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目次










(1989年1月26日の霊示)

1.自己変革の時期


高橋信次です。みなさんこんにちは。

一月ももう終わりに近づきましたね。えー、今年こそはやるぞ! と思ってスタートしてもう一か月近い月日がたちました。歳月人を待たずとよく言いますが、ほんとうにそうですね。でも一生懸命努力しながら前向きで進んでいる人にとって、ほんとうに時間というのはあっという間に過ぎていきますね。きっと私の本を勉強しているみなさんもそうでしょう。私の本を読んでしっかりと赤線を引いて、ノートをとって勉強し暗記しているうちに、特にジョークなんか暗記しているうちに月日がたって、いつの間にか大人になっていることでしょうね。

さて、今日は「自己変革の原理」という題をあげてみました。まあ、本書は『やる気の革命』というふうに題していますけど、どうやってやる気が出るかということをいろんな角度から探究してみようと思っているんです。

やる気のない人は、やっぱりだめですよ。いつの時代に生まれても、やる気のない人っていうのは、もう事を成すことはないです。やる気のない人は大を成すことはないです。やる気のない人が時代を変えることもなければ、世の人びとに大きな影響力を与えることもありません。やる気はやっぱりすべてですね。

さて、そこでねえ、まあ章立てをして話をしているんですから、自己変革の原理として私が考えていること、まあ考えていることって言ったらあれですね、読者のみなさんからちょっと疑問があるでしょうね。「うそつけ、考えていないだろう、今思いついたことだろう。」なあーんて言う方もいるかもしれませんけど、まあ、それはどちらかは定かではありませんが、私がね、人間の自己変革にとってどうしてもだいじだなと思うことを話してみます。もちろん他の本で語ったことと、重なるところもあると思いますけれども重要なことというのは、何度でも何度でも繰り返し繰り返し言ってはじめてね、魂の奥底まで染みてくるんです。

特に、このような霊言集を読んでいるみなさんに言っておきたいけども、赤川次郎とかそんな通俗小説を読んでいるのとは、ちょっと違うんですよ。これはねえ、ただ活字を追うだけじゃだめで、霊言・霊示集っていうのは、魂の奥深いところまで染み込まなければ駄目です。読んでいて人生のヒントとなったことをね、これを心の底に、肝(きも)の底に銘じてね、そして人生の実践原理、自己変革の原理につなげていかねばいけないんですよ。

たとえば、『高橋信次の愛の讃歌』といういい本が出ましたけども、たいへん好評のようですが、あれなんかでも、面白おかしくも書いてあるけど、だいじなこともいっぱい入っていますね。そうしたことをね、しっかり受け止めて勉強することですね。そして、それを頭だけで止めないでね、体で現わしていくことね、そして自分のものとすることです。

だから、私はこの高橋信次の霊示シリーズ、これがね、ぼくの本が種本であってもいいけど、忘れちゃってもいいと思うんだ。ぼくの本で読んで覚えたということを忘れてもいいと思うんだけど、それでもエキスの部分、あるいはみなさんの心に残ったことというのを自分の考えとしてね、そして実践してほしいなあ。そういうふうに思いますね。どの霊が言ったからどうということはありませんから、自分の問題として実践に移していただければ幸いです。

さて、これは方法論の書物ですから、自己変革というところにいよいよとりかかっていきたいと思います。まあ、自己変革が必要な時期というのをまず考えてみたいんですね。どういう時期に自己変革が必要であるか、これはね、やっぱり脱皮が必要な時期なんですね。脱皮、すなわち自分に要請されているものですね、これが変わってきた、この自分を取り巻く環境、これが変わってくる、自分にさらに違った面を出すことが要求されてくるとき、こういうときが自己変革が必要なときですね。これはあります。そして、これはある意味において、魂にとっては危機的な部分もあるが、チャンスでもあるんです。

普通の人間のこの自己変革の時期を考えてみると、まあ今はわりあい小さいときから、試験なんかが多くて、まあそういう機会も多いかもしれませんが、小学校、中学校からたいへんな方もいらっしゃるでしょうが、まあ高校の入学試験、大学の入学試験、こうした十代では入学試験なども一つでしょうね。一つのハードルを越えなければ次へ進めない、という段階ですね。これは、小さな心には、たいへん重荷だと思います。しかし、これも自己変革の時期ですね。ここで厳しいけれども努力して、そのハードルを乗り越えたときに、変わるわけですね。

えー、小学生から中学生に、中学生から高校に、高校から大学にとその人生の節目(ふしめ)があるわけですね。この節目に努力して、その難関を乗り越えたという気持ちがね、人間を脱皮させるんじゃないかなあと私は思います。それが、ひじょうに楽であればね、何の努力もなく、大学の定員も高校の定員も中学校の定員も、みんな定貝割れしてね「だれでもいける、いつでもいける」というような感じであれば、自己変革というのはあまり要らないでしょうけれども、やはり厳しさが伴うところにね、自分が変わっていくときのこの苦しさがあるんですね。陣痛の苦しみですね、こういうものがあるんです。

ですから十代では、そうした受験ということも自己変革の時期でしょうね。それから、やはり十代後半から二十代前半にかけて、異性の問題というのはどうしても出てまいります。異性の問題が出てきて、恋愛というのを経験しますね。この恋愛はドンピシャリで決まる人というのはきわめて稀(まれ)で、十代後半ぐらいで知り合った方や、二十代の初めぐらいに知り合った方とそのままゴールインするという人は少ないでしょう。もちろん、女性の場合は二十代前半で知り合った人とゴールインすることはけっこうあるかもしれませんが、少なくとも男性をとってみれば、十代や二十代の初めで出会った女性と結婚するケースは稀だと言ってよいでしょう。それは、やがて本格的な結婚生活に入る前の試練、あるいは準備期間としての恋愛があるのではないかなあ、と推定されるんですね。


2.恋愛と自己変革


今は男女の平均年齢、二歳か三歳ぐらいの差に縮まってきておりますが、これは歴史的にはけっこう珍しいケースでございまして、たいていは男女の年齢差というのはもうちょっとあいていることが多いんですね。二、三歳というのはきわめて難しい、珍しいと思いますね。これは女性の高学歴化と、社会進出の影響かと思いますけども、通常はもうちょっとあいていたのが歴史だと思いますね。四、五歳から十歳ぐらいあいているのが多かったように思いますね。

なぜそういうふうに年齢があいていたかというと、指導力の問題なんですね。やはり、男性がイニシアチブ取らないと結婚生活もうまくいかないんですね。いつも尻の下に敷かれていてはうまくいかないんです。そのためには、男性のほうがある程度社会的知識を身につけているほうがいいんです。生物的には女性の成熟のほうが早いですから、同じ年ではちょっと負けてしまうんですね。だから経験を積んで、その分でカバーしていくというのが多かったわけですね。だから生物としては女性のほうが進化が早くても、男性は社会経験を積むことによってそれをカバーできるということが従来の常であったんですね。

まあ、ですからこの話を聞けばすぐわかる人もいるでしょうが、尻に敷かれている男性諸君は自己変革が要求されていることもわかるかと思いますが、それもまた後の話にしましょう。

この恋愛期で九割は失恋するわけですね。九割の失恋を通して、何を学ぶかということですが、一つには異性への憧(あこが)れというのを感じるのと、挫折というのを感じるでしょうね。限りないあこがれ・憧憬・理想、こういうものを感じる反面、挫折ですね、挫折・失意こういうものを感じるでしょう。そしてこれは、後の人生において、自分がいろんな荒波を越えていくときの一つの練習台になっているんですね。

この女の子に振られたなんてことは、まあたいしたことじゃあないんですが、四十、五十になりゃあ、「そんなもんは、どうってことはねえや」って感じになってくるんですが、男の勲章だと思えるようになるんですが、この十代、二十代ではそうなかなか思えなくって、これがたいへん生きるか死ぬかの大問題になってきますね。

そして、なぜ傷つくかというと、自分のこのプライド、自我というものがザクッと切られるんですね。ザクロみたいに口を開くんですね。そして、苦しみます。このロを開いたところに冬の冷たい風が吹いてきてね、そして染みるんですよ。染みて染みて辛くてしようがないんですね。「あー染みて染みて、この私の傷口を嘗(な)めてくれる人、埋めてくれる人は誰もいないんだあーっ。」っていうこの悲しみですね。これを味わいます。

大人の目から見れば、これはひじょうにセンチメンタルな感じであって、「何言っているんだあ」ってね、思うんですね。私なんかから見りゃあ、その「愛(いと)しの愛しのカヨちゃんは」っていうようなのを見りゃあねえ、何だかしらんけど、まあ男の子みたいに筋肉質でピンピン跳ね回っているような女の子なんだけど、それでも同じ年ぐらいの男性から見りゃあ理想的な女性に見えるんですね。大人の目から見りゃあ色気もそっけも何もないわあ、化粧もしたこともないし着ているものもダサイと思うのに、同じ年ぐらいから見るとそうは見えないんですね。質素でほんとうに可憐で、そういうふうに見えるんですね。まことに不思議です。そういう世界なんですね。一念三千というのはこんなところにも働いているんでしょうか。そういうふうに人の目によって違うふうに見えてくるんですね。

まあ、この恋愛、そして失恋というパターン、よくあるパターンで、ここで心に傷が入って、そして、まあその傷はやがて癒(い)えていくわけですが、免疫みたいなのがついてくるわけですね。ただ、これがあまり繰り返しが多くなってくるとだんだん自己卑下的人生が始まってきます。

まあ、そういうことで世の女性には、お願いしておきたいんだけど、ウーン最近はきつい女性が多いんでね、ほんと。男性がザクロみたいに心の傷口を開いても、そこに何か、とどめ剌すような子がいっぱいいるから。ブチュブチュブチューッて錐を差し込むように最後まで殺しておかないと、とどめ剌しておかないとあぶない。また息を吹き返して私のところに迫ってくるとたいへんだから、なんてそんなことを言いますから、たいへんなんですね。まあ、その女性もやがて苦労するようになるわけですけどね。そういうことをしている女性だって、やがてね、春が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎて季節は巡っていくうちに段々段々年齢がいくと寂しーい人生が始まったりして、けっこう試練は来るんですよ。まあ、それはそれで置いておきましょう。


3.社会における自己変革


そして、次の試練はやっぱり卒業から就職っていう問題でしょうね。この社会生活に出るというところのギャップは大きいと思いますね。ここで男性は、女性もそうでしょうけども、この、お金を貰うということの厳しさを感じるんです。今まで学生やっていたときには、お金を貰うということが無かったわけですが、親から小遣いはふんだくってましたでしょうが、自分で稼ぐというのはアルバイトぐらいです。ただ、アルバイトと仕事をするというのは大きな違いがあります。この仕事というのは自分の将来を賭けているんですね。この仕事をすることによって、数十年の人生のロマン、これを賭け、またやがて結婚し家庭をつくっていこうっていうような、そういう場なんですね。

したがって、この仕事に入るということはひじょうに悲愴です。で、特に日本の社会でのこわいとこは終身雇用制に近い部分がありましてね、いったん就職したら、そう簡単にいいところばかりは次は移れない。ということで、男性というのはそこで覚悟を決めさせられるんですね。これは今に始まったことではなくて、昔にもありましたし、お城に勤めるということですね、脱藩するとたいへんです。他の藩に勤めることは、そう簡単にできませんね。こういうことで連綿とやっていることなんです。

ただ、ここでだいじなことは、学ぶのはね、自分本位という考えが通らなくなってくるんです。多くの人といっしょにやっているうちに、自分本位という考え方が通らなくなってきます。自分本位でいこうとする人は必ず衝突が起きてきますね。いろいろなところでぶち当たって、そして角がとれるようになります。角がとれてきて丸くなれば、いられるようになるけれども、角がとれない場合にはどうなるかというと、必ずドロップアウトするんですね。これは一つの法則です。角がとれずにドロップアウトしたとしても、でもまあ、そうしたいろいろなものにぶつかって、とんがったところ多少かすめ取られたっていうのは、人生にとってはたぶん大きな意味があるだろうと思いますね。

ここで考えねばならんことは、もちろん人のなかにはきわめて個性的で他の人を寄せつけないような性格もあることは事実です。魂のなかにそういう傾向があるんですね。もちろん、このなかにも優秀な方はそうとういます。そういう方もいるんですね。魂のなかに自己の優秀性を感じるがゆえに、そう簡単に人といっしょに協調できない。自分は自分のやり方があるんだ、という考え方ですね。これがあります。

ただ、ウーン、私なんかも軍隊の経験あるけど、今の会社社会なんて軍隊に比べれば楽なもんですよ、ずっと楽だ。軍隊なんか上官に逆(さか)らったら、あなた下手(へた)したら死刑ですからね。あるいは、まあブタ箱行きですからね。そして、厳しいお仕置きがあります。軍隊は厳しいですね。ええ、問答無用の世界ですね。上官に逆らっただけで、もう問答無用でバシーッと平手が飛んできますね。

その平手が飛んでくる相手が何かっちゅうたらね、あんなの聞いてみりゃあ、変な職業を言ったら問題があるかもしれないけども、たいしたことないどっかのアレですね、田舎町のオッチャンやオバチャン、オバチャンはいないけどもオジサンとかね、そんなんですよ。そんな人が上官にたまたまなっていたらね、高橋信次みたいな救世主みたいな、こんな人でもほっぺた叩かれちゃうんですよ、パシーッ、パシーッ、「こらお前クソ生意気だーっ」って言ってね、「お前みたいなやつは厳罰に処すぞーっ」って威張り散らしますね。それで軍靴で蹴っ飛ばされます、パシーッと蹴っ飛ばされますね。「晩飯抜きだー」なんてやられますね。問答無用です。ずいぶん理不尽(りふじん)なふうにも見えますが、ここに組織のなんていいますか、原点みたいなものがあることは事実なんですね。

なぜ軍隊がそれほど厳しいかというと、一つの目的があるからですね。この一つの目的とは何であるかって言うと戦いに勝たねばならんっていう目的があるんですね。「それぞれ自由でいいじゃあないかあ、みんながやりたいようにやりゃあいいじゃないか。上官の意見もいいときと悪いときがあるんだから、いいとこは聞いて、悪いとこは聞かないほうがいいんじゃないか。」とまあ、こういう考えもあるわけですが、こういう人がいっぱい増えるとどうなるかっちゅうと、戦をすると完全に敗けますね。当然のことですね。「敵軍は攻めてきた、我々も切り込むぞーっ」とまあ、上官が言ったとする。しかし、ある人は「いやぁ上官、今は時期じゃあないですよ。明日になってから総攻撃かけましょう。」とか、いろいろな人がいろいろなことを言うとどうなるかというと、バラバラになってきますねえ。そして、一部血の気(け)の多いのだけが切り込んでいったら、それは全滅ですね。そして残りのやつも翌日全滅させられますね。全部いっしょに動かないとそうなるんですね。こういうふうになるんです。

だから、なぜそういうふうな規律があって、厳しい統制があるかというと、戦いには勝たねばならんという至上命令があるからです。というのは敗けてしまうと全滅ですからね。だれも彼もないんですね。一人、二人の自由なところを許しておったら全部がだめになってしまって、そして結局敗けてしまいますね。ほんと自分かわいいでやっていて、自己本位でやったのはいいけど、全滅ですからこれはだめなんですね。勝ってこそ命があるんで、自由な意見も言えるんですね。敗けてしまえば、それまでなんです。まあ、こういうのがありますね。

この軍隊と宗教ですね。宗教の世界というのはひじょうに組織化の問題があるんですね。原点はここにありますね。軍隊と宗教はひじょうによく似たところがあります。過去いろいろな団体があったでしょう。現代ではそれは大会社というのは、何万、何十万の大会社があります。そういう例外もあるでしょうが、過去の人類の歴史を見てきて、組織ということでいちばん特徴があったのは、軍隊と宗教ですね、宗教団体です。組織化というのは、ここが原点なんですね。宗教団体も一つの意志のもとにまとまって、そして行動を起こすというところでは、ある意味での精神的軍隊とひじょうに似たところがあります。

そして、この宗教の目的はいったいどこにあるかというと、神の意思を述べ伝えるというところにあるわけですね。この神の意思ももちろん、いろいろな部分がありますが、一定の教義というものを広げるということが目的ですね。この目的のために組織化が進んでいくんですね。その意味において、軍隊と宗教団体というのは、何万、何十万、何百万人の人をまとめていくことになるんで、組織化ということはひじょうにだいじになりますね。この意味で普通の団体や会社なんかの比じゃあなくなってきますね。こういうことが必要になるんです。それは共に大いなる目的のために、奉仕しなければならんという大きな至上命令があるからなんですね。

こういうところがいつの時代にもありました。キリスト教の宣教師たちの、あの戦って殉教していく姿なんていうのは、もうどうですか、軍人さんより勇ましいかもしれないぐらいのところがあるでしょう。「神の神理を守り、それを述べ伝えていくためには命を取られても戦う」というんですから、「十字架にかかろうが、火あぶりになろうがやる」って言うんですから、これは軍隊どころじゃないですね。

神風特攻隊の原型はもうすでに、西洋にもあったわけで、別にゼロ戦だけじゃないですね。「日本はゼロ戦で飛び込んでくるから怖い、神風は怖い、日本の宗教怖い。」って言うけど、とんでもないですね。それより前にキリスト教やっているじゃないか。宣教師で火あぶりになってがんばっているじゃないか、とこういうところがありますね。

まあ、このように軍隊と宗教には一つの大いなる目的のために命を捨てていくという面があるように思いますね。まあ、何が言いたいかというと、そういうところに組織化の原点があって、これを多少弱めた形でいろんな組織・団体があるんですね。そこではどうしても自己本位というものを変えて協調していかねばならない。その協調、自己が抑圧される理由としては大いなる目的があると、こういう部分ですね。これがあります。


4.結婚と自己変革


さらに、社会に出てから次に結婚というハードルもありますね。結婚のハードルも、まあ、なかなかたいへんなところがあります。男性であれば、たいてい勤めて四、五年ぼちぼち仕事を覚えて、収入も高くなってきて、ちょっと余裕が出てきて、しかし中間管理職に入ったら急に忙しくなるだろうなと思われる、その前ですね。足場を固めておきたいという気持ちが起きるときがあるんですね。三十前ぐらいになると、そういう気持ちにだんだんなってきます。何とかして足場を固めて、次のステップに行きたいという気持ちですね。

ここでやはり葛藤がありますね。いつまでも子供でいたいという気持ちですね。二十代の男女にとってだいじなことは、親からの独立ですね。この問題があります。親はまだ結婚するまでは自分の支配権下にあると思っていますね。それで親がうるさく感じられる、うっとうしく感じられるのもこのころなんですね。うっとうしくは感じられるけども、やっぱり大人になっていくのが怖い、これはみんな共通だと思いますね。

男性も仕事面ではそこそこ認められるようになっても、嫁を娶(めと)って家庭を築いていって、父よ母よ、さようならっていくのになかなか勇気が出ない人もいます。特に両親からかわいがられた人であればあるほど、そういうふうになってきますね。

女性の場合もそうですね。過保護で育った場合には、やっぱり嫁に行くのが怖いんですね。親のもとにいると全然気を使わなくて済むし、いつもかわいがってくれるし、ほめてくれるし、食べ物にもお金にも苦労しないし、それが女手一つでね、女手一つに決まってますが、女の身一つで嫁にいったら姑女、姑があって、小姑までいたりしていろいろと蟹が群がってきてハサミでちょん切るような感じで、ジャクジャクジャクと向こうから来ますしね。夫ちゅうんだって出会って好きになったり、あるいは見合いをしたりするけど、ほんとうに一生を託せる人かどうかなんていうのは心配ですよね。賭けに近いですよね、エイヤーっですね。だいたいまあ五割ぐらいのもんですね。「やったー、よかったー。」っていうのと、「しまったあー。」っちゅうのとやっぱり、こりゃあ五分五分ですよね。だいたいは五分五分と見ていいでしょう。両方ありますね。きわめて辛いですね。

だから女性も、このエイヤーっのとこがだいじですよ。谷を飛び越えるときはね、谷を飛び越えて結婚するときには、もう頼りを断つことですね。もう、ご両親のもとに帰ろうとか思わないことです。親の後立て、かわいがられたこと、こういうことをいったんは捨てて飛ばなきゃあだめです、ポーンとね。もう心中していくつもりでね、それが泥舟だったら、もうあきらめるしかありませんね。泥舟に飛び乗ったら、それは沈んでいくでしょうが、まあ、それも運命です。

そういうふうにね、やはり決断をして、人生の変わり目にね、一人立つという瞬間、これがだいじなんですよ。これが脱皮の瞬間でもあるんですね。男性もそうです。奥さんと子供を養っていくっていうのは責任感ですね。二十年、三十年少なくともこれは働かざるを得ないんですね。

この点、独身者というのは呑気(のんき)ですし、無責任ですね。社会に対して無責任です。会社なんかでも、やはり幹部登用するためには、結婚していることが条件になっていると思いますね。そろそろこれも中堅幹部で使わないけないなあっていうときに、いつまでも独身でいたりすると、「あれなんだ」っていうことに必ずなりますね。三十から、三十二、三ぐらいになってきて独身でいたら、「やっぱり何か欠陥があるんじゃないか」って必ず言われますね、これは必ず言われます。だから会社の上司は男性が三十ぐらいになってきて、そしてそれが優秀な社員である場合には、結婚は必ず勧(すす)めますね。そうしないと安定感がないんですね。

それと、会社への忠誠心なんかがありますね、一つは。社内結婚なんかもありますし、それ以外でもいいんですが、結婚してくれることによって、永く会社で働いてくれるっていう安心感が出てくるんですね。結婚したらそう簡単に辞められませんからね。独身ていうのは気まぐれですから、気にくわないとポンと辞めちゃいますが、結婚するとそれができなくなるんですね、当然ながら奥さんのこと心配ですから。

そうすると会社にとっては優秀な社員に結婚してもらうということは、安定感につながるんですね。こいつをその後、課長、部長、役員にしていくときには期待できるわけですね。そうすると教育の意味もあるし、またいろいろな重要な任務に就かせられるんですね。ところが結婚していないとそれができないです。

特に結婚してくれると嬉しいのは、海外への赴任とかがありますね。海外に行く場合とか、国内での転勤ですね。こういう際、これは不平不満がひじょうに出やすいタイミンダなんですね。海外に行かされる場合で、海外に行くのイヤな若者増えているんですね、意外にね。遊びで行くのはいいが、仕事で行くのは嫌いなんですね。で、海外赴任を命じた途端に止めちゃうっていうの、よくあります。最近、流行っています。

昔は商社ぐらいしかなかったでしょうが、最近メーカーでも何でも海外ですね、行きます。ところがメーカーに勤めている人なんか、海外に行きたくて行くような人なんかいないんですね。そういう人はもっと華やかな職業に行っています、たいていね。旅行業とかね、あるいは華やかな職業に行きます。

海外志向の人っていうのは、花形のところ行きますが、自分は研究者として生きたいとか、自分はちょっとドン臭く生きたいなんて、メーカーに入ったところが海外でドンドンやっていますから、「どこそこでやっている合弁事業のところ行ってこい。」なんて言われると、とたんに萎縮するんですね。英語ができないから、メーカーヘ来たつもりでいたのにとんでもないことになったってこれで辞めたくなる、こういうことがありますが、このときに結婚させておくと、便利なんですね。奥さん子供がいるともうギブアップですね。やむを得ないからやっぱりがんばるんですね。国内転勤でもそうです。

だから独身者というのはひじょうに無責任ですから、不平不満があるとすぐポンと辞(や)めちゃいますが、結婚していると、できなくなるんですね。それで会社の戦略のなかに次第に組み込めるようになるんですね。会社の戦略として組み込める。結婚している人だと海外でも四年、五年行ってこいと言えるようになりますが、独身者で送り出すと心配ですね。どうなるかわかんないし、こういうことですね。

したがって、まあ、ある意味での担保なんですね。職場においては、男性が結婚してくれるということは担保に近いです。まあ、そういうことです。だから三十前後で、上司から結婚を勧められたら「お前、今ここで乗り換えておかないと先が危ないぞ!」と言われているちゅうことですね。そういうことです。

特にエリート社員はあまり独身でいると、今度悪い噂がいっぱい立ってきますからまずいんです。会社にとってもまずいし、いろいろ事件起こされそうで心配でたまらないんですね。こういうことがあります。ま、これも脱皮の瞬間ですね。


5.組織と自己変革


さらに次は、今度は課長あるいは部長クラスになって、部下を使う段階ですね。そして責任は重くなり、さらに上役がおります。この板ばさみ、中間管理職の問題ですね。私もいろいろな本を出しているけど、中間管理職の苦しみについてまだ十分説いていませんので、またいずれ時を改めて、このサラリーマン諸君の中間管理職の苦しさについての法を説いてみたいと、じっくり説いてみたいなと思っていますが、この課長さん、部長さんのあたりは苦しいんですね。仕事はものすごくハードですし、家では子供が進学期に入ってくるし、そして部下の責任ですね、部下はいろんなことをしますから、この責任とらないかんし、また上司からはハッパかかってきますね。

要するに部長から本部長あるいは役員になっていこうとする人は、下ですね、部下、課長とか副部長とか、こういうところがしっかり働いてくれないと絶対上に上がれないんです。それだから、いやがおうでも頑張ってもらわざるを得ないんですね。下に足を引っ張られて、課長たちがチョンボなんかしたら、本人はもう出世できなくなりますから、もうたいへんです。必死ですね、こういうところです。この板ばさみもきついですね。

さらに脱皮すると、いわゆるマネージャー、経営者に入っていく段階ですね。これはまた大きな変化だと思いますね。ええ、従業員として雇われているというのと違って、経営者になると責任がまた一段と大きいですね。経営者の責任というのは何かっていうと、まあ自己責任だけじゃあなくなるんですね。もう明らかに、自己責任じゃあなくて、多くの人たちの人生を預かっているっていう感じになりますね。先ほどの軍隊の話じゃあないけど、だって社長が製品の開発とかチョンボをすると、たいへんなことになります。

今、トヨタだ日産だホンダだってありますが、新車の開発をしてね、そしてその決定をして、それが欠陥車だったり、あるいはまったくダメ、売れなかったりってなことがあったら、とたんに社運は傾いてくるんですね。グワッと傾いてきます。そしたらどうなるかっていうと、従業員たちの首切りやらなきゃならんですね、整理をしなきゃいけなくなってくる。

悪くなってくると悪循環ですね。従業員の首は切らなきゃあいけない、仕事の整理はつけていかにゃいけない、不良債権は発生する。ところがそうしてたら信用が無くなってくるんでお客は滅ってくる。お客が滅ってくるうちに、悪いことに銀行の足が遠のいてくるんですね。銀行のほうは「金かえせ」って言ってきます。ますます悪循環になってきますから、社運を傾けるわけにはいかないんですね、どうしても成功させなきゃいけない。こういうことで夜も眠れないこともあるんです。

だから新入社員なんかみんな、百人が九十人まで社長になりたいと思っているでしょうけど、ならないほうがいいことがあるんですね。出世ちゅうのはすりゃあいいっていうもんじゃないんですね。やっぱり器(うつわ)相応がいいんですね。社長の器じゃあないもんが社長になった場合は、これはたいへんです。それは苦しみです。本人にとっても苦しいが、まわりにとっても苦しいんですね。路頭に迷う人たちはたいへんです。

まあ、これはほかでも、社長でなくても課長でも、部長でもいっしょですけどね。課長が無能だと課員はたまったものじゃないです。それは仕事できません。そしてジレンマにおちいりますね。頭越しをしようかどうか、課長をすっとばして部長とやろうかどうかってことになりますが、それをやると成功する可能性はひじょうに少ないんですね。よっぽど実績がある人でないと、課長すっとばして、部長と直接やりはじめたら、だいたい命があぶないと思わなきゃあだめだし、ただ仕事が好きな人であれば、無能な課長の下でもうやれないんですね、仕事が。このままでは会社が危なくなると感じてしまいます。まあ、そういうジレンマがあります。

経営者というのはだから辛いです。いろいろなことで、責任とらないけないし、経営者になれる資質というのは自分が見ていないところで起きた事件、事件に関して、かぶれるかどうかですね、責任を。これは経営者になれる資質かどうかです。「私、知りません」というタイプの人は無理だということですね。あらゆることに関して、自己の責任とできるかどうか。

総理犬臣なんかもそうですね。あらゆるところに対して責任を持たないかんのですね。実際上、いろんな人がいろんなことをやっているのを見ていられません。見ていられないことに対して、責任とれるかどうかですね。中間管理職というのは、自分が見ているところ、ハンコついたところに対して責任を問われますが、社長はね、自分がハンコついていないもの全部について責任を問われるんですね。ここでは、やっぱり結果がよくなければだめなんですね。結果が悪ければ指導力が低下していく、まあ、こういう世界ですね。

このようにいろんな脱皮というものがあるんですね。そこで、いろいろしゃべっているうちにだんだん時間がなくなってきて、残り少なくなってきて方法論までいくところまでいかなくて、背景でだいたい終わってき始めましたが、本章のテーマは「自己変革の原理」でございますので、原理を述べなきゃいけないね。

私はね、やっぱり自分自身というものに対する捕え方が問題だと思うんです。信念という言葉で、もう「自分は変えないんだ」という考えの人もいるでしょうが、実際上変えないでいい自分というものに、ほんとうに出会っているかどうか、っていうことですね。ほんとうの自分に出会うということは、かなり難しいことなんですよ。私自身四十過ぎるまで、ほんとうの自分と出会わなかったんですから。ねえ、町工場の社長をやってましたけど、ほんとうの自分じゃあなかったですね。ほんとうの自分は、そんなとこるになくて、宗数的魂であった。それに出会うのに時間かかりました。

だから、あまり早い時期に、自分はこういう人間なんだということを、決めてしまわないこと。私、これはだいじだと思います。自分は変化に富む、また可能性に富む人間なんだという考えを、まず持っていただきたい。自分は変えていけるんだという自覚ですね。いや、自分を変えていかねばならんのだという自覚です。これを持っていなければ、先ほど言ったようないろんな自己変革の時期に自分を変えていけません。最初のままになってしまいます。大人子供で終わってしまいますね。自分は変わっていけるんだ、変えていけるんだという出発点ですね、これを持たねばならない。そして、毎日の合い言葉は「自分を変えていこう。自分を変えていこう、いいものにしていこう。もっと高度なものにしていこう」という考えですね。


6.自己変革と責任の拡大


だから、その試練を乗り越えて自分を変革していくことです。これはひじょうにだいじです。中学生は高校生に、高校生は大学生になったときにね、一段の変化をしなきゃだめです。その気分を変えてね、その気分を変えて、さらに大きな視野を持っていかねばならない。また、社会人になったらやはり学生との気持ちの切り替え、だいじです。

そして、こうした脱皮の時期をずーっと見て来ると、何かっていうと、要求されているのはいつも責任ですね。脱皮の瞬間ごとに自分の責任の範囲というのは広がっているんですよ、いいですかあ。この責任を広げることができない人はどうなるかというと、これは専門職、専門家のような世界に入っていくんですね。こういう人たち、職人の世界ですね。あるいは、芸能人ですね、一芸に秀(ひい)でてその自分の芸に対してはもうすごくうるさいが、それ以外に対しては、責任とれないというタイプですね。まあ、芸術家なんかもそうかもしれません。自分の責任のところしか、絶対とれないタイプですね。他の人の責任はとれないっていうタイプは、こうした芸術家や専門家肌の人で、そうした世界に入っていかざるを得ないんですね。

だからここをどうするかですね。自己の責任以外絶対とれないとするか、人の責任まで背負い込むような人生を送りたいか、これを考えねばならない。まあ、自分は人のことまで知らないという人は専門家路線を歩むしかありませんが、そのときにはそれだけの努力が要るということです。その道でやっぱり一芸に秀でるだけの努力は必要なんですよ、ということですね。

ただ現時点では、たとえば武道家であっても芸術家であっても、人との交際が下手な人はみんな出世しませんね。これは明らかだと思います。将棋が強くとも、将棋の名人というのは社交家でないとやってられないんですね。いろんな人の後援を受けないとやれない職業ですし、囲碁でもそうですね。ほんとうに人間嫌いでこの道一筋という人じゃあやっていけないんですね。いろいろな人とのつき合いがあります。

また、お相撲さんでもそうでしょう。稽古の虫けっこうで、強いのもけっこうだけど、でもやっぱり横綱になんかなったらね、勉強はしていませんが、中学校卒業してあと勉強なんかしないでやってきたでしょうが、それでも横綱となるといろんな各界の偉い人とも会わなきゃいけない。こうなるとねえ、「私は嫌いです」じゃあ済まないんですね。横綱には横綱としての行動、言動というものが要求されてきますね。これをしないで、新人類横綱をやるとクビになるんですね。どっかにもいたと思いますけど、そういうふうになります。根性が子供のままで、横綱は横綱の風格を出せない人は、それはクビになりますね。こういうことはどこにもあると思います。素質はある、強い、けどいつまでたってもパソコンとナイフ集めが趣味で、そんなことばっかりしてて後輩の教育ができない人、こういうのは横綱やめていかなきゃあなりませんね。こういう事件があったと思いますけど、そうなります。

だから立場相応に責任をやっぱり求められるんであって、専門家で自己責任だけで行く場合は、あまり出世を求めないことですね。そこそこのところで止まっておるならいいでしょう。ただ、それでもその専門家の道で頂点をきわめたいと思うなら、やはり大きなことに責任を持だなければ無理になってきますね。

こうしてみると、人間が進歩・進化していくためには責任の範囲、自分がとれる責任の範囲ということを常に考えておくことです。そして、これを大きくしていくことが、やはり自己を変えていくことなんですね。そしたら他人の仕事に責任が持てるようになるとはどういうことか、ということを常にね、もちろん認識力は磨いて、そして人に対して指導ができるという実績ですね、実力が必要ですね。そして、見きわめですね、この人はここまでは使えるという見きわめ。その器以上の使い方をすると失敗をしますし、器以下だと不平・不満が残りますねえ、こういう見きわめがだいじですね。

だからね、奥さんでもそうですよ、子供が生まれることによって責任が出るんですね。一人よりニ人二二人、四人、責任を受け止める、自分の責任として受け止めていく、他人事だと思わないでね。「これだれの子なんだろう」なんて言わないで、自分が産んだ子なんですから、二人、三人、四人ときたら責任があるんです。それだけの子供たちをしっかりまとめて、守っていかねばならない。教育していかねばならんですね。旦那がもしかして会社をクビになったときには、自分が稼いでいかにゃあいかんわけですね。それだけの責任感があってつくらなきゃいかんのですね。

まあ、こういうことで結局ねえ、多くの責任をとれるようになるということが霊的に見たら自己拡大なんですね。自己の進化発展につながっているんですよ、いいですか。だから、特に若者に言っておきたいけれども、責任のとれる人間となれ。そしてその責任をね、大きくしていけるような自分となれ、自己責任だけじゃなく、他人の責任までかぶれるぐらいの、そういう人間になっていけ。そして、それで出世していくためには、それを受け止めるだけの器と努力が必要だぞ、これを常々忘れるな、まあこういうことですね。えー、もっと言いたいんだが、ウーン、時間が来ました、みなさん残念ですね。私は一章四十分です。一時間あれば、じっくりとした理論が言えたのに、ウーン、またあしたです。はい。