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目次

 1.出エジプト












 13.アドバイス




(本章は、一九八四年四月二十九日の霊示)

1.出エジプト



モーゼ  モーゼである―――。

善川  モーゼ様ですね。このようなところへお招きし恐縮に存じます。私どもがいま、正法流布の使命を負わされているということはご存知でしょうか。

モーゼ  存じている。存じているというよりも、わたくしたちが計画したことを、今あなた方がこの地上において実現して下さっているのです。

善川  それでは、私はお初にお目にかかるわけですが、今はここであなた様のことについて少しお聴かせ願いたいと思いますが、お赦し願えましょうか。あなた様のお考えなどについて……。

モーゼ  わかりました。私も今日はそのつもりでまいりました。まず何から話をすればよろしいか。

善川  では、あなた様はモーゼとしてこの地上にお生れになって以来、現在までずっと天上界にいてご指導されておられるのですか。

モーゼ  そのとおりです。この地上に肉体をもってから既に三千有余年、私は天上界において私の使命、私の仕事を務めております。

善川  その間におきまして地上界では、さまざまな出来ごとがあったということはご承知だと思いますが、まず宗教活動の面では、インドにおける釈尊の出生による仏教の広布、続いてイスラエルにおけるイエス・キリストの降誕によるキリスト教の誕生、その後アラビアにおいては、マホメットによるイスラム教の出現。以来各地で諸聖賢が現われて正法を説いておられますけれど、あなた様は肉体をもってご誕生になられた時には、イスラエルの民族の救済ということが中心になって、お働きになられたように思われますが、そのようなことでありましたか。

モーゼ  当時、私はエジプトという地に生れました。今でいうエジプト、ナイルの畔であります。

もう既にあなたもご存知のことと思いますが、私は奴隷(どれい)の子として生れました。そして旧約にあるように、箱舟に乗せて河を流されました。やがて拾われて、王宮の中で少年時代を送りました。長ずるに従って世の中の矛盾、王宮の中の優雅な生活、虐げられた人びとの生活、このような世の中の矛盾に気がついていきました。

これは恐らく釈尊も同じであったでありましょう。私もそうでありました。私は、私が拾われた子であるということを、十八歳の時に聞いたのであります。そしていま優雅な暮らしをしている私も、かつては虐げられたこの人びとと同じもの、この人びとの間に生れたもの、そして運よく拾われて、王宮の中で育てられたものであるということ、こういうことを知ったのであります。

私は、自分で言うのも少し恐縮しますが、正義感の強い人間であります。正しいことはあくまで正しい、正しいことはこの世に実現されねばならないというのが私の考えであります。正しきもの神の義、これがこの世に実現されねばならない。これが私の考えの根本であります。

そうであるなら、正しき義、神の義がこの世に現われているかどうかを見たならば、その時代において、片や王宮生活があり、片や虐げられた被占領民族の奴隷としての生活がある。神はこのようなことを許しておかれるだろうか、許されるはずはない。私はそう思いました。時機が来たら私は起たねばならない。必ず彼らを救うために起たねばならないと深い決意を固めました。しかしそれまでの間は、書物を読み教養を身につけ、そして文武両道と申しますか、武芸にも長(た)けました。そして私は将来を期したのです。やがて時機が到来すると私は被占領民族の皆さんに、つぎつぎと申しました。

『私も皆様と同じ人間です。同じ血が流れております。たまたま王宮に育ち、私はこのような人間となっておるけれど、私は皆様の仲間であります。皆様方の解放を王に言いましょう。そして皆様方も、平和に幸福に暮らしていただきたい――』

私はこのように、つぎからつぎへと言って回り、私を支持する勢力が次第に増えていきました。そして王宮の中においても私は自分の論を吐き、周りのものを敵に回してでも議論をしました。しかし私の意見は入れられませんでした。人間というものは、いったん自分が得た利益、いったん自分が得て奴隷にした者を、なかなか手放そうとはしないものです。そして私は彼ら奴隷たちに言いました。

『よし、この地を捨てよう。この地は王の地である。彼らは彼らの生き方があるであろう。彼らを滅ぼしてまでわれらが倖せになる必要はない。われらは、われらの地を造ろう。われらはわれらの希望を持ち、われらはわれらの希望の地を求めて旅をしよう。そしてこの地上にわれらのユートピアを築こう。ユートピアは必ず出来る。この地ではない。遥か先の地ではあるけれども、そこには希望と、乳と蜜が流れる地がある。カナンの地がある――』

私は、彼らにそう説きました。彼らは眼に見ぬカナンの地というものに憧れを持ちました。

私は当時において、相当の霊的な能力を持っておりました。その希望のカナンの地があるということを、私は霊的実感として知っておりました。けれども彼らは必ずしもそれを信じません。しかし私は指導者であります。必ずカナンの地がある。われらの地がある。われらの地である天国がある。われらはユートピアを建設せんとして、いま一丸として行動を起こすべきである。そうして私は彼らを糾合しました。

そして私は、私の力を、私の意見を、私の言葉を信じさせるために、さまざまな霊的な能力を現わして見せました。王宮で見せたこともあります。しかし彼ら、やがてイスラエルの民となる人びとの彼らにも私はさまざまな奇蹟を見せました。私の奇蹟の一つは、あなたもご存知かと思いますが、私の杖が一旦私の手から放れると、龍となって天に昇って行くという奇蹟、そのようなさまざまな奇蹟を行って見せました。

それは霊的な意味における奇蹟でありますけれども、彼らの眼にありありと見えたのです。また私は未来を見ることもできました。聖霊たちと会話することもできました。恰度(ちょうど)このようなかたちで、そして当時のエホバといわれる神と対話できる者としての自由を持っておりました。

やがて私は、諸国に数十万人の奴隷を集めて、そして一大移動を開始しはじめました。王の兵達は、私たちを捨ててはおきません。彼らは、私たちを追いかけて来ました。我々は抵抗はしませんでした。一路カナンを目指して旅を続けていきました。そしてそこに紅海が現われます。ご存知のとおりであります。旧約聖書の中に書かれてある゛紅海゛であります。その時です。私は神に祈りました。『天よ裂けよ!地よ裂けよ!そしてわれらをカナンの地に行かせ給え。エホバの神よ、われを助け給え、われらを救け給え。そうして私は天に祈り、地に祈り、神に祈りました。――その時です。紅海は真っ二つに割れたのであります。紅海は割れました。海が二つに割れたのです。このような奇蹟は、未だかつてなかったことでした。

そして海が割れた道をわれわれは進んで行ったのです。そしてわれわれの後から王の軍勢がつぎつぎと追っかけてきたわけですが、そのときに、その割れた海の水がまた元通り戻り、彼らを海の中へ吸い込んでいったのです。われわれの通った後を、海がつぎつぎと閉じていったのであります。そしてわれらは紅海を渡りました。紅海というのは、それ程広い海路、水路ではありませんでした。けれどもそこの水が割れたという奇蹟が現に起きたのであります。

それは後々のために、後々のイスラエル民族をつくり、神の民をつくり、後々の正法流布のために、神がやむを得ず敷いた路線であります。神はそのようなことを予定していたのであります。そしてわれらは、「出エジプト」を果たしました。そして長途の旅にのぽり数十年にわたって、つぎつぎとカナンの地を目指して旅をしていったのであります。途中飢えに苦しんだこともあります。途中敵に攻められて苦しんだこともあります。われらは一丸となって戦いました。

そして私は、ある山の麓において啓示を受けたのであります。エホバの啓示、ヤハウェの啓示であります。私は『皆のもの、下に待て』と言い、山に登りました。そして神に祈りました。神は私に啓示を与えられました。それがあなた方ご存知のモーゼの「十戒」といわれるものであります。神の言葉がなんと現象として石の板、石板といいますか、石の板であります。この上に刻まれたわけであります。<汝、殺すなかれ><汝、汝の両親を敬え><汝、汝の隣人の物を貪るなかれ>このような訓えをつぎつぎと神は私に与えられたわけであります。私はそれを持って帰りました。しかし、人びとは私が見せたそのようなものは信じません。彼らは勝手勝手に金の彫像のようなものを造って拝んでおりました。私は怒りました。このようなことをしてはいけない、あなた方はこのようなことをしてはいけないと、そのような彫像は叩き壊しました。そしてその時、石板もまた割れてしまいました。

私はふたたび山へ登りました。山へ登って神に祈りました。神はまた同じような啓示を私に与えてくれました。

<われのみを神とせよ!われのみを神とせよ、汝らの父母を敬い、汝ら人を殺すことなかれ、他人のものを貪ることなかれ>

そのような訓え、十戒という訓えをつぎつぎと神はまた顕(あらわ)したのです。そうして私はまたそれを持って帰りました。そして人びとにこれが神から与えられた訓えである「十戒」である、これを守れと教えたわけであります。

しかし、当時わたしも誤りがありました。私は神の声だけを聴いたのではありません。あなた方がこのような形で、私どもの言葉を聴いている以外に、サタンの声というものがあったでありましょう。私はサタンの声をも神の声として間違って聴いたこともあるのです。彼らは私に奨めました。『モーゼよ、神はただ祈りだけでは喜んでくれない。仔羊を屠りなさい。仔羊を殺してその血を流して神に捧げたならば、神は喜ぶであろう。お前はそうしなさい――』

そういう悪魔の囁きを聞いたのであります。しかし考えてもみなさい。神は仔羊を喜ぶでしょうか、生贄を喜ぶでしょうか、血を流す仔羊の供物を喜ぶでしょうか。そうではないはずです。本来の神であるならば、生贄など欲しくないのです。神が欲しいのは、私たちの清い心、私たちの正しい心、私たちの義にかなった心であります。神は生贄の仔羊の血など欲しくはないのです。しかしながら私は悪魔の声を神の声と聴き違え、生贅の仔羊を祭壇に祭り、そして祈るというようなことをやってしまいました。

これが私の創始した「モーゼの訓え」といわれているものの誤りの一つであります。そういうことを始めたためにそれ以降、生贄の仔羊ということが、かなり巷間に流布されるようになってきたのであります。

その後も私たちは旅を続けました。しかし私は、カナンの地までは行くことはできませんでした。私はある山の麓で亡くなりました。この地上の生活を終えました。私はその時、もう百数十歳にもなっておりました。それが私の一生です。

私は数十年にわたる長途の旅に出、イスラエル民族、イスラエル国家を創らんがために、彼らを糾合して、そして何十年もの長途の旅につき、さまざまな現象を行い、神の「十戒」を裁き、そして「一神教」というものをはじめて創り出しました。それが私の人生でありました。


2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名


善川  おたずねいたしたいと思いますが――、それからもう三千数百年という歳月が流れたのでありますが、その間の歴史の移り変わり、経過というものは、天上界におられても充分ご承知のことだと思います。けれども、当時のあなたが神として崇められていた「エホバの神」について、私たちはその後歴史の過程ではいろいろありますが、これはあるいはユダヤの民族神であられたのではなかったかと、思われる節もあるのですが、ご承知の旧約聖書の創世記におきましては、『はじめに神天地を創り給えり、地は形なく闇わだの表にあり……』という件(くだり)にあります神の御名は、アラーの神と仰せられたのではありませんか。それが第二章からはエホバ神に変わられているのでありますが、その辺はどう違いがあるのかお教え願いたいと思うのですが――。

モーゼ  エホバというのは必ずしも民族神ではありません。あなた方もご存知のように、「正法」というのは、時代によって現われる地域を異にしております。東から西へ、西から東へと、移ってきているということはご存知のはずです。当時はエジプト、そしてイスラエルという地、この辺に正法の種が蒔かれ、育てられたのであります。その時にわれわれが神としていたものがエホバであり、エホバは必ずしも民族神ではありません。

たとえば中国で正法が説かれると、そこにまた゛エホバ゛に当たる神が出てくるわけです。同じであります。正法ということを機縁として神があったわけです。創造神ということはまた違ってきます。エホバは人格神であります。人格神は天地を創造した神とは別のものであります。当時の私たちは、神は神であって、神にそれだけの違いがあるということは分らなかったのです。

善川  その後に旧約聖書というものが作られて、エホバの神を讃えるかずかずの言葉を述べておられるわけですが、ある時はイそフエルの民を愛するあまりに、エホバは妬みの神であり、怒りの神であり、愛の神であるというふうに、いろんなかたちで表現されているわけでありますが、エホバと申される人格神は、一体どういう方であったかということについて、おたずねしたいのですが――。

モーゼ  これは天上界での一つの大きな秘密でありますが、当時エホバといわれていた方も、必ずしも特定の方ではなかったのです。今あなたは、モーゼという私の名を知っております。キリストという名の方も知っております。釈尊という名の方も知っております。そうであるならモーゼが語った言葉、あるいはキリストが語った言葉というふうに、区別してあなた方は理解もできましょう。しかし、当時はそれ程までには分らなかったのです。私どもがこのような形で語ったなら、神の代理人として語ったならば、それはすべて「エホバ」の言葉となっているのです。

善川  イエス・キリストが現われて、神の御名は、わが父、とおっしゃっておられますが、これは即ちエホバの神を指しておられるのでしょうか……。

モーゼ  エホバの神と言って語ったものが、そのエホバの神に当たっているのではないのですが、エホバ神と称せられるような一段高い神、あるいは人と言ってもよろしい、霊人と言ってもよろしい、天上界の最高責任者であります。そういう方はおられました。イエスが父と言ったのは、その方でありました。

善川  いまように申しますなら、エル・ランティーと申される方がその方に当たられるのでしょうか。

モーゼ  そうかも知れないし、そうでないかも知れません。

善川  立ち入ったことをお尋ねしますが、地球霊団の最高責任者は、その時代、時代によって交替されておられるのでしょうか。

モーゼ  そうではありません。

善川  いま一つお伺いしたいのですが、あなた様がエジプトにお生れになられたということは歴史的事実なのですが、それは前にも地上にお生れになっておられますか。

モーゼ  何度か生れております。しかし異った文明です。現代の文明の中には生れておりません。以前の文明、そのまた以前の文明の時に生れております。

善川  それは、現在地球上に地上として現われている部分の地にお生れになったのですか。

モーゼ  部分としては現われているかも知れないが、文明としては過去の文明です。

善川  かつて地球上にいろんな変動がありましたが、ある時代、大陸としてありましたムーとか、アトランティスとかいう地において……。

モーゼ  そうです、そういう時にも生れております。

善川  そういう地において、正法を説かれたご記億はございますか。

モーゼ  あります。゛正法゛はいつも一つです。


3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される


善川  人類は正法が説かれ、そしてそれを学びつつあるにもかかわらず、その正法の理解、つまり各人の悟りの段階が、向上したというような変化は見られないのではないでしょうか。

モーゼ  進化というものがあるか、ないか、むずかしい問題であります。人類は、はじめから悟った人類であります。それが現在、悟るために修行しております。これが進歩かどうか、進化かどうか、非常にむずかしいところであります。

善川  この人類、いま地上界に現われております人類は、今から何千年、あるいは何万年前に地上に現われていた人類であることが多いのでしょうか。

モーゼ  そうです。

善川  なかなかそれほどの年限を輪廻転生しながらも、なお正法に帰依することができないということは、この責任は、本人にあるのか、指導者の側にあるのか、どちらなのでしょうか。

モーゼ  責任があるわけではないです。さまざまな環境によって、すべてのものがさまざまな経験を積んでいるのです。恐竜の時代には、恐竜の時代の正法があったでありましょうが、その時代に神を信じ、神に帰依するということと、現代のような科学文明の栄えた時代に、神を信じ、神に帰依するということと、神に帰依するということにおいて同じであったとしても、環境が違います。環境が違う以上、学習が違います。

学ぶことが違うのです。かつては自然、天然、動物、このようなものが人間の敵でありました。しかし、もうそのようなものも敵ではなくなってきております。現在は人間の敵は、人間の造ったものであります。公害であり、車であり、さまざまな騒音であり、いろんな人間の造ったものであります。薬害であり、人間が造ったものが人間を脅しております。こういう時代になっております。

この中で神を信じ、神理を悟るということも、これもまた一つの人生体験ではありませんか。どちらが進んでいるとも言えません。素朴な時代に神を信ずるということと、このような科学の進んだ時代に神を信ずるということ、むずかしさは違うかも知れません。やさしいテストで九〇点をとることと、むずかしいテストで五〇点をとることと、どちらの方が実力があるかといわれてもわからないのであります。

善川  お説によりますと――かつて如来界からアモンといわれる方がお出でになってお話を伺ったのですが、この方はアトランティス大陸から古代エジプ下の地へ渡られた方ですが、その頃の科学文明は非常に発達しており、現在の地球の科学水準より、百年も先の科学水準まで進歩していたと言われたのですが、そういう状況下を人類は通過して、それ以後退化したというのでしょうか。

モーゼ  何が進んでおり、何が遅れているかということは、文明の一部分をとっていうならば簡単でありますが、文明の全体をとったならば、わからないのです。現代より進んだ部分もあったでしょうが、現代が進んでいる面もあります。いろいろです。

善川  しかし、人類がかつては、いわゆるアメーバーから進化してきたという説を否定して、人類は人類として別個の存在として、他の星から転移してきたというアモン様の説は、これは正しいのでしょうか。

モーゼ  正しいことです。

善川  魂だけが他の星からの転移で、肉体は動物から段階的進化を遂げたという形ではないでしょうか。

モーゼ  間違いです。人間は人間です。人間は昔から人間なのです。「神」は、ご自分に似せた魂を持つ存在としての人間をお造りになったのです。神は、馬は馬、牛は牛として、チンパンジーはチンパンジーとしてお造りになったのです。

善川  ――わかりました。

モーゼ  はっきり言っておかねばならないことは、時代がどのように変わろうとも、環境がどのように変わろうとも、われらの教えは一つ、われらの教えは心の教えであります。どのような環境の中にあっても、どのような文明の中にあっても、正しい心を持ちなさい。正しい心とは神の心である。そのような教えをわれらは説いてきたのです。現代においても然りであります。われわれの仕事は、この現象界を解明することではなくて、人間の心を解明することです。

心がすべて――この心を神の心と一つとする。これが「汝の心を神の心と同じくせよ――」これが正法であります。


4.悪魔、サタンの実体


善川  そうでありますけれど、一方において悪魔、サタソというものが存在していることは事実でしょうか。

モーゼ  あなたが悪い念(おも)いを心に持った時にサタンがあり、あなたが良い念いを持った時にサタンはない。即ちサタンと見える人達は、悪い心を心として生きているからサタンであるけれども、神の心を心として生きたならば、その瞬間、その刹那に、もはやサタンはないのであります。

悪魔というものは、心の持ち方を誤っている者共であります。誤った心の持ち方をした人達が、われらの仕事を邪魔しようとしているのです。そうでしょう。心清き人の足を引っ張ることはできるのです。そうではありませんか。邪魔をすることはできるのであります。私が言いたいことは、彼らは悪魔として作られたものではないのです。彼らがこの心を゛是(よし)゛とする心が間違った心であります。本来出てきた神の心と違った心を旨として生きているということ、自らの心の状態が誤っているために、他のものを迷わしているということ、これが悪魔なのです―――。


5.罪の起源、無明縁起について


善川  仏数的に申しますなら゛無明縁起゛と申しますか、本来善性、光一元の神の子に、この無明、罪、悪というものが一体どうして現われるようになったのか。この無明の縁起は何処にたずねるべきでしょうか……。

モーゼ  「無明」「罪」というものがあるわけではないのです。本来そうあるべきであるところに、違うものが置かれていることが罪であります。そうではありませんか。神殿の中は神に対して祈りをするところであります。ところが神殿の中で魚を売ったり、果物を売ったりしたら、それは何かおかしいでしょう。魚を売ることは悪いことではないのです。果物を売ることは悪いことではないのです。しかし、神に祈る場所である神殿で魚を売り、果物を売ることは場所を間違えているということです。この場所を間違えているということが、罪であり、迷いであるのです。それぞれは悪いものではないのです。時、処、場所を間違えているということ、これがいけないのです。

お分りですか。あなたがしている行為そのものは悪いことでなくても、やはり場所、やり方を間違えばそれが悪となります。本来悪があるわけではないのです。悪というものは神殿の中で物を売っているようなものだと思って下さい。本来神に対して祈るべきところで果物を売ったり、魚を売ったりしたら、それはそうでしょう、神殿の中の人は慌てて出て来て追い出すでしょう。何をするんですかと、そういうことなんです。悪いということは、神殿の中で誤ったことをやっていることなんです。

善川  ということは、いま比喩でお話願っているのですが、聖書によりますと、人類の祖先が蛇に騙(だま)されて禁断の木の実、即ち知恵の木の実というものを食べた、そのために人間が人知をもち、神の子としての従順さから抜け出し、肉体的欲望に自由を感じ始めたのではないでしょうか。そしてそれがエスカレートしたところで迷いとなり、罪となり、悪となってきたのではないでしょうか。

モーゼ  知恵を持つということはいいことです。人間は本来知恵を身に備えております。ただ使い方を間違っているからいけないのです。人間の体は本来神の聖霊を宿すところなのです。神の聖霊を宿すところである以上、人間の体は神殿なんです。私はこの喩(たと)えを言っているのです。人間の体は神の聖霊を満たすためにあるのです。即ち人間の体は神殿であります。この神殿を穢すものを悪といい、迷いといい、罪というのです。そうでしょう。神の神殿なのです人間は――神のお働きの場、神は人間という形を通じて、自らの意志、自らの目的を実現されておるのです。そういう目的をもったものなのです。その目的をもったものを目的以外の方法に使ったならば、これは誤りとなるでしょう。

そうです、人間は神の神殿であります。神の神殿は神のことを聴き、神のために活動するためにあるのです。その中で魚を売ったり、果物を売ったりする人がいたら、これは追い出されてしまいます。これは間違っていると叱られます。それ自体は悪いことではないのですが、間違っているのです。人間が五官にとらわれていてはいけない、欲望に振り回されてはいけないことは、神の神殿の中は本来神聖であって、神と対話すべき場所であって、その中で商売をやっているようなものなのです。ほかのことをやっている、あるべきでないものが入っているから間違いなのです。

善川  その本来あるべきでないものが入ってくる間違いということも、そのこと自体、つまり、そのような間違いを犯すように本来的に備わっているのではないでしょうか?

モーゼ  神から与えられた誤りではないのです。たとえば、神殿には神殿の祭司がおります。彼らは人びとに教えております。神殿は神聖な場所でありまして、ここでは神に対して祈る場所であります。また時には立札も立てるでありましょう。神殿の中では物を売ってはならない、買ってはならないという立札を立てる人もあるでしょう。けれどもその立札を見ないで入ってくる人もいるのです。そしてその人は魚を売ることを業としております。そして神殿の中で魚を売ってしまう。ある人は、立札を見ても、その意味がわからずに入り込んでくる。あるいは立札を見ないで入ってくる人もいる。あるいはそのような神殿の中は神聖なところであって、そのような生業(なりわい)をするところではないと教えられて、素直に信ずる人もあれば、何を言っているのか、どこで商売してもいいではないか、人が集まるところで商売をすれば儲かるんだ、と人の意見を無視して、あえて神殿の中で商いをする人もでてくる。

これが悪であり、罪であります。この時の祭司というのが、あなた方、光の使徒であります。光の使徒は、時代時代に現われては人びとを正しい道に善導するために、いろんな方便を使って指導している。ところがこの指導に耳を傾けずに勝手に神殿の中で商いをしてしまう人も出てくるのです。

時には立札も立っています。この立札が仏教でいえばお経であり、キリスト教でいえば聖書であります。聖書を読めば、こういうことはしてはいけない、こういうふうにするんだということが書いてあるんですが、立札があっても見ても見ないふりをする人がいる。聖書があっても読まない人がいる。経典があっても経典を読まない人がいるということです。しかし彼らもまた人間であります。正しい人達であります。場所さえわきまえれば彼らは彼らとして、善良な市民として生活をしているのです。しかし神殿の中で商いをやっているということ、これ自体が違っているのです。彼らは彼らの生活があり、妻があり子があり、市民としての生活をもっているのですが、本来あるべきでないところに、何かをしようとしているところが誤っているのです。

善川  その過ちは知って犯すものと、知らずに犯すものがあると思うのですが、知らずに過ちを犯すものは、これは修行の初歩的段階として軽度な咎で赦されるのでしょうか。

モーゼ  どういうことでしょうか。知らないで過ちを犯すほうが過ちとしてはもっと大きいのです。知って過ちを犯すより、知らずに過ちを犯すもののほうが過ちとしては大きいのです。

善川  人類のこの地上に存在する期間はいつまで続くものかわからないけれども、いつの時代においてもこれが人間として修行を積むという一つの過程における問題として、この過ちが絶えることなく続いていくのでしょうか。

モーゼ  たとえば、私の言うことが判らないのであれば、また譬(たとえ)を使って話しましょう。――ある人は刑法を知っております。人を殺してはいけない。人を殺せば罰せられるということを知っております。人を殺してはいけないと知っていながらも人を殺してしまった。その人と、人を殺しても悪いかどうか全く知らないで人を殺す人、どちらが人類にとって危険であるかということを、よく考えてごらんになるといいのです。人を殺すことはいけないこと、悪いこと、罰が当たるんだけれどそれでも人を殺してしまった。それと、本来人を殺すということに何らの抵抗を感じない人、悪いとも良いとも思っていない、殺したかったから殺したというだけの人、一体どちらが人類にとって危険であり、神からどれだけ離れているかということを考えていただきたい。

――知らないで犯す罪のほうが大きいのです。知らないということ自体が更に大きな罪なのです。知って犯す罪は抵抗があり、良心の呵責が生まれてくるのです。やむを得ない事情もでてくるのです。知って犯す罪というものは本人の善良なる心と、悪なる心とが天秤に掛けられ、悶えながら彼は悪をやってしまったということです。知らないで犯す罪というものは、それさえも知らずに犯すということであります。


6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について


善川  そうしますと、ご承知のかつては天上界における七大天使の一人とまでいわれた人であったが、今は地獄に堕ちている地獄の魔王と称ばれているルシファー一味たちサタンは、これらは悪を知りながらなおかつ、したい限りの悪を重ねて平然としているということは、何か特別な意味があるのでしょうか。

モーゼ  何とも申せません。

善川  これは天上界の機密に属することなんでしょうか。

モーゼ  ――何とも申せません。

善川  彼は何もかも知りつくしてやっているということが、われわれに現われてくる時点では、そう感触されるのでありますが――。

モーゼ  そうではないかも知れませんよ。

善川  あなたの時代にも、釈尊の時代にも、イエス様の時代にも、その他いろいろな預言者が現われる時には、いつも彼らが現われて、法を説く者に的を絞って介入し、惑わし、嫌がらせなど行っていますが、彼らは意識的にやっているとわれわれには感じられるのですが、そういう彼らに一部の理があるといわれるのでしょうか。

モーゼ  われわれの世界をすべて知っているなら、彼らは地獄になどいないのです。やはり違うのです。知らないところもあるのです。彼らは知らないのです。光の喜び、天上の悦びというものをもう忘れてしまって久しいのです。彼らは知らないのです。自らの世界、自らが生きている世界が真理だと思っているのです。

そしてあなた方は、彼らにとっては、彼らの世界を破壊せんとする悪魔なのです。彼らは自分たちのことを考えております。自分たちの権益を守り、地位を守り、安全を守るために抵抗しているのです。これを知ってやっているか、知らないでやっているかということは非常にむずかしいことです。

善川  しかし彼らも本来は神の子であるということには間違いないのですね。

モーゼ  それはそうであります。


7.天上界側のサタン達の取り扱いについて


善川  サタン達の横行ということに対する、天上界のお考えというものもおありになるのではないでしょうか――。

モーゼ  あります。――たとえば、日曜日の教会で、教会の偉い人が説教しているとします。日曜日の教会であります。いろんな善男善女がその説法を聴いております。そこヘドドドドと、たとえば無頼漢(やくざ)者が流れ込んで来る。このような形であります。さああなたが教会の神父さんであったら、どうしますか。あなたがお話をしている。有難いお話をして聖書の講義をし、二百人、三百人の人、善い人がいてその話を熱心に聴いている。そこに後ろの扉を開けてドドドドと、やくざ風の男が入って来て、――何いってやがるんだい、という形で入って来て息まいているわけです。まさしくこのような姿です。さあ、あなたは神父です。あなたはどうされますか、――その時あなたはどうされますか。

これが神と悪魔、聖霊と悪魔との問題を解く一つの鍵であります。これをあなただったらどうされますか――さあ、あなたはどうされますか。

善川  もちろん人数も多いし、体力的に彼らが勝(まさ)っているという仮定のもとにですか。

モーゼ  考えてみれば判るでしょう。あなたは神父です。聖書を読みあげて人びとに説教をしているだけの人です。そして百人、二百人、三百人の人がその話を聴いている。お子さんもおれば、おばさんもおれば若い姐さんもいる、夫婦もいる。みんなあなたの話を聴いている。その時に無法者が後ろからドドこと入って来たわけであります。さあ、あなたはどうされるか。彼らは口々に言っております。――何を言っておるんだ、つまらんことを言うな、神なんかあるもんか、そんな聖書など読んだところで、何の役にも立たないぞ、銭儲けなどできないぞ、もっと楽しいことがいっぱいあるじゃないか――と。彼らは入って来て口々にそういって叫んでいるわけです。その時にどうするか、あなたはどうされますか。

善川  一応自分の言葉で、あり得る限りの知恵で彼らを納得させようと努めます。私たちは性善説をとる限り、彼らにも本来神の心が宿っているものという愛念をもって、その無法のあり方の非を説いてみるだろうと思いますけれども……。

モーゼ  そうでしょう。ですから私たちもサタンというものが現にあるにもかかわらず、彼らに対しては、強制的な手段はとっていないのです。彼らに対し優しく話しかけ、正しい法を説くということに専念しているのです。彼らは邪魔をしにきています。しかし私たちは強制力を発揮していません。

いまのような場合に一つの方法があります。たとえば、警官を呼んで、彼らを強制的に引っ張って行く。あるいは彼らのような人間は生かしておく意味もない、袋叩きにしてしまう。――いろんな方法があります。あるいは、なすがままにさせておく、という方法もあります。しかしあなたが教会の神父であるならば、まず彼らの良心に語りかけることでありましょう。もし彼らを悪なりとして、悪であるから皆もやっつけろと、もし壇上において言ったならば、周りの人たちはそれに従うかも知れません。しかしながらあなたの心もまた悪として、悪魔の心になっているということは否めないのです。

その時にわれらが、悪魔を悪魔として認め、彼らが悪魔として活動し、邪魔をしていることを認めながら、なおかつ彼らを赦し、彼らの存在を赦さんとしているということは、彼らの良心に働きかけているからなのです。

われわれも、彼らと同じように、彼らを憎しとし、彼らを抹殺せんとするならば、われらの心は既に神の心ではないのです。われらの心は既に悪魔の心であります。悪魔だけが悪魔を殺すことができるのです。分っていただけますでしょうか、同じなのです。聖霊と悪魔のことを考える時にはそう考えて下さい。聖霊は神父であります。日曜日の説教をしている教会の中です。邪魔されたくないのは山々なのです。そういう時に彼らはドアを開けて入ってくるのです、ドカドカ土足で。――そういう時にどうするかということです。そういう時にもし、たとえば警官を呼んで強制的に彼らを連れて行くこともできるでしょうが、そういうことをしたならば、たとえばあなたの話を聴きに来ていた人達も、あなたの話は聴きに来なくなるでしょう。多分そうなるでしょう。そうだと思います。

あなたが彼らの良心に呼びかけ、彼らに話かけ、彼らを教化せんとして努力するならば、彼らはあなたに対して暴力を振るうかも知れません。けれどもあなたが彼らに暴力を振るわれようとも、彼らの善なる心、良心を信じて話しかけ、遂にあなたが怪我をさせられることがあったとしても、あなたの信徒たちは、あなたに対する尊敬の念を失わないでしょう。

しかし、あなたが強制力を使って彼らを排除したならば、一時的には説教は続いたとしても、やがて誰もあなたの話を聴かなくなるでしょう。イエスの例もそうなのです。そうではありませんか。イエスは最後まで彼らに語りかけたのです。そのような無法者達、彼らは手荒く彼を鞭打ち殴り蹴りしたわけでありますが、しかしイエスは抵抗せずに、最後まで神の国を信じ、神の言葉を述べ、彼らの良心に働きかけたはずであります。

どちらが偉いかということを、あなたはよく考えてほしいのです。どちらが神のみ心に適うかということを考えてほしいのです。すぐ悪魔はいけない、彼らを閉じ込めてしまう、彼らを抹殺してしまうという考えは、神聖な教会の中に、警官隊を導入して彼らを引っ張っていく、あるいは処刑してしまうということと同じことです。あなたが真の神父であり、真の神を信ずる人であるならば、たとえ殴られようとも、蹴られようとも、聴衆たちが迷惑がろうとも、彼らに一生懸命に語りかけるはずであります。それが真の姿ではありませんか。それが真の姿、それが真の慈悲ではありませんか。同じであります。

ですから、私たちが何千年にもわたって法を説いても悪魔がなくならないのはどうしてか、地獄がなくならないじゃないかと言われる向きもあるかも知れません。それはそうです、一番効率の悪いやり方をやっているのです。それはなくならないはずです。この譬をもって理解していただきたいのです。効率のいいのは強制的に彼らをなくしてまうほうがいいのです。けれどもそうではないのです。われわれは非常に遠回りな方法でありますが、悪魔たちの良心に語りかけているのです。彼らの良心が目覚めるのを待って欲しいのです。これを分かって欲しいのです。永い時、われわれも忍耐しているのです。