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目次

 1.愛を考える








(1988年4月17日の霊示)

1.愛を考える


またね、私の苦手(にがて)な領域で、愛という領域ですね、これについて話をしたいと思ってます。

まあ愛とはね、本当に難しいものです。なかなかね、何千年、何万年、あるいは何億年勉強しても、愛の真髄というのはわからないですね。本当にね、愛というのは、それだけ深みがありますね。

みなさんは小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、いろんな勉強されて、もちろん素晴らしい成績を修めてこられた方々ばかりだと信じていますけれども、そうした方々でも、ひとつの学問やってたら飽きがくるでしょう。やがて嫌になったりするでしょう。まあなかには学者さんみたいに、一生研究ばっかりしている人もいるけれども、たいていの人は学問ばっかりしたら嫌になってきますね。ところが、この愛ということはね、勉強しても、勉強しても飽きが来ないんです。

神様っていうのは、非常に巧妙にいろんなことを考えているもんだなあと、私はほんとにつくづくと思いますが、この愛、まさしくその通りですね。考えても、考えても、尽きることがない。愛とは何かと言ってもね、これがなかなかわからない。もちろんイエス様みたいな愛の大家もいるけれども、愛の大家をもってしてもね、人間の数だけの愛のあり方があるから、それをいちいち指導することは非常に難しい。そうではないかと私は思ってます。

ひとつの教材ですね。文部省認定じゃありませんが、神様認定の教科書があって、そしてその教科書には、開けてみるとね、扉に一言、「愛について学べ」と書いてあるんです。「愛について学べ」と書いてある。そしてその愛について学ぶ、どういうふうに学ぶかということは、なんにも書いていないんですね、なんも書いていない。ただ一言「愛について学べ」と書いてある。これについて、人類は随分長い間苦しんでもきたり、あるいは楽しんでもきたり、悩んでもきたり、喜んでもきたり、いろんなことをしてきたわけなんです。

ま、愛とは何かがわかれば、だいたいまあ地上も卒業ですよ。これがね、本当にわかったら、だいたい卒業です。愛のね、テーマはいろいろありますが、人間の間(あいだ)の愛、人間と動物たちとの愛、あるいは社会愛、人類愛、あるいは高級霊への愛、神への愛、そして神の愛としての慈悲、いろんなものがありますが、こうしたことを全部学び尽くしたら、ほんとに卒業だと思います。一度、この世界観というものを愛という観点からね、もう一度とらえ直し、再構成し直してみるとね、面白いところがいろいろ見えてくると思います。

戦争なんてのも非常に馬鹿馬鹿しいと思うけれども、あれもひとつの愛が、まだ発展中の過程なんですね。自分の村、あるいは国でも何でもいいですが、仲間を守るという愛と、相手は相手で自分の仲間を守りたいという愛、この愛と愛とがぶつかり合っているのですね。アメリカはアメリカで自分たちを守ろうとする愛があり、ソ連はソ連で自分たちを守ろうとする愛がある。この愛と愛とがぶつかり合うとどうなるかって言うと戦争になってくるんですね。

この原因はどこにあるかと言うと、愛についての、まだ発展が足りない、認識が足りない。こういうことですね。愛が小さな範囲のなかで、グルグルと回っているわけです。したがってね、こうした愛は、本格的に神の愛から見れば、まだ小さい小さい愛だと言うことができるのです。

さて、この愛を考える際に大事なポイントというかね、それについて僕はちょっと言っておきたいと思うんだな。それは、結局、こういうことなんだよな。人間の本質的な部分に非常に関係があるっていうことなんです。

たとえば、私だって一応、高級霊ということになっていますし、光の大指導霊の一人だというふうに言われているわけだけれども、じゃあ私は、たとえば読者のみなさんが「高橋先生大好きです」と言ったら、嬉しくないかっていったら嬉しいね、やっぱり嬉しい。「高橋先生の本読んでためになりました」と言われたら、やっぱり嬉しい。「高橋先生の本読んでがっかりしました」って言われたら悲しい。「高橋先生の本読んでますます尊敬しました」と言ったら嬉しい。「高橋先生の本読んでつまらん男だと思いました」って言われたらがっかりする。こういうことあるわけですね。ただこれは、単なる自己保存かというと、そうでもないんだよね、そうでもない。

なぜそうでもないと言えるかっていうと、人間の心の構造の基本的な骨組みのなかに、こうした他人からの愛を受けたいという部分があるんだなあ、ある。なぜ受けたいかと言うとね、やはりね、心というのはね、車のガソリンタンクみたいなものでね、どんどんガソリンが滅っていくんですよ。ね、車だって走っているうちにガソリン減っていくでしょう。そして時どきガソリンスタンド入って、ガソリンの補給をしなきゃいけないね。こうしたもんなんだなあ。

すなわちね、愛というのは人間として、人間が生きていくためのね、ガソリンみたいなところがあるんだよ、燃料みたいなね。これがなければ、砂漠に咲いたサボテンみたいなもので、ほんと可哀相なものなんだ。愛があるから走り続けることができるんだよ。人間は、やっぱり自分が人から愛されていると思うから、走っていくことができるし、人から大切に思われていると思うから、生き甲斐があるし、重要な人物だと思われると、しっかり働くんだよな。そうしたところがあるんだ。

だから「お金が欲しい」と言ったって、本当はお金じゃない。お金で換算されている、自分の重要感が欲しいんだよな。こういうふうにガソリンが欲しいんですよ。車と一緒で、人間というのはガソリンがなかったら走れないようになってるんだなあ。すべての人から嫌われて、それでも生きていくだけの強い人は、そんなにはいないんだよね。

つまり、愛っていうのはね、やはり人生のガソリンだという部分、薪(まき)であり、石炭であり、石油であるという部分、これを忘れちゃいけないよ。だから、もちろん人を愛するという与える愛、これがより高度な愛としてあることは、みなさんもいろいろ本を読んで学んでいるけれども、基本的にガソリンだという部分、愛はガソリンであって、これの補給が必要だということ、これを忘れてはいけない。僕はそう思うね。


2.理想的男女愛


さて、ガソリン的観点から愛を考えておりますが、「理想的な男女愛」っていうことについてもね、私から言ってみたいと思います。

まあ、「高橋信次が理想的な男女愛なんて言えるのか」ってね、「そんな資格あるのかい、君に」って言う人いるでしょう。生前の私のことを知っている人もまだだいぶ生きてますから、その辺についてはね、一言(ひとこと)言いたい方はいっぱいいるでしょう。たとえば「それほどあなたは奥さんを愛しましたか」なーんて言われると、私だってね、随分苦しいですね、返事に苦労する。

「奥さん孝行したか」というと、うーん、したような気もするけど、してないことの方が多い。十分に愛さなかった、尽くさなかった、可愛がってやらなかったっていう気持は、未(いま)だにありますね。奥さんとパンツのゴムひもは強いほどいいっていうような感じで、まあ使いでがあると言ってるような感じでね、接していたこともあったなあと思います。ま、そうした私です。

だから人様にね、「理想的男女愛」について、それほど言えるとは思いません。ただ、地上を去って十数年たった今ね、多少なりともみなさんよりも、わかる範囲も多いし、霊となった今、人間の愛というものを、もう一度こちらの世界に還(かえ)って、考え直す機会というものを与えられています。

そうした立場に立って考えてみるとね、僕はね、やっぱり男女の愛って素晴らしいもんだなあーっていう感じも、随分強くなってきました。執着という観点でとらえる見方も、もちろんひとつあるし、それにもそれなりの説得性があることは事実なんだけども、それだけじゃないね。やっぱり、それだけじゃない。やはり素晴らしい面があるよ、男女の愛にね。よくぞこんなもの創ったなーと思うところがあるね。

男同士が愛し合う、女同士が愛し合うって、なんか変ないやらしい感じがあるけど、男女がね、理想的な男女が愛し合う姿を見て、なんかいやらしい感じがあまりないんだよね。微笑(ほほえ)ましいっていう感じが随分あるね。これはね、やっぱり僕は素晴らしい神様の傑作だなあーと思うね。男女があるということ、男と女があるっていうこと、これ傑作だなあーって思うね。この愛、補完し合う生物がいるということが、そもそも神様が宇宙の仕組みとして愛というものを考えているっていうことを、痛切に感じさせるんだよね。

みなさん、夫婦が仲良いのを見て、何か文句ありますか。ま、羨(うらや)ましいっていうことはあるだろうけど、いいねえ。また若いカップルが仲いいのも、やっぱりいいですね。彼らは本能で動いているかもしれないけれども、ただ、やっぱり僕はいいなあっていう感じを受けます。

結局何がいいかって言うとね、一緒にいるだけで嬉しいっていう感覚、これがなんとも言えないですね。そういう感覚なんですね。たとえばみなさん、家のなかにヘビがいたらどうですか、いい気持しますか。お風呂のなかにワニがいたらどうでしょうか。気持がいいでしょうかねえ。あるいは、床の間にフクロウなんかいて、目ギラギラしていたらどうでしょうか。あるいは、寝室のなかに蚊が一匹飛び込んだだけで、どうでしょうか。いやでしょう。

ところが男女というのは、お互いにいるだけでいい。相手が側(そば)にいて話ができる。あるいは手を触れ合ったりね、語り合ったりできる。これが嬉しいんだなあ。こうしたことがありますね。これを見て、よくぞ創ったりと思いますね。こうした傑作ですね。神様の傑作だなあと僕は思います。

だからなんというかなあ、そこにね、僕は神のね、神様のなんていうかなあ、いちばんあったかいものを見るんだなあ。この世の中に悪があふれているとか、闘争と破壊の世界だというけど、男女が睦(むつ)み合って、互いに励まし合ったり、愛し合って生きている姿を見た時に、なんて言うか、なんとも言えないほのぼのとしたものを感じます。

ここに、神様っていうのはほんとにあったかい人なんだなあというかね、人って言ったらおかしいけれども、あったかい気持がある方だなあと思います。みなさんいろんな不幸な感覚もあるし、不幸な体験もあるかも知れないけれども、あれだけ多くの愛を生み出している、若い男女の幸せを生み出している神様っていうのは、非常に心根のあったかいところがある方だなあと、僕はそう思います。

だから理想的男女愛っていうのは、結局、一緒にいて生活しているなかに、やっぱり神様の微笑(ほほえ)みを感じさせる、神様の微笑みですね、神様が微笑みかけているような感じ、これを受けさせる男女だな。こういう男女でありなさい。お互い喧嘩(けんか)ばかりしていないで、微笑みをね、神様がニコッと笑いかけるような、そういう男女であってほしい。これが理想的だね。ま、具体的条件はいくらでもあるけど、まあそんなことはどうでもいいよ。こうした男女でありなさい。僕はそう思うよ。


3.男女愛の発展


さて、そうした男女愛だけども、仲睦まじく生きたら、それでいいのか。それだけで果たして十分なのか。それ以上に何か必要とされるものがあるんじゃないか。「愛の発展段階」なんて説くような人もいるから、男女愛だって何かの発展段階があるんじゃないか。ま、こういうことを、僕も考えてみたいと思うんだな。

男女の愛って何かなって考えると、まあ恋人の愛があって、それから夫婦愛があるよね。夫婦愛があって、そしてまあそのなかから親子の愛なんかも出てくるけれども、家族愛っていうか、家庭愛、こういうものが出てくるけれども、この男女の愛の発展があるかないかだけど、僕はあると思うんだな。

それは単に、お互いの存在を好ましいものというか、一緒にいるだけで楽しい、嬉しいっていう感覚から、やがてそれが、社会に対する責任感や義務感に変わっていくところがあるんだね。それは何かっていうと、夫婦が協力してね、一緒になって頑張っていこうっていう瞬間だな。こういうことがあるだろう。

たとえば、今、僕はこちらから、こうした神理の書を問い続けているわけだけども、これを読んで、やはり神理の縁に触れて、一緒に頑張っていこうとする神理家族というか、夫婦がいます。夫婦共に頑張ってね、この神理を広めていこう、伝道していこうと思っている姿、努力している姿を見るとね、時どきポロッと涙が出てきます。涙もろいですから、ポロッと涙が出てきてね、嬉しいね、嬉し泣きしちゃいます。夫婦でよくやってくれてるなあと思ってね、本当に嬉しいなあーと思うことがあります。

だからね、本当の男女愛っていうのは、まず最初の段階ではね、他人を排斥(はいせき)するっていう段階もあると思うんだな。他人の介入を許さない。水入らずって言うね。夫婦で水入らずで愛を確かめ合う段階があるけれども、これがある程度時期を過ぎていくと、次の段階はね、夫婦ともども、手を携(たずさ)えて社会に貢献していきたい、あるいは神様のために働きたい、こういう段階があるんじゃないかなあと僕は思います。ここまでいかなきゃ嘘ですよ、お互いにね。

1十1が2になっているだけでは、本当の男女愛としては完成した姿じゃないと思うんだね。男女が子供を産む、卵を産むように子供を産むだけでもっていいっていうんじゃない。男女愛の発展はね、やはりこれは、社会に対する大いなる還元だと僕は思います。男一人、女一人で生きていくのに比べて、男女が結合するということによって何倍も強くなるところがあると思う。

体制が固まり、磐石(ばんじゃく)になり、男はますます仕事にやりがいが出、奥さんは奥さんでね、家庭を守っていってもり立てていく。一家をもり立てていくということにね、ものすごい生き甲斐(がい)を感じる時があります。こういう時は、世の中に対して、あふれてきた力でもっていろいろと還元していくことができると思うんだな。僕はこれが大事だと思います。

すなわち、男女愛の発展には、やはり社会への還元がある。社会への還元をなんら生まないような男女っていうのは、何かそこに独占の臭(にお)いがあり、排他の臭いがあり、嫌な臭いがあると思います。やはり、純粋なる結晶、愛の結晶が、さらに次なる大きな結晶を生んでいく、人びとへの愛を生んでいく、こうでなければいけない。

本当の仲睦まじい夫婦というのは、それが存在するだけで、隣り近所や友人たちへもいい影響を与えていきます。仲睦まじく社会のために奉仕しようとしている男女は、カップルは、やがて、他の愛を生んでいきます。他の幸福を生んでいきます。僕はそれが、とても大事なことではないかと考えるのです。


4.人への愛と社会への愛


さて、こうしてみるとね、愛にも発展という概念を通して、二通りの方向性があると思うんだね。ひとつは「人への愛」だね。人への愛という面がある。もうひとつは「社会への愛」という面だな。この両方の面がある。僕はそう思います。

さて、「人への愛」、これは何かっていうとね、ま、相手、自分の片割れだね、魂の片割れへの愛もひとつだけども、それ以外に他人さんへの愛っていうのがあるね。イエス様の言うような「汝の隣人を愛せよ」「汝の隣り人を愛せよ」と、まあこういう愛があるね。ま、この愛は非常に難しいです。奥さんを愛するとか、子供を愛するというような間違いのない愛と違って、隣人を愛する、隣り人を愛するっていうのは、これはまあ非常に難しい面があるよ。難しいんですね。

変にやると他人を駄目にしてしまったり、他人の何というかね、自立心をなくすっていうこともあるんだね。この愛の難しさね。知恵をもって与えるっていうことの大事さです。じゃあ与える愛がいいからって、財布ごとみんなに配ったらいいかっていったら、そんなことないですね。それが必ずしもいいことじゃない。知恵をもって与えるということが、何にもまして大事なこととなってきますね。知恵をもって与える。これが、人への愛において、大事な観点だと思います。

知恵をもって与えることをしないと、大変な誤解を生み、人のために尽くしていると思うこと、奉仕していると思うことが、実は悲惨な結果を招くことがあります。「あんなにしてやったのに」ということですね、よく言います。「あれほど尽くしてやったのに私を裏切った」「あれはどやってやったのに感謝をしない。恩知らすだ」、こういうことはいくらでもあるんですね。

人間っていうのは基本的に、私は思うんだけれど、恩知らずですよ。基本的に恩知らずだと思っておいたらいいよ。間違いがない。自分が人にしてあげたことなんかはよく覚えているけど、してもらったことはすぐ忘れるんですよ。だけどこれはね、人間っていうのはそういう生き物だと思っておくのが間違いがないですね。だから「人への感謝がない」なんて、あまり強制してはいけないね。自分が感謝するように努力することは大事だけれども、人の感謝がないっていうこと、感謝、見返りを求めて努力することはよくないね。

だから、つまりこういうことなんだ。大事なのはね、知恵をもって与える。本当にその人の進歩にとって役に立つか。こうした面があるっていうことだね。これを人への愛ということで、特に注意してほしい。このように僕は思います。

あとね、「社会への愛」というのがあります。これは難しいですが、ここの部分で、その人のね、器(うつわ)が問われるんですね。いわゆる善良な人には自分の努力でなれるけども、社会への愛っていうのはね、単なる自分の内なる努力だけではなくて、外的なる行動力だね、これが必要ですね。社会への愛というものを体現していくためには、これを発揮していくためには、外に向けての行動力が大事です。この外に向けての行動力がなければ、社会への愛というのは実践できません。

社会への愛って何か。まあひとつにはこれは職業だね、これを通してやっていくということが大事です。どんな職業も神へ通じる道があると言われますけれども、まあ福沢諭吉かなんかも言っていたね、「この世でいちばん辛いことは、職業を持たないことだ」というようなことを言ってたと思うけども、それは確かにその通りでね。職業っていうのは金を生むかどうかっていうことはまあ別にして、やはりなんらかの世の中への貢献という道がなければ、辛いです。それは実に辛いものだと私は思います。

だから、職業のなかでいちばんいけないのは、その職業自体が人を害するような、そうした傾向のある職業だね。これだけはやはり、私はちょっと我慢がならないっていう感じがしますね。もちろん完全なる善だけの職業っていうのはないけども、いいところと悪いところと比較してね、社会を害するところの多い職業っていうのは、これは早目に転職した方がいい。まあこう思います。

だからまず、社会への愛としてはね、職業です。職業を通じて人びとを良くしていく、そういう努力が大事であろうと思います。

社会への愛の第二は一体何かというと、これは職業を離れた部分での活動だね。奉仕と言ってもいい。こうした部分だね。こうした時間を持てる人というのは、僕は実に立派だと思います。他の人びとの進歩のために、進化のために時間を持てる。こういう人びとは本当に素晴らしい。そのように思います。

これからはね、みなさん、神理の時代ですよ。でも職業だけではね、なかなか神理を織り込んでいく、盛り込んでいくっていうことは非常に困難です。けれども、職業を離れた領域において、社会に還元していく、人びとに還元していくことは可能だと思います。特に土日であるとか、普段の夜とかありますね。こうした時にしっかり神理を勉強してね、そして多くの人びとを導いていく。こういうことが大事であろうと思います。

だからね、僕の本読んだらね、ただ読みっ放しにしないで、これはいいと思ったその内容を人に教えてあげて下さいよ。僕はそう思うね。「『高橋信次の新ユートピア論』面白かったなあー」といってね。ポイッとゴミ箱に捨てたりしないで、あるいは恥ずかしがってね、本棚のなかに寝かしておかないでね、やっぱり僕はこれを広げてほしいと思いますね。多くの人に読んでほしいです。

僕がこれだけ声をふりしぼって話してる内容はね、できるだけ多くの人に、一人でも多くの人に、神理を知ってほしい、読んでほしい、一行でも多くの神理を語りたい、こうした気持が僕の心のなかにあります。だからこそ、この本で何冊目になりましょうか、九冊目になるかと思いますけれども、これだけ矢継早(やつぎばや)に本を出してるんですね。これは、私の愛ですよ。人びとへの愛、社会への愛、残された人類への愛です。それゆえに私はやっています。

こうして霊言を出すことによって、私は得ることはないんです。私がお金を儲けることもなければ、あなた方が称賛しても、それを直接私がみなさんの前で表彰されるというようなこともありません。ただ縁の下の力持ちとして、私はみなさんになんらかの愛を与えたい。こういう愛もあるんですね。これも社会への愛だと思います。

こうした社会への愛の発展形態として、やはり「神への愛」があると思う。神への愛というのがあるけれども、これは神への愛というものが純粋にあるかといったら、そうじゃない。やっぱり人への愛と社会への愛、この二つの両輪だな、両輪を通して神への愛というものがある。ま、僕はそう思います。だから、そうした考え方を大事にしていただきたいと思います。


5.愛とユートピア


さて、愛についていろいろ語ったわけだけれども、「愛とユートピア」という命題だね、これについても語っておきたいと思います。愛は、ユートピアづくりに不可欠かどうかという考え方です。ま、結論から言えば、僕は要ると思うね。ユートピアに愛は必要、そのように感じます。

結局ね、ユートピアっていうのは、ひとつの立体的な建造物だと僕は思うんだね。立体的な建造物だと思う。で、愛っていうのが何かっていうとね、愛っていうのは、やっぱりセメントだね。セメントであって、ま、レンガとレンガをくっつけたりね、鉄柱と他の材木をくっつけたり、いろんなことするけど、まあ、セメントあるいは壁土みたいなね、そういうふうにいろんなものをくっつけていくもんだなあ。これが愛じゃないかねえ、僕はそう思うよ。もちろん釘であったりすることもあるだろうし、綱や縄であったりするようなこともあるだろうけども、こういうふうに結び付けていく力が、これが愛だね。

ユートピアっていうのは、ひとつの建造物ですよ。社会的な建造物だ。そうした大きな建造物だと思うんだな。あるいは知的生産物と言ってもいい。あるいは人間の行動による生産物といってもいい。それがユートピアであると思うんだね。ユートピアは結果だな、結果。そしてユートピアを生むための、人と人との力を結合させるためのもの、それが愛じゃないかと思うね。

結局ね、他の人を良きものと思い、もっと素晴らしくなってほしいと思う情熱、エネルギーがなければ、社会は良くなることはないんだ。そうした情熱がなければ、私たちが霊示集送ることもない。そんな意味もないし、それを読んで、熱意に燃えて人びとに伝道する意味もないことになる。ユートピアをつくるためには、やはり、多くの人たちのために尽くしたいという愛、これがあるし、こうした仕事に終わりというものは決してないと思う。神の心も、すべての人が幸せになってほしいという心だし、高級霊たちの心もまったく同じであり、できるだけ一人でも多くの人を、本当の意味で立ち直らしたい、素晴らしくしたい。こうした気持で生きています。これが神の心です。

したがってね、人間も小さな神、あるいは神のひとり子ではないけれども、神の分身として、あるいは神の子として生きているわけだから、ユートピアづくりのために、やはり愛というものを武器としてね、あるいは愛というものをかすがいとして、力強く立ち直っていく、立ち上がっていく必要があると思う。

どうだろうかねえ、愛と言ったら、結婚式のことばっかり考えている人がほとんどじゃないかね。僕はそれじゃいかんと思うよ。結婚式の時を離れた愛、新婚旅行の時期を離れた愛というのが、どうしても大事だ。そうした時に、醒(さ)めた時に、醒めた理性の目でもって、愛を実践できるようなみなさんであるかどうか。

愛というのはね、何かってわからなきゃ、それは優しい心だよ、一言(ひとこと)で言って。わかるかい、優しい心だよ。それが愛だよ。優しい心、ね。他人のことを深く思ってやる心。よくしてあげたいと思う心、ね。優しさですよ、愛っていうのはね、みなさん。一言で言ったら優しさだ。この優しさなくしては、ユートピアはないんだ。ユートピアっていうのはゴツゴツしたもんじゃないんだよ。優しいもんなんだよ。羊の皮のようなね、優しい手ざわり、これがユートピアなんだね。

だからいいかい、愛っていうのは優しい心だよ、真心だよ。これを愛というんだ、ね。その愛の心をもって、ユートピアづくりに励みたい。まあ私もそう思っているし、みんなもそう思っているだろう、ね。そうしたことを起点として、出発点として、さらにユートピアの思想について話をしていきたいと思います。