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目次



 3.人格と後光


 5.不動心

 6.柔軟な精神




(1988年6月9日の霊示)

1.人格とは何か


高橋信次です。さて、第3章に引き続いて第4章に入っていきたいと思います。3章、4章とも運命論というか、その人の人生を司(つかさ)どるものについての考察をしてみようと思います。それは結局、個人のレベルでの大予言だね。予言ということに関係すると思うのです。

そこで、まず人格という問題について、私なりにスポットを当ててみたい。こういうふうに思います。人格とは何かということです。

この、人格という問題、これは非常に大きなことなんですね。ただ、いわゆる一般的な学問研究と違って、人格の研究っていうのは、ずいぶん難しいんです。

それはなぜ難しいかというと、研究者よりも被研究者の方が偉大であることが多いんです。それ故(ゆえ)にわからない。見抜けないんですね。たいてい伝記を書かれる人よりは伝記を書く人の方が、まあ人間的に見て多少落ちる場合が多いわけだね。偉人伝を書く人が、そんなに偉人であることは少ないわけです。そういうことによって、その山の高さが十分に見えない。これはいかんともしがたいところがあります。

哲学者で、凡百(はんびゃく)の哲学者がソクラテスやプラトンのことを言っても、彼らのことがわからないというところがあります。彼らが真にわかるためには、彼らと同レベル、あるいは彼らをしのぐぐらいのレベルの人が、彼らを語らなければ、本当のことはわからないんだね。結局そういうところがあるんだ。偉い人だということがわかったのに、どの程度偉いかがわからない。それが悲しさでもあるわけだけども、そういうことがあります。

そこで、結局、人格とは何か、人格についての定評ある考え方というか、決定論、決定版が、人格論の決定版が出せたら、結局あの世の構造論を説くのと同じことになるんだね。あの世で、みなさんは四次元だ、五次元だ、あるいは七次元だ、八次元だというような次元構造があって、如来だ、菩薩だというようないろんな呼び方があるということを、すでにいろんな本を読んで知っておられると思うけども、ではそれは一体どういう区分かというと、人格による区分ということと同じなんだね。

この人格というのを、肉体を去った場合には霊格ということが多いけれども、霊格によって上下感覚が違っている。まあそういうことがあると思います。

そこでね、私はまだ肉体を持っているみなさんの立場で、人格とは何か、これについて考えてみたいと思うんですが、結局、これは肉体という衣を通して漏(も)れてくる魂の光そのものだと思います。肉体という衣を、あるいはこれは障子紙と言っていいね、こうしたものを通して漏れてくる魂の光、魂の輝き、これが人格だ、そう思います。こういうふうに考えたらいいと思います。

実際は、その人の人生を司(つかさ)どっているのは、この肉体の隙間から射してくる魂の光の部分、これが大きいのですね。

みなさんは人と会った時に、何となく偉い人だなという感じを受けたり、何となくヤクザっぽいなと思ったり、いろいろありますが、それらの雰囲気も一瞬にして感じるものがあるでしょう。ヤクザっぽい人だと、何となくすぐ逃げていくでしょう。近寄りたくないっていう感じがあるし、女性なんかでも、美人は美人でも冷たい感じの美人っているね。近寄りがたい、冷たい感じの美人。それから温(あたた)かあい感じの人、まあいろいろいます。

このように雰囲気というのがあります。その雰囲気の部分は、結局は魂の部分から出ていることが多いのです。魂として、そうした雰囲気が漂っている。そうしたことが実に多いんですね。

したがって、この魂からにじみ出す光、力の部分、雰囲気の部分、これをいかに形成していくか。これが実際は、人生に勝利するための秘訣でもあると思います。平凡な言葉で言うならば、人格を磨くということだと思います。その人格をどうして磨いていくのか。そして向上させていくのか。こういうことをさらに検討してみたい。そのように思います。


2.人格評価の正当性


人格ということについて話をしているわけですが、この評価の正当性についても、ちょっと語ってみたいと思います。

どういうふうな評価をするのが、はたして正当かということですね。まあこれについて雰囲気という話をしましたが、多少なりとも魂の輝きというのが、外面に出ることは事実です。そして魂に力がある場合は、同じような肉体に宿っても感じが変わってきますね。

たとえば同じ肉体であっても、その人に悪霊、あるいはサタンというのが入ったら、ものすごい形相(ぎょうそう)になります。よく聞くように、目がつり上がりランランとしてね、口なんかも耳まで裂けたような雰囲気に見えたり、ものすごい感じになりますね。

みなさんは肉体というものを、もう固定化した、与えられたものと思うかも知れないけれども、自分の顔つきひとつ鏡に向かって変えてみれば、大変なことになりますね。自分が怒り狂っている時の顔を鏡に映したらいい。それはものすごい形相ですね。悪魔の顔そのものになっています。ところが自分が、人に対して優しい気持で接している時の姿、子供たちをあやしている時の姿を見れば、天使そのものですね。天使のような姿がある。

このように、肉体としては同じであっても、現れる形、姿は違ってくる。そして、肉体というものを取り去った時に、心の状態の現れ方はもっと激しいということですね。したがって、悪魔だ、サタンだと言うけれども、そんなもの創ったんじゃなくて、それは心の思いがそういうふうに外面に出てきた。こういうふうに言えると私は思います。

こうしてみると、人格の評価の正当性のポイントとしてます第一点には、ある程度外見に出てくることは事実です。外見に出てきます。そしていちばん出るところは、やはり目です。その人の目に光が宿っているかどうか。これは大きな評価基準だと思います。だいたい目が、光、一定の光を放っている場合、これを霊眼といいます。あるいは霊光が出ていると言ってもいい。

偉大な経営者、科学者、大人物、偉人のような方は、たいてい目に光があります。目が光っています。目がテカーッと光っていますね。こういう光があります。それは、本人が霊能者であるとかそうでないとかにかかわらす、高級諸霊からのインスピレーションを受けて、指導を受けている方っていうのは、そうした目の光が出てくるんですね。

この目の光は、その根源として二つがあります。ひとつは、今言ったように霊道が開けたりして、高級諸霊からの力を受けている場合の目の光り方がひとつ。もうひとつはね、やはりその人の生き方そのものから出てくるということです。刻苦勉励して、努力して精進している人の目というのは、それなりの光を放つようになります。

鋭い光、あるいは穏(おだや)かな光、いろいろありますが、それなりの、普通ではないという、そうした光が目に宿ってきます。心の窓、目は心の窓と言われるけれど、明らかにそうした窓口が用意されているわけなんですね。

したがって、人格を判断する時の、評価のひとつとして目があります。その目が凶器のような目をしていたり、あるいは異常にきつい目、鷹(たか)のような目、それこそ悪魔のような目というのもあります。この目に、やはり独特の力がある。

そして、その目が深く物事を見ているような目だね、こうした目が素晴らしい。天才っていうのは、たいてい目に鋭い光が宿っていますね。鋭いというか、何とも言えない光が宿っています。宗教家などでも、目を見ればだいたいわかりますね。目が怪(あや)しげな光を放っているようであれば問題がある。そういうことが第一番に言えます。

第二番目は、その人の健康状態を見る必要があるね。もちろん健康状態と言っても、私だって病気したことがあるし、お釈迦さんだって毒キノコを食べて下痢して死んだぐらいだから、もちろん健康状態だけでうんぬんは言えないんだけれどもね。やっぱり全般にわたって、その人の健康状態というものを見てみる必要はあると思いますね。

やはり、いつも病気ばかりしているような人というのは、何か心にも問題があるというふうに思ってもよいと思います。心のなかが非常に明るくて、そしてバランスがとれていて、円熟した人格者であれば、あまり病気にはならないと思いますね。霊的には非常に高い人であっても、病気がちの人というのは心に角がある。角張ったところがある。出っ張ったところがある。まあこういうふうに見えると思うんですね。

したがって、人格の円熟と健康とはある程度相関関係がある。このように言えると思います。体は決してそんなに立派でなくても、風格がある人っていうのはいくらでもいるんです。その風格の根源は、やはり私は健康、あるいはその人自身の自信というところだと思いますね。

これは不思議なものでね、人間、たとえば目が痛くても、あるいは歯が痛くても、鼻が痛くても、あるいは胃が痛くても、揚が痛くても、体のどこかが痛んでいるだけで、それでもう悩みができちゃいますね。そして人生観に対して、暗い雲がかかってきます。人を見る目が厳しくなる。わがままになる。こういうふうになってきますね。したがって、極端に肉体的に疾患を持っていると、どうしても円熟した人格とはなれないと思います。

このように、人格は第一番に目に出ますが、第二番に健康状態として出る。これは単なる瞬発力のような体力ではないけれども、健康状態として出るということだね。

第三番には、今も言った健康状態とも関係するけれども、全体の風格というのがやっぱりあると思います。それは、体の全身から立ちのぼってくる雰囲気ですが、これは肉体と非常に関係しています。それだけの風格があるということだね。

顔立ち、物腰を見ていて、心のなかにやましいことが多い人っていうのは、どことなくおどおどしていたり、何かこそこそしていたり、変なところがあります。ただ、心にやましいことがなく、ガラス張りのような心でもって生きて、恥ずかしくないような人というのは、堂々たる風格というのがありますね。それも虚飾、虚勢じゃなくてね、本当の実践で打ち勝ってきた人には、それだけの底光りする力、底光りの光、風格、これが出ますね。

こうしたものが出てこなきゃいけない。まあ、ちょっとやそっとのことでぐらぐらしない程度の、それだけの底光りだね、これが出る。誰が見ても、これはちょっとひとかどの人だなっていう感じが出るね。

まあ、こういったところが出ると思いますので、私はまずこの世的には今言った三つ、これらを判断基準にしていいかと思います。目に力があること。光があること。そして、体がだいたい健康であること。三番目に風格、これが現れていること、まあ、これがこの世的な判断基準であろうと思います。

後はもちろん、中味のことはあります。語ること、行動すること、これがどうかということだね。これがいちばん大きいと言えば大きいですね。語る、何を語るか。何を書くか。言うか。こういったところに出てくるでしょうが、まあ外見としては、そういうふうに出ます。だからいつも病気をしたり、極端にガリガリにやせていったり、こういうタイプの人は、なかなか円熟した人格者として、天上界の指導を受けていることは少ないです。

自分のことを言うようで申しわけないけれども、人格が円満になってくると、体もそこそこ真ん丸くなってきますよ、みなさん。今、医者は、身長から体重を引いていくらでなきゃ標準体重じゃない、それを超えていたらやせなさい、なんてやってるけれど、まあ、どうせ人間死ぬものなんだから、どうせ死ぬ人間なら死ぬまでの間、できるだけ円熟した人生を生きなきゃあ嘘ですよ。

私はね、やっぱり心が調和して円満で、そして人格に丸みが出てきたら、やはり体にも丸みが出ると思うね。やっぱりお腹ぐらい出ないでどうするか。まあ、やせたキリストのことを言う人もいるだろうけれど、あれは食糧事情が悪かったんだよ。少々ね。だから、現代のような食糧事情がいい時代なら、心の状態がよければ、まるまるプクプクしてくると思うね。そう思うよ、私はね。

だから心の世界を求めている人は、少々肥満していてもよいと私は思います。少々の肥満は許される。それは心の円熟の証明である。こういうふうに思うのでね、私のファンがいっそうこの言葉によって力づけられることを祈っています。


3.人格と後光


人格のこの世的な判断基準について、話をしたわけだけれども、あの世的な判断基準があるということも言っておかねばいかんと思います。それは、後光(ごこう)ということがあるということだね。

実際、本当に尊い感じのする人、偉いんじゃないかなあと思うような人っていうのは、その人の背後にオーラ、後光が出ていることが多いのです。それは、この世の目ではなかなか見えないのだけれども、そうした威厳として出ることがあります。

それを人間は、目で見えなくとも魂のどこかで感じ取ります。犯しがたい気品というようなもの、こうしたものを感じとることになってくるわけです。

したがって、人格が仕事をするというか、人格が高いと成功するとか言うけれども、その人格と称されるもののなかには、後光の効果があるということだよね。それは何とも言えない力なんですね。目に見えない力、これが大きく作用するわけです。

実在界に還ってみると、この後光というのはまさしく力そのものなんですね。この世的な腕力なんかじゃないんです。後光の力って大きいんですね。たいてい自分より上段階にある霊が来た場合には、その後光で足がすくむ、あるいは目がつぶれそうなぐらい眩(まぶ)しい。そうしたことがあって、その後光に打たれてしまう。心を打たれる。そうしたことがあります。これが、人格に伴う後光の力なんです。

したがって、あの世の世界においては、もう以心伝心(いしんでんしん)といいますが、言葉を要しない世界なんです。禅的に言えば、不立文字(ふりゅうもじ)の世界ですよ。まったくその通りです。言葉を要しません。見た瞬間に、その人がどの程度偉いかわかってしまうんです。こういうことがあるわけです。それは後光の量として、はっきり出ています。

後光というのは、だいたい頭の後頭部を中心に、光が出ているわけです。それは仏像を見て、出ている後光、これも一緒ですね。あるいはキリスト教系の絵を見てみると、天使の姿に、頭の上に輪っかがかいてありますね。まん丸い輪がポコッと浮かんでいますね、天使の証明に。あれも後光を表しているわけです。ああいう輪っかがあるわけじゃないけれども、あれは後光が出ているっていうことを示しているわけなんです。まあ、そうしたものです。

この後光が、実は本当にものをいうのです。そして、たとえば演壇に立って演説(えんぜつ)をしたりすると、その後光がものすごく眩(まぶ)しく見えてきます。その人が神々(こうごう)しく、輝くばかりに見えてくるっていうのは、たいていは後光の効果なんです。それと、普段は普通の人であっても、神理の言葉を語ったりするとその瞬間に、天上界の高級霊界からサァーッと光が射してくることがあります。その光を受けて光る。そういうことがあるわけです。このように、後光の効果ということはやっぱり無視しがたい。そういうものがあると思います。

この逆もありますよ。後光の反対があるんですね。後光の反対って何かと言いますと、はっきり言って憑依霊(ひょういれい)だね。悪霊が憑いている場合、悪霊が四体も五体も憑いていると、もう近寄っただけで気持が悪い。そうじゃありませんか。近寄っただけでもう気持が悪いね。たまったもんじゃありません。

何となくみんな霊能者なんですね。変な人っていうのはわかるのです。何となく薄気味の悪い人。気持の悪い人。まあ、こうした人っていうのはわかるんですね。そして、そういう人が寄ってくると、何とも言えない嫌悪感があって逃げたい。職場なんかで、非常に嫌われるような人がいますね。あるいは、世の中でも嫌われるような人はいますが、そういう雰囲気が漂っているんですね。

このように、後光の反対があるわけです。そうした憑依霊によるマイナスイメージがある。何となく気分がすぐれないんですね。その人と会うと嫌な感じがして、体が重い。気が重い。こういう人はやっぱりひとつの、何と言いますかね、悪をバラまいているのと一緒だね。

もしこういう人が上司なんかにいたら、大変なことになりますね。職場はまっ暗になっていきます。そういう悪霊にいっぱい憑かれたような人がいたら、そりゃ大変なことになりますね。部下はいつも苦しいですね。またそれとは逆に、いつも後光が出ているような人の側(そば)にいて会っていると、なにかさわやかで、元気が出て力が湧いてくる。そうしたことがあり得るわけですね。

まあそれが、人格と後光という話です。


4.直観と洞察力


さて、人格の問題を追究しているわけなのですが、人格的に高いということを説明するために、どうしても無視しがたいものとして、「直観と洞察力」という言葉があると思います。これは、人格の高い人の独特の特徴なのですね。これでだいたい証明されるというような、そうしたものなんです。

まず、直観、これが働かない人っていうのは、たいした人物じゃないです。天才と言われるような方、ま、天才と言われないにしても、ひとかどの方という人はね、やっぱり直観力は鋭いです。直観がくるんですね。ピーッとくるんです。実は、このところの差が非常に激しいんですね。ここの実力の差というのは、いかんともしがたい部分があります。

仕事だ何だと言っても、結局この直観力なんだね。学者さんが勉強しても、大天才のような思想家になる人と、ならない人とどこが違うかっていうと、私は頭の良し悪しだけではないと思います。頭の良し悪しっていうだけでは、歴史上の大天才よりも頭の良い人がいたかもしれないけれども、彼らがなぜ名前が残らないかというと、この直観の部分が足りないのだね。結局、いくら分析だけしても、本質がつかめない場合にはどうにもならない。

この本質をつかむ際に、このひとつの啓示、インスピレーションとして与えられるものがあるんだね。この量によって結局、何て言うか、天才性ははかられる。そういうところがあると思います。

たとえば、後楽園球場のところが、今は東京ドームって言うのでしょう。雨の日でも野球の試合ができるような、そういう東京ドームというのが出来ていますね。ビッグエッグって言うんでしょう。これなんかを見ても、「これは一体何のためにあるのか。それはたとえば雨の日でも試合ができるように、こういうおおいをしたのである。」こういうふうに、パッと見た瞬間につかめたら、それはいいのだけれども、とろい人であると、直観力が低い人であると、これはいったい何であろうかと言って、このドームの屋根を一生懸命分析したりするんですね。「この材料は一体何なのか。そしてどこから買いつけてきたのか。その単価がいくらぐらいだったのか。そして工事に要した月日はどのくらいなのか。費用はいくらなのか。うーん。」と言って、何人ぐらいの人が入るのか一生懸命分析する。そして分析して分析して、一生懸命資料を作って、「ところでこれは何のために作ったのか。」と言ったら、「はてな?」ってわからないんですね。それがわからなくなる。こんな人もいる。

こういう人とは別に、パッと見た瞬間に、「ああ、これは雨でも試合ができるようにするんだな。これで観客の動員数が増えるな。」パパパッとひらめくね。こういう人が、まあ、直観力があると言えるわけですね。

ところがその直観力が鈍い人は、そのドームを見ると、「こんなとこで試合ができるはずがない。ホームラン打ったら、天井に当たったらどうするんだ。取れないじゃないか。」こう考えますね。まあ、野暮な評論家はこういうことです。ところが直観力のある人だったらね、「こういうドームを造る以上は、だいたいホームランの飛行距離など測ってあるだろう。あるいは角度も測ってあるだろう。何メートルまでしか飛ばないというのを測ってあるであろう。そしていけるということになっているに違いない。もし屋根に当たったとしても、どうするかというルールがきちっとできているに違いない。それなら一緒だ。」まあ、こういうふうに結論するでしょうね。

ところがそういうことを考えつかない人は、「こんなの天井に当たったらどうする。キャッチャーフライが当たってしまったらどうするんだ。あるいは、天井のライトに当たったらどうするんだ。」そんなことばっかり考えますね。物事の本質が見えない方です。

この直観とね、非常によく似たものとして、洞察力というのがあります。直観ていうのはどちらかって言うと、この洞察力とまあ似たところ、同じようなところもあるんだけれど、違いが少しあります。直観、あるいは直観力というのは、どちらかと言うと受動的なところが多いです。与えられるっていう感じね。ひらめき、インスピレーション、こういう形で与えられる。たいていの場合、守護霊、指導霊から与えられる場合だけどね。

こうしたことが多いですが、洞察力の場合には、もうちょっと能動的になってくるんです。具体的には、物事の本質や人間のその性格や気質、こうしたものをズバッと見抜いていく。これを洞察力と言います。かなりこれは積極的な力です。直観というのがひらめき的なものとすれば、洞察力というのは一定の実力と言ってもいいかも知れません。

まあ直観というのは、たとえばホームランバッター的なものだね。直観力っていうのは、ホームランバッター的なもので、ジャストミートすればポーンと場外にホームランが飛ぶような、こういうものを直観力とするとね、洞察力っていうのは高打率のバッターですよ。そういう代表的バッターだね。こういうのが洞察力というようなもので、一定の実力があるんだな。球をはじき返す実力がある。

だから、人物を見ても仕事を見ても、いろんなものを見ても、ある程度のその結論が見える。あるいは何て言うかね、物事の核心が見える。どこが分かれ目なのかが見える。こういうのを洞察力と言います。

この洞察力っていうのは、ある程度努力によってついてくるものなのです。これは、ひとつには知的鍛練です。しっかり勉強をする。昔から、偉人になるために本を読むって言うね。本を読む。とにかく本を読む。書物を読む。それで、偉人になってきたりすることがあるね。立志伝中の人物になっていく途上でしっかり勉強をした。夜遅くまで勉強し、朝早くから勉強をした。あるいは、二宮尊徳みたいに道歩きながらでも本を読んだ。こういうのがありますね。今だと事故を起こすから勧められないけれども、道歩きながらでも本を読んだ。薪(たきぎ)を背負って本を読んだ。こういうふうにやっているとどうなるかというと、だんだん知的訓練が進んできて、いろんな物事が見えてくるようになる。そして洞察力がついてくる。まあこういうふうに、洞察力の部分はある程度、積極的な自己鍛練が要(い)るっていうことですね。

洞察力のもうひとつは、これは経験ですね。豊富な経験を積むことによって、洞察力がつくということがあります。だから勉強なんか全然していなくても、洞察力の鋭い人がいます。意外にヤクザの親分さんなんかが洞察力鋭いんですね。こういうことはあります。それは、いろんな経験を積むことによってわかるんですね。わかってくる。一定の実力がある。一定の率で相手がわかる。そういうことがあります。

みなさんね、勉強している人だけが人物がわかるかというと、そんなことありませんよ。意外に風俗営業とか、あるいは何でもいい、バーやキャバレーの女性の方が、人物をわかるところがある。あるいは料亭のおかみってよく言いますね。料亭のおかみなんかは、客筋が一発でわかるって言いますね。もうその人が入ってくるなり顔を見て、着ているものを見て、だいたいどの程度の会社に勤めていて、どの程度の役職についている人か、こういうのが一発でわかる。そういうふうに言われていますね。この辺がだいたい、経験からくる洞察力です。

この洞察力の根源としては、今言ったように知的鍛練と経験、この二つがある。これも人格を磨くための大きな力です。あるいは人格をはかるための能力と言ってもいい。人格が向上しているということを見るためには、直観力、あるいは洞察力がどの程度あるか、これを見ればだいたいわかります。

これが伴わないような人格者はないと思ってください。ボヤーンとした人格者はいないということですね。ボンヤリしてさっぱりわからない。人のことも自分のことも、さっぱりわからんというような、こんな人格者はないっていうことです。直観力と洞察力が増してくる。これは人格が向上していることの証拠です。こう思っていただきたいと思います。


5.不動心


直観、洞察力という話をしましたが、もうひとつね、人格向上ということであげられなければいけない点は、やっぱり「不動心」ということだと思います。これについては理綸書も出ているようですから、それを読まれるとよくわかると思いますが、やっぱり、人格が向上してくるとどうなるかというと、不動心っていうかね、これができます。

あの起き上がり小法師(こぼし)じゃないけども、人格の基底の部分だね、底の部分にある程度の重しがあって、多少外的衝撃があっても、それを撥(は)ね返して調整していく。魂の調整をしていく。こういうところがあると思います。

やっぱりこの不動心の部分、これは何かっていうと、結局は自信だね。裏に自信があるからこそ不動心が出てくるんだね。この自信っていうのも、虚栄心やそういう自己過信であってはいけない。そんなもので不動心とは言えない。あるいはもう、出会う人を徹底的にやっつけてしまうような、そういう攻撃精神をもって不動心というふうには言いません。不動心というのはやっぱり、その奥にあるものは、内なる自信の蓄積だと思います。その自信の蓄積の、一要素だと思います。その自信の蓄積の一要素として、先ほど言った直観力や洞察力というものもあると思うんです。世の中の仕組みがわかる。あるいは人びとの心がわかる。こういう力を持っていると、それが自信になってくる。それはあるのですよ。

たとえば、自分にいろいろと問題をぶつけてくる人がいたとしても、通常であれば、それでもうパニックに陥(おちい)るのだけども、なぜその人がそういう難題をふっかけてくるのか、その原因、結果のプロセスが手に取るようにわかれば、自分の心が揺れることはありませんね。ところが突然にそういう話が出てきて、突然になぜそんなことになるのか、これがわからないと心が揺れます。この意味において、認識力が高まった人にとっては、心が揺れない不動心というのが出てくるということはあると思います。

不動心のもうひとつの根拠というか、論拠は何かというとね、やっぱり実績に対する自己信頼だろうね。私はこれはあると思います。いろんな危機があった時に、そのつど何かやろうとして失敗したような人っていうのは、自分の実績に対して自信がありませんね。そうすると、何かそういうチャンス、きっかけがある時でも腰が砕けてしまう。そうしたことがあるんですね。ところが成功体験がある人は、それを何とか乗り切っていける。まあそのようなことがあるのではないかと思います。

したがって、自信の蓄積のもっと具体的な意味、内容として、実績、それを乗り切ってきた実績があること。人びとと交渉して、ちゃんとそれをまとめてきた手腕があったということ。これはひとつの不動心の根源になる力である。そのように思います。だからこの辺がね、やっぱり大事なところじゃないかなあと私は思います。

それでね、やっぱりみなさんも見ててどうですか。川を渡る渡し舟は、もう今は流行(はや)らないかもしれないけれども、渡し舟なんかよりはね、クイーンエリザベス号の方が不動心があるでしょう。どうだろう、どっちかというと、きりもみになって流されていく船なんかよりは、そういう大豪華客船の方が、立派だよね。それでブレないし安心感があるね。まあ飛行機は大きいのが落ちやすいのか、小さいのが落ちやすいのか私はわかりませんが、でも立派なものに乗れば安心感があるね。そうしたところがあるということです。

したがって、人格が向上していくとね、もうひとつの点検基準として不動心というのが強まってくる。心が揺れないという、そういう状況が数多く出てくるんだね。

こうなってくると強いですよ。どんな難局が出てきても、それをパシパシッと押さえて、そして対応していく力。全然心が揺れない。これは大いなる人格です。高級霊になるほど、この不動心は強くなってきます。大如来になってくると、ものすごい不動心です。如来もそうです。どんな難事が出ても必ず解決をつけていける。解決をつけられる。自分の力でもいけるし、また他の諸霊、あるいは神への信頼感がある。

だからその意味において、不動心のもうひとつの根源は、信頼あるいは信仰心かもしれないね。神を信ずる力、それがあると本当の不動心になってきます。磐石(ばんじゃく)ですね。どんなことがあっても裏切らない。神を裏切らない。神を捨てない。神の声を信じる。そういう気持でやっていけばね、やっぱり道は開けます。それはね、どんなことがあっても救われますよ。

ちょっと波風があったら、すぐもう船長さんを信用しないようになってくると、船旅は面白くないですよ。どんなに波風があって船が揺れたってね、船長さんきっとやってくれると水夫たちが、みんな心を一丸にしてやっていれば、なんとか乗り切っていけるんだよ。ところがちょっと台風が来たり、嵐が来たりしたらもうみんな逃げまどっちゃって、全然信用しない。そして、船長を殺した方がいいのじゃないか、替えた方がいいんじゃないか、こんなこと言い始めると船は進まなくなります。そうしたものなんですね。

だから、神への信頼というのは大事だね。それは大事です。これがないと、人生やっぱり木の葉のように揺れちゃって、面白くないですよ。自力が大事だということを私は常々言ってるけれども、自力が大事だということは、木の葉のように、もうヒラヒラヒラヒラしてたらいいというものじゃないっていうことです。大いなる信仰で一筋ビシッと通っていれば、それは人生の強さになってきます。

だから、いろんなことを、たとえば信仰していてもね、生きているうちにいろいろな事件があるでしょう。家族が反対をしたり、親戚が反対したり、いろんな人がいろんなことを言うことがあるでしょう。

そうしたことで、すぐグラグラくるようでは、不動心は出来ていない。不動心が出来ていない原因は、神を十分信じていないというところにある。自分に不利なことが起きるんじゃないか。自分が損するんじゃないか。被害を受けるのじゃないか。そんなことばかり思って、そちらの方が強くなるということだね。これは地獄的なる思いです。そうした時に、人はやはり信仰心を試される時がある。そう思ってください。

だから、いろんなことが起きたらね、ああ試されているのだな、自分は今試されているのだなあと、この嵐のなかでグッとこらえてみようと、まあそういうふうな気持でいてくださいね。


6.柔軟な精神


不動心という話をしましたが、人格向上のチェックポイントとして、直観力、洞察力、不動心という話が進んできたわけだけれど、私はね、不動心ということでともすれば頑固になりがちな人の場合も、心配してみたいと思うんだね。

それは、クリスチャンなんかが特にそうです。もう頑固ですね。岩盤みたいです。岩みたいです。イエス・キリストを信じる。それはいい。ただもうこれ以外にない。教会に登録しなきゃ、絶対に救われんという岩盤のような信仰はあるけれども、これが奇跡を起こすこともあるだろうが、それが狭さになっていることも事実だね。そうした狭い心を持っている人を見て、どうしても高い人格とは思えない。

こうしたところが、たとえばクリスチャンなんかの伝道を妨げているということが、私はあるんじゃないかと思う。異端、排他、排斥、それから寛容性がないね。「これしかない」でいく。この辺が強さになるけれども、逆に何と言うか、人格の高さを感じさせないところがある。これが、末法(まっぽう)の世の宗教の姿、問題点ですよ。

私はね、そういう意味で、この信仰に対する不動心というのは大事だけれども、不動心だけでは駄目。不動心というのが頑固になったり、頑強になって、あるいはもっとひどくなったら頑迷になって、そしてどうしようもなくなる。こうなったら最後だと思います。

やはり柔軟な精神、これは大事です。柔軟な精神というのはね、結局、神様が望まれる方向に、いろんな物事に対処して切り抜けていこうとする心です。これを優柔不断であるとか、頼りないという人、悪い言い方をする人もいるかもしれないけれども、そのつどそのつど頭を働かせ、知恵を働かせて切り抜けていこうとする努力。これは非常に大事であると思います。

だから、こんなに信仰心を持って、こんなに一生懸命勉強して生きてきて、これだけ経験があるのに、なぜ自分がうまくいかないのだろうか。洞察力も非常に鋭いのにおかしい、という方がいらしたら、おそらくその方に欠けているのは柔軟な精神だと思います。柔軟な思考方法だと思います。そういうのがあるかどうか考えてみてください。

社会的に地位のある方、影響力のある方で、今ひとつ人格が高いという感じを受けない人は、どういうところに問題があるかというと、たいてい柔軟さがないんです。それは、非常に高い識見を持っているかもしれないけれども、それがもうガチガチに固まっていて、それをもうちょっとも動かすことができないような状況。こういうのを柔軟さが欠けていると言うんです。

だから、たとえば昔、私の教えを受けた方もいっぱいいるでしょう。私の弟子の中には、私と密接に勉強していた、一緒にやっていた人もいるでしょう。高橋信次はああ言った、こう言ったと一生懸命覚えているだろうと思う。霊言集になってきたらだいぶ修正が入っている。また、考え方が発展してきている。こういうことがあるし、高橋信次以外の教えもいっぱい出てきている。そうしてくると、非常に心が困惑してくるわけですね。どうしたらいいのかわからない。

ただね、生前高橋信次がああ言った、こう言ったということを、金科玉条のように思うのもいいけれどもね、やはり柔軟な精神を持つ必要もあると思うよ。それも神理だけど、それ以外の出方もあるということは、知らなきゃいけないし、それ以上の神理もあるかもしれないという視点、これを持たねばならん。クリスチャンでも、イエス様が二千年前に出て言ったこと、それ以外もう新しい神理はないという考えは、間違いだと思いますよ。神様がもしいらっしゃるなら、それ以後にもいろんな人を出して、いろんなことをしているはすだよ。

だから、いろんな条件において人格者と思われてもいいはずなのに、今ひとつ人格が高いという感じがしない、あるいはしてこない人の場合には、とにかく柔軟な精神ということをもう一度振り返ってみてください。これもまた成功の秘訣です。