億万長者になったとか。こんなことでね、幸福の自己実現と思っちゃいけないよ。

やっぱりね、地上を去って、あの世に還っていく時にね、振り返ってみて、自分の人生ね、見せられて、スクリーンに映されて、テレビに映されて、それでよくやったと、自分で言えるような人生でなきゃ駄目だぜ。人がよくやったと言ってくれただけじゃ駄目だ。自分が心底ね、よくやったと言えるような人生ね。

それは何かっていうと、どれだけ多くの人のためにね、やはり働けたかだよ。どれだけ多くの人の幸せのためにね、生きられたか。自分の一個の人生ね、一人の人生。身長百六十何センチ、体重七十何キロのこのちっちゃな体、まあ豚の食い過ぎで、豚肉の食い過ぎで、ちょっと大きいかも知らんが、まあ、そういう体がだね、一体どれだけの人たちの肥やしになったか、魂の糧になったかね、心のささえになったか、これは大きいよ。

僕だって電気関係の事業やってたし、その社長で収まっていれば、従業員の百人や二百人食べさせて、社長さんのお陰で食べられましたという感謝はあるかもしれない。

ただ、そういう仕事をしながら、片手間にね、GLAという団体起こしました。そして何十万の人、指導しました。結果、実を結んだかどうか僕知りません。知りませんが、ただ、町工場の社長で一生終わったのに比べたら、僕の満足度は高いのです。なぜかって言うと、高橋信次という人間の存在だね、これが、それだけ多くの人に影響を与え得たということだね。

えー、僕は高橋春雄っていう本名持ってます。これ以外に高橋信次という名で宗数的な活動してたわけです。それは実際上の取り引き、事業があって、得意先もいっぱいいるからね、本名で宗教団体やったら、やっぱり銀行からの借り入れはあるし、商売はあるし、いろいろあるんでね、その中には無神論者、有神論者いろいろいますから、それを一律に扱えないんでね、本名と分けて、やはり仕事上の名前を分けてやりました。その結果二人分っていうかな、二人の個性が発生して、二倍、あるいはもっと何倍も生きられましたね。

こういうことをしたわけですが、結局ね、多くの人を良くするためにやったことっていうのは、たとえ燃え尽きたとしても、死んだ時に死亡広告でね、過労のために死亡と載せられたとしても、四十九才の誕生日を前にしてね、三ヵ月前に死んだとしても、ただね、ボロボロに燃え尽きたとしてもね、やっぱり私は何か残せたっていう気持はありますよ。

僕は死ぬ二週間前まで東北研修会なんてあって、ボロボロの体で、点滴打ちながら、やりました。馬鹿みたいな話です。救世主みたいに気取って、自分が救えないのに馬鹿かって言われるけど、それでもね、悔いないですよ。それがね、それだけ最後までやっぱり燃焼し尽くしたことがね、今あの世に還って霊言を送る時の原動力になっているね。僕はそれを自分の体を労(いたわ)ってね、「まあいいわ、いいわ。まあ体がいい時だけやりゃあいいんで、疲れてる時は止めときゃいい」なんて思ってたら、今もこれだけの僕は情熱ないと思うね。

それはやっぱりこの仕事っていうのはね、きりがないんだ。それはね。いくらみなさんが、本が読めなくて苦しんだとしても、やっぱり僕はね、一冊でも多くの本出して、一人でも多くの人にね、神理に目覚めてほしいと思うんだな。

全部本を読んでいる人は大変だと思うけど、それでも偶然に手を伸ばしてね、『高橋信次の新幸福論』に「幸福への自己実現」ていう項目があるから、ちょっと買ってみたくなって、買ってくれる人がいて読んでくれたらね、こりゃあ嬉しいよ。僕はそういうきっかけをひとつでも多くあげたいと思うな。そのためにやっとるんだ。ねー銭金(ぜにかね)じゃあないんだ。やっとるんだよ。

だからそういうふうにね、幸福人生の実現というのをね、みんなね、あんまりこの世に視点を置いちゃあいけないよ。死んであの世があると、いったん思いなさい。あるんだよ。あの世の霊が、そう言っているんだからあるんだよ。あるからあると言っているんだよ。

それであの世に還った時に後悔しない自分かどうかね、後悔しない自分は何かって言うとね、やっぱり多くの人のために生きれたこと。生き切れたこと。多くの人たちにね、あの人がいてくれてよかったってね、言ってくれること。これ大事ですよ。

だから私なんかたいした仕事しなかったけど、でも死んで十年ちょっとしてね、高橋先生が生きてたらよかったってね、生きていた時に会えた。とかね、亡くなって十年間淋しかった。なんてね、まあ言う人がいるけど、そういうふうに生きているっていうだけでね、直接その人に接しなくとも、その人の個人指導できなくても、それでも生きているっていうことだけで、喜んでくれる人はいるんだよな。うーん、まあ、「存在の愛」になるんかも知らんけど、有り難いことですよ。ね、そういうふうにキラキラ光るということはね。

だから僕はみなさんに言いたいんだ。みなさんどんな思い持っているか知らんけど、やっぱり死んであの世に還ってね、振り返ってみて、自分の四十何年か、あるいは五十何年、六十何年の人生見てね、満足できるかどうかだな。こういう観点だ。

あと残りいくらあるか考えてごらん。四十代の人だったら、まあせいぜい三十年ぐらいだよ。あと三十年、自分が死んだと思って、死後四十何歳の自分を見た時に、あと三十年残っているのだったら自分はどう生きたら一番よかったか、それ考えてごらん。ね、大事なことです。こういう観点からやらなきゃあ、本当の自己実現じゃあないです。僕は、これを言っときたいよ。


3.祈りと全託への考察


さて、自己実現で大事なのに祈りとか、全託(ぜんたく)とかいう考えがあるね。祈りっていうのは、キリスト教系がだいたいそうだなあ、だいたい祈れって。祈る前に、もう神は知り給うと、お前らが何を欲しいか、知っとると。

可愛い子がパンを欲しとるのに、誰が石を与えるか。人がうなぎの蒲焼(かばやき)を欲しいと思っとるのに誰が蛇の蒲焼を与えるか。神はそんな方じゃない。うなぎの蒲焼を欲しい時には、ちゃあんとうなぎの蒲焼をくれる。そんな優しい神だ。祈る前になくてはならんものを知り給うのだ。こういうふうにありますね。でもまあ、一応祈りなさいっていうのはキリスト教ね。

あるいは全託しなさいなんていうのは、谷口先生なんかそうですな、生長の家なんかね。全託しなさい。託(まか)せなさい。まっかせなさいってね。「英語は外人にまっかせなさい」なんて言う人いるけども、まあ、まっかせなさいということですな。そういう考えもあります。あるいは天理教祖みたいに、「頼まないでも、お陰はやってくる」なんてね。神様は、そういうことだと言う考えもありますね。

じゃあ頼まないで来るかちゅうと、あんまり来ないんだよね、本当はね。やっぱり頼まないで出てくるのは、こういう自己実現型の神様だけであってね、おせっかい型の神様は出て来るけど、おせっかいじゃない人って出て来ないんだよね、実際はね。だからまあ、その辺ちょっと区別があるんですけどね。

えー、そこで祈りと全託っていう考えに対しての僕の考え。潮文社で出した『高橋信次霊言集』の中では、反省、瞑想、祈りの順が大事だっちゅうことを言いました。今もそう思っています。やはり祈りっていうのがね、自分が何もしないで、神様よくしてくださいね。ボタ餅くださいね。もっと大きい家に移らしてくださいね。いい可愛い嫁ちゃんください。こんなことばっかり祈っても僕はね、まあ、それは意味ないとは言わんけど、ちょっとおかしいと思うな。やっぱり人間として、やるべきことをやるべきだ。ぴしっとやってね。そらねー、たとえばマイホームが欲しいと思うなら一生懸命働けよ。

一生懸命働いて、それで「神様マイホームください」と、「一生懸命働きますから」と言ったら、思わぬ時に昇進したりね、大きなプレゼントが出たりすることもあると思うよ。あるいは一生懸命勉強しててね、難関を突破して、たとえばいい大学へ入ったり、あるいは司法試験だ、公務員試験だ、あるいは、それ以外の資格試験など通った。そういうふうに一生懸命勉強しているとさ、ご褒美(ほうび)で、素敵な彼女が出て来たりするんだよな。そういうことはあるさ。

ところが、ころころころころ四畳半の下宿で転げとってね、じゃあ素敵な彼女出るかって言ったら出やしねえよ。そんなの誰が相手にするか、そんな臭い男。そうでしょ。くさやの干物(ひもの)みたいな男を相手にしやしないよ。

ねー、そのくさやの干物みたいな男でも光の天使を目指して、せっせと努力していると思えやこそ、手鍋下げて女性がね、それがあなた、お手伝いに行こうとするんですよ。そんなもんなんだ。

だから、祈りという姿勢の前にはね、僕は自分を見つめて、一生懸命やらにゃあだめだと思うよ。その過程において祈るのはいい。それがなんていうか、自己を引き上げるための原動力になることがある。それはある。確かにあると思う。だから棚ボタはダメ。まあ全託の思想も大事だと思うけど、守護霊や指導霊が、そりゃあいるから、彼らが手伝ってくれることあると思う。

ただ僕の気持から言えばね、心清く一生懸命働いているお百姓さん見たら、なんとか豊作になるようにしてやりたいと思うもの。

ところがさ、ころころころころして愚痴(ぐち)や不平、不満ばかり言って、「なんじゃ曇りよって、お日様射さないじゃねえかとか」ね、雨が降ったら「降り過ぎだよー」なんてね、降らなかったらね、「ちょっとは降らしたらどうだ」なんてね、ブーブーブーブー言ってて感謝しないお百姓さん見たらさ、その時は僕だってプリッとしちゃうよな。お面白くねえよな。やっぱり一生懸命さ、朝早くから起きて頑張っている人見たらさ、よーし今年は豊作にしてやろうと思って頑張るもんね。

だから自力と他力って、別なもんじゃないんだ。やっぱりね、一生懸命やっている人に他力の道が開けてくるんだよ。そうだと思うよ、そうでなければ嘘だ。そうだと思うよ。だから全託で大事なのは、まあ祈りによるね、執着を去るという意味で、大事なところがあると僕は思う。

祈りもね、毎日毎日、もうとにかく「嫁さんくれー、嫁さんくれー」っていうのもあるけど、それも「何月何日まで嫁さんくれー」なんてあんまりやっているとね、それが執着になって、焦りとなって、苦しみになってくるね。そうじゃなくて、まあ、適当な時期にって言うんだろう。適当な方法で祈ることによって、この自己実現型の執着を断つ。まあこういうメリットはあるわな、それはある。

また、自力で努力しているうちに、例の「ねばならない」だな、「せねばならん」という焦りを生むちゅうことはあり得ます。それはある。そういう意味で、時たま全託っていう思想も僕は大事だと思う。それは心のゆとりということでね。大きな目で見て神様がおる、守護、指導霊がいるんだから、なんとかなるさーっていう気持ね、これは大事だと思うよ。

渦中(かちゅう)の人の場合に、もがいてもがいても出られないことはある。その時に、やはり時間の経過を待つ。それもただ苦しい苦しいって言うんじゃなくて、よくなる、きっとよくなると思ってね、ある程度の時間、持ちこたえる。こういうことが大事だな。この意味で全託が意味があると私は思ってます。

ただね、そういう苦しみの時期っていうのも、それが本当に後々(のちのち)魂の糧(かて)になるためにはね、やはりその期間、自分のできる範囲のことで頑張るということが、大事だと思ってます。それでいいんだよ。そうでなきゃ漂流しているみたいに流されているだけじゃ意味ないよ、そんな人生。なんの意味があるんだ。やっぱりダメです。

丸太ん棒にぶら下がって浮かんどるのもいいけどねー、向こうに船があると思ったら足バタバタして動いてみろ、ちょっとは、ね。バタバタしてみろって。フカが寄ってきてパクッとやるかもわかんないけどね、そんなことをすると。だからじっとしているとフカに襲われないなんていうこともあるかも知らんけど、まあ頑張れるだけ頑張ってみろや。それから後は、まあ、もちろん神だのみもあるだろう。ね、その辺が僕の考え方です。

で、僕自身は祈りをしたことがないかって言ったら、そうでもありません。それはあります。現に神の光っていうのはあります。他力の光明っていうのはあります。だから無駄とは言いません。けどもやはり、自分の心の透明度っていうかね、澄みきった、その程度に合わせた、やっぱり他力があると僕は思います。

だから、やはり心を磨きながらね、純粋な思いで神の方を振り返ることが大事であろうと思います。それが、祈りと全託への大切なポイントだと思う。


4.正法と他力信仰の問題点


まあここが、生前からよく僕が言ってきたし、霊言集なんかの中でも言ってきたけど、正法と他力信仰の問題なんだよね。今の時代、末法の世には、他力信仰がものすごく増えている。蔓延(まんえん)している。とにかくそこへ行けば、ご利益(りやく)あるっていうことでね、この辺で人間の欲をそそっているね。これがある。だけどね、基本外してはいかん、と僕は思います。

たとえば他力信仰っていうのをね、別のたとえで言えばね、会社で遊ばせている社員てのがいるんだよな、遊ばして。要するに定年が来ないんで、とにかくもう仕事はしなくていいから、新聞読んでてくれっていうのあるね。だいたい役所からの天下り組がそうだね。天下(あまくだ)って企業に入っているけど、実際仕事やられたら大変なことになるんだよな。大変なことになるんで、もうなんにもしてくれないのがいい。

ところが、そこの官庁から許認可行政って言ってね、いろいろ権限があって、たとえばなんでもいい、厚生省なら厚生省でいいや。厚生省で、やっぱり薬剤関係で許認可行政やってるな。そうすると厚生省の役人が五十過ぎたら止めちゃうね。そうしたら製薬会社とか受け入れちゃうわけよね。そして、仕事されたらどうかちゅうと困るんだ、そりゃ困るんであって、仕事は困るんだけど、彼らの老後を保証してやることによって人質だね、人質を取ることによって、商売がしやすい。こういうことあるね。

そうするとどうするかっちゅうと、まあ会社へ来てね、とにかく本を読んでてくれたらいい、新聞読んでくれたらいいって、給料出すから何もしないのが一番いいと、こうなるね。秘書付けますから大丈夫ですからってね。やはり肩書だけ付けるとかね、「なんにも専務(せんむ)」とかね、そういう人がいるわけです。ただ、それで給料もらってて嬉しいかっていったら、やっぱり嬉しくないね。やっぱり働き甲斐がほしいね。こういうとこがあるんだ。

だから、他力信仰、ご利益信仰というのはね、結局何もしないで利益が得られるようなところがあって、だからお金くれたらいいかというと、人間ね、仕事なしでお金だけもらったら苦痛だぜ。

どうだ本書を読むみなさんよ、仕事をたいしてしないでお金をもらっている人よ、胸に手あてて考えてみろ。淋しいだろう、会社行って仕事がないちゅうのは。なんにもしなくとも毎月給料が出る。嬉しいけど悲しいね、どうだ、ね。これ他力信仰の姿だよ。何もしないでね、お陰が来るって、本当にそれでいいかい、君たち、ね。そら、ボーナスが入ってきて嬉しいけど、たとえば何もしなくても、他の人が働いてボーナスが入るけど、ずーっと続けてごらん、苦しいよ。やっぱりね、貢献している、自分は一生懸命やっていると思うんで、それでボーナスが増えたら嬉しいんさ。何もないのにボーナスが増えたって嬉しかないさ。やっていくらだよ、ね。僕そう思うね。

だから、他力信仰、他力のご利益信仰は、結局「働かない者、食うべからず」に、要するに抵触(ていしょく)しているっていうことを僕は言っているんだよ。働かないで金だけもらってたら、人間おかしくなるよ。

じやあ、お金やるからね、上野動物園の檻(おり)の中入ってみろって、僕がお金やるから、あの霊言集の収入の一部は、そういう奇特(きとく)な方のための資金に回していただきたいと私が言うとするよね。原稿料の一部は、そういう奇特な実験材料の人にあげたいから、檻の中、上野動物園の檻の中でチンパンジーと一緒に、一年間いてみてください。毎月給料払うから、ね、毎月手取り五十万、ボーナス六ヵ月分払うから、どうだ上野動物園でチンパンジーと一緒に生きてごらん。

水とバナナ、リンゴあげるよ。いられるかどうか、いてごらん。いやだよ、みんな。絶対いやだよ。五十万の月給ったらいいよ。ボーナス六ヵ月ったらいいよ。ちょっとあなた、勤め先としてはそう簡単にはないよ。しかし、チンパンジーと一緒に檻の中にいれるか、別にしてやってもいいよ。人間だからね。賢い人間だから檻は別にしてやるよ。隣りにしてやるよ。どうだいれるか、ねーいやだろ、そんなもんなんだよ。ねえ。

しかし、そうなりたがっている人がいっぱいいるんだ。他力信仰、ご利益信仰は、結局檻の中入ってたら金くれるって、ああそうですかって、檻の中に入りたがる人がいる。これ間違いですよ。それで一生送ってごらん。笑い者ですよ。違いますか。やっぱりね、腐っても武士の端くれだ。武士は食わねど高楊枝(たかようじ)だ。働いて二十万でいいじゃないか。バリバリ働いて二十万でいけや。自分のやはり働き相応もらうのが人間の幸福の源泉なんだよ。だから他力信仰の誤りはね、やはり自分の足が地についていないことだ。やっぱり原則はできるだけ自力で道を開け、ね。一生懸命頑張っていけや、ね。

それで時折、自分の間違いがあるかもしれない。考えの間違いがあるかもしれない。そういう時には、曲がり角にはね、ちゃんと標識立てて僕を導びいてください。神さま、私を導びいてください。この気持だ。

一生懸命やってるけど、時どき問題があるね。やっぱり一生のうち、あるいは一年のうち、何回かは事件が起きたり、問題が起きる。そういう時どうしたらいいかわかんないね。こうした時にね、神様なんとか守護霊様、道を教えてください、導いてくださいって祈る、これはいい。これはいいよ。いい。けど、檻の中に入って給料もらおうとするな。檻の中で給料もらったって銀行に預金もできないぞ。こういう他力信仰は間違いですよ。なっちゃあいけないよ、いいかい。

だから、働きもしないのに金ばかり入ってくると、大変なことになりますよ。これは危ないですよ。そういうことですよ。美人の嫁さんがいいからったって、自分が不細工なのにね、極端にミスユニバースなんかもらったら不幸の始まりですよ。こんなの不幸ですよ。一年持たないですよ。家庭の崩壊ですよ、完全に。

だからそこそこでいいんですよ。ね、醜(ぶ)男は、そこそこのカアちゃんでいいんですよ。その辺が足ることを知るっていうことだ。まあ、そういう考えを大事にしてください。


5.確かな自己実現


では、本書を締めくるに当たりまして、確かな自己実現、ということを話してみたいと思います。

じゃあ一体、確かな自己実現って何か、ね。僕は、これを三ヵ条にまとめてみたいと思います。

それは、自己実現の中に、やはり人類への奉仕っていう気持があるかどうかね。第一点。これが第一点です。第一点として、人類の奉仕、あるいは同胞への奉仕、社会への奉仕という、そういう世の中をユートピアにしていくという気持があるかどうかね。これが第一点だ。これ原則だ。

第二点はね、その自己実現をやりながら、自分の心が、美しくなっていっているか。きれいになっているか。心が向上しているか。魂が磨けているか。こういうことだね。心の進歩、進化があるか。発達があるか。よくなっているか。こういう考えだ。自分の心が堕落しているのは駄目だ。やっぱり心がよくならなければ駄目だ。その自己実現やっている過程でね、心がますますきれいに光りながら、器が大きくなっていく。これが大事だ。これなくしての自己実現、意味なし、ね。心悪くなったら、腐ったリンゴはいらない。やっぱりね、心がよくならなくてはいけない。

第三番目は、神様を勝手に利用するなっちゅうことですね。神様、仏様を自分の都合で利用しちゃあいけない。これを言っておきたい。そうじゃないよ。反対だよ。神様、仏様のために、ねえ、あなた方は一生懸命頑張るんだよ。いいかい、神様、仏様を自分の都合で利用するな。しちゃあいけない。自分の都合で、ご都合主義で、ひっぱり出して使っちゃあいけない、ね。彼らが持っている高邁(こうまい)な理想があります。人類の幸福とか、正法の流布とかね、人類救済とか、彼らには大きな理想があります。その理想をよく理解して、その一端をになっていくという気持、これがとーっても大事です。神様、仏様を自分のご都合で利用するなということね。これ僕、口酸(す)っぱくして言っとくよ。これ間違いですよ、そんな人は。大変な間違いになりますよ。

時には神様と交渉する人いるんだよ。ギブ・アンド・テイクでね。「おい神様、俺に○○してくれたら、俺これしてやるぞ」なんてね。だから「油揚げ三枚祀(まつ)ってやるから受験合格させろよ」とかね、こんなのギブ・アンド・テイクだね。こんなの間違いですよ。神様、人間とそんなね、ギブ・アンド・テイクすること絶対ありませんからね。絶対ないよ。いいかい。神様、仏様を自分の都合で使うな。やはり大いなる神様の御心の中に生きとるんだから、その中の一員としてね、素晴らしい世界を展開するために、奉仕していこうという気持ちね、その神様のやっぱり理想実現の一端をになっているという気持、これを忘れちゃあいけないね。こういうこった。

この三つ。まず人間として社会、あるいは人類への奉仕を考える。二番目が、自分の心の向上。三番目は、神様、仏様を勝手に利用しない、ね。彼らの理想の一部として、自分を生かしていく。こういう観点が大事です。

まあ、そうした自己実現のためには、この『高橋信次の新幸福論』をどんどんどんどん読んでください。多くの人に読んでもらってくださいね。これ僕の自己実現だけど、神様のためになりますからね。いいですか、よーく勉強するんですよ。そしてみなさん、心磨いて、立派な天国に還って来てくださいね。

続々と今後も本を書いていきます。どうか、心待ちにしてください。それがみなさんの自己実現になりますように。僕の本を読むことが、理想実現でありますように。そう願って、本書を終えたいと思います。