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目次



 3.救世の原点

 4.心の偉大性


 6.永遠の光




(1988年6月2日の霊示)

1.我が復活の意味


高橋信次です。さあっ、土屋書店さんのこの高橋信次シリーズも、いよいよ六冊目となりました。前回の『新ユートピア論』以来、一か月半になりましょうか、私もうずうずしておりました。とうとう次の本ができることになって、こんな嬉しいことはありません。

さて、まあねえ、みなさんね、私の本ももう何冊か読んでこられたと思うけれども、ぼちぼち私も本気になってきました。いや、本気になってきたと言うよりも、本腰を入れる気になってきました。何冊か面白おかしく語ってきたわけだけども、ぼちぼち本領発揮、ということでね、高橋信次の真骨頂(しんこっちょう)を出していかねばいかん。そういう時期が来たのではないか。そういうふうに思っています。だからね、まあそろそろ私も腕まくりをし始めた。こういうふうに思っていただいて結構かと思います。

いつまでも手加減はしないよ。バンバン攻めていきます。それは、地上にいるみなさんがね、本当に目覚めてないからだ。いつまで経ってもわからない。霊の世界があるということがわからない。本当にあの世の世界があって、そうした実在世界があるということがわからないでいる。何らかの宗教心は持っているのだけども、本当の世界についてぼんやりしている。そうした人のためにね、わたしは一冊でも多くの手引書を世に送る、送りたい、送り続けたい。こういう熱意を持っています。どんなことがあっても、この自己実現だけは果たしていきたい。

なぜならば、私はこの世を救うという、地上の人びとを救うという、そうした大いなる使命を持っているからです。この使命を果たさないでは、「高橋信次」として生きた意味がないのです。

何冊か私の本を読んでおられる方は、すでに私が生前どんなことをしてきたか、そうしたことも知っているでしょう。また、生前書いた本、『心の発見』の三部作であるとか、『人間・釈迦』であるとか、そうしたいろんな書物を読んで、私の生前の思想を理解した人もいるでしょう。また、霊言シリーズも、これで合計、他の出版社も合わせれば、十冊目ぐらいになると思いますが、ぼちぼち私の考えがどの辺にあるか、その辺がわかってきたのではないか、そのように思います。

結局、「高橋信次」という人間が、今世紀に、地上に、日本にと言ってもいい、生まれたという理由は、「復活」にその意味があったのです。このように、復活して、霊言を送るということ、これが私の今世紀に肉体を持った意味であったのです。

生前、地上にて「GLA」の主宰者、会長として、何年か法を説きましたが、その仕事は、「高橋信次」の仕事としてはほんの一部、最初の部分にしか過ぎなかった。地ならしにしか過ぎなかった。一鍬(ひとくわ)にしか過ぎなかった。そういうことです。生前の「高橋信次」よりは、霊となって以降の「高橋信次」のほうがおそらく有名になってくるでしょう。そうした人がいたのかということが、あらためて気付かれるようになっていくでしょう。これも計画通りであるわけです。

私がこのようなかたちで、霊示集を送り続けているということは、これはまさしく現代の奇跡であろうと思います。この奇跡はふたつの意味から成り立っています。

ひとつは、本人の証明ということを通して、本当にあの世の世界があるんだということを、霊があるということを、これを示している、見せている。こういうことです。

もうひとつは、姿、形なき神が地上に語りかけているのではなくて、つい最近、十数年前に地上に生きていた人間が、そして人びとに法を説いていた人間が、そのまま天上界に還って、天上界の新鮮な気持と、新たな法のもとに、地上に教えを伝えていく、流していく、供給し続けていく、こうした方針をとっているわけです。

みなさんはぼんやりと読んでいるかも知れないけれども、これは大変なことが起きているのです。それは、イエス・キリストが、今から二千年前にイスラエルで復活した時以来の、あるいは、それ以上の事件となっているのです。

みなさんは、イエスが復活したという事実を知っているでしょう。クリスチャンたちの多くは、それが肉体的に復活したかのように、ぼんやりと考えているけれども、それは肉体としての復活ではありませんでした。霊としての復活でした。けれども、イエスは復活してから人びとの前に、弟子の前に現れてみせたけれども、その後昇天していって、二度と人びとの前に現れていません。もちろん、最近、霊示集というようなものを出したりはしているかも知れないけれども、それも二千年も経って、彼自身の評価が定まってからのことです。

「高橋信次」という人間は、まだ生前のその評価が十分に固まっておりませんし、死後十年過ぎても、まだその評価は固まっていません。ただ、私の教えをひとつの流れとして、さまざまな宗派ができているということに対して、現在の人びと、宗教に関心のある人びと、宗教研究家たちも目を見張ってはいるようですが、いかんせん、まだまだその動きは小さく、まだまだその値打ちとしては、小さなものとして見積もられているように思います。

しかしながら、私の「復活」という事件は、おそらく今世紀最大の事件になっていくのです。みなさんはそれだけの事件だと思って、私の書物を読んでいるでしょうか。本当に今世紀最大の事件として、予定されているのです。そしてこれが世に認められた時に、この二十世紀の末に起きた、この「復活」、この事件の結果、今後何千年もの後々までの人びとに、死後の世界があり、魂があり、霊があり、高級霊があり、神があるということを教え続け、伝え続けるという、そうした大いなる意味を持っているのです。

私はそれだけの意味を帯びて、使命を帯びて、現在仕事をしているということをみなさんは知っているでしょうか。わかっているでしょうか。どれだけの情熱と、熱意でもってメッセージを送り続けているか。これがわかるでしょうか。

私の熱意は、一人や二人の人間を救いたいということではない。徹底的に、残らずに、現代の人びとを救いたい。できれば後世の人びとまで全部救いたい。地獄なんかなくしてしまいたい。地獄霊なんかすべて救いたい。そうした意味です。それだけの願いを持って、情熱を持って、今世地上界に肉体を持ち、また天上界に還っても、今、霊言を送っているのです。

どうか、この私の「復活」の意味というものを、よくよく考えていただきたいと、このように思います。


2.光は東方より


さて、現代という時代はさまざまな思想があふれ、また、世紀末であって、世紀末思想というものも流布(るふ)しているようです。そして、世界が暗くなるのではないのか。また、天変地異が続々と起きるのではないのか。大戦争が起きるのではないのか。そうした予言、あるいは予知、不安というものが人びとの心に広がっているように思います。

ここで私は、声を大にして言っておきたいことがあります。それは、「光は東方より」という言葉です。救世の光は、この東方の地から始まるのです。東方とはどこか。それは、この日本であります。

現代の日本に生きていて、この私の書物を手に取る人びとよ、私はみなさん方一人ひとりに言いたい。

みなさん方は今、大救世運動の現場に在(あ)るということを知らなくてはいけない。それだけの時代感覚を持っていなければならない。そうした時代の渦(うず)の最中(さなか)に自らがいるということを、知らなくてはならない。これを忘れた時に、大変な間違いが起きます。

何が大事だと言って、目の前で、これだけ大事な、何千年に一回の大事件が起きていて、これに気が付かないで、酔生夢死(すいせいむし)の人生を生きるということほど馬鹿なことはないのです。本当にこの大事業の意味を知った時に、みなさんはもう本当は、会社の仕事だとか、商売などやっておれないのです。それどころではないのです。

今から二千年前に、イエスがパレスチナ、イスラエルの方面に出て、法を説き始めた時に、湖の辺(ほとり)で網を打っていた漁師たちに、「我について来よ、網を捨ててついてきなさい。汝らは魚を捕るのはもうやめなさい。我に従い来て、人間を漁(すなど)れ。」こうしたことを言ったはずです。「魚を捕って商売をするのではない。そうではなくて、人を救う仕事をせよ。そのために我について来よ。家族だとか、親戚だとか、職業だとか、生活の不安だとか、そんなものに執(とら)われてはならん。人びとの心を救うという、この偉大な使命のために、我に尽くせよ。我と共に従い来よ。そして、偉大な救世運動を起こしていこうではないか。」そのようにイエスは威厳をもって言いました。

みなさん、しかし、現代という時代のこの危機的状況は、イエスの時代よりも遙かに深刻なのです。イエスのいたイスラエルの時代も、戦争といい、世の中の乱れといい、殺人や強盗や、そうしたものがいっぱいありました。けれども、その時代よりも、これから起きる時代の渦、この暗黒の時代の流れというものは、その数倍、数十倍、それだけの深刻さを帯びているのです。

そうした時代に、人びとの心に灯(ひ)をともし、そして世界を明るくしていこうという運動のために、馳(は)せ参(さん)じないということは、これは大変な間違いであります。本当にこの真実の法に触れ、真実の救世運動を知った時に、網を捨てて来なければいけない。すべてを投げ捨てて駆(か)けつけて来るぐらいの、それだけの勇気と、気力と、知恵がなくてはいけない。

みなさんはこの地上で、自分が生き易(やす)く生きようと思う、そんな心に執われてはならない。地上的なる執着に執われてはならない。我が身可愛さのためだけに生きてはいけない。そうではなくて、さて、どうやってこの運動のなかに身を投じていくか、これを考えていただきたい。

私がかつて指導した何十万人の人たちも、今、日本各地に散っておりますが、まだ、私のかつての羊たちは、羊飼いの声がわからないでいます。高橋信次がこうやって復活していても、その羊飼いの声を聞けないで、耳を傾けないで、集まってこない羊たちが数多くいます。そうした羊たちに対して、私は今一度、この岩の上に登って大声で呼んでみたい。

君たちはいったい何をしているのか。私が呼んでいるのもわからないのか。私が呼ばわっているのがわからないのか。我が声を忘れたのか。高橋信次があれだけ、生前、声をふりしぼって話してきたことを、君たちは聞いていなかったのか。学んだことはいったい何だったんだ。何を学んだんだ。忘れたか。

あれだけ自分の心をつくるということを、そして霊的世界の意味を、また、魂の重要性を説いてきた私の教えを忘れたか。私がさまざまなかたちで霊示を送っていても、まだ気がつかないのか。君たちは何をしているのだ。この大救世主の降臨に際して、大救世運動が今、起きようとしているその時に。

私がかつて、今から十年以上昔に、「GLA」という団体において説いてきて、人びとを教化した、この何十万人かの人びとを指導したという実績が、全く無駄になってしまうではないか。君たちは何をしているのか。君たちがそういうふうにして私の声に気が付かなければ、高橋信次の生前の四十八年間の意味がなくなってしまいます。それが無駄になってしまいます。

何のために私は四十八年、地上に肉体を持ったのか。そして晩年の七年、八年の間、死力を尽くして伝道したのか。過労で死ぬところまでいったのか。その意味がなくなるではないか。君たちは、私の死を無駄にしたいのか。私の死を無駄にしたくないならば、君たちはもう気付かねばならない。気付いて立ち上がらねばならない。

なぜ力とならんか。なぜ協力しないか。なぜ光の一端として地上に勇気を持って生きていこうとしないか。君たちは一体何をしているんだ。目を覚ませ。早く目を覚まさないでどうするか。


3.救世の原点


私は、今、本当に重要な時期が来たということを、君たちに伝えたいと思う。

もうのんびりしている時ではない。そういう時代認識を持たねばならん。人類に対する危機が迫っている。君たちは本当に、たとえば、高橋信次のこうした霊言・霊示集とか、イエス・キリストの霊示集だとか、モーゼの霊訓集だとか、あるいは仏陀意識の再誕の意識、再説の教え、こうしたものを学んで何とも感じないのか。これが持つ意味がわからないのか。

私は生前、話をしました。人類のなかでは高級霊は数多くいるけれども、釈迦、キリスト、モーゼ、この三人の霊こそ、地球系霊団の最高指導霊たちです。こういうことを教えたはずです。そして、イエス・キリストの過去世の意識、アガシャーという霊の名をとって、この地球霊団がアガシャー系と呼ばれているということを、そうしたことを話したことがあるはずです。そしてそのアガシャー系の霊団は、「愛」というものを旨(むね)として生きているということを、私は語ったことがあります。

今、イエスが「霊示」というかたちで復活をし、モーゼも「霊訓」というかたちで復活をし、また、かつてイエスやモーゼが地上にあった時に、エホバという名で彼らを指導した私が、地上に肉体を持ち、その後地上を去ったあとで、今、こうして霊訓・霊示集を送り続けているということの意味を、君たちは果たしてわかっているか。本当に私がどういう気持でもってやっているか。それがわかっているか。

まだこれだけ本を出してもわからないのか。まだ気付かないのか。本当の意図がわからないのか。私が何を望んでいるのか、何を願っているのか、それが君たちにはわからないのか。

そんないい加減な生き方をして、それでどうするのか。これからもまた今までのように、怠惰(たいだ)な日々を送っていくつもりなのか。天変地異が起きれば、その時はその時でいい、それまで楽しく人生を生きればいいというような、そんな享楽(きょうらく)志向で君たちは生きていくつもりなのか。本当にどうするつもりなのか。それをはっきりしていただきたい。私はそういうふうに思います。

君たちはね、そんな生き方で満足してはいけない。本当の人間の使命に目覚めなさい。何のために地上に出ているかということ、これに目覚めなさい。

君たちが、今、この地上に、この時期に、この日本に出ているという意味は、「救世」のために出ているのだ。救世の運動のために出ているのだ。特に、今の現代の日本に出ている数多くの光の天使たちは、この救世運動に合流しなければ、気が付いてやらねば、今世に出た意味がないということを知らねばならん。

かつて、「GLA」というところで私が指導していた時に、私のもとに光の天使が多数集まって協力をしていた。そうした人たちも、私が地上を去るや羊飼いを失った羊のように、あっちに散らばりこっちに散らばり、エゴの思いでもって利己主義者となって、自分の利益のためだけに生きている。そうした弟子たちに言いたい。

私は、今の君たちの姿を見ていると、本当に情けない。涙が出てくる。何のために出たのか。我が教えを全く学んでいないし、私が復活した時に気が付いて飛んで来ないようでどうするか。そんなことで、何を学んだと言えるのか。

ましてや、我が復活を疑い、それを妨害しようとするような動きに出るような人たち、弟子たち、こうした者は、私ははっきりと破門する。君たちのそうした馬鹿げた行為が、どれだけ君たちの師を悲しませているか。私がどれだけの情熱を持って今、復活しているか。君たちに教えを説かんとしているか。そして君たちに力になってもらいたいと思っているのか。

私が復活をし、霊示を送っているということは、ここを中心として救世運動が起きるということである。そして、かつての我が教えを受けた者たちも、どこかで合流して、力を合わせて、日本の国を変えていくために頑張ってほしいということ。私はそうしたことを祈っているのです。願っているのです。その師の願いが、何故(なにゆえ)に君たちにはまだわからないのか。

私は声を大にして言っておくけれども、救世の原点というのはね、人を救わんとする情熱だよ。人を救おうとする情熱を忘れた時に、人間は存在の意味がなくなるんだ。何のために地上に出たか、それを知れ。それは、今世で楽しい思いをするためだけではないはずだ。そうではなくて、こうした時代に出る時に、君たちが地上に出る前にどれだけ興奮をし、期待をし、喜びに胸をふくらませ、そうしたやる気で出たか。これを知りなさい。

「よーし、今回、地上に出る以上、徹底的に法を説くぞ。法の伝道を手伝うぞ。何とかして地上の人びとを、本当の人間の生き方に目覚めさせ、そしてあの世の世界の存在を教え、真のユートピアの何たるかを教えよう。」そう思って君たちは出て来たんだよ。

それを忘れて、安穏(あんのん)な生活のなかにあぐらをかき、会社の社長だとか、部長だとか、あるいはボーナスだとか、こんなものに目がくらんで、そして本来の使命をなおざりにしている。これで還って来て、実在界に還って来て、私にどう言われるか君たちは知っているのか。そんな生活でもって、君たちの師が「本当によかったね」と言うと思うか。

私もとうとう業(ごう)を煮(に)やしてきたということを、君たちは知りなさい。これが何冊目の書物であるか。私はもう忘れるほど喋ったけれども、まだわからんのなら何度でも言う。

私が、ここで霊言・霊示集を送っているということは、これが救世運動の中核であり、本流(ほんりゅう)であるということだ。この流れに合流せよ。この流れと共に歩け。この光の内を歩め。そうでなければ、本当に今世紀の事業はない。そうでなければ、高橋信次が肉体を持ったという意味はなくなる。

私の死を、あるいは私の生涯を無駄にしないためには、どうか、この私の声を伝えてほしい。高橋信次の霊言が出ているのだから、霊示集が出ているのだから、これを一人でも多くの人に読んでほしい。広げてほしい。それが私の願いです。一冊でも多く、一人でも多くの人に読んでほしい。そして本当のことを悟ってほしい。私の情熱を知ってほしい。

もう一度くり返すけれども、救世の原点は、人びとを救わんとする、幸福にせんとする情熱です。この情熱を失った人間は、私の目の見えるところから去りなさい。この地上から去りなさい。この地球から出ていきなさい。銀河系から出ていきなさい。この大宇宙の外に出なさい。人を幸福にせんとする情熱のない人間は、地上にいなくてよい。この星にいなくてよい。この銀河系にいなくてよい。その外に去りなさい。私はそれだけの決意を持って、今、この霊示集を世に間おうとしているのです。


4.心の偉大性


私が生前、そして今も、みなさん方に一貫して説きたいことは、「心の偉大性」です。人間の心の持つこの偉大性。これを忘れた時に、人間の不幸が始まったのです。人間の転落が始まったのです。それはアダムとイブの時期からではありませんが、この人間の心の持つ神秘性を忘れ、そして心の本質が神そのものであることを忘れた時に、傲慢(ごうまん)となった人間は、堕落への道を歩んでいったのです。

この地上に生まれ落ちて、さまざまな教育、環境、習慣、そうしたものによって、知と意によって人間の心が歪められ、そしてデコボコのある人生を生きてきたのです。そうしたことによって、地獄というところに数多くの人が堕(お)ち、そして現在も苦しんでいる。

また、そうした地獄の存在が地上に悪影響を与え、地上の人びとへの神の光を遮(さえぎ)り、地上の人びとに憑依(ひょうい)をし、あるいはさまざまな惑わしを送って、そして彼らを苦しめている。不幸の拡大再生産をしているという現状。君たちはこういう現状に、まだ、これ以上、満足していられるのか。

自分を知恵ある者、知性が高いと思っている者が、つまらない動物霊やそんなものに唆(そそのか)されて、そして生きているんです。こうした現状に、君たちは本当に満足できるのか。それでよしと本当に思うか。

政治家だとか、官僚だとか、大学の教授だとか、あるいは大会社の社長だとか、そういう肩書をちらつかせながら、その実、蛇の霊や狐の霊、こんな馬鹿なものに憑依されて、惑わされて欲望のままに生きている人間の数多くいることを知るにつけて、私は本当に情けなくなります。

神様は、あなた方一人ひとりを、偉大な存在としてお創リになったのです。あなた方一人ひとりの心のなかに、神とまったく同じものを与えているのです。そうした創造の自由を、創造の偉大性を教えているのです。与えているのです。なのに、なぜそれを忘れたのか。

忘れたことの責任は神にはない。それは人間にある。神の慈悲をいいことに、わがままいっぱいに、自我我欲のままに地上において生きてきた人間。その間違いを刈り取るのはいったい誰だ。それは自分でなくてどうする。誰がそれを刈り取るのか。

大工場が出した排水による汚染、これは神に祈ることによって本当になくなるか。公害は、神に祈ることによってなくなると思いますか。大気の汚染や、川の汚染、こうした汚染の原因は、人間がつくった企業群ではないか。そうした工場ではないか。工場の煤煙や、そうした排水が公害を起こしたのではないか。それは神に祈ることによって、そうした公害がなくなることが果たしてありますか。ありはしない。そうではなくて、それを垂(た)れ流しているのが人間であるならば、人間の行為によってそれを償(つぐな)う以外に手はないではないか。汚水を流さないことです。光化学スモッグを出さないことです。そうすることが、人間の義務ではないか。私はそう思います。

偉大な心を保つということ、これは人間の義務なのです。これを忘れた時に、転落が始まってくるのです。どうか、こうした事実を知ってほしいと思います。


5.釈迦仏教は死なず


さて、救世の法、そして心の偉大性の意味、こうしたことを話してまいりましたが、ここで私はもう一度、声を大にしてくり返しておきたいことは、「釈迦仏教は死なず」ということです。

地上に肉体を持ったゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむぬぶつ)という人間は、今から二千五百数十年前に地上を去りました。そしてその教えの概要は、私は生前、『人間・釈迦』という書物を通して語ったことがあります。

けれども、その釈迦仏教がその後中国に輸入され、漢訳をされ、さらにその漢語が日本で読まれるということに至って、全くその本質が見失われることになりました。釈迦は、当時の無学文盲(むがくもんもう)のインドの衆生たちに教えを説いていたにもかかわらず、それをまるで特権階級の教えのようにしてしまったのは誰か。それは後の世に出た僧侶たちではないか。

また、日本の国においても、そうした経典というものは読まれたけれども、漢文が読めなければ救えないような教えが本当の釈迦の本意であったのか。釈迦はそもそも、そうした漢文を書けたか。漢語で喋(しゃべ)れたか。中国語を仏陀が喋れたとみなさんは思いますか。そんなことはないでしょう。なのになぜ、漢字で書いた般若心経、あるいは漢字で書いた法華経、こんなものを筆写したり、こんなものを朗読することによって人間が救われるんですか。

お経の意味は、それは釈迦と弟子たちとの対話扁であったはずです。「如是我聞(にょぜがもん)」といって、弟子たちは仏陀からこのように間いた、私はこのような教えを聞いた、そうした対話篇を再現し、阿難(あなん)を中心とした人たちがそのお経を再現して、そして記憶し、後の世に伝えたのではないですか。そうであるならば、お経というような漢文体に書いてあること、これが釈迦の本意であるはずがありません。それは現代語で、今、私がこのようなかたちで霊示を送っているように、同じく同時代の人たちにわかるような話であったのです。

当時のインドの人びとの知的水準が、現代の日本人より高いはずはないのです。にもかかわらず、その教育水準の高い日本人が、読んでわからないような教えがあるとはどういうことですか。それがなぜ仏教なのですか。

また、釈迦がどうして葬式仏教なんか教えましたか。観光仏教なんか教えましたか。そんなものを教えた覚えはないでしょう。手を合わして拝(おが)めばよいというような、そんな御利益信仰を仏陀は教えていません。

彼自身、一生を通じて説き来たり説き去ったことは、人間の心の偉天性です。自らの心を見つめていくことによって、どれだけ多くの光を発するか。偉大な魂として自らを磨くか。自己をつくるということを徹底的に教えたのが、これが釈迦仏教なのです。その意味においては、原始釈迦仏教、仏陀が教えた仏教は、宗教ではないのです。現代の文部省が認定するような、宗教の範疇(はんちゅう)に入っていないのです。宗教法人法で言う、宗教に入っていないのです。

宗教法人法では、「拝む対象がある」とか、「礼拝の施設がある」だとか、そんな馬鹿なことを一生懸命言っていますが、釈迦はそんなことは一回も言っていないのです。徹底して教えたことは、どうやって心を調律するか、どうやって心を調和させるか。そしてどうやって「悟り」という名の真実の幸福に目覚めるか。生きながらにして世界の秘密を知るか。こうしたことを教えていたのです。それは「哲学」というような言葉で呼ばれるものでもない。総合学です。総合的な人間学です。これを教えていったのです。

それが今は、宗教の世界と学問の世界が分かれて、宗教というのはまことに摩訶(まか)不思議な世界に封じ込められています。しかし、そんなものではないんだ。本当の釈迦仏教というのは、そんなものではなかったということをみなさん知リなさい。一般に定義されているような「宗教法人」ではないということを、「宗教」の概念に当たらないということを知りなさい。

釈迦が何かに対して手を合わせて拝んだということを、みなさんは聞いたことがありますか。そんなことはない。偉大な教師として生きていた。偉大な教師であったのです。大導師であったんです。それが釈迦の本質です。

どうかね、こうした原点を忘れてはいけない。そんなおかしな新興宗教なんか教えたわけではないのです。だからみなさんは、もう一度原点に戻っていただきたい。釈迦仏教の原点、これを忘れないでいただきたいのです。その原点は、現代でもまだ生きているんです。その釈迦の教えの原点は今もなお、生きているのです。それは、どうやって自らの誤りを修正していくか。自らの心の過ちを修正し、そして素晴らしい人間となって生きていくために、どうしなければならないのか。これを説いているんです。

釈迦仏教は死なず。その精神は死なず。これは不変の法です。神理です。神理というものは、時代によって、さまざまな方便によって説かれることはあるけれども、その本当の姿は不変です。何千年前も、何万年前も変わっていないのです。それは神のお心、そのものであるからなのです。

神の心が、神から流れ出して地上に降りたそのお心は、その説き方は変われども、言っていることはいつも一緒です。あのガンガーの流れが、千年前も二千年前も変わらないように、河の水は同じでなくても、ガンガーの流れそのものはいつも悠久(ゆうきゅう)の大河となって流れています。それが神理の流れです。それが神理の大河なのです。それを知らねばならん。

今、多くの仏教者たちは、お坊さんたちは、自分たちがやっている職業というものをもう一回考えねばならん。その意味を考えねばならん。本当に釈迦の原始仏典、ここに書いてある意味、この教えというものをつかみ直して、それをわかりやすく現代語で人びとに説けなければ、君たちはまったくの間違いです。そうした職業に就いていること自体が間違っています。漢文を読み上げることではない。意味のないお経を上げることではない。本当の世界の仕組みを、そして人間の生き方を教えてあげることが、仏教の本質なのです。こうした観点から、もう一度考え直してみていただきたいと思います。


6.永遠の光


「神は光なり」――そういう言葉があります。私は、この「光」という言葉で表しているものの実質、実相、これを一人でも多くの人に味わっていただきたい。こういうふうに思います。

神の永遠の光、これを地上に生きている時に感じとる人と、感じとらない人とでは、全く違った結果が出てきます。永遠の光は、すべての人間の心のなかに射すことはできるけれども、それを実体験として経験したことのある人間は、おそらく一億二千万の人口のある日本のなかで、わすか数百名、そんなものではないでしょうか。人間としてこの地上に生きて、神の心を心として生きているならば、どうか、この永遠の光の実在ということに、みなさんは気付いてほしいと思います。

それは、私がこういうふうに世に問うているような神理の書、こうしたものを読んで、その内容を日々実践している時に、そうした光が心に射してくることがあります。みなさんの心があたたかくなることがあるはずです。あるいは偉大な導師の、大救世主の話を聞いている時に、心のなかにあたたかいものがサーッと射し込んでくるということがあるでしょう。そのあたたかいものこそ、神の光の本質であるのです。

そうした神の光というのが実在界に充満していて、地上の人間に一日も早く導きの光を与えたいと思っているということを、知っていただきたいと思います。

それはごく簡単なことなのです。日々自らの心を正すという、そうした単純な行為がそうした神の光を招き入れることになるのです。そうした、胸があたたかくなる、心があたたかくなるという、そういう実体験を経た人間は、それなりにひとつのこの世的な神秘の体験を積んだと言えましょう。

どうか、心の調和ということの意味を知っていただきたい。そして心を調和したならば、そうした神の光を受けるという体験をしていただきたい。このように私は思います。

この時に大事なのが、「反省」という行為です。間違った思いを出し、間違った行為をしたと思ったら、すぐ反省によってそれを修正していくこと。そして修正したならば、二度と同じような間違いは犯さないということ。そして、新たな気持でもって出発するということ。こうしたことを実践していただきたいと思います。それが、地上に在るあなた方の使命でもあるからです。

「救世」という言葉は大きな言葉であります。そして、これは大乗的な響きを持った言葉でもありましょう。けれどもこの救世は、やはり一人ひとりの心から始まっていくということ。これを私は声を大にして語っておきたいと思います。一人ひとりの心から始まっていくのです。その出発点なくしての救世はない、救世運動はないのです。まず、一人ひとりが自らの心を神の光と調和させること。これから出発していかねばなりません。

どうかそうした観点で、この救世の大予言、この書物、これを読んでいただきたいと、こういうように思います。