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目次


 2.神の不在

 3.道徳の欠如

 4.師の不在






1.現代日本に思う


現在の日本において、いちばんの問題と言えるのは、心の中心の部分の不在ということであろうと思います。

国がどのように乱れても、国の中心となる考え方、国の根本となる考え方が固まっている時には、国の乱れはやがて収まっていきます。
これに反して、根本思想、中心の思想が定まっていない時に、混乱が来、国難が来た時に、その国は分解してやがて潰れていくものです。

私は、現代の日本に、そして、現代の日本人に特に問いかけたておきたいこととしては、根本的なるものを持て、心の中軸を持てということであります。心の中軸を持たない人間は、やがてさまざまな試練のなかを乗り越えていくことができなくなっていくでありましょう。
これに反して、心の中軸を持っている人は、その中軸を頼りにして、どのような困難の時にも、どのような嵐の時にも、乗り越えていけるのではないかと思います。
この「克服の原理」ということが、何にもまして大切ではないでしょうか。

結局のところ、自分自身の心、一人ひとりの心のなかに、「確固たる不動心」ができているかどうか、ということであろうと思います。

では、その過去たる不動心は、一体どのようにしてできるのでしょうか。
やはり根本的には、人間の内にはそうした核となるべきものはあるけれども、それに気付くという過程においては、さまざまな方々かの力、環境の力や人びとの力が働いているということを、無視することはできないのだと私は思うのです。

この意味において、「環境づくり」ということが、とてもとても大切なことのように思われるのです。まず、「人的環境」であります。人びとが善良であって、信仰心に溢れている人びとであるならば、そうしたなかで育った子供たちもまた、善良で信仰心溢れた子供たちが育っていくでありましょう。信仰深い人びとの間に生まれた子供は、間違いなく信仰深いのです。心のきれいな人びとの間に生まれた子供は、やがて心がきれいになって育っていくこととなっていきます。

このように、やはり人的環境ということは、とてもとても大事であろうとおもいます。
この人的な環境を、別な側面から捉え直すとするならば、教育環境と言ってもよいかも知れません。
その人間が生まれ育つ過程において、どのようなものを学び取るか、学び得るか。また、その者が学び取る材料として、如何なるものを提供することができるのか。これが問題となるのです。

こうしてみると、現代の日本を見たときに、心の大切さ、人間の生き方の大切さ、また、信仰の大切さを説いたものが非常に少ないということ。こうしたことが言えるのではないでしょうか。

根本原因は、やはり、唯物思想であろうと思います。そうして無神論を名乗ることが、知識人の証明であるかの如き社会風潮でもあろうと思います。

こうした風潮のなかには、マスコミと言われる新聞、テレビ、雑誌、こうしたものどもの害悪が激しいとと言えると思います。こうしたものたちは、一体自分達がどれ程社会に、世の中に、人びとに、そして、現代から後代の人びとに害悪を流しているかということを知らねばなりません。

つまらない風俗雑誌が、あちらにもこちらにも溢れて、そしてそのなかに流れておるのは、この世だけがすべてだという考え、快楽追及の考え、物こそすべてだという考え、これが中心であり、「神」とか「霊」とかいうと一笑に付してしまう、そうした現状があります。

報道という姿勢に関しても、やはりひとつの観点が要る、ひとつの視点が要る。それは、この地上は神の心の反映が実現されるべきところであるという視点です。神理に基づいた視点です。神理から観て、現在の世の中のどこがどう違っているのか、どの部分をどのように伸ばしていけばよいのか。こうした面を見逃して、勝手な憶測や、勝手な価値判断から、いろんな情報を氾濫させている彼らの存在は、非常に問題となります。

こうした風潮に対して、勇気を持って立ち上がる人が数多く出てこなければなりませんし、報道関係の人びとのなかからも、心ある人たちが出現することが大いに期待されるわけです。


2.神の不在


神が沈黙して語らないと思っている愚かな者たちよ。神がいつもお前たちの見るに堪えない行いを放置していると思っている族(やから)たちよ。神は黙ってはいない。神は見過ごしてはいない。神は沈黙してはいない。神はあなた方に常に語っているということを知りなさい。

神の不在の責任は、神そのものにあるのではなくて、その神をどのように感じ、どのようにそれから学び、、どのようにそれを日々の生活に行じていくかという、あなた方一人ひとりに問題があるのだということを知りなさい。神が不在しているのではなく、神を信ずる人間が不在しているのであり、神から学ぼうとする人間が不在しているのである。

あなた方の神とは一体何か。
正月の時に、神社詣りをするだけの神であるのか。それとも、受験の時や、結婚の時の祈願をするだけの神であるのか。もちろん、神のなかには、そのような祝いごとを取り仕切っている者もいる。しかし、それはあくまでも、信仰の本道ではない。信仰の本道にあるのは、この天地を治めている神の経綸です。この神の経綸の下に、人びとは生きていかねばならないこととなっているのです。

さすれば、神の不在を嘆くよりも、神を信じない人間の数多きを嘆きなさい。神の心を心として生きていかない人間の、数多きことを嘆きなさい。それはあなた方人間の責任であるということを知りなさい。

本当の幸福とは、根本的にすべてを知るということ。すべてを知ったなかで、自らを最高度に発揮していくということ、これが素晴らしいことなのです。これが本当の生き方なのです。

ここに、人生の根本があるということを知りなさい。本当の世界を知らず、神の創られた世界を知らずして、生きているということの恥ずかしさを知りなさい。そうした世界のなかで、弱々しく生きている自分たちの愚かさを知りなさい。

神は黙ってはいない。神は手をこまねいて見ているのではない。神は常に熱い視線でもって、あなた方を見ている。あなた方を見守っている。私がこのように送る神示も、また、神が黙っていないことの、神があなた方を放置していないことの証明に他ならないと思う。

私がこのように語るということが、かつてあったであろうかということを知って欲しい。その意味を知って欲しい。

あなた方は今、自分たちが如何に怠惰な生活を送っているかということに、気がつかねばならない。怠惰の理由は、どこにあるのか。怠惰の理由は時代の持つ意味を知らないからではないのか。また、自分が立たされている、この立場の意味を知らないからではないのか。

今、新たなる風が巻き起こっている。大いなる嵐が始まっている。これは日本を立て直すための嵐である。

神の不在を嘆くなかれ、神の不在を嘆いている自分の無力さを嘆け。今、こうした、大いなる風が起きる時、大いなるつむじ風が起きる時、この時に、同時代に居合わせたあなた方よ、わが言葉を学べ。わが言葉を学んだならば、それを行じていけ。それを一人でも多くの人に弘めてゆけ。そこに、本当の生き方がある。人間としての原点がある。神の子としての原点があると思う。

まず、神というものを思い出せ。そうして自らもまた、その神から出ている人間であるということを知れ。

さすれば、「親に似ぬ子は鬼子」というではないか。親に似るように努力せよ。親の心は明るく豊かであり、希望に満ちているのだ。あなた方だけが何ゆえに、それ程悲しい顔をするのか。辛そうな顔をするのか。不幸を背負っているような顔をするのか。そうしたものを吹き払え。一陣の塵の如く、吹き払ってしまえ。大いなる風でもって、薙ぎ払ってしまえ。禊払(みそぎはら)ってしまえ。そこに、あなた方の真実の姿が現われてくるであろう。


3.道徳の欠如


人びとよ、知りなさい。神の心に適(かな)っていない方向での努力は、決して実を結ぶことはないのです。神の心を、邪魔立てするような方向においては、決して本当の意味での成功ということはないのです。

やはり、心において、方向において、思いにおいて、神と共に在(あ)るということが大事なのです。この、神と共に在るということが、より普遍的なかたちとなり、より多くの人々に、わかるようなかたちとして存在するために、道徳というものがあるのです。道徳というのは、信ずるべき対象ではなくて、守るべき規則です。ルールです。人間として、生きていく上での知恵です。この知恵の固まりが、道徳というのです。

日本人よ。あなた方は、かつて自分達が築き上げてきた道徳というものを捨てました。家庭の道徳を捨てました。そうしたものを、封建的なるものとして捨ててしまいました。間違いを生むものとしてすててきました。

捨てたくば、捨てるがよい。ただ、それに代わるものを見出しなさい。古き道徳を捨てたならば、新しき道徳を打ち立てなさい。その時に初めて、捨てたということに意味が出てくるのです。単に捨てただけでは、何にもならぬ。

あなた方は古き道徳を捨てて、一体何を得たのですか。そこに得たものは、アメリカ的な、愚民主義の民主政治ではないのですか。性の退廃ではないのか。家庭の崩壊ではないのですか。また、女性の心の荒廃ではないのですか。こうしたことを、もっともっと深く考えてみなさい。

特に日本女性よ。あなた方は戦前の美徳をどこに失ったか。権利のみを主張して、本当の意味で、信義に適っていない女性たちの如何に増えたことか。男性を複製したような女性が、如何にこの大和の国の地に溢れてきたことか。それは非常に溢れている。嘆かわしいことです。女性のいちばん大切な優雅な心を捨て、女性のいちばん大切な奥ゆかしさを捨て、女性のいちばん大切な内助の功、献身の美徳を捨て、それらを一笑に付し、自由気ままにいきているあなた方よ。深く自らを顧(かえり)みなさい。深く自らを反省しなさい。

本当の女性のありかたというものは、美しき献身の美です。献身の美徳です。献身の美徳です。それが本当の女性の素晴らしさであり、美しさであるのです。

現代日本の女性たちよ。同じく日本の地に在る私が、女性の眼でもってあなた方を見る時に、どうしても言っておかねばならぬこと、それが、この献身の美徳です。

あなた方は他の人びとに対して、一体如何ほど尽くしたことがあったでしょうか。一体どれほど尽くしたことがあったでしょうか。どのように多くの人びとのために、身を挺(てい)したことがあったでしょうか。身を粉にしたことがあったでしょうか。

自らの成果を誇らず、飾らず、そして、密(ひそ)やかに、奥ゆかしく多くの人びとのために生きていく。これが日本女性の美徳です。こうした美徳を捨てた時に、あなた方の堕落がはじまっていったのです。

どうか、そうしたことに流されることなく、そうした外面の美や、上辺(うわべ)の心に騙(だま)されることなく、内心の美を輝かして生きていきなさい。そこに、女性としての道徳の登場の場面が、またあるはずでしょう。


4.師の不在


日本を憂う際に、どうしても忘れてはならなぬことが、もう一つあります。それは、「師の不在」ということです。すなわち、人びとを導く人の不在ということです。

この師の不在ということは、現代において、大変大きな問題となっているのではないでしょうか。師が不在であるということ、人びとを導く人がいないということ、真の指導者がいないということは、その時代にとっては、大変嘆くべきことであります。大変残念なことであります。

時代のなかにおいて、師を見出すということは、非常に困難を極めております。けれども、いつの時代にも、いつの地域にも、必ず師はいたのです。その師を発見できなかったのは、やはり、その時代に生きていた人びとの罪であったのです。間違いであったのです。私は、そのように思います。

人びとよ、現代に師がいないということを嘆くなかれ。現代は師が不在であるということを嘆くなかれ。現代のなかにも、必ず師はいるのです。あなた方の師はいるのです。自らの目にかけた色眼鏡を取り去り、心にかかった靄(もや)を取り去った時に、現代に、また、師がいるということを、大師がいるということを、神近き人がいるということを、あなた方は知るに至るのです。

大師の存在は、やがて、地域を超え、日本という国の枠を超えて、世の人びとの間に広がっていくでありましょう。

師の不在を、単に嘆いてはならない。自らの心の内に求めていきなさい。師を求めていきなさい。自らの内面を掘り下げれば掘り下げる程、そこに、自らが師に近づいていることを知るでしょう。

大師と合うためには、大師と出会うためには、そして、大師の導きを受けるためには、自らもまた、それだけの神性を具(そな)えておらねばならぬ。自らもそれだけの、心の輝きを持っていなければならぬ。

師は弟子を選ぶということを知りなさい。本当の教えというものは、そのなかに必ず厳しい面がある。弟子が師を選んでいるだけではない。師もまた、弟子を選ぶということを知りなさい。弟子としての態度を知りなさい。弟子としての学びの姿勢を忘れるな。学ぶという気持ち、学ぶという姿勢を忘れ去った時に、師は弟子の前から姿を消すであろう。そのような弟子を教育はしないでしょう。

弟子たる者、深く帰依するという姿勢を忘れるな。弟子たる者、師から学ばんとしている姿勢を忘れるな。自分の心のなかに、師への愛慕(あいぼ)、思慕(しぼ)を持っているという姿勢を忘れるな。この姿勢を忘れ、師もまた、自分と対等であるかの如く思い、お互いに教わったり、教えたりする仲だと錯覚するようになった時に、その弟子は、ひとつの間違いを犯したことになるのです。師というものは、帰依という姿を通して、初めてすべてを明らかにするのです。一人の師から、どれだけのものを学びとるかということは、その者に対する信じ方、その者に対する心の姿勢によるのです。師の心の扉は、自らの心の扉が開いただけ、教えを放つのです。自らの心の窓を開け、心の窓を開け。大きく開け。開いた分だけの教えが流れが、愛の流れが、あなた方の心に流れ込んでくるでしょう。

師は不在ではない。師は必ずいる。必ずいるが、必ず教えるとは限らないということです。その人の傍(そば)に、十年いようと、二十年いようと、心の扉が開かねば、本当の意味において、心にかかった霧を晴らさないで見ていたならば、何ら学ぶことはないでしょう。それは、傍近くに存在したというだけであって、その人の心にとってなんらのプラスにもならなかったということです。

信仰というものは、すべてを見出していく道である。すべてを投げ出し、すべてを見出していく道である。

小さな小さな自分の我を捨てよ。自我を捨てよ。計算心を捨てよ。計算心がある時に、師は本当の意味での教えを説くことはない。汝らの心のなかにある打算を捨てよ。

弟子の心のなかに打算がある時、師はすべてを与えることはない。すべてを教えることはない。そうしたこととなっているのです。弟子たちが捨てれば捨てた程、また、新たなものが与えられていくのです。

師の不在を嘆く者よ、師の教えの不足を嘆く者よ、自らの立場を省(かえり)みなさい。汝らは捨てていないのではないのか。汝らは何かの間違いを犯しているのではないのか。汝らは、師に対して、計算心で接しているのではないのか。師に対して、打算心で近づいているのではないのか。何らかの欲心がありて近づいているのではないのか。自らが、よりよく扱われるということのみを求めて、近づいているのではないのか。真実の教えの道というものは、そうしたものではない。本当にすべてを捨てて来なければ、真実の道は開かないということを知りなさい。それだけの厳しさがあるということを知りなさい。

師が不在であると言われる現今であるが、弟子もまた不在であるということを私は嘆くものです。本当の意味での真理を求め、信仰を求める弟子の不足よ。打算のみを求め、自らの利益のみを求めて生きていく人の数の多さよ。こうした人びとが心を改めないでは、本当の意味での信仰というものを打ち立てることはできない。私は、そのように思います。


5.勇気の必要性


勇気なくして、新たな時代が拓けたということはありません。勇気なくして、新時代の精神ができあがったということもありません。勇気はすべてのすべてです。勇気ありてこそ、新たな時代が拓けていくのです。

私はみなさま方に、三つの勇気の大切さを語っておきたいと思います。

第一の勇気は、これは、信仰の勇気です。信ずるということの勇気です。信ずるという行為は、それ自体がひとつの勇気である。行動であるということを知りなさい。
信ずるということは、相手のなかに最高のものを見出す、神の中に完全無欠なるものを見出すという姿です。その姿は、一躍神の世界に跳入するための勇気を必要とするのです。
現代のように実証主義の時代において、勇気を持って生きると言うことは、限りなく大変です。信仰を持っていきるということは、すなわち、勇気を持って生きることと同じなのです。他の人びとが認めないことを、自らが認めて生きるということ。これは何にもまして大事なことであろうと私は思います。

第二の勇気とは何かというと、この世的なる欲望と闘う勇気です。
この世的なる欲望、人間として生きている以上、さまざまな誘惑があります。地位とか、名誉とか、金銭とか、異性であるとか、いろんな欲望があります。ともすれば、そのなかで流されていきます。それが人間の愚かさです。そうした愚かさは、何とかして克服していかねば、神の世界に入ることは許されていないのです。
その愚かさを克服する方法とは、一体何でしょうか。私は、それをやはり、欲望と闘わんとする決心にあると見ます。地上的なものを脱するためには、ぬるま湯から出ていく、風邪をひくかも知れぬという危惧(きぐ)はありながらも、勇ましくぬるま湯から出るという、外に身を投げ出すという行為が必要です。
執着を断つという行為がなければ、本当の意味において、人生は開けてこない。神の目で見た素晴らしい自分はできない。信仰に至ることはできない。心の目を、心の窓を開くことはできないのです。

第三の勇気とは、すなわち、是(これ)、向上の意欲であろうと思います。
人間はともすれば易きにつき、易きいに流れ、怠惰な生活に流れていきます。そうした時に、日々自らを立て直さんとし、日々自ら向上を目指して生きて行くということは、限りなく勇気のいることです。
みなさまを向上させようとするものは少なく、みなさまを堕落させようとするものの数は多い。平凡な生活に流されていく誘因はいくらでもありますが、しかし、平凡な生活のなかから非凡な力を生み出していくためには、数限りない勇気と努力が必要です。常に向上を目指して生きるということ、これがまた、大いなる勇気そのものであるということを、あなた方に知っていただきたいと思います。

三つの勇気について語りましたが、これはすなわち、その時どきにおける大いなる自覚と決心、決意ということでもあります。その時どきに、自らの使命を自覚し直し、決意し直し、そして、決心をするということ。日々に是(これ)、決心であり、日々是、決意であり、日々是、自覚です。そうした自覚がなくて、勇気が生まれるということは、決してないのです。

そこに、自覚を通して、大いなる世界への道が開けてくるのです。神理の門に至る道は非常に険しいのです。坂道となっているのです。そう簡単には、その神理に至る門をくぐることはできないのです。この世的なる執着を捨て、重荷を捨て、ひたすらひたすらその山道を登っていかないでは、神理の道を乗り越えることはできません。その関門到達するためには、勇気という名の鍵が、どうしても必要なのです。

あなた方の多くに言っておきます。数多くの人に言っておきます。勇気なくして、本当の人生は開けない。時折、毎日でもよい、毎週でもよい、毎月でもよいが、自らに勇気があるか、意気地なしになっていないか、卑怯者となっていないか、そうしたことを考え直してもらいたいと思います。


6.根本的立て直しの時


今の日本は、私たち神の目から見て、到底、座視することのできない現状にあると思います。神の国において、神を信じない国民(くにたみ)が溢れているということは、この日本の神々にとって、どれほどの恥辱(ちじょく)であるかということを、あなた方は考えたことがありますか。日本の国を治めている我らから見て、この地上の国民(くにたみ)が神を信じていないということが、どれ程恥ずかしいことであるかということを、あなた方は知っていますか。そうしたことがいつもでも許されると思いますか。

あなた方も私たちの立場に立って、地上というものを見ていただきたいのです。自らの本質が、霊であるということを知らずして、生きている人がどうしてこれ程多いのか。これを見て何と思いますか。恥ずかしいとは思いませんか。情けないと思いませんか。悔しいと思いませんか。
みなさんが神であったならば、この日本の国民(くにたみ)の嘆くべき現状をどう思いますか。あなた方であったら、どうしますか。どうすればよいと思いますか。

神が直接に、みなさま方に怒りをぶつけるといいうことはないでしょう。しかしながら、厳しい姿となって指導することもあるということは、知らねばなりません。みなさんが、私たちの立場に立ったならば、厳しく子供を諭(さと)すように叱(しか)ってみせることがあると思わないでしょうか。

本来であるならば、あなた方の前に姿を現して、あなた方全員に対して、憂国の思いを語りたい。日本の国を、私がどれほど愛し、どれほど憂いているかということを語りたい。この私の、内心の悲痛な思いを、断腸の思いを、知ってもらいたい。
あなた方は、自覚もなく生きているが、その無自覚な民を養っている神がいるということ、これを忘れてはならない。

根本的立て直しの時に際会して、私は、三つの立て直しの柱を打ち立てることとした。

神というものに対する信仰を、大多数の日本人に持たせるということ、これが第一です。神に対する信仰を持たせる。神を信じさせる。国民の九割以上の人が信ずるような世界にしたい。こう強く願っています。

第二は、霊的世界についての確信であります。霊的な世界が確かにあるということを、人間には魂があって、それが肉体という乗り舟に乗って魂修行をしているということを信じさせたい。そうして、その魂修行は、今世のみのものではなく、過去・現在・未来を貫く、三世の魂修行であるということを知っていただきたいのです。三世を貫く魂の修行は、これは人間にとってどうしてももどうしても必要なことなのです。これが神が創った仕組みなのです。
この根本原理を知らずして、生きるということ、生きていくということが、どれほど愚かしいことであるのか、これを知らねばならんのです。

第三の柱は、これは、政治改革であります。
これは、現代の政治のあり方は、如何(いかん)とも認め難い。政(まつりごと)をする人間は、徳高き人でなければならぬ。人びとを導ける人でなければならぬ、人びとの師となるべき人でなければならぬ。単なる知名度であるとか、そうしたものでもって選ばれていく現行の制度は、どうしても許し難い。やはり、優れた、人びとを導ける徳のある器、師となるべき人が。国政を牛耳るということが本来の姿です。津善の姿なのです。
指導者というのは数は少ない。数少ない指導者が、多くの人たちを導いていくということになっている以上、多くの人びとを導いていくためには、どうしても指導者たちは優れた人でなければならないのです。優れた人たちが、指導者として生きていかないで、指導者として選ばれていかないで、どうして日本の国の人びとが素晴らしい人びとになるでしょうか。
徳高くない人たちよ。単なる収益であると、あるいは、マスコミへ名前が売れているとか、そうしたことでもって政治家になっている人たちよ。あなた方は直ちに職を辞しなさい。本当に人びとに心を割って押しえるべきもの、導くべきものを持っている人のみが、政治家として生きて行くことができるのです。