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目次




 4.人間の器量





(1989年2月13日の霊示)

1.情熱と愛の力


高橋信次です。徹底的自己管理のあと、引き続いて「積極型人生論」について話をしていきたいと思います。

まあ、これはね、ばくの人生そのものが積極型人生だった、こういうふうに言ってしまえばそれまででね、だから、やっぱりそういう生き方をみなさんにお勤めしたいなと思うんですね。

人間を分ける方法はいろいろあると思うんですが、大きく分ければけっきょく、積極型の人か消縦型の人かどっちかと、まあそういうふうに出るでしょうね。それで、その二種類の人間をよくよく観察してみると、ずいぶん違いはあるんですね。なんでこんなに違うのかなと思うほど違いがあります。ただ私なりの解釈で見ると、積極型の人のほうが人生を有意義にしかも十二分に活用しながら生きているような、そういう感じはしますね。どうしてもそういうふうに思います。消極型の人というのはどうしても先延ばしという癖があるんですね。みなさんのなかにも、おそらくそうとういるでしょうけど、何でもかんでも先に送る、難しいこと、ややこしいことはもう先送りして、とにかく逃げにまわると、まあこういう方もいるでしょう。だから大きく言ってこの二つがあるんですね。

それで積極型の人はもちろん、勇ましく、凛々(りり)しく人生を開拓していくけど、まあ短所をあえてあげるとすれば、短気であるとか、軽率であるとか、よく失敗もすると、こういうところがあるでしょう。

消極型の方は、まあ長所をあげれば、まあ熟慮型っていうこともあるし、人の気持ちを大切にする、というようなところもあるでしょうね。短所をあげれば何も物事が進まないとかね。いろいろあるでしょう。

こういうように両方とも考えられるわけなんですが、あえて私は積極型の人生論のほうを推薦したいな、というふうに思うんですね。なぜか、この理由には二点ほどあるんですね。

まず第一点なんですけど、これは、まあ本書で縷々(るる)述べてまいりましたが、やる気というのは人生のいちばん大きなエネルギー源の一つなんですね。このやる気というのをどう活かすかによっては、その人の事業というのはずいぶん違ったものになりますし、一生というものもずいぶん違ったものになりますね。やる気がない人だとほんとうに現状維持型になってしまって、発展がありませんね。

これはある意味での、昔の村社会、農耕型社会というふうに言ってもいいかもしれませんね。お天道(てんとう)さまの動き、自然の動き、天候、こういうものによってお米がとれたり、とれなかったりするけど、あとは毎年毎年同じような仕事を続けていくという、こういう村社会の考え方には向いていたかもしれませんけども、現代のこの文明社会、都市型社会というものは、やっぱりこのやる気が源泉にあるんだろうと思いますね。やはり、絶えず技術革新をし、向上していこうとする気持ちが新たな文化を拓いてきた原動力だと思いますし、そこにあるものは何かというと、まあ人間の情熱だね、情熱。もちろんこれは宗教的にとられると欲望という言葉で言う場合もあるんだけどね、ただそれを、単に欲望として否定しきれない面もある。そう思いますね。

というのは、実際に神理の伝道をしてみたらよくわかるけど、新幹線があるとないでは大違いですね。飛行機があるとないではやっぱり大違いで、現状維持型だと『東海道膝栗毛』で、五十三次歩きながら、宿々で十人か二十人集めてやるんでしょうけど、おかげさまで飛行機でひとっ飛びして、千人集めてマイクでしゃべったりできるんですね。まあ、こういうことはありがたいことで、これは人間にやる気があったということが、そういう結果をもたらしているんだろうと思うんですね。だから、やる気をもって生きるということは、産業革命以来の、技術革新の流れのなかできわめてだいじな精神的な要素であった、そういうように言うことができると思うんですね。

そして、やる気をなくす社会というのは停滞社会である、ということで停滞社会っていうのは何かっていうと、まあ調和に人間の心が動くということはあるでしょうけど、進歩という限りない発展の喜びは味わえないのではないかということですね。

次に積極型人生がなぜ必要かについての二番目の理由なんですけどね、やっぱりぼくはこの積極型人生っていうのは、一つの愛だと思うんですね。そうじゃないでしょうか。消極型の人生っていうのは、何かっていうと深い意味で考えてみると、ある意味での自己保存かもしれませんね。「やどかり型」人生といってもいいでしょう。消極型の人生というのは、やどかりのようにね、ああいう貝殼のなかに入っちゃって出てこないんですね。自分の身を守ることを一生懸命考えている、それが消極型の生き方じゃないでしょうかね。臆病で引っ込み思案ということでしょう。いろんなことにこだわる性格、それから自分が傷つきたくない、そういうことでだんだんやどかりみたいに引っ込んでいるんですね、あるいは亀でもいいですね。亀のように首を引っ込め、足を引っ込め、ジッとしていて、まわりの様子をうかがって物音がしなくなったら、またノッソノッソ歩いていく。ちょっとでも音がしたらスッと引っ込むっていうこれは消極型だろうね。動物にも明らかにそういうのがいるんだから、人間の類型のなかにもいるんでしょう。そう言っていいでしょう。

だから、やっぱりね、積極型というのは、一つの愛の現われというか、愛がやっぱり現われているんじゃないかな、ぼくはそういうふうに思いますね。やっぱり愛なき人生っていうのは不毛ですよね。多くの人のために生きる、多くの人のためにつくすという気持ちが起きてくる源泉は、ほとばしるようなエネルギーだとぼくは思うんですね。それが出なきゃだめですね。

だから、どういうときに人のために生きるっていう気が起きてこないか、まずお腹が空いているときですね。お腹が空いてもうお昼前とか、晩ごはん前のヘトヘトのときなんかもう人のこと構ってられないですね、空腹時。それから、病気のときね、病気して元気がないときね、これが一つあるし、もう一つは自分にものすごく悩みがあって、もうたいへんなとき。まあ、こんなときかね。お金がないときもそうかもしれませんけど、こういうときですね。けっきょく自己中心的になっているときには、やっぱり人のこと構ってられなくなりますね。

そうすると、こうした他人のために愛を持って生きるための前提条件が次に必要になってきますね。それで、これから積極型人生論のための基礎ですね、積極型人生の基礎について話をしたいと思うんです。


2.やる気の源泉


積極型人生の基礎に不可欠だと思われること、その第一に私はあげておきたいのですが、それは、ぼくはやっぱり、気力の源泉のところだと思うんですね。気力の源泉、何ゆえにやる気が出てくるか、ここの源泉のところ、源泉というか井戸の部分があるかどうかを聞いているんですね。この井戸には二種類あります。一種類はひじょうに何というか、恵まれている場合ですね。才能に恵まれている、あるいは家庭環境に恵まれている、友人にも恵まれる、金銭的にも恵まれるということで、条件が整備されてそして豊富なんですね。ひじょうに豊富でもう鮮烈な水をたたえて、満々と水がたたえられているという感じで、どんどん人に水をあげられるっていうかね、いくらでも供給できるタイプの人、実際まあこれもいます。あまりにも秀才すぎて、大先生になっちゃって、どんどん人を教えるというね、こういうタイプの方ももちろんいます。恵まれた方ですし、数は少ないかもしれませんがそうぃう方もいますね。ただ、これは数的にはそう多くはないかもしれませんね。比率的には少ないかもしれない。

逆に私はね、このやる気の源泉としてよくあるのが劣等感の裏返し、あるいは挫折、逆境からの何というか、立ち直りが多いんじゃないかなと思うんですね。世の中の成功者を見てても、順調に成功したっていう人はやはり少ない感じはするんですね。若いときにどこか挫折したり、あるいは家が貧しかったりね、学校へ行けなかったり、失恋したり、病気になったり、いろいろな挫折があって、それで、そのまま居ついちゃう人は、これは凡人っていうんですね。挫折があって、そのままなんとなく、ああそうだろう、こんなもんだろう俺の人生、そんな人様に威張れるような人生じゃあないわ、と思えばそれで平凡人として生きていくんですが、挫折があってね、やっぱり゛くやしーっ゛という気持ちでね、゛くやしーっ゛という気持ちがあって、そして゛なにくそっ゛と思ったら、やることはありますね。これはだいじです。やっぱりそうだね、大物になった人のなかには、こう、いろんな体験して大物になった方は多いように思いますし、やっぱり゛なにくそっ゛っていう気持ちは、きわめてだいじだろうと思いますね。

それはその゛なにくそっ゛の気持ちっていうのは決してほめられた情況ではないし、人から見られてそんなカッコよくはないんですね。なにくそ、なにくそでやっているというのは、あんまりそんなカツコよくもないんだけども、ただ当事者としては、ひじょうにやる気の源泉になりやすいことではあるんですね。だから意外なところでね、意外な効果があるんですね。人にバカにされた、なんてことでも発奮する人もいますね。それから、「お前なんか絶対結婚できないぞ」なんて言われて、なにくそって思って、結婚したくもなかったのにやっと結婚したとかね。こんなのもあるし、「お前みたいな貧乏人が」って言われて、なにくそっと思ってお金ためたとかね、「お前は頭が悪い」と言われて、なにくそっと思って勉強したとかね、こういうことはあって、意外に人間、何が薬になるかわからないところもあります。何気ない言葉なんですがね。何気ない人の言葉が発奮剤になるようなこともあります。

それと、ここでいい意味でのライバル意識っていうかね、こういうものもあるかもね。やっぱりよきライバルを得ている人、こういう人は伸びていく可能性が強いですね。そのライバルと思うのも、そうだね才能的に自分より恵まれているか、あるいは年齢的に自分より上か、これぐらいの人だといいですね。ちょっと上ぐらいの人がいると、それについていくということができてね。ライバルがいるとか、競争関係の人がいるって、みんなイヤがって、自分一人の独占市場を築きたいと思いがちなんだけれども、必ずしも独占市場っていうのはいいことではないんですね。どこでもだめですね、国営企業がだめになる理由といっしょでね、だめなんですよ。やっぱりね、刺激がないと人間は向上しないんですね。その刺激のためには、自分よりちょっといつも一歩リードしているような人がね、身近にいるということはだいじなことですね。だからライバルがいたり、あるいは自分の少し上をいっている人がいるということはいいことでね、感謝しなきゃいけません。こういう人がいるとほんと、やる気が出てきますね。

このようにね、やる気の根源というものを探ってみると、意外に自分のマイナスイメージの克服っていうところがあるんですね。人間になぜプライドがあるか、これはぼくはひじょうに不思議で不思議でしょうがないんですが、もちろんぼく自身にプライドはあるんですけど、これは傷ついたときに人間はどうするかですね。反応は二通りしかないんですね。プライドが傷ついたときにグシャッとなって、ガッカリして憔悴(しょうすい)して、自分はダメなんだと思うタイプと、逆に゛なにくそっ゛と思ってその部分をカバーしようとするタイプですね。世の人びとを見ていて、成功者はどっちにいるかといったら明らかに後者ですね。逆境を克服しようとする人のなかにこそ、成功者は多いんですね。

こうしてみると、神様というのはやはり芸術的に人間を指導しているなと思われるところがあるんですね。順調にいく人がサーサーサーサー出世していくのもあれば、逆境に置かれて、それがバネになって触媒となって、一大転機が訪れる、こういう人もあるんですね。まあ、こういうことです。私なんかも負けん気は強かったし、人一倍いろんな自分の置かれたマイナスっていうかね、不利な状況に対する反発心もあって、何とか克服したいっていう気持ちもずいぶんありました。

そういうことで、まあこれはね、ある意味では小手先のことかもしれませんけどね、人間に本来備わっているそういう自尊心っていうか、自尊心をいい方向で使っていくということだね。ちょっと違いがあると、何というかエゴイストに完全になってしまうんだけれども、自分を大切に思う気持ち、自分を伸ばしていきたい気持ち、自分を偉くしたいという気持ちは、やっぱり人間備わっているものであって、それ自体は実は努力の前提条件としてあるんですね。だからこれをいい方向に使うことで、現状停滞している人はね、やっぱり叱ってもらえるような人のところへ行くというのはだいじなことですよ。叱ってもらえる先輩、同僚がいるところ、こういうところに行くなりね、刺激を受ける。最初から争いを避けてね、逃げて、逃げて、だれにも何も言われないような世界に逃げ込もうって人もいるけど、こんなのは絶対だめです。大成しません。やっぱり叱ってくれる上司や先輩がいるところですね、そういうところで思い切って使ってもらうこと、そういうことかだいじだと思います。

だから親もね、子供の力の引き出し方、だいじなことがあるんですね。ただぬるま湯みたいな環境だけでもだめなんですね。子供っていうのはだめで、それを剌激しなきゃいけないんです。あの手、この手でね、剌激しなきゃいけないので、やる気を起こさせるっていうことは、きわめてだいじですよ。これ、ほめてやる場合もあるし、逆に意図的に発奮させるということもあるんですね。「お前は、ほんとうにそんなんで偉くなれないねー」なんて言って、「父さんが若かったころは…」なんてやると裏目に出ることもありまずけどね、いいほうに出る場合もあります。両方です。

まあそういうふうにね、やる気の源泉あるいは積極型人生の基礎理論の第一としてね、本来の意味で、天性に備わっている自尊心というものをいい方向に使っていこうということですね。これが真っすぐに伸びているならば、ますます伸びていく方向に、これがゆがんだりあるいは傷つけられたりしたならば、これを克服するという方向で努力しようと。この自尊心のところを利用しましょう。だから自分が現状維持で停滞しているなら、この自尊心がね、多少刺激されるような、そういう対象を選んでみることもだいじですよ。あえてライバルをつくってみる。あえて自分が負けそうな大きな相手に挑戦してみる、こういうこともぼくは大切だろうと思います。

これは人間の場合ですが、これが人間じゃないものに向かうと大きな目標ということになるかもしれませんね。自分自身の達成できないような大きな目標、これを掲げる。これがだいじかもしれませんね。そうぃうことです。そして、常にその自尊心を守り、伸ばしていくためには努力せざるを得ない環境に自分を追い込んでゆく。これがだいじですね。


3.人生を楽しむ気概


積極型人生の基礎をつくるための、第二の条件を考察しておきたいと思います。

第二の条件は何だろうかということですね。ええ、まあこれはいろいろあるんだが、私自身の体験からいったらね、これはね、一つは人生を楽しむという気概じゃないかなと思うんだよね。みんなどういうふうに思って生きているのかしれないけれども、可能性という観点から見た場合にね、自分のまわり、あるいは前途っていうのをもう一度考えてほしいんだね、可能性ということでね。もちろん人生の終着駅に来ている人もいるでしょうが、その前の人たち、数多くいるはずですね。十代、二十代の人たち、自分の可能性に賭けたときどう思うかだね。

ぼくなんかも、信州のほうに生まれました。小さいころからいろいろ劣等感はあったけど、可能性というのはいつも心のなかにありましたね。可能性というものを求めていく、そして自主独立の気運でね、なんとか道を拓いていこう、やればできるんだということを自己確認してきた。自分で道を切り拓いてきた、まあそういう実績がありますし、それゆえに私が生前説いた法なんかも自力というのをひじょうに強調していたと思いますけど、それは自分自身が、別に親に頼るでなく、兄弟にでもなく、友人にでもなくね、自主独立の気運で道を拓いてきたという気概だね、これが大きかったんだろうと思います。

よく、天才・偉人はね、身分が卑しいところやあるいは辺ぴなところに生まれるっていうんですね。これは歴史上見ていても、そういうことは言えるかもしれませんね。かえって好都合すぎる環境は避けるんですね。そして、リスクの多いところを選んでくるんですね。どうなるかわからんようなところを選んで出てくることは多いですね。まあ、なかにはそうでなくて本家・本流でくる人もいますよ。科学者になるために、オヤジが科学者であるところを選ぶとかね、医者になるために親が医者のところを選ぶ、音楽家になるためには親が音楽家のところを選ぶ、まあこういう人もいます。

それが活きてくることもありますが、本格的な何というか独創型天才の場合にはまったく違った環境を選んで出てくることっていうのは多いんですね。宗教家でもそうでしょうね。私なんかでも宗教やったことはないし、専門は理科系統だったし、会社の事業経営やってましたし、〇〇さんだって、まあ言ってみりゃあそうですね。宗教なんか関係ない畑ですね。法律や政治の勉強してみたり、商社マンで世界を股にかけてみたり、かといったらいつの間にか、天照大神だ、なんだという感じになってきましたしね。まったく不思議な人生だと思いますが、ほんとうに真の独創型の天才っていうのはまったく違った畑から出てくることが多いんですね。そして、そのほうが立派なことがあるんですね。

それはね、あんまり正統な畑から出てくると、自由な発想というのができなくなるんですね。教え込まれてしまって、しつけられてくるんですね。私は私で理科系統だったし、自分で会社の経営をしてたから、「あー、あんな宗教なんてヘッタクレ」っていうような感じがあったんですね。そんなもの自分の言いたいように言ってみよう、切ってみようという考えがあってやりました。それでまあ、それで食っていく必要もなかろうということでね。宗教でメシなんか食うもんかっていうことでやってまして、十分食っていける、それぐらいに自由なことが言えたと思います。しきたりなんか守らなくてよかったし、これがお寺さんに生まれてね、あとを継がなきゃいかんというんじゃあ、「親鸞様はたしかこうおっしゃった」とか「日蓮様はこうおっしゃった」というのから逃げられないですね。枠を越えられないところがあったし、牧師さんの家に生まれてもいっしょでしょうね。やはり「聖書にはこう書いてある、ああ書いてある」ということで、それ以外のことは言えるはすがない。

まあ、そういうことがあって、意外に全然違う畑の人のほうが自由なことが言えるわけですね。イエス様が恋愛をしたとかしないとか、こんなことを言えるのは、聖職者でないから言えるんであって、そういうところに生まれたら言えなくなりますね。そういうことです。

で、何が言いたいかということなんですが、けっきょくね、二番目として積極型人生を考えるにさいしては、可能性というのをどういうふうに見るかという考え方ですね。その可能性を見るという意味では、ある意味で貧乏な家に生まれたり、田舎に生まれたり、いろんな環境を選んで生まれて、自分で道を切り拓いてくるという体験はだいじなんじゃないかなということなんですね。

だから、ぼくは積極型人生を生きている人というのは、意外にいいところのボンボンは少ないんじゃないかなと思うんですね。決してボンボンが消極的人生を生きているというふうに言うつもりもないんだけど、まあ、当然ありそうな人生生きているんじゃないかなと思えるんですね。だから、たくましさがないね、そういう人生というのは。意外に鳥海山の麓だとかね、剣山の麓だとか、阿蘇山の麓あたりから生まれて、都会に攻め上ってくると、こういう人のなかにたくましい天才がいて、そして世の中を変えていくんですね。

だからみなさんね、いろいろ劣等感はあるだろうと思うんだ。田舎で生まれたとかね、家が貧乏だったとかね、体が小さいとか太っている、まあいろいろあるでしょうけど、こういう条件が悪いということはむしろね、これは新たな可能性への挑戦なんですよ。ぼくはそう思うね。もし、自分がアントニオ猪木や、ジャイアント馬場みたいな体してたら、どうするかと思うと、やっぱり格闘技の世界か何か考えちゃうもんね。ところが貧弱な体しているとね、そんな道は生きられないんで、ほかの道で生きなきゃいけないということで、とりたてて長所がないということは、かえって長所の場合があるんですね。

あまり音楽の才能がありすぎたり、あまり絵の才能がありすぎると、どうしてもその方面に行きたくなって、それ以外では生きられないけれど、意外に平凡であって、取り立ったことがないっていうのはいいんですよ。無限の可能性があるし、特に育った環境、生まれた環境が悪ければ悪いほど、やっぱりチャンスはあるし、羨(うらや)ましいですね。

やはり東京の山の手で育った坊ちゃん、嬢ちゃんっていうのは夢が少ないと思うんだよね。住んでいる家がもうすでに五億円だとか十億円の家に住んでいて、自分がサラリーマンやったってこんな家建つはすもない。ただ親のあとを継ぐから住めるというだけでね、何の夢もないっていうことはあるけど、地方から攻め上ってくる人なんていうのは、けっこう持っているんだよね。えー山形からあるいは青森から来てね、一発当ててみようって、やっぱり来て、そして当てた場合にはやっぱりそうとうなもんだよね。

その魂の達成感っていうのは大きいよね。だからあえて、そういう意味での充実感、魂の達成感を味わうために、不利な条件から出てくる人は、数多くいます。ですから、かえって私は環境の不利、あるいは自分の才能の不利をあえて無視する、あえてそれを言いわけにしないという精神がだいじだと思うんですね。どんな不利な環境でも、精神下でもやると、いやそういう環境下にあるからこそ理想を求めて限りない向上を求めてやるという気概がだいじである。それはちょうど雪の下に埋もれている春の草と同じだし、柳の芽といっしょだね。雪がかかってもがんばるあの柳の芽といっしょで、雪の中でも芽を伸ばしていく。寒梅だってそうだね。雪の中で花をつけるね、寒いだろうと思うけど、そのなかで蕾(つぼみ)を伸ばし、花を咲かせていくんだね。こういう努力がある。

だから、第二番目には、そういう環境の不利や性格の不利、自分自身の才能の不利というものをね、これを決して言いわけに使わないで、前にある可能性だけを見つめていくという気持ちですね。これはきわめてだいじであるということ。可能性を見るということ、そしてその可能性を切り拓いて、独立独歩で行こうとすること。こういう気持ちがだいじだということですね。そして、そこにあるものは何かというと、一種のぼくはあこがれだと思うんだよね。自分にないもの、自分が育った世界にないものに対する限りなきあこがれだね。これがあると思うんでね、このあこがれをだいじにしなきゃいけないね。このあこがれをあこがれとわからない人たちは、やっぱり空しいね。

だから先祖代々東京のいいところに住んでいて、十億円の邸宅に住んでいた人は、そういうところに住むということにあこがれを感じないね。もう、もともとそうだったから。けど、田舎でね、地価一坪三万円とかね、五万円ぐらいの田舎から出てきた人は五億、十億の家を持つなんてことは、半生かけての大仕事でね、「働いて儲けて建ったー」というときの気分はいいでしょう。そりゃー成金趣味というのも簡単だけども、やっぱり魂の喜びであることは事実だね。貧しいということ、あるいは贅沢をしなかったということは、かえっていろんな物質の喜びを味わうということにもなるわね。そういうことってあるんですよ。だからいつの時代にも貧富の差はなくならないけども、いいところもあるんだ、貧富の差があるということは。可能性の芽をつくっていくんだね、可能性というのを育(はぐく)んでいく。

これは天上界でもいっしょでね、みなさんは平等主義者も多いと思いますが、なぜ四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元ってあるのかな、みんな九次元にしちゃえばいいのにと、そしたら神様が近くなってよろしいだろうにと思うのに、何で差があるのかなあと思うけど、これが実にいい味わいがあるんですよ。これはね、まだ十分に悟ってない人と、悟りきった人とかがいて、その間に無限の階梯(かいてい)があるからこそね、いろんな可能性があるんですよ。

だから、四次元の人が努力して六次元まであがっていく喜びっていうのは違うかもよ。それはたいへんな喜びでね、初めて人間のすばらしさ、神の子としてのすばらしさに気づいていく喜びっていうのは、これはかけがえのない喜びかもしれないね。こういう喜びはあるんですね。だから、こういう階層があるっていうこと、上下があるっていうことを一概に否定してはいけない、それをあらゆるチャンスの芽と考えていく。こういう必要があるんですね。


4.人間の器量


積極型人生の基礎としての三番目にかかりたいと思います。

三番目の考え方というのは、ぼくは世の中の成功者、事業家としての成功者などを見ていたけども、やっぱり客観的に言えば運がいいと思われるような生き方をしているんだよね。ひじょうに運がいい、松下幸之助にしたって、あるいはソニーの創案者、井深だの盛田だのという連中にしたってね、ひじょうに運がいいように見えるね、あれは何だろうかと思う。京都セラミックの稲盛だとかね、いろいろいますけど、急成長会社いろいろありますがね、何だろうか、運がいいように見える、けど前半生として運がよかったかというと、前半けっこう苦労しているんですね。若いころはいろんな苦労をしたり失敗したりしているんです。

何だろうかというと、神様に愛されているっていう感じをひじょうに受けるんだよね。愛されているんじゃないかな。急速にそういう成功していく人って、神様に愛されているんじゃないかなと思うんだよね。そして、神様に愛されているから、やっぱり道がついていくようなところがあるんだね。そうしてみると、神様に愛されている人の特徴って何だろうかって思うと、けっきょく人が寄ってくるんだよね。これが一つの特徴なんだよ。

不思議なことにね、まわりの人がだんだん寄ってくる人と離れていく人といるんですね。それはその人の器、容量にもよるでしょうが、魅力を感じて寄ってくる、その人間的魅力っていうのは計り難いものなんだよね。これは学歴とも違うしね、お金とも違うし不思議なものなんですが、人間的魅力というのがあるんです。そして、それがあると、人が寄ってくるんですね。そして、人間的に魅力がある人というのはやっぱり神様から愛されているような感じがきわめてするんですね。それは物差しで測れるものでもないし、どこがどうだからというわけでもないんだけど、魅力があるんですね。人を魅きつけてくる。

それはいったい何だろうか、その魅力の根源は何だろうかと思うとね、やっぱり発想においてね、発想においてまわりの人たちに対する無限の愛みたいなのがどこかあるんだよね。そういう供給者として生きようという気持ちだね、こういうものがあって、この雰囲気がね、人を寄せつけるんだね。いくらいろんなところに献金して歩いたり、財団つくってね、この資金はアフリカに使われてます、どこそこに使われてます、貧しい人たちにやられていますって、自己宣伝したって、何かね、いやだなとか、何か魅力感じないとか、何だかいっしょに仕事をしたくないなと思う人っているねえ。みえみえの派手なことをいっぱいしているんだけど、慈善事業いっぱいしているけど、なにかその人といっしょにやりたいという気持ちはしない。そういう人っているんだよね。どこかちょっと違うんだね、何かが違う、これは何だろうかというところなんだね。

そうしてみるとね、この人間的魅力のところというのは、表立った部分で人を生かすために努力しているっていうことももちろんあるだろうけど、陰徳というか隠れた徳の部分もかなりあるんじゃないかなと思うんだね。たとえば、人を愛するといっても、ほんとうにその人にあなた好きだよー、かわいいよー、愛しているよー、よくなってほしいと思っているよって、口に出して言うこともあるが、これはやはり現実世界では稀なケースであって、そんなにストレートには言わないね。ほんと腹のなかで思っているだけで、それが時々折りに触れて出てくるぐらいになるね。

そうすると、こういう人間的魅力のある人、神様から愛されていると思われる人っていうのは、この隠れた徳の部分がそうとうあると思えるんだね。人目につかないところで徳を積んでいる、人目につかないところで多くの人の幸福を願っていたり、多くの人のために生きてみようという気持ちがある。それを決して目立たそうとしない、一割、二割が外に出ることはあっても、残りの八割、九割の部分が深く静かに潜行しながら徳を積んでいるんですね。いろんな人のためになることをやって、そしてそれを自分がやったという気持ちじゃなくて、忘れているんですね。当然のことというふうに考える、あるいは当然のこととも思わないで、してあげたけどケロッとそんなことはもうすっかり忘れている、こういうものですね。

ところが「情けは人のためならず」で、人のためにやったことって必す生きてくるし、どっかから回ってくるんですね。おかげを欲しなくてもおかげはやってくるんですね。必ずやってくるので、こういう人に徳はくるんです。たとえば助けてやったら必ずおかえしをよこせというような人のところに徳はこないんでね、別に嬉しいからしてる、したかったから助けてあげたというだけの人ですね。こういう人のおかげっていうのは、ストレートにくるんだけど、五年後とか十年後、二十年後に回ってくることがあるんですね。こうしたもんなんです。

だからね、自分はこんなに有能なのに人は全然こないと思っている人は、恐らくぼくは、奪う愛でいっぱいなんじゃないかなあと思うんだね。優秀なんだ優秀なんだっていったって、けっきょく人に認めてもらいたいだけ。人がね、自分が優秀なのを認めてくれたら、もうそれで自己愛に浸れ、満足する。こういう人のところにはあまり人は寄ってこないし、警戒しますね。ただ、陰で多くの人を助けたいという気持ちで生きていて、それを決して人に悟られたくもないし、恩着せがましくするわけでもないし、平気でやって忘れているような人、こういう人のところに何かを感じて人びとは集まってくるんですね。ここに自己顕示欲みたいのがいっぱい出てくると、やっぱり人は嫌気を感じるんですね。まあ、こうしたもんです。

だからこれは、一般的な徳という問題で話をしたが、秀才なんかもそうですね。いかに自分が秀才かっていうのを、いつももうギラギラ見せていたら人は寄ってこないけど、秀才であってもそれがね、柔らかいいぶし銀のような秀才で、和光同塵(わこうどうじん)、光を隠してそして、ほんとうは内部は光り輝いている、こういう人であると学徳というのがついて来ますね。学徳がついてきて、先生独特の碩学(せきがく)っていうか、大碩学、大哲人、大教養の人っていう風格というのが出てくるんですね。これは見せびらかしによってではなくて、内に蓄えられたものが外に光ってくるんですね。こうして人をして、あの人はいいと言わせるようになってくるんですね。

だから、やっぱりね、昔からよくいうけど、この内に秘めたるという言葉をよく使うんですが、きわめてだいじなことのようなんですね。これは、実は神様自身がそうなんですね。神様自身がほんとうは人間のためにずいぶんいろいろなことをやっているんですよ。みなさん気がついていないだけで、いろーんなことをほんとうはやっているんです。

太陽が東から西にまわっていくのだって当然だと思っているけど、当然かどうかわからないし、春夏秋冬がちゃんとあるし、冬になったら雪が降り、夏になったら雨が降り、春になったら花が咲く、当然のことは当然のごとく起こっている、これに対して人間の感謝というのはあまりないけれども、しかしこれも神様は陰徳を積んでいるんだね。けっきょくね、感謝されようが、されまいがやるべきことをやっているんでね、雨を降らすときに降らさないと、穀物は実らないし、そして人間も食べられない、動植物も生きていけない。こういうふうになるわけですね。

みなさんは知らないだろうけど、神様はどんな気持ちで魚たちを育んでいるか、漁師が獲っても獲ってもなくならないように、魚たちも幸福であり、いろいろ考えているんだよ。それで魚だけでかわいそうだから海老(えび)つくってみたり、蟹(かに)つくってみたり、いろいろやっているんだよ。そして蟹なんか、水圧のあるところで生きているからギューッと甲羅が押されて肉がしまっておいしいんだ。なんであんな深海にいる蟹なんかがおいしくなきゃいけないんだ、苦(にが)くてもまずくてもいいじゃないか。ところがおいしいんだよね。食べられることを予定している海の底にいるもの、いつか必ず食べれると思ってそういうふうにしてくれているんだよ。ありがたいことじゃないか。まあ、そんなもんだ。

お米だってまずくてもいいんだけどね、おいしいんだよね。栄養になるものはまずいっていうのもいいんだよ。薬といっしょで栄養のあるものはとにかく、まずい、苦いっていってもいいんだけど、実際はそうじゃないね。

また、果物の味もきめています。おいしくなってますね。それぞれの木に柿がなったり、あるいは桃がなったり、栗がなったりいろいろしますけど、なんでそんなことしなきゃいけないのかよく考えたらいい。ねえ、あれらは決して自分の種族保存だけで考えているとは思えないね、栗だってもちろんそうですし、桃だって種族保存というだけであんなようにならなくたって、きっともっとやり方はあると思うんだな、ぼくは。決して食べられないようにしてもいいと思うんだけど、あんなにみずみずしくおいしい。

りんごなんていうのはほんとうは青森りんごから始まって、ずいぶん農家を食べさせてくれているけど、あれだってあんなにりんごというおいしさをつくる必要はないと思うんだよね。それなりのものがあるよね。鳴門に鯛が泳いでいるだけであの辺の四国の人たちの生活が潤っているしね、わかめができるだけで、それで食っていけるしね。ありがたいことですね。

だからいろんなところで、神様は陰徳を積んでいるのに感謝してないわけだね、人は。神様っていうのはやっているんですよ。こんぶ、鳴門のこんぶは引き締まって身が厚くておいしいなんて、こんなの漁師たちはこんぶに感謝するかもしれないけど、神様に感謝しないですね。でもあの立派な渦潮つくってくれて、こんぶが引き締まるんだね。そういうものなんですよ。まあ、そういうふうに、いろんなところで陰徳を積んでいるのが神様、それに全然感謝しないのが人間、そういう意識です。

そうすると地上にいても神様に近い人間っていうのは何かというと、やっぱり絶えずいろんな多くの人たちのために行動している人、考えている人ですね。そういうことなんです。人の心のうちはわかりませんが、しかし偉人といわれるような人はやっぱり後世の人たちからも偲(しの)ばれるんですね、その徳を偲ばれる。そこにやっぱり隠されたものがあるんですね。これがない人っていうのは魅力感じないね。だから隠された部分に魅力を感じるんですよ、けっきょくはね。

もちろん逆もありますよ。タントンタントンと出世街道まっしぐらっていうような人にあこがれを感じる場合もありますね。わーすごいな、すごいなっていうことを、その後、そういうあこがれが世代を経てのこる場合もあるし、のこらない場合もある。のこる場合には、まあそれなりのタレントがあって、その人にやっぱり強い何が影響力がある場合でしょうが、消えていくものもありますね。

みなさんなんか、今から十年前に大臣やっていた人とか、二十年前に大臣やっていた人なんて記憶にもないでしょう。二十年前に一流会社の社長していた人なんて記憶にもないね。もう消えちゃう、そんなもんだ。しかし、二十年前にやっていても、記憶にのこっているような人があるとするならば、その人はやはり何らかの違ったところがあった人だろうと思うんだね。きっとそうだと思うよ。おそらくそんなもんなんだ。だから、やっぱりこの陰徳、隠れた徳という部分をね、もうちょっとぼくらは考えようよ。それは、決して後で回収するためだけじゃなくてね、それは神様の心にもかなっているんだ。そしてそれが人間としての色艶になってきているんだ、光沢になってきて、人を魅きつけているんだ、こういう考えだね。