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目次


 2.中道の理論







(1988年4月17日の霊示)

1.出発点としての心


さて、本章でもユートピアについて、さらに勉強を進めていきたいと思います。ユートピアについて考えるに際しても、いろんな切り口が、もちろん考えられるわけですね。いろんな角度からの探究が考えられるわけですし、本章でもいろんな角度から、ユートピアについて突っ込んで考えてみたいと、ま、このように思っています。

さて、そこでまず第一に、出発点としての心ですね、「出発点としての心」ということで、話をしてゆきたいと思います。

まず、私は生前から、心の話を随分してきたわけでありますけれども、人間は心の偉大性ですね、これについてあまり考えていない。偉大な心、心が本当はどれだけ偉大な力を持っているのか、その神秘、これについて深く考えていないし、心について、本格的に教えてくれる方もいないわけです。学校教育で「心とは何か」ということを、みなさん本当に教わったでしょうか。あるいは学問の領域において、哲学なら哲学で、みなさん「心とは何か」というのを解明されましたでしょうか。哲学書のどれを繙(ひもと)いたら、「心とは何か」がわかるでしょうか。人間の心は何だっていうことを説明していますか。そうじゃないでしょう。説明なんかないでしょう。わかりやすい、納得がいく説明がありますか。ないでしょう。

宗教家、誰が一体、心について納得のいく議論、これをしていますか。どこの和尚さんに聞けば、心とは何かを言ってくれますか。禅宗なんかで「心なんかない」って言ってみたり、まあ、ある最近の神道系の団体でも、「本来心なし、肉体なし」なんて言っています。「実相のみある」なんて言っています。ま、ただ、それでは十分に心について答え切っているとは言い兼ねる部分があると思います。

喝(かつ)として、あるいは人間に考える指針を与えるという意味において、そうした言い方もあるでしょうが、やはり心というものは非常に大切な部分であって、これについての解明というのはなされなければならないと思います。心があるとかないとか言っても始まらないのであって、あるとかないとか言って議論している人間の心もあるのですから、この心について、まず探究するところから始めていかねばならんと思います。

そして不思議なことに、心というものは、単に与えられているものではなくて、創造的な性質を持っているんです。創造的な性質というのは何かって言うと、創っていく力です。物事を創っていく力、これがあるんですね、心のなかには。そして、この心を創っていくことによって、地上に生きている人間の生き方に、あるいは生きていく人間の周りに、さまざまな奇跡が起きていくんです。私はこれを生前、発見したわけです。心というものが、これほど難しいものか。また、その運転の仕方ということを気付いた時に、これほど簡単に、それを操縦することもできるのか。そうしたことに私は気付きました。ところが大多数の人たちは、肉体のままに生き、欲望に溺(おぼ)れ、そして自らの心のコントロールの仕方を忘れているのです。

私はよく説きました。「肉体というのは舟であって、魂が船頭さんです。この魂の中心部分が心です」。こういうことを、何度も何度もみなさんにお話したはずです。まさしくその通りです。肉体は舟です。人間は肉体という舟に乗り込んで、そして魂という船頭さんが乗り込んで川を下っている。これが人生の姿そのものであります。

したがって、船頭さんの部分がしっかりしていなければ、これは、舟は必ず岸に乗り上げたり、岩にぶつかったり、あるいは滝から落ちたり、こういうことをするようになるわけですね。舟というものは、波、あるいは川の水のまにまに漂(ただよ)うわけですから、これをどうにかして、正しい方向に持っていく必要があるんです。そのための船頭さんが魂であるし、実は舟の櫂(かい)の部分、これを司(つかさど)っているのが心と言われる領域なのです。一艘(そう)の舟です。各人というのはみんな一艘の舟、肉体舟です。これに船頭さんがひとり乗っています。魂と呼ばれています。この船頭さんがオールと言ってもいい、櫂と言ってもいいですが、この櫂を持っているんです。この櫂をどのように使うかによって、このオールをどのように使うかによって、どうした人生を生きるかが決まるんですね。

櫂があっても、その使い方を知らなければ舟はどうなりますか、みなさん。舟はもみくちゃになってしまいます。下流まで辿(たど)り着けません。たいていの場合ね、川っていうのは真(ま)っ直(す)ぐ流れていません。あっちいったり、こっちいったりしてます。浅瀬になったり、深瀬になったり、あるいは急に曲がってみたり、滝になったり、いろんなことがありますね。こうした時に、うまく上流から下流まで流れ着くためには、このオール、あるいは櫂といったものを十分に使わなければいけません。この櫂が付いているにもかかわらず、この使い方を知らないで、これはいったい何だろうかと思って、放って置いた人は、やがて人生の急流に際して、迷子になっていきます。こうしたものですね。

したがって、この櫂をどのように使うかによって、舟旅がどうなるかは決まります。快適な舟旅を送るということは、すなわち快適な人生を生きるということであり、快適な人生を生きるということはどういうことかと言うと、結局、上手な櫂の使い方を知っているということです。これによって、人生の苦難を乗り越えて、舟は楽々と進んで行きます。これが、出発点としての心の問題であるし、ユートピア建設の第一歩でもあると私は思うのです。どのように櫂を使うか。どのようにオールを使うか。まず、ここから入ってゆかねばなりません。


2.中道の理論


さて、「中道」ということも、生前から私はよく話をしてまいりました。「中道に入(い)れ」という言葉でもって象徴されている、釈迦の教えであります。この中道とは何かと言うと、先ほどのたとえ話を延長するとするならば、結局、浅瀬に行かず、急流に行かず、滝に向かわず、川の中程、底が深い所、ゆったりと流れている所を下ってゆきなさいということを、意味しているわけです。ところが、ともすればこの中道の理論を忘れて、人びとは岸辺の方に行ってみたり、浅瀬に行ってみたり、急流のなかにはまってみたり、川が曲がっているにもかかわらず、そのまま突っ込んでみたり、こうしたことをします。こうして、転覆(てんぷく)の人生を送ってゆくようになっていくのです。

したがって、人生航路を渡っていく舟として、みなさん方が生きていくためには、常に中道に入(い)るということ、川の中程を流れて行くということが大事です。川の中程を流れて行くということ。川は中程がやはり流れが深いのです。そして安全です。そうした所です。これを流れて行くことが大事です。

では、その中道に入るためには、どうしたらいいんでしょうか。これはます、川の中程に入るためには、目の付け所を忘れてはいけないということですね。どこが岸辺であるか。どこが浅瀬であるのか、急流であるのか。こうしたものをしっかりと見ていく必要がある。そうして、自らの身を常に安全な、川の中程に置く。これが大事です。

ところが魚を取ったり、いろんなことをしていると段々忘れていきます。釣をしていたりしてだんだんに舟が片寄っていきます。いろんな所へ行くようになります。これが大多数の人たちであります。どうしても欲望、魚釣というような欲望に惹(ひ)かれて「あのよどみには魚がいるかも知れない。あの浅瀬には魚がピチピチと跳ねている」、こうしたことでもって、舟をそちらの方に進めて行く。これが大多数の人たちの姿であります。

もちろん、人生の途中においては、魚を釣ることがあっても結構。岸辺に舟を寄せることもあっても結構でしょう。しかしながら、やはり、人生はひとつの旅であって、目的性と方向性があるのです。どこまで辿(たど)り着かねばならんという、その方向があるんです。そうであるならば、やはり、安全な方策をとっていくということが大事です。このために、中道に入るということが、とても大事になります。

では、中道に入るためにはどうしたらいいのか。これを考えてみたいと思いますが、結局こういうことです。すなわち、「左右の両極端を捨てる」ということですね。これが大事です。「そうしたことをすると、出っ張りのない人生になるじゃないか」とおっしゃるような方もいらっしゃるでしょう。「浮き沈みがあるからこそ人生は面白いんだ」と言うでしょう。そういう方もいるでしょう。ま、それも真実かも知れません。浮き沈みが多いことによって、人生のあやが出、こくが出ることも真実でしょう。しかし、そうしたことによっては、本当の意味において、幸せというものを満喫することはできないのです。

みなさんは、浮き沈みの激しい人生を生きていて、本当の意味で確固とした幸福感を持っている人がいますか。確固として「自分は幸せだった」と言える人がいますか。たとえば、若い時に名声を博したとしても、中年以降に急速に落ち込んでいく、落ちぶれていく人を見て、それを幸せだと言えますか。若い頃から苦労ばっかりして、失敗ばっかりして、亡くなる前にやっと人に評価されて、そして死んだ人のことをいいと思いますか。たとえば、間違えて死刑因にされて、そして再審の門を間いて六十年後にやっと無罪になったというような人。死ぬ間際に無罪になったというような人。こうした人の人生を見て、みなさんは本当に幸せだとお思いでしょうか。どうでしょうか。

かの悲観論哲学のショーペンハウエルという人も、随分若い頃から世の中のことをシニカルに見て、否定的に生きてきたそうです。そして彼の評判もあまり良くなかったそうです。晩年になってやっと、世界的な評価を受けるようになったそうですが、そうした悲観の哲学を説いたショーペンハウエルに、みなさんはそれほど心を惹(ひ)かれるでしょうか。どうでしょうか。

やはり私は、人生を通した旅というものを見た時に、そこに中道に入って人生を渡り切った人に、見事な完成の美を見るのです。両極端が好きな人というものは、一時的なものに目をひかれていることが多いのです。長い目で、六十年、七十年、八十年という長い人生を見た時に、やはり中道に入るということに、無限の発展の可能性が見えてくるわけであります。そして、大樹の如く大成していくということが、可能になっていくのではないかと思います。

木を見てもそうです。そんな曲がりくねっている木で、大木となった木があるでしょうか。右に曲がり左に曲がった木で、そんな天を突くような大木になったのがあるでしょうか。天を突くような巨木は、必ず真(ま)っ直(す)ぐに伸びています。盆栽用の松は、曲がっている方が姿はいいかも知れないけれども、盆栽用の松で、大木となったものはないのです。

やはり、天を突くような大木になっていくためには、真(ま)っ直(す)ぐに伸びていく、素直な心で生きるということが、何にも増して大事なこととなるのです。素直な心で生きる、これが大事です。中道に生きるとは、結局、素直な心で生きるということと同じことなのです。素直に生きる。謙虚に生きる。おごらず、へつらわず、また、自虐的(じぎゃくてき)にならず、素直に生きる。天命のもとに、素直に生きる。すなわちこれが、「中道」であるということであります。


3.足ることを知る


さて、「中道の理論」の話をして、この話をしなければ片手落ちになってしまいます。それが「足ることを知る」ということです。足ることを知るとは、すなわち、自分が現在与えられているもの、これへの感謝、これに起因するわけです。みなさんは、どうかすれば、現在まで自分が生きてきたことを当然と思います。そして悩みの材料としては、現在から未来、これに関して悩みの材料をつくっていきます。

たとえば、結婚前の人であれば、結婚さえできればいいと思う。ところが結婚すると、奥さんがもっといい人であればいいと思う。また、子供ができればいいと思う。子供ができたらできたで、今度はその子供が上手に成長するといいと思う。成長したらしたで、その子供が親孝行な子供になってくれたらいいと思う。こういうふうに、人生の幸福感というのは、常に先取り先取りを意味していて、決して心が休まることはない。こうしたことが、現実に多いわけであります。ここに、永遠に自らの影を追い求めているかの如き人間の姿があるわけです。

昔、こうした童話があったと、私は記憶しています。それは、自分の影を売った男の話です。自分の影さえ売れば、あるいはその影さえ買わしてもらえば、思うことは何でもその望みをかなえてくれる。ま、こうした人が出てくるわけです。魔法使いと思ってもいいです。魔法使いが現れてきて、「何々さん、あなたのその影を売ってくれ」と言うわけですね。影を売るぐらいなら、どうってことはないと思いますね。

みなさんは日々生きていて、自分に影ができているということを、考えたことがないでしょう。どうですか。この読者、この本の読者、何万人もいるでしょうが、その何万人の読者のなかで、自分に影があるということを考えたことがある人、何人いますか。それは、何十年か生きた人生のなかで、過去何回かは考えたことがあるでしょう。しかし、毎日毎日自分に影があって有り難いなんて思う人がいるでしょうか。いないんじゃないでしょうかね。影があることなんか考えたこともないでしょう。当然のことだと思うでしょう。

この影を売った男の場合も当然だと思ったんですね、「影なんかあってもなくても関係がない」、こう思ったわけですね。そして影を売り飛ばすわけです。自分の影を売り飛ばす。そうすればお金が入ってくる。あるいは、思うことを何でもかなえてくれる。こういうことですね。これで生きていくわけですね。

ところが、他人に影がないことを気付かれる。「お前、影がないぞ」と言われますね。影がない人間というのは、まるで幽霊みたいなものです。そうしたことを言われる。そうすると今度は、影がないということを非常に気に病んでくるわけです。お金をいくら積まれても、宝石をくれても、影がないのでは、人間として生きていく基本的人権がない。こういうことで、その男は非常に悩むわけですね。ま、こうした話を面白くおかしく、教訓を込めて説いた話がありますけれども、こうしたものなんです。

読者のみなさんで、自分に影があることを感謝した人なんか一人もいないけど、影がないとなったらまた困るんですね。往来を歩いていて、もし「お前、影がない」と言われたらどうしようか。デートに誘われていって、「あなた、影がない」って言われたらどうするか。そういうことですね。パーティーに行って、「影がない」って言われたらどうするか。子供であっても、子供たちは注意深いから、友人に影がなかったりしたらびっくりしますね、「お前、影がない」ってことを言います。大変です。学校へ行けなくなります。登校拒否です。こうした基本的なこと、普段感づきもしないようなことでも有り難いのですね。こうしたことが人間の盲点になっています。

あるいは、昔、王様でね、やはり魔法か何かは知りませんが、こうしたことをかなえられた人がいますね。指先で触(さわ)ったものが、すべて純金になるという魔法ですね、こういう魔法をかけられた。そうしたら、王様はうれしかったのですね、触ったものがみんな金(きん)になっていくんです。山に触れば山が金になる。家に触れば家が金になる。川に触れば川が金になる。こんな有り難いことはないですね。自分は世界一の大富豪になった。これで喜ぶわけです。

ところが、自分の愛する娘、お姫様がいて、このお姫様を抱きしめた時に、お姫様が金になってしまうのです。金の像になってしまって、もう還(かえ)って来ない。ま、これで王様はさめざめと泣きに泣くわけです。こうしたことがある。

触れたものがすべて金になるっていうのは、非常に素晴らしいことのように思うけれども、自分の愛する者を、抱きしめることができないわけです。愛する者に触ることができない。これがどれほど辛いことか。

みなさん方は、純金とか欲しいでしょう。純金でなくたって、お金でいいですね。福沢諭吉さんの肖像画のあるお札でいいけれども、欲しいと思うけれども、触ったものが全部お札になったら素晴らしいと思うでしょうか。触ったらすべてお札になるような、そういうことがあったら大変なことになりますね。

たとえば誰でもいいですけれども、あなたの親友と手握ったら、その親友がたちまちお札の山になる、こんなことになったらどうなりますか。大変な世界ですね。こういうふうにならないということを、みなさん喜ばなくてはいけない。たとえば、お米とか麦とかなりますが、お米の代わりに稲にですね、お札がなったらみなさんどうしますか。最初は嬉しいでしょう。「うちの田んぼにお札がなった」って言うけれども、お札ばっかりがもう全部なったら、どうしますか。食べ物どうするんですか。お札がいくらあっても、食べ物がなかったらどうにもならないですよ。

こうしたこと、つまり「足ることを知る」ということをね、人びとは忘れがちです。現在の自分のことを当然と思わないで、たとえば影があることを感謝するような人がいますか。自分の手に触(ふ)れたものがみんな純金にならないことを、感謝する人がいますか。けれども、もしそういうことがあったら、それは大変な苦しみになるということは、これは事実なんですね。その事実に目をつぶってはいけない。

私たちが当然と思ってること、何も与えられていない、恵まれていないと思うことのなかに、実は大いなる過ちがあるということを知らねばなりません。今の時代に、この地球に、人間として生まれるということ、この有り難さというのは、なかなかみなさんにはわかりません。動物たちや昆虫たちから見たら、人間に生まれるということはどれほど幸福であるか。それをみなさん考えたことがあるでしょうか。これを知った時に、やはり、幸福感というのは大きく変わってくるのではないでしょうか。私はそう思いますよ。きっとそうだと思いますよ。


4.魂修行の過程


さて、「足ることを知る」という話をしてまいりましたけれども、結局ね、こういうことなんですよ。私たちは幸、不幸というものを単純に考えることがあるけれども、やはりね、人間にはいろんな人生経験があっても、それをすべて魂修行の過程として捉(とら)えていくという観点、こういう観点が基本的に必要なんですね。この観点を忘れた時に、不幸が始まっていくのです。不幸がね。やはり不幸ですよ、こういう観点を忘れたら、これはまったくの不幸です。

魂修行はね、やっぱりね、いろんなものがあっていいですよ。みなさんが思った通りのことが起きないかも知れないけれども、思った通りのことが起きない、そういう現実であるからこそ、また、生き甲斐があるんですよ。

たとえば、異性であってもね、なかなか思った通りにならんでしょう。たいていの人が結婚するまでの間に、まあ五人や六人にはふられるわけですよ、現実ね。まあ、初恋の人と結婚するっていう人もいるでしょうが、まあ非常に稀(まれ)な場合です。初恋の人と結婚したと言いつつ、結婚してからでも他の女性を見たり、男性を見たら、「ああいう人と結婚すりゃあよかったなあ」と思うことはいくらでもあるんです。やはりこれは現実です。だから世の中、そんなにうまくいかんのですね。うまくいかないことがいっぱいあります。けれども、そうした現実であってもね、やはり魂修行の過程ということでは、意味があることがあるんですね。

たとえば私なんかでも、おもちが非常に好きだとしますね。おもちが好きなら、稲の穂(ほ)におもちがなりゃあ、こんなにいいことはない。そうしたら正月のもちがいくらでも食べられる。できたら、稲の穂の先にあんころもちがなった方がいいですね。もちの中にあんこでも入ってりゃあもっといい。あんこだけじゃ嫌だから、ときどきね、あべかわもちがなったりね。それから、青のりですか、青のりが入ったもちがなったりね、丸もち、角もち、いろんなおもちがなったらいいなあと思うかも知れないけれども、やはリね、お米として取り入れて、脱穀(だっこく)してね、まあめんどうくさいけど、それで御飯炊(た)くわけでしょ。炊いて、臼(うす)で叩(たた)いてね、そしてこねて、もちにしてね、そしてみんなが「正月だあ」と言って祝って食べるんでしょ。これは大変無駄なように思いますよ、現実にね。稲の穂にもちがなりゃあ、こんな簡単なことないんだから。しかし、実際はそうはならないわけです。

それが果たして無駄かどうかというと、これは無駄じゃないんだね。その過程でいろんな人が働くわけだけれども、創造の喜びというものをみんな味わっているわけだ。ね、こうしたもんですよ。家なんかでも、天上界でいやあ、思ったらパンと建つんですね、心のなかで思ったらパンと建っちゃう。ところがこの地上ではなかなか建たない。まず、お金儲けなきゃいけない。しっかり働いて、金がたまって、銀行からローン借りて、そして大工さん頼んで建てるんでしょ、一年かかってね。そういうふうに不自由だけど、そこになんか喜びがあるんだな。

すなわちね、僕はこういうこと言ったらいいと思うんだよ。今、自己実現流行(ばや)りだけど、自己実現までに時間の差があるね。実際に思ってから、願いが成就するまで時間の差があって、その間なかなかトロトロして進まないように思う。それは非常な苦しみのように思うけれども、その苦しみの途中でね、やっぱり何て言うかな、魂に輝きが加わる。ま、こういうふうに僕は思うんだよな。苦しみの途中で魂に輝きが加わってるよ。実際、そう思うね。その魂の輝きがね、結局、その人の何と言うかね、悟りと言ってもいいし、幸福とも言ってもいい。そうしたものになっているのではないかな、魂の輝きっていうのが。結局そうだと思うよ。魂が輝けば、そこにね、やはりひとつの悦(よろこ)びがあるんだよ。

だからね、みんなね、ユートピアの話してるわけだけれども、ユートピアというものも、ポコーンとね、出て来りゃそれでいいわけじゃないんだ。理想的な家庭なんて、ポコッと出て来りゃそれでいいんじゃないんだ。努力してつくっていく。その間、時間がかかるけれども、努力してつくっていくところにね、本当に素晴らしいものっていうのが拓(ひら)けるんだよ。そんなもんなんだよ、みんなね。それを知らなきゃいけないよ。


5.オーラによる尺度


さて、ユートピアの基礎として、心の問題をいろんな角度から話してきたわけだけどもね、ま、そのユートピア度、どの程度のユートピアになったか、これを確かめる方法として、私はひとつの提案と言いますかね、方策があることを、お教えしておきたいと思うんですよ。

それが何かって言うと、結局ね、オーラだな、オーラによる尺度です。これなんですね。それがあるからやれるんですね。

すなわちね、ま、二千五百年の昔に、釈迦弟子になるには、一週間、山の中で禅定(ぜんじょう)して、反省して、頭からオーラが出なければ入門が許されなかった。まあ、そういう厳しさがあったわけですね。そういう難しいオーラによる判定というのが釈迦教団にはありました。

このね、オーラっていうのは非常に正確なものなんです。霊視できないみなさんにはわからないでしょうが、非常に正確なものであって、その人の後光の部分ですね、頭の後ろに出ている後光の部分の量、これを視(み)ることによって、如何(いか)に心が調和されているかがわかるんですね。すなわち、その人の心のユートピア、内心のユートピアという問題をとった時に、どれほど調和されているか、ユートピア度が高まっているかっていうのがわかります。心の調和度によって、このオーラの量が違うんですね。

オーラってわかるかな。仏像を見ると、たいてい後ろに立ってるでしょ、なんか金色にピカピカピカしたものがね、背中に立ってるでしょ、あれがオーラなんですよ。霊視で見ると、ああいうふうに金ピカのオーラがあるんだな。これが普通の人だと、まあ体からちょっとだけ出ている程度だけれども、心が調和されるにつれてね、段々大きくなっていくんだな。

霊界くらいの人だと、まあ体の周り十センチくらい出ているかもしれないけども、これがたとえば菩薩になってくるともっと大きくなってくるね。神界の人で、まあちょっと頭の周り二、三十センチぐらい出ていることがあるけれども、菩薩になってくるとポコッとね、ちょっとお盆みたいなのが出ることがある。如来になってくるともっと大きいですね。全身がポコーッと光の束ですね、丸い光の束みたいになってますね。こういうふうにオーラの大きさが違います。

こうしたオーラの大きさによる尺度でね、その人の心がどれほどユートピア化しているか、こういうことがわかりますね。だから隠せないのですね。特に霊的な能力を持った者には隠せないのです。

また、地獄霊にはオーラなんか絶対出ていません。これを特に言っておきたいと思います。たまにはね、地上界にも如来、菩薩を騙(かた)って地獄霊たちが出て来ることがあります。出て来ることがあるけれども、彼らの姿を視ていると、このオーラがたいてい青光りをしていたり、暗いものが多いです。妙なオレンジ色をしていたり、赤黒い光を放っていたり、そんなことがありますね。動物霊たちが出すようなオーラっていうのは、みんな赤黒い、青い色ですね。

だから霊視ができて、「青い光が見えた!」なんて得意がっている人ね、青い光なんか視えたらたいてい違ってますよ。こんなの動物霊がほとんどですよ。動物霊が化けてるんですよ。「青白い光、見た!」とかね、こういうの危ないですよ。本当のオーラっていうのは金色ですよ、金色しかありませんよ。金色、眩(まばゆ)い金色、あるいは淡い光ね、こういうのが出てるんです。ね、青い光や、黒い光や、赤い光やあなた、緑色とか、こんなの出ちゃだめですよ。絶対だめですからね。ま、こういう「オーラによる幸福の尺度」、これがあるんですね。

ま、これによってね、その人の心がどれほどユートピア化しているか、これがわかりますね。こうした、オーラに満ちた、金色のオーラに満ちた人びとが一人でも多く出ること、これが大事です。もちろん、オーラのなかにはいろんな色、色彩がありますが、心に応じていろんな色彩があるけれども、まず、金色ですね、金色のオーラを出さなければ、本当に心は調和されたとは言えない。ま、こういうことを私は言っておきたいと思います。

以上でね、本章「ユートピアの基礎」として、個人の心の領域について話をしてきましたが、やはり出発点はここですよ、いつもここに戻ってくるんですよ。これから後、大きなユートピア、全体のユートピアの話もしていくけれども、出発点はいつもここにある。個人の心が出発点である。そして、いろいろやっててうまくいかなくなったら、また、この個人としての「ユートピアの原点」「ユートピアの基礎」、ここに戻ってくる必要がある。これをね、くどいけど、何回も何回も僕は言っとくよ。