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目次















(1986年11月3日の霊示)

1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた


谷口雅春です。今日は私の話も第八回目、最終回となったが、「真理は、汝(なんじ)を自由にする」という演題で話をしたいと思う。今日の演題は、おそらく締めくくりにふさわしい演題であろう。

私たちは一体何のために、真理の学習に励んでおるのか。まずここから出発せねばならぬ。一九〇〇年代の終わりが近づいた、この現今の宗教好きの人たちを見ていると、どうも悩みが多い、私にはそう思える。仏教徒というのはどうも暗い。見ていると、カビ臭い。よく聴いておれば、どこかの木魚の音か何かが聞こえてきそうな気がする。あるいはナンマイダか、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とか、そういう声が薄暗い御堂のなかから聞こえてきそうな、そういう気がする。

また、クリスチャンにしてもそうだ。教会の建物自体は、洋風であり、日本人から見れば、一つの素晴しい建築でもあると思う。しかし、教会でも、現在は歌を唄うとか、聖書を読むと、相も変らず二〇〇〇年も同じ聖書を読んでおるわけである。二〇〇〇年前に三十歳で法を説き始めて、三十三歳で磔(はりつけ)にあった人間が語ったとされる言行録、弟子が編んだ言行録を今だに一字一句読んで、みんな唱えておるわけだ。どれもこれも、なかなか明朗な明るい発展という道がないように思う。

日本神道系にしてもそうだ。現在においては、もはや、カビ臭いというか、陳腐(ちんぷ)なものとなってしまったように思う。今、神社に行って悟れる人はいないと思う。

神社に行って見るものは何か。まあ狛犬(こまいぬ)が二匹座っておるぐらいで、あとは御みくじだの御賽銭(おさいせん)だのを入れる箱があって、鈴かなんかが上からぶら下っておって、ジャリンジャリンと鳴らすと、まあ、この辺が終りだな。あと神道で他のものと違うとすれば、まあ柏手(かしわで)を二回ぐらい打つと、こういうことだろうな。こういう違いしかないと思う。

そして神主は何をしておるかというと、一応神道系の装束(しょうぞく)を着て、烏帽子(えぼし)か何かをかぶって、眼鏡を掛けてやっておるわけだ。普通のサラリーマンをやりながら、片手間にやっておる者もおれば、いろいろだと思う。

ところで、そういった神社とか、仏閣、あるいは、キリスト教でもいいけれども、まあそういうところを職業として働いている人たちを見ると、神社の神主さんの家に代々不幸が多い。息子が交通事故で死んだり、あるいは、不具の子供が生まれたりする。仏様の方でも、お寺の方でも同じで、なぜか縁遠くなったり、事故が起きたり、病気がちの家庭になったり、いろんなことになっておるようだ。

こういうのは、本来聖域であるべきところが霊的な場所であるというだけで、住んでいる人たちの心が調和されていないがために、いろんな悪霊が巣喰っておるのだ。そして、そこに住んでいる人たちをも不調和にしていく。こういうところがあるようだ。

そして、神社も仏閣も、あるいは、キリスト教の方も、何だかんだと観光仏教とか、観光神道とか、そういうふうになってしまって、お金儲けだな、観光客相手の、そういうことになってしまったようだと思う。

神道、日本神道の方では、なかなかその教えというものが、はっきりと今の形では残っていないがために、確かに多くを要求するのは難しいという面もある。たかだか祝詞(のりと)をあげるくらいのことしか伝わっていない。また禊払(みそぎはら)いというようなことがあるというぐらいしか分かっていないようだ。

神道系でヽ少し本格的な動きとして近代で出たのは、例えば、黒住(くろずみ)教、あるいは金光教、あるいは天理教、こうしたものであったろうか。そして、近、現代だけれども、出ロナオ、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、こういう人々の大本教。そしてまた、戦後もいろいろなものがあるようだ。PL教団とか、何だかんだと出ておる。

谷口雅春が生命の実相哲学を奉ずる生長の家は、一体如何なる宗団かと言われると、これも万教帰一でやっているがために、一律にこれだと決めつけるわけにはいかないけれども、流れとしては、日本神道系統であろうと思う。なぜなら、指導神、親神様というのが、日本神道の神様であるからだ。そういうことにおいて、神道系とみてもいいかもしれない。

ただ、かつて日本神道系というのは、古事記、日本書紀ぐらいしか、その理論的著書というのがなかったのであるが、我が生長の家においては、一大啓蒙運動となり、文筆によって様々な思想というものを人々に流布(るふ)することに成功したのである。

さて私は今、そういう仏教、キリスト教、神道、こうしたものがだんだん形式主義となり、暗いものになってきたという話をしてきた。そしてなぜ、そういうふうな形式主義、暗いものになったかという原因を考えてみたいと思うのであります。


2.仏教が現在のように堕落してきた原因について


まず、仏教を検討してみようか。仏教がなぜ、現在のように堕落してきたのかということを考えたいと思う。

仏教というのは、釈迦の時代においては、人間が本当に悟るための道であったと思う。ところが、釈迦没後二千五百年ぐらいたった今日では、悟りという言葉は、言葉としてはもちろん伝わっておるけれども、人々は悟りということの本当の意味が分からなくなっている。そしてとくに悟り、悟りと今だに言っておるのは主に禅宗であろうかと思う。

禅宗において本当に悟っておるのかというと、これも、けっこう難かしい問題がある。禅のなかには確かに深いものがある。禅のなかで無門和尚(むもんおしょう)というのがいて、「無門関(むもんかん)」というものを著わしている。そこで、無門という人の悟り得たレベルというものを、よくよく見てみるならば、けっこう高いものを持っていたと思う。禅で公案の集大成をした人であるという。ただ、その流れ自体を見てみると、栄西を始め、公案禅の流れというものは、どうも形式に堕してきたようだ。

禅というものは、まったく奇抜な問答をすることによって、人間的な知識というものを切り取り去って、新境地を開拓するというものが、その本義である。しかし、平凡な坊主が禅を教えているがために、どうもその森厳(しんげん)の理というものが、なかなか極められないようである。本当に悟った人が教えたならば、只管打坐(しかんだざ)だろうが何だろうが、それは素晴しい教えと、おそらくなるであろう。

ところが、悟っておらん人間が指導しているがためにそうしたものは、なかなか人間を本当の方向に導かないでいるのだ。しかし、坐禅でも組みたいというような気持ちを持つという、つまり、人間がそういうような気持ちを持つということ自体は、決して悪いものではないと、私は思う。

さて今、仏教の暗い面の話を続けておるんだけれども、結局、釈迦が説き来たり、説き去った教えというものは、何百、何千の法門がある。そのなかに法華経あり、そのなかに維摩経(ゆいまきょう)あり、そのなかに涅槃経(ねはんきょう)あり、そのなかにまた禅の源流となるような教えもあった。いろんな教えがあったのである。

そうした複合した教えが、釈迦という、一人の悟った人間のなかにおいて、渾然(こんぜん)一体となって融合されておったのだと思う。ところが、後の世の弟子たちは、師匠ほど、優れた人材ではなかったがために、その全貌を理解することができず、その一端をそれぞれ行じたのにすぎないのである。

であるからして、たとえば、お経というものの本来は、釈迦と弟子との問答集であったのにもかかわらず、それが漢訳され、そして日本に持ち来たられると、本来の意味を失ってしまう。つまり、漢語だな、いわば漢語の勉強としてだけ意味を持つようになった。あるいは、音読する。とにかく歌の練習でもしておればよいのだろうが、歌の練習のかわりにお経を読んでおると、喉(のど)は強くなるかもしれないけれども、意味も分からずに、経文をあげておる。

それでも功徳(くどく)があるのだ。あるいは、写経をする。それだけでも功徳はあるのだと、こういうことを言われておる。しかし、そういうことは、一般的に言えば、なんの功徳もないと考えてよい。

もちろん、写経をすることによって、規則正しい生活をするなり、向上心を持つなり、精進するという姿勢を持つことができるがゆえに、それは悪い影響はないであろう。しかし、経文そのものに、それはどの価値があるかといえば、そうあるものではないと思う。

ただ漢訳されたお経のなかにも、やはり漢訳した人の力によって、つまり、漢訳をした僧侶たちが霊能力を持っていた場合もあったために、なかには言魂によって漢訳されている言葉もなきにしもあらずである。

たとえば、般若心経(はんにゃしんぎょう)などというのは、よく読まれており、また現代でも人気があるようだけれども、これなども、これを訳した人が、霊的な能力を持っておったようで、訳語自体のなかに一つの言魂があるのだ。

あなた方も今、様々な神理の言葉というのか、そういう経文のようなものをつくって読んだりもしておるようだけれども、やはり言魂というのがあって、それは綴(つづ)られた文章のなかに出てくるのである。であるから、一般にお経というものは、それほど深い意味があるのではないけれども、なかには、そういうものもないとは言えない。とにかく、「仏つくって魂入れず」の諺(ことわざ)があるけれども、外見だけを真似て、中味を知らないのが人間であったと思うのだ。


3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた


キリスト教においてもそうだ。現在、キリストの本当の精神というものは、忘れ去られていると思う。そして、形式によって行われている。ただもちろん、聖書というものを熟読して、毎週毎週日曜日に、教会か何かに行って教えを受けておる。そのなかに、聖書自体も一つの波動があることは確かで、それに馴染(なじ)んでいることによって、多少の悟りのよすがとなることは事実であろう。

ただ、聖書を読んでいても分からぬことがある。つまり、イエス様が現代に出ておったなら、どういうことを言ったであろうということが、なかなか分からんということだ。今から二〇〇〇年前に、ナザレの地で漁師たちを相手に法を説いておったわけだから、それ自体は立派な教えであったとしても、なかなか現代の文明人たちを納得させ、説得するには少々不足するようである。ただイエスという人は、大変詩人でもあり、言葉が美しい方であったために、今だに彼の言葉によって、心酔し、影響を受けている人も多いかと思う。

こういうことで、仏教においても、キリスト教においても、その中味というものがだんだんと失なわれてきて、形式に堕してきた。すなわち、たとえば、日曜日に集まって、聖書を読めばいいとか、あるいは、お寺に篭(こも)って坐禅を一週間やればいいとか、そういう形式的なものになってきた。あるいは念仏をあげればいいとか、あるいは写経すればいいとか。そういうふうになってきた。

そして本来、自由自在であった神理というものが、いつの間にか人間の形式的な行動のなかに閉じ込められてしまったと言えると思う。禅をやっている者は、坐らなければ、とにかく悟れないとか、念仏をやっておる者は、念仏をあげなければ救われないとか。こうした行為というのは、そうした教えというものは、本来の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えからいえば、ほんの一万分の一にも満たない教えであろうと、私は思うのだ。


4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである


であるから、私は今、あなた方にも、様々な真理というものを学んでほしいと思うのであります。真理を知るとは、どういうことかというと、目の鱗(うろこ)をはがすということなのだ。人間の目には様々な鱗が入っている。自分自身は、いろんなことを知っていると思っても、その知っておるという知識自体が自分を歪める一つのフィルターとなっておるのだ。

キリスト教のみが真実であると思っている人間は、その鱗の入った目で仏教を見、神道を見るから、本当の姿が分からない。だから、イエス様によってしか救われないなどと言っておる。

しかし、じゃあ、イエス様以前の人たちは、永遠に救われなかったのか。じゃあ、イエス様は、なぜイスラエルにだけ出て、日本だとか、中国だとか、印度(いんど)には出なかったのか。それらの人々を救う意図がなかったのか。そんなことは、おそらくないであろう。イエス・キリストは、ユダヤの民族神ではないはずである。彼が説いた愛の教え自体は、普遍的な教えであり、人類共通の財産であると思う。

そうではないだろうか。そういうことで、イエスの教えというものも、ずいぶん、誤解されている。イエスを熱心に信仰すればするほど、イエスの教えの枝葉末節ばかりにかかわって、そして本当のキリスト教の真理というものが、人々には分からなくなってきておる。

仏教においてもそうで、仏教者であれば、キリスト教では救われないとか、神道では救われないとか言っている。こういう宗教による宗派の違いというものは、もちろん、根拠のないものではない。

というのは、やはり日本なら日本を中心に活躍した神々があり、キリスト系統ならキリスト教系統で、ヨーロッパ世界を中心として活躍した神々がある。また仏教系なら、印度、中国、日本と渡ってきた神々があるということにおいて、魂の系統というのがないわけではない。しかし、だからといって、他宗が全然間違っているというわけではないと思うのだ。


5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる


とくにキリスト教においては、他宗排撃というものが頑固に、頑強に現在でもあると思う。他の目から、今、実在界にいる私の目から公平に見て、どの教えがいちばん真理を伝えているかというと、どれも、どっちもどっちというところだな。仏教は、本当に葬式仏教になって、一部の修行者だけのものになってきたようだ。神道は、本当に金集めばかりをやっているようだ。キリスト教においては、人間の生きていくべき道ということがまだ学ばれておるようにも思うけれども、ただ真理という面において、他のものを学ぼうとしない、そういう傾向がおそらくあると思う。

私は生長の家において、神道、仏教、キリスト教、こういうものを統合し、これを超える教えというものを説いたつもりである。なぜこういうことをしたのか。その理由を一言で言うならば、「真理は汝を自由にする」ということなのだ。真理を知るということは、手足を伸び伸びと動かすことができるということなのであります。

たとえば、哲学というものがある。現代でも哲学というものがあって、大学の授業でやっておる。そして大学の教授なんていうのは、自分が哲学をやっておると思えば、宗教というものを軽蔑して、ああいうものは、インチキだと、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であって、人を惑わすものだと、哲学こそ本当の人間の理性を追究していくものであって、真理探究の近道だと、こういう考えをしておる。

ところがその元を辿(たど)れば、哲学においても、出ている偉大な指導霊たちは、皆んな光の天使であり、教えを説いた、その側面がただ仏教やキリスト教と違っているだけである。したがって、自らが哲学を学んでいるからといって、宗教を排撃している人たちは、結局のところ、真理を知らないんである。

また、仏教をやっているからといって、西洋哲学などを否定している人たちは、まだ真理を知らない。結局、知らないということから、そうした偏狭な心が生まれ、そうした偏狭な心から、争いがある。そして、不調和が生まれておるのだと、私は思う。

結局、本当に力を発揮するのは何かというと、真理を悟るということであり、真理の全体像をつかむということだ。真理は一つだということを本当につかんだならば、そういった宗教間の争いはなくなるのである。これがなくなることによって、どれだけ世界が平和になるかということを、あなた方は考えたことがあるだろうか。

宗教によって、救われた人も数多いかもしれないけれど、宗教によって命を失った人が数多いことも事実である。そうではないだろうか。とくに中近東の方では、イスラム教関係の国家同士の争いが非常に激しい。それも他宗教との争いではなく、イスラム教同士のスンニ派だとか、シーア派だとか、私はよく知らぬけれども、そうした派閥同士で血を流す争いをしている。爆撃をしてまでも、争っている。またアメリカとソ連との争いを見ても、キリスト教国が唯物主義の国というのを、要するに、叩(たた)き潰(つぶ)そうとしておるのだ。


6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている

唯物論というのは、結論から言えば、間違っている。この世は物だけではない。その裏には、生命の実相という偉大なる実相の世界がある。共産主義においても、ユートピアを実現せんとする、そういう希望が実際にあり、共産主義も一つの希望の原理であったこと自体は、否めないと思う。共産主義は、まったく間違った教えかというと、そのなかにある希望の原理自体は間違っておらぬのだ。人々を解放し、そして豊かな平等な社会をつくろうとする気持ちそのものは、間違っておるものではない。

ただ、唯物思考という考え方、あるいは暴力礼讃という考え方、こういうものは、明らかに間違っておる。

マルクスは、暴力というのは、革命の産婆であると言っておる。つまり、革命という落し子というか、赤ん坊をとりあげるためには、暴力という産婆が必要なのだと、マルクスは言っておるようだ。

しかし、こういう考えが間違いであることは明らかであって、人々が本当に平和な社会を築いていくためには、やはり暴力のない世界を目指すべきである。暴力によって、暴力のない世界を目指すということは、それ自体が一つの矛盾であることに気がつかねばならんと、私は思うのである。暴力によっては、平和な社会は生まれないのだ。それは革命という美名によっては、浄化され得ないことである。

たとえば、ソヴィエト連邦においてロシア革命が起きたときに、人々は、これが自由の勝利だと思ったであろう。これからユートピア世界が来るのだと思ったであろう。ところが、どうだ。この後の流れは、レーニン以後、スターリン、こういう悪鬼の如き者が出てきて、大量の粛清(しゅくせい)とかいうのを始めて、いろんな人を殺していったのである。

また、中国においてもそうだ。共産主義をやって、そのときには、平和な民主主義革命かのように装っておったけれども、対立抗争する者たちを、次々と粛清していった姿を見れば、それが一つの地獄の現われであるということを否(いな)めないであろう。

それは、やはりマルクス自身にも責任があったと、私は思う。つまり、暴力によって平和な世界がある。平等な社会がある。ユートピアが来るという思想自体が、間違っておるからだ。暴力によっては、ユートピア社会は来ない。

本当のユートピア社会をつくるためには、昨日も言ったけれども、良き言葉の創化力を使いながら、人々がお互いに光輝いていく方向で生きていくべきなのだ。そうでなければ、本当の意味のユートピアはできるはずがない。


7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある


たとえば、こうした唯物主義、あるいはキリスト教国を語っておるアメリカ帝国主義、あるいはイラン、イラクなどイスラム社会の抗争、あるいはまた、キリスト教、仏教、神道という、こういう教義の争い、こういうのを見ておると、結局のところ真理とは何かということが分かっていない。これだけだと思う。

それぞれ自分の信ずるものだけが正しいという頑固な思い込み、これによって争いが起きているのではないか。釈迦が思っていたような広大無辺な思想というものは、普通の人は抱けない。またイエスが思っておった大きな教えというものを理解することができない。そのために自分に都合のよい教えだけを取って、そして、それでもって他宗を排撃する。これが人間の愚かなところだけれども、心が狭いというよりは、そういうことを、つまり、真理を理解するだけの容量がないと見るべきなのだ。

また今後、大きな教えが説かれていくのだろうけれども、この教えもまた大きすぎて、後の世の人々をすべて吸収することはできないだろう。そこで、またいくつかの派に分かれていく。これはある意味では、やむを得ない流れだろうと、私は思う。

さて私は、真理を知らないということ、これが争いの原因だということを言ってきた。

実際、人間はずいぶん、言葉づらに執われているのである。神様の呼び名を、お父様、お母様というふうに考えれば、キリスト教系では、それをパパ、ママと呼んでおる。仏教系では、それをお父様、お母様と呼んでいるかもしれない。ところが、神道系では、父上、母上と呼んでいるかもしれない。じゃあ、父上とパパは違うのか。お父様が違うのかと言えば、同じ人なのである。これを、呼び名が違うから違うと思っている。

かたやアラーの神というアラーがあったり、エホバがあったりしている。かたやまた日本では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とか天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、こういう方がいたり、中国では孔子の教えでは、天帝、天の御帝というのがおるかとか、いろんなことを言われている。

これをみんな、別のものだとおもっているようだが、決して別のものではなくて、実際は神そのものでなくて、神近き高級霊のことを指しておるのである。そして天上界では彼らはみんな友達であり、知り合いである以上、それぞれのお弟子さんの信仰は違うものであっても、お弟子さん同士の争いの原因が、無知に起因することを理解し、他宗教の高級神霊をも礼讃する気持ちが、彼らにあってもいいはずである。まず人間はこのことを知らねばならぬ。

今、様々な宗教の高級霊の霊言というものを世に送っているようだけれども、これもまた、万教は一つであり、同根であり、一つの神から分かれてきた教えであるということを理論的に実証しようとする動きなのである。

そういうことで、あなた方が、今後とも何十巻も霊言集を出していかれるということは、大変意味のあることであろうと思う。そうすることによって人々は、やがて、それを否定できなくなってくると思うのである。そうしたことが事実であるということを、やがて否定できなくなってくるであろうと、私は思っている。こういうことが、「真理は汝を自由にする」ということであって、真理を知ることによって、宗教を学んでいる者たちを自由にするのである。

ただ、この真理は汝を自由にするということを間違ったふうにとらえてはならぬと思う。真理は汝を自由にするからといって、間違った教えを堂々と説いていいかといえば、そういうことではない。それは明らかに違っていると思う。

私は他宗排撃ということは、基本的にはやらなかった。あなた方に対しても、基本的には同じ態度をとられるのが賢いと思うけれども、しかし時には、例外の場合もあると思う。あなた方のところで教えを請うてきている者が、明らかに間違った教えに所属している。こういうこともある。こういう人に対しては、それはちょっと違っていると、教えてあげるということは、好意であろう。

真理は一つであり、万教は一つなのであるけれども、ただ、これも正しい教えも間違った教えも一つであるという意味ではないということだ。これを間違ってはいけない。

教えのなかには両立しない矛盾というものがあると思う。その矛盾している点は、やはりどこか間違っているところと正しいところがあるのだと、この矛盾点そのものは見逃してはならぬ。清濁(せいだく)合わせ飲むという器量は、大変大事であるけれども、清濁合わせ飲むだけで、濁りをいつまでたっても濁りとして認めているようでは駄目であって、やはり清の方が浄化していかねばならぬ。濁りをも浄化していく、そういう必要があるのではないだろうか。


8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について


こういうことで、あなた方は宗教をやっているけれども、宗教をやれば、仏教をやれば抹香臭くなり、キリスト教をやればアーメンばかり言って、懺悔の思想とか何とかいって、暗くなってくる傾向が多い。

人間を暗くするような宗教というものは、私は、どこかがおかしいと思う。宗教というものは本来人間を幸せにするはずだ。本来人間を幸せにする宗教が、それを学ぶことによって、人間を暗くする。これは何かの誤りがあるのではないか。私は、そう思う。

先般も話をしたから深く話をすることをやめるけれども、キリスト教においても罪の思想、こういうのがあるし、仏教においてもカルマの思想、こういうものがある。こうしたものが人間を暗くしておるのだ。キリスト教では、何で自分がこんなに不幸なのかと思えば、結局はアダムとエバが犯した原罪によって不幸なのだ、と。仏教系で、今世に何でこんなに不幸なのかと思えば、きっとこれは三世の縁であって、過去世の業(ごう)に違いないという、こういう思想を持っている。

業というものがないかといえば、ないわけではない。作用、反作用という法則は厳然としてあるし、また過去世の生き方が今世の生活環境に影響していることも、これもまた事実である。ただ業はあるけれども、業に振り回されてはならんということも、また事実なのである。

たとえ過去世において人殺しを犯しておろうとも、今世でまた人殺しを犯さなければならないという理由はない。ショーペンハウアーという哲学者がおって、「盲目的意志」とか言っておる。人間は盲目的意志によって動かされている、と。したがって、これは仏教の業の思想だろうと思うけれども、盲目的意志によって生きておるのだ、と。どうしようもないところがあるのだと、こういうことを彼は言っておる。しかし、人間は闘牛の牛ではないから、赤いものを見たら飛びつくというようなものであってはならぬと思う。過去世の業があっても、それを乗り越えていくような人間でなければならぬ。


9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない


今ある仏教の一派では、釈迦の原始仏教の、はっきり言ってしまえば、阿含経(あごんきょう)というのを根本教典にして、A宗などというのを立ててやっておるのが、どこかにおるようである。京都かどこかに。こういうものに対して私は一言、言っておきたい。

何というか、まだこういう考え方というのは、学問的な考え方に偏(かたよ)っておる。釈迦がいろいろと説いたお経のなかでは阿含経が最初に説かれた教えということになっておるけれども、最初に説いた教えだから正しいとか、後のものは弟子がつくったから間違いだとか、こういうことを言うておるようだけれども、そういうものではないということである。人間というものを、何というか、そういうふうに一つの教えに縛(しば)りつけてしまう。こういうのは、私は非常に間違いだと思うのであります。

この教団においては、あえて名前は言わぬけれども、人々は、さっき言った業を背負っておるとしておる。業というのを、ここでは因縁(いんねん)と言っておるようだけれども、因縁というものを持っておれば、この因縁を断たねばならぬ。父母の因縁を断つだとか、あるいは、兄弟の因縁を断つだとか、あるいは、失恋の因縁を断つだとか何だかんだと言って、銭儲けをしておるわけだ。

因縁を断つ行法というのを教えて、これで三年間やれば、両親の因縁を断てるとか、こういうことを言っておるようだ。たとえば、両親が非常に貧乏であったとか、このままでいくと自分も貧乏になるんじゃないかと、そういうことで、両親の貧乏の因縁を断たねばならぬ、と。こういうことで、何とかというお経を唱えて、三年間か何か数珠(じゅず)を揉(も)んでおれば、因縁が断てるなんて言っている。こんなのは、はっきり言って、何も分かっておらんと思う。

因縁というものは、ないとは言えないけれども、それは先程言った作用、反作用の連鎖であり、ある意味ではカルマであろう。ただこれを断つには、逆のことをやっていかねばならんということだ。つまり、過去、不幸な人生を生きていたのならば、どこかで幸福な人生を歩むように切り換えていかねばならんのだ。それはそうした経文を読んだり、数珠をさげたり、坐ったりすることによって、断てるものではない。百日坐ったから、千日坐ったからなんて、そんなもので切れるものでない。

そうではなくて、過去、罪深いことをしてきた人間であるならば、その因縁を切り、その業を断つためには、今世でいいことをするしかないのである。お経を読んだり、数珠を持って、数珠をちゃらちゃらさせながら千日坐ったからといって、切れるわけは絶対にない。こういうのは邪教というのだ。間違っている。

人間は過去、誤った宗教において迷ったのであるならば、今世において正しい宗教を修める以外にはないのである。これ以外にないのだ。


10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである

因縁を切るという方法は、この因縁を断つ方法は一体何かというと、これは一つの光明思想であると思う。

人間というのは、たとえばキリスト教でいうように、原罪を負った存在、罪深い存在だということで連綿として生きてきた。こういう形で、いつまでたっても、子供の代になっても、孫の代になっても原罪を背負って生きていくのが人間であるならば、人間は、その業を、カルマを断ちようがないではないか。どうやって断つというのだ。それを、これを断つには人間、罪の子の思想を改めて、くらりと思考を一転し、光明の方に向くしかないのだ。

過去が不幸だからといって、なぜ現在も不幸でなければならんのか。それをよくよくあなた方は考えてほしい。昨日の不幸をなぜ今日に持ち込むのか。なぜ、明日には悪いことばかりが起こると思うのか。あさっては、もっと悪くなると思うのか。病気をすればますます悪くなる一方だとか思うのか。こういう思いというものは、一つの慣性であろう。そういう惰性であろう。私は、これを一つの因縁とするならば、これを断ち切るためには、心を光明の方向へ向けるしかないと思うのだ。

要するに、日時計主義の生き方です。日時計というのがあるけれども、札幌か何かにも、花時計とかがあるけれども、日時計というのは、太陽が出ているときだけしか時を刻まないのだ。日時計というのは、闇の時間を刻まない。太陽が出ているときしか、時を刻まない。つまり、人間というのも、この日時計主義でやっていかねばならんのだ。

我、太陽の時刻のみをしるす。そういうことで、明るいことのみを心に刻んでいくということが、大事なのではないのが。罪の子であるとか、業に翻弄(ほんろう)されているとか、両親だとか、先祖の因縁によって自分が縛られているだとか、こうぃう悪しき宗教信仰によって、自分自身を縛ってはならんのだ。

そういうものは本当に拭い去って、捨て去る。そして、ただ今から、自分は、明るく生きていくということを、まず一大決意することだ。これが因縁を切る、カルマを断つ一つの方法なのである。そして今日ただ今、それを決意したのならば、今日ただ今から、自分は心のなかに悪を刻まないと、刻むまいと、はっきり心に誓うことだ。


11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる


結局、この世で生きているうちは、いろんなことが起こる。良いことも、悪いこともあるだろう。地獄に行っている人とは、どういう者たちか。結局人が自分にしてくれなかったこと、人の悪かったことばかりを心に刻んだ人たちが、今、地獄に行って、今、呻吟(しんぎん)しておるのだ。地獄では、心にいいことばかりを刻んだ人などいない。

そういうことで、一日のうちでもいろんなことが起こるであろうけれども、悪いことは小さく、そして洗い流していくことだ。そして、良いことが起こるのは、きっと神様が自分を愛していて下さっているからだと思うことです。良いことが身に降ってきたのなら、それに対しての感謝行をしていく。そうすれば、さらに良いことがくるであろう。また、していく。それが、さらに良いことになっていくであろう。こうして、人間は発展しかない生き方をしていくのだ。

ところが今日、悪いことがあったとする。それを今日、一生懸命、一晩考えてしまうと、夜寝られない。翌日も寝られない、と。こうして悪いことばかりをひき継いでいけば、永遠に明るい人生を生きることはできないのである。

悪いことは小さく受け止め、それを流し去れ。そして良いことのみを心に刻んでいけ。そういう日時計のような生き方のみが、人間を本当に幸福にする道であります。そして、そういう生き方こそが、人間を幸福にするのだということを悟ることが、「真理は、汝を自由にせん」ということなのだ。

古き宗教の因習に執(とら)われ、教えに執われ、自ら不幸にすることなかれ。人間は本当の真理を知ったとき、日時計のように、太陽の輝く日のみを、時間のみを我は刻す。そういう人生を生きることができるのだ。ここに至って、初めて人間は自由自在となり、明るい人生を生きることができるのだ。そして、その生活は、また天国にある生活であり、あなた方が、あの世に帰ったときに、そのように生きていくための準備でもあるということなのだ。このことを、忘れてはならない。

どうも長い間、私の話を聞いていただいてありがとう。八日間連続した講義も、これで終わりとする。

今回をもって一応、私の霊言集は完結するつもりであるけれども、もし読者から、もう一度、さらに再、再度、谷口雅春の教えを聞きたいという声が高まってくれば、また時期をみて出さないでもない。そういうときには、協力を惜しまない。以上であります。