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目次









(1988年7月19日の霊示)

1.八正道の本義


高橋信次です。みなさんこんにちは。きのうに引き続いて今日も話を続けたいと思います。

私はたいへんたいへんハッピーであります。こうして続々と本ができるということはひじょうにうれしいです。今日はいろんな読者の方から、土用の丑(うし)の日が近いのでウナギをたくさん送っていただきました。『UFO』だったか『新幸福論』だったか忘れたけども、「私はうなぎの蒲焼きが大好きですから送ってね」って言ったら、ほんとうにいっぱい送ってくれてありがとうございました。感謝いたします。まあ気分だけは私も味わいますからね。うん、まあ先祖供養と同じです。

ところで今日は「八正道」ということで、ほんとうはねえ、八正道だけですいぶん話はあるし、本一冊分だけあるんだけど、まああんまり高橋信次が八正道ばかり言ってもね、本家本元が控えてますから、本家本元の八正道があるので、あまり私が一冊がんばっちゃうと、またその修正が忙しいかもしれないので、かんたんに一章分ぐらいでサッと、サラッといきたいと、このように思っているわけなんですね。

八正道というのはみなさんごぞんじのように、お釈迦様の教えでいちばん有名なものですね。仏教学者なんかもこの勉強はずいぶんしているんですが、どうしてもこれを思想的にとらえてしまうんですね。正見・正語・正思・正業・正命・正精進・正念・正定と、このように、思想としてそうした独特の思想を持ったというように考えがちであります。

まあそういう考えもそりゃ成り立つでしょう。ただこの八正道というのがそんな単なる思想ではなくて、実際論としての効果を持っているということを明らかにしたのが、私高橋信次であると、このように思うんですね。私の生前の教えというのは、まさしくこの釈迦の教えの復活であったわけです。八正道というのは単なる空理空論ではなくて、ほんとうに意味のある教えであったんだと、こうした実体論を私は説いたつもりであるのです。

つまりどういうことかというと、本書でもテーマにしてきましたが、心の曇りを除き、そして心を浄化し、神の光を受け入れるようになるために、この八正道という方法が有効であるわけです。そして、実際上この八正道に基づく反省をしている過程において、心の窓を開いた人がたくさん出ました。こうした方がたが出てきたわけですね、私のときにはね。こうして神理の実証がなされたわけですね。

つまり、釈迦の説いていた八正道というのは単なる思想的なものではなくて、ほんとうにこれは人間として悟るための道であったんだということが、次第しだいに明らかになってきたんですね。そして、釈迦が考えた正しく見るというようなこと、正しく語るというようなこと、あるいは正しく思う、正しく仕事をする、正しく生活をする、正しく精進をする、正しく念ずる、正しく精神統一をするという、こうしたことはまさしく幸福の原理そのものでもあったんですね。

だから八正道を現代的に考えてみるとするならば、あなたは現在幸福ですか、不幸ですかと聞かれて、「どうも不幸です」と、「悩みが多いです」と答えたら、では次の基準でもってもう一度自分の心というのを点検してみてください、ということなんですね。

まず、あなたは正しく見ましたか。正しく人を、また世の中を見ましたか。自分自身はどうですか、正しく見つめましたか。こうした観察をきっちりとしましたか。

また、正しく語リましたか。あなたの言葉に問題はなかったですか。

高橋信次だってこうやってしゃべっていますが、私の言葉に問題があったら編集のときにカットされるんです。ねえ、そして校正のときにも削られるんです。私は日本語がへたですから。外人よりもへたなんですね。イエス様の霊言集とか、モーゼの霊言集などであればあんまり直さなくてすむんですね。ところが日本人であるにもかかわらず、高橋信次の霊言集だけはやたら朱筆を加えないと本にならないんですね。信じてくれないんですね。高級霊としての格調がない。あまりにも人間的すぎて、人間としても国語能力があまりないんではないかと、思われているんですねえ。

まあそりゃあしょうがないんですねえ、技術者ですから。私はエンジニアですから、そんな正式に文章作法習ったこともありませんしね、そんなに本を読んだわけでもありませんから、そりゃしかたがありません。でも正しく語るということができないと、そういうように後で修正をされますね。それから私があんまりきつい冗談を言うので、カットしようかしまいかみんな苦しんでいますね。まあこういうところがあります。

だから、正しく語るということはだいじなんです。これができれば幸福になれるんですね。

また正しく思う、ということはこれはこれだけでも一冊のテーマですね。このようにいろいろあります。こうしたことを八正道というのは教えていたわけです。


2.八正道の方法論


さて、この方法論というものをもう一回考えてみたいと思います。

八正道のなかでも順序はいろいろありますが、なぜ最初に「正見」というものがきているのか。正しく見るということがきているのか。これを考えてみたいと思います。

これはね、まず釈迦の意識のなかでこのような意識があったと思えるんですね。つまり、人間の苦しみというのは、自分一人でいると苦しみができるということはおそらくないという、こういう発想なんですね。人間が苦しむ原因はやはり社会性にある。他の人間の存在ということによって苦しみが生まれてくるんだ。その他の人とのかかわりにおいていろんな人間関係のあつれきや感情のあつれき、こうしたものがあって苦しみをつくるのだということです。

自分自身でも苦しみはもちろんありますよ。たとえば、おなかがすいた苦しみね。あるいはカレーライスを食べすぎて胃が重い苦しみ。あるいはケーキを食べすぎて虫歯になる苦しみなど、いろいろあります。そうした苦しみもありますが、でもそれはそれほど根本的な苦しみとは言えない。これは自分で考えればすむことですね。しかし、いちばんむずかしいのは他の人間の存在ですね。これによる苦しみですね。

釈迦が釈迦教団をやっていてもいちばんむずかしかったのは、サンガーのなかで多くの人を置くことによってね、その統制、彼らの心の調和ということがひじょうにむずかしかったんですね。こういうことなんです。自分一人で悟るぐらいはかんたんですが、いろんな人がいるということはそれだけむずかしいんですね。こうしたことに彼は苦しみました。

そして、弟子たちの間でもいさかいがいっぱい起きたり、いろいろするわけですねえ。俺のほうこそほんとうは正しいのだとかね、お前の修行方法はまちがっているとか、お前はああだこうだということを弟子たちが言い争うわけです。そうしたことを見て、釈迦は、「君たち心を静めなさい。まずたいせつな修行は正しく見るということなのだ。相手のしたことを正しく見る。そしてまた、自分自身の行為というものも正しく見てみる。つまり、見るという行為を通して、行動というものを客観視していく必要があるんだ」と、そうしたことを教えたんですね。

「相手の真実の動きというものを見なさい。自分自身の主観をまじえて相手を観察するのではなく、色メガネで見るのではなく、真実の相手の姿を見なさい。また、人と人とが苦しみをつくる理由は言葉である。言葉の発し方によって苦しみが生まれてくるのである。ゆえに、まず自分の心を、言葉を調律しなさい」と、このようなことを教えました。

あとは「正しく思う」というのがあります。谷口雅春先生などは『谷日雅春霊言集』でしたかなにかで、釈迦の八正道なんてあんなものいらないんだなんてね、正語、それと正聴ですか、正しく聴くと正しく語ると、あともうひとつなんでしたかね、なにかがあればそれでいいんだなんて、なんか言ってましたねえ。そうじゃないでしょうかね、みなさん読んだことがあるでしょう。それで、正しく聴くということがだいじであって、聴くことが正しく聴くないから人間の苦しみが起きるんだと、そのように谷口先生は言っていましたが、この正しく聴くということは、この八正道のなかに入れれば正思ですね、正しく思うということと同じであると思いますね。

すなわち、他人からはいってきた情報をどう受け取るか、これが正しく思うということですね。だから正しく思う「正思」のなかに、この正しく聴くということがはいっているんですね。聴くという行為は単に相手の発した音を耳の鼓膜が伝えるだけですが、このはいってきた情報をどう判断するか、これが正しく思うということですね。

釈迦の時代にはあんまり本もありませんでしたしねえ、ペーパーがないもんですから、トイレット・ペーパーもありませんが、書類もあんまりなかったんで見るということがあんまりなかったんでね、この聴くということが主力だったんですね。人からの情報を聴く、だから聴くということがすなわち思うということにつながったわけですね。この聴いた情報をどのように処理したか、これがすなわちどのように思ったかということですね。このように考えていいと思います。

そして、正しい生活のしかた、仕事のしかたですが、これらはひじょうにむずかしいテーマになります。また私もビジネス書みたいなものもいっぱい書いてみたいと思っているんですが、こうしたときに正しい仕事とはなにかということを考えたいと思います。

また正命ですね、この正しい生活をするというのは、これはつまり規則正しい神の心にそった生活ですね。こうした生活をするための時間の使い方を心がけるということですね。あとは精進するということです。まあこれは勉強するということでもあるね。それから念(おも)うということ、念ずるということですね。将来に向けての思いですね。それから定に入(い)るということです。これはつまり精神統一の作法だね。

こうしたことを考えていたわけで八正道と言いつつも、じつはこれはサンガーのなかでの生活だね、ブッダ・サンガーのなかで要求される最低限のルールでもあったということだね。この八つのルールが守られたときに、サンガーのなかで弟子たちは平和に修行に励むことができたということですね。つまりこうしたモーゼの十戒ならぬ釈迦の八戒だったと、このように考えてよいと思います。


3.八正道の問題点


さてこうした釈迦の八正道ですが、なにか問題があったでしょうか。それについて考えてみたいと思います。

おそらく直観的に見て問題があるとしたら、この八つの道に記されている、「正しく」という言葉をいかに解するかですね、これがやはりむずかしかったのではないかと思いますね。というのは、たとえば私の教えの流れをくんでいる人でも、八正道のことを言っている人はあっちにもこっちにもいっぱいいますね。私の弟子にもいっぱいいますが、八正道ぐらいみんな言ってますねえ。ところが言ってる本人が反省できないんですね。なぜできないんだろうかとつくづく考えてみるんですね。これを私は師匠として考えてみるわけですが、この釈迦の教えを復活しても、この「正しく」の部分がわからないんですね。正しいということがわからないんです。正しく見たか、思ったかと言っても、それを判定している自分自身がわからないという、ここに最大の問題点であると思うんですね。

ところが、この正しさというのは、もちろん神から流れて来ている正しさでありますが、神の意思を確認できるものは、これは如来と言われていますね。如来であれば神の意向がある程度わかりますが、そうでない人間にとっては八正道を説かれても、この正しさが確認できませんね。わからないです。ここがひじょうにむずかしいところなわけなんです。

そうしてみると、ではお釈迦様がかりにもう一回出てきて話をするとすればなにをするかというと、結局八正道を復活させるとすれば、正しさとはなにかということを、これをもう少しつきつめていく必要がどうしてもあるでしょうね。これをやらなければ使命を果たせないということになると思います。八正道の露払いをし、現代に復活させるためには、正しさということ、これを明らかにする必要があるということです。

ところがこの正しさのむずかしさは、千差万別の現われ方をすることがあるということです。人間は数多くいますから、この現われ方がいっぱいあるということなんですね。

たとえば前巻でも私は話をしたと思いますが、東北新幹線でもなんでも結構ですが、新幹線を通すという段になると、この正しさというのはほんとうになんなのかがわからなくなりますね。地元の住民たちで立ち退きを言われている人たちは反対しますね。これは当然ですね。ところが国益というような法益を持ってくると、国益のためには反対する者がいても押し退けてでも造らなければいけないと、このようになりますね。

あるいは成田紛争でもそうですね。成田空港をあんな遠いところに造っても、国際線として役だたないという反対がすいぶんありましたね。識者と言われる方々、大学の先生方でも、あんな空港はもう意味がないから潰(つぶ)してしまえとずいぶん言ってましたね。ところがじっさいの目のある人から見れば羽田空港はもう満杯だしね、どっかに造らなきゃいけないし、成田にあれだけの費用かけて造って、それで飛行機が飛ばせないとなるともうこれは国辱ですね、国辱ものになるわけです。ところが現地ではゲリラがいっぱい発生する。住民の怒リだね。まあ結局強制権発動してやっちゃって住民の合意が取れなかったというわけだけど、もともとそんなに合意が取れるはずもないわね。住んでる人は立ち退き言われて感じがいいわけないよね。そんなので喜ぶ人いませんからね。

では正しさっていったいなんなのか。これはむずかしいですね。その立場に立ってみると、現地の人たちの考え方もわかりますよ。「国際線できたってオレらはそんなの使う必要ないんだ。千葉に住んでれば、茨城に住んでればそれでいいんだ」というような、千葉や茨城の住民の声もあるでしょう。ところが、これが国際ビジネスマンなんかだったら空港がないとほんとに困ります。こういうことがありますね。住民は困ったけど、今度はタクシー会社はもうかりましたね。遠い所に空港があるのでタクシー会社はもうかりました。こういうことで、なにが正しさかということはひじょうにわかりにくいですね。そのようなところがあります。

それゆえに、かりに現代に釈迦が復活して正しさを教えるとすれば、やはりこの具体的な正しさのベースをいっぱい創っていく必要があるだろうと私は思いますね。いろんなケース、人間の考え方、生き方についての指南、人生指南をしていく必要がどうしてもあると思いますね。

まったくおんなじ問題でも、人によって答えが違うこともあります。私に対して人生相談してきてもね、たとえば結婚問題を相談してきても、ある人には結婚しなさいと私は言いますね、ところがまた別な人に対しては、あなたは結婚をあきらめなさいと言いますね。じゃあ結婚したほうがいいのか、しないほうがいいのかといったら、それは人によるわけですね。それは人によってわからないわけです。

ではどういう人の場合はどうしたらいいのかという、こうしたものをある程度積み重ねていく必要があるんですね。ひじょうに地味な行き方ではあるけれども、この正しさの正体を明らかにするためには模範解答を作っていく以外手がないんですね。いわゆる数学や物理学でよくあるような例題と模範解答ですね、この形しかないんですね。これしかありません。例題と模範解答しかありません。

また、たとえば文章の書き方でなにが正しいか正しくないかと言っても、これはわからないですよ。たしかに小学生や中学生の文章なら国語の先生が添削できます。ところが社会に出て文章の達人はいくらでもいますね。そうした人の文章、これは正しいか正しくないか、これをチェックできる人というのはほんとうはいないんですね。だから、ある程度それを仕事にしているような人たちであれば、文字あるいは言葉に対する感覚が強いであろうから、その感覚からいって比較的その人の見解は正しかろうということで、直しを入れたりする人はいます。そのように文章を直す編集者、校正者たちはいますが、では彼らがほんとに最終的な文章を書けるのかといったら、そうでもないですね。そんなもんなんですね。じつにむずかしいところがあります。

だから、結局正しさというものを明らかにしていくためには、いろんなケース、さまざまなケース・スタディを作っていかなければいけないね。例題と模範解答、この作り方、それと基本的な理論的なものの考え方、こうしたものをはっきりさせなければいけないのです。現代的正しさというものを明らかにするためには、知的なベースからの固めが相当いるということですね。ある程度万人が学べるベースがいるわけです。そうしたところが必要なんじゃないかなあと私は思います。


4.新しき反省法


さて、そうした八正道というものをふり返ってみて、現時点で私が新しい反省法というものについてなにかアイデアがあるかどうか、これについてアドバイスを述べてみたいと思います。

こうしてみるとね、私はたとえば生前、反省というものをする方法としてね、自分の過去を年代ごとに区切ってみる方法というのをひとつ言いましたね。一歳から五歳、五歳から十歳、十歳から十五歳というような、こうした年代別に過去をふり返ってみるという反省の方法を言いました。またその反省をやっていると、だいたい大学ノート十五冊分ぐらい反省の内容というのは出てくるもんですよと、そんな話もしたと思いますし、たとえば、奈良の吉本さんという人がやっている内観法なんかも、ひじょうに私の考えに近いもんだというようなことも言ったことがあります。

このように反省の方法として、年代順に思い出してみるということと、紙に書いてみたりするというようなこと、こうした方法を指導しましたし、場合によっては野外禅定というようなことも教えたりもいたしました。

さあ今実在界に還りまして、自分の教えた反省のしかたについてなにか反省があるかどうか、ゆっくりと考えているわけですが、私はね、うーん、ま、二点ほど言っておきたいと思うことがあるんですね。

それは、やっぱり反省にもね、段階論があるんじゃないかということなんですね。愛の発展段階説じゃないけども、反省の発展段階説があるんじゃないかなあということなんですね。このへんをもう少しすっきりしておくべきだったなあという感じがしています。

まず、神理を知ってまもない方の反省ですね。いわゆる素人さんの反省法というのがあると思いますね。それから、ある程度知識的に神理を知った人の反省のしかたというのがあると思いますね。そしてその上にはプロの反省ですね、宗教家として、あるいは悟りたるものとならんとして生きている人の反省というのがありますね。この三つぐらいの大別がどうしても必要であったのではないかなあと、このように思います。

最初の初級レベルの人の反省としては、いわゆる道徳的な出発点からはいっていくのがいいでしょう。こういうことはしてはいけない、ああいうことはしてはいけないという、戒律じゃありませんが、そうしたチェック・ポイントでもって反省していくのがふさわしいと思います。

そして、ある程度神理を知った人であるならば、たとえば高級霊の霊言なら霊言を読んでいる人であれば、彼らが語っている光の言葉ですね、これに合わせた反省というのがいると思いますね。

今までは単純にふつうの人間として、だいたいまっとうに明るく生きていけばいいと思っていたのが、神理にめざめるといろんな観点が目に見えてきますね。自分が努力しないで捨てていた面がすいぶん見えてきますね。「ああこんなことは努力しなかった。こんなこともやらなかった。ああ、あれもしなかった」ということが、次から次へといっぱい出てきますね。だから反省でもさらに高度な反省になりますね。

入り口の反省がどちらかというと悪人を消すための反省とすれば、この二段階目の反省というものは、もう少し優れた人をつくるための反省ですね。つまりこれで言うと、次元段階で言うと六次元ぐらいの優れた人をつくるための反省というのがあると思いますね。一段高い基準を持ってきてするわけです。

そしてこの上の段階として、いわゆる阿羅漢から菩薩にいたるための反省方法が要ると思うんですね。この人たちの反省というのは、単なる過去の自分のいろんな思いや行動についての反省はもうだいたい終わっていると思いますから、毎日毎日の心のブレですね、感情のブレがないかどうかの反省、それと悪霊などからの惑わしがなかったかどうか、またそれだけではなくて、高級霊たちの積極的指導を受けられたかどうか、光を体に受けることができたかどうか、こうした反省があるでしょう、霊的な面からかなり反省してみるという、そのような反省があると思いますね。指導霊たちの言葉をまともに受け取れたか、姿を見ることができたか、そしてそれを実践することができたかどうかという、こうした受け取り方があると思います。ま、これが上級レべルの反省と言ってよいでしょう。

このように、もっと細かくにも分けられますが、反省にもこうした反省のしかたがあるということを頭に置いていただきたいと思います。

もうひとつ反省で私がつけ加えるとするならば、なにが欠けているかというと、性格別による反省のしかたですね、これを入れる必要があったなあと思います。

性格的に多少内向的でイジイジ、グジュグジュしてるタイプの人は、反省してもたしかに抜け出せない人がいるんですね。私なんかはバリバリ行動するタイプであったから、反省がどうしても必要でしたが、なかには自分をいじめるタイプの内向型の人もいるので、こうした人たちは反省だけではどうしてもうまくいかないことがあります。みじめな罪人になっちゃいますね。濡れねずみの自分を棒でたたくような、あるいは川に落ちた犬、水に落ちた犬をたたくようなね、そういうところがどうしても出てくるわけです。だから、こうした人たちにとっての処方箋がまた必要であったのではないのかと、そのように反省しているところです。


5.八正道の新展開


そこで、もちろんお釈迦様のじゃまをしてはいけないのであんまリ八正道の深い話はできませんが、八正道の新展開として、私がぜひこれだけは考え直してみたいなと思うところをね、言っておきたいと思います。

八正道を私なりに今、再構成し直して考えてみると、こういうふうになるんじゃないかなあと思いますね。

まず、現代人向けに翻訳し直すとすると、一番目にあがってくるのがね、あなたは正しく生活をしたか、これが一番にはいると思いますね。生活が乱れている人がひじょうに多いですね。まず一番目に、あなたは正しく生活をしたかということですね。

それから二番目に、あなたは正しく仕事をしたか、やはりこれが出てきますね。この生活のしかたと、仕事のしかたとは、内容的に重なってるところもあるけど、これをまず現代人には問いたいですね。

それから三番目には、あなたはきょう一日、自分の語った言葉を点検してみたかということですね。言葉の問題を三番目にあげてみたいと思います。

それから四番目には、正しく思ったかということの具体的なこととして、正しく聴いたかということをあげたいですね。正しく聴いたか。これを四番目にあげてみたいです。

それからあとは、まあこれは反省そのものでもありますが、五番目に、あなたは今日一日反省をしたか、こうした項目をあげてみたいと思います。

それと六番目には、あなたは神理の勉強をしたか、ということですね。これを六番目にあげてみたいと思います。あなたは神理の勉強をしたかということですね。

それから七番目に、あなたは高橋信次に感謝をしたか、ま、これは冗談です。あなたは神、および高級諸霊に対する感謝をしたか、そういう感謝の念があったかどうかということですね。この感謝というものを七番目にあげたいと思います。

そして、八番目になにをあげるかというと、ここに光明思想を多少取り入れてみたいと思うんですね。あなたは未来、自分の未来と人類の未来を輝かすために、ユートピアのためになにをきょうしたかということですね。このユートピア建設という反省の座標軸を入れてみたいと思います。

このようにね、まず正しい生活をしてるかどうかね、規則正しくやっているかどうかですね。つまり道徳だね。二番目は仕事です。ビジネスマンとして当然ですね。この仕事ですね。それから言葉の出し方ね、それから言葉の聴き方です。こうしたことがひじょうにだいじですね。この四つは、まあ人間として当然のことでもあるんじゃあないかなあと思いますね。

あとは多少専門的なことになりますが、一日反省がちゃあんとできたかね、まあこういうことですねえ。あるいは、神理の勉強がちゃあんとできたかどうかね。これもだいじです。高級霊への感謝があったかどうか。また、ユートピアの建設のためになにか工夫したか、働いたかね。

だから最初の段階は、釈迦の八正道のうちで、生活、仕事、それから語る、聴くというのを取りあげました。そして後半ではね、反省という作業を一日のなかに折り込んだか、そして神理の学習をしたか、高級霊に感謝をしたか、そしてユートピアのために貢献したか、こうした新たな角度を入れたいと思います。

これが高橋信次の新八正道です。みなさんにこの新しい基準でどうか毎日を送ってみていただきたいと、そのように思います。