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目次









(1988年9月12日の霊示)

1.親子の葛藤(かっとう)とはなにか


高橋です。セックス・トラブルにひき続きまして、親子のトラブルの問題に入っていきたいと思います。今日もほんとうに嫌な題が続きますねえ。もう私も苦戦です。大苦戦です。しかし、全知全能をめざす私としては、やはり答えられないものがあると思われたくない。すべてのものに答えてみたい。しかし、親子の葛藤なんていうのも他人事(ひとごと)じゃなくて、なんかどっかにもあったからねえ。なんか身内にもあったりして、なんかややこしいですねえ。

やっぱり親子の葛藤ってあるんですねえ。人間だから、やっぱりむずかしい問題があります。描なんかねえ、ああいう動物なんか、一年か二年で大人になっちゃって、そして独立しちゃったら、なんか忘れちゃったりすることもあるんですねえ。親子であることさえわからないなんてね。で、親子で子供つくっちゃったりして、いろんなことがあるんですよね、たまにはね。ところが人間は、二十年間ぐらいかかりますからね。そして、だいたいこの二十(はたち)過ぎた当たりから、また葛藤がしばらく始まるんだね。だいたい三十ぐらいまでの間はねえ、親子の葛藤というのがあります。あるいは、十代からもあるかもしれないけれどね。

結局、子供っていうのは、親にとっては、この愛情のはけ口であったんだね。生きがいであったわけだ。まあ子供が生きがいでね、二十年かかって大人になるっていうのは、やっぱり、その家庭をつくるということに、神様がそれだけの重要な意義を見出していたんだよ。家庭生活を送るということは、人間としての愛の営みである。そして子供を育てるということが、意義のあることだと見てたわけだね。それで、女性の仕事もそこにつくったわけだ。

そして、手塩にかけて子供をつくっていくことによって、愛とはなにかということを実体験せよと、こういう気持ちであったんだと僕は思うんだね。親の愛をそこで痛感するわけだね。親の愛を知ることによって、神の愛というものが、どういうものかがわかるということだ。子供を育てることによって、神の愛を知る。神がどんな気持ちでもって人間たちを育てているかね。これがわかるというわけだ。

だけど、手塩にかけて育てたもんであっても、二十歳過ぎたらだんだん独立していくんだよね。この葛藤はありますよ。神様もやっぱり葛藤があるかもしれないね。人間を愛して人間を育てたんだけど、今度自由意志持っちゃって創造の自由なんて発揮し始めると、人間が暴れちゃってね、戦争を起こしたり、いろんなことして神様に反抗しますね。争っちゃいます。こういうことがあって、まあ同じことはくり返しているのかもしれません。

親子の葛藤なんて言って、まあ父と息子の葛藤なんかも後で出てきますし、逆に父と娘もありますねえ。父親は、娘が可愛くて可愛くて、もう手放したくない。男が出てきたなんていったら、竹刀(しない)持っていって、「わしがなぐりつけてやる」なんて言って、ものすごい剣幕になったりしてね。もう娘が帰ってくるときは、駅までお父ちゃん迎えに行ったりしてね。もう男なんか指一本さわらせないなんて言って、木刀かなんか持っちゃったりしてね。そういうこともあるかもしれないね。

あんまり可愛いんでもう手放さないで、県外の大学なんて絶対やらないとか、ありますね。手元においておく。娘は手元においとかないと危ないということで、都会に出さない。そういうこともありますね。ところが、娘は優秀過ぎて都会に出たいなんてね、こういう葛藤もあります。まあいろんなことがありますね。

結局ねえ、親子の葛藤とはなにかというと、そこにさまざまな人生の愛情劇が出てくるんだね。愛憎となることもあります。愛と憎しみの両面が出ることもあります。ただね、子供から見れば、やはり親はどっちかというと、セミの殼のように脱ぎ捨てていかれるんだよね。捨てていかれる面で、捨てられるほうは何とか捨てられるもんかと思ってがんばるんだよね。セミの殼みたいにくっついているんだよね。それで、今までだいじにあつかってきたものが育っていくというのは、やっぱりどこかさみしいもんだよね。だから、いつまでも手元におきたい感じもするし、このへんの葛藤についてもね、正法でまだまだじゅうぶん説かれていない、法の欠陥の部分だと私は思っていますね。

じゃあ親子の葛藤について、神理で明確に説いた人いるかい。だれかねえ。どうだいみなさん、キリスト教でなんて言ってる。仏教でなんて言ってるかい。仏教で、まあ、お釈迦さまとお父様が出てくるけど、あれで親子の葛藤について解決ついているのかい。どうだい。親捨てて出家しちゃったというだけだよね。で、後継ぎませんでした。親は悲しみました。死にました。釈迦族は攻め滅ぼされました。ハイさよならでした。それでお釈迦さまも死にました。ハイ一巻の終わりでした。

あれは何なんだよ、親子の葛藤はね、あったと思いますよ。夫婦の葛藤もあったし、また釈迦とラフラっていう子供との葛藤ね、これもあっただろう。あれはいったいなんだったのだろうか。お釈迦さまは、家庭問題についてほんとに解決つけたのか。家庭の法はどうなのか。そうしたことについて、やはり仏教でも法が欠けとるのではないのかと、まあそのように思えるわけですね。

偉そうに言っているけど、GLAはじゃあ法が欠けていたか、欠けていなかったかと言われると、私も頭に何かかぶって逃げちゃいますけれどもね。ほおかむりしちゃいます。「さあ知りません」なんて言ってね。じゃあ二番目に入りましよう。


2.父と息子、母と娘の葛藤


まず、父と息子の葛藤について、話をしたいと思いますが、そうだね、まあ、父が優秀な場合とそうじゃない場合とふたとおりあるので、場合分けしなきゃいけないね。父が優秀な場合、息子がそれを見習って優秀になる。ただこのときにどうだろうね、息子のできでふたとおり出ると思うんだよね。息子がひじょうに優秀である。優秀すぎる場合もあるね。それで、親としてもおもしろくなくなってくる。こういう葛藤がある。あるいは息子のできが悪かった。いわゆる愚息だね。愚息の場合、愚息ゆえに父の苦悩がある。いつまで経っても独立ができない。こういう父と息子の問題はあると思います。

母と娘もありますね。これを言うと私もひじょうに苦しいんだけども、娘のほうがね、母より偉くなろうなんて思うと、血みどろの葛藤が起きたりすることもありますね。それとか、逆にまた、母があんまりこうなんて言うかね、優秀であったり、恵まれてたりすると、娘は女として競うというところもあります。母が、つまり自分の父親だけれどもね、ファザコンとも関係するが、いい人と結婚してるとね、娘はやっぱり競争があるもんだから、母以上にいい人と結婚しなきゃ損だというようなとこもあります。こんな葛藤もありますね。母と娘との葛藤も、まあそこそこすごいものがあります。

この同性どうしですね、男親と男の子、女親と女の子の葛藤は、結局ねえ、どういうところに生まれるかというとね、この劣等感と自尊心とのないまぜのところがあるんだね。やはりねえ、これは親の心を縛る念波とひじょうに関係があるんですね。だから、親自身が、あるいは父、母、それぞれがね、自分の独自な世界において幸福である、要するに息子がいなくてもね、独立しても幸福である、娘がいてもいなくても幸福であるという、こうした状態であれば、葛藤は起きにくいんだな。

ところがねえ、母と娘の場合の葛藤などでも、お父さんがいなくて一人娘っていうのね、これ嫁にいけない典型的な例だよね。母と娘のこの家庭ね、母子家庭じゃないけど、母と一人娘、それで家の後継がなきゃいかんという場合、この葛藤は結構激しいですね。この場合、母と娘だけ二人家族というのは、これいちばん結婚しにくいパターンですね。なぜかというと放さないからね。娘をいつまでも置いといて、母親としては、自分の老後を見させたいなんて思うしねえ。でも娘としては、それだといい人出たときにどうすりゃいいのって言うね。結局、お嫁に行きたいときに行けないという、この葛藤も大きいです。

基本的にはね、母と娘の葛藤の場合にね、まあ父と息子と同じことがあるわねえ。息子が好きになった女性が出てきたとする、父親がそれが気に食わないなんていうのはよくありますね。それでどっち取るかっていうんで、板挟(いたばさ)みになったりするようなことありますね。父親がその嫁が気に食わないというたいていの場合は、嫁が気が強い、気性が強い、我(が)が強くて、それと結婚すると、息子は完全に尻に敷かれるに違いないと思う場合ですね。尻に敷かれるとどうなるかというと、尻に敷かれると親を煙たがる、邪魔もの扱いする、粗大ゴミにするんではないか。ひいてはわしが病気しても、ねえ、寝込んでも知らん顔して、うば捨て山でも行け、病院にも勝手に行けというような、そういう息子夫婦になるんではないかと思う場合ですね。だいたいこのタイプ、この恐れがいちばん強いです。だから、父親としては、もうお父さん、お父さんと言ってくれる娘にしたいと思うわけですね。

ところが、息子はそういうのが気に食わない。「親のためにもらった嫁じゃねえんだ。俺の嫁さんなんだよ。おやじの世話するためにもらったんじゃねえんだ」って、こういうのはいつの時代にもくり返しています。歴史はくり返していますね。そうなんです。親の気に入るようなのは、息子は気に食わないのですね。

まあそれはそうです。おやじさんとしたら、ねえ、そのたとえば嫁さんになる人のセックス・アピールなんて全然関係ないもんね。気立てだけが問題であって、お父さん、お父さんと言って尽くしてくれりゃいいんだけれど、息子としちゃあ色っぽいとかね、あるいはお尻が大きいとか、おっぱいが大きいとか、やっぱり関係するもんね。頭がいいとか、悪いとかね、関係するよね。そういうことがありますから、価値観が違うわけですね。

これはねえ、まあ結論から言うと、もう息子あるいは娘の幸福を考えてやるのが正法にかなっていると思ってください。親というのは親である以上、いつかは捨てられるもんだというのは思っとかなきゃいけないんです。いつかは捨てられるということにたえられないと、自縛霊(じばくれい)になるんです。基本的にはね。地上に執着が残ってね、家とか土地に執着残って自縛霊になるんです。いつかは地上を去っていかねばいかんのです。その地上を去っていく前の準備期間としてね、練習期間として、子供にまず捨てられるという経験をするんですよ。それで、子供のことを忘れられたら、執着を去るという第一段階の魂の修行が終わるんですね。

だから、母と娘の場合もそうです。もう娘を嫁に出すことです。家の相続なんか、家なんかもう売っちゃえばいいです。そんなもんね、お母さん一人になったらね、なるならもう家、土地売って、そのお金でもって老後の資金に当てなさい。それでいいんです。自分の葬式だけやってもらえばいいんだから、もう一人で生活しなさい。そして娘は嫁に出してやることです。好きな人がいたら出してやりなさい。

そうしないと、娘を縛りつけて、娘四十、五十までおいとくと、一生恨まれます。そして、そのお母さんも多分死んでたいてい自縛霊になりますから、仏壇かなんかに取り憑いて出てきますし、娘はまたあの母ちゃんのおかげで私は不幸だったと言って、結局娘の代で家絶えちゃうんですからね。自分の代で絶えるのがいやなだけで、娘の代で絶えちゃいますからいっしょです。

だからね、今こういう場合、父と息子、母と娘でもいいけど、基本的には息子、娘の幸福を中心に考えなさい。ね、いいかい。お父さんさみしいかもわかんないけれども、いつかは地上を去っていくんだよ。だから、息子に捨てられたら、早めにあの世に行く準備しておけばいいの。ね、そうすればあの世でまたなかまが待っているから。この世でさみしくなったらあの世に行くことが楽しくなってくるんだよ。そして、あの世でなかまがいっぱい増えて楽しいんだよ、ね。この世は楽しすぎると、なかなかあの世に行けないの。だから執着だと思いなさい。

母と娘の問題は、もう娘嫁に出してやりなさい。もう娘二十五過ぎて三十、三十五になったら、もうどこも行き場がないよ。だから出してやりなさい。そのために自分はさみしくってもいいから、もう家、土地売ってね、そのお金でもって養老院入ること。そしてゲートボールの友達つくることです。そして生きてゆくことです。そうじゃないと、自縛霊になっちゃいますよ。ねえ。私はそう思いますから、この同性どうしの葛藤の場合には、とくに、やはり子供の幸福というのを中心に考えてゆきなさい。そして、年寄りは捨てられるもんだと思って生きなさい。

そんなの我慢ならんとおこる人いるでしょう。私の本読んで頭に血がのぼって、これだけ私がニ十年間も育てたのに、三十年間めんどう見たのに、そして老後の親を看るのは当然じゃないかとおこる人いると思う。けれど、あなた方だって親に生んでもらって、育ててもらったんじゃないの。自分たちはそんなことないと思っているかもわかんないけど、そんなことはないよ。やっぱり世話になっているんだよ。自分らも親にやってもらったことをね、これのお返しの意味で子供を育てていると思いなさい。だから、子供育てることによって、子供のお返しを求めちゃいけない。子供は親に育ててもらったことを、自分の子供に対してお返しをして与えていくんです。ね、それでいいんだ。

だから、親孝行しなくていいから、自分の子供を育ててしっかりとやっていきなさいと、それがお返しになるんだよと、こういうことで循環させてゆきなさい。いいかい。自分は自分で親に育ててもらって、その感謝も何もしなくてね、それで子供育てたら、その子供に感謝を強いるなんて、こんなのはだめだよ。こんなのは欲望の固まりだよ。いいかい、そういうふうに考えなさい。


3.マザコン・ファザコン


この3節では、前節の逆の部分といいますかね、組み合わせで、ちょっと違う組み合わせを考えてみたいと思います。母親と息子、父親と娘ですね。これについて考えてみたいと思っています。

いわゆるマザコンの問題ですね。これはありますね。息子が学生やっているのに、いつも母親が上京してきては、土、日になったら下宿の掃除をするね、パンツは買ってくるね、洗濯にくる。卒業式にはついてくるねえ、新入社員研修に母親がついてくるね、地方転勤のときにも母親がついてくる。「何だあれ」って言われるようなのですね。

私も読んだことがあるけれども、大蔵省かなんかのエリート官僚がねえ、税務署所長で二十七、八で地方転勤するときにまだ独身なんだよね。独身で、まあ母親がついてきて、「みなさんよろしくお願いします」なんて、あのお願いして回っているなんてね。これマザコンですね。典型的なマザコンです。こんなの聞いたことあります。

それからファザコンもありますね。娘の、お父さんが要するに理想の男性という、まあよくあるパターンですね。これゆえに、どの男性もたよりなく見えるわけですね。そりゃそうだよ、年齢違うからね。自分の結婚年齢の男性なんて、たよりないのに決まってますよね。ところが、お父さんていったら、あなた、もう五十代から六十ぐらいで、たとえば社会的に地位があったり身分があったりするはね。お父さんだって、二十代の時どうだったかと言ったら、たいしたことなかったのに決まっているよ、そんなにね。

たとえば、お父さんが会社の社長やっているとしようか。ねえ。そして、理想的な男性として娘は見てきたとしようか。それでお父さんの会社に働いている若手がいるかもわからんけども、お父さんと比べたらどうかというと、社長と平社員だよな。たよりないに決まっているよね。そんなにね、「なーによあれ、チンピラ」と思うけど、今の時点で社長だったらいいけどね。そんな社長になるような人と今の時点で、その若い時点で結婚すると、大変なことになるんだよ。わからないもんね。

だから、女性にとっても、それだけ見る目を試されるんだね。将来成長株かどうかは、それはわかりません。それを見るのが自分の器だし、それを見抜けたら、自分もそれだけの女性なんだよね。見抜けなければ馬鹿なんだな。それだけのことです。だから、ファザコンというのは、やっぱり気の毒な面もあるね。そらお父さんは社会的地位もあれば、お金もあるんだからね。それと一緒にはいかないね。

こういう意味でいくと、マザコン、ファザコン考えてみると、両親がたいしたことないというのはありがたいことだねえ。みなさんどうだい。ねえ。逆のことを考えている人がいるだろう。親が偉ければってね。お父さんがもっと出世しててね、お金持っとれば、娘でもどれだけ嫁入りにいいかとかね。あるいは息子でも、親に金あれば、私立大学の医学部に行けたのに、だから東大の医学部に受からなかったらしょうがねえじゃないか、なんていうのもあるしね。親に金あれば就職先もよかったのに、コネがあればと思うかもしれないけれども、逆に親が偉くないからね、自由独立でやれているかもわかんないよ。独立心旺盛で、もう親のコネなしだからね、親の力なんかなんにもないから、よーし自分は自分の力でやるしかないということで、それでね、一生懸命努力することによって道が開けることはあるね。

僕はねえ、どっちがほんとうの意味においていいかって言うと、やっぱり親に力ないほうが僕はいいと思うんだよね。やっぱり自分の才気でね、あるいは努力で道を拓(ひら)いていくのが、やっぱり人間いちばん幸福なんだよ。だから親としては、まあ教育をつけてやるとこまでは親がやってくれたらいいねえ。勉強だけさせていただけたら、できたらこれ以上のことは望んじゃいけないよ、ね。勉強だけさせていただいたら、後はもう自分の努力でね、もう社会人になったら道切り開いてゆくべきだよ。親からの仕送りがいくらあるとかねえ、親にマンション買ってもらったとかねえ、親に持参金いくらもらったとかねえ、こんなもんで勝負しちゃやっぱりいけないよ。自分の器量と努力でね、やっぱりやっていかねばいかん。僕はそう思うね。

だから、マザコンなんかでも、お母ちゃんが息子を愛しすぎるっていうのはあるけれども、これはたとえば父親(夫) への不満がある場合もあるね。父親(夫)なんかおもしろくない、くだらないと思って、息子にすべての愛を投入する。こういうのもあるし、息子からいくと、母親が昔で言う理想的な母親だったなんていうのもあるでしょうなあ。まあ、日本ではあんまりないんだよね。ほんとの意味での、マザコンていうのは。

西洋なんか結構あるみたいだね。お母さん四十になっても五十になってもセクシーでね、きれいっていうのがありますね。女優さんみたいなんですね。日本ではあまりいないですね、たいていだめになっていきますから。そういう意味で、若い女性とお母さんと比べれば、お母さんの方が年取っていますから、男の場合は若い女性の方が基本的にいいんですね。そういう意味で、あんまりあり得ないんだけどね。二十代の女性みたいな力も、魅力もないんだから、それはお母さんにあるはずもないね。

そういうことはないんだけど、ただ、ひじょうによくできたお母さんということはあり得るでしょうね。そのときに、やっぱりそのお母さんと比較して、若い娘さん見るとうまくいかないとこはあるだろうね。それはなんでかっていうと、たとえば料理なんかでいってもね、ニ十年、三十年の家庭の味、お袋の味っていうのはね、これはやっぱりプロですよ。ねえ、料理ひとつにしてもね。だから、お母さんがたとえば極端な美人で、まあ美人て言っても、五十ではたいしたことないだろうけど、まあ美人ゆえに、他の女性に目が行かないとか、お母さんがひじょうに頭がよすぎてね、馬鹿な女性がいやになるとかね、こういうこともあるし、あるいはお母さんの料理が上手すぎるから、ふつうの人の料理は食べられないとかね。

まあこういうのもあるかもしれないけど、だから、お母さんもたいしたことないほうがほんと基本的にはいいね。りっぱな人だったりしたら、影響受けてやってもいいし、りっばでなければ、またいいの見つけりゃいいんだしね。

典型的な「孟母三遷」の教えっていうのがありますねえ。孟子のお母さんですね。子供の学習環境に悪いとなったら、すぐ家ごと転校させるわけですねえ。ご主人は何してたのか僕は知らんけども、いなかったのかも知らんが、すぐもう引っ越しですね。学習環境のいちばんいいところに移って、勉強させられた結果、偉い人になりましたという成功談ですね。これもありますね。まあ、でも念で縛られるというのは人間つらいもんですよね。

このマザコンの場合には、やっぱり結婚の相手の女性が出てきたときに、問題が起きるでしょうね。女性との奪い合いですね、奪い合いが起きる。これが問題ですね。その場合、たいていやっぱり父親に魅力がないんだろうね、普通はねえ。関心があんまりそっちにいかないもんだから、子供にいっとるんだろうね。

とくに、一人っ子の男性なんていうのは、いちばんきつかろうねえ。一人っ子で、目に入れてもいたくないぐらい可愛い息子なんていうと、もうお母ちゃんなんてつきっきりになっちゃうね。「何とかちゃん、何とかするんですよ。何とかちゃん、何とかですよ」と言ってね。「何とかちゃん、あんな女にだまされちゃいけませんよ」とかね。「何とかちゃん、会社行ったら、上司にこうやって挨拶するんですよ」なんて言うタイプのお母さんですね。つらいですね。

基本的に僕は思うんだけど、男も男でねえ、どこかでやっぱり、母親の支配力を切らにゃいかんところもあるんじゃないかなあ。そう思うねえ。だから、それはね、過保護で育ってきた証拠だと思うから、世の女性のなかから、優れた資質を見出す目を作っていくことだと思うね。

自分にとってね、理想的な女性は、現にあるものをというか、現に完成したものを手に入れようとするのではなくてね、やっぱりつくっていくもんなんだよ。だから、素質だけよければいいと思わなきゃいけない。素質のいいと思われる娘を選んでね、それを教育して、理想的な女性にしていくように工夫することだと思うね。現時点では母親のように物知りじゃないかもしれないし、それほど社交が上手じゃないかもしれないけども、自分の手で妻を鍛えていくということをね、だいじにしていったらいいと思うよ。

それとね、マザコン、ファザコンとも両方いっしょだけれども、結婚適齢期、人生の時期の流れを見ていて、もう結婚するときがきたなあと思って、そのときに、男性なら結婚の相手の女性が出る、女性なら結婚の相手の男性が出たときにね、お父ちゃん、あるいはお母ちゃんが反対したとしてもね、自分としては、この人と今結婚するのがいちばんいいと思ったら、やっぱりこれはね、親の意見を無視してでもすべきです。これをしないと、後ズルズルと行きます。苦しくなって、親が早く死んでくれればいいなんて、親が死ぬことを祈るようになりますね。こんな不幸な子供になってしまいます。

だから、やはり親の支配権もあるだろうけど、ここ一番という勝負のときになったら、もうそれを切ってでも一時期、親不幸してでもいいから、自分の理想的な相手と結婚したらいいと思う。で、一年ぐらいすればまたわかってくれるからね。一年、二年して、また孫ができたりするとね、親もわかってくれるんだよ。親というのは、だいたい基本的に過保護で心配症なんだよ。だから、その心配症を真に受けていたら、いつまで経ったって理想的相手なんか出てきやしないんだ。

親はあなた方を、子供を理想的だと思っているかもしれないけど、もういちばん可愛いと思っているかもしれないけれども、他にも世の中には、自分の息子や娘が理想的で、可愛いと思っている人いっぱいいるんでね、基本的には相手から見ればおんなじなんだ。

だから、ここ一番勝負と思ったら、娘さんでもね、やっぱり家飛び出すぐらいのつもりで結婚したほうが僕はいいと思います。それが長い目での人生の勝利です。その判断については、自分で全責任を負うことですね。男の子なら当然のことです。母親や父親だけで相手を選んでもらおうとしないで、自分の目で見て、これでいいと思ったらね、親が反対してでも押し切ってやっぱりしたらいいと思う。そして、結果、実績で説得するという方針とることだよね。

結局いけないのが、親の反対する人と結婚して、結局やっぱりだめだったというのがいちばんだめなんだよね。それに対して、やっぱりそうだったでしょうと言われないようにがんばることですね。ここに努力の部分があると思います。

だから、マザコン、ファザコンもあると思いますし、そうした場合には、たいてい理想的な親がいたんだと思うね。それについては感謝しましょう。子供の時代に、そういういい環境下で感化を受けて育ったということは、感謝しましょう。ただ、孟母三遷みたいな、孟母みたいな人がいて、そこに嫁がくるのはきつかろうねえ。孟子さんの奥さん僕はだれだったか知らないけれど、孟母みたいなのが生きていたら、姑で生きていて、そこに嫁がくる場合きつかろうねえ。孟子の奥さんがいたかいなかったか知らんが、きつかっただろうと僕は思うよ。そういうことがあります。

そういうことで確執(かくしつ)が起きたら、やっぱり夫婦の単位を優先する方向でいきなさい。これは現代的神理です。なぜなら、結婚の相手と自分とは、これから四十年、五十年いっしょに生きていかなければいけないからです。ところが、親というのは息子が結婚して、まあ基本的に二十年すればだいたい死ぬんです。いいですか。長さが違うんですね。奥さん、あるいは旦那さんとは、親が死んでも三十年ぐらいはおつきあいがあるんです。だから長いほうをだいじにすべきです。親が生きている間は、親の気に入った相手だったらいいかもしれないけれども、親死んだ後どうするんですか。ね、親が死んだ後なんか、もう年齢的に結婚できなくなっていますよ。だから、基本的に、自分の幸福を考えて相手を選ぶ、それがいちばん幸せになる道だと思っています。

だから、親が理想的であれば、それはそれでいい影響を受けて、感謝すること。親が悪ければね、これはひじょうにラッキーだったと思いなさい。とくに親が早く死んだなんていう人ね、子供時代に親が、片親が死んだ、両親が死んだという人、これはラッキーですよ。親の影響受けなくて済むんですから、こんないいことありません。自分の力で人生開けるんですね。親が生きていたために、苦しんでいる人いっぱいいるんです。だから死んでくれてありがとうってね、そんなこと不幸だと思っちゃいけない。ああ助かった、これで自由独立だ、あとのしていくのは自分の器量次第ですね、腕次第ですよ。

親がないからっていったって、別にね、社会的に成功した人だれも馬鹿にしませんよ、そうでしょう。松下幸之助の親が早く死んだからって、関係ないわね。ねえ、彼が成功すればそれだけのもんだ。親がいないから成功しないっていうのは、それだけの能力だよ。ね、それだけの努力だよ。それだけの器量だよ。違うかい。親に力がなきゃだめだというのは、それだけのもんさ。

娘さんだってそうだよね。まあ親がよければいい先と結婚できるというけど、親がなくても結婚できる娘さんもちゃんといるよ。それはそれだけのいい器量だよ。ね、それだけの力があるよ。いい親がなくても、いい子に育つということはあるんですよ。人が羨ましがるようないい子にね。そうなればいいんだ。親がなくなったら、嬢さんじゃたいてい性格がいじけているんじゃないかと、世の人は見てるわけよ。で、その通りいじけとったら、やっぱりそれ見たことかと言われるんだよね。そういうときにいかにいじけずにね、りっぱに育っているか、これがだいじなんですよ。いいかい。まあそのへんがこの説明だね。


4.兄弟姉妹の葛藤


親と子の葛藤の次は、兄弟、姉味について考えてみたいと思います。まず兄弟ですね、男の兄弟の場合ですね。やはり、二人しかない場合の競争が激しいですね。これも昔みたいに、もう兄弟もまあ八人も十人もいれば、それなりの競争もなくなるんだけどもねえ。上の兄貴と下の弟との間が、年が十も二十も離れているようになれば、もう兄弟だって競争もないしね。それで、長男がもう親代わりになっててね、弟たちを教育する、教えるというようなことになるんで、そういう意味で、兄弟数が多くて長男がだいぶ年取っとるとね、またいい面もあります。

ただ現在は、やっぱり一つ違い、二つ違い、三つ違いぐらいの兄弟が多くてね、それで子供の数も二人ぐらいというのが多いもんですから、葛藤が生まれやすいんですね。この兄弟の葛藤というのは、結局、基本的には、親の愛をどちらがより多く受けたかということに関する葛藤です。親は平等に愛したいと思っても、その愛情のバランスがくずれるんですね。やっぱりいい子はいいよね、可愛いよね。

兄弟三人いて、一人だけ、たとえば娘なら娘だけ抜群に頭がよかったりしたら、親はそれが自慢だよね。あとできが悪かったら、やっぱりおもしろくないよね。「あの野郎、生まれなくてもよかったのに」なんて、ひそかに思ったりすることもあるよねえ。もう五浪したって大学受からないなんて言ったら、「なんだあれは、ほんとに親不幸もんがよく出てきたもんだなあ」なんてね。「あんなのなにかのまちがいじゃないか」なんて、「おれの子供に出るはずがないんだよな。だれかのが入ってきたのじゃないかまちがって」なんてね、そんなこと言う人もいるかもしれないね。

これは、学校の先生といっしょでねえ、学校の先生も生徒のできがいいとうれしいよね。小学校、中学校で先生に好かれる子というのは、やっぱりクラスでよくできる子だよな。級長さんするような子は、先生大好きだよね。やっぱり、よく勉強できる子は好きなんだよね。これといっしょで、親だって子供がよく勉強できたり、やっぱりよくいろんなことで評判がいいとうれしいんだよね。評判が悪いのがいるとうれしくないね。それで兄弟いると、やっぱり優劣がつくんだよね。どこかでねえ、勉強の面か、性格の面かね、何かで優劣がつく。姉妹でも一緒ですね、優劣がついてくる。そして、やっぱり人の評判がいいほうが親もうれしいと、こういうことがあるわけですね。

そこでね、まあ神理の面に即しての兄弟姉妹の考えなんだが、多少のねえ、兄弟の競争は、まあ刺激になっていいところも僕はあると思います。正直言って刺激になるよね。兄を目標にしてやるとかね、弟に負けそうなのでがんばるとかね。おねえちゃんがひじょうに優秀だったんで妹もがんばるとかね。おねえちゃんができが悪かったんで、それを踏み台にしてがんばるとかね。いろいろ方法はありますね。だから、兄弟というのは最初の社会の始まりだし、他人の始まりでもあるよね。この意味で、社会勉強をしていると言ってもいいでしょう。

ただねえ、結局この兄弟、姉妹の葛藤から抜け出す方法はねえ、僕はここにあると思う。つまり、親の評価によってね、自分の幸、不幸が左右されないような、そうした自分作りに励むことだね。これがだいじだね。親によけい愛されればうれしいけど、親がもっと違う兄弟愛したらうれしくない、自分が不幸であるというような、こういう考え方はね、結局なんて言うかなあ、自分自身の幸福感がひじょうに弱いね。結局、他人の評価によって動いている部分が多いんだね。

だから、親にどう思われようと、もう自分は幸福という境地を開いてしまうことがまずだいじですね。そうすれば、兄貴のほうがよけい愛されようがね、弟のほうが愛されようが、妹を愛しようが、「まあこれは親の勝手にすりゃいいや、俺は俺で幸福だあ」とやっとればいいんだけど、妹を愛されたら自分はつらいとかね、こんな感じでいるからいかんのですね。

だからねえ、まあ兄弟、姉妹の葛藤も、まあ結婚して独立していけば、始末がつくこともありますが、結婚しても続く場合ももちろんあるね。たとえば、兄弟何人かいて、一人だけやたら成功する、そこの嫁が自慢をする、そうすると兄嫁とか、弟娘が今度おもしろくないわけですね。「なんだ、あそこだけはぶりがよくて、フーン何よ」なんて、やっぱりよくありますね。まあこれは世の中の縮小版だと思って、乗り切っていくことですね。これは兄弟だけでなくて、他でもありますからね。

だから、基本的にだいじなことは、兄弟の間で親の愛というパイを分けあって、そしておたがいに足のひっぱり合いをしないで、自分独自の幸福をめざしていくということ、これがだいじだと思います。それと、親の幸福がかならずしも自分の幸福というように考える必要はないんじゃないかね、まあそう思います。

それとね、身内とくに兄弟のおたがいのあらが見えてしようがない、ということがあるんだよね。自分が見ている兄貴の像、あるいは弟の像、あるいは妹、あるいはお姉さんの、その像が、ほんとうの彼や彼女たちの姿かどうかわからないよ。身内はおたがいによく言わないでしょ。あらが見えるからね、いろいろとね。外から見たらりっぱな人かもしれないんだよ。外から見ている目のほうが、ほんとうかもしれないんだ。身内って、そんなによく見えないからね。そういう余裕もって見ることは、だいじと思いますよ。だから、身内を見て悪く見えるようだったらね、「ああ、これはきっと、そういうことであらが見えやすいんだなあ」と思っとけばいいよ。ほんとうはすばらしい人かもわからない、社会から見ればね。そう思ったらいい。

イエス様の例を考えればいいね。イエス様も、兄弟は四人ぐらいいたらしいけど、兄貴が救世主になっちゃって、弟や妹たちはいったいどこへ行ったんだろうか。みんな知っているかい。おったんだよ、たしかにね、弟や妹がいたんだよ。どうしたんだ。兄貴が気が狂ったと思ったんだよね。弟子にもなっていないし、全然参加もしていないでしょ。気違いの、気の狂れた兄貴が出てきたと思ってたんだよ。そんなもんさ。イエスにしてそうなんだね。

だからあとはね、ひとつは兄弟姉妹であっても、魂的に差がある場合があるんだね。ああいう光の天使みたいなのが、ポコッと出てくると、他の人は凡人であることもあってね、魂的にひじょうに差がある場合がある。まあこれは、孤高の人となってしまうだろうけど、兄弟でも理解されないことがあるだろうけど、まあそれもまたやむをえないと思いなさい。光の天使なんか世に稀なんだからね。だから、世間に理解されないその第一の練習を、兄弟、姉妹から始めたんだと、そう思えばいいね。まあそういうことだ。だから、あんまり深く考えないで、自分なりの道を開いていくこと、これがだいじです。


5.肉親の縁について考える


まあ、以上いろいろ肉親について考えてきましたけれども、基本的にはね、その家族というのは、社会の縮小版です。人びとは、やがて社会生活を送っていかなければいけないけれども、その準備期間として、両親、あるいは兄弟というものを与えられたんですね。社会の縮小版で共同生活をしていく、団体生活をしていく方法を教えてくれているんですね。だから、家庭のなかでまず良好な人間関係を築くということは、だいじなことではないかと思いますね。

そしてねえ、肉親のある魂は、まあいろんな縁がある場合もあるけれども、少なくとも、まあはじめて肉親になるということはひじょうに少ないと、これだけは言っといてもまちがいがないと思うんですね、なんらかの縁があったに違いない、そう思います。それゆえに、だいじにしなければいけないんですよ。なにかに縁があったんだからね。だから、肉親どうしでいじめ合うことや、苦しめ合うこともあるかもしれないけど、基本的にはそうした縁があったと思ってね、優しくする必要があると思います。谷口雅春先生なんかも、言葉の創化力なんてよく本で言っているようですが、やっぱりほめ合う関係にしていかなければいけない。肉親というのは、ともすればけなし合う関係になりやすいです。ただ、それであってはほんとうに楽しくなりません。

私は、肉親についてもやはりありますね。兄弟はひじょうに多かったわけですが、神理を理解できる兄弟っていうのは、少なかったです。私と弟、妹だけでしたね。三人しかいませんでした。あとの兄弟は、神理についてはよくわかりませんでした。弟、妹にしても、私にしてみれば、やっぱり考え方においてはすいぶん違う点があったと思います。

まあそういうことでね、あきらめもだいじです。あきらめもだいじだけど、兄弟のなかでくさし合うことなくね、できればほめていく、言葉の創化力みたいのを使ってほめていく必要はあるだろうね。おたがいに相手を引きずりおろして満足するような、最低限の幸福感は味わわないようにできたらしたいもんだね。

私も妹なんかがいて、GLAなんかも手伝ってくれていたけど、まあ人に私のことを話すのを見たら、たいてい私の欠点ばかり暴露して喜んでいるところもあったよね。それで、いかにも肉親だということで、まあ話をしてるんだろうけどねえ。どうしても肉親はそうなるんだよねえ、「信次先生は若いころはほんとに遊び好きで」とかね、「皮ジャン着て、オートバイ乗って、マフラーして、赤いマフラーで走っていたのよー」とかね、「飛行機来りやっていたのよ、パイロットだってねえ」何てね、こんな話になります。どうしても身内はそうなんですね。他人さまはねえ、主・エル・ランテイーだの、人類の父だなんてまともに正気で信じられるかもしれないけど、身内は信じられないもんなんですよ。

ねえ、妻から言ってもそうでしょう。「何よ、ゴロゴロゴロゴロしてたお父さんが、急に偉くなっちゃって」なんてね。「釈迦かキリストかなんて、馬鹿もいい加減にしなさい」なんて、そら僕はあったと思いますよ。それは肉親の情だよ、これは仕方がない面があります。気でも狂ったんじゃないかと、肉親はふつう思うもんです。まあそんなこともあります。それから親子の葛藤で言えば、私のとこも娘との問題がまだ残っていると思います。ひじょうにむずかしいです。いろいろね、むずかしいです。

ただ、結局は自灯明と言って、それぞれの人がね、自分で光をともしていく以外に最後は道がないと思います。

要はね、その親戚関係やあるいは親族の関係、肉親の関係を、言いわけに使わんことだと思います。親がこうだったから自分はこうだとかね、兄がこうだったから、妹はこうだったから、妻がこうだったから、夫はこうだったからという、このように身内をね、自分の都合が悪いことの説明に使わんことです。言いわけに使わんことです。どんな人がいたとしてもね、やっぱり自分は自分の道を開く、ということかだいじだと思います。言いわけの人生は生きないこと。ね、いいですか。それがだいじですよ。

息子がもっと、なんというかりっぱだったら、私は幸福だとかね、妻がもっと理解があったらとかね、夫がもっとまともだったらとかね、いくら言ってもこれは愚痴というんです。そういうことじゃなくて、いいわけに使わないで、自分自身で道を照らしていく工夫をしなさい。それが勝利への道だと思います。