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目次









(1988年7月19日の霊示)

1.二元論的世界観


高橋信次です。引き続いてきょうも話をしています。

だんだん私もなんと言いますかねえ、よく出るんで歓迎されていないと申しますか、なんと申しますか、もうごく短期間でかたづけてくれと、よく言われはじめましてね。私の本作るなんてもう一日、二日ですよ、みなさん。もう突貫作業って言いますかなんて言いますかね。他の重要な神様だと一週間かかって録(と)らしてくれるんですが、私なんかもう一日、二日ですね。もう他の人詰まっているから早くやってくれ、もうシャーッとやってくれっていうような感じでね、言われているんですよ。つらいですねえ。まあもっともっと人気が出てほしいなあと思います。

それと、これは私のほうからお願いでねえ、これだけシリーズのなかで高橋信次ものを入れさしていただいているんですが、あんまり高橋信次ばかり出ると恥ずかしいわねえ、それはあるよね、著者として恥ずかしいっていうかね。高橋信次で食ってるんじゃねえかなんて言われたらいやだもんねえ。だからそれはわかるんだよね。だけど、私がこれだけやりたいやりたいと言うもんだからやらしてもらっているんだ。著者がひじょうに寛容なんでね、やらしてもらっているんですよ。

じっさいまあ勘ぐりする人がいて、高橋信次の名で商売しとるんじゃないかなんて勘ぐりもあるんでしょうが、実際は残念ながら高橋信次の霊言より理論書のほうが売れてるんですねえ。残念だけど理論書が売れて高橋信次の霊言、霊示集が連れ売れするというのが現状なんですね。これは私の口から説明しておきたいと思います。

それゆえに、私の本だけが異常に売れるのでいっぱい作ってるわけではありません。それは言っておきます。本人の意志ですね。私が霊として異常なまでにやりたがっているんですね。どうしてもやりたいんです。

なぜやりたいかっていうとね、まあいろんなとこで話したけど、私も九次元霊なんですね。みなさんなかなか信じられないでしょう。私のファンは信じるでしょうけども、ファンというのはありがたいもんでいつでもそんなもんですけれども。じゃあイエスやモーゼやブッダやねえ、孔子、こういう人がいるという世界に、ほんとうに十二年ほど前に死んだ高橋信次っていうのが行っとるのかどうかね、みなさん疑問に思いませんか。思わなかったら頭おかしいですよね、常識的に言えばね。そりゃあ高橋信次は偉いんだと、それはまあ弟子とか信者が信じるのはいいとして、一般的な日本人の頭脳からみてね、じゃあ高橋信次がほんとうにイエスや釈迦やモーゼや孔子というような歴史上の偉人だね、もうこれは値打ちの固まった偉人ですが、彼らとおんなじとこに行っているのかどうかって言ったら、そりゃ疑って当然だと私は思いますよ。

なぜ疑って当然かと言うと、生前GLAというところを創って、そして七、八年やりました。そして一時期何十万人かまでパッと増えましたが、死んだ後その団体もがタガタになったし、会員数ももう一万人いるかいないかわからないぐらいまで落ちこみましたね。日本には宗教団体は十八万くらいありますが、相当小さな団体にまでなりました。

こうしたものを見てもね、そんな九次元の大如来が出たとは思えないと言えるでしょう。たとえば創価学会が千七百万ねえ、立正佼成金八百万、霊友会四百万ねえ、天理教二百万、こちらのほうがよっぽど大きいですわね、だから中山みきさんのほうが高橋信次の二百倍ぐらい偉いんじゃないかなんて思うかもしれないね。まあこういうことがあります。

それはね、私も生前の悟りとしては九次元の悟りまで行っていましたが、仕事そのものですね、仕事そのものというのをとったときには、やはり九次元の大如来としては仕事は足りなかったという事実があるんですね。それだけの影響力をじゅうぶん駆使しえなかったということがあって、まあそれもこうした復活ということが用意されていたんで、ダブルで考えられているんですけどね。だからこの復活をして仕事を続けなければ私はほんとうに九次元霊として仕事したことにならないんですね、それゆえに、私は霊となって生前以上の仕事を絶対にしたいんです。なんとかこの自己実現をやりたいと思っているんで、そのへんをよくよくわかっていただきたいなあと思います。

結局なにが言いたいかというと、「二元論的世界観」なんです。二元論的世界観、つまりなんて言いますかね、私がこのようなみごとな復活をして喜んでいる人がいる半面、私が復活しても信じない、まゆつばだって言うような人がいるんですね。こういうことが現に私の復活ということを通しても起きますね。これほどむずかしいんです。もちろん二分法じゃなくて三分法、四分法といろいろ方法はあるでしょう。高橋信次の復活を信じる人、信じない人、どちらとも言えない人、これで三分法はできあがりですね。どちらとも言えないけど、信ずるほうに傾いている人と信じないほうに傾いている人、これで四分法のできあがりですね。これをもっと分けていくと、たとえば霊を信じる人と信じない人とに分けて、信じる人のなかで高橋信次の復活を信じる人信じない人、あるいはどちらでもない人、このようにでも分け方はあります。

このようにいろいろと分け方はありますが、いちばん基本的スタイルとしては信じるか信じないかということですね。神を信じるか信じないか、あるいは霊を信じるか信じないか、高級霊であると信じるか、信じないかというようにイエス・オア・ノーで考えるのが考え方の基本でもありますね。だから、こうした二元論的な発想というものが考え方の基礎にあるので、それゆえにたとえば善悪二元論というものが出てきやすいというところもあるんですね。

もし人間の発想が二元的になっていなくて、たとえば四元的、あるいは五元的、あるいは十元的な発想、十人十色というように、いつもある問題について論議されると十通りの答えが出るというような形式であれば、善悪の二元論というのはひじょうに出にくい状態にあると思います。けれども、人間の頭の理解のしかたはやはりイエス・オア・ノーで理解しやすいんですね。このようなことがあって、二元論的な世界観が支配的になっているんだと思います。ですから、他の星に行くと、もっと違った考え方ももちろんいくらでもあります。


2.光明一元のとらえ方


さて、こうした二元的なものの見方とある意味で対立しているように見えるのが、いわゆる「光明一元」の考えですね。「光一元」というような考え方が強烈に出されています。これは天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)様のような方が中心になって出されています。

もちろんこれもわかるんですね。おそらくそれはそのとおりですね。ただ私は立場が違うという感じはするんですね。というのは光明一元、光一元を説いておられる方々は、自分の立場に立って言ってるんじゃないかなって感じがするんですね。つまり神様の世界にいて、神様の立場から見て光一元とおっしやっているように感じるんですね。だからその立場をどこに置くかっていう問題があると思います。地上の立場で見たらかならずしもそうとは言えないということですね。しかし、実在界の立場から見たらそのように言うこともできるということですね。

したがって、善悪二元論、光一元論というように対立したもののようにとらえるけれども、これはものを見ている立脚点、立場が違うんじゃないかと言ってもいいんだと思いますね。地上の人間から見たら、いろいろと価値観が分かれて対立しているように見えるけれども、神の世界から見たらもう光そのものであり、そして人間は神の子であるし、そうした世界の投影なんだから本来光一元なんだと、このように言えるということですね。だから立場の違いとして考えていいと思います。

ただ、現実の現時点における地上での感覚からいくとどうかと言うと、やっぱり二元論的なものの考え方がある程度幅をきかしていると言ってもいいし、現実にも妥当しているのではないかと思うわけです。霊界の世界といっても、まあ高次元世界は別としても四次元ぐらいまではこの二元論は妥当しているのではないかとこのように言えるんじゃないかと私は思うんですね。だから、どちらのほうがより人間の理解のためにはわかりやすいか、ということが言えると思うんです。

つまりね、光一元、光明一元と言っておれば、もう努力の余地が多少なくなるんじゃないかという感じが私はするんですね。ああそうですか、そのとおりですね、お説ごもっともですね、それでどうされるんですかって言ったら、いや輝いているだけだ。光っているだけだと言われたらもうどうしようもないですね。

ところが、私はやはり人間は人間としてある程度、主体性をもって努力して生きていくべきだと思うんですね。その主体性をもって努力していく人間のとりあえずの目標はなにかというと、人生を生きていく過程でいろんな出来事が起きるし、それに対していろんな思いが出てくるけれども、その思いおよび行動というものがね、ほんとうに神様の歓迎するような思いであり、行動であるのかどうかを一つ一つ点検していく生き方、これがやはりだいじなのではないかと思うんです。

そういうことですから、究極には光一元があるとしても、ただ出発点においてはやはり人間というものは正しい行ないもすればまちがった行ないもする傾向があるのだから、だからこそ正しい方向へ善導していく必要があるんだということですね。また、闇というものはもちろん積極的存在ではないけれども、善というもの、光というものをくっきりと浮かび上がらせるという、そうした素材としては消極的に存在が許されているのではないか、すなわち悪は善を伸ばすための素材としてありうるのではないかと、そのような感じもしないでもありません。

それゆえにね、九次元まで行ってまだ二元論言ってるのかという人もいるかもしれませんが、人間という視点から見たときにはどうしてもそうした考え方を取らざるをえない、と私は思うんですよ。だって現に私の霊言読んで、これを本物だという人と偽物だという人と二人いるんですね。二種類の人間が明らかにいるんです。ところが真実は一つですね。違いますか、みなさんどうでしょうか。これが高橋信次の霊示集かどうかね、これは真実は一つですよ。まあ本人が本人だと言っとるんだから私は正しいものだと思ってますが、しかし信じる人と信じない人と二種類いるでしょう。でも答えはどっちかなんですね。するとどっちかがまちがっているはずでしょう。違うでしょうか。正しいと言う人が合っているのならば、偽物だと言っている人はまちがっているわけですね。これは悪ですね。違いますか。そうでしょう。だから、イエス・オア・ノーがはっきり出るんですね。これはどうしようもないんです。

ただ、これを一元論的にとらえるとすれば、今私の霊言を認めていない人であっても将来的には認める可能性のある人なんだ、ただ気づくのが遅いだけなんだと。まあこのような考え方もあるでしょう。時間の流れというものを見たらそうした考え方もあるでしょう。そちらのほうがいいならいいということも言えるでしょうが、やっぱり会議でもなんでも結論を出すときは一定の時間のなかで出さなきゃいけないんでね、締め切りっていうものがあるわけです。だからこの締め切りという観点から見たときに、やはり善悪は出てくることはあると、このように考えてよいと思います。


3.具体的勢力としての闇


では、闇はそのように消極的な産物で、光の部分がまだ現われていないだけなのであるのかどうかという問題について、さらに話をしてみたいと思います。

たしかに、あらゆる霊には仏性が宿っているということは真実です。地獄にいる者たちであっても、その本質は神の子としての光を宿しています。これは事実です。なぜならば、彼らも反省ということを通して悟ることが許されているからです。そして、悟りによって天国に上がることが許されているからですね。その意味において、たしかにあらゆるものは仏性を含んでおり、善の芽生えを持っているということは言えるでしょう。しかし、今一歩現象論として見たときに、実際論として見たときに、闇の勢力というものがあるということも事実であります。

それはね、ある意味ではたとえば酔っ払って車の運転をしているような人たちかもしれません。彼らは酔っ払ってるからもう感覚がマヒしていますね。それゆえに、道路の右側を走ったり、人をはねたりすることがありますね。こうしたものはなにかっていうと、これはやはりひとつの悪の現象が出ているわけですね。本来まともな人間だからと言っても酒を飲んで暴走しているという現実がある場合、こうしたときにはこれをなんとかして阻止するのはこれは当然のことであると思うんですね。そうしないと、多くの人たちがますます傷つくことになり、苦しむことになるわけです。そうしたことがあるわけです。それゆえに、そのような一時的な姿ではあるし、迷える姿でもあるとは言えましょうが、闇というものが具体的勢力として出現していることも事実です。

現に多くの宗教団体を迷わしている悪霊群の存在、これは事実としてあります。そしていろんな人のところにとり入って、彼らを操っています。また、霊能力を持っていたり霊道を開いたりした人たちであっても、その心の状態が悪化すると、すなわちこの闇の勢力のとりこになっていくことが多いのです。自らの正しき心の探究ということを忘れて、自分は偉いんだというように増上慢になっていったときに、この心を舵(かじ)取る人がいなくなっていきます。そうして、こうした具体的勢力としての闇に支配されていくようになってゆくのです。

そしてこれは光の天使であっても阻止することがひじょうに困難であるのです。なぜならば、人間の心にはすでに説明したように、波長の原則というのがあります。つまり同じ波長の者どうしが引きあうという法則があるのです。それゆえに、地獄の悪魔たちの波長に合うような波長を出している人たちは、彼らのとりこになってゆかざるをえないのです。たとえ霊能者であっても、波らに私たちから通信が送れるかと言えば送ることができないでいるのです。

たとえば、今私は〇〇さんという方にこのような霊示を送っています。瞬時にコンタクトすることができ、送ることができますが、では〇〇さん以外の人に私が霊示を送れるかっていうと、送っても受け取ることができないんです。なぜ受け取ることができないかというと、九次元の波動を受け取るには九次元の波動を受けとるだけのアンテナがいるんです。その周波数に合ったアンテナがなければ、私たちがいっくら電波を発信してもそれを受け取ることはできないんです。

もしこれができるならば、歴史上の預言者は必要がなくなるんです。そうじゃないでしょうか、皆さん。旧約聖書の時代から預言者というものがいっぱい出てきました。なにゆえにですか。神の言葉を伝えるためにでしよう。違いますか。神の言葉を伝えるために、預言者という優れた人たちが出てきたんでしょう。そして、アンテナ役になって神の声を受け取り、それを人びとに伝えたんでしょう。たとえばエレミヤだってそうでしよう。エリヤだってそうでしょう。違いますか。そういうことですね。

したがって、過去預言者が続々出てきたということ自体が、神の声を伝えることができるのは選ばれた人であるということを意味しているのです。どのような意味において選ばれているかというと、ふつうの人ではそのキャッチができないということですね。キャッチできないんです。なにゆえにできないかというと、心の波長を整えることができないからなんです。

みなさん、電流はいったいなにに流れますか。電流を流すことができるのはそれは伝導体ですね。伝導性があるものだけです。たとえば、銅の線でふつうは電流がよく流れますね。銅線によく流れますが、この銅線に絶縁体をかぶせたら電流は流れると思いますか、みなさん、流れないでしょう。違いますか。そうですね。絶縁体をかぶせたら銅線にも流れなくなっていきます。同じように、地上に生きている人間というのは心がひじょうに三次元的波動に染まっているんです。そして、その心の曇りがちょうど銅線にかぶせた絶縁体のような役割を果たしていて、電流が流れなくなっているのです。この電流を流すためには、こうした精妙な波動を出せるところまで心を浄化しなければ無理なんです。

そして、高次元の霊の波動を受けるところまで心を浄化するということは、末法の世の中においてはひじょうにむずかしいことなんです。そのためには地上に生きている人間の努力もいりますが、やはりそれだけの大きな力量を特った人が出る必要も同時にあるのです。それだけの実力者が出なければ、なかなかそうしたことはできないという事実があるんですね。こうしたことを知っていただきたいと思います。この法則がじゅうぶんに理解できていないと、魔というのが人間にとり入ってきます。そして、霊能を持っているだけで、あるいは霊道を開いているというだけで高級霊から通信を受けたと称し、あるいは彼らとコンタクトができるということを称するようになって、そして迷わされていくことになるんです。

したがって、具体的勢力としての闇と戦ってゆくためには、この心を浄化させるということがひじょうにたいせつです。そして、彼ら高級霊の波動と同じ波動を出さなければ無理だということを知ってください。特に地上にいて怒りに燃えているような人、愚痴に燃えているような人、憎しみに燃えているような人に、八次元や九次元の如来の通信は絶対にできないということを、私は声を大にして言っておきたいと思います。


4.闇を打ち破る方法


さて、具体的な方法として、さらに闇を打ち破るためにはどうしたらよいのでしょうか。その方法はいったいどこにあるのでしょうか。これを考えてみたいと思います。

闇というちのも、人間的な視点から見たら実在するようにも見えるし、現に敵対するようなこともあるということを私は話をいたしました。この闇を打ち破る方法はね、ひじょうに困難な方法ではあるんです。またひじょうに遠回りな方法でもあるんです。しかし、それは確実な方法でもあります。闇を打ち破るのは力ではありません。それを打ち破るのは、忍耐のある愛なのです。

人をほんとうに善くしようと思ってじっと耐え忍びながら愛していくような力、こうしたジワジワと太陽の光のごとく雪を解かしてゆくような力、これが根本的に闇を打ち破っていく方法のひとつなんです。彼らをひっ捕らえてギロチンにかけるというような方法は、これはまた地獄のあり方なんですね。春の太陽がさんさんと射し始めて、根雪が少しずつ少しずつ解けて春の小川となって流れていくように、闇を打ち破る方法はじつは積極的なる方法というものではないのです。

みなさんは、あの北風と太陽の話をごぞんじでしょうか。旅人がコートを着て歩いているのを見て、北風と太陽がそのコートを脱がそうとして競いあうわけです。そして、まず北風が「私がこの力でもってビュンビュン吹いて吹いてすれば、あの旅人の着ているコートはすぐに吹き飛んでしまうよ」と、このようなことを言って北風がビュンビュンと吹きつけますが、そうすると旅人はどうしたかというと、これはたいへんな寒さだ、これでは凍えてしまうということで、しっかりとコートをおさえてしまい、コートをますます脱がなくなってしまったんです。そして、北風がいくらやってもダメたったわけです。

そこでとうとう北風もギブ・アップしまして、「太陽さん、ダメだったよ」とこう言いますねえ。では太陽が「じゃあ私がやってみようか」ということで乗り出してきます。北風は、太陽みたいなあんななまぬるいことで絶対コートなんか脱がせられないと思うんですが、太陽が出てきてニコニコニコニコしながら光を射していると、旅人はだんだんだんだん暑くなってきてポカポカポカポカしてきました。それでとうとう汗だくになってたまらなくなってコートを脱いでしまいました。北風は腕力でやろうとしてだめだった。太陽のやさしさに勝てなかった、という寓話ですね。

私はね、闇と闘うということも結局こういうことだと思いますよ。叩き潰すなんていう考え方は、北風ビュンビュン吹かしてコートを脱がそうとしたのと同じことですね。闇と闘うにあたっては、この太陽のようでなければいけないのです。すなわち、少しずつ少しずつ熱エネルギーを放射して暖かくしていくことです。そうしてコートをいつまでも着ていられなくするようにすることです。まあこうした方法論がいちばんだいじであると思います。ですから、きわめて回り道ではありますけど、結局それしかないんですね。

そして、自分自身のことを言うとするならば、自分自身はどうしたらいいかというとあのストーブの反射板かなんかのようにね、ピッカピッカに光っておいて、そしてストーブの光をはね返す、熱をはね返すことですね。そのようにしておけばいいんです。心のなかがいかに苦しくともね、いろんな批判を受けて傷つくようなことがあっても、心をつねにピッカピッカに磨いておくことです。そうすれば、いろんなものがみんなはね返っていきますね。そうしたものです。ですから、個人の努力としては自分の心を一生懸命光らすように努力すること、これがだいじです。そして、他を説得する方法としては、あの太陽のごとくジリジリと照りつけていくことですね。こうした方法がいちばんであると言えましょう。


5.謙虚さの重要性


さてここで、私は前にも言ったことがあると思いますが、「謙虚さの重要性」ということをもう一度くリ返しておきたいと思います。

いろんなところで神理を説いている人、教えを説いている人が多くいるでしょう。そうした人たちは、とにかく我こそ神理なりと居丈高(いたけだか)になりやすいのですね。これが神理だ、どうしても伝えなければいけない、世の人びとをめざめさせなければいけない、彼らの頭をたたいてでも目を覚まさせたいと、こうした気持ちでもってやるんですが、そうして魔と闘っているうちにね、いつの間にか逆に彼らの掌中(しょうちゅう)にはまってしまって、術中にはまってしまってとりこになっている人が多いんですね。心の窓を開いたときには高級霊の光を受けることができ、守護霊の声を聞くことができた人が、いつのまにか彼らの術中にはいっていくことが多いんです。

なぜかと言うと、まず霊道を開いたという経験によって非凡なものを経験することですね、これによって自分はまったく違った人間ではないのか、まったく別種の人間ではないのかという自覚が生まれてきます。そのうちそれが確信になってくるわけです。そうすると、「自分は決してまちがいをするはずもない。自分は人に頭を下げるような人間ではないのだ。世の人びとは自分の決めたことをとにかく鵜呑(うの)みにすればよいのだ」と考えるようになり、そして自分の考えを人びとに押し付けていくようになります。そして、それを受け入れない人に対してはサタンだというようになります。こうして、裁きというものを始めるようになってくるのです。

したがってね、どんな優れた人であっても、だんだんに人を裁く傾向が出てくるんですね。この人を裁く傾向が出てきたときに、これはひとつの危ない迷い道であるということを知らなくてはいけません。そうかんたんに偉くなってしまわないということがとてもだいじであると、私はそのように思います。

この方法はいったいどこにあるかと言うとね、やっぱり謙虚さだと思いますよ。謙虚に生きることですよ。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の心境でね、実れば実るほど頭を垂れていくということですよ。それとね、評判が上がれば上がるほどね、「まだまだこんなものでは本物ではない。自分はもっともっと基礎力をつけてじっくりと仕事をしなきゃいけない」という、こうした気持ちがだいじだと思います。

したがって、たとえば学校の生徒であれば、試験を受けてその点数がよければすぐ有頂天になるんじゃなくてね、よければよいほどね、ますます勝って兜(かぶと)の緒を締めよで、「これではいけない。こうした力はまだほんとうに自分の実力であるはずがない。もっともっとこれは勉強しなきゃいけない」という、こうした気持ちで努力していくことです。そこにほんとうの道が開けてくるんですよ。

だから私は正法行者たちに、宗教家たちに言いたい。謙虚な気持ちを持つことです。謙虚な気持ちを持つためには、ひとつには目標を高く持つことです。遠大な目標を持つことです。人類の悪がなくならない限り、自分の使命をまだ果たしていないと思うことです。さすれば自分ちそれほど不完全な人間であるならば、使命が果たせていない人間であるのならば、どうして他の人を裁くことができましょうか。他の人をダメだと言い切ることができましょうか。そのようなあったかい気持ちで生きていくということが、とてもとてもだいじなことであると私は思うのです。

何度も何度もくり返して言っておきます。どうか謙虚であっていただきたい。かりに過去世にあなたがなんであるということを聞いたとしても、あるいは今世においてあなたが大臣であろうが、どんな偉い方であろうが、どんな収入を持っているような方であろうが、しかしそうした外見の飾りがりっぱであればあるほど、ますます謙虚に生きていく、ほんとうの中身を創っていくという態度がだいじになってくるのです。自分だけが決してまちがわないとか、特殊な人間だとか、どうかこうした考え方を持たないようにしてください。そして、自分の仕事というものを、生き方というものを第三者の目で正しくみつめなおしてください。そこに、ほんとうに正法行者としての正しい生き方があると思うのです。