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目次




 4.愛の実践





(1989年1月23日の霊示)

1.現代文明への反省


高橋信次です。みなさんこんばんは。こんばんはっていうのは、今日は夜の九時すぎにやっているんですよ。もう、どうでしょうかね、二十日ほど空きましたでしょうか。新年早々ゴッタゴッタといろんなことございましてね、とうとうこんなに遅れてしまいました。今年はやる気でスタートしようと思ったのに、しょっぱなからやる気がくずれちゃいまして、ふたたびやる気の復活でございます。

さあね、何といいますかあんまり精神論ばっかり、あるいは年頭の挨拶ばっかりやっていても「何だまたかあ。」と言われるから、ちょっとはいいこと言っておくからね。今日は意識改革の方法というのをあげてみたんですよ。ちょっと、みんなが読んで勉強になるようなことを言ってみようかなと思っています。意識改革の方法でぼくがとくに言っておきたいのはね、まあこの意識が何の意識かということもだいじだけども、あの世の意識ばっかりの話をすると、若干「もうわかった。」って言う人も出てくるからね、ちょっとこの世的な話にしてみたいなと思っています。

本書の読者はどういう方でしょうかね。学生諸君、もちろんそうでしょう。それから主婦、もちろんそうでしょうね。ビジネスマン、それからOLですね。こうした方が読者でしょう。もちろん、じいちゃん、ばあちゃんも読者だと思いますけど。

話がまたすぐに脱線しますけど、私の人気はやっぱり高いんですね。まあ、いつも話していますが、入会願書なんていうのがあるんですけども、願書を書く人の七割、八割は高橋信次に触れているそうです。高橋信次の霊訓、復活を読んで「これはがんばらねばならんと思った。」というふうに言っていますね。谷口雅春先生に触れているのが一割ぐらいだそうです。このへんに人気の差があるのでしょうか。

まあ、私はね、ひじょうに個性がきついので味方はずいぶん出るし、多少敵も出るかもしれないけれど、そういう人間もいていいんじゃないかなと思っているんですよ。というのも、男性ホルモンの塊みたいな人間ですからね、私は。

私はね、まあ女性はごめんなさいよ、男性でぐちゅぐちゅした女性みたいなの大嫌いなんですよ。もうほんとうに竹を割ったようにパンパンパンパンといくタイプ、こういうのが大好きです。やっぱりね、男たるもの男性ホルモンだいじです。゛男性ホルモンない男は去れ゛という感じがひじょうに強いですね。心に思い当たる諸君よ、ほんと胸に手を当ててよく反省しなさい。

現代文明というのは、ひじょうに男性の女性化というのを招いています。これは、永い歴史のなかでもきわめて稀(まれ)なケースに近いかと思いますね。男性がこれはど女性化した時代というのはきわめて稀です。男性というのはね、恐竜相手に相撲をとるようなそんなたくましいものとしてもともとできているんですよ。恐竜相手に相撲は無理かもしらんが、少なくともチンパンジーやゴリラ相手に相撲をとるぐらいの、そのぐらいの勇ましさはあったんですよ。槍を持ってね、そして倒したらすぐ皮を剥(は)いじゃって、肉料理してね、そして引(ひ)っ提(さ)げて帰ってくるぐらいの勇気があったんだよ。

ところが現代なんていうのはもう、受験勉強ばっかりあっちもこっちもやってね、受験秀才ばっかりだよ。そして、近眼でね、もう眼鏡かけてね、ああ、末生(うらな)りみたいな、なんか青瓢箪(あおびょうたん)になっちゃって、そして点数さえ取りゃあいいなんて、こんなのばっかりですわ。こんな男が株をあげているんですよ。みなさん、こういう現状というのをほんとうにいいと思いますか、どうですか。

まあ、私がね、別に日大の理工学部を卒業してから東大へ編入して卒業できなかったから言っているんじゃありませんが、ぼくは、ほんと何ちゅうか偏差値社会っていうか、ああいう学歴社会に対して、もちろんいいところもあるだろうが、しかしがまんならんというところがどうしてもあるね。ある、それはある。

ただ、社会自体が女性化している(女性のみなさんごめんなさい)、女性化している現状、まあ女性化しているというか、まあ女の子でできる仕事ばっかりになったちゅうことですけども、だから、そういう筋力というか腕力・勇気・決断力・行動力、こうしたものがひじょうにウエイトが少なくなってね、情報整理みたいなこんな仕事で行けるようになってきた。まあ、そういうことがこうした学歴偏重にも多少影響があるんだろうなあ、とぼくは思います。

ただね、ここらでどうだい、みんな意識を変えてみないかい。特に今、国立大学の入試の改革とかいろいろやっているけれども、根本の精神が違っているから、いくらいじったっていっしょだね。共通一次といおうが、新テストといおうが、テストはテストで、そんな変わりゃあしないんですよ。ぼくはね、もうちょっと特に青年層、あるいは少年層でもいいけれども十代半ばから後半にかけて、ここで何をやらすかということは、実に大きな部分があると思います。その後の人生において実に大きな部分があるような気がしますね。

ばくはね、今の学校教育に対しての一番の不満は情操教育をやっていないということなんですね。情操教育って言ってわかるかなあ、まあ、情(なさけ)の操(みさお)ですよ。操っていうとへんなことを想像する女性がいっぱいいますけど、まあ何といいますか、心の持ち方というか、道徳と言ったらあれだけど、まあそういうもんですね。「こういうふうに考えて生きて行きなさいよ。こういう心立てで、気立てで生きて行きなさいよ。」という部分ですね。この部分の教育が足りんのじゃないかね。

だから、もう戦後四十何年もなりますから、えー何っていいますか、占領軍の押しつけた考え方、ぼちぼち卒業しなきゃいかん時期が来ているんじゃないですか。ねえ、みんなそう思いませんかね。占領軍が押しつけて、「とにかく旧憲法下の日本の軍人のあり方、信仰のあり方、それから学校教育のあり方、みんなもう間違いだ。そして民主主義がいいんだ。」ということで全部入れ換えてしまったけれど、やはりだいじなものも失われた気がするね。それは男性にとっては゛男らしさ゛っていうものだろうし、女性にとっては、ひじょうに大和撫子(やまとなでしこ)としての゛気立てのよさ゛のようなもんだと思うんだね。こうしたものが無くなっている、そう感じられるんですね。


2.評価基準の再考


そこでね、ぼくはやっぱり男性のこの評価のしかたっていうものが、もうちょっと変わってきていいんじゃないかなあって気がするんだよ。特に勉強なんかしている人は、神の光が七色光線になっているっていうことを知っていると思いますけど、まあ青の知性の光線だけじゃないってことだ。赤もありゃあ黄色もあるし、緑もあるしいろんなものがあるんで、こうした光線をある程度上手に区別して、そしてその違いを見分けるような、そういう方法が要るんじゃあないかね。

特に今の日本で欠けているものは何かっていうと、まず赤色光線ね。この部分がひじょうに欠けているねえ。正義の部分といってもいいし、政治・軍事・官僚、このへんの系統でしょうが、指導力の部分ですね。指導力というものの養成が、なおざりにされているよ。やはり指導者になっていく人は、小学校、中学校、高校、大学とこういう機関でどれだけね、心を練るかっていうことかだいじなんですよ。その心を練るというところが十分じゃないのが、現在の日本の悲しい現状だとぼくは思います。

あと、欠けているなあと思われるのが、もちろん白色光線のところも少し欠けているかもしれませんね。これは愛の光線って言われているけれども、愛、つまり人のためによかれと思う心ですよ。そして人を善くしようとする心ですよ。人をすばらしくしようとする心ですよ。まわりを幸福にしていこうとする心ですね。こうしたものがひじょうに欠けていますね、これが欠けています。

さらに欠けているとすれば、緑の系統もまた少し欠けているかもしれませんね。緑の系統は調和を表わします。もともと日本は、調和というのをひじょうにだいじにした社会なんですが、この緑というものもだいぶいびつになってきたような気がしますね。社会の急速な変貌によって、昔の日本的な゛和の世界゛というのがくずれてきたような気がするね。そして新たな秩序ができないでいるような気がしますね。

この緑、まあ人びととうまくやっていこうとする調和の心だね。このへんも欠けている。愛というのは積極的に与えていく行為であるのに対して、この緑というのは調和だね。ハーモニーをつくっていこうとする心だね。だから愛がサンタクロースみたいに袋の中のプレゼントを配って歩く仕事だとしたら、緑というのはみんなで手をつないでお遊戯する感じだね。これが緑なんですよ。この部分もずいぶん欠けているという感じがしますね。

もちろん黄色も欠けていますよ。黄色も矢けている。黄色というのは何かっていうと、もちろん法の光線ですね。神理自体の何ていいますか流れというか、勉強というか、こういうのが欠けているのも事実ですね。法です。神から出てきた法というのがひじょうに形骸化していますね。法律みたいなんで残ったり、一部道徳で残っているけれども神の心、教えというものを編纂(へんさん)して、そして教えるというようなことはひじょうに稀になってきて、ザッとしたものになっていますね。これもだいじなことだと思います。

伸びているのは何かっていうと、だから青と銀色が伸びているんですね、近・現代では。青というのは、まあ知識的、哲学的な方面ですね。銀色というのは科学の光線ですね。この二つがどっちかといったら伸びていますね。

紫の秩序のところもちょっとくずれているでしょうね。あまり秩序を重んじる社会ではなくなってきたように思いますから、これもちょっとくずれていましょう。

ですから、だいたい伸びているのが、青と銀です。そして青と銀が伸びることによって、他の部分とのバランスがくずれてきました。だいたい青とか銀とかいうのは、これはこういう光線に属している人には申しわけありませんが、指導者の器じゃあないんですよ、だいたい。はっきり言って、青とか銀とかいうのはね、これ両方とも専門職ですよ、言ってみりゃあ。そうでしょう。青というのはまあ哲学の系統だけれども、こんなのは、あんた思想をひねくりまわしてフンフン言って考えているだけで、人のことなんかかまっちゃないんですよ。

銀色っていうのは、これテクノロジーですね、まあ、技術者です。車の下に入り込んでネジ回しているのがコレですよ、銀色ですよ。言ってみりゃあそんなもんなんですよ。

で、人間にとっていちばんだいじなのは何かって言ったらね、よく言われる智・情・意の部分なんですね。智・情・意とよく言われるけれども、まあこうしたものがだいじなんだと私は思います。この智の部分の、この智っていうのは青色の知じゃあないね、そうじゃあなくてもっと奥深い智だね。これは青よりもっと黄色、黄金色に近いほうの智だと思いますね。神埋の智、これはもちろんだいじですね。それから情と言われる部分がありますが、情の部分でだいじだと思われるのが、やはり白と、それと緑だと思いますね。白の愛の気持ちね、緑の和をつくっていこう、お互いになかよくしていこうという気持ちですね。こういうものがひじょうにだいじだと思います。そして意というのは何かっていうと、主として赤です、赤の部分を言っておきたいのですが、男らしく決断して行動しようという気持ちですね。こうしたものが欠けているんじゃないでしょうかね。


3.指導力の養成


だから、現代の教育の不毛を嘆く前に、社会のいびつ化を嘆く前にね、何が欠けているのかをよく研究することだと思います。ビタミンの何が不足であるとか、栄養のバランスがくずれて鉄分が不足しているとか、いろいろ言うでしょう。これと同じように、七色光線のうちのね、欠けているものがいっぱいあると、社会というのはどこかがくずれてくるんですよ。だから、バランスをとることがだいじですね。そうすると、今の日本社会でバランスをとるためにいったいどうしたらいいか。これがみんなわかるかなあ。

このバランスをとる方法が七色光線の残りの部分をどう引き出していくか、ということになりますね。そういうことなんですよ。で、残りの部分のうちのどれをいちばん前面に出すか、ということですが、今の日本でね、私はいちばん必要な順序で組み立てるとしたら、ある意味では、どれもだいじなんで、いろいろな指導霊からおこられちゃうかもしれないんで、めったなことは言えないんですが、ウーン難しいねえ。しかしあえて私の好みで言うとすると、やっぱり赤なんかいいかもね。今、欠けているものの最たるものかもよ。赤というのはね、社会の女性化に対してやはり激しい警告を出すためにはね、赤というのはだいじかもしれない。

それはね指導力ですよ、ひと言で言えば指導力。指導力が欠けているんだ、現代社会はね。指導力が欠けている。もっともっと指導力の突出した人間が出てくるような世の中にならないといけない。そして、この指導力養成のための、手が打たれなきゃだめだね。今の学校教育の一連の流れのなかで、指導力をどうやって養うんだい。ちょっと、私聞いてみたいんだが、どうやって指導力を養うんだね。やはり、指導力っていうのを養うためには、それなりの条件あるいは環境というのがあると思うんですね。指導力の養い方ってきわめてだいじだと思います。

特にね、私が残念だと思うのは、まあ、またこれも一部からおしかりがあるかもしれないけども、地方の頭のいい子だね、頭のいい子がみんななんか偏差値志望で有名校ばっかり集まっていく傾向、ちょっと残念だね。

そういうようなことを言うと該当する人もいて、目をキョロキョロしたりするかもしれないけども、田舎から出てきてね、田舎の学校におりゃあ、まあ、私はええと思うんだが、それが有名校に入ってくるね。下宿してでも有名校に入って、ギシギシとするわけでしょう。そして、関西じゃあ灘校だとかね、東京じゃあ何なんでしょうか、私はよく知りませんがそういう所へ行って、半分ぐらいは東大へ行くだのなんだの言ってやっているんでしょう。

こうして、どうするかというと比較的若い時期に、このつぶし合いをやるんですね。人格のつぶし合いをやる。田舎の高校や中学にいたら、生徒会長やって総代をやれるような人が都会へ来たら平均点すれすれとか、平均の下ぐらい這い回るわけです。そうして比較的早い時期に劣等感を植え込まれるようになるんですね。そして、おれは平凡な人間だあ、なんて思ってグレたり遊んだりして、何かで個性を出さにゃあいかんと思って、変なことをし始めたりするんですね。いかに自分が遊びを覚えているかなんてことを誇示したりして、そして秀才に対するコンプレックスを晴らしたりするようになりますね。こんなことになります。

私はむしろ逆だと思いますね。そういう前途有為な人は、どんどん田舎で大きな教育を、おおづくりな教育をしていったほうがいいような気がするね。そして、やっぱり田舎はまあ学習環境もちょっと悪いから、入試の合格点は足切り点でちょっと地方別のハンディやってもいいんじゃないかね。秋田はマイナス5点まで許すとか、徳島はマイナス3点だとかね、鹿児島っていうのは県民所得がいちばん低いほうだから、これはマイナス8点まで許すとかね、多少ハンディがあってもいいんじゃないかね。そういう取り方をしても、将来の可能性という意味では、ひじょうにあるんじゃないかと思うよ。都会の有名校から取るよりね。そんな感じがぼくはしますね。

ひじょうにもったいないことをしている。そういうつぶし合いを若いうちにやるよりは、ほんとう、地方の高校何千枚もあるんですからそういうところでもっとしごいて、そしてリーダーになるようにやらすんですよ。リーダーの器としてしっかりしごくことですね。統率力をつけさす。田舎の学校だからといったって何百人もいるでしょう。少なくとも数だけはいますから。そういうところでちやんとリーダーをやらしてね、やらすんですよ。こういう人が都会に送り込まれてくると、ほんと窓際で小さくなっていますからね。こういうのでしっかりやらすんですね。そして将来の指導者を養成していくことは、きわめてだいじだと思いますね。

あともう一ついけないのが、この赤色で言うとすりゃあね、この何ていうか嫉妬社会だね。この嫉妬社会はちょっと変えないとだめじゃあないかなあ。ウーン、サラリーマン社会の成り立ち見たらほとんど嫉妬社会だよね。なぜ同期をいっしょにするか、なぜ給料に差がつけられないか、なぜ出世に差がつけられないか。まあ嫉妬社会だよね。ところが、人間の器にはそうとうの差があります。実在界においてもそうとうのランク差がありますけれど、これをこの世に翻訳しなおすとすると、やっぱり現在の昇進システムというのは、ひじょうに遅いと思いますね。遅いというか鈍い、鈍いという感じがしますね、反応に対して。だから、やり手の人、指導力のある人は殺される傾向にありますね。

今の社会を見ていると、ほんとうは有能な人はいっぱいおるんですが、つぶれていくんですね。埋もれていきます。二十代、三十代で埋もれていくんですね。残念です。管理職になるまで二十年かかるようになっていますね。そして、たまたま優秀な人がいて、それをしようとしても嫉妬で殺されてしまうんですね、いられなくなります。こういう社会の価値観をなんとか変える必要があると思いますね。

えーこのためには、どうしたらいいかということですが、価値の基準をね、少しずらしてみるんです。社会の意識を変えていくんですね。意識を変えていって、そしてね指導力というものの比重をもっと上げてみるんです。もっと上げるんだ。リーダー的素質に対する、評点、評価っていうのをもっと上げるんだね。

仕事でも単にだれでもやれるような仕事はできるというよりも、統率力のある人っていうのはね、もうちょっと評価する方向でいけば、ぼくはいいと思うね。それを重視していくんだよ、パッとね。これは現在の評価方法が少し違っていると思う。あと、商売の上手な人、書類づくりの上手な人、電話の受け応えの上手な人、いろいろいるでしょうけど、この指導力っていうところにね、もっともっと光をあてないと今後の社会の変革はできないと思います。

これは、サラリーマン社会だけじゃあありません。ほかの社会においてもそうです。やはり、指導力のある方が頭角を現わしていけるようにしなけりゃあいけない。そのためにはどうしたらいいかというと、まずね、多くの人たちが指導力のある人、指導者というのをね、尊敬する風潮をつくっていく必要があるよ。

戦後、何ていうか変な草の根民主主義になっちゃって、出るクイは打たれてねえ、そして指導者っていうのはみんな悪者扱いされるという、マスコミの嫉妬にあって悪者扱いされているけれども、やはりみんなが尊敬できるような指導者像をつくっていこうじゃないか。マスコミの諸君にも言っておきたいけど、偉い人見たらたたいておけ、それが正義だと思うのは、これは間違っていますよ。

ほんとうの正義はそうじゃない。ほんとうの正義っていうのはね、指導力を発揮するなかで出てくるんだよ。ほんとうの正義はそこにあるんだよ。そうじゃなくて、指導者になっていく人たちを嫉妬してね、たたきのめしたりね、そしてお金を儲けているなんてワーワー言ったり、こんなことするのが正義じゃないんだよ。君たちの正義はこれは嫉妬心ですよ。嫉妬心の合理化のことを正義と言っている。

そうではないということ、これを大衆の声の反映なんていっちゃあいけない。大衆っていうのはね、躍(おど)らされるんだあ、君たちの力によって。むしろ、大衆の尊敬を集めるような人に、スポットを当てていかなきゃあだめですよ。こういう人はすばらしいというのにスポットを当てていかねば。そして、指導者待望論を出していかねばだめですよ。

マスコミの諸君よ、指導者待望論を出しなさい。こういう指導者が望まれるというようなのをね、理想的な指導者を探しなさい。そして光を当てていきなさい。紹介しなさい。そこで、初めて人びとはね、いわゆる大衆はね、そういう人みたいになりたいと思うんですよ。その人を理想とするわけです。

今の日本で必要なのは理想像です。いいですか、とくに新聞社、それから報道関係の人、雑誌、こういう人たちに言っておきたい。声を大にして言っておきたい。理想像というのをね、あなたがた探し出すのが仕事だよ、これから。これを間違えちゃいけないよ。

理想像、人びとがモデルとする人、人びとがこういうふうにならねばならんと思う人。これを発掘するんですよ。そして、偉大なる現代の指導者をつくっていかねばならない。指導者をつくり出していくのがあなたがたの、ほんとうの仕事ですよ。いいですか、芽のうちに摘んでしまうとかね、スキャンダルばっかり探しているんじゃなくて、こんなことじゃあ恥ずかしいですよ。地獄的です。きわめて地獄的な仕事をしています。あなたがたはもっといい仕事をしなければいけない。日本のなかですばらしい指導者をつくっていく。国際社会にも通用するような、そういう理想的人格を育てていく。それがマスコミじゃあないかね。

そういうものに発見されて、そしてほめられることによって、指導者というのは伸びていくんですよ。そういうことをしたらみんなヒットラーになるなんて思ったら、それは間違いですよ。それは単細胞ですよ。そうじゃありませんかね。それは正当に評価しないからです。一人の人間が失敗したからって、ほかの人がみんなそうなるって限ってないでしょう、違いますか。理想像をいっぱいつくっていくことです。そのなかにほんとうにすばらしいものが出てきます。人を育てるということを考えなきゃいけませんね。私はそれはひじょうにだいじなことだと思います。

ですから、意識の改革のためには、まず指導力というのはどれほどだいじかということをね、現代の人は知る必要がある。指導力というところでは、巨人と凡庸の人との間にはきわめて大きな違いがあります。凡庸な人であればねえ、課長も務まりません。課長というのはだいたい四、五人ぐらいの部下を持っていますが、四、五人の部下の統率もできないんです、凡庸な人はね。ところが偉大なる指導者はね、何万、何十万、何百万、あるいは一億、それ以上の人びとを統率することもできるんです。この違いはひじょうに大きな違いです。

この違いはいったい何であるかと言えば、これはある意味において、霊的世界の力の差をそこに現わしているんたと思います。こうした指導カの差は、実は霊的なカの差を現わしている。どれだけ多くの人を掌握し、影響できるかということを意味しているんですよ。したがって、指導力を真に発揮していく道は、ある意味で霊格を高めていく道であるんですよ。いいですか、みなさん、そういうことなんですよ。

だから、自分は頭が弱いとか、情に疎(うと)いとか思う人もいるかもしれないけども、この指導力というものを伸ばしていくことによって、霊的に悟りを高めていくことも可能なんですよ。これも一つの悟りの方法ですよ。赤色光線における悟り、だれも説かないから、モーゼに代わってぼくが説くけれども、指導力を増していくということも一つの悟りなんですよ。多くの人たちを導いていけるからね。やせ男、やさ男があなた、羊を追い回したって羊はついてこないんですよ。ところが、でかい男がね、一生懸命「こっちこーい。」って大声で叫んで呼べば、百頭の羊はついてくるんですよ。それも大きな仕事じゃあないですか。そう思いませんか。そういうことなんですよ、いいですか。だからまず、指導力ということに対する評価、これを高めなさい。そして自分自身のなかの指導力を伸ばしていこうとしなさい。これが第一にぜひともしてほしいことです。


4.愛の実践


第二番目にしてほしいこと。これは正義のところにも関係があると思いますが、いろんな指導霊にまあ義理もあるが、あえて言わせていただくとすると、やっぱり愛のところをもっとぼくは強調しておきたいね、愛。愛と言ったってわからんかもしらんが、まあ、正義の延長で言やぁ、「義を見てせざるは勇なきなり」じゃあないが、人が困っているのを見てね、無関心でいられるようなこんな人間になるな! そうぼくは言いたいんですよ。その冷淡な、無間心な人が多すぎる。

あまりにも、こんな人ばっかりつくり出した現代の日本社会ゆがんでいますよ。病巣ですよ。もう、これは一種の病理現象ですね。ぼくはそういうふうに思いますよ。人が苦しんでいるのに、知らん顔をしている人。人がたとえば危害を加えられていても、そ知らぬ顔をして逃げる人。ぼくはね、都会的なこの無関心っていうか、冷淡さって大嫌いなんですよ。ほんとう、そう思っています。なんで、みんなもっと助け合わないのか、知らんぷりするのか。人が間違っていると思ったらどうして教えてやらないんだ。そんなことを、何か恥ずかしいことのように思ってね、そしてジクジクしている。そして、他人とのかかわりを断ってね、とにかく自分は自分の心さえ守れたらいいっていうような、こんな人が多すぎるよ。

ぼくは大森の家に住んでいたときも、まあちっちゃい家ですけど、人はずいぶん来ましたね。ワイワイワイワイ来て、そして飯食って帰ったりするもんだからまあ仕事はできないし、頭はパープリンになっちゃうしね、ほんとう困っちゃいましたが、これは、仕事本位でいけばまあそれはいけないんだけど、ばくの気持ちですよ、気持ちとしてね、何て言うかなあ、とにかく人がね、こう愛を求めているっちゅうか、何とかしてほしいと思ったりしているときにね、一肌も二肌も脱がないとぼくはおれないんですよ。ぼくはそういう性格です。これがマイナスかもしれません。マイナスといやあマイナスでしょう。だから、早く死んだんでしょう。四十八歳ぐらいでおっちんじゃったのは、こういう理由でしょうね。

だから何ちゅぅか、ぼくはじっとしていられないんですよ。いろいろな困った人がいるとね。それで、できればみんなにも都会的な優等生の考えじゃあなくて、田舎臭いかもしらんけど、こういう気持ち持ってほしいんだ。電車のなかでも、職場のなかでも、職場を離れた世界でもね、あまりにも遠慮しすぎるんじゃないかな、みんなね。人に対して、言ってあげることについて遠慮しすぎるんじゃないかな。だから間違っていると思ったら、どんどん言ってあげたらいいと思うし、困っているなと思ったらスッと手を差しのべてやることですよ。それはね、溺れている人に手を差しのべて、自分も水のなかに落ち込んじゃうこともあるけどね。あるけど、でも一生溺れている人を見殺しにしたっていう気持ちで苦しむよりは、ぼくはいいんじゃないかと思うんだよ。

いっしょに溺れちゃったらどうするんかという問題もあるが、まあ、そのときは高橋信次の名でも呼んでくれえー。そしたら迎かえに行ってやるから。ねえ、そしたらあなたのひっぱる力が強くてぼくまで溺れちゃったりするかもわからないけど、まあ成仏するようにがんばって祈願してやるから。

まあ、これは一つの比喩だけどね、だけど人が困っているときにね、何とかしてやりたいっていう、こういう気持ちは忘れないでほしいんだよ。ぼくはこの気持ち、今の日本人にものすごく不足していると思うよ。むしろ人が困っているのを見て喜んでいるような人多いんじゃないか。許しがたいですよ。

だから、親はね、子供にそんな傾向が出たら、自分の子供がね、人が困っているのを見たら喜んでいるようなそんな傾向が出たら、こんなときはもうお尻ひっぱがしてパンパンしなさいよ。ほんとうに、やらないとだめです。こういうことを教えてやらないとなかなかわかんないんです。

人が困っている、人が不幸になっているときに見て、笑うような人はね、こんなの放っておいちゃいけないですよ。注意しなさい、ね。「お前、人の不幸をそんなに喜んでいいのか。人が困っているのに何と思っているんだ。人の不幸をあざ笑うな。人の不幸を喜ぶようなそんな気持ち持つな。」ということをね、やっぱり言ってやらなきゃいけない。一回言ってやると、多少わかることもあるんだ。言わなきゃね、なかなかわかんないんですよ。

だから、そういう人が困っていること、悩んでいることを見て知らん顔をして、「ぼくはそういう人間なんですよ。」って言って逃げるタイプ、ぼくは許しがたいです。それはやっぱりお尻ペンペンしたくなります。「だめだ!もっとちゃんとやれ! 人が困っているのだから手を差しのべなさい。そして救ってあげなさい。無関心でいるな、知らん顔するな、居眠りをするな、狸(たぬき)寝入りをするな。」って言いたいですね。

いいですか、だからぼくのこの本を縁があって買った人、一冊千円で買った人、ここまで読んだらね、いいですか、自分が見て見ぬふりをしているようなことはないかどうかね、自分の身内、友人、あるいは同僚、いろいろなところがあるでしょうが、その人たちがほんとうに、困っていたりあるいは間違っていると思ったときに、やっぱり愛の手を差しのべてやりなさいよ。だいじなことです。また人が間違った信仰をもって、このままじゃあ地獄に行くと思えるならね、何とかしてやりなさいよ。冷たいじゃあないか、同じ同時代の同期生です。宇宙船地球号のね、同時代の同期生です。今、平成元年の同期生です。ねえ、こんな同期生なのに、いっしょに日本に住んでいるのに、日本でなくてもいいよ、いっしょに地球上に住んでいるのに、日本でなくてもいいよ、いっしょに地球上に住んでいるのにねえ、同級生なんだよ。それなのに冷たいじゃないか。人が間違ってそして苦しんでいるのに、何で助けてやらないんだ、ね、ぼくはそう思いますよ。

ぼくは年末から年始にかけても、ずいぶん仕事をしていましたよ。みなさん知らないでしょう、目がみえないから。霊的な目がみえないから、ぼくが何しているか知らないでしょう。霊言集とっていないときには、ぼくは昼寝していると思っているでしょうね。布団かぶって寝ていると思うでしょう。ぼくは、みなさんが知らないようなところで一生懸命働いているんですよ。みなさんは自分のことしか考えていないでしょう。自分に関係があることだけは覚えているでしょう。それ以外は知らないでしょう。

私はね、みなさんが、みなさん自身のことしか考えていないときに、多くの人のことを考えているんですよ。もう私は年末から年始にかけてだけでも、もうどうかねえ、少なくとも、数百人の人の守護霊ぶったたいて歩きましたよ。「しっかりせんか、おまえたちしっかりせんか。」言って歩きましたよ。それはね、この来たるべき時代のために、法を担(にな)う人たちの守護霊ですよ。こうした人たちの守護霊ね、ボウーとしている頭パーンパーンとたたいて、「しっかりせんか、目を覚ましておれ。」ってね、「今どういう時代か知っているのか、君たち仕事をしなさい。」、ぼくはそういうふうに言って回ったんですよ。

ぼくの気持ちわかるだろう。高橋信次だから長野弁しゃべると思って、君たちは思っているかもしれないけど、長野弁なんてしゃべらなくても、霊界語はしゃべれるんだぞ!わかっとるかあ。」って言ってパシパシパシってやって歩いているんですよ。

まあ、こういう仕事をぼくはしているんです。わかってください。ちょっとでも感じたら、いいですかあ、思い当たりないかなあ、年末年始にぼくがフッと飛んで来てね、翼があるかどうか疑問があるだろうが、まあ翼があるとして、翼の羽根がちょっとどこかにかすったんじゃないかという、覚えがあったらフッと思い出してください、私がやっていることを。私がジッと土管のなかに入って寝ていると思っちゃいけないよ。やってますよね。

これがまあ、人を見てちゃんと助けなさいという愛の問題です。こういう意識を持ってください。いいですか、見殺しにしたら、あなた、愛がなき人間だよ。愛がないよ。ぼくはそう言っています。「見殺しにするな、人を見て知らん顔するな。」これを言っておきたい。よく覚えておきなさい、この部分ね。


5.心の平静の価値


それから三番目に言っておきたいこと、ウーンほんとうは黄色の光線と言いたいところだけど、あえて避けます。それはほかのところでよく言ってあるからね、あえて避けますが、どれを言うかというと緑を言いたいんです。ほんとうはね、緑。

もう一つはね、心のやすらぎの価値、これを重視しておきたいと思います。私は生前の本でもずいぶん説きましたけれども、中道にいって心をおだやかにするという話をずいぶん言いましたけど、心が平静であることの価値をね、現代ほど気づいていない時代もないですよ。

心の平静、心がねえ、平成元年の平成じゃあないよ、平らかで静かだという、こういう平静ですよ。この価値を見失っているよ。心がいつもとんがって波うって、波立って、そしてガチャガチャガチャガチャしている。そして、ロックの音楽かなんか聞いてもっとガチャガチャさせている。こういう感じですね。あるいはディスコミュージックなんかでグチャグチャにしていますね。で、脳波なんか乱れっぱなしです。こんな世の中です。妨害電波ばっかり飛んでいるような、そんな世の中ですね。ぼくはもっと心の安らかさ、安らぎっていうものの値打ちを知ってほしい。それはだいじなことなんです、かけがえのないことなんです。それは、高次元世界に行けばわかることなんですが、心のやすらぎなくして、高級霊であるということはありえないんです。いいですか、ありえないんです。

そして、この平静な心を取り戻す方法はね、一つはぼくは信仰心だと思っています。神を信ずる心です。神を信ずる心があるからこそ、心が平静でいられるんですよ。落ち着くんですよ、不動心になるんですよ。ところが変な自由意思みたいなの出して、飛んだり跳ねたりしていると心はいつもグッチャグッチャです。もう自分で蚤(のみ)みたいに、瓶のなかの蚤みたいにあっち当たりこっち当たり跳ね回っていたら、心はグチャグチャです。大いなるものに帰依(きえ)し、そしてそれと一体となろうとする気持ちを持つこと。これがだいじじゃあないかね。ぼくはそう思いますよ。だから心の平静の価値というものも、認めてください。

以上、三つ中心に言いました。意識改革の方法としてはね、この三つを発見することです。第一番目は、指導力というものにもっと目を向けること。二番目は人が困っているとき、人が間違っているとき、それを見殺しにするなということですね。そういう意味での愛の実践をしなさいっていうこと。三番目はね、心の平静というのはどれほど大きな価値を持っているかということを忘れてはいけない、ということね。

こういうことを今日はとりあえず言っておこう。これもね、やる気の革命のまあ最初の部分だ。これからだんだん面白い話になっていくから最後まで読むんだよ。じゃあね。